平成12年度(第6回)法華講連合会夏期講習会
御法主日顕上人猊下御講義テキスト(第9期用)
妙法蓮華経如来寿量品第十六
『文上十重顕本より文底十重顕観におげる本因名字仏法の妙用を拝す』
法華経寿量品の意義について、天台大師は、『法華文句』と『法華玄義』において広く述べており、なかんずく『法華玄義』の「釈名」段中の「妙」釈において、迹門十妙に続いて本門の十妙を示し、釈尊の化導の上の本義を正確に解釈している。しかしてまた、五重各説中の「論用」段において、迹門の十重顕一に続き、本門寿量の十重顕本を示し、本門の妙用を十面に渉って論じた。今、その相を略記するとともに、下種仏法において依用する十重顕観の法相と文底下種仏法における妙用を拝する。
文上十顕本
一、破迹顕本(迹を破して本を顕す)
「一切世間の天、人、及び阿修羅、皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて、伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂(おも)えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(開結429ページ)
衆生は釈尊に対し、伽耶城外において始めて正覚を成じたという認識があり、それは、迹門についての執着である。したがって、その迹身たる始成正覚を破し、久遠の成仏を顕すのが、右の文である。故に破迹顕本という。
二、廃迹顕本(迹を廃して本を顕す)
「是より来、我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す。亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国於ても、衆生を導利す」(開結431ページ)
釈尊が成道以来、衆生に対し、種々に説法し教化してきた内容は、すべて始成正覚の仏因仏果であり、浅深不同の方便である。その説法を垂迹として示し、したがって廃する意味を持つのが、右の文である。故に廃迹顕本という。
三、開迹顕本(迹を開いて本を顕す)
「然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し。但方便を以て、衆生を教化し、仏道に入らしめんとして、是の如き説を作す」(開結432ページ)
従来、爾前迹門で説いてきた垂迹の化導における種々の法理について、それが久遠常住の仏法・仏身、三身相即の理より方便をもって説いたものであるとして、方便を開く文である。故に開迹顕本という。
四、会迹顕本(迹を会して本を顕す)
「是の中間に於て、我燃灯仏(ねんとうぶつ)等と説き、又復、其れ涅槃に入ると言いき。足の如きは皆、方便を以て分別せしなり」(開結431ページ)
釈尊が、燃灯仏の下にあって修行し授記を得たというごとき、一代経中の諸多の行は、垂迹の行であると示す。これを久遠の本地の行に合せしめる(会)文である。故に会迹顕本という。
五、住本顕本(本に住して本を顕す)
「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」(開結433ページ)
久遠本時の仏身仏土は、そのまま今日の顕本の体相であるとして、その本地の三身の境界に住した上に、現在の化導の本地を顕す文である。故に住本顕本という。
六、住迹顕本(述に住して本を顕す)
「我仏眼を以て、其の信等の諸根の利鈍を観じて、応に度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同、年紀の大小を説き、亦復、現じて当に涅槃に入るべしと言い、又種種の方便を以て、微妙の法を説き、能く衆生をして歓喜の心を発(おこ)さしめき」(開結431ページ)
釈尊は、始成以来の垂迹の化導において、一代経を種々に説かれ、後に「微妙の法」たる法華経を説く。その法華経の迹より本に至る推移は、まず方便品等の八品に開三顕一あって、多宝如来の誓願による宝塔が出現する。その証前(しょうぜん)より起後(きご)、閉塔より開塔に当たって、十方分身を召す(密表寿量)。分身集って、釈尊は三箇の勅宣を下し、弘経の人を求める。弘経の人について、迹化他方を止めて後、地涌の出現に至る。これについて、弥勒の疑請あって釈尊の久成開顕となる。このように、迹門の説法に住しつつ次第に本地を顕顕す相が、右の経文に明らかである。故に住迹顕本という。
七、住非迹非本顕本(迹に非ず本に非らざるに住して本を顕す)
「実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明らかに見て、錯謬有ること無し」(開結四432ページ)
