大白法

平成13年6月1日号


主な記事

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奉安堂6月1日(26Kb)



御法主日顕上人猊下御著 『真実の証明』発刊される

これを読まずして『クロウ事件』は語れない
これが創価学会のあくなき捏造報道の実体
6月中旬頃より全国の一般書店で発売の予定

真実の証明(20Kb)
真実の証明

著者 阿部日顕
発行所 株式会社 日新報道
2001年5月31日発行
ISBN4-8174-0492-2 C0030
定価(本体1,400円+税)


目次

はじめに
 執筆の理由
 東京地方裁判所における不可解な裁判の経緯

第一章 創価学会がなぜ捏造に及んだのか
 一 日蓮正宗と創価学会の当初より近年に至る経緯
 二 初の海外出張授戒はこうして歪められた

第二章 虚偽に満ち満ちたヒロエ・クロウの「供述書」

第三章 ヒロエ・クロウ(創価学会側)のアメリカ訴訟での大敗北
 一 サンタモニカにおける謀議
 二 「NSTの帳簿の閲覧」の真の狙い(日蓮正宗法主をアメリカに引きずり出すための策動)
 三 クロウ事件虚偽報道
 四 宗門一切動じず反駁
 五 創価学会の本質を指弾した第一審判決
 六 第二次訴訟でも再び敗北した創価学会
 七 正義は我にあり―アメリカ訴訟の完全勝利

第四章 元警官の偽証言まで持ち出した創価学会

第五章 なぜ異なる証言―創価学会側二人の証人
 警官からの電話連絡の内容 クロウとスプリンクルの証言の矛盾一
 「現場」での状況説明の内容 証言の矛盾二
 警官の路上での事件処理 証言の矛盾三
 売買春事件の取調べの有無 証言の矛盾四
 警察署での書類作製の有無 証言の矛盾五

第六章 アメリカ連邦政府記録事件
 一 「連邦政府に売春勧誘記録がある」という虚偽報道
 二 公聴会(米国下院政府改革委員会)によって明らかになった違法行為

第七章 『創価新報』はいかに事実を捏造したか(米国出張授戒の事実経過)
 (1)ハワイから始まった捏造物語と謀略
 (2)「ポルノ発言」のお粗末―売買春事件捏造の伏線
 (3)「宿舎」はオリンピックホテルではなかった
 (4)クロウ事件の虚偽を暴露する手帳の記述
 (5)「朝食を届けた」との見え透いたウソ
 (6)屋上屋を重ねる捏造―またしても「ポルノ」の虚偽
 (7)飛行機中での工と荒唐無稽な捏造
 (8)拡大せざるを得ないクロウのウソ
 (9)御供養金を管理したのは創価学会
 (10)写真が語るクロウの捏造
 (11)「ダイヤ三個」の誹謗
 (12)サンフランシスコへの機中をかく歪曲した貞永
 (13)「贈り物」や「念珠」という作り話

第八章 手帳は「ありのまま」を語る(『創価新報』の邪難を破す)
 一 全くの邪推―「ページの入れ替え」
 二 「後からの加筆」は単なる難癖
 三 なぜ手帳に重複記載が存在するのか
 四 無作為な記述について
 五 真実を示す文言を無視した創価学会
 六 「全米」の語に対する愚論
 七 「ページ数不足」なる言いがかり
 八 健全な店だった「カルーセルルーム」

第九章 東京地裁・下田判決への批判
 一 判決に対する相対的批判
 二 判決文中の不当な認定への具体的批判
  (1)クロウ供述についての判定の誤り
  (2)スプリンクル証言について
  (3)日顕の外出の供述について
  (4)オリンピックホテルについて
  (5)カルーセルルームについて
  (6)私の供述の全体について
  (7)手帳の記載「さあねよう、午后一時」について
  (8)「午后一時」の文字と次頁の前後及び鑑定について
  (9)アメリカ連邦政府の記録は果たしてあったのか

第十章 写真偽造事件

むすび

資料
 手帳(48,51,52,53,54,55,58,59,61,62,63,68,70,72,85ページ)
 ニール・W・モーローニ宣誓供述書
 ロバート・リー・ハンソン宣誓供述書
 チャールズ・R・コナリー宣誓供述書
 ニール・W・モーローニ補足宣誓供述書
 元シアトル警察官24名の宣誓供述書


二ール・W・モロー二の宣誓供述言

二ール・W・モロー二は、適法に宣誓の上、次のとおり供述する。

一、私は1954年から1975年までシアトル市警察に奉職しました。私は1968年から1970年まで刑事部長、1971年から1974年までは副本部長を務めました。それから1975年から1981年までシアトル港警察本部長となり、その後1981年から1985五年まではワシントン州ステート・パトロール本部長でした。1985年から1987年まではコロラド州捜査局の長官でした。コロラド州捜査局を退職した後も、多数の警察や法執行機関の顧問を務めてきました。また、1980年にはワシントン大学から都市問題行政学の修士号を、1974年にはピュージェット・サウンド大学から公共政策学修士号を、1953年にはワシントン・ステート大学から警察行政学士号を取得しています。

二、私はシアトル警察副本部長であった時、同警察から不正・腐敗の警官を追放する仕事をした主要な警察職員の一人でした。私はこの任務のために、警察の不正行為に関与した疑いのある多数のシアトル警察官の人事ファイルを精査したことがあります。

三、私は引退してから、"Cops, Crooks and Politicians"(警官と悪党と政治家)という本を執筆し、1993年に上梓いたしました。同書は、1950年代のシアトルやその他の場所で起きた警察腐敗事件に焦点を当てたものです。同書の序文の中で、前ワシントン州一知事ジョン・スペルマンは、「モローニはいつも、正直な警官の典型であった。モロー二本部長は、語り口は静かだが自信にあふれたプロフェッショナルで、彼が奉職し、または指導したあらゆる警察組織を改善した。」と述べています。

