大白法

平成13年11月1日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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  奉安堂の建設現場より  

奉安堂11月1日(33Kb)


専唱寺復興新築落慶法要

快晴の10月10日、宮崎県宮崎市の専唱寺において御法主日顕上人猊下大導師のもと、専唱寺復興本堂庫裏新築落慶法要並びに御親教が、厳粛かつ盛大に奉修された。同寺は当初、昭和48年12月に御先師日達上人による三師塔開眼法要をもって宮崎墓園として開設され、仏知寺初代住職の岩切智順御尊師が管理・運営をされていた。その後、岩切御尊師は、この墓園内に寺院を建立することを発願され、御先師日達上人より「本地山専唱寺」の山号・寺号を賜り、昭和54年9月、御法主日顕上人猊下大導師のもと、専唱寺新築落慶入仏式が奉修され、初代住職として岩切寿英御尊師が赴任された。

ところが昭和54年末頃、正信会によって本堂庫裡を占拠され、その後、日蓮正宗に返還されたものの老朽化が進み、修復不可能なことから、無住のままやむなく放置されていた。しかしながら平成7年8月、現仏知寺住職の斎藤誠昭御尊師が専唱寺の復興を発願され、僧俗が一丸となり、以前の建物を撤去して今回新しく本堂庫裡を新築し、このたびの慶事を迎えたものである。

この法要には、随行の総監・藤本日潤御尊能化、大石寺理事・新井契道御尊師、さらには庶務部長・早瀬日如御尊能化、そして宮崎布教区からは支院長の定善寺住職・石田栄尊御尊師、副支院長の斎藤誠昭御尊師をはじめ、布教区内外より多数の御僧侶方が御出席。また法華講連合会からは総講頭・柳沢委員長、大講頭・石毛副委員長、佐藤南九州地方部長をはじめ、布教区内の各支部講頭、仏知寺信徒代表100名が参列した。

午前10時、僧俗一同がお出迎え申し上げる中、御法主上人猊下が専唱寺に御到着あそばされ、直ちに七森信泰御尊師に住職の辞令を下賜された後、布教区内外の御僧侶、信徒代表、寺族、親族の順に親しく御目通りを許された。

法要の部は午前10時半に開始され、御法主上人猊下大導師のもと、新井理事による御本尊御開扉、藤本総監による献膳の儀、説経・唱題と如法に奉修された。この後、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。

引き続き式の部に移り、米良俊雄仏知寺総代より同日の慶事を迎えるまでの経過が報告され、続いて藤本総監(宗務院代表)、石田支院長(布教区代表)、柳沢総講頭(信徒代表)より、それぞれ祝辞が述べられた。次に、発願主である仏知寺住職の斎藤御尊師より、設計・施工の業者代表に、感謝状並びに記念品が贈呈された。次いで、当寺住職に就任された七森御尊師より、御法主上人猊下及ぴ参列の各位に対して、丁重なる謝辞と今後の決意が述べられた。この後、本堂正面において御法主上人猊下による「真弓」のお手檀えがなされた。

小憩の後、御親教の部に移り、御法主上人猊下が再び本堂に御出仕あそばされ、『聖愚問答抄』のうち、御書405ページ11行目から406ページ17行目の御文について、約1時間にわたり甚深の御説法を賜った。最後に、御法主上人猊下には、本堂での代表者による記念撮影に臨まれ、同寺墓園内を見学された後、午後3時、僧俗一同がお見送り申し上げる中、専唱寺をお発ちになられ、法要の一切が滞りなく終了した



故島崎総務部長を偲んで 法華講連合会の歩みを振り返る

島崎氏遺影 法華講連合会総務部長の島崎満氏が、かねて病気療養中のところ、10月3日午後9時24分、逝去されました。享年73歳。「信徳院行満日功居士」

故島崎氏は、昭和3年5月生まれ。昭和25年4月に法華講本行寺支部の前身である「信行会」の現総講頭・柳沢喜惣次氏を縁とされて、当時、本行寺住職であられた御法主日顕上人猊下の折伏により、22歳で入信されました。以来、純真な信行に励んでこられ、本行寺支部においては、地区長、部長等を歴任され、昭和52年から平成4年まで副講頭を務められましら。また、平成2年から現在に至るまで本行寺総代を務められてきました。

