大白法

平成13年5月1日号


主な記事

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奉安堂5月1日(56Kb)



平成12年度(第6回)法華講連合会夏期講習会
御法主日顕上人猊下御講義テキスト(第10期用)

妙法蓮華経如来寿量品第十六
『寿量品の究竟たる本門の本尊の各御文に関して』


宗祖大聖人が、上行菩薩の御振舞いをもって、その再誕として弘通あそばされた結要付嘱の妙法は、本門寿量の三大秘法であり、その随一は本門の本尊である。

大聖人の宗旨建立以来の題目は、法華経の身読をもって、自ら本門の本尊と顕れ給うことを目当てとする手形である。故に、本門の本尊を信じて唱うることが、本門の題日である。本尊を忘れ、あるいは本尊に迷って唱える題日は空題目となり、正しい信解と功徳より外れて、謗法の念慮に堕すのである。したがって、大聖人御一期の弘通の中心は、本門の本尊の顕示と弘通にあらせられる。

しかるに、他門下の不相伝の者は、この肝要を忽諸(こっしょ)にする故に、各寺院の本尊の不統一と雑乱は甚だしく、その相は宗祖大聖人の仏法とその教えに対する重大な背反というべきである。かかる垢重(くじゅう)迷乱の者共を正道に導くのは我が日蓮正宗にありとの責務において、いよいよ自行化他に進むべきである。

さて、本年度、法華講連合会に対し、寿量品に関する十期を通じた講説の最後に当たり、内証の寿量品の所詮たる文底下種の妙法を、化導の上に三大秘法として示し給う中の、本門の本尊に関する御教示の諸文、及び先師の文を摘出させていただき、その深厚なる意義の一分を拝仰して、本年度講習の結びとするものである。


一、「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則(とき)んば智行も亦随って正しからず。妙楽大師の謂えること有り『仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し、若し正境に非ざれば縦い偽妄無けれども亦種と成らず』等云云。故に須く本尊を簡(えら)んで以て信行を励むべし。若し諸宗諸門の本尊は処々の文に散在せり、並びに是れ熟脱の本尊にして末法下種の本尊に非ず。今末法下種の本尊を明かすに且つ三段と為す。初めに法の本尊を明かし、次に人の本尊を明かし、三に人法体一の深旨を明かす。

初めに法の本尊とは、即ち是れ事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の御本尊是れなり、具に観心本尊抄の如し。(中略)

次に人の本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり。(中略)

三には人法体一の深旨とは、謂わく、前に明かす所の人法の本尊は其の名殊(こと)なりと難も其の体是れ一なり。所謂(いわゆる)人は即ち是れ法、自受用身即一念三千なり、法は即ち是れ人、一念三千即自受用身なり。是れ則ち正が中の正、妙が中の妙なり、即ち是れ行人所修の明鏡なり、量鏡に臨んで容(かたち)を正すに異なるべけんや。諸宗の学者近くは自門に執し遠くは文底を知らず、所以に粗之れを聞くと難も敢えて之れを信ぜず、徒らに水影に耽(ふけ)りて天月を蔑(ないがしる)ろにす、寧(むし)ろ天月を識らずして但池月を観ずる者に非ずや」(『文底秘沈抄』・六巻抄42〜54ページ)


二、「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付嘱したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿(げっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(『観心本尊抄』・新編654ページ)


三、「此の釈に『闘諍の時』云々、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(『観心本尊抄』・新編661ページ)


四、「此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰(ごおおn)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(『草木成仏口決』・新編523ページ)


五、「但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心健気のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて侯ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく『顕本遠寿を以て其の命と為す』と釈し給ふ。経王御前にはわざはひも転じて幸ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(『経王殿御返事』・新編685ページ)


六、「妙法蓮華経の御本尊供養侯ひぬ。此の曼陀羅は文字は五宇七字にて侯へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(『妙法曼陀羅供養事』・新編689ページ)


