白雪をいただく富士を背に、着々と工事の進められる奉安堂。清浄なる真心の御供養を申し上げ、明るく一切の憂いを払い、すがすがしい命で「宗旨建立750年法礎建立の年」の新年をお迎えしていこう。
御法主日顕上人猊下御説法 『当体義抄』
(妙証寺寺号公称・入仏法要の砌)
正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居(しょご)、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是(これ)即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能(くのう)なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。
問ふ、天台大師、妙法蓮華の当体・譬喩の二義を釈し給へり。爾れば其の当体・譬喩の蓮華の様は如何。
答ふ、譬喩の蓮華とは施開廃(せかいはい)の三釈、委(くわ)しく之を見るべし。
当体蓮華の釈は、
玄義の第七に云はく「蓮華は譬へに非ず、当体に名を得(う)。類せば劫初(こっしょ)には万物に名無し、聖人理を観じて準則(じゅんそく)して名を作るが如し」文。
又云はく「今蓮華の称は是(これ)喩へを仮るに非ず、乃ち是(これ)法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙(みみょう)なれば、此の法門を名づけて蓮華と為す。即ち是法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」と。
又云はく「問ふ、蓮華は定めて是(これ)法華三昧の蓮華なりや、定めて是華草(けそう)の蓮華なりや。答ふ、定めて是(これ)法の蓮華なり。法の蓮華は解し難し、故に草花を喩へと為す。利根は名に即して理を解すれば譬喩を仮らず、但法華の解を作(な)す。中・下は未だ悟らず、譬へを須(もち)ひて乃(すなわ)ち知る。易解(いげ)の蓮華を以て難解の蓮華を喩ふ。故に三周の説法有って上・中・下根に逗(かな)ふ。上根に約すれば是(これ)法の名なり、中・下に約すれば是(これ)譬への名なり。三根合論し双(なら)べて法譬(ほっぴ)を標す。此くの如く解する者は誰と諍(あらそ)ふことを為さんや」云云。
此の釈の意は、至理(しり)は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。
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本日は、蓮成坊東京出張所が「実修山妙証寺」と寺号公称をいたしまして、その記念法要ならびに板御本尊入仏法要にお伺いをいたしました。しかるところ、関係信徒の皆様方には多数、御参詣になりまして、たいへん立派にこの法要が奉修されますことを、まことに喜ばしく存ずる次第でございます。ついては、何かこの機会に法話をするようにとの住職からの依頼がございましたので、ただいま拝読しました御文について少々申し上げることにいたします。
大聖人様の御書は四百数十編にも上り、御一生の御施化(せけ)の上から多岐多端(たきたたん)にわたって御指南をあそばされておりますが、そのどれを取っても非常に尊く大事な教え、御法門であります。
先程の法要の時に、このたび「横浜実修講」という元からの講中の名前を取って「実修山」という山号にし、また寺号の「妙証寺」にも種々の意味があることを申しました。ここでは再度、詳しく申し上げることはしませんが、その意味から「妙を証する」すなわち「妙をさとる」という意味があるのであります。そこで、それにちなんだ御書としては特に『当体義抄』が拝せられるのであり、その『当体義抄』のなかにおいても、ただいま拝読をしたところが特に肝要の意義を要点的に御指南あそばされておる部分と拝せられます。
さて、大聖人の御教えの構格という点から「証」ということの意味を拝しますと一往、三つのことの上から拝せられる意味があります。それは、特に大聖人様は佐渡の国において大事な御法門をたくさんお述べになっておられますけれども、そのなかの重要な御書として『開目抄』が挙げられます。次には『観心本尊抄』も非常に大切な御書であり、御本尊に関する御指南が多く示されております。そして、もう一つと言えばこの『当体義抄』で、この三つの御書が「教・行・証」ということの上に拝せられる意味があるのです。
「教」ということからいくと、「教」とは「教え」ということです。人間が人間としての尊厳を維持し、また幸せを正しく見つめてこれを顕していく上からも、教えということが非常に大切なのです。もし、この教えがなかったならば、人間は人間でなく、動物以下のものにもなってしまいます。今日、皆さんが立派な社会人として、また日蓮正宗の信徒として生活をしておられるのも、色々な教えによって皆様方の命が様々な意味で薫陶(くんとう)を受けておるからであり、その薫陶の内容が教えであります。
儒教や道教という教えは中国において出たものですが、それらのなかにも立派な教えがあります。親には孝(こう)、君には忠(ちゅう)、あるいは仁義礼智信(じんぎれいちしん)等の道徳などが説かれますが、このなかの一つをはずしても、色々な意味で人間としての正しい在り方からはずれる意味が出てまいるのであります。
例えば、うそを言う人があります。うそを言うことに慣れている人は、うそを言うことを少しも悪いと思わないのです。けれども、本来はうそを言うことは筋道からはずれたことであり、仁義礼智信のうちの義ということは筋道をきちんと正すことでありますから、当然、その義にはずれることになってしまいます。そういう点では、孔子や孟子等の儒教のほうからも色々な教えがあるのです。
仏法においては、さらにもっと広く深く、三世の因果の上からの教えが説かれておるのであり、その教えの上においての相対が『開目抄』に五重相対として述べられております。すなわち内外相対、権実相対、権迹相対、本迹相対、種脱相対とあるなかの、最後の種脱相対のところに大聖人様御出現の一番根本の教えが述べられておるのであり、それが、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろ(拾)いい(出)ださず、但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり」(御書526ページ)という有名な御文であります。この御文において、教えのことごとく一切を含めつつも、そこから余分なものを取り払って、末法の人々が成仏得道という本当の幸せを得るための要点を述べられているのです。
