大白法

平成13年12月1日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜8面>


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奉安堂建設現場より

奉安堂12月1日(40b)


御法主上人猊下御説法

妙法蓮華経如来寿量品第十六

我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 応に度すべき所に随って 為に種種の法を説く。毎(つね)に自ら是の念を作(な)さく 「何を以ってか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめん」と。


本夕は、総本山恒例の宗祖大聖人御大会式御逮夜説法の儀を奉修のところ、法華講総講頭・柳沢喜惣次氏、同大講頭・石毛寅松氏をはじめ全国法華講支部役員各位、法華講連合会関係諸役員各位、また日本国内ならびに海外各国よりの信徒各位には多数、御参詣いたされ、盛大に仏恩報謝の儀式が執り行われますことは、まことに有り難く存ずるものであります。

さて、本年はただいま訓読で拝読いたしました自我偈最終の「我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」の二偈八句について少々申し述べる次第であります。


この初めの一偶たる「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って 応に度すべき所に随って為に種種の法を説く」の文は、先の「医(くすし)の善き方便をもって」以下、良医が狂った子を治す譬えを説く文に対し「凡夫の顛倒せるを為(もっ)て実には在れども而も滅すと言う」以下、現在の、そして現実の仏の化導に譬えを合する二行半の文の中の最後の一行であり、衆生をして速やかに仏の智慧を成就せしめるために種々の方便を説くことを示す文であります。

まず初めの「衆生の道を行じ道を行ぜざる」という「道」とは非常に広い意味を持っております。一般的には、この所よりかの所へ行くという意味で、通り道、道路を言います。そして、あらゆる有情はその果報に従って種々の行為をいたしますが、そこにおのずから、その行為における原因と結果が生じ、その善因または悪因により、善果または悪果に至ります。その経過を指して善道あるいは悪道と言うのであります。

さて、大聖人様は『御義口伝』に、この「行道不行道」について、「十界の衆生の事を説くなり。行道は四聖、不行道は六道なり。又云はく、行道は修羅人天、不行道は三悪道なり」(御書1771ページ)と御指南であります。十界善悪の因果を総じて見れば、その一々に因より果への道があります。これは地獄道、畜生道等の因果をも含めて総体的に道と称する意味ですが、ただし、この文ではさらに道徳的な意味から述べられて、善を行道とし、悪を道に背き道を行わざる者、すなわち不行道として十界を分けられております。故に、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖を行道とし、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天までの迷いの境界たる六道を不行道とされるのであります。

また、次に六道のなかで善悪を分けられ、修羅・人・天の三善道を行道とし、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を不行道とされております、故に、この文に続く経文において「応に度すべき所に随って 為に種種の法を説く」とは善道を行道とし、悪道を不行道として、衆生それぞれの善悪無量の段階に従って、それを導くために種々に法を説かれることが示されるのであります。すなわち地獄・餓鬼・畜生等の三悪道の者には道徳を教え、その徳を回向せしめて三善道に導き、三善道の者には仏教中の空の理を説いて欲の結果による苦を救い、あるいは慈悲を説いて自己のみとらのことに囚われる小さな心より解放し、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を教える等であります。

これは釈尊が三十成道ののち、法華経を説かれるまでの四十余年間の方便の説法に該当します、これには人乗、天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の五乗があり、そのなかに多くの衆生に対する無量の教法が示されているので、この文に「種種の法を説く」と言われているのであります。

しかし、これら四十余年の種々の法は方便であり、法華経に至って釈尊自ら、「世尊は法久しうして後 要(かなら)ず当に真実を説きたもうべし」(法華経93ページ)と仰せの如く、法華経のみが真実でありますから、ひるがえっての爾前四十余年の方便権経は、真実の道でない故に不行道であり、行道とはまさに法華経を行ずることになるのであります。

そこで、続いて『御義口伝』に、この「行道」という意義を末法の時機の上から、「所詮末法に入っては法華の行者は行道なり、謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり、天台の云はく『仏道とは別して今の経を指す』と。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは行道なり、唱へざるは不行道なり」(御書1771ページ)と仰せられ、すなわち謗法の者は不行道であり、また南無妙法蓮華経と唱えざる者が不行道であると御指南であります。

さて、ここに示される謗法ということを考えるとき、釈尊の在世の化導においては謗法の者はほとんどおりません。『諌暁八幡抄』に、「仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに」(同1543ページ)と仰せの如く、在世の衆生は久遠以来の因縁による熟脱の化導でありますから、仏はまず方便を説いて衆生を真実の道へ誘引する手段をなし、次いでのちに法華経を説いて真実のところへ到達せしめたからであります。

しかるに釈尊滅後、特に末法においては全く事情が異なります。釈尊の化導は、最後に方便の諸経をすべて捨て去り、真実の法華経を説いて一切衆生の成仏を願われたにもかかわらず、中国や日本の各宗の祖師達は四十余年の爾前経に囚われ、誤った宗旨を立て、この釈尊のお心に背き、真実の法華経に宵いて法華経を謗っているからであります。