非迹非本とは、言説でよく顕すことの不可能な(絶言)本仏の深い境地をいう。すなわち、本の上の迹は単なる迹に非ず、迹の上の本も単なる本に非ず。その双関双非の幽玄の義理は、言説の表現を超絶する。しかして、その絶言の境に住してよく本の意を顕すのが、右の文である。故に住非迹非本顕本という。
八、覆迹顕本(迹を覆うて本を顕す)
「若干の因縁、譬喩、言辞を以て、種種に法を説く。所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず」(開結433ページ)
衆生の機根は多端である。故に、久遠より垂迹の方便による種々の教説をもって導きつつ、その一切を方便といわず、本地より覆い隠してしかも本地の仏身を顕す。その幽玄の化導を文において示す。故に覆迹顕本という。
九、住迹用本(迹に住して本を用う)
「然るに今、実の滅度に非ざれども、而も便(すなわ)ち唱えて、当にを滅度を取るべしと言う。如来是の方便を以て、衆生を教化す」(開結433ページ)
釈尊のこの土における出現と入減は、非生非減の本身に対し、迹身に住する化導である。しかし、その垂迹の導きは、すべて本地の本因本果に依るところである。すなわち、それは本地の本法を用いる意義に当たる。仏が、番々の出現化導において、その垂迹方便の形に住しつつ、本法を用いて衆生を化(け)すと見ることができる。右文は、この意義を示す故に住迹用本という。
十、住本用迹(本に住して迹を用う)
「又善男子、諸仏如来は、法、皆是の如し。衆生を度せんが為なれぱ、皆実にして虚しからず」(開結435ページ)
仏は、その本地たる非生非滅の常住仏身に住しつつ、垂迹の化導を法界に遍く示し、生を現じ滅を現じて、その迹の身を用いて衆生を導く。右文は寿量品長行の最後の結語であり、右の意を示している。故に住本用迹という。
以上、発迹顕本における十種の応用についての天台の釈を簡略に説明した。しかし、末法の衆生に対しては、釈尊の権・迹・本のすべては、去年の暦のごとく、成仏得道の法とならない。そこで、宗祖大聖人の下種仏法の化導の用きについて、釈尊一代の教相と寿量文底の観心との判釈を、『本因妙抄』に十重顕観として示されている。
なお『本因妙抄』は、天台宗における『三大章疏七面七重口決』を台本とされている。同書に、教相より一重立ち入った観心の勝劣を思想的に述べているものの、それは、所詮、天台止観の弘通範囲に止まるものである。独一本門の正観の下に、この書の文義を転用されて、久遠元初下種の法体を顕されるのは、日蓮大聖人・日興上人の唯我与我・血脈正伝の根本に存するのである。
さて、この『本因妙抄』の教示における下種仏法の用たる十重顕観について、種々の御書の文義を合わせつつ、拝する次第である。
文底十重顕観(『本因妙抄』)
一、待教立観(たいきょうりゅうかん)
「一に待教立観。爾前本迹の三教を破して不恩議実理の妙法蓮華経の観を立つ。文に云はく『円頓は初めより実相を縁す』云云。迹門をば理具の一念三千と云ふ、脱益の法華は本迹共に迹なり。本門をぱ事行の一念三千と云ふ、下種の法華は独一本門なり。是を不思議実理の妙観と申すなり」(新編1678ページ)
「待」とは教に対するの意で、破の意を含む。故に、入文に「三教を破して」とある。「文に云はく」とは『七面七重決』の文である。「円頓」とは、『止観弘決』一に云く「円は円融・円満に名づけ、頓は頓極・頓足に名づく」と。また同三に云く「足極の二名は、通有り別有り。通は(極と足と)則ち倶に初後に通ず。別は則ち極は後、足は初なり。初心に観ずる所の万法具足(ぐそく)す。惑尽き徳満ずること、後に至って方に極る」と。「下種の法華」とは、脱益の法華を簡(えら)ぶ。「独一本門」とは、方便化他・開三顕一・発迹顕本の本門を簡ぶのである。次に、類文を挙げる。
- 「されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し侯へ。経に云く『如来秘密神通之力』是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(『諸法実相抄』・新編665ページ)
- 「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(『開目抄』・新編526ページ)
- 「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ず。既に此の品の時上行菩薩に付嘱し玉ふ故なり」(『御義口伝』・新編1783ページ)
二、廃教立観(はいきょうりゅうかん)
「二に廃教立観。心は権教並びに迹執を捨て、本門首題の理を取って事行に用ひよとなり」(新編1678ページ)