しかし、教えということがありましても、ただ教えとして聞いただけではだめなのです。これは皆さんもそうです。「今日は良い教えを聞いた」と思っても、そのそばから教えに背くことを行っていたのでは、教えを聞いた意味がありません。やはり教えを正しく守って行じていくということ、すなわち一切の教えを実践するところの「行」ということが大切なのです。
この教に対する行ということの上から、大聖人様が末法御出現の三大秘法の大事な意義をもってお示しになったのが『観心本尊抄』であります。ですから『開目抄』を教の重(じゅう)と言うのに対して、『観心本尊抄』は行の重と言われます。
『観心本尊抄』の御文がずっと長くあるけれども、そのなかで行の重においての一番の肝要は、受持に即して直ちに即身成仏の心地を開くことが明かされる「受持即観心」の法門が述べられておるところであり、すなわち、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与へたまふ」(同653ページ)という有名な御文であります。
釈尊の膨大な因行と果徳、つまり仏様と成るために修行されたところの様々な功徳、ならびに仏様と成られてからのあらゆる智慧と慈悲の一切が込められておる徳が「妙法蓮華経」という教えにことごとく具(そな)わっているのである。だから、我々がただ信をもってこの妙法蓮華経を受持するところに必ず、その功徳がおのずと譲り与えられるのである、という行に約したお言葉であります。
それから次に『当体義抄』は「証」の重ということで、法華の教えの当体の上における証(さと)り、妙証寺の証ということが示されておるのであります。このことはただいま拝読した御書に、大聖人様の大慈大悲をもってはっきりとお示しであるけれども、我々がそれをまた、ただ信の上から拝することが最も肝要なのです。これを私達の凡眼凡智、世間的な頭の上から解釈しようとしても解らないでしょう。この解らないということは、一つひとつのことを自分の頭で理解しようとしても、私どもの頭が至ってないために、仏様の御境界における法界の真理や我々の命の真理、そしてまた仏様の智慧の当体としての御本尊様の法理を信解できないのです。
「不可思議」という言葉があります。妙という字は色々な意味で言われるけれども、天台が、「妙は不可思議に名づく」(同1208ページ)と述べるように、そのうちの一つとして「不可思議」という意味があるのです。これは「不可思議」ということですから、思議できないのです。「思議」ということは、「思」は思い考えることで、「議」はお互いに話し合って論議するということです。今の世の中では、よく「対話が大切だ」とか「話し合えば解る」などという言葉も聞きますが、いくら考え、話し合っても、凡人の我見の詮索(せんさく)からは解らないのが本当の仏法なのです。ですから「証」という意味が法門の上からも非常に大事なのであり、そこが本当に確信を持てれば、現当二世の成仏得道が必ずかなうのであります。
では、御文を拝読していきたいと思います。まず「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は」とあります。やはり「正直」ということが大切です。正直というのは、正しく、まっすぐ、ということです。これは御先師もおっしゃっておりますが、正直とはどういうことかと言うと、赤を赤と言い、黒を黒、白を白と言うことなのです。昔、中国の不忠な臣である趙高が、皇帝に向かって鹿を馬だと言ったということがあるけれども、こういううそを言うのではなく、まっすぐ本当のことを言うのが正直です。それを、私がやってもいないことをやったというように言っている創価学会などは、あれはうその張本人であります。そのように正直ということが大事なのです。
そもそも、法華経こそが正直の教えです。お釈迦様は40余年間、方便の教えを色々と説かれたけれども、最後には自分が本当に悟り、また、それによって全部の人々が救われる法として法華経を説かれたのです。この仏様の心が正しくまっすぐに述べられたという意味において、法華経は正直なお経であると言えるのであります。
ですから、皆さん方もお題目をしっかり唱えていると、だんだん正直な命になっていくのです。今までうそをついても平気だった人も、一生懸命お題目を唱えていると、だんだん「私の人生は少しおかしかったかも知れない」と思えてくる。そして特に折伏をしていくと、自分の命がさらにきちんと正しくなってくるのです。そこが大きな功徳なのであります。それを、あの創価学会のようにインチキな考えでもってやっていくならば、生きているうちにも良いことはないだろうし、まして死んでからは必ず地獄、餓鬼、畜生へと堕ちていかなければならないのですから、やはり正直ということが大事なのです。
この「正直に方便を捨て」というのは、お釈迦様の一代の化導もそうですが、特に大聖人様の末法における妙法の弘通について、このようにおっしゃっておるのです。そして「但法華経を信」ずるという「法華経」は、その次に「南無妙法蓮華経と唱ふる人」とあることから判るように、南無妙法蓮華経と唱えるという意味における法華経なのです。その意味は、法華経には広・略・要の三つがあるのであり、「広の法華経」というのは、お釈迦様が説かれた序品から始まって最後の普賢菩薩勧発品までの一部八巻二十八品、69384字と言われる法華経のことであります。また「略の法華経」とは、前半十四品の迹門の中心が方便品であり、本門の中心が寿量品でありますから、この方便品と寿量品が法華経の肝要であり、これが「略の法華経」になります。
それに対して「要の法華経」というのがあります。これは、お釈迦様が上行菩薩様に付嘱された結要付嘱の大法であります。天台、伝教の釈においても一往、その外郭だけは伝えておりますが、これを末法に御出現になって、現実にはっきりとお示しになったのが大聖人様であります。すなわち『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」と御指南あそばされる、寿量品文底の南無妙法蓮華経を示されておるのであります。この御当体はそのまま御本尊なのであり、これを『観心本尊抄』において、いわゆる信行の対象となるための十界互具の大漫茶羅の御当体として本門の本尊をお示しになっております。だから「法華経を信じ」とある「法華経」は、末法において大聖人が御出現あそばされて弘められた御本尊様のことをおっしゃっていると拝さなければならないのであります。
