大白法

平成14年4月16日号


主な記事

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御法主日顕上人猊下御説法
開宣大法要の砌

本年は、宗旨建立750年慶祝記念の大佳節に当たりますので、その仏恩奉讃の意義に基づき、特に本3月28日に「宗旨建立750年慶祝記念開宣大法要」を行い、また4月27・28の両日に「宗旨建立750年慶祝記念特別大法要」を行う次第であります。しかるところ、宗内僧侶有志各位、法華講総講頭・柳沢喜惣次氏ほか信徒各位、また海外信徒各位には多数、参詣いたされ、盛大にこの法要を執行つかまつることは仏恩報謝のため、まことに有り難く存ずる次第であります。

さて、本日は宗旨建立750年の記念法要として、まず本年度に当たり、この3月28日をもって「開宣」の意において大法要を行うのでありますが、これは宗旨の上の重大な見解によるものであります。したがって、この宗旨建立750年を奉修するに当たり、4月28日はもちろんのことながら、3月28日の意義をも顕彰すべきであると信ずるに至ったのであります。したがって本日の法話は、その内容として宗祖大聖人様の建長5年の宗旨建立が3月と4月にわたって拝せられることを論証し、当日蓮正宗として遺漏なき仏恩報謝を念願するものであります。


3・4月の文証

さて、この宗旨建立の御書に関する3月と4月の大聖人様のお示しについて、既に31世日因上人が『三四会合抄』上中下三巻を述作されております。その大旨は、内証と外用の二大法門をもって大聖人様の御法義を全般的に拝判するとともに、3月を内証、4月を外用とし、また日興上人の『安国論問答』の「建長五年三月」の文を基本として、古来の所伝による各御書の3月の文を改変することなく、2度の説法のあったことの会通がなされております。そのなかにはあらゆる法門を集約されてあり、高度かつ縦横に交錯する内容のため質量ともに多く、到底、一座の説法に談ずることはできません。故に、その中心・要点のみを取り、また私の卑見も加えて、なるべくやさしく3月と4月の宗旨建立について述べたいと思います。

そこで先程、拝読いたしました『清澄寺大衆中』は建治2年1月11日の御書であります。御真蹟はかつて身延山にありましたが、明治8年に焼失したとして、現在はありません。しかし、もちろん古来、真偽の論はなく、真書であることは確実であります。この御書のなかの先程拝読した部分は、大聖人様が宗旨建立について直接にお示しの文であり、この御文を中心としてさらに種々の文書の関係を拝し、宗旨建立の説法が3月と4月の2回の28日にわたって存したと、拝し奉るものであります。

そこで初めにお断りしておくことは、この御書は現在、真蹟はありませんが、その最も古い刊行本は『録内御書』に収められ、そこには先程拝読の如く「三月二十八日」となっております。故に30数年前に宗門より出版した『昭和新定日蓮大聖人御書』には3月となっておりますが、遺憾なことに先般平成6年、我が宗門より出版し、皆様のお手元にある『平成新編日蓮大聖人御書』のなか、この御書の「三月」が「四月」に変わっております。これは同『新編』中において、古来「三月二十八日」と伝わっている『大白牛車書』と『御義口伝』がそのまま「三月」となっていることからも、宗門が故意に「宗旨建立は4月のみ」との見解により改竄したものでなく、編纂関係者の単なる過失であります。もちろん全体を監修する私の責任でもあり、この点、改めてお詫び申し上げます。

したがって再刊に当たってはこれを訂正するとともに、本年さらに宗門より宗旨建立750年仏恩報謝のために刊行される、本格的な御書『平成校定日蓮大聖人御書』中の『清澄寺大衆中』では必ず「三月二十八日」とすることを申し上げるものであり、先程の拝読でも種々の関係文書および『録内御書』に基づいて、「三月」とした次第であります。

