<7〜10面>
これを読まずして『クロウ事件』は語れない
著者 阿部日顕
はじめに
第一章 創価学会がなぜ捏造に及んだのか
第二章 虚偽に満ち満ちたヒロエ・クロウの「供述書」
第三章 ヒロエ・クロウ(創価学会側)のアメリカ訴訟での大敗北
第四章 元警官の偽証言まで持ち出した創価学会
第五章 なぜ異なる証言―創価学会側二人の証人
第六章 アメリカ連邦政府記録事件
第七章 『創価新報』はいかに事実を捏造したか(米国出張授戒の事実経過)
第八章 手帳は「ありのまま」を語る(『創価新報』の邪難を破す)
第九章 東京地裁・下田判決への批判
第十章 写真偽造事件
資料
二ール・W・モロー二は、適法に宣誓の上、次のとおり供述する。
一、私は1954年から1975年までシアトル市警察に奉職しました。私は1968年から1970年まで刑事部長、1971年から1974年までは副本部長を務めました。それから1975年から1981年までシアトル港警察本部長となり、その後1981年から1985五年まではワシントン州ステート・パトロール本部長でした。1985年から1987年まではコロラド州捜査局の長官でした。コロラド州捜査局を退職した後も、多数の警察や法執行機関の顧問を務めてきました。また、1980年にはワシントン大学から都市問題行政学の修士号を、1974年にはピュージェット・サウンド大学から公共政策学修士号を、1953年にはワシントン・ステート大学から警察行政学士号を取得しています。
二、私はシアトル警察副本部長であった時、同警察から不正・腐敗の警官を追放する仕事をした主要な警察職員の一人でした。私はこの任務のために、警察の不正行為に関与した疑いのある多数のシアトル警察官の人事ファイルを精査したことがあります。
三、私は引退してから、"Cops, Crooks and Politicians"(警官と悪党と政治家)という本を執筆し、1993年に上梓いたしました。同書は、1950年代のシアトルやその他の場所で起きた警察腐敗事件に焦点を当てたものです。同書の序文の中で、前ワシントン州一知事ジョン・スペルマンは、「モローニはいつも、正直な警官の典型であった。モロー二本部長は、語り口は静かだが自信にあふれたプロフェッショナルで、彼が奉職し、または指導したあらゆる警察組織を改善した。」と述べています。
四、私が聞いたところでは、元シアトル警察の一員であったロナルド・C・スプリンクルは、1996年9月および10月にワシントン州ポート・アンジェルスで行なわれたデポジションにおいて、連邦裁判所の命令に従い証言を行なったとのことです。また、スプリンクル氏は1963年3月20日未明、シアトル警察の警察官として執務中、もう一人のシアトル警察の警察官とともに、シアトルの7番街とパイク通りの角で娼婦と口論中のアジア人男性を一時拘束(detain)した旨の証言をしたと聞いています。さらに、スプリンクル氏はこのアジア人男性はある電話番号を示し、その番号にかけてヒロエ・クロウなる女性と話をし、そしてクロウが現場にやって来たのでスプリンクルはその男を彼女に引渡した旨証言したと聞いております。
五、また私は、ロナルド・C・スプリンクルは1996年9月および10月に東京で開かれた法廷において、東京地方裁判所に対しても本質的には同旨の証言をしたと聞いています。
六、私はロナルド・C・スプリンクルのシアトル警察における雇用に関する多数の記録文書を検討しました。私は、これら記録文書を検討し、またシアトル警察の人事記録を読解する上での私自身の専門知識に基づき、スプリンクル氏は1963年3月当時シアトル警察の現役メンバーではなく、それゆえ同月に彼が関与したと主張している事件に関与できたはずはない、という結論に達しました。これら記録文書によれぼ、スプリンクル氏は1962年10月30日から1963年5月5日までの間は軍務休職中で、シアトル警察にはいなかったことは、いかなる疑問の余地もなく明白です。軍務休職の期間に、スプリンクル氏がシアトル警察の警官として職務を遂行したり、彼がデポジションや東京地裁での証言の中で述べたとされているような事件に、シアトル警察官として関与することは不可能です。