また「南無妙法蓮華経と唱ふる」ということは、因と果において考えてみると、原因に当たるのです。我々の常識から言うと、原因があって、それからしばらくしてその結果が出るというように、普通は因と果を別々に考えております。これは間違いではありません。皆さん方もそう思うでしょう。昨日あることをしたから、今日そういう結果が出たとか、あるいは学生が学期の始まりから一生懸命に、勉強したら通信簿がとてもよい成績になったというように、原因と結果が異時に出てくるのです。
しかし、我々の常識的な形では因果が異時に出てくることは本当だけれども、仏様の万物の当体としての因果という上からは、因に即して果があると説かれるのであります。これは妙法蓮華経にしか示されない法門であり、この妙法蓮華経そのものを信ずるところに、我が身に妙法の真理・功徳が豁然(かつぜん)と顕れてくるのであります。そういう意味において、ここで「南無妙法蓮華経と唱ふる」というのは因を挙げられておるのであります。
それが直ちに「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」ということでありますが、「煩悩」というのは真理に背いておる迷いのことです。この煩悩について詳しく申し上げようとすると、いくら時間があっても足りないほどその内容は多いのです。
それから「業」は、人は煩悩によって色々な行為をしますが、真理に背いた考え方によって真理に背いた行いもするのです。それが業ですから、善いことも悪いことも色々とするのです。世間には、悪いことをしても善い結果が得られると思っている人間がたくさんおります。つまり人をだましたり悪いことをしても、隠れてうまく振る舞えば大丈夫だというような考えの人が多いのでありまして、この考えがよくありません。やはり悪いことは必ずばれるのです。
この業は、人間の行為ですから善い業もあるし、悪い業もある。悪いことをすれば必ず、その結果として今度は苦しみが来るのです。だから煩悩が因となって業になり、業がまた因となって苦しみが来る。だから「煩悩・業・苦」ということは、迷いの人々の命、生活、その姿を示しておるのであります。
ところが、悪いことをしている人は、悪いことを今までもしてきたし、今も行っているのだから、どのようにしても「煩悩・業・苦の三道」は消えようがないのです。そして、そのままずっと悪い因果、悪業を相続し、死んでからは当然、地獄へ堕ちていくことになります。
だけれども、それが今の御文では、三道が「法身・般若・解脱の三徳と転」ずると説かれるのです。つまり大善の因がそのまま仏果として、すぐにはっきりと顕れるということであります。しかし、これは法華経を本当に信じられなければだめなのです。ですから「妙法を唱えれば必ず救われるのだ」という信念・確信が自分にあれば、このことがはっきり判るのであります。
この「法身」というのは、法の上からの仏の尊い、大宇宙、大自然乃至、妙法の大真理に一如したところの身であります。ですから、法身は大きい意味があります。次の「般若」は、法を悟ったところの智慧を言います。そして、それによって振る舞われる応用自在の衆生を導く姿が「解脱」です。この「三徳」を具えた方は仏様であり、つまり末法に出現された日蓮大聖人様のお徳をおっしゃっているのです。
この「法身・般若・解脱」は、大聖人様の「人(にん)の本尊」としてのお徳である。そこに我々がお題目を唱えるところに、大聖人様のお徳がそのまま我々の身に具わると仰せであります。
続く「三観・三諦即一心に顕はれ」というのは、空仮中の三観と空仮中の三諦です。この空仮中については色々と聞かれていることと思いますが、空ということは大真理であります。また、仮も大真理であり、中も大真理です。この三つが解らないことが見惑(けんなく)・思惑(しわく)、塵沙惑(じんじゃわく)、無明惑(むみょうわく)という三つの煩悩にそれぞれ対当した形で、迷いの根本となっておるのです。つまり真理に背いた考え方の迷いがあるのですが、空仮中の三諦を正しく観ると、我々の真理に対する見方も正しくはっきりしてくるのであります。
この三諦はそのまま真理の当体ですから、これは御本尊様のことです。つまり日蓮大聖人様御図顕の御本尊様の御当体のなかには、既に空諦の意味があるのです。それからまた、仮諦と中諦の意味もそれぞれあるのであり、その全体が大聖人様の御本尊様の御当体なのであります。
ですから「三観・三諦即一身に顕はれ」というのは、我々がお題目をしっかり唱え奉るところに、御本尊様として顕し給うところの「法の本尊」の御当体がそのまま我々の命となるということです。これが本当の証、悟りであります。
悟りといっても、今の世間の人間は、本当にくだらないことでもちょっと思い付いたら、その小さな思い付きをそのまま悟りだなどと言っている人が多いのです。哲学者だとか色々な人が偉そうなことを書いていたりするけれども、それらは法界のなかのほんの一部分について、ある角度から見たことを書いているに過ぎないように感じます。本屋に並んでいる本はほとんど全部がそうだと言っても過言ではありません。このようなことを言うと、私はずいぶん偉ぶった、高慢ちきな人間に思われるかも知れませんが、大聖人様の御法門から拝すると、空仮中ということすら知らないような人々がほとんどです。だから、皆さん方がお題目を唱えながら空ということを徹底して考えることもよいことですが、その三諦はそのまま御本尊様の御当体ですから、この法本尊の御当体、事の一念三千がそのまま皆さん方の命として顕れるのであります。
次に「其の人の所住の処は常寂光土なり」とありますが、この前までのところはお題目を唱えるという妙因と、それによって「三観・三諦即一心に顕はれ」るという妙因に対する妙果、仏因に対する仏果が説かれております。しかしながら、そういう我々もただ空中にぷかぷか浮いているわけではないのであり、必ずそれぞれの受ける果報があって、それによって我々の住む国土があるのです。
