<2〜4面>
<5〜6面>
<7〜8面>
このたび、日蓮正宗の道場として当秘要山法宣院が高雄の地に建立され、その落慶入仏法要がこのように盛大に行われ、心よりお祝いを申し上げる次第でございます。まことにおめでとうございます。このように立派な道場が建立されましたのは、当高雄の日蓮正宗信徒の皆様が、その強い信心による自行化他の題目行によって、御本仏日蓮大聖人様の冥鑑に叶い、あらゆる障魔を破って精進された結果によるものであり、まことに尊く有り難いことと存ずるものであります。
当院の建立について私は、その山号院号を「秘要山法宣院」と命名いたしました。この「秘要」という二字は、要するに妙法蓮華経の深い意義を述べたものであります。そのなかの「秘」の一字は、人の考えや推測では知ることのできない、深い仏様の悟りを言うのであります。故に法華経方便品には、「止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり」(法華経89ページ)とも、「止みなん止みなん説くべからず 我が法は妙にして思い難し」(同98)とも説かれて、その教えの奥深さを示されております。
およそ仏様は大慈悲をもって衆生の悩みや苦しみを救い、楽しみと喜びを与えようとされていますが、これに二つの方法があります。一つは衆生の悩みに対し一時的な間に合わせの薬を与える方法であり、これは方便の導きであって、完全ではありません。したがって、仏様は必要に応じて40余年の間、華厳・阿含・方等・般若等の方便の教えを説かれましたが、そののち、法華経に至って、「世尊は法久しうして後 要(かなら)ず当に真実を説きたもうべし」(同93)と説かれ、また、ただ「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(同124)と説かれて40余年間の久しい間の方便の教えを捨て、必ず真実無上の教えを説かれることを示されたのであります。この真実の法は、仏様の深い悟りでありますから、凡人は容易に知ることはできません。故にこれを「秘」と言うのであります。
しかし、その故にその法は法界の真実の相に達し、一切の人々の悩みや苦しみを根本的に救う広さと深さが具わっております。これを法華経において「以要言之」と説かれており、末法出現の本仏日蓮大聖人は、この「要言の法」とは南無妙法蓮華経であり、それが本門の本尊と戒壇と題目であることを『三大秘法抄』に示されました。これが当院山号の「秘要」の「要」という意義であります。故に「秘要」とは、一切の世界の宗教のなかで、因果の道理に基づいた最勝最大の教えである仏教において、その根本の法たる南無妙法蓮華経を形容する語(ことば)であります。
そしてまた院号の「法宣」とは、この秘要なる法を宣することであり、妙法を一人から一人に伝えて広宣流布に励むことであります。宗祖日蓮大聖人は『聖愚問答抄』に、「如来一代の教法を擣篩和合して妙法に一粒の良薬に丸せり。豈知るも知らざるも服せん者、煩悩の病ひ愈えざるべしや(中略)此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし」(御書408ページ)と仰せられました。
上は国家社会の安危より、下は人生百般の細事に至るまで、その自在な道がこの妙法の題目に具わるのです。故に、その本体たる本門の本尊を唯一無二の正境と仰いで唱え奉る唱題の一行に、すべてが安穏成就されるとの御本仏様の絶対の御金言であります。これはすなわち、実乗の一つ善たるあらゆる教法を、撞き篩い和合せる妙法の大善に帰命するところの大功徳であり、あらゆる福徳の元であるとともに、あらゆる災害より逃れるのであります。かつて、日本の七年前の阪神大震災においても、また、当中華民国の先般、中台大地震においても、正しい信仰を持つ方々が、不思議に災難をのがれていることは、この妙法受持によって守られる現実の証拠でもあります。