四、私が聞いたところでは、元シアトル警察の一員であったロナルド・C・スプリンクルは、1996年9月および10月にワシントン州ポート・アンジェルスで行なわれたデポジションにおいて、連邦裁判所の命令に従い証言を行なったとのことです。また、スプリンクル氏は1963年3月20日未明、シアトル警察の警察官として執務中、もう一人のシアトル警察の警察官とともに、シアトルの7番街とパイク通りの角で娼婦と口論中のアジア人男性を一時拘束(detain)した旨の証言をしたと聞いています。さらに、スプリンクル氏はこのアジア人男性はある電話番号を示し、その番号にかけてヒロエ・クロウなる女性と話をし、そしてクロウが現場にやって来たのでスプリンクルはその男を彼女に引渡した旨証言したと聞いております。

五、また私は、ロナルド・C・スプリンクルは1996年9月および10月に東京で開かれた法廷において、東京地方裁判所に対しても本質的には同旨の証言をしたと聞いています。

六、私はロナルド・C・スプリンクルのシアトル警察における雇用に関する多数の記録文書を検討しました。私は、これら記録文書を検討し、またシアトル警察の人事記録を読解する上での私自身の専門知識に基づき、スプリンクル氏は1963年3月当時シアトル警察の現役メンバーではなく、それゆえ同月に彼が関与したと主張している事件に関与できたはずはない、という結論に達しました。これら記録文書によれぼ、スプリンクル氏は1962年10月30日から1963年5月5日までの間は軍務休職中で、シアトル警察にはいなかったことは、いかなる疑問の余地もなく明白です。軍務休職の期間に、スプリンクル氏がシアトル警察の警官として職務を遂行したり、彼がデポジションや東京地裁での証言の中で述べたとされているような事件に、シアトル警察官として関与することは不可能です。

七、シアトル警察の全職員にはそれぞれ職務歴記録があり、人事部に保管されています。本供述書に添付した書証Aは、ロナルド・C・スプリンクルのシアトル警察における職務歴記録の写しです。書証Aによれば、スプリンクル氏は1962年10月30日に軍務休職のため警察を離れています。彼は1963年5月6日にシアトル警察に復職しています。スプリンクル氏はこの期間、軍務休職中だったのですから、彼がデポジションおよび東京地裁における証言の中で説明したという事件に、シアトル警察の警察官として関与することはあり得ないことです。

八、書証Bによれば、スプリンクル氏は1962年4月2日から軍務休職に入る1962年10月30日までの間、野外射射撃演習場のスタッフとして配属されていました。彼がこの間パトロール勤務に配属されたことはありません。スプリンクル氏は1963年5月6日軍務休職から戻った後に、7番街とパイク通りを含む第一管区のパトロール勤務に配属されました。彼は・野外射撃練習場に配属されて以降軍務休職から戻った1963年5月6日までの間は、七番街とパイク通り周辺はおろか、シアトル警察でいかなるパトロール勤務にも就いたことがないのです。

九、本宣誓供述書に書証として添付された文書の解釈上留意すべきは、書証Aによればスプリンクル氏は警察に就職してから1968年1月に「ポリス・オフイサー(Police Officer)、の肩書に変わるまでの間、パトロールマン(Patrolman)という肩書であつたという点です(この肩書変更は、職員に対して性的に中立な職名を使用したいという警察の意向を反映したもので、スプリンクル氏の職務上の地位に何ら実質的な変化はありません)。1960年代の初期に、同警察の警察官の肩書が・パトロールマンであったからと言って、その警察官がパトロール勤務に配属されていたとは限りません。たとえばスプリンクル氏自身、野外射撃場場のスタッフとして配属されていた時も、後に第一管区のパトロール勤務に配属された時も、同じ「パトロールマン」という職階にあったのです。

十、書証Bはシアトル市人事局長ロイ・A・パームの1962年10月30日付の手紙です。このの手紙は、軍務に就くためシアトル警察を休職したいとのロナルド・スプリンクルの申請が1962年10月30日付で認められ、スプリンクル氏が軍務に就くことができるようになったことを示しています。

十一、書証Cはシアトル警察の人事関係書式で、ロナルド・C・スプリンクルが1962年10月の某日から軍務休職に入る予定であることを示しています。

十二、書証Dは1963年5月2日付の軍務に関する覚書です。これは、ロナルド・チェ一スタ・スプリンクルが1962年10月28日から1963年4月26日まで・アメリカ合衆国空軍に勤務するため、シアトル警察を休職していたことを示しています。

十三、書証Eはシアトル警察のバッジ一式(badge set以下バッジ・セットと訳す)に関する記録カードの写しで、ロナルド・C・スプリンクルが1962年10月31日に警察バッジ・セットをシアトル警察資材室に返納したことを示しています。通常、警察官は、休職によって警察を離れる時か、退職する時以外には、バツジ・セットを返納することはありません。というのは、警察官は警察バッジがなければその職務を遂行することはできないからです。

十四、書証Fもシアトル警察のバッジ・セット記録カードの写しで、ロナルド・C・スプリンクルが軍務休職から復職するに際し、1963年5月1日に新たなバッジ・セットを支給されたことを示しています。

十五、書証GおよびHは、シアトル警察の銃器記録力ード2通の写しで、ロナルド・C・スプリンクルが1962年10月31日に回転式拳銃をシアトル警察資財室に返納し、1963年5月1日に新たな回転式拳銃を支給されたことを示しています。

十六、書証E・F・GおよびHの内容は、本宣誓供述書に添付したその他の書証の内容と一致しています。これらの書証によれば、スプリンクル氏は軍務休職に入った頃にバッジ・セットと銃を警察に返納し、軍務休職から復帰した頃に新たなバッジ・セットと銃の支給を受けたことが認められます。

十七、本宣誓供述書に添付した書証の多くのものは、そのどれか一つだけを取り上げても、ロナルド・C・スプリンクルが、1963年3月19日か20日に起こったいかなる事件にも、制服を着たシアトル警察官として職務上関与し得た筈がないと結論するに十分なものです。まして本宣誓供述書に添付した書証をすべて考え合わせるならば、この点にはいかなる疑問の余地も残りません。これら書証の出所が、あるものは警察の人事部であり、あるものはシアトル市人事局であり、更に別のものは警察の資財室であるということは注目すべきことです。これら様々な文書が、ロナルド・C・スプリンクルは1962年10月終わりから1963年5月初めまで軍務休職中であったという点において完全に一致しているのです。軍務休職中に、ロナルド・C・スプリンクルがシアトル警察官として職務を行なう法的権限を持ち得た筈はありません。