それを依報(えほう)と言うのですが、我々衆生の十界の当相当体たる正報(しょうほう)はすべてが依報によって存するのです。つまり正報の存するのは国土によるという意味があるのです。ですから、正報が仏の境界を得れば、その方の住んでいる国土はそのまま寂光土になるのです。故に「其の人の所住の処は常寂光土なり」ということが言えるのであります。
また、国土といっても仏様の寂光土のような国土ばかりではなく、穣土(えど)とか悪国土、地獄の国土もあるのです。だから、地獄に堕ちた人は地獄の依報によって生活しているのであり、餓鬼は餓鬼、畜生は畜生、修羅は修羅、人間は人間、天上界は天上界の依報によって生活しているのであります。人の命には十界互具百界千如一念三千が存するのですから、そこに仏果を生ずることによって、その人の住む所は寂光土となるのであり、この寂光土は煩悩、業、苦に汚染されていないところの清浄な、光明に満ちた仏様の国土です。そして我々がお題目を唱えるとき、そのままそこに生ずることができるとおっしゃっているのです。これは因果倶時、因に即してそのまま果があるというところを信ずることによって本当の証、悟りを得ていくという大事な意味があるのです。だから大御本尊様を正しく信仰することにおいて、法本尊と人本尊、つまり妙法蓮華経と大聖人様により我々は守っていただけるのであります。
その証拠として一昨年、台湾で大地震がありました。あの地震によってずいぶん多くの人が亡くなったのですけれども、あの地域にも現在、約1000人の日蓮正宗の信徒がいるのです。しかし、そのなかにあっても日蓮正宗の信徒は一人も亡くなっておりません。
また、平成7年の阪神大震災においても多数の方々が尊い命を落とされましたが、そのなかでどれぐらい大勢の創価学会員が亡くなったものか、彼らはそういうことを発表していないので判らないけれども、聞いたところでは相当の方が被災したらしいのです。また、創価学会とは違う意味で大法に背いた正信会で不法占拠している寺の信徒では20数人もの人が亡くなっているらしいのです。それが日蓮正宗はと言えば、兵庫県下だけでも18もの寺院がありますから、震災の起こった地域にも信徒の方々は大勢いらっしゃったのです。それにもかかわらず、あれだけの大震災のなか、日蓮正宗のお寺に所属するたくさんの信徒は、そのほとんど全部が守られ、健在だったのです。これも不思議なことであります。
それから、つい最近もアメリカで貿易センタービルの災害がありましたが、あの事件では創価学会の大幹部がハイジャックされた飛行機に乗っていたのです。その人間はそれまで日蓮正宗の悪口をさんざん言っていたそうですが、かわいそうなことに、あのまま亡くなってしまいました。そのほかにも創価学会では相当数の方が亡くなっているそうであります。
ところが、日蓮正宗のほうでは現在、ニューヨークには妙説寺というお寺がありまして、そのお寺には1700人以上の方々が信徒として所属されています。しかも最近、マンハッタンの貿易センタービルから直線にして約5、6キロの所に妙説寺の布教所が開設されたのです。そういうなかにあって、近所にも大勢の信徒がいるにもかかわらず、日蓮正宗の信徒は一人も亡くなっておらず、けがを負った人も全くいないのです。これはまさに大聖人様が、「道理証文よりも現証にはすぎず」(同874ページ)と仰せになっているように、しっかりとお題目を唱えている人は必ず御本仏様と、妙法蓮華経の、人本尊、法本尊の大きな御加護を頂けるということの尊い現証として、はっきり顕れていると私は思うのであります。このように「其の人の所住の処は常寂光土なり」という御文には、妙法を受持する方の住んでいる所は、いかなる悪国土のなかにあったとしても、そのまま寂光土としての功徳を受けることができるということが明らかであると思うのであります。
その次の「能居(のうご)・所居、身土・色心、倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」というのは、寿量品の文の底に沈められた妙法蓮華経の意義の上から大聖人様がお示しであります。
まず最初の「能居・所居」というのは、この前の「其の人の所住の処は常寂光土なり」という御文を受けて、寂光土の境界を仏様の功徳の上から仰せになっておるのです。「能居・所居」とは、能(よ)く居(こ)す仏様と、その仏様が居されるところの国土という意味であります。勤行の時の御観念文に「一身即三身・三身即一身」とありますが、三身とは法身(ほっしん)、報(ほう)身、応身(おうじん)のことであり、このうちの応身の仏様の所居の国土の徳をお示しになっているのです。
次の「身土」というのは身体と国土ということです。妙楽大師は、「本有(ほんぬ)の四徳を所依(しょえ)と為(な)し、修得の四徳を能依(のうえ)と為す。能所並びに能依の身有って、能所は所依の土に依(よ)る(中略)方(まさ)に是れ毘盧遮那(びるしゃな)身土の相なり」(学林版文句会本下187ページ)と、仏様の深く広い悟りを常楽我浄という四つの徳において述べておられます。つまり、常楽我浄の本有の四徳を所依となし、修行して得たところの常楽我浄の四徳を能依となすということです。この能も所も、つまり本有の四徳も修得の四徳も共に同じく仏の身の上であり、能(よ)く依(よ)るところの身であります。それに対して、能依の仏様にも必ず国土がおわしますのであり、「方に是れ毘盧遮那身土の相なり」とあるように、その所居の土は法界全体となります。この「毘盧遮那」というのは法身仏ですから、これは法身の上の身土ということをおっしゃっているのです。このように「身土」という言葉のなかにも、それだけの深い意味があるのです。
それから次の「色心」というのは色法と心法であり、「十界を心と為すは報身なり」(御書1413ページ)ということがあります。だから、これは報身の智慧が法界一切に遍(あまね)き、その色を照らすという意味であり、色と心において一切の法界が存するのであります。そのように、これは文底の上からの仏心・仏土を示されておるのであります。