さて、ここで予備的なことにもなりますが、他門発行の明治以降の御書を一見しますと、まず明治13年12月に開版された『高祖遺文録』から以降、明治37年8月刊行の『縮冊日蓮聖人御遺文』その他、昭和に入っての各種の他門の刊行御書は、本来の所伝の御書において宗旨建立を「三月二十八日」と記されていた『大白牛車書』『清澄寺大衆中』の2書をすべて「四月」に改変しております。またその後、特に近年において宗門に関係のあった『新編日蓮大聖人御書全集』および他門の『昭和定本日蓮聖人遺文』では、やはり右2書を改変するほか、さらに古来の所伝で「三月二十八日」とある日興上人御筆記の『御義口伝』の宗旨建立の文までを、「三月」より「四月二十八日」に改めてしまっております。これはのちに述べる日興上人直筆『安国論問答』中の「建長五年三月二十八日」の記録にも反し、これらを無視するものであります。

そのようななかで、宗門には古来「三月二十八日」の意義を尊重する意見も常に存し、そのため各種の宗門関係の刊行御書中で3月と4月が一定しない形になってきたことは、はなはだ残念でありました。しかし、先師日達上人御監修の『昭和新定日蓮大聖人御書』では、古来の所伝に基づき右3書の宗旨建立の文は、すべて「三月二十八日」としてあります。

ワッペン さて、そこで3月と4月の宗旨建立に関する具体的な文言を示された御書は、3月28日の『清澄寺大衆中』と、4月28日の『聖人御難事』であります。この両書の御文に対する精密な比較検討が、日興上人の『安国論問答』の御記述との関連をも含めて、きわめて大切であったにもかかわらず、長年、宗門人が他門の『縮冊御遺文』を使用していたことと、またそのあと、あの『御書全集』を用いていた関係上、「四月」に変更されていた形をそのまま受け入れていたように思われます。そうなると『清澄寺大衆中』の文と『聖人御難事』の文がともに「四月」になっていますから、両書の宗旨建立に関する文は全く同じことを述べられているという認識となり、したがって具体的な宗旨建立の説法は4月のみであったという見解につながったのであります。

ただし我が宗門では、他門の如く宗旨建立の意義を4月の一辺倒とする考えとは異なり、『日蓮正宗要義』ならびに『日蓮大聖人正伝』等において、3月28日は大聖人様の御内証の上から宗旨建立の意義を述べております。しかしながら具体的な説法は4月28日に行われたという記述をしてまいりました。これらのことも、やはり宗門で明治以降長く使用していた他門の『縮冊御遺文』や『御書全集』が「三月」の御書のすべてを「四月」に改変したことに、少なからず影響を受けていたことを改めて感ずるものであります。

しかし本年、宗祖大聖人宗旨建立750年を迎えるに当たり、この件を深く考察するに、その中心の御書たる『清澄寺大衆中』の『録内』刊行本における「三月」の文は、軽々に変更すべきではないことを、確信するに至りました。その証拠は、日興上人の『安国論問答』の中の宗旨建立に関する文辞の意味であります。すなわち、同書に大聖人様の初転法輪の記述が、日興上人の正筆において、「建長五年三月廿八日安房国東条郡清澄寺道善房持仏堂南面シテ浄円房並大衆中ニシテ始テ此法門仰出タリ」(歴代法主全書1巻10ページ)とあります。しかも大切なことは、そこに書かれている寺の名、師匠の名、持仏堂との記、南面の語、そして対告衆の「浄円房並大衆」などの語までが、その一々の順序をも含めて『清澄寺大衆中』の御文と「少々」の2字のみが抜けるほかは全く同一であります。これは日興上人が『清澄寺大衆中』の御書を拝され、その部分を書き留められていたか、あるいはその所を明確に記憶なさっていたことにほかならず、しかもこれが池上での御講義の筆記として大聖人様御在世の時期との想定も可能でありますから、この『清澄寺大衆中』の文は元来が「三月二十八日」と大聖人様がお書きになっていたことが断定されます。

すると宗旨建立の説法は、4月28日の『聖人御難事』に相対して3月28日にも行われたことが確実となります。また、日興上人が大聖人様の御講義を記された『御義口伝』中、方便品の下の御記述で同書の古文書および古刊本たる要法寺本、妙覚寺本等のすべてが「三月二十八日」となっております。このことからも、日興上人が大聖人様の御指南により「三月」とお書きになった例証が拝され、したがって「大聖人 三月宗旨建立」と御説法の事蹟が明らかであります。このところから本日、3月・4月の真相について、種々の面においてさらに論証を重ねたいと思います。