日付:1999年7月12日
署名
二ール・W・モロー二ー



ロバート・リー・ハンソン宣誓供述書

ロバート・リー・ハンソンは、適法に宣誓の上、次のとおり供述する。

一、私は1974年から1978年3月31日の退職まで、シアトル警察本部長を務めたものです。1974年3月16日からの当初は、暫定警察本部長でした。シアトル市長が私を警察本部長に指名し、同市議会から承認を受けた1974年10月31日の時点で、私は公式の警察本部長となりました。私は1974年から1978年までシアトル警察本部長として、同警察の最高位にあり、警察の諸職務について最終的な責任を負っていました。

二、私は警察に入る前、1943年には合衆国海軍に入隊し、3年半にわたって現役にありました。1947年には、シアトル消防署に入署しました。次いで1948年に、シアトル警察に入署しました。1954年のある時期には、ウィルバー・ファーマーが私の直属の上司でした。それから、私は巡査部長(サージャント)、警部(ルテナント)、警視(キャプテン)、副本部長、本部長と順次昇進していきました。

三、私は、ヒロエ・クロウ、ロナルド・スプリンクル、バーナード・ヴィクター・メイ一リーが、1963年3月にシアトルで起きたという、日本人仏僧と複数の娼婦の間の事件について主張するさまざまな文書を読みました。私の理解するところでは、東京地裁は、おおむねヒロェ・クロウ、ロナルド・スプリンクル、バーナード・ヴィクター・メイリーが述べた通りに、そういう事件が実際に起こった、と認定しました。東京地裁のこの結論は、1963年当時のシアトル警察およびシアトル市の現実を無視したものである、というのが私の意見です。私は元警察本部長として、東京地裁の判決はこの点において誤りであり、東京高裁で綿密に再審査されるべきだ、と考えています。私はこの意見を述べることに対して、また本宣誓供述書を作成する時間に対して、いっさい報酬を受けていません。純粋に自らの正義感による行為です。

四、第一に、1963年3月、問題の事件当時に彼がシアトル警察官であり、日本人仏僧が複数の娼婦との口論をしているのを見て拘束した、というロナルド・スプリンクル氏の主張が虚偽であることは私には明白なことです。シアトル警察人事局、シアトル警察年金局、シアトル市人事局の公式記録は、スプリンクル氏が当時6ヶ月の休職でシアトル警察を離れていたことを明らかにしています。この「休職中」という身分は英語の文字(leave of absence)どおりに、当時スプリンクル氏がまさに警察にいなかった(absence)ことを意味します(たとえば、スプリンクル氏がシアトル市人事局に提出した、1962年10月22日付「休職願」参照)。シアトル警察資財室の記録は、スプリンクル氏が6ヶ月の休職に入る際に警察用品を返納したこと、また6ヶ月の休職から戻った時に再給付を受けたことを示しています。この事実は、他の各種機関からの記録の内容を裏付けるものです。すなわち、スプリンクル氏は1962年10月末から1963年4月までの間、シアトル警察の現役警官ではなかったということです。

五、私の理解するところでは、スプリンクル氏は、同人が軍務休職中であったことを示す記録類を日蓮正宗側が公にした後に、6ヶ月の無給休職中になんらかの方法で非公式に警察に勤務することができた、という主張を出しました。たとえばスプリンクル氏は、私の通読した1999年10月22日付の宣誓供述書の中で、自分は空軍の現役服務中の1963年12月16日に結婚した、と述べています。彼は3日間のハネムーン旅行にでかけ、同宣誓供述書によればその後、

「新婚旅行から戻った後、私は、シアトル警察の射撃場へ行き、ティプトン巡査部長に射撃場に戻って働きたいと相談しました。彼は、射撃場での私の仕事は別の者が既に引き継いでいるため、パトロール部門へ行くしかないと言いました。」

「私は、ウィルバー・ファーマー巡査部長に早めに仕事に戻ることについて相談しました。ファーマー巡査部長は、警察署としては、私が来て人手が増えることを大いに喜ぶと言いました。ファーマー巡査部長は、私の父の個人的な友人であり、私は、彼の姪といっしょにバラード高校に通いました。当時、私は、依然として空軍予備役の訓練のための現役勤務中であることが気になっていました。そうした状況でしたから、私は、シアトル警察の人事局に提出するための、現役勤務義務を果たしたという軍の正式の書類を持っていませんでした。従って、私は、空軍予備役の現役勤務を除隊になるまで、シアトル警察に「公式に」復帰することはできないと思いました。私は、自分の懸念をファーマー巡査部長に相談したところ、巡査部長は、私の立場が予備役の現役勤務に過ぎないので、うまく処理できると思うと約束してくれました。巡査部長は、署では人手が足りないので、パトロールの現場に出てくれるのは助かると言いました。ファーマー一巡査部長は、給料をもらえるようにするか、あるいは、最低限、『公式』に復帰した後に代休をもらえるように何とかやりくりすると言ってくれました。最初の給料日が来た時、給与支払い用の小切手をもらうことができませんでした。ファーマー巡査部長にかけあったところ、彼は、何とか給料をもらえるようにしてやると言いました。その後、しばらくの間、給料をもらうことができず、やむを得ず、私の記憶する限り、警察官互助組合もしくはその他のところから借金をしたのを覚えております。私は、この期間に給料をもらったかどうか特別な記憶はありません。しかし、何ももらえなかったという記憶はないので、その間については何らかの形で補填されたはずだと思います。」