七、シアトル警察の全職員にはそれぞれ職務歴記録があり、人事部に保管されています。本供述書に添付した書証Aは、ロナルド・C・スプリンクルのシアトル警察における職務歴記録の写しです。書証Aによれば、スプリンクル氏は1962年10月30日に軍務休職のため警察を離れています。彼は1963年5月6日にシアトル警察に復職しています。スプリンクル氏はこの期間、軍務休職中だったのですから、彼がデポジションおよび東京地裁における証言の中で説明したという事件に、シアトル警察の警察官として関与することはあり得ないことです。
八、書証Bによれば、スプリンクル氏は1962年4月2日から軍務休職に入る1962年10月30日までの間、野外射射撃演習場のスタッフとして配属されていました。彼がこの間パトロール勤務に配属されたことはありません。スプリンクル氏は1963年5月6日軍務休職から戻った後に、7番街とパイク通りを含む第一管区のパトロール勤務に配属されました。彼は・野外射撃練習場に配属されて以降軍務休職から戻った1963年5月6日までの間は、七番街とパイク通り周辺はおろか、シアトル警察でいかなるパトロール勤務にも就いたことがないのです。
九、本宣誓供述書に書証として添付された文書の解釈上留意すべきは、書証Aによればスプリンクル氏は警察に就職してから1968年1月に「ポリス・オフイサー(Police Officer)、の肩書に変わるまでの間、パトロールマン(Patrolman)という肩書であつたという点です(この肩書変更は、職員に対して性的に中立な職名を使用したいという警察の意向を反映したもので、スプリンクル氏の職務上の地位に何ら実質的な変化はありません)。1960年代の初期に、同警察の警察官の肩書が・パトロールマンであったからと言って、その警察官がパトロール勤務に配属されていたとは限りません。たとえばスプリンクル氏自身、野外射撃場場のスタッフとして配属されていた時も、後に第一管区のパトロール勤務に配属された時も、同じ「パトロールマン」という職階にあったのです。
十、書証Bはシアトル市人事局長ロイ・A・パームの1962年10月30日付の手紙です。このの手紙は、軍務に就くためシアトル警察を休職したいとのロナルド・スプリンクルの申請が1962年10月30日付で認められ、スプリンクル氏が軍務に就くことができるようになったことを示しています。
十一、書証Cはシアトル警察の人事関係書式で、ロナルド・C・スプリンクルが1962年10月の某日から軍務休職に入る予定であることを示しています。
十二、書証Dは1963年5月2日付の軍務に関する覚書です。これは、ロナルド・チェ一スタ・スプリンクルが1962年10月28日から1963年4月26日まで・アメリカ合衆国空軍に勤務するため、シアトル警察を休職していたことを示しています。
十三、書証Eはシアトル警察のバッジ一式(badge set以下バッジ・セットと訳す)に関する記録カードの写しで、ロナルド・C・スプリンクルが1962年10月31日に警察バッジ・セットをシアトル警察資材室に返納したことを示しています。通常、警察官は、休職によって警察を離れる時か、退職する時以外には、バツジ・セットを返納することはありません。というのは、警察官は警察バッジがなければその職務を遂行することはできないからです。
十四、書証Fもシアトル警察のバッジ・セット記録カードの写しで、ロナルド・C・スプリンクルが軍務休職から復職するに際し、1963年5月1日に新たなバッジ・セットを支給されたことを示しています。
十五、書証GおよびHは、シアトル警察の銃器記録力ード2通の写しで、ロナルド・C・スプリンクルが1962年10月31日に回転式拳銃をシアトル警察資財室に返納し、1963年5月1日に新たな回転式拳銃を支給されたことを示しています。
十六、書証E・F・GおよびHの内容は、本宣誓供述書に添付したその他の書証の内容と一致しています。これらの書証によれば、スプリンクル氏は軍務休職に入った頃にバッジ・セットと銃を警察に返納し、軍務休職から復帰した頃に新たなバッジ・セットと銃の支給を受けたことが認められます。