すなわち真言宗の弘法は大日経をもって第一とし、釈尊が自ら第一とされた法華経を第三の劣として仏語に背き、また浄土宗の法然は法華等の極大乗経について、捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、拠(なげう)てと大悪言をもって誹謗し、禅宗の達磨等は法華経等について月を指す指にして、月をよこし見てのちは用なきものと邪まに排斥をしております。さらに華厳、三論、法相等の各宗その他、これら仏法の筋道に迷った宗旨の流れを汲んだ謗法の宗教が今の世に蔓延しております。大聖人様は仏法の根本の筋目から、法華経を持ち行ずる者を行道と示され、法華経を謗るこれら謗法者の宗教・宗旨を不行道と判じ給うのであります、

次に、法華経を行ずるのはいかなる方法によるべきかについて、先程の文においては日蓮の如く南無妙法蓮華経と唱える者が行道であり、唱えざる者は不行道であると決判されました。すなわち南無妙法蓮華経こそ、釈尊が末法の衆生のために残された法華経本門の肝心の大法であるからであります。また、この法体が神力品で要言の法として結ばれ上行菩薩に付嘱されていること、さらにこの上行菩薩が必ず末法に出現すべきことは、すべての道理と文証に明らかであるとともに、特にその現証よりして、上行菩薩とは日蓮大聖人のほかにはありえないことによって、この以上の趣旨が明らかであります。

したがって、釈尊が一代五十年の説法において行道、すなわち「道を行ずる」とは法華経の本門寿量品に帰することであると説がれたのが、この自我偈の「行道」の文と知るべきであります。また末法万年の濁悪の衆生を導くために、法華経本門寿量品の肝要を取って唯一の行道を示されたのが、大聖人のこの御指南であります。


御影堂場内

次に「毎に自ら是の念を作さく 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」の自我偈最終の一偈について申し述べます。

まず「毎に自ら是の念を作さく」の文は、釈尊が寿量品において滅に非ずして滅を現じ、生に非ずして生を現じ給い、常恒に衆生を思い衆生を導かれることを述べてこられたその最後の帰結の文であり、すなわち寿量品二千余字の意義をこの文において括られているのであります。

その次の「何を以てか衆生をして」の「何を以てか」とは、衆生を導くためのあらゆる法を意味しております。それが一代五十年の小乗・大乗等の教法であります。その中心とするところは衆生に仏知見を開示悟入せしむることを説かれた法華経方便品の開三顕一と、衆生に如来長寿の仏身を成就せしめることを示された寿量品の開近顕遠にあります。そして最後の寿量品において、いわゆる衆生を無上道に入らしんとの仏の大慈悲が究竟して示されたのであります。故に、天台大師は『文句』に、「毎自作是念の下(しも)は不虚を合するを頌す。開三顕一・開近顕遠して、衆生をして速やかに仏道に入らしめんと欲し給う。これ必ず虚しからず」と述べております。

この釈尊の化導を、大聖人様は『観心本尊抄』に、「本門は三説の外(ほか)の難信難解・随自意なり(乃至)久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむ」(同655ページ)と仰せられました。故に、この自我偶の最後の文の「衆生をして無上道に入り速かに仏身を成就せしめる」と言われた内容は、この寿量品をもって初めて衆生が最上の悟りに到達することを結ぶ文であります。

そして、末法に出現あそばされた日蓮大聖人様は、結要付嘱の元意に基づく寿量品の本義の上から、この「無上」という文について『御義口伝』に左の如く御指南であります。

無上に重々の子細あり。外道の法に対すれば三蔵教は無上、外道の法は有上なり。又三蔵教は有上、通教は無上。通教は有上、別教は無上。別教は有上、円教は無上。又爾前の円教は有上、本門の円は無上(乃至)今日蓮等の類の心は、無上とは南無妙法蓮華経、無上の中の極無上なり云々」(同1739ページ)
ここに、あらゆる教えの浅深勝劣は、それぞれの段階における法門の相対により明らかとなることを説かれるのであります。

まず初めの「三蔵教は無上、外道の法は有上」とは、仏教以外のインドのヒンズー教、あるいはキリスト教、あるいはイスラム教等の諸宗教は、仏教の如く因を修して果を得るところに能化の仏と所化の衆生が一体の幸福を得るという因果の筋道を説いておりません。イスラム教のアラーの神も、キリスト教のエホバの神にも因果の道は示されず、これらの神は、ただ元からの存在と言うのみであります。しかるに仏教では、その一番初門の三蔵教においても因果という法界万物存在の絶対的な基本の道理を示しているところに大きな違いがあります。さらに、これら仏教外の各宗教は「有」という存在に執着するに対し、三蔵教は「空」の大真理を説きます。このところからも外道の教は有上、つまりそれよりさらにその上がある低い教えであること、これに対して仏教の三蔵教は無上、すなわちその上がない勝れた教えであるという判定であります。

次に「三蔵教は有上、通教は無上」ととらは、この三蔵教も空の一辺に執われており、それは現実のあらゆる事物の存在を分析して達する空なので、通教に対して有上であり、通教は事々物々の存在をそのまま含む上で、その実体の空を説く故に三蔵教より勝れておりますから無上であります。