特に、最近のアメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルの、あの未曽有の大惨事たるテロ爆破においても、ニューヨーク・妙説寺の法華講信徒1,700数名の方々にただ一人の被害者もなく安穏でありました。故に、妙法の功徳を体験し、身に感じたら喜びをもって、必ず人々にこの妙法の信仰を伝えていくことが大切であります。それが五十展転一念随喜の功徳であり、これは80年の間、衆生にあらゆる物質的恩恵を与え、その上、精神的な苦悩を安定させる種々の法を説いて教導する功徳に比して、その百千万億倍も勝れていると説かれております。
皆様にはこの法宣院の発足に当たり、この院は本仏日蓮大聖人の御法魂まします尊い妙法修行の道場であることを思い、常に当院に参詣され、妙法唱題をもって自らも行じ、他にも勧めていかれることを願うものであります。この当院の建立を一つの節として、当地域の信徒皆様がいよいよ信心倍増され、多くの人に大法の功徳を伝えて異体同心の上に充実した生活内容をもって、個人個人の幸福と国家社会の安寧と福祉に寄与貢献されることを心からお祈りいたし、本日の開院の言葉といたします。
来賓の方々及び法華講員の皆様、こんにちは。本日は、財団法人中華民国日蓮正宗基金会分事務所「秘要山法宣院」落慶入仏法要にあたり、畏れ多くも総本山第67世御法主日顕上人猊下の御下向を賜り、かくも盛大かつ厳粛に法要が執り行われましたことは、中華民国台湾法華講員一同、無上の栄耀であり感激で一杯です。ここに中華民国台湾全体の講員を代表し、謹んで御法主日顕上人猊下に対し、真誠なる敬意と12万分の謝意を表し奉ります。
1997年4月20日、台湾、台北市の本興院において御法主日顕上人猊下をお迎えし、御親修を賜り、落慶入仏法要が挙行されました。これは台湾広布史上最も重要なる盛儀であり、またこれが我ら講員の信心の原動力となり、それを機に台湾講員一同、猊下様の御慈悲にお応え申し上げようと決意を新たに立ち上がり、猊下様の御指南を片時も忘れず、自行化他の仏道修行に励んでまいりました。本日再び御法主日顕上人猊下を南台湾の高雄市に御先臨を仰ぎ、法宣院の新築落慶入仏法要に御親修を賜りましたことは、台湾法華講員の信心の賜であり、最大なる福運ではあります。
本興院成立後、黒沢御主管は南北台湾をかけ持ち、数々の御苦労は実に筆舌につくしがたく、また高雄市は台湾布教上、不可欠な地点であることを御確認なされ、宗門の御同意を得て、1998年につつしんで海外部長・尾林広徳御尊師の御光臨を仰ぎ、南台分院開院の法要が営(いとな)まれました。翌年、全台湾法華講員の唱題と祝福のもとに南台布教所に昇格し、並びに初代住職として堀田信宣御尊師が任ぜられ、南台湾の布教の重任を背負い赴任なされました。
かくして2年間、南台本部の折伏は他の本部よりはるかに越えました。しかれどもビルの賃貸契約が満期となり、引っ越しせざるをえない状況に立ちいたりました。このことに関し、御法主上人猊下の深い御慈悲と御理解のもとに、土地購入と寺院建築に御同意を蒙りました。建築にあたっては、南台布教所・堀田信宣御尊師を中心に、建築委員会を設置し、資料の収集、土地の視察、信徒の意見を参考に、土地購入、建築師の選定、入札等、複雑な細事にいたるまで気を配られ、2000年6月22日、黒沢御主管の導師のもと鍬(くわ)入儀式が行われました。全台湾法華講員は、特別御供養を発起し、即時行動に移り、建築資金の準備は順調に運びました。
南台布教所講員は、報恩謝徳の強盛な信心をもって唱題を継続し、力を合わせて種々の困難を克服して、ついに今年1月15日に工事が始まり、8月27日、正式に使用許可証を取得しました。施工期間中、海外部長・尾林広徳御尊師及び海外部主任・石橋頂道御尊師には、じかに御視察の上、種々の御指導を賜りました。有り難く感謝いたします。
