●日本の法華講員へのメッセージをどうぞ―――住む国や言葉、習慣などが違っても、同じ日蓮正宗の信徒として、力を合わせて広宣流布のためにがんばりましょう。私たちも、明年の「宗旨建立750年慶祝・海外信徒総登山」に1人でも多くのメンバーが参加できるよう、毎月、旅費の積み立てをするよう計画し、呼びかけています。日本の法華講の皆様と、大石寺でお目にかかることを楽しみにしています。
小説富士 『殿中問答(1)』
「日蓮殿は明日、殿中に参上するとの返事であるか」
「さようでございます」 家司の平左衛門尉頼綱が答えた。
北条時宗は言葉を続けた。「あの日蓮殿が、父時頼に面会申したのが、今を去る14・5年前と聞いておるが、その時より、他国侵逼(しんぴつ)の難ということを申しておったとか。それがよもや蒙古襲来ということになろうとは…」
頼綱は、時宗の言葉を受けると、返事のような、また独り言のような言葉を続けた。「私も念仏の一門徒。文応元年より彼を目の敵として、まず手始めは日蓮が『立正安国論』を故最明寺殿(時頼のこと)に献上した日より、忘れもしない41日目の8月27日に、手勢3千人をもって夜打ちをかけましたが、火遁の術でも心得てかおったか、彼の法師は無事に逃れてしまいました。不思議な法師でございます。殿には、まだその時はわずか10歳の御時ですから御記憶は薄いと存じますが、いかがでございましょうか…」
「…………」子供扱いにされても、時宗はいかんともすることができない。だから時宗は、子供の時分から、この家司の言うことは一応は黙って聞くことにしていた。この頼綱は、前にもふれたことがあるが、時宗の父・時頼、時宗の長男・貞時と、3代30余年家司の職を去らず、ついには我が子を将軍に立てようとの野望を抱く。結局、その陰謀露顕して、父子もろとも殺されたのが、宗祖滅後12年の永仁元年4月22日のことであった。さて、北条一門において、危うくは執権職をもしのぐ頼綱の言葉に、彼が何を言い出すか、時宗にとっては黙って聞いておるほうが得であった。
文永11年3月7日、所はたそがれどきの時宗の書院である。雨を催すのか、落花した桜の花びらを敷きつめた池の面に、時々、鯉の飛ぴ上がる音が、静かな宵の沈黙を破るのだった。頼綱にしてみれば、今年24歳の時宗は執権職には違いないが、もう15年も家司を務めている自分から見れば、まだまだの感があったのは、やむを得なかった。
「伊豆の伊東に3カ年の流罪を申しつけられて、もはや幕政に口を閉じるかと思いました日蓮は、かえって逆にいよいよ蒙古襲来を唱えて人心を撹乱いたしますので、竜の口で斬首しようといたしましたが…」
「18歳にして執権職となり、本年は24歳じゃ。政道の曲非ぐらいは心得ておるぞ」 頼綱がいかに経歴を重ねたことを誇ってみても、家司は家司、即ち執事であって、最後の決定は執権職の自分にあることを、時宗は十分にわきまえていたのである。
ただし時宗にも弱点はあった。それは自分の母であった。母は極楽寺を建てた北条重時の娘であったので、極楽寺の良観がその辺の「こつ」をよく心得ていて、こと日蓮に関しては、決して幕府を通さずに、じきじきに母親に訴えていた。今、鎌倉の生き仏と言われる良観に涙を見せて訴えられると、時宗の母親は理性を全く矢って、時宗が出した命令さえ取り消しを迫るのであった。
時宗が、文永8年9月13日、大聖人に対して、直々に「この人は咎(とが)なき人なり、追って許さるべき人である。特に丁重にせよ」との直筆を、大聖人滞在の依智の里に送ったことがあるが、これも、良観の運動が、時宗の母親や、直接その役にあたった武蔵守宣時(佐渡の領主)等の心を動かして、大聖人は佐渡の島の流罪に、約20日後にはとうとう決定したのである。母親には、頼綱以上に時宗が子供に見え、自分の意のままに時宗は動く、また、動かさねば念仏がつぶれるとでも思っていたのであろう。
しかしながら、今時宗と対談をしている頼綱は、その胸中、文永8年の竜の口の時とは、天地雲泥の相違があった。というのが、頼綱もまた竜の口の経験者であった。太刀取り、依智三郎が倒れ臥すのも、この眼で見たのであった。不甲斐なくも、自分自身もあの大変動に驚いて、4・5丁ばかり、馬もろとも思わず逃げだしたのであった。
それに呼応するがごとく、殿中より、首切るなとの命令に接したのである、実に不思議と言わざるを得ないのが日蓮である。