さて、以上の如く他門が明治以降の御書および『御義口伝』において、「三月」と書かれていたのをすべて「四月」に改変していることは、取りも直さず大聖人様の宗旨建立を4月のみに特定していることにほかなりません。この理由としては、一つは『清澄寺大衆中』における宗旨建立の本来「三月」の御文と、『聖人御難事』における同じく「四月」宗旨建立の、「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内(乃至)此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて」云々(御書1369ページ)の御文につき、単にその表面的な文の形と、それが28日に行われたということのみを見て同じ事実と考え、それが3月と4月の2回にわたって行われたことは考えにくいという見解から、「三月」の御書や『御義口伝』をすべて「四月」に改めたのであろうと思います。

さらに他の一つには『聖人御難事』は真蹟が現存し、それには「四月二十八日」とあること、また『諌暁八幡抄』にも宗旨建立を意味するところの文には真蹟が現存し、それには、「建長五年癸丑四月廿八日より・・(乃至)・・只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ」(同1539ページ)との御文があること、次に真蹟は失うも『録内』の『中興入道御消息』にも、「四月二十八日」(同1431ページ)とあり、さらに『松野殿御消息』と『松野殿後家尼御前御返事』の両書には、「建長五年夏の始め」(同951ページ)、および、「夏のころ」(同1356ページ)とあって、「夏」とは旧暦で4月、5月、6月でありますから「夏の始め」とは4月を意味すること等であります。

特に右のうち真蹟として残る2書には、「四月」とはっきり書かれてあることにおいて、4月の宗旨建立が正しく、3月と伝えられたのは御書の伝承の過程における写し誤りとも考えたものでしょう。そこで「三月」とあった御書の文をすべて「四月」に改めたと推測されます。

しかし、この見解と改変は、大聖人様の宗旨建立の真実相を綿密に拝究していないものと思います。そこで以下に日興上人の御記述はもちろんのことですが、道理の上からも「三月二十八日」という御書の御記述を簡単に「四月」に改むべきではないという趣意を述べたいと思います。


28日の深義

それには、まず大聖人様が宗旨建立に当たり28日という日を、何故に選び給うたのかということより考えるべきと思います。このことを従来の史伝書では、全く考えていません。特に4月説に執われる人の見解としては、前にも述べたように、2つの月にそれぞれ28日における行事があったとは、史実の重複矛盾にしてありえないと推定するからでありましょう。しかし、よく考えると、これは考え方が逆であると思います。すなわち、28日という日の意義から3月と4月の行蹟を拝するとき、必ずしもそのような矛盾という考えに執われる必要はないのであります。

それなら大聖人様は何故に宗旨建立という、最も大切な事柄を行い給うに当たり、特に28日という日をお選びになったのでしょうか。『開目抄』に、「道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・・(乃至)・・無量生が間、恒河沙の度すかされて・・(乃至)・・結句は悪道に堕ちけりと深く此をしれり。日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず短競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし・・(乃至)・・既に二十余年が間此の法門を申すに、日々月々年々に難かさなる」云々(同538ページ)と仰せられ、実に熟慮に熟慮を重ね給い、あらゆる三障四魔の大難を覚悟の上で決然と断行あそばされたのが、建長5年の宗旨建立の大宣示であります。このような状況において、大聖人様が簡単な思いつきで28という日を定められたとは考えられません。必ずその時に至るまでの深い因縁のもとに、この日が選ばれたものと拝察し奉るのであります。

このところより重要な意義を拝されるのが、冒頭に拝読した建治2年の『清澄寺大衆中』の文であります。虚空蔵菩薩の奇瑞による大聖人様の仏法体験は、他門の諸伝記では「爾前経の菩薩だ」ぐらいに軽く見て、あまり重要視しておらないようですが、大聖人様が生知の妙悟として久遠元初の妙法蓮華経を内証の上に、本来所持あそばされ、それを修行学問によって開き給う上の誘引手段となる意味より、虚空蔵菩薩が不思議法師の彫刻により清澄山に安置されていたことこそ、仏法の不思議な縁由と考えられます。この虚空蔵菩薩を彫んだ不思議法師という名も不思議であり、そしてこの虚空蔵という名称は地水火風空の五大をおのずから表しております。すなわち虚空全体のなかに地水火風の4つが蔵されており、不動のなかに動を蔵するその活動こそ、法界と一切の生命の実相であります。