六、6ヶ月の無給休職中にいかにしてシアトル警察に勤務したか、についてのスプリンクル氏の説明はおかしなものです。私は、部下として仕えたこともあるし評判もよく聞いていたファーマー巡査部長がこのような無諜なやり方を許可したとは、想像もできません。スプリンクル氏には、警察から6ヶ月の休職で警察を離れていた間、警察官として行動する権限がなかったはずです。したがって、警察官として法廷で証言することも、警察権限によって逮捕を行なうこともできなかったでしょう。しかも、もしスプリンクル氏が、休職中になんらかの「警察活動」の結果として銃を発砲し、犯罪者や通行人を負傷させたとすると、スプリンクル氏、警察全体、そういう事態を招来した巡査部長のすべてに重大な結果が待っていたはずです。休職中のスプリンクル氏には警察官として行動する権限がなく、警察の職務上銃を使うことは禁じられていたはずだからです。また、スプリンクル氏は休職中には、警察のいかなる保険の対象ともなりません。たとえば、もし職務中に負傷しても障害保険を受けることができなかったでしょう。もしそういうことが起こり、ある巡査部長がスブリンクル氏を非公式に警察に勤務させる異例の取り決めを認めていた場合、その巡査部長が最終的に責任を負い、免職など厳しい処分を受けていたことでしょう。ファーマー巡査部長が、単なる新人警官ひとりの便宜をはかるために、そのような危険に自らをさらしたとは考えられません。

七、私の理解するところでは、訴訟相手側(創価学会)に雇われて調査員・コンサルタントとして仕事をしている複数の元シアトル警察官が、東京地裁に宣誓供述書を提出し、もしスプリンクル氏が無給休職中に勤務しようとパトロール部の巡査部長のもとに出頭したならば、その巡査部長はおそらくなんとかスプリンクル氏が非公式に勤務できるようにしただろう、と述べています。私は元シアトル警察本部長として、また同警察に約30年勤続した者として、こういう主張をする元シアトル警察官がいるということが信じられません。1960年代のシアトル警察を知る偏りのない人物ならば誰でも、スプリンクル氏の話が見え透いた嘘であること、当時の巡査部長がスプリンクル氏の言うような取り決めを許可しないことを知っているはずです。この点について私は、20人以上の元シアトル警察官が署名して東京地裁に提出した「元シアトル警察官(複数)の宣言書」を読みました。私は同宣言書の内容に全面的に同意するものです。

八、スプリンクル氏が6ヶ月の休職中にシアトル警察に勤務できたはずがないことを示す説得力ある証拠をすべて無視するとしても、スプリンクル氏の話には(メイリー、クロウの話にも同じく)真実と思えない点がいくつもあります。たとえば私の理解するところでは、スプリンクル氏は、1963年3月20日早朝、第123号車を運転して相棒とパトロール中に、単なる旅行者とは見えないアジア人男性と複数の娼婦が口論しているのを見た、と主張しています。アジア人男性は壁に追い詰められ、娼婦たちは彼に向かって腕を振りまわしていました。このような現場を見た警察官なら誰でも間違いなく、アジア人男性が強盗か暴行にあっているところだという可能性を考えるはずです。警察官がこうした状況を見ながら、アジア人男性の財布やパスポートが無事であることを確認もせずに娼婦たちを立ち去らせるとは考えられません。アジア人男性が単なる旅行者とは見えなかったのであれば、なおさらです。事件にあたった警官が自分の行なった処理について責任を問われる可能性が特に高いからです。スプリンクル氏と相棒が、娼婦たちを尋問してアジア人男性が何も盗まれていないことを確認しもせず、立ち去らせたというのは常識に反しています。

九、もうひとつ、たとえスプリンクル氏が警察の公式要員であったと仮定しても、1963年当時第123号車とは別の班に属していた、比較的に新人のメイリー氏が、リリーフ警官としてスプリンクル氏とともに第123号車に配属されたということも、きわめて考えにくいことです。第123号車は非常に忙しい車で、私の知識から言ってスプリンクル氏とメイリー氏のような新人警官2人に任せるようなことはなかったはずです。しかも一方は別の班に所属し、他方は公式の警察官ですらなかったのです。こんな配属が行なわれたとは信じがたいことです。

十、スプリンクル氏、メイリー氏、クロウ氏の話に共通するもうひとつの主張は、1963年当時に7番街とパイク通りの交差点周辺が売春の中心地として有名であり、昼夜を問わず流しの娼婦が見かけられた、ということです。これはまったくの虚偽です。後の時代にはこの地域はたしかに売春で悪名を馳せましたが、1963年にはまったくそうではありませんでした。実際のところ、日本の僧侶である阿部氏が、問題の口論の前に7番街とパイク通りの交差点にある売春宿にいた、というクロウ氏の主張はまったくナンセンスです。7番街とパイク通りの交差点周辺は1960年代後半に売春で有名になりましたが、1963年にはそうではなかったという事実は、スプリンクル氏、メイリー氏、クロウ氏の話の内容が作り話であるという主張を支持するものであり、それは1960年代についてのおおざっぱで不正確な記憶を用いて1963年の事件を作り上げようと図ったものです。

十一、クロウ氏の話には、1963年のシアトル警察を客観的によく知っている人物なら誰でも虚偽だと判定できる点が、ほかにもいくつもあります。たとえば、彼女は1963年3月20日早朝に問題の事件現場に呼び出され、彼女が身元引受人として僧侶の代わりに4種類の書類に署名することを条件として、僧侶をホテルまで連れ帰ることが許された、と主張しています。彼女が述べた状況において、彼女から身元引受人となるよう依頼されたという主張は信じられません。当時のシアトル警察にはそんな手続はまったくなかったし、また私の知る限りいかなる時点でもそういう手続きはなかったからです。誰かが逮捕された後に、保釈保証人を立てる手続ならありますが、私の知る限り、同アジア人男性が問題の口論によって逮捕されたと主張した人はどこにもいません。さらに、クロウ氏が証人調書に署名するよう求められた、というのもおかしな話です。本人の話に明らかなとおり、彼女は問題の口論の現場にはいなかったのですから。クロウ氏と、スプリンクル氏、メィリー氏の述べたような状況において、彼女が署名を求められるべき書類を、私はひとつも思いつくことができません。要するに、問題の事件に関してクロウ氏が4種類の書類に署名を求められた、という主張が信用できないものなのです。