また、法華講連合会にあっても、常に現柳沢喜惣次委員長の側で裏方として、様々な部門を整備し、システムを作り上げてきました。今回は、その功績を偲んぶとともに、連合会の40年になんなんとする歴史を振り返りたく、柳沢委員長、永井北関東地方部長においでいただき、往時の様子も伺いました。


故島崎総務部長の信行に徹する臨終の姿

編集室 本年4、5月の布教区別僧俗指導会で全国を回られ、法華講30万総登山ならびに御供養の推進を力一杯訴えられ、体調の不調のことは本人も自覚しながらも、自分の使命を果たしてからと心に決めておられたようです。「すべての日程を終えてからでないと病院へは行かない」とご家族におっしゃったことを伺いました。それから、記念局で作製された推進指導会のビデオに映る自分の姿を見て、「これなら誰も病気だと思わないだろう、だいじょうぶだ」と家族に言われたそうです。私も、臨終のお姿を伺い感銘し、心新たにいたしました。

柳沢 そうですね。10月3日、私は大布教区別推進指導会で四国・本門寺の控室にいたときに、家内から島崎さんの危篤の報せを受けました。終わってホテルの自室で御祈念の唱題をはじめたとき、9時24分に亡くなったという電話を受けたんですね。翌4日には広島・興福寺での指導会、5日の九州の八幡・法霑寺での指導会が終わり、その晩のうちに新幹線で新大阪まで出ておいて、翌朝一番で東京へ着いたんです。富士会館でいろいろと手配を確認して、急いで島崎さんのお宅へ行って、題目三唱して死相を見ましてね、良い相だと思いました。

枕経をあげ家族から様子を聞きますと、訪問してくれた医師に「島崎さん、入院しますか」と聞かれると「しない」と言った。医師が家族に「今晩が峠だ」と告げて帰ったのが夕方5時半。それから家族で勤行をしようということになり、御住職に電話して伺ったら、「本人の息がゆっくりになったら、本人の呼吸に合わせるように声を落としていきなさい、そうすれば大勢看取ってもいいよ」との御指導ですね。夜の勤行をし、引き続き唱題に入って1時間くらいしたら、しだいに声が小さくなって、それでも大きく口を開けて唱えていた。そして大きくひと息吸って、静かに息を吐いて息を引き取ったそうです。

永井 奥さん、ご長男一家のほか、嫁に行った2人の娘さんたちの子供たちも含め、大勢に見守られ、自ら手を合わせ御題目を唱えながら亡くなったんですね。

柳沢 そう。色も白く、半眼半口で申し分のない相でしたね。

永井 弔辞でも申し述べさせていただいたのですが、ずいぷんと島崎さんにお世話になった方は多いと思います。全国への連絡や事務的な手続きも、最初からやってこられましたし、非常に思いやりがあり、面倒見のよい方でしたので、地方には「島崎さんに本当にお世話になった」という方が多いですよ。

柳沢 支部も連合会のことも、私がどんな問題にも即答できたのは、彼がいてくれたおかげです。新たな局面に対しても、どんどん方針を決めていくと「正しくはこうなったぞ」と、全体にきちっと周知してくれますから、私は安心してパッパと即断できる。決めたはいいが、誰にやってもらおうとか、頭を抱えるようでは返事できません。だから常に一体で、顔を見れば私が何を考えているのか判る。そういう人でした。


法華講連合会黎明期各地の実態

編集室 お話に出てまいります連合会結成当初というのは、昭和30年代です。37年7月31日が法華講連合会の結成日で、その1年前、36年10月1日には全国法華講連合登山会を行い、御先師日達上人様に、連合会の在り方について御指南を賜っております。団結の動きはその数年前から始まっていたようですが、そのあたりのことを教えていただきたいと思います。