故に弘安2年10月の重大な御書たる『総勘文抄』に、「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫におわて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同1419ページ)と久遠元初の仏身につき地水火風空の本有の五大たる悟りを示されました。まさに虚空蔵菩薩はその名の如く、大聖人様の久遠元初の仏法の開顕証悟の誘引として大切な役目を果たされたのであり、大聖人様は一往の凡夫の地における研学修行の立場から、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と祈念あそばされたのであります。これについて『破良観等御書』にも、「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。其の所願に子細あり。今くはしくのせがたし」(同1077ページ)とあります。

しかるに『清澄寺大衆中』において、明星の如き宝珠を受け取り、一切経の勝劣を知ったと仰せられるその期日については、確実な御書中には一切、明示がありません。ただ、大聖人御入滅後229年に寂した円妙院日澄の『註画讃』に、「延応元年己亥十月八日巳の刻を以て十八歳にして薙染す・・(乃至)・・落髪の始め智慧を虚空蔵に祈ること三七日、六十余の耆宿、右手に明星の如くなる大宝珠を捧げ吾に授くと夢みる。自後(これより)一を聞いて十を知る」との記述があります。この8日より三七日の祈願をなされたということから起算すると、その満願の日はまさしく28日になります。諸伝記が多いなかにも虚空蔵による大聖人様の奇瑞が、28日であったことを暗示させる記述であります。

右のうち「十月八日」の「八日」とは、大聖人様の弘安5年の『八日講御書』に、「今にいたるまで二千二百二十余年が間、吉事には八日をつかひ給ひ侯なり」(御書1586ページ)とあり、あるいは三七日祈願の初めの日が8日であったとの推察もできますが、大聖人様の伝記として、それも「延応元年」「十月八日」「十八歳出家」という時期を示したのは、西山日代師以下、各師が大聖人の真書ではないとし、おそらく聖滅数十年以内の成立と見られる『法華本門宗要抄』が初めであります。次に、「祈り給ふこと三七日」の記は、『註画讃』が初めてであります。

そこで『註画讃』でこれをまとめたものとすれば、その根拠は必ずしも明確とは言えず、これによって虚空蔵の奇瑞が28日とは確定はできませんが、かかる発想の意味はありうると思います。

しかしながら、正文書たる先程拝読した『清澄寺大衆中』の御文を直接徹して拝するとき、大聖人様がなぜ28日をもって宗旨建立の日と定められたかの理由を、まさにお示しになっていると拝感するものであります。すなわち虚空蔵菩薩より大智慧を給わったこと、明星の如き大宝珠を右の袖に受け取ってのち一切経を見るに、八宗ならびに一切経の勝劣を知られたと述べ給うのは、取りも直さず宗旨建立に至る大聖人様の仏法における直接の縁由を示される文であります。そして、そのあとの文に続いて「虎空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂(乃至)これを申しはじめて」とあることにおいて、大聖人様の宗旨建立の日が虚空蔵菩薩と深い関係があること、まことに明らかであり、その文意・文脈は、まさしく大聖人様が虚空蔵菩薩より智慧の宝珠を受けられたその日こそ、宗旨建立よりおそらく数年乃至、10数年前の28日という日であって、この日を特に記念せられて、大事な宗旨建立の第一声の期日に当てられたと拝察するものであります。

さて、先にも述べたように御真筆の存する『聖人御難事』また『諌暁八幡抄』は「四月二十八日」、その他『中興入道御消息』も「四月」、さらに『松野殿御消息』『松野殿後家尼御前御返事』が「夏の始め」等の言より4月の意味に取れます。それに対し3月28日の方は『清澄寺大衆中』のほか、『大白牛車書』『御義口伝』があり、また『破良観等御書』には、「建長五年の春の比(ころ)より」(同1078ページ)とあって、これは昔の暦で1・2・3月が春ですから、3月の意味に取れるのであります。このように御書の中では3月と4月の両面があり、これを素直に考えると大聖人様は3月・4月の2度にわたって宗旨建立の行事をなされたわけであります。