十二、クロウ、スプリンクル、メイリー各氏の話には、信じがたい点がまだあります。私は元シアトル警察本部長として、また同警察に約30年勤続した者として、目撃者の証言に関する様々な問題をよく知っています。クロウ氏が、30年以上ぶりにスブリンクル氏とメイリー氏に会って、すぐに2人が誰であるかわかった(クロウ本人の証言による)というのは信じがたいことです。同様に、スプリンクル氏とメイリー氏が同じく長い年月の後にクロウ氏を見てそれとわかったというのも、特に1963年の現場での出会いが短時間であったはずであることを思えば、信じがたいことです。年月が経っていたこと、事件当時に会っていた時間が短かったことに加えて、年月による容姿の変化、相手が別人種であること、などの要因によって、30年を経て一目で相手がわかるという可能性は著しく低いはずです。識別できたという主張の信憑性の低さは、全員が他の全員を識別できたと主張している事実によって一層明らかです。3人のうちの1人だけでも、短時間の出会いから30年後に他の2人を一目で見分けるという公算は非常に小さいのですから、3人全員がそうできたという公算の分母は天文学的な数字となることでしょう。

十三、結局、日本の仏僧と複数の娼婦の関与した事件というのは完全な作り話であり、ロナルド・スプリンクルは1963年3月には公式にも非公式にもシアトル警察官ではなかった、というのが私の強固な結論です。私は東京高裁に出廷してこの結論を証言する意志があり、その機会を心から待ち望むものです。

日付:2000年7月1日
(署名)
ロバート・リー・ハンソン


チャールズ・R・コナリー宣誓供述書

チャールズ・R・コナリーは、適法に宣誓の上、次のとおり供述する。

一、私は1953年にシアトル警察に入署した者です。1960年ごろまでの2・3年の間、私はレギュラー(訳者注:同じパトロール・力ーに6日勤務して2日休む)のパトロール警察官として第123号車に配属されていました。その後私は、繁華街担当班の徒歩巡査(「ビート」と呼ばれる巡邏区域を、パトカーではなく徒歩で回る巡査)として配属されました。私は徒歩巡査であった時代に、7番街とパイク通りの交差点周辺の巡邏区域をよく歩いていました。また同地周辺は第123号車の巡回区域内でもありました。私は1962年7月に巡査部長(サージャント)に昇進し、1963年3月には第一管区(Precinct 1 ―訳者注:123号車巡回区を含む繁華街地区)所属のパトロール巡査部長となり、さらに1963年8月には通信課に転属しました。1967年ごろには、警部(ルテナント)に昇進し、そのしばらく後から通信・記録・データ処理をはじめとする諸事務を司る部門の警視正(Inspector)付となって勤務しました。私の職務は、シアトル警察の通信・記録・データ処理を担当する責任者でした。1969年7月、レイモン警察本部長は私を、「コンピュータ・プログラム計画調整特別プロジェクト」の責任者に任命しました。その時にはすでに、私はシアトル警察において警視(キャプテン)に昇進していました、また私は「シアトル地域刑事司法情報システム運営調整委員会」にシアトル警察の代表として参加したことがあります。同運営調整委員会は、たとえばワシントン州の電算化法執行データベースの開発に資金提供と援助を行なっていました。1980年にシアトル警察を退職したとき、私は副本部長(Assistant Chief〉のひとりでした。

二、私の理解するところでは、日本においてある訴訟が進行中で、その主たる争点は、あるアジア人男性―現在の日蓮正宗の法主―が、1963年3月にシアトルの7番街とパイク通りの交差点周辺で娼婦との口論に関与したか否か、ということです。また私の理解するところでは、同訴訟の一方当事者(創価学会)は口論の原因はすでに提供された性的サービスの支払いに関するもので、シアトル警察が介入した、と主張しています。

三、私の聞いたところでは、目撃者のひとりだと主張しているクロウ氏は、以下のような主張をしています。彼女の主張によれば、彼女は1963年3月20日早朝午前2時に7番街とパイク通りの交差点の現場に呼び出され、現場にいたふたりの警官から、このアジア人男性の身元について書面で保証し、またホテルに彼を置いてから各種書類作成のために警察署に出頭することに同意するなら、このアジア人男性をホテルまで連れ帰ってよいと言われた。そこで彼女はアジア人男性をホテルまで車で送り、その後繁華街の警察署に出向いて各種書類を作成したが、その中には警官から聞いた事件の内容を確認する調書もあったということです。私の理解するところでは、クロウ氏は同日に、現場で1通、警察署で3通、計4通の文書に署名したと主張しています。

四、また私の聞いたところでは、クロウ氏は、問題のアジア人男性が複数の娼婦と関与したこと、娼婦のひとりと性交し、もうひとりにヌード写真を撮らせてくれと頼んだこと、それは7番街とパイク通りの交差点近くにある売春宿で起ったこと、性交の後に支払いについて口論があったこと、娼婦たちが売春宿から路上ヘアジア人男性を追いかけてきて、そこで性行為に対する支払いに関して争っていたこと、以上を警官から聞いたと主張しています。また私の理解するところでは、クロウ氏は1963年3月当時、7番街とパィク通りの交差点周辺は売春で悪名高い場所で、昼も夜も娼婦が路上にいた、と証言しました。

五、また私の聞いたところでは、元シアトル警察官のロナルド・スプリンクルが以下のような証言をしています。彼自身の証言によれば、彼は1963年3月当時に繁華街担当班のリリーフ警官でした。1963年3月20日早朝、彼は第123号車を運転してパトロール中に7番街とパイク通りの交差点で身なりのよいひとりのアジア人男性と複数の娼婦が口論しているのを見ました。アジア人男性は壁に追い詰められ、娼婦たちは彼に向かって腕を振りまわしていました。アジア人男性はおびえているようでした。スプリンクル氏とその夜の相棒の警官は、パトカーを駐車し、この事態に介入しました。スプリンクル氏と相棒の警官は尋問することなく娼婦たちを立ち去らせ、アジア人男性を拘束しましたが、彼は英語が話せませんでした。スプリンクル氏は、口論はすでに行なわれた性的サービスの支払いに関するものだという結論に達した、と証言しています。アジア人男性はコートのポケットに手をやり、電話番号を書いた紙片を取り出しました。次いでスプリンクル氏はパトロールカーを一ブロック先の8番街とパイク通りの交差点にある「ラリーズ・グリーンランド・カフェ」という店まで運転していき、その電話番号に電話をかけました。するとクロウ氏が雷話に出て、現場に来てアジア人男性を引き取ることに同意しました。彼女が到着すると、男性は釈放されました。クロウ氏はその後警察署に出頭しました。