「権教」とは爾前経、「迹執」とは迹門と垂迹の文上本門の教説に対する執着をいう。これを捨てて「本門首題の理」すなわち久遠元初名字(みょうじ)に証するところの本理たる妙法蓮華経を取り、本門の本尊を信じて唱題の行をなすべしとの意である。
- 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて侯ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく『顕本遠寿を以て其の命と為す』と釈し給ふ。経王御前にはわざはひも転じて幸ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(『経王殿御返事』・新編685ページ)
- 「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり」(『諌暁八幡抄』・新編1543ページ)
三、開教顕観
「三に開教顕観。文に云はく「一切の諸法は本是仏法、三諦の理を具するを名づけて仏法と為す。云何ぞ教を除かん」云云。文の意は観行理観の一念三千を開して、名字事行の一念三千を顕はす。大師の深意、釈尊の慈悲、上行所伝の秘曲是なり」(新編1678ページ)
「一切諸法は本是仏法」とは、円の名字即の悟りをいう。また、一切の法が何故に本来仏法であるのかといえば、それはあらゆる一切の法に、空仮中の三諦の理が宛然と具わるからである。これは円教の正意である。故に、教を除くべきに非ず。その教の真義を開けば、名字通達の仏法となる。この上から、末法即身成仏の行として示されるのが「文の意」以下である。「観行理観の一念三千」とは、天台の摩詞止観をいう。これは、文上の法華経本迹二門について、迹門を面とし本門を裏とした一念三千で、妙法の理を観ずる。その理を開いて、本地の久遠元初・名字事行の一念三千を顕す。これを開教顕観という。なお、「秘曲」とは未免許の者に伝授しない音楽の秘譜をいう。
- 「盲眼のごとくなる当世の学者等、勝劣を弁ふべしや。黒白のごとくあきらかに、須弥、芥子のごとくなる勝劣なをまどへり。いはんや虚空のごとくなる理に迷はざるべしや。教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし」(『開目抄』・新編561ページ)
- 「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、末だ広く之を行ぜず。所詮円機有って円時無き故なり」(『観心本尊抄』・新編660ページ)
四、会教顕観
「四に会教顕観。教相の法華を捨てゝ観心の法華を信ぜよとなり」(新編1678ページ)
「教相の法華」に対し、これを会して「観心の法華を信ぜよ」とは、行についての指南である。一代の教相は、空観・仮観・中観を東ねて、脱益の行の理観を主とする。また、円の五行たる聖行・梵行・天行・嬰児(ように)行・病行、さらに衣座室行等も、これを本門に帰結し、妙法受持の事行を成仏の大道と信ぜよといわれるのである。
- 「されば円の行まちまちなり。沙(いさご)をかずえ、大海をみる、なを円の行なり。何に況んや爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱ふるをや。但しこれらは時々(よりより)の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり」(『十章抄』・新編466ページ)
- 「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は寿量品の本主なり。総じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり。彼は迹表本裏、此は本面迹裏なり。然りと難も而も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題日の五字計(ばか)り当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仇って下種を以て末法の詮と為す。云々」(『御義口伝』・新編1766ページ)
- 「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介解(けに)計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」(『三大秘法稟承事』・新編1595ページ)
五、住不思議顕観
「五に住不思議顕観。文に云はく『理は造作に非ず故に天真と曰ひ、証智円明なるが故に独朗と云ふ』云云。釈の意は口唱首題の理に造作無し、今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す。信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり。足を天真独朗の即身成仏と名づく」(新編一1679ページ)