本日、総本山第67世御法主日顕上人猊下より「秘要山法宣院」の山号と院号を受け賜りました。なお当院は、敷地面積163坪、建築面積81・5坪、総面積255坪、鉄筋コンクリートの現代式三階建一棟です。1階には事務所・会議室・倉庫・大広間及び男女別のトイレがあり、2階は本堂、3階に僧俗の居間・客間・厨房等があり、まさに立派で理想的な台湾広布の道場であります。我ら法華講員は、宗旨建立750年の慶事をめざして日々赤誠の信心に精進し、血脈付法の御法主日顕上人猊下の御指南、宗務院海外部長・尾林広徳御尊師と本興院主管・黒沢糾道御尊師の御指導を、我ら講員の信心の基本として、僧俗和合、異体同心、妙法西漸の先駆の自覚を誓願し、もって台湾および世界の広布推進を畢生(ひっしょう)の使命とし、我ら一同ともどもに一層の努力精進をいたそうではありませんか。
最後に、皆様の信心倍増と万事意のごとくあらんことを慶祝いたします。皆様、ありがとうございました。
御法主日顕上人猊下には、宗旨建立750年を目前にひかえた、たいへん御繁忙な御法務の中、血脈を御所持あそばされる尊いその御尊体を中華民国にお運びいただき、一昨日の秘要山法宣院入仏法要に続き、本日の「宗旨建立750年慶祝記念中華民国総会」に御臨席を賜り、まことにありがとうございました。その上、私共中華民国の僧俗に対して尊い御指南を賜り、衷心より御礼申し上げます。御法主日顕上人猊下、まことにありがとうございました。
また、宗務院海外部長・尾林広徳御尊師には、御法務御繁忙の中御出席をいただき、ただ今は御祝辞を頂戴し、まことにありがとうございました。宗務院財務部長・長倉教明御尊師、大石寺理事・小川只道御尊師、同じく山崎慈昭御尊師をはじめ有縁の御僧侶方、寺族の方々、またアメリカ、カナダ、香港、シンガポール、マレーシア、フィリピン、日本と、たいへん遠い中、駆け付けてくださった御来賓信徒の皆様にも、中華民国の僧俗を代表して厚く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。
中華民国に日蓮正宗の台北事務所が設立され、僧侶の常駐が始まったのが1993年であります。その後、1人目の責任者の月田諭道師が2年、2人目の毛利博道師が1年3カ月、中華民国に常駐し、広布の礎を作ってくださいました。しかしながら信徒同士はなかなか一結できず、僧侶が常駐しているにもかかわらず独自に活動する等、中華民国での異体同心・僧俗一致は非常に難しい状況でありました。
私が着任した1996年9月の頃は、まさに困難の極みでありました。御法主日顕上人猊下より着任に際して、御慈悲に満ちた優しい御言葉をいただき、悲壮な覚悟で着任した当時のことが思い出されます。もちろん、台湾の信徒は、異体同心・僧俗一致のために真剣に精進していました。常駐僧侶も必死の御奉公を重ねていました。宗務院海外部からも絶大なる支援をいただいていました。誰が悪いのでもありません。全僧俗が必死に努力を重ねていました。しかし、信徒同士の異体同心・僧俗間の和合は、容易に実現しないのが当時の状況でありました。
しかし、不思議なことに御法主日顕上人猊下の第一回目の御来台が決まったとたん、中華民国に異体同心の姿が顕れたのであります。僧俗の和合が涌現したのであります。全僧俗が必死の努力にもかかわらず、なかなか実現しなかった異体同心・僧俗一致の姿が、御法主日顕上人猊下の御来台の一事によって秘妙なる力用として不思議と実現したのであります。
それから4年、この間の中華民国における広布の前進は目を見張るものがあります。私の着任当時、わずか3000名程度であった信徒は、半年後の御法主上人猊下の御来台時には4000名を超えていました。そして、現在は5年前の4倍強の1万2500名になっています。本興院1つだった寺院も、法宣院(旧南台布教所)、中台布教所と増え、明年には東台布教所も開設され、4つの法城になります。