六、また私の理解するところでは、スプリンクル氏は同日の警察でのパートナーは、別の班(キャピトル・ヒル担当)所属のリリーフ警官、ヴィクター・メイリーであった、と証言しています。スプリンクル氏はさらに、メィリー氏は問題の日、人手不足のために繁華街担当班に配属されていた、と主張しています。メイリー氏は複数の宣誓供述書を提出して、その中でスプリンクル氏の話を支持していますが、私の理解するところでは、メィリー氏は本件訴訟において一度も反対尋問を受けたことがなく、東京地裁で証人として直接に証言を行なったこともありません。

七、さらに私の聞いたところでは、創価学会は、1963年3月に上記のような事件があったことを立証する政府記録が存在する、または存在していた、と主張しています。創価学会は当初、問題の記録は合衆国連邦政府の記録(たとえばNCIC)であると主張していましたが、その後州政府データベース内の記録かもしれない、と言い出しました。私の聞いたところでは、創価学会はその主張する記録を提出したことがなく、その真実性を直接に立証する方法は今のところないということです。

八、私は以下の諸記録を読みました。即ち、ロナルド・スプリンクルのシアトル警察職務歴記録カード、ロナルド・スプリンクルのシアトル警察年金局勤務日数記録カード、スプリンクルのファイルに関する1972年9月25日付ダグ・ジューイット覚書、1962年10月22日付シアトル市人事局軍務休職願、シアトル市人事局からスプリンクル氏への1962年10月31日付軍務休職承認通知書、シアトル警察資財室の諸記録のうち、スプリンクル氏の拳銃、バッジ・セット、手錠が1962年10月31日にシアトル警察資財室に返納され、スプリンクル氏の拳銃、バッジ・セット、手錠・その他警察用品(スプリンクル氏の警察身分証明書を含む)が1963年5月1日に再交付されたことを示す記録です。また私は本宣誓供述書を作成するにあたり、20名以上の署名のある「元シアトル警察官(複数)の宣言書」も読みました。同宣言書はすでに東京地裁に提出されたものと理解しています。同宣言言は、ロナルド・スプリンクルが東京地裁に提出した以前の宣誓供述書に言及しているものと理解しています。

九、繁華街担当班の徒歩巡査、第一管区担当の巡査部長、シアトル警察の文書・コンピュータ両方の記録の貴任者(コンピュータ・データベース・システムの開発職務も含む)、副本部長(シアトル警察第2位の階級)等の管理職務など、シアトル警察官としての広い経験に基いて申し上げれば、上に述べたクロウ氏、スプリンクル氏、メイリー氏、創価学会の証言内容は、どのひとつを取ってみてもおかしい、というのが私の結論です。東京地裁が彼らの証言の内容を受け入れた限りにおいて、その判決は慎重に再検討されるべきだと私は考えます。シアトル警察の元警察官として、このような証言を真正と認めるような判決は、いかなる現実の事実によっても支持され得ないものである、というのが私の意見です。以下にその理由を述べます。

十、第一に、1963年3月20日に第123号車を運転し、シアトル警察官として7番街とパイク通りの交差点において事件に介入した、というロナルド・スプリンクルの主張は虚偽です。シアトル警察、シアトル警察年金局、シアトル市人事局の公式諸記録は、当時スプリンクル氏が6ヶ月の無給軍務休職で警察を離れており、シアトル警察に勤務していなかったことを疑問の余地なく明白に示しています。彼はこの期間中、シアトル警察官としていかなる事件にも関与できなかったはずです。

十一、私は、1063年3月に第一管区を担当していた巡査部長のひとりとして、スプリンクル氏が6ヶ月間の無給休職で警察を離れている間に「非公式に」警官として勤務することを許されたはずはないということを知っています。私は、巡査部長として部下の警察官に対して相当な権限を持っていましたが、公式には警察の一員でない者に警察の制服を着せ、拳銃をはじめ警察の装備を持たせ、パトロールカーを運転させ、シアトル警察官として公衆の前に出すといったことについては、権限もなかったし、そうしたいと思ったこともありません。なによりもまず、警察の公式メンバーでない者には、逮捕をする、被疑者を拘束する警察官として法廷で証言するなど、警察官がすべきことを行う警察権限がありません。しかも、誰かを「非公式」に勤務させることは、その「非公式」警察官本人だけでなく、警察全体と、それを許可した巡査部長にも、きわめて大きなリスクをもたらし、賠償責任を問われるおそれがあります。たとえば、警察官は自分自身や同僚、公衆の身を守るために発砲を余儀なくされることがあります。警察官が他の個人に発砲しなければならない事態は、重大な関心事として、警察内部と公衆の両方から、厳重に審査されます。もし「非公式」の警察官として行動するスプリンクル氏が発砲を行なって誰かを死傷させた場合、スプリンクル氏とそれを許可した巡査部長にはきわめて厳しい結果が待っていたことでしょう。公式の警察官でない時期のスプリンクル氏にパトロールカーを運転させること(問題の日にそうしていたと本人が主張しているように)についても、同じような問題が取り上げられたでしょう。もしスプリンクル氏が、公式の権限なくパトロールカーを運転していて別の車と事故を起こした場合、深刻な賠償責任問題が生じたでしょう。1963年当時にシアトル警察のどの巡査部長でも、そのような勤務状況を許可したはずはありません。それはなによりもまず、自分の職を危険にさらす行為だからです。

十二、私の理解するところでは、ファーマー巡査部長がそういう取り決めに同意した、とスプリンクル氏は主張しています。この主張には信憑性がありません。ファーマー巡査部長に限らずどの巡査部長でも、この種の「非公式」の取り決めを認めないだろうということに。加えて、スプリンクル氏が警察に非公式に勤務していたと主張する期間、すなわち1963年の2月・3月・4月には、ファーマー巡査部長は繁華街担当班の責任者ではなかったと信じられるからです。ファーマー巡査部長は別の班を担当しており、繁華街担当班での「非公式」勤務をスプリンクル氏に許可できる立場にはなかった、というのが私の判断です。