前の四重の顕観においては、脱益の教行人理(きょうぎょうにんり)に対して下種の妙観を示されているが、この項は、久遠元初自受用身の妙境・妙智、天然不思議の悟りに住して、末法即身成仏の妙観を顕す意である「理は造作に非ず」の「理」とは、本因名宇の一念三千の南無妙法蓮華経であり、この一念三千は、改転造作によって得るものでないから、天然自然の真理である。そこに、自ずからの智あって境を証(さと)り、唯我一人の本仏の境智、円融円満して明らかである。故に、一人の上の法が天地一切に通達してあきらか(朗)であるから独朗という。すなわち、下種本仏日蓮大聖人が、凡夫即極の不思議に住され、久遠元初の真実の本門、名字の妙法蓮華経を顕し給うを、住不思議顕観というのである。
- 「此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ」(『当体義抄』・新編695ページ)
- 「十二、下種の今此三界の主の本迹久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生(りしょう)なり」(『百六箇抄』・新編1696ページ)
- 「明星直見の本尊の事如何。師の日わく、末代の凡夫幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと、虚空蔵に御祈請ありし時、古僧示して言わく、汝等が身を以つて本尊と為す可し、明星の池を見給えとの玉えば、即ち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なりと云々」(『御本尊七箇之相承』・聖典370ページ)
「第六に住教顕観 七に住教非観 八に覆教顕観 九に住教用観 十に住観用教なり。此の五重は上の五重の如く思惟すべし・・・如何が意得べけんや。答へて云はく、住教顕観は煩悩即菩提、住教非観は法性寂然、覆教顕観は名字判教、住教用観は不思議一、住観用教は以顕妙円と申す大事是なり」(新編1680ページ)
六、住教顕観煩 煩悩即菩提
垂迹の爾前迹門、本門の教の体外の辺では、未だ断ぜざる元品の無明を久遠元初下種本因妙の南無妙法蓮華経の体内に住し、その観心をもって即身成仏せしむる。これは在世の証得に約す。末法においては、宗祖大聖人の下種因果倶時の妙法の大力用によって、直ちに煩悩即菩提の功徳を成ぜしむ。これ住教顕観、煩悩即菩提なり。
- 「日蓮読んで云はく、外道の経は易信易解、小乗経は難信難解。小乗経は易信易解、大日経等は難信難解。大日経等は易信易解、般若経は難信難解なり。般若と華厳と、華厳と涅槃と、涅槃と法華と、迹門と本門と、重々の難易あり。問うて云はく、此の義を知りて何の詮か有る。答へて云はく、生死の長夜を照らす大灯、元品の無明を切る利剣は此の法門には過ぎざるか」(『諸経と法華経と難易の事』・新編1468ページ)
- 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑うべからず」(『当体義抄』・新編694ページ)
- 「妙法の大良薬を服する者は貧瞋痴の三毒の煩悩の病患(びょうげん)を除くなり。法華の行者南無妙法蓮華経と唱へ奉る者、謗法の供養を受けざるは貧欲の病を除くなり。法華の行者罵詈(めり)せらるゝも忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり。法華経の行者是人於仏道(ぎょうじゃぜにんのぶつどう)決定無有疑(けつじょうむうぎ)と成仏を知るは愚痴の煩悩を治するなり。されば大良薬は末法の成仏の甘露なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大良薬の本主なり」(『御義口伝』・新編1768ページ)
七、住教非観 法性寂然
「教非」とは無言説を指す。本門の仏身は不生不滅にして、あらゆる凡の思慮分別を超え、言説を離る。また「法性」とは、無限広博なる実相真如の体をいう。その中に万象を含むも、法性の全体は寂として不動である。いわゆる下種仏法の本尊の当体たる自受用身即一念三千は、言説の及ぶところにあらず、法性寂然たり。これを宗祖大聖人、大慈大悲の導きをもって、妙法蓮華経十界互具の大曼荼羅と示し、直達正観の化儀を示し給う。すなわち教非の観に住するのである。
- 「夫(それ)無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文宇即実相なり、実相即妙法なり。唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく」(『一生成仏抄』・新編45ページ)