人材面でも、ここにいる堀田信宣師、長沢正奏師をはじめとする僧侶側の充実、また信徒側からも信心堅固かつ有能な人材が陸続と現れるようになり、今日の法華講を支えています。以前とは比べようのないこのような大躍進は、御法主上人猊下の御尊体をお運びいただくことにより涌現した不思議な功徳以外の何ものでもありません。
救護班の責任者をさせていただいています、萩原和子と申します。私は、昭和58年2月16日、17歳のときに、「この信心は、すばらしいものだから、あなたもやりなさい」と友人の母親より勧められ、何の抵抗もなく素直に入信しました。今日まで全く疑う気持ちを持つことなく、また迷うこともなくただ信じて、この信心のすばらしさを人に伝え、折伏し、共に唱題してきました。入信してから現在まで、どれだけの友人、知人に信心の話をしてきたか、その人数は200人、300人と数えきれないほどです。
当時、17歳だったときの私の夢は、「看護婦になって、アフリカで飢餓に苦しむ子供たちを救ってあげたい」というものでした。その思いから看護婦の道を志し、目標達成のために努力を惜しむことなく、常に信心を根本に看護の経験を積むことを必修の課題としてきました。
26歳のとき、アフリカには行けなかったものの、アフガニスタン難民救済のボランティア活動の要請を受け、パキスタンへ行くことが決まりました。仕事内答は、アフガン内戦で負傷された方のリハビリです。アフガニスタンの国境に近いペシャワールの地では、内戦が近づくと上空が騒がしくなり、テロが始まると数日間外出禁止ということもあり、危険が伴うということでガードマン・ドライバーが付いてのボランティア活動でした。
住む家もあり、食事も作っていただき、またボランティアだというのにお給料がスイス・ジュネーブより米ドルでいただける上、日本からもお給料が出るという生活は、私の想像していたキャンプ生活、無料奉仕とは異なり、その当時の私は納得がいきませんでしたが、今思えば、たいへん恵まれた環境であり、御本尊様の御計らいとしか思えません。どこにいても守られている自分があり、それを周囲の人たちが感じとってくれるのです。そして「どうしてあなたは、どこにいても何をしていても楽しそうなのか」と聞かれるたびに「この信心によるものだと思います」と答えてきました。
その後、パキスタンをあとにして、カナダへ行きました。そこでも、知り合うすべての方々へ、邪教の怖さ、日蓮正宗のすばらしい大功徳のお話をしてきました。その中で、一番つれしく、心に残っていることは、送ってくれるよう頼んでおいたお厨子が、日本からホームステイ先に届けられたとき、その家のカナダ人より、「ジュエリーボックス(宝石箱)か?」と言われたことでした。まさしく私の宝物入れです。その日も日蓮正宗の話を、長い時間したことを覚えています。とにかく折伏できるすべての人へ下種してきました。このように縁する方々へ、日本人に限らず話をしてきました。
また、この頃、現在勤めている東京の病院で働くことが決まり、以来、東京で暮らしています。早いもので、救護班として御奉公させていただくようになってから、今年で7年目を迎えました。昨年には、救護班の責任者にというお話があり、正直言って、私にできるのだろうかと、とても不安でしたが、救護班のメンバーに支えられ、また輸送班、整理班の方々に多大な協力をいただきながら、今日までがんばってこられました。
次の目標は目前に控えた30万総登山です。本日、研修会に参加されている全員が1人も欠けることなく、「何があってもやり抜いていく」という一人ひとりでありたいと願っています。縁あってこの正法と巡り合い、今という時を共に任務者として迎える、私たちの使命の大きさと大功徳は計り知れません。共に折伏もがんばりましよう。