十七、本宣誓供述書に添付した書証の多くのものは、そのどれか一つだけを取り上げても、ロナルド・C・スプリンクルが、1963年3月19日か20日に起こったいかなる事件にも、制服を着たシアトル警察官として職務上関与し得た筈がないと結論するに十分なものです。まして本宣誓供述書に添付した書証をすべて考え合わせるならば、この点にはいかなる疑問の余地も残りません。これら書証の出所が、あるものは警察の人事部であり、あるものはシアトル市人事局であり、更に別のものは警察の資財室であるということは注目すべきことです。これら様々な文書が、ロナルド・C・スプリンクルは1962年10月終わりから1963年5月初めまで軍務休職中であったという点において完全に一致しているのです。軍務休職中に、ロナルド・C・スプリンクルがシアトル警察官として職務を行なう法的権限を持ち得た筈はありません。
日付:1999年7月12日
ロバート・リー・ハンソン宣誓供述書
ロバート・リー・ハンソンは、適法に宣誓の上、次のとおり供述する。
一、私は1974年から1978年3月31日の退職まで、シアトル警察本部長を務めたものです。1974年3月16日からの当初は、暫定警察本部長でした。シアトル市長が私を警察本部長に指名し、同市議会から承認を受けた1974年10月31日の時点で、私は公式の警察本部長となりました。私は1974年から1978年までシアトル警察本部長として、同警察の最高位にあり、警察の諸職務について最終的な責任を負っていました。
二、私は警察に入る前、1943年には合衆国海軍に入隊し、3年半にわたって現役にありました。1947年には、シアトル消防署に入署しました。次いで1948年に、シアトル警察に入署しました。1954年のある時期には、ウィルバー・ファーマーが私の直属の上司でした。それから、私は巡査部長(サージャント)、警部(ルテナント)、警視(キャプテン)、副本部長、本部長と順次昇進していきました。
三、私は、ヒロエ・クロウ、ロナルド・スプリンクル、バーナード・ヴィクター・メイ一リーが、1963年3月にシアトルで起きたという、日本人仏僧と複数の娼婦の間の事件について主張するさまざまな文書を読みました。私の理解するところでは、東京地裁は、おおむねヒロェ・クロウ、ロナルド・スプリンクル、バーナード・ヴィクター・メイリーが述べた通りに、そういう事件が実際に起こった、と認定しました。東京地裁のこの結論は、1963年当時のシアトル警察およびシアトル市の現実を無視したものである、というのが私の意見です。私は元警察本部長として、東京地裁の判決はこの点において誤りであり、東京高裁で綿密に再審査されるべきだ、と考えています。私はこの意見を述べることに対して、また本宣誓供述書を作成する時間に対して、いっさい報酬を受けていません。純粋に自らの正義感による行為です。
四、第一に、1963年3月、問題の事件当時に彼がシアトル警察官であり、日本人仏僧が複数の娼婦との口論をしているのを見て拘束した、というロナルド・スプリンクル氏の主張が虚偽であることは私には明白なことです。シアトル警察人事局、シアトル警察年金局、シアトル市人事局の公式記録は、スプリンクル氏が当時6ヶ月の休職でシアトル警察を離れていたことを明らかにしています。この「休職中」という身分は英語の文字(leave of absence)どおりに、当時スプリンクル氏がまさに警察にいなかった(absence)ことを意味します(たとえば、スプリンクル氏がシアトル市人事局に提出した、1962年10月22日付「休職願」参照)。シアトル警察資財室の記録は、スプリンクル氏が6ヶ月の休職に入る際に警察用品を返納したこと、また6ヶ月の休職から戻った時に再給付を受けたことを示しています。この事実は、他の各種機関からの記録の内容を裏付けるものです。すなわち、スプリンクル氏は1962年10月末から1963年4月までの間、シアトル警察の現役警官ではなかったということです。
五、私の理解するところでは、スプリンクル氏は、同人が軍務休職中であったことを示す記録類を日蓮正宗側が公にした後に、6ヶ月の無給休職中になんらかの方法で非公式に警察に勤務することができた、という主張を出しました。たとえばスプリンクル氏は、私の通読した1999年10月22日付の宣誓供述書の中で、自分は空軍の現役服務中の1963年12月16日に結婚した、と述べています。彼は3日間のハネムーン旅行にでかけ、同宣誓供述書によればその後、