七、「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや侯らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎたる本尊なり。されば首題の五宇は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等座を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・英の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚痴の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇等、体の神つらなる、其の余の用の神豈もるべきや。宝塔品に云はく『諸の大衆を接して皆虚空に在り』云々。此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の、二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる、是を本尊とは中すなり」(『日女御前御返事』・新編1387ページ)


八、「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし(中略)問ふ、共の義如何。仏と経と何れか勝れたるや。答へて云はく、本尊とは勝れたるを用ふべし。例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く、仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。問うて云はく、然らば汝云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(『本尊問答抄』・新編1274ページ)


九、「開山上人の云わく、『諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんげい)に依って異を弁ず、如来の本迹は測り難し、眷属を以て之れを知る。一体の形像豈頭陀の応身に非ずや』云々。日眼・金吾・真間倶に是れ一体仏なり、故に全く立像の釈迦に同じ、豈継子一旦の寵愛に非ずや。日辰実に一機一縁の為に非ずと思わば、那(なん)ぞ一体仏を以て本尊とせざるや。今謹んで案じて曰く、本尊に非ずと雖も之れを称歎したもうに略して三意有り。一には猶是れ一宗仏通の初めなり、是の故に用捨時宜に随うか。二には日本中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり、学者宜しく善く之れを思うべし」(『末法相応抄』・六巻抄140ページ)


十、「而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。天王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は、釈尊を下して盧舎那(るしゃな)・大日等を本尊と定む。天子たる父を下して種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもって、教主をすてたり。禅宗は、下賎の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。此皆、本尊に迷へり。例せば、三皇已前に父をしらず、人皆禽獣(きんじゅう)に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。故に妙楽云はく『一代教の中未だ曾て父母の寿(いのち)の遠きことを顕はさず。若し父の寿の遠きことを知らざれば、復父統の邦に迷ふ。徒に才能と謂ふも全く人の子に非ず』等云云。妙楽大師は唐の末、天宝年中の者なり。三論・華厳・法相・真言等の諸宗、並びに依経を深く見、広く勘へて、寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり」(『開目抄』・新編554ページ)


十一、「求めて云はく、其の形貌如何(いかん)。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱ふべし」(『報恩抄』・新編1036ページ)


十二、「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて侯ひし」(『新尼御前御返事』・新編764ページ)


十三、「答ふ、予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。寿量品に云はく『如来秘密神通之力』等云云」(『三大秘法抄』・新編1594ページ)


十四、「問う、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫(それ)釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(『三大秘法抄』・新編1593ページ)


十五、「第廿五 建立御本尊等の事 御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云々」(『御義口伝』・新編1773ページ)


十六、「本化の本尊の本迹 七字は本なり、余の十界は迹なり。諸経・諸宗中王の本尊は万物下種の種子無上の大曼荼羅なり」(『百六箇抄』・新編1697ページ)

十七、「七、日蓮と御判を置き給う事如何。 三世印判日蓮体具 師の曰わく、首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵・釈・四天・日月等も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり。之れに付いて受持法華本門の四部の衆を、悉く聖人の化身と思う可きか。師の曰わく、法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり。法界即日蓮、日蓮即法界なり。当位即妙不改、無作本仏の即身成仏の当体蓮花(れんげ)、因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり」(『御本尊七箇之相承』・聖典379ページ)


十八、「問う、我等が唱え奉る所の本門の題目、其の体何物ぞや。謂わく、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊、其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。故に御相伝に云わく『中央の首題、左右の十界、皆悉く日蓮なり。故に日蓮判と主付け給えり』と。又云わく『明星が池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり』と。又云わく『唱えられ給う処の七字は仏界なり。唱え奉る我等衆生は九界なり。是れ則ち真実の十界互具なり』云云」(『当流行事抄』・六巻抄200ページ)


以上

※編集の都合により、10期の猊下の御講義のうち解説を除いたテキストの部分のみを掲載しました。


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