柳沢 大同団結という動きは、大正時代にも何遍かあるんですが、時の至らないために、結局まとまらないんですよ。その理由は時代背景を知らないと理解できない。そして昭和になっても、「まとまらない」というのも正解なんです。では、なぜまとまったかというと、そこに「時」ということを見逃してはだめです。一の背景は、日本国の敗戦、そこにすべてが変わっていくのです。とサラリーマン、あの当時は日傭(ひよう)取りと言った、サラリーマンが増えて、労働組合もできたりした。それと、もう一つの背景が、急激に大きくなってきた創価学会に対する危機感です。それで、法華講も大会をやろう、それもいいが、とにかくまとまって話し合えと、親睦会みたいな形から話が始まるんですよ。

永井 そう、当時はまだ牛車が行き交うような時代でしたね。牛車は2輪で67・5キログラムの米俵が10俵くらいしか積めない。そのうち4輪車の馬車が普及して倍の20俵積めました。また、長距離運送は船で100表以上積めました。だから、霞ヶ浦湖畔の土浦のような街が発展していた、そんな時代ですよ。法華講のあるお寺も茨城は本証寺、富久成寺、本妙寺。群馬は本応寺、栃木は信行寺、蓮行寺、浄円寺、それだけでした。あっても、お寺ごとバラバラでしたから、「まとまっていく」という考えはなかったんじゃないでしょうか。

柳沢 北海道で4カ寺ですか、九州も法霑寺、立正寺、霑妙寺、法光寺くらいですね。

編集室 先師の、昭和36年の御言葉を拝読させていただきます。「今まで法華講がパラパラであったのが、今日より合同していろいろやって行けると考えますと、誠に喜ばしい事と存ずるのでございます。又、先程午前と午後の2回の御開扉におきまして、皆様の名簿を一人一人御回向申し上げたのでございます。しかしまた東京あたりの講においても、載っていない講が目につきます、これは非常に残念と存ずるのでございます。何も必ずしも全部を統一してと申すのではありません。しかし、とかくパラパラであれば、いろいろの事は出来ません。大聖人様も異体同心抄をおつくりになった。即ち日蓮が弟子旦那は数は少なくとも異体同心であるから、何事も成就出来ると、仰せになっておるのであります。

今、創価学会が200万世帯にもなって、あの増々大きく進んで行くのは、一つの団体として行動して行くからであります。それよりも古い、昔からある法華講が未だ10万世帯にならない位でおっては、実に恥ずかしいと思うのであります。それもみな各寺各地方において、各々行が別々であるからであると考えられるのでございます。・・・最近東京において連合会を組織して、一つの団体となって行動した、非常にうれしく思っておったところ、今度は九州、関西、静岡、或は北海道の方へと、だんだん延びて行って全国の法華講が統一行動において、折伏をして行くというふうになって行けば、学会とともに、又恐ろしい勢を持って正宗の信徒が増えて行くのではないかと考えるのでこざいます。」(大日蓮189号)

この御言葉に、団結していきなさいという御法主様の深い御心を、また、御法主日顕上人猊下よりは平成8年に、やはり連合会についての御指南を戴きました。法華講は御法主様の御慈悲のもとに今日があることを強く感じました。

柳沢 今の御言葉のその後に、もっと前進するようと仰せになるんです。私は「これはたいへんだ、もっともっと急がないと」と思ったんですね。たいへんですが、しかしまた、4億人の民衆をまとめ上げた人物も中国にいる。これだけの伝統のある法華講がまとまらないわけがない、という信念ですね。

永井 昭和37年4月24日、総登山を行いまして、大化城で法華講連合会結成準備会を行い、分科会を作ってやっていました。このときも、どこが中心になるのかということで揉めましたね。委員長さんが司会でしたね。

柳沢 そう、憶えていますよ。私も語気強くしかりつけるような調子だったね。当時は講頭名簿もなく、古いお寺は、いつ結成したかの記録すらも判らない。あの頃から島崎さんが裏方です。こういう会合の会議録をまとめたり、全国へ連絡を発送する必要がありますからね。