次に「倶体倶用の無作三身」とあるけれども、これは体と用というものがあり、仏の智慧は根本の法から出てくるのです。そして、その智慧によって衆生を導く意味においては、法身が根本となって報身・応身が出てくるので、法身が体で、報身・応身は用となるのです。しかし、このように三身を分けて説いてあるのは爾前迹門の教えであり、本門においてはそうではないのです。すなわち寿量品には「如来秘密神通之力」云々と説かれており、この文の「秘密」について天台大師は、「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知りたもうを名づけて密と為す(中略)仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝えたまわず」(学林版文句会本278ページ)と述べております。つまり、法身が体で、報身・応身が用というのではなく、久遠から三身そのものが体と示されるのです。そして現在もまた、法身・報身・応身の三身が用である。だから三身倶(とも)に体であり、三身倶に用であり、それが「倶体倶用」という意味なのです。これは爾前迹門の仏身に対して、寿量品の仏身を特に立て分けられております。
そして、しかも次に「無作三身」とあります。これは大聖人様が結要付嘱(けっちょうふぞく)の妙法蓮華経の御付嘱を受けられて末法に弘通あそばされる上において、本当の仏身は釈尊が文上に示されたところの三十二相八十種好の仏身ではないということをおっしゃっているのです。この「無作」とは作ることがないということで、あの三十二相八十種好(しゅごう)を具えた金ピカの仏様は作られた仏様です。わざわざ、ある機根の者に対して特別に「自分よりは偉い方だな」と思わせるところに、化導の一つの形態があるのですが、無作は一番根本の姿ですから、そういう必要がないのです。大聖人様は『総勘文抄』に、「釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟(さと)りを開きたまひき」(御書1419ページ)と仰せになっているように、その三身は色相荘厳の仏様の上の三身ではなく、凡夫即極のところに所成の三身であり、それが無作の仏であるということをお示しであります。
次の「本門寿量の当体蓮華の仏」というのは大聖人様のことです。つまり無作三身であると同時に、それが本門寿量の妙法の当体であるという意味でありますから、「本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」とお示しになっておるのであります。このように「倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏」とは末法出現の宗祖日蓮大聖人様のことですが、しかもそれは「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」ということですから、御本尊様に向かってお題目を真剣に唱え奉るところ、我が身がそのまま日蓮大聖人様と顕れるということを仰せになっておるのです。
また「是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能(くのう)なり」>とあるなかの「法華の当体」とは、法華経に込められたところの一念三千の法の本尊の功徳であります。それから「自在神力」とは自在の力用(りきゆう)という意味において人の本尊を言い、久遠元初即末法出現の宗祖大聖人様の人格的な本尊としての功能であるのです。末法出現の御本尊様にはその法本尊と人本尊との両方の功能が具わっておるが故に、正直に方便を捨てて真剣に南無妙法蓮華経と唱える方にはその功徳が直ちに具わるのです。
ところが、因と果が分かれて説かれるところには、まだ本当の教えは顕れないのです。妙法蓮華経の法体は因に即してそのまま果があるのであり、その因果倶時のところに直ちに成仏の大利益が存するというのが、この『当体義抄』の証という不思議な意味であります。
これは信がないと解りません。皆さん方も先程から聞いていて、信のない人が仮りにいたならば「何をしゃべっているんだろう」と思うかも知れません。けれども、本当の信をもって臨むならば、そこに大きな功徳があるのです。国土の上にも、先程話した地震等においてもどこにおいても、お題目を唱える人は必ず御本尊様から守られるという現証が顕れるのであります。
『新尼御前御返事』には、「末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星(すいせい)は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ」(同764ページ)と仰せでありますが、「謗法の法師」というのは何も仏教のなかだけではなく、あらゆる邪宗教の人々が含まれます。このように邪宗教に執着することによって、今度のような大変な災害が起こるのであります。現在は本当に末法の五濁乱漫(ごじょくらんまん)、闘諍堅固(とうじょうけんご)の時代に突入しているのですから、これは将来に向かっても大変なのです。やはりこういう時こそ、本当に正しい仏法を持(たも)たなければいけないのであり、そこのところを仰せになっておるのです。
また続いて、「大旱魃(かんばつ)・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱(ひょうらん)等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」(同ページ)とあるのは、昔は鎧などを身に着けたからこのようにおっしゃっているのですが、末法になると世界中の人々が様々な災難に遭ったり、争いを起こしたりするというのです。今はまさにこういう時代です。大聖人様はこれを700年もの昔にきちんとおっしゃっているのです。そして、「諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。而(しか)るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す」(同ページ)という御文が続いております。
ここには上行菩薩の再誕でなければできない御指南もありますけれども、この『新尼御前御返事』は文永12年の御書でありますから一往、まだ上行菩薩の再誕であることを伏(ふ)せておいでになる意味があります。御書を持っておる方は、またあとでよく御覧いただきたいと思います。
そういう意味において、まさに大聖人の大仏法でなければ、世の中の人々を救うことはできないのだという確信を、我々は持つべきであります。その上からも、「敢(あ)へて之(これ)を疑ふべからず、之を疑ふべからず」という御文は大切な戒めのお言葉であります。
次の「問ふ、天台大師、妙法蓮華の当体・譬喩の二義を釈し給へり。爾れば其の当体・譬喩の蓮華の様は如何」の文からは、蓮華に譬喩と当体という二つの意味があることを御指南であります。