- 「伝教大師云はく『一切の諸法は本より已来(このかた)、不生不滅・性相凝然(ぎょうねん)たり。釈迦は口を閉ぢ身子は言を絶す』云云。是は迹門、天台止観の内証なり。本門日蓮の止観は、釈迦は口を開き文殊は言語す。迹門不思議不可説、本門不思議可説の証拠の釈是なり」(『本因妙抄』・新編1681ページ)
八、覆教顕観 名字判教
釈尊の化導は、久遠より霊山(りょうぜん)に至る種熟脱三益中の脱益に当たる。その一切の法相を覆い、末法の衆生即身成仏の教法は名宇本因妙にありと示し、不渡余行(ふとよぎょう)の事行の観心を顕すのである。
- 「第七には出離生死の一面、心は一代応仏の寿量品を迹と為し、内証の寿量品を本と為し、釈尊久遠名字即の身と位とに約して南無妙法蓮華経と唱へ奉る、是を出離生死の一面と名づく。本迹約身約位の釈、之を思ふべき者なり已上」(『本因妙抄』・新編1678ページ)
- 「二、久遠元初直行(じきぎょう)の本迹 名字の本因妙は本種なれば本なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり。久遠の釈尊の口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり」(『百六箇抄』・新編1694ページ)
- 「正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみ有って証無し。今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(『教行証御書』・新編1103ページ)
- 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。天台・妙楽・伝教、内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず」(『草木成仏口決』・新編523ページ)
九、住教用観 不思議一
釈尊の脱益本迹二門は、久遠名字の妙法の朽木(くちき)書きであり、故に正体たる名字の妙法に帰して脱の迹教を種の本教に合す。その教に住して観を用いるとき、種本の方に合する故に「不思議一」という。いわゆる劣を勝に帰するところが不思議一である。また一義あり。釈尊の久遠以来の初発心の弟子・上行菩薩という教相面の位置に住して末法に出現し、その教相の迹を払って、久遠元初下種本仏として名宇本因妙直達の観心を顕す。故に住教用観にして、人法体一が不思議一なり。
- 「教観不思議天然本性の処に、独一法界の妙観を立つ。是を不思議の本迹勝劣と云ふ。亦絶待(だったい)不思議の内証、不可得言語道断の勝劣は、天台・妙楽・伝教の残したまふ所の、我が家の秘密、観心直達の勝劣なり。迹と云ふ名は有りと難も、有名無実・本無今有の迹門なり。実に不思議の妙法は唯寿量品に限る、故に不思議一と釈するなり。迹門の妙法蓮華経の題号は、本門に似たりと難も義理天地を隔つ、成仏も亦水火の不同なり。久遠名宇の妙法蓮華経の朽木書きなる故を顕はさんが為に一と釈すなり」(『本因妙抄』・新編1681ページ)
十、住観用教 以顕妙円(いけんみょうえん)
「住観」の「観」とは、いうまでもなく下種本仏宗祖大聖人の唱導し給う、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経である。「用教」の「教」とは、釈尊一代聖教・五時八教ないし迹本二門であり、この教旨を自在に用い給い、末法の教行証を開いて衆生を利益し給うのである。次に「以顕妙円」とは、この根本の観心より立ち還って一代の教味を用い、仏法の妙理、円融円満の功徳を成じ給うことをいわれるのである。
- 「第十 是好良薬今留在此 汝可取服 勿憂不差の事 御義口伝に云はく、是好良薬とは、或は経教、或は舎利なり。さて末法にては南無妙法蓮華経なり。是とは即ち五重玄義なり。好とは三世の諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり、此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり、取とは法華経を受持する時の儀式なり、服とは唱へ奉る事なり。服するにより無作の三身なり、始成正覚の病患差(い)ゆるなり。今同蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是なり」(『御義口伝』・新編1769ページ)
以上
※予定を変更して、9期の猊下の御講義のうち解説を除いたテキストの部分を掲載しました。