また、8月19日には誠諦寺において、柳沢総講頭、井手連合会青年部長・川上副青年部長をお迎えして折伏座談会が行われることになり、私は、自身の新来者目標を10名と挙げ、友人、知人をお誘いしてみました。以前の勤め先で一緒に働いていたアフガニスタン人が、一家総出で来てくれることになり、子供を合めて12人が当日1台の車に乗り合わせ約束通りに来てくれました。イスラム教徒ではありますが、お数珠を手にして全員が御題目を唱えることができたのです。まさしくイスラム教の破折です。
もう一人の知人は、私が入信したときから、信心の話を常に聞いてくれていたアルバイト先のおばさんです。19年を経て始めておばさんのほうから、「自分は浄土真宗だけれど、正宗のお寺へ一度行ってみたい」と、誘うよりも先に書ってきてくれたので、折伏座談会へお連れすることにしました。
さらに、17年前にエジプト旅行で知り合った友人で、彼女には、「いつも私が話している信心の話を、改めてお寺で聞いてみるのはいやですか」と尋ねてみると、「別にいやではないよ」と言うのです。誘う方々が皆、「行ってもいい」というので、思わず姉に連絡を取り、「どこまで誘い続けたらよいか」と相談するほどでした。
最後にお誘いした方は、折伏座談会が行われる2日前の勤行中にふとひらめいた、旅行会社に勤める知人でした。以前その方の上司が、「あいつは素直すぎて心配なときがある」と言っていた「素直」という一言が頭に浮かぴ、「素直な人ならお寺へ行けるはず」と思い連絡を取りました。それまで信心の話を全くしたことがなかったのですが、「今度の日曜日、もし暇だったら一緒にお寺に行きませんか?」と誘ってみると、笑いながら、「いいですよ」と言うのです。「やっぱり素直な人だ」と感心してしまいました。東京から宇都宮へ行く車中、信心の話をしながらお寺へ伺いました。彼は、静岡県の出身で、大石寺のことを知っていました。また次回も誠諦寺、そして、大石寺に参詣してくれると約束してくれました。ついこの間も電話で、「こういう縁を何て言うか知っていますか。仏縁と言うの」と話しました。
結局、子供たちを含めて総勢15名をお寺へお連れすることができたのです。そして何よりうれしかったのは、信心してはいるものの、あまりお寺へ参詣したがらない父が、私や新来者を駅からお寺へ運んでくれたことでした。また、姉も義姉をお寺へお連れすることができましたなんと兄と結婚してから19年目にして初めてのことでしたので、私たち家族の中では驚くべき出来事でした。「姪と甥を折伏できた功徳だね」と家族で喜び合いました。
15名と義姉は、今回入信までにはいたりませんでしたが、皆一人ひとりが歓喜を持って帰宅され、またお寺に誘ってくれれば参詣してくれるとの約束をしてくれました。いつお寺に誘ってくれれば参詣してくれるとの約束をしてくれました。いつか必ず下種した花が咲くと信じています。この方々の折伏を貫徹するために、唱題に折伏にと精進し、御奉公になる信心の実践を行っていこうと決意を新たにしました。当日は、誡諦寺支部として新来者36名、入信7名という結果となりました。その後も、次の日、また次の日と、折伏の成果が続いています。
現在、私たちの職場では、3人の看護婦が日蓮正宗の信徒です。今年入ってきた2人の新人ナースのうち、1人は創価学会員であることが判り、すでに安部さんが、寺院参詣の約束を取っています。また、もう1人の新人ナースは、私の家に泊まりに来た際、「あっ!何で婦長さんの家に仏壇なんかあるんですか」と驚いていたので、過去に亡くなった患者さんを朝に晩にと供養していること、大切な命を預かる仕事なので毎日祈らずには仕事に行けない等、信心の話ができました。翌朝、いつものように勤行を始めると、彼女が自らちょこんと私の後に座り、手を合わせていました。
折伏中である総婦長も、今ではよき理解者として応援してくれているため、とても活動しやすい環境にあります。総婦長には、6月にできた折伏の話を、「うれしいことがあったので聞いてくれますか」と言って1時間以上かけて、入信にいたるまでの私の思い、心の変化の一部始終を話しました。総婦長は、「彼女は信心してよかったわね」とのお言葉をくださいました。総婦長は、近頃ずいぶん信心の報告を受けることに慣れたようで、素直に聞いてくださっています。すでにお数珠とお経本もお渡ししてあります。