このうちの譬喩の蓮華については「答ふ、譬喩の蓮華とは施開廃(せかいはい)の三釈、委(くわ)しく之を見るべし」という短い御文だけしかなく、そのあとはもう当体蓮華の話になってしまうのです。この「譬喩」というのは「譬え」のことで、「施開廃」とあるのは、「施」は施す、「開」は開く、「廃」は廃するということです。
今も御宝前に蓮華がありますが、蓮華の花びらがまだ開いてない、つぼみの形をしているものがあります。これが「施」の形であります。それから一番上にあるように、花びらが開くと同時に中の台が見えているものがあります。この台の中に実があるわけだから、花と実を同時に付けているのが「開」の形です。それで、蓮華の花が全部散ってしまい、台だけになっているのがあります。それが「廃」の形なのです。このように飾ってある蓮華の形にも、法門の上からの大切な意義があるのです。
この施開廃には迹門と本門の両方の立場からの意味もあるのですが、難しいことはやめて簡単に言えば、最初に方便を説く時は、まだ花の開かない、花が出たというだけの形になります。そして、法華経を説くということは花が開くということになります。そこには因と果がそのまま具わっておるのであり、先程「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は」と拝したように、大聖人様の御本仏の仏果を頂いて、直ちに因即果、凡身即仏身を成ずるという意味があるのです。それで最後に仏果を成ずるのが、蓮華の花びらが全部落ちて、それによって実が成ずるということによって示されるのであります。これは、即身成仏の上からの当体蓮華がそのまま我々の身に必ず具わるということです。この施開廃の三つにより法華経の法門が蓮華の形によって譬えられているのであり、その法華経の法門そのものが蓮華であると言われるのであります。
次の「当体蓮華の釈は、玄義の第七に云はく『蓮華は譬へに非ず、当体に名を得。類せば劫初(こっしょ)には万物に名無し、聖人理を観じて準則して名を作るが如し』文」というのは、蓮華は「譬え」ではなく「当体」であるということをおっしゃっております。当体ということは、法華経の法門に示すところの事々物々です。事々物々の当体は全部、法華の法門に包まれておって、その事々物々のなかに存するものがそのまま蓮華の当体であるということであります。それは何故かというと、因に即して果が具わるところに蓮華の当体たる所以(ゆえん)があるとおっしゃっております。
また、名前ということについて類して論ずるならば、「劫初」つまり劫の一番最初においては、万物に名前はなかったということが言えるわけです。それが成劫(じょうこう)、住劫、壊(え)劫、空劫のなかで、だんだんと変化していきますから、そのなかにおいて聖人が色々な理を観ずる上において名前がつけられてくるという意味があるのです。例えば、色々な形と意味をもって、自然にそういう名前をつけてくるような意味があるのであります。
次に「又云はく『今蓮華の称は是(これ)喩(たと)へを仮るに非ず、乃ち是法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙(みみょう)なれば、此の法門を名づけて蓮華と為す。即ち是法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり』と」とあります。「法華の法門」は因と果が微妙であるという意味は、これは本当に深く不思議、幽玄(ゆうげん)な意義を持っている存在であるから、凡眼凡智をもって知ることはできないという意味です。その法門を直ちに「蓮華」と名づけたのであり、それを悟ったのは仏様ですから、その悟った仏様の境界を「法華三昧」と言うのです。
「三昧」という言葉は、あらゆるものを悟った深い境界の上において、戒と定と慧の三つが渾然一体(こんぜんいったい)となって具わる仏の深い内容を意味するのです。皆さん方が読む「爾時世尊。従三昧。安詳而起」という「三昧」は、この前の無量義経から無量義処三昧に入っていたということでありますから、法華三昧ではない意味があります。つまり、もう少し詳しく言えば、あそこでは無量義処三昧から法華三昧に途中から転じて、そこから起って方便品を説き始められたということです。その法華三昧の仏の悟りの当体が蓮華であるというのです。だから妙法はそのまま蓮華の当体なのであるから「譬喩に非ざるなり」と仰せなのであります。
次に「又云はく『問ふ、蓮華は定めて是法華三昧の蓮華なりや、定めて是華草の蓮華なりや」という質問があります。これに対して、「答ふ、定めて是法の蓮華なり。法の蓮華は解し難し、故に草花を喩へと為す。利根は名に即して理を解すれば譬喩を仮らず、但法華の解を作(な)す。中・下は未だ悟らず、譬へを須(もち)ひて乃(すなわ)ち知る。易解(いげ)の蓮華を以て難解の蓮華を喩ふ。故に三周の説法有って上・中・下根に逗(かな)ふ。上根に約すれば是法の名なり、中・下に約すれば是譬への名なり。三根合論し双(なら)べて法譬(ほっぴ)を標す。此(か)くの如く解する者は誰と諍(あらそ)ふことを為さんや』云云」と答えられております。つまり非常に機根の勝れた人は法華の法門を聞いて、それがそのまま蓮華としての当体であることを悟り、また自分自身が当体の蓮華であるということを悟るという意味であります。
ところが、機根の低い、つまり因と果を別々に考える者には、妙法の当体と蓮華ということがどうしても結びつかないのです。このことは皆さん方もピンと来ないかも知れないけれども、要するに、地獄なら地獄の因でもいいし、なんの因でもいいけれども、その因というのは今現在の自分の持っている世法の上から直面している立場であります。それは過去から来た結果であると同時に、未来に向かっての因となるのだから、本来それは一つなのだけれども、因と果を分けて考えるために目の前の因に執われてしまうのです。しかし、そこには因に即して果があり、一念三千という法門があるのです。したがって、上根はそれが解るけれども、中根や下根の衆生には解らないから、譬えで蓮華ということを示すのであるということです。