これはどのようなことであったかを拝するに、3月と4月という月にのみ執われず、28日という日の特別な意義、すなわち虚空蔵菩薩からの智慧の宝珠を得られ仏法の正意に達せられたことよりして、一つにはその御自身の内面的な妙法の悟り、すなわち御内証とともに虚空蔵菩薩への報恩等の念慮による、仏法の初めての開宣という一面。これに対し、さらに二つには、それに基づいて衆生を広く化導し妙法を弘通するという一面との相違が、それぞれ3月と4月の御書に極めて対照的に拝せられることにおいて、宗旨建立という大事が2回にわたって行われたという、必然的経過があったと考えられます。

故に3月と4月の2回にわたって28日に破邪顕正のお振る舞いが存在しうるのであり、したがって、また28日から見た2回にわたる仏法開示の意義が拝せられるのであります。以下、この3月28日と4月28日の御書の文辞や意味の異なりを種々の面から比較相対して、その所以を述べたいと思います。


(1)報恩の表現の有無

その第一は、報恩の御表現の有無についてであります。内面的な大聖人様のお心として、虚空蔵菩薩に対する報恩の上に宗旨建立を述べられているのは、「三月二十八日」を示される『清澄寺大衆中』と、「春の比」すなわち3月を示される『破良観等御書』であり、「四月二十八日」の各書には虚空蔵菩薩の件や報恩のことは、全く示されておりません。また宗旨建立の説法の場所が『清澄寺大衆中』の文では「道善の房の持仏堂」とあるのに対し、4月28日の『聖人御難事』では「諸仏坊の持仏堂」とあり、「道善の房」と「諸仏坊」との名称が異なっております。

つまり3月の『清澄寺大衆中』では虚空蔵菩薩への報恩とともに、得度の師・道善の房の名を挙げられたことに、その師への報恩の意味が拝せられ、このことは『善無畏三蔵抄』において、「此の諸経・諸論・諸宗の失(とが)を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし」(同444ページ)との文からも明らかでありますが、4月の『聖人御難事』では「諸仏坊」とあって「道善の房」でないところに直接、得道の師への報恩の意味から離れた坊名が拝せられます。

つまり、このことは3月の28日の御書にのみ虚空蔵と道善房への報恩の意義、すなわち八宗・十宗の勝劣はもちろん、その元の法華経を証悟された誘引手続きとして、虚空蔵より智慧の明珠の感得、道善房による直接の得道の恩恵に対する報恩の意が特に拝されるに対し、4月28日の各御書はこれら諸点に全く触れておられず、ただ弘通唱題を説き給うという違いが明らかであります。

これは大聖人様の御心中において3月と4月の行事の意義が異なることを自ら示し給うものと思われます。


(2)宗旨建立の両行儀

第二に、宗旨建立の行儀をかなり克明に述べられたのは、3月28日では『清澄寺大衆中』等の文で、4月28日では『聖人御難事』でありますが、この両書を比較すると、そこにも歴然たる違いが拝されます。

すなわち3月の『清澄寺大衆中』、および「春の比」と書かれて3月と推定できる『破良観等御書』には、ともに念仏宗と禅宗を責める決意の御記載があるのに対し、『聖人御難事』では「午の時に此の法門申しはじめて」とのみあります。すなわち3月の両書では破邪を面として、念仏と禅の破折を順縁の浄円房等に説かれたのに対し、4月の『聖人御難事』では、単に「午の時に此の法門申しはじめ」とあり、この「午の時」とは太陽中天に昇り、光明一切にわたる時、すなわち教えにおいては法華経を意味するところより、さらに破邪に対する顕正の法門、すなわち南無妙法蓮華経と唱えよと強く示されたと拝されます。これは『諌暁八幡抄』等の4月28日の諸文よりしても、弘通の意をもって唱え示されたことが明らかであります。