もちろん、主任2名をお寺へお連れした報告もしました。その際、「心配されなくても、総婦長をお寺へお誘いすることはしませんから安心し配されなくても、総婦長をお寺へお誘いすることはしませんから安心してください」と言ったところ、「別にお寺に行きたくないという訳ではない」と意外な返事が返ってきたので、近いうちにお寺へお連れできると思います。このように職場の中で、御本尊様に縁して、御題目を唱えたスタッフは、半数近くになりました。
また、昨年アフリカ旅行中にケニアで知り合った現地の日本人に、インターネットを活用して、折伏中です。入信してから今日までに、眷属は20名を越えました、この方たちへは、朝晩の勤行・月一回の寺院参詣・年一回の大石寺への登山は何があっても実践していく信行をしていくようにと、常日頃、話しています。私自身は、有り難いことに清水御尊師より直接厳しい御指導をいただきながら、お山のこと、お寺のこと、そして仕事、すべてを同じようにやり抜くことこそ任務者の使命と言われていますので、30万総登山に向けてすべてをやり抜いていく決意です。
御法主上人猊下様の御指南であります、「来たるべき宗旨建立750年に当たり、30万総登山を名実ともに必ず成就なさしめ給え」(大白法512号)を日々の勤行にて御祈念申し上げ、精進してまいります。
私は1985年に入信し現在に至っています。9月11日、何十億人という世界中の人々と同じように、私の人生観も変わってしまったと言えます。私は世界貿易センターから5ブロック(区画)しか離れていないマンションの18階に住んでいて、言葉では言い尽くせない体験をしました。
事件の前の晩は一睡もできず、朝も不安な気持ちで起床しました。主人が仕事に出かけた後、私は無性に感情的になり泣きたくなりましたが、寝不足が原因でこうなっているのだと思い、朝の勤行をしました。終わったのが8時頃で、いつもこの時間になると、娘が起きてきて、私は朝御飯を作ってあげます。その日は、ロックフェラー公園に行ってブランコ・お砂場や水遊ぴをする予定でした。この公園は、世界貿易センターの2ブロック向こう側にあり、公園に行くためには世界貿易センター南ビルのロビーを通って、エレベーターで最下階に降りていかねばなりません。
しかし、この日に限って出発が遅れて、8時45分になっていました。突然大きな音が聞こえ、マンションが揺れました。私はすぐに娘のサブリナの部屋に行って娘を両手で抱き、「お母さんから離れてはだめよ」と言い聞かせました。しばらくして、救急車・消防車等のたくさんの緊急車両がサイレンを鳴らしながら家のすぐ下の道を通り、世界貿易センタービルへと向かっていきました。私はすぐに仏壇の前へ行って、何が起こったのかわからないまま、泣きながら御題目を唱えました。
しばらくして、再ぴ大きな音が聞こえマンションが揺れました。私は混乱し、怖くなりました。そこへ電話が鳴りました。法華講の友人であるブロンデル・クーパーさんからで、彼女は「すぐにテレビをつけなさい」と教えてくれました。言われるままテレビをつけてみると、画面には炎に包まれた世界貿易センタービルが映っていました。次に玄関のベルが鳴りました。近所の方で、彼女は何も言わず、私の手を取りベランダの方に連れて行きました。
世界貿易センタービルが燃えていました。それは、もうひどいものでした。紙が宙に散乱し、人々がビルの窓から飛び下り、黒い煙りが空をおおい、見ているすべてが信じられないような光景でした。午前10時頃、私たちは、最初のビルが崩れていくのを見ました。その後、間もなく2つ目のビルも崩れ去りました。瓦礫が散乱し、煙りと灰などがそこら中に舞い上がりました。人々は四方八方に逃げ始め、私は娘と一緒に部屋に戻り御題目を唱え始めました。