十三、事実として、私は6ヶ月以上にわたる無給軍務休職中のシアトル警察官が、「公式」であれ「非公式」であれ休職中にシアトル警察官として勤務した例をひとつも知りません。スプリンクル氏については、私は、本訴訟において東京地裁に提出されたはずの「元シアトル警察官(複数)の宣言書」の記載内容に同意します。私はこの点において、6ヶ月の無給軍務休職中であったのに、いかにして同時に非公式に警察に勤務できたか、に関するスプリンクル氏自身の説明を否定します。1960年代のシアトル警察に詳しい人物なら誰でも、スプリンクル氏の説明は信じがたいものであったことを知っています。

十四、7番街とパイク通りの交差点周辺が、1963年3月を含めた1960年代初めに売春で有名であったという主張も、やはり虚偽です。1960年代初期のシアトルでは売春の中心地はチャイナタウンであり、七番街とパイク通りの交差点からは離れた別の場所です。1963年当時に、7番街とパイク通りの交差点周辺には娼婦がひとりもいなかったと断言することはできませんが、同地周辺での売春活動のレベルはおおむね無視できる程度でした。さらに、私は当時の同地域の状況を熟知していますが、1963年当時に7番街とパイク通りの交差点周辺には私の知る限り売春宿はひとつもありませんでした。1960年代の彼半になると、7番街とパイク通りの交差点周辺はかなり変貌して、たしかに売春の中心地となりました。しかしシアトル警察官として同地域に勤務していた私の経験から言って、1963年3月を含む1960年代初期にはそうではありませんでした。

十五、またクロウ氏が、逮捕されたわけでもないアジア人男性の身柄を引き取るのに、複数の文言に署名させられたという主張も、作り話であることが明白です。シアトル警察には、1963年当時も、また私の知る限り他の時期にも、拘束はされたが逮捕に至っていない成人の身柄を、別の人物が、その拘束された者の身元についての保証言に署名すること、およぴ後に被拘留者本人の代わりに警察署に出頭してさらに別の文言に署名することを条件として、その別の人物に引き渡すなどという手続きはありませんでした。さらに、拘留された人物の身柄を引き取った人物が、後に警察署で各種文言(証人調言に酷似するものも含めて)に署名させられるということも、1963年のシアトル警察での処理手続にまったく反しています。私のこの結論は、私の巡査部長および巡査としての経験だけでなく、警察の通信。記録・データ処理を担当する警部時代など、警察におけるさまざまな経験に基いています。私はその職務上、犯罪・被疑者・被害者等に関する警察の記録について主たる責任を負っていたので、警官が使用した書式や、シアトル市内で起こった各種事件の結果として作成される記録の種類についても、精通しています。

十六、もうひとつ、この話の不合理な点は、スプリンクル氏が、娼婦を尋問することなく現場から立ち去らせた、と証言していることです。事実、主張されている事件の状況は、強盗既遂または未遂の状況に酷似しています。複数の警官がこの可能性を無視して、尋問もせず、また少なくともアジア人男性が何も奪われていないこと(たとえば財布があることを調べるなど)を確かめもせずに娼婦たちを立ち去らせたのは、常識に反しています。さらに、スプリンクル氏がクロウ氏を通訳としてアジア人男性から事情を聴取しなかったのも、理解に苦しむところです。スプリンクル氏は口論を見ただけで、それに先立つ状況は目撃していないと主張しているのに、何が起こったかをアジア人男性から聞き出し適切な処理をするために、到着したクロウ氏に通訳を頼んでいないのは、信じがたいことです。

十七、1963年の時点で、娼婦との口論のために一男性を路上で拘束したが逮捕はしなかったという事件について、その結果としてなんらかのコンピューター犯罪捜査記録が生じたということも考えられません。事実、1963年には、この種の記録を入力すべきコンピューター犯罪捜査データベースはまだひとつもなかったのです。連邦政府のデータベースであるNCICができたのは1967年のことですし、その1967年の時点でもまだワシントン州(シアトルも含め)はNCICシステムに接続していませんでした。しかも、この種の事件がたとえ実際に起きたと仮定しても、NCICに入力すべき要件を満たしてはいません。私はシアトル警察奉職中に各種のコンピューター犯罪捜査データベースについて職務を行ない監督する立場にもあったので、NCICのことを熟知しています。同様に、ワシントン州の、あるいはもっと狭い地域でのコンピューター犯罪捜査データベースも、事件があったと言われる1963年3月から何年も後にようやく導入されたものです。私はシアトル警察においてその開発と運用についての職務を行ない監督する立場にもあったので、後に導入されたこれらのデータベースについても熟知しています。私は、上述のように主張されている1963年3月の事件は、それが1963年3月に起こったとしても、あるいはもっと後の時期に起こったとしても、どのコンピューター・データベースにも記録さるべき事件ではないし、入力されていないだろう、と断言することができます。これに反する主張はすべて信用に値しません

十八、私は、1960年代のシアトル繁華街周辺(7番街とパイク通りの交差点周辺を含む)におけるシアトル警察の犯罪捜査活動に精通している者として、また1960年代後半から1970年代にかけて使用可能であったコンピューター犯罪捜査データベースに精通している者として、1963年3月20日早朝に7番街とパイク通りの交差点で起こったというアジア人男性と複数の娼婦の間の事件に関する主張には信憑性がなく、あらゆる点で作り話である痕跡が見られる、と断言することができます。