これに対し3月のときは、表面に禅・念仏の破折があり、南無妙法蓮華経は深い御内証の上に唱えられたと拝されます。この意を本宗の年表にも、3月28日について、「宗旨建立の内証を宣示」(富士年表16ページ)としてあり、ここにやはり3月と4月の開説における微妙にして甚深の違いが感ぜられます。


(3)説法の場所の異なり

第三に、先に述べたように『清澄寺大衆中』の説法の場所は道善房の持仏堂であるに対し、『聖人御難事』では諸仏坊の持仏堂として、場所のお示しが異なっております。大聖人様の御説法が4月のみの説ではこの道善房の持仏堂は、それがそのまま諸仏坊と同一であると必ず決めなければなりません。つまりただ1回の説法において2つの異なった場所はありえないからであります。しかし、この4月説では何故大聖人様が2つの名称を示されたかについて、それが同一のものであると断定すべき積極的な理由は何も見当たらず、単なる推測に過ぎません。

しかるに3月・4月の2回にわたって説法が行われたならば、この坊が同一の場所とすれば、大聖人様が3月の時は虚空蔵菩薩および道善房へ報恩の趣意より、「道善の房」と特にその名を挙げられ、4月は弘通の上からその坊名を用いて諸仏坊とされたとの会通ができます。

また別の坊であったとしても当時、清澄寺に相当数の坊があったことは同『清澄寺大衆中』の文に、「東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしゝ(飼鹿)等をか(狩)りとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせし」(御書947ページ)とあることからも明らかであり、特に3月の念仏無間の説法に驚き怒った師・道善房は自坊より退出を命じ、大聖人様のさらなる4月28日の説法の御意志に対し、自坊の持仏堂の使用を許さなかった故に、別の場所たる諸仏坊の持仏堂で行われたことも考えられます。『王舎城事』の、「師にて候ひし人かんだう(勘当)せしかども」(同976ページ)の御文の「勘当」が3月28日だったとすれば、この解釈こそ相当するものであります。

要するに、4月説では両持仏堂を同所と断定しなければならないが、その理由が明確でないのに対し、3・4月にわたる説法とすれば、以上のように明白に会通ができます。この点からも2回にわたると解釈することが妥当と思われます。


(4)対告衆の異なり

次に第四には、順縁と逆縁との対告衆の違いから推測される異なりであります。『清澄寺大衆中』では「浄円房と申す者並びに少々の大衆に」として、その名を挙げられていますが、この浄円房は『当世念仏者無間地獄事』にも対告衆としてその名を示されており、大聖人様に従った順縁の僧であり、続く「並びに少々の大衆」なる語も、少ない人数とのお示しのなかに、この人々は主として浄円房に類する順縁の者や内輪の者、すなわち師の道善房、父母、兄弟、縁者等であったように思われ、3月28日はこれらの対告衆に、まず禅・念仏の邪義を申し述べられたことが拝せられます。

しかるに4月28日の『聖人御難事』では「午の時に此の法門申しはじめて」より以下、弘安2年に至る27年の間、大難の連続であったことが説かれ、特に対告衆の名を挙げられていませんが、この時は地頭・東条景信をはじめとする逆縁の聴衆よりの憎悪・怨嫉による大聖人様への敵対行為が、はなはだしく現れたと思われるのであります。

特に地頭の怒りがこの4月28日の説法の時であることは各方面の諸伝記にも記され、御書では『報恩抄』、『本尊問答抄』に彷彿(ほうふつ)としております。すなわち『報恩抄』に、「但し各々二人は・・(乃至)・・日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、を(追)ひてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり」(同1031ページ)と浄顕房、義城房に宛てられており、また『本尊問答抄』では浄顕房に対し、「貴辺は地頭のいかり(怒)し時、義城房とともに清澄寺をいでておはせし人なれば、何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして、生死をはな(離)れさせ給ふべし」(同1283ページ)と記されております。

この御文には、浄顕房・義城房の守護を賞されるとともに、地頭・東条左衛門景信が大聖人様の説法を聞いて怒り狂い、大聖人様を清澄寺より追い出した状況がまざまざと刻まれており、それが4月28日の宗旨建立を示す各御書に示される如き、大難の初めであったと考えられるのであります。それに対し、『清澄寺大衆中』の3月28日の「浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す」との御文に地