編集室 そしていよいよ昭和37年に法華講連合会が結成します。規約は1年後の38年でした。38年6月20日の大白法(10号)には、当時企画部長だった柳沢委員長さんがインタビューに答えて、「この度、組織の件について許可証をいただいた以上は、立派な一つの組織でなければなりません。組織は命です。この点に立って、各地区(※現在の地方部)ごとに、また地区傘下の支部の、一人一人の考え方も大きく変わっていかなくてはならないと思います」「まず、第一に各地区の現況を検討し、そのもとに各地区の機能の発育を強化し活動を活発にしていくこと。第二に、組織機能の原動力たる青年部の結成強化。第三に折伏態勢強化のための方針と検討。以上3つが、少なくとも7月までに早急な問題です」とあります。

あわ慌ただしい話で、走り出しながら隊列を整えていった様子がよくわかります。また、公約していた機関紙の『大白法』の発行も、素人の集まりの中で産声を上げ、まさにやっと繋いできたという状態でした。その様子は500号記念に委員長さんにお書きいただいた中にあります。

柳沢 その裏方にも島崎さんは加わっているんですよ。

編集室 はい。創刊号、第2号と委員長さんの御自宅で青年部が発送作業したのを、第3号から島崎夫妻がすることになり、毎回、夜なべでインクで真っ黒になりながら新聞を折って、翌日の勤務の昼休みに郵便局に持ち込んでおられたり、また、経理も担当されたそうですね。

永井 ともかく、出来上がっていた組織ではなかった、たいへんな苦労だったですよ。


連合体と統合体 運営理念に大きな問題

編集室 この後、法華講連合会の運営理念の上に大きな問題が起こってきます。その統合体と連合体の問題は、当時の法華講の在り方に対し総本山が心配されて、「日蓮正宗は古来より連合体ですよ」とご注意をいただいたわけですね。

柳沢 当時、このことは難しかった。自分たちが生活している上に、行政も教育も職場も、その他、目にするもの、皆組織体ですよね。ところが、当時、横のつながりを考えて信心している人はいない。しかし「連合体」は横の繋がりのことなんです。我々も世間の組織がみんな上下関係の統合体であるから、これが常識です。統合体、連合体という問題が出てくるもとは、ここなんです。我々は、創価学会の方は僧侶不在、法華講には御僧侶がいる、あとは違いがなく世間の統合体組織と同じで、どこが悪いんだろうと思っても、この統合体、連合体ということ、組織のことを真に知っている人がいなかったんです。

そこで私は、統合体と連合体、組織について考えました。歴史上のフランス革命、その後の共和制から始まって、ロシア革命、アメリカの合衆国制度、日本の武家政治等々、どれを見てもだめ、答えは出ない。そのうち、この問題は信心から出てきているんだから、総本山には何かあるはずだと、「山法山規」は『遺誡置文』『化儀抄』が土台になっていることの御指南を思い起こし、考えていきました。

また、当時から私は輪廻(りんね)する歴史観を持っていましたから。煩悩の問題は放っておけば流転(るてん)する。つまり満つれば欠ける、これは煩悩による。そこに乱世から平和に向かうときは統合体のほうが妙味を発揮する、立ち直った平和をいつまでも維持するには連合体のほうが大事となる。したがって、最初から連合体のままで、維持続行するんだという組織の運営は凡智ではできない。そこに聖人、賢人が出て来て流転にならない、つまり乱世にならないように「化儀」を作ってくださるのである。

そうは言っても末法の衆生の集まりですから、500年、1000年とたてば乱世の兆侯が出てくるんです。そこに、そのお方の御出現まで化儀をいじるなということ。つまり、絶対に化儀に「私」を入れてはいけない。聖人、賢人が「これで行け」としてくださるんだと思ったら豁然(かつぜん)としました。「化儀いじるな」というところに、総本山が今日まで守られてくる山法山規に、私は心から敬服ですね。また、学会がやったことがどこがいけないかも、これではっきり判りますね。

編集室 明年の「宗旨建立750年法礎建立の年」を迎えるためにも、私たちはこのことを正しく認識しなければなりませんね。統合体は間違い、縦糸と横糸で布を作るという御法主上人猊下の御指南にしたがっていかなければいけないということですね。