「私は、ウィルバー・ファーマー巡査部長に早めに仕事に戻ることについて相談しました。ファーマー巡査部長は、警察署としては、私が来て人手が増えることを大いに喜ぶと言いました。ファーマー巡査部長は、私の父の個人的な友人であり、私は、彼の姪といっしょにバラード高校に通いました。当時、私は、依然として空軍予備役の訓練のための現役勤務中であることが気になっていました。そうした状況でしたから、私は、シアトル警察の人事局に提出するための、現役勤務義務を果たしたという軍の正式の書類を持っていませんでした。従って、私は、空軍予備役の現役勤務を除隊になるまで、シアトル警察に「公式に」復帰することはできないと思いました。私は、自分の懸念をファーマー巡査部長に相談したところ、巡査部長は、私の立場が予備役の現役勤務に過ぎないので、うまく処理できると思うと約束してくれました。巡査部長は、署では人手が足りないので、パトロールの現場に出てくれるのは助かると言いました。ファーマー一巡査部長は、給料をもらえるようにするか、あるいは、最低限、『公式』に復帰した後に代休をもらえるように何とかやりくりすると言ってくれました。最初の給料日が来た時、給与支払い用の小切手をもらうことができませんでした。ファーマー巡査部長にかけあったところ、彼は、何とか給料をもらえるようにしてやると言いました。その後、しばらくの間、給料をもらうことができず、やむを得ず、私の記憶する限り、警察官互助組合もしくはその他のところから借金をしたのを覚えております。私は、この期間に給料をもらったかどうか特別な記憶はありません。しかし、何ももらえなかったという記憶はないので、その間については何らかの形で補填されたはずだと思います。」
七、私の理解するところでは、訴訟相手側(創価学会)に雇われて調査員・コンサルタントとして仕事をしている複数の元シアトル警察官が、東京地裁に宣誓供述書を提出し、もしスプリンクル氏が無給休職中に勤務しようとパトロール部の巡査部長のもとに出頭したならば、その巡査部長はおそらくなんとかスプリンクル氏が非公式に勤務できるようにしただろう、と述べています。私は元シアトル警察本部長として、また同警察に約30年勤続した者として、こういう主張をする元シアトル警察官がいるということが信じられません。1960年代のシアトル警察を知る偏りのない人物ならば誰でも、スプリンクル氏の話が見え透いた嘘であること、当時の巡査部長がスプリンクル氏の言うような取り決めを許可しないことを知っているはずです。この点について私は、20人以上の元シアトル警察官が署名して東京地裁に提出した「元シアトル警察官(複数)の宣言書」を読みました。私は同宣言書の内容に全面的に同意するものです。
八、スプリンクル氏が6ヶ月の休職中にシアトル警察に勤務できたはずがないことを示す説得力ある証拠をすべて無視するとしても、スプリンクル氏の話には(メイリー、クロウの話にも同じく)真実と思えない点がいくつもあります。たとえば私の理解するところでは、スプリンクル氏は、1963年3月20日早朝、第123号車を運転して相棒とパトロール中に、単なる旅行者とは見えないアジア人男性と複数の娼婦が口論しているのを見た、と主張しています。アジア人男性は壁に追い詰められ、娼婦たちは彼に向かって腕を振りまわしていました。このような現場を見た警察官なら誰でも間違いなく、アジア人男性が強盗か暴行にあっているところだという可能性を考えるはずです。警察官がこうした状況を見ながら、アジア人男性の財布やパスポートが無事であることを確認もせずに娼婦たちを立ち去らせるとは考えられません。アジア人男性が単なる旅行者とは見えなかったのであれば、なおさらです。事件にあたった警官が自分の行なった処理について責任を問われる可能性が特に高いからです。スプリンクル氏と相棒が、娼婦たちを尋問してアジア人男性が何も盗まれていないことを確認しもせず、立ち去らせたというのは常識に反しています。
九、もうひとつ、たとえスプリンクル氏が警察の公式要員であったと仮定しても、1963年当時第123号車とは別の班に属していた、比較的に新人のメイリー氏が、リリーフ警官としてスプリンクル氏とともに第123号車に配属されたということも、きわめて考えにくいことです。第123号車は非常に忙しい車で、私の知識から言ってスプリンクル氏とメイリー氏のような新人警官2人に任せるようなことはなかったはずです。しかも一方は別の班に所属し、他方は公式の警察官ですらなかったのです。こんな配属が行なわれたとは信じがたいことです。