だから、方便品から譬喩品に至って上根の舎利弗一人が諸法実相の法門を悟ったけれども、そこでは迦旃延(かせんねん)とか目連とか須菩提(しゅぼだい)、迦葉はまだ悟れなかったのです。この中根の四大声聞は譬喩品で「三車火宅の譬え」を聞いて悟り、次の信解品で「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」をもって領解を述べるのです。だから、これも譬喩蓮華の一つになるわけで、そういう形でまた下根も出てくるのです。したがって、当体蓮華の法門が中心・実体であるけれども、中根や下根の衆生は譬喩蓮華を聞いてやっと妙法を得たということをおっしゃっているのです。
次は「此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す」という有名な御文であります。一番根本のところにおいては名前はなく、仏様があらゆる事々物々の名前を付したということでありますけれども、これは仏様は法界全体の事々物々の真相・真理を直ちに悟られたという意味であります。もちろん国土の自然のあらゆる面から、聖人が現れてそれらに名前をつけるということも含められておるだろうけれども、そのなかにおいても一番大事なのは「因果倶時不思議の一法之有り」というところであります。
これは先程から何回も言っておりますが、我々の生活のなかでは因と果が異なった時点において出てくるのであり、我々はそれを中心として考えておるのです。例えば、地獄のような苦しみを受けている人が、ある善いことを行うことによって、自然にその境界から脱して人間界の安楽な境界を得たとします。そうすると、あちらの因からこちらの果へと時間的にも移るわけでしょう。そういうように分けて見てしまいますけれども、本来、これは一つのものであり、その全部が元々具わっているのです。
十界互具という言葉も簡単に言えばそうであり、また一念三千というのもそのとおりなのです。つまり、心のなかに地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏という十界がそのまま具わっているのです。この十界の属性がありとあらゆる心理的な存在としてありますから、世間の色々な人が善いことをしたり、また様々な邪(よこし)まな知恵を働かせて悪いことをしたりもしますけれども、そのありとあらゆる心を大きく束ねれば、この十界に納まるのです。そして、そのすべてがことごとく、一瞬の心のなかにそのまま具わっているのであります。
この十界を分ければ、九界は迷いですから因となり、仏様は悟りですから果という形になります。それで、この仏界も九界もことごとく全部、我々の一心に具わっておるのですから、因のなかには果としての自由自在な徳が具わっているのであり、また平等な徳をも持っているのです。つまり、これはあの人にはあるけれども、この人にはないというようなものではなく、ありとあらゆるすべての者が十界互具百界千如一念三千の徳を持っておるのであります。しかし、みんなそれを知らないのであり、妙法蓮華経を信じてお題目を唱えないと、その徳は絶対に出てこないのです。
これをしっかりと信ずるというところが妙証寺の「証」という意味であります。これ以外に「証」はありません。世間の人間どもが法界全体の根本の十界の有りようも知らずに、そのわずか一部分のことについて悟ったなどと言っておりますが、ありとあらゆる念慮も一切の行業も束ねた意味で、そのことごとくがそのまま妙法の当体の蓮華なのです。
それが「因果倶時」であり、また「不思議」ということをおっしゃっています。「不思議」ということですから、我々の凡眼凡智でもって、それをいくら理解しようとしてもできるはずがないのです。だから、そのことで「私はこれほどに莫迦(ばか)な人間だ」と考えたり、また逆に「私は全部解っている」と思ったりする人もいるかも知れないけれども、そのどちらも間違いなのです。これらは過去の因縁によって現在の一切が存するのだけれども、そのことごとくに十界互具百界千如一念三千が具わっているのであります。だから、偏(かたよ)った考えを持っている人はその偏った考え方のなかにおいて自縄自縛(じじょうじばく)して動きがとれなくなってしまいますから、最終的には正しい教えを信ずる以外にないのです。要は「不思議の一法」だから信ということが根本になるのであり、「之を名づけて妙法蓮華と為す」とあるように、この妙法蓮華の教えはそのまま仏様の悟り、実体なのであります。
次の「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し」として、妙法にあらゆるものが具わっておるということは、これは妙法の体を意味するわけです。先程の「之を名づけて妙法蓮華と為す」というのは名玄義をお示しであり、ここは十界三千の諸法が具わって一切、欠けるところがないと、その体を示されているのですから体玄義を顕されているのです。
そして「之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」とあります。普通、修行によって得るという場合には、仏因によって仏果を得るというように思ってしまいますが、妙法蓮華はそうではないのです。つまり因そのものが果なのですから、因を修して果を得るというよりも、仏因と仏果を同時に得るということであります。
そして「聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり」とお示しですが、仏因仏果が即、また「妙因妙果」なのです。すなわち妙法蓮華経の因によって妙法蓮華経の果を直ちに、同時に感得するというのです。これは熟脱の化導においては三千塵点、あるいは五百塵点という長い御化導があるけれども、その一切の根本は妙法蓮華の一法にあるのだということで、そこにおいて末法出現即久遠元初の御本仏たる宗祖大聖人様の三大秘法が存するのであります。
すなわち「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる」ということは、そのまま本門の題目であります。また「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」というのは人本尊を証得することで、「三観・三諦即一心に顕はれ」というのは法本尊を証得することであります。そして「其の人の所住の処は常寂光土なり」というのは本門事の戒壇を我々の一身に証得することを示されているのであります。