昭和55年 新体制の法華講連合会へ移行

編集室 そして昭和55年の新体制ですが、これは旧執行部はもとより、全国から柳沢委員長への誤解というハンディを背負ってのスタートでした。

永井 当時のことは、我々にも判らなかったですね。お寺にいけば、檀徒が大勢入って来ていて、御講や法要の際も前の方に席を占めて、池田大作の悪口に終始していたんです。また、新体制の連合会は、ほどなく潰れてしまうのではないかという噂も流れていて、一体法華講はどうなってしまうんだろうと心配しました。

だろうと思いました。私はいよいよになれば、200世帯くらいの支部だ、一度潰れたら作り直すしかないと肚をくくったりもしました。それくらい、あの頃は混乱していましたよ。

編集室 その中を連合会の組織、大白法も、急いで修復していきましたね。

柳沢 そうですね。法道院から観妙院様のおかげで阿部唯七郎前委員長と田島孝之庶務部長が出てきてくれました。これは観妙院様が危機感を抱いて先頭に立ってくださったということ。それほどに、法華講は累卵(るいらん)の危機だったということです。本行寺からは私が総務部長、島崎さんが会計部長で出ました。新体制になってから最初の3年間にわたって、大化城における正月の初登山会の、全国登山者の幹部指導会には、藤本総監様が御臨席くださり、次第に整っていったんですよ。また、地方に、私には人間関係が要所要所にありましたので、急速に立て直していけたのです。

連合会は、謗法気があってはだめですね。第一、お金もない何もないで信心第一の所に、謗法気のある人の入る余地はないんですね。また、謗法気のある人が入ってきても務まらないんですよ。この時からずっと島崎さんは会計をやってくれましたが、事故をおこしたことがありませんでしたね。金には魔がついてくるものです。しかも、大きな御供養も何度かありましたし、長い間務めてくれていましたが、一度も事故がない。金銭関係は信用ですから、一度でも事故を起こしたり、また、誤虜化したらだめですね。

永井 それと、何事に為いても人任せにしない方でした。弔辞でも述べましたが、私が「スタッフを作って事務をさせなくてはならないですね」と言いましたとき、とても叱られたんです。そのときは私は何を叱られたのか判らなかった。しばらくして、私の世法的な考えをしていることを叱られたんだと判りました。長は人任せにせず、常に全体観に立って、少しも失敗のないように心がけるべきだということを教えて下さったんですね。

柳沢 島崎さんとは51年問、いつも一緒に、「猊下のお考えを具体的に実現するには」と、そのことを考えてきました。そして私が非難囂々(ごうごう)の中をビクともしないでやってこられたのは、様々な形で彼が支えてくれたからです。


いよいよ一段と奉安堂建設御供養を推進

編集室 島崎総務部長さんは、幾多の大きな御供養に、事務方はもちろんですが、推進にも全力で当たられました。

柳沢 それは、自分自身が御供養の功徳を知り尽くしているからです。また、こうやって御供養のことを言いなさいというと、ストレートにきちんと言える。常に一体ですからね、御供養の推進を話すのに説明が付くのは、正直でなく境界が低いからなんですね。

編集室 このたび、奉安堂須弥壇の埋納窒に、御供養者名簿が奉納されることが決定したと伺いました。

柳沢 宗旨建立750年慶祝記念局の常任委員会で、このほど総裁・御法主日顕上人猊下の御指南のもと、連合会ではそのように連絡をいただいております。

永井 このことは大変な喜びですね。記念局の決定ですから、責任を持ってみんなに知らせていかなければなりません。思ってもみなかった御法主上人猊下、御当局のお計らいですから、自分たちの発想で推進していたんではだめですね。

柳沢 功徳を積ませてくださる、その深い御心を判らないとだめです。御供養の功徳は三世にわたるのですからね。

永井 推進をしている姿を見ただけで、本気かどうかということを相手が感ずるんですよ。

柳沢 そうです。私は全体として昨年の1.5倍から2倍の御供養を奉っていこうということですから、一人ひとりが自分の縁の人、組織の人など、一人ももれなく功徳を積ませていくぞという推進をしていただきたいと思います。

編集室 どうもありがとうございました。



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