十、スプリンクル氏、メイリー氏、クロウ氏の話に共通するもうひとつの主張は、1963年当時に7番街とパイク通りの交差点周辺が売春の中心地として有名であり、昼夜を問わず流しの娼婦が見かけられた、ということです。これはまったくの虚偽です。後の時代にはこの地域はたしかに売春で悪名を馳せましたが、1963年にはまったくそうではありませんでした。実際のところ、日本の僧侶である阿部氏が、問題の口論の前に7番街とパイク通りの交差点にある売春宿にいた、というクロウ氏の主張はまったくナンセンスです。7番街とパイク通りの交差点周辺は1960年代後半に売春で有名になりましたが、1963年にはそうではなかったという事実は、スプリンクル氏、メイリー氏、クロウ氏の話の内容が作り話であるという主張を支持するものであり、それは1960年代についてのおおざっぱで不正確な記憶を用いて1963年の事件を作り上げようと図ったものです。
十一、クロウ氏の話には、1963年のシアトル警察を客観的によく知っている人物なら誰でも虚偽だと判定できる点が、ほかにもいくつもあります。たとえば、彼女は1963年3月20日早朝に問題の事件現場に呼び出され、彼女が身元引受人として僧侶の代わりに4種類の書類に署名することを条件として、僧侶をホテルまで連れ帰ることが許された、と主張しています。彼女が述べた状況において、彼女から身元引受人となるよう依頼されたという主張は信じられません。当時のシアトル警察にはそんな手続はまったくなかったし、また私の知る限りいかなる時点でもそういう手続きはなかったからです。誰かが逮捕された後に、保釈保証人を立てる手続ならありますが、私の知る限り、同アジア人男性が問題の口論によって逮捕されたと主張した人はどこにもいません。さらに、クロウ氏が証人調書に署名するよう求められた、というのもおかしな話です。本人の話に明らかなとおり、彼女は問題の口論の現場にはいなかったのですから。クロウ氏と、スプリンクル氏、メィリー氏の述べたような状況において、彼女が署名を求められるべき書類を、私はひとつも思いつくことができません。要するに、問題の事件に関してクロウ氏が4種類の書類に署名を求められた、という主張が信用できないものなのです。
十二、クロウ、スプリンクル、メイリー各氏の話には、信じがたい点がまだあります。私は元シアトル警察本部長として、また同警察に約30年勤続した者として、目撃者の証言に関する様々な問題をよく知っています。クロウ氏が、30年以上ぶりにスブリンクル氏とメイリー氏に会って、すぐに2人が誰であるかわかった(クロウ本人の証言による)というのは信じがたいことです。同様に、スプリンクル氏とメイリー氏が同じく長い年月の後にクロウ氏を見てそれとわかったというのも、特に1963年の現場での出会いが短時間であったはずであることを思えば、信じがたいことです。年月が経っていたこと、事件当時に会っていた時間が短かったことに加えて、年月による容姿の変化、相手が別人種であること、などの要因によって、30年を経て一目で相手がわかるという可能性は著しく低いはずです。識別できたという主張の信憑性の低さは、全員が他の全員を識別できたと主張している事実によって一層明らかです。3人のうちの1人だけでも、短時間の出会いから30年後に他の2人を一目で見分けるという公算は非常に小さいのですから、3人全員がそうできたという公算の分母は天文学的な数字となることでしょう。
十三、結局、日本の仏僧と複数の娼婦の関与した事件というのは完全な作り話であり、ロナルド・スプリンクルは1963年3月には公式にも非公式にもシアトル警察官ではなかった、というのが私の強固な結論です。私は東京高裁に出廷してこの結論を証言する意志があり、その機会を心から待ち望むものです。
御法主日顕上人猊下御著 『真実の証明』発刊される
これが創価学会のあくなき捏造報道の実体
6月中旬頃より全国の一般書店で発売の予定
真実の証明
発行所 株式会社 日新報道
2001年5月31日発行
ISBN4-8174-0492-2 C0030
定価(本体1,400円+税)
目次
執筆の理由
東京地方裁判所における不可解な裁判の経緯
一 日蓮正宗と創価学会の当初より近年に至る経緯
二 初の海外出張授戒はこうして歪められた