おそらく5時間ぐらいでしょうか、そのまま休まず唱えたのではと思います。私は2歳になる娘を瓦礫が散乱し、煙りや灰などが立ち込める屋外には出したくないという気持ちでした。このとき、マンハッタン南部地区は完全に閉鎖されてしまい、主人とは電話で話しましたが、主人は家に帰る手段がありませんでした。また、この日の午後5時頃、マンションの水道・電気・電話はもちろんの事、エレベーターも機能が停止してしまいました。
ようやく主人が帰宅して、私たちはニュージャージー州に避難しました。翌週から私は不眠症で悩み、毎日泣いては唱題しながら、なぜこのようなことが起こったのか理解しようとしました。私はなぜこんなひどい事ができるか判りませんでした。しかし段々と、これらの出来事すべてに原因と結果があるのだということが判ってきました。そしてまた、私と娘はあの日、御本尊様に護っていただいたのだということも判り、感謝の気持ちでいっぱいになりました。もし予定通り出かけていたら、おそらく時間的に言えば、あの破壊されたビルの中枢に、大勢の死者と共にいたことでしょう。
娘と一緒に今日こうして生きていられるのも、すべて御本尊様のおかげであると深く感謝しています。これから一層の決意で、この仏法を、できる限り多くの人々に弘めていきたいと思っています。
〇経過報告 本興院講頭・林徳昭氏
〇謝辞 本興院主管・黒澤糾道御尊師
中華民国台湾に御法主日顕上人猊下の御尊体をお迎えするのは、今回で2度目となります。そのたびに、私共中華民国の僧俗は、御法主日顕上人猊下から、まさに「秘妙」なる功徳を頂戴しております。「秘妙」とは、前回の御親教の折り御法主上人猊下より御染筆いただいた言葉で、辞書には凡夫にははかり知れない不思議な力を意味するとあります。
そして本日、第2回目の御親修を頂戴することができました。このたぴの御法主上人猊下の御下向により戴く功徳が何であるか、凡愚なる私には知る術もありません。しかし、御法主上人猊下が下してくださった異体同心・僧俗一致という種を、しっかりとこの台湾の地に根付かせる法統相続と人材育成、これこそが御法主上人猊下の御慈悲にお応えする道だと拝します。当地に妙法の礎を築くことが現下の我々の便命であります。そのためにも唱題を重ね、折伏に精進する中華民国の僧俗でなければいけません。その実践があってこそ、御法主上人猊下が当地に下した種をしっかりと根付かすことができるのであります。
カナダをあとにして帰国した直後、日本では阪神・淡路大震災が起こり、そのニュースを聞いた翌日には、淡路島へ行き、2カ月問ほど診療所で活動していました。そんなときに誠諦寺の御住職・清水法瑞御尊師より、初めて、本山任務のお話をいただきました。海外での活動ができなくなってしまうとの理由から、本山任務を受げることの理由から、本山任務を受けることをとても悩みましたが、折伏してくださった方に相談したところ、「法のことだからやらせていただきなさい」と言われました。清水御尊師による面接では、「そろそろ日本の地に腰を据えるように」というお話から始まり、数々の御指導をいただき、私は、救護班の任務をさせていただこうと決意しました。
宗旨建立750年という大佳節を来年に控えた今年は、「誓願貫徹の年」と銘打たれました。その「願」、願いとは「折伏成就のみ」と受け止めた私は、今年は今までにない折伏をしていこうと決意し、2001年元朝勤行では、姉と2人で姪を折伏、3月には大学生になる甥を折伏、また6月には看護婦になったときから15年間折伏してきた友人を折伏成就できました。
私は、9月の御講の参詣へも、職場において私のもとで主任をしてくださっている、2名の看護婦をお寺へお連れすることができましたまた、共に救護班として任務をさせていただき、同じ職場に勤めている安部さんも、職場のスタッフを、今年、折伏成就することができました。
ニューヨーク妙説寺信徒 カリマー・ボラバー