日付:2000年7月14日
(署名)
チャールズ・R・コナリー



ニール・W・モロー二ー補足宣誓供述書

ニール・W・モロー二ーは、適法に宣誓の上、次のとおり供述する。

一、私はすでに本訴訟において宣誓供述書1通を作成しており、それは東京地裁に提出されたものと理解しています。その後、私は、1999年9月16日付のヴァーノン・トーマス宣誓供述書(創価学会側)を読みました。その中でトーマス氏は、私の著書『「COPS, CROOKS AND POLITICIANS」(警官と泥棒と政治家)』の中からシアトル警察資材室に関する部分を引用しています。しかしながら、トーマス氏は私の著書の記述を時期の点でも内容の点でも誤解しています。私の著書から引用された記述は、1950年代と1960年ごろまでの資材室についてのもので、1960年ごろにはシアトル警察および資材室でトップの交代と指導方針の転換がありました。1960年ごろに警察署長(CHIEF OF POLICE)に就任したフランク・レィモンは、すぐにジェイムズ・J・マッカーシーを新たに資材室長に任命し、同室の業務運営上の欠点、特に収集証拠の管理についての欠点を矯正させました。私の強い意見として、これは当時のシアトル警察のメンバーの多数が同意していることですが、ジェイムズ・マッカーシーは証拠の管理をはじめ資材室のいろいろな面に見られた従前の問題に効果的に対処しました。私が上記著書の40ぺ−ジで述べた記述は、ジェイムズ・マッカーシーが室長となった1960年ごろより前の資材室についてのものです。

二、しかも、私の記述した資材室の問題点というのは、主に証拠の管理についてのものであり、警察の資材・備品(バッチ、拳銃等)についてのものではありません。私が調査し同警察で確かめたところでは、資材室から行方不明となった1600挺の火器は、主に取締りの過程で押収した火器でした。たとえば、物証として押収した銃が、公判中裁判所に提出できるようにするために持ち出される場合はよくあります。このような場合に、1950年代のシアトル警察では、裁判所が銃をどう処分したかについて資材室が適切な記録を取らなかったために、銃が行方不明になってしまうのでした。1960年ごろに資材室長となったジェイムズ・J・マッカーシーは、この種の問題の大部分を矯正しました。

三、トーマス氏はまた、ロナルド・スプリンクルがシアトル警察から軍務休職を認められた後に非公式に職務に戻るのはしごく簡単なことであっただろう、と主張しています。彼はさらに、スプリンクル氏が制服を着て夜間シフトに就ける状態で現れれば、担当巡査部長(SERGENT)はそのまま彼を勤務リストに載せ、配属先を決めただろう、とも言っています。この主張は私の知識と経験に反するものであり、いかなる根拠でトーマス氏がそんなことを言うのか、理解できません。スプリンクル氏は警官として行動する権限さえなかったのですから、そんなことをすれば警察の規則に違反することになります。この種の違反はもし発見されていれば、スプリンクル氏とそれを認めた巡査部長の双方に重大な結果を及ぼしたはずのものです。事実、私は1960年代初めに、ある私服刑事が、覆面パトカーを運転していて、ある市民に交通違反で停止を命じたという例を覚えています。私服刑事はこの時シアトル警察の現役メンバーであり、停車を命じる法的権限を持っていたにもかかわらずこの件は警察署長フランク・レイモンの怒りに触れました。交通違反は私服刑事が関与すべき事件ではないとされていたからです。レイモン署長は処罰として、この警察官から刑事の資格を剥奪し、減給の上、交通部に転属を命じました。ロナルド・スプリンクルの場合、規則違反の程度はこの例よりもずつと重大で1963年当時も署長であったレィモン署長が不問に付すはずがありません。ロナルド・スブリンクルには、軍務休職で警察を離れていたために警察権限がなかったというだけでなく軍務休職に赴く前の彼の配属先は屋外射撃練習場のスタッフだつたのです。警察から給与も受けていない軍務休職中に、彼が第一区でのバトロールを行なう許可を得たということは考えられません。

四、スブリンクル氏が1963年3月20日にいわゆるシアトル事件に関与したという主張はそれ自体おかしいということがわかるもう一つの側面があります。私の理解するところでは、スプリンクル氏は1963年3月20日早朝、第123号車における自分のパートナーがヴィクター・メイリーであり、メイリーは別のパトロール班からのリリーフ警官であったと宣誓証言しています。そしてスプリンクル氏が第一区に配属されたのは、軍務休職から復帰し1963年5月6日が最初です。軍務休職に入る直前の配属先は警察の屋外射撃練習場でした。別の班からのリリーフ警官が、それまで屋外射撃練習場へ配属されていた、軍務休職中の人間といっしょに第123巡邏区域のパトロールカーに配属されたなどということは全く信じ難いことです。実際この主張にはさらにおかしな点があります。つまり、第123号車は非常に忙しいパトロールカーで、乗務する警官にはかなりの技能・経験が必要だったということです。私は1960年代初めに同地域で監督官を務めた経験がありこのことを知っています。また1950年代の末にはしばらくの間、私自身がレギュラーとして123号車に乗務していました。ですから多数の理由かららして、1963年3月19日夜から1963年3月20日早朝にかけて、スプリンクル氏とメイリー氏が組んで第123号車に乗務していたと考えるのはおかしなことです。スプリンクル氏は当時軍務休職中で警官としての権限が全くなく、またメイリー氏はは第123号車にレギュラーとして乗務する警察官らの班には所属していなかったからです。

五、(創価学会側が提出している)トーマス氏の宣誓供述書もブルーベック女史の宣誓供述書も、シアトル警察人事局、シアトル警察年金局、シアトル警察資材室、そして、アメリカ合衆国軍から提出されたスプリンクル氏に関するさまざまな記録が指し示す最重要点に触れていません。これらの記録類は、スプリンクル氏が1962年10月末ごろから1963年5月初めごろまで軍務休職でシアトル警察を離れていたという点ですべて一致しています。私の前回の宣誓供述書でも検討したとおり、これらスプリンクル氏に関する記録の内容がすべて一致していることが、そのまま各記録の正確さを保証しているのです。資材室のスプリンクル氏に関する諸記録が、彼が軍務休職に赴く際に警察備品を返納したこと、軍務休職から戻った時に重要な警察備品を貸与されたことを示しているという事実は、記録の作成保管の不備という見地からは説明しようのない事実です。これら記録は多くの異なる部局によって作成保管されているものであり、トーマス氏及びブルーベック女史の宣誓供述書が主張しようとしているような記録作成保管上の不備があったとすれば、その内容がすべてみごとに一致するということは考えられないことです。

日付:1999年10月19日
署名
ニール・W・モロー二ー


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