次に「通教は有上、別教は無上」とは、通教がその所詮は空の理に止まる故に有上であるのに対し、別教は空とともに万か物存在を因縁和合の仮りのものと見る「仮」(け)の真理を立て、さらにその両面の奥に「中道」という真実の理を探って行くので、通教に対して無上となります。

次に「別教は有上、円教は無上」とは、別教は空と化の両面より離れて特別な中道を説くことにおいて、万物にわたってその絶対性が及ばない故に有上であり、これに対し円教は因縁による仮諦の事物現象のところに相対する空も、また絶対的な中も具(そな)わり、空のところにも仮と中が具わり、中にもまた空と仮の真理が互いに具わり合い、万物の相対性に即する絶対性、いわゆる即空即仮即中の円融円満の中道を説く故に無上であります。

次に「爾前の円教は有上、法華の円は無上」とは、華厳経、方等部の各経、般若経等の諸大乗経は、その教えのなかに円教が説かれていますが、蔵・通・別等の不完全な教えが混ざっており、真実の円の用きが顕れないので有上であり、これに対し法華経の円はこれらの不純物がなく、純粋な円教としての用(はたら)きがある故に無上であります。この円の用きが法華経迹門において具体的な形として二乗作仏、悪人・女人乃至、凡夫の成仏となって顕れております。

次に「迹門の円は有上、本門の円は無上」とは、法華経の前半十四品の迹門の円は衆生の心に仏界が存するという十界互具が示されますが、その仏界は始成正覚の仏で絶対性に欠けております。いわゆる水中の月の如く、根なし草の水に浮かぶ如くである故に有上であります。しかるに、本門の円は仏界の常住が示されて九界が無始の仏界に具し、仏界が無始の九界に具わって真の十界互具百界千如一念三千が説かれ、能化所化共に本有常住の仏身を成じて絶対の妙義が顕れました。故に、迹門に対し本門が無上であります。

以上、釈尊の一代経について、有上と無上の判別をもってその勝劣浅深の判定を示し給う文を拝したのであります。


さて、この上に大聖人様は「今日蓮等の類の心は無上とは南無妙法蓮華経、無上の中の極無上なり」と最終的な結論をあそばされました。この文意は、釈尊の説かれた法華経本門寿量品の大法よりなお一重立ち入ったところに無上の法体が存することを為示しになっているのであります。この理由については広く重要御書を拝し奉るところ、次の三つの意義が拝せられます。

その一つは種・熟・脱の法門であります。釈尊の寿量品は一代経中の最上の教法でありますが、久遠以来化導中の脱益の本門であります。しかるに、宗祖大聖人の弘通の南無妙法蓮華経は、その根本たる下種の本門であり、種脱相対して下種の法が脱益の本門に対して根本であるさらに一重勝れる意味があります。

第二には広・略・要の法門であります。釈尊の法華経の究極が本門の正宗分たる一品二半の脱益であり、大聖人様が『法華取要抄』において仏の在世の機根判定に約して、この脱益の化導を涌出品の略開近頭遠に属せしめられ、対する涌出品の動執生疑よりの一品二半を末法のための寿量品として付嘱されたこと、また、この一品二半が「内証の寿量品」であり、その能詮たる二千余字の詮すところは久遠元初本因名字の妙法蓮華経である意を含め、これが付嘱の要法であることを示されました。

いわゆる法華経のなかで、広の二十八品を捨てて略の方便・寿量の二品を取り、さらに略の二品を捨てて要法たる文底本因下種の妙法五字を取るのであり、これが要略相対して要法の妙法五字こそ在世の本門に対し肝要の法として勝れる所以であります。

第三には文・義・意の判釈であります。釈尊化導の文の上に二十八品として表れたのは「文の法華経」、義の上に迹門方便品は諸法実相の義、本門寿量品は久遠実成の義として表れたのは「義の法華経」で、ともに釈尊の説かれた法であるのに対し、「意の法華経」とは一部の文義迹本二門はことごとく文底久遠元初本因名字の妙法華経に会入する意であり、これすなわち意の法華経たる妙法蓮華経であります。故に、この文底の意の妙法五字が一切仏法の根本である故に、文と義の法華経に勝れる所以であります。


以上、無上道について経文および大聖人の御指南を拝しつつ述べてまいりました。けだし、この南無妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵であり、宗祖大聖人様は建長5年4月28日、日本乃至、世界の一切衆生を三世にわたって成仏せしめんがために身命を惜しまず、法華経に予言された大難に対する絶大な覚悟をもって本門の題目を唱え始められました。

故に『諌暁八幡抄』に、「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(同1539ページ)と仰せられております。

したがって、この御本仏の大慈大悲の御金言を心魂に染め、明年に迫った宗旨建立750年の大佳節に対し、妙法の深く広く我ら衆生の三世にわたる生命の奥底に透徹する大正理を仰ぎ奉り、故にまたこの妙法の力用と受持を他に向かって説き勧める折伏行の功徳の大なることを確信して、三十万総登山の完遂に向かい仏恩報謝の大菩提心を奮い起こして御精進されますことを心より祈り、本日の法話といたします。(題目三唱)


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