一 サンタモニカにおける謀議
二 「NSTの帳簿の閲覧」の真の狙い(日蓮正宗法主をアメリカに引きずり出すための策動)
三 クロウ事件虚偽報道
四 宗門一切動じず反駁
五 創価学会の本質を指弾した第一審判決
六 第二次訴訟でも再び敗北した創価学会
七 正義は我にあり―アメリカ訴訟の完全勝利
警官からの電話連絡の内容 クロウとスプリンクルの証言の矛盾一
「現場」での状況説明の内容 証言の矛盾二
警官の路上での事件処理 証言の矛盾三
売買春事件の取調べの有無 証言の矛盾四
警察署での書類作製の有無 証言の矛盾五
一 「連邦政府に売春勧誘記録がある」という虚偽報道
二 公聴会(米国下院政府改革委員会)によって明らかになった違法行為
(1)ハワイから始まった捏造物語と謀略
(2)「ポルノ発言」のお粗末―売買春事件捏造の伏線
(3)「宿舎」はオリンピックホテルではなかった
(4)クロウ事件の虚偽を暴露する手帳の記述
(5)「朝食を届けた」との見え透いたウソ
(6)屋上屋を重ねる捏造―またしても「ポルノ」の虚偽
(7)飛行機中での工と荒唐無稽な捏造
(8)拡大せざるを得ないクロウのウソ
(9)御供養金を管理したのは創価学会
(10)写真が語るクロウの捏造
(11)「ダイヤ三個」の誹謗
(12)サンフランシスコへの機中をかく歪曲した貞永
(13)「贈り物」や「念珠」という作り話
一 全くの邪推―「ページの入れ替え」
二 「後からの加筆」は単なる難癖
三 なぜ手帳に重複記載が存在するのか
四 無作為な記述について
五 真実を示す文言を無視した創価学会
六 「全米」の語に対する愚論
七 「ページ数不足」なる言いがかり
八 健全な店だった「カルーセルルーム」
一 判決に対する相対的批判
二 判決文中の不当な認定への具体的批判
(1)クロウ供述についての判定の誤り
(2)スプリンクル証言について
(3)日顕の外出の供述について
(4)オリンピックホテルについて
(5)カルーセルルームについて
(6)私の供述の全体について
(7)手帳の記載「さあねよう、午后一時」について
(8)「午后一時」の文字と次頁の前後及び鑑定について
(9)アメリカ連邦政府の記録は果たしてあったのか
手帳(48,51,52,53,54,55,58,59,61,62,63,68,70,72,85ページ)
ニール・W・モーローニ宣誓供述書
ロバート・リー・ハンソン宣誓供述書
チャールズ・R・コナリー宣誓供述書
ニール・W・モーローニ補足宣誓供述書
元シアトル警察官24名の宣誓供述書
二ール・W・モロー二の宣誓供述言
署名
二ール・W・モロー二ー
「新婚旅行から戻った後、私は、シアトル警察の射撃場へ行き、ティプトン巡査部長に射撃場に戻って働きたいと相談しました。彼は、射撃場での私の仕事は別の者が既に引き継いでいるため、パトロール部門へ行くしかないと言いました。」
六、6ヶ月の無給休職中にいかにしてシアトル警察に勤務したか、についてのスプリンクル氏の説明はおかしなものです。私は、部下として仕えたこともあるし評判もよく聞いていたファーマー巡査部長がこのような無諜なやり方を許可したとは、想像もできません。スプリンクル氏には、警察から6ヶ月の休職で警察を離れていた間、警察官として行動する権限がなかったはずです。したがって、警察官として法廷で証言することも、警察権限によって逮捕を行なうこともできなかったでしょう。しかも、もしスプリンクル氏が、休職中になんらかの「警察活動」の結果として銃を発砲し、犯罪者や通行人を負傷させたとすると、スプリンクル氏、警察全体、そういう事態を招来した巡査部長のすべてに重大な結果が待っていたはずです。休職中のスプリンクル氏には警察官として行動する権限がなく、警察の職務上銃を使うことは禁じられていたはずだからです。また、スプリンクル氏は休職中には、警察のいかなる保険の対象ともなりません。たとえば、もし職務中に負傷しても障害保険を受けることができなかったでしょう。もしそういうことが起こり、ある巡査部長がスブリンクル氏を非公式に警察に勤務させる異例の取り決めを認めていた場合、その巡査部長が最終的に責任を負い、免職など厳しい処分を受けていたことでしょう。ファーマー巡査部長が、単なる新人警官ひとりの便宜をはかるために、そのような危険に自らをさらしたとは考えられません。