本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法がことごとく、我々の妙法受持の一念の信行に存するということを申し上げ、また皆様方の一層の御精進と、当寺のいよいよの繁栄と寺檀和合を心より祈って、本日の法話に代える次第であります。
※この御説法は修徳院支部の川人さんの御協力で掲載いたしました。
教学用語解説【不受余経一偈】
不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)とは「余経の一偈をも受けざれ」と読み、法華経『譬喩品第三』に説かれている文です。
『譬喩品』後半の化導
『譬喩品』において、釈尊は有名な「三車火宅の譬え」を説いた後、舎利弗(しゃりほつ)に対し、法華経への信を勧めると共に、未来に法華経を弘通する上で、法華経を説くべき人と、説くべきではない人を示されました。
これは経文に、「若(も)し人信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)せば 則ち一切 世間の仏種を断ぜん」(法華経175ページ)と説かれているように、もし法華経を説いても聴いた人が信じなかった場合、その相手は法華経誹謗の大罪を得てしまうことになります。これではせっかくその人を救おうとして法華経を説いても、かえって逆効果になってしまいます。そのために釈尊は、法華経を説くべき人(可説)と説くべきではない人(不可説)を示されたのです。
このうち「不受余経一偈」の文は、法華経を説き示すべき人の例の一つとして挙げられたものです。経文に、「若し比丘の 一切智の為(ため)に 四方に法を求めて 合掌し頂受(ちょうじゅ)し 但(ただ)楽(ねが)って 大乗経典を受持して 乃至(ないし)余経の一偈をも受けざる有らん 是の如きの人に 乃(すなわ)ち為に説くべし」(同183ページ)と説かれています。
これは「僧侶にして仏の智慧を得るために、四方に法を求め、合掌しておしいただいて、専(もっぱ)ら大乗経典を受け持つことを願い、そしてその他の経典の一小句を受け持つことをしないならば、このような人には法華経を説きなさい」ということです。ただし、こうした可説・不可説という釈尊の化導は、衆生の機根を中心にして説く、迹門・随他意(ずいたい)の化導です。
本門の弘通はこれと異なり、仏と法を中心とした随自意(ずいじい)の化導です。釈尊は『寿量品』において、釈尊がこの世に生まれてから修行をして、30歳のときに仏に成ったと強くとらわれている所化大衆の認識を打ち破りました。そして釈尊が久遠の昔に修行し成仏した仏であることが示され、円満に融通(ゆうづう)して障りなく(円融無礙=えんゆうむげ)、一切を成仏せしめる、十界互具・一念三千の原理が三世常住の大法として顕れました。
言い換えれば、仏の三世常住の化導が開顕されたことにより、霊山(りょうぜん)の大衆は本仏との無始(むし)常住の因縁を悟り、自己に具わる成仏の種子を覚知して成仏を遂げました。ここに宗教的な救済が徹底したのです。こうして『寿量品』において釈尊の化導は完成され、さらに釈尊は『寿量品』で説き示した三世常住の法を『神力品』において「四句の要法」として上行菩薩に付嘱し、未来の弘通を託されました。この付嘱によって、釈尊の要法は上行菩薩が所持あそばすのです。
大聖人の化導「不受余経一偈」
釈尊の予証の通り、末法に上行菩薩の再誕として日蓮大聖人は御出現されました。この末法弘通を託された上行菩薩の本地は、実は久遠元初自受用報身如来(くおんがんじょじじゅゆうほうしんにょらい)です。
大聖人は竜の口の法難において、垂迹(すいしゃく)上行の身を払って久遠元初の御本仏の本地を顕されました。これにより釈尊より上行菩薩へ付嘱された「四句の要法」が、文上脱益の釈尊の化導より一重立ち入った文底下種、久遠元初の御本仏御所持の法体であることが明かされたのです。
大聖人の御化導を拝すると、立教開宗以来、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の四箇の格言をもって、爾前経を依経(えきょう)としているこれらの諸宗を徹底的に破折されています。大聖人は、法華経こそが釈尊一代五十年の経典中最勝の経典であり、国家社会に起こる様々な災難の原因が、邪教である爾前権教が蔓延しているためであると明かされたのです。この法華経以外の経典を用いてはならないという権実相対の御立場より、大聖人は法華経迹門の文ですが「不受余経一偈」の経文を御書の各所に用いられているのです。
また、この「不受余経一偈」の文を文底下種仏法の立場より拝するならば、末法において法華経の予証通りに御出現された御本仏大聖人御弘通の「南無妙法蓮華経」こそが、末法弘通の正体です。大聖人は御所持の本因名字下種の妙法が、大聖人の御当体そのものであることを明かされ、末法の一切衆生救済のために御身の御魂魄を御本尊と御図顕あそばされました。
したがって、大聖人御弘通の南無妙法蓮華経こそ、末法弘通の法華経そのものであり、天台宗などの法華経を依経とする宗派も「余経」として廃さなければなりません。また、今、日蓮正宗のみが大聖人の仏法を正しく伝持し、実践しているわけですから、創価学会等の日蓮正宗以外の日蓮教団も「余経」として信仰してはならないのです。
純粋な信仰で30万総登山を達成
大聖人は『日女御前御返事』に、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入(いしんとくにゅう)とは是なり。日蓮が弟子檀那等『正直捨方便』『不受余経一偈』と無二に信ずる故に因て、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何にも後生をたしなみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢(あなかしこ)。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす」(御書1388ページ)と仰せになっています。
私たち大聖人の弟子檀那は「余経の一偈をも受け」ないという謗法厳誡(げんかい)の強盛で純粋な信仰によって、自身の身の上に宝塔という妙法の仏身が顕れてくるのです。
いよいよ平成14年・宗旨建立750年の大佳節を迎えます。私たち一人ひとりが「不受余経一偈」の純粋な信心をもって、30万総登山の達成に向けて全力を挙げて折伏・育成に取り組んでまいりましょう。
この原稿は、修徳院支部の川人さんの御協力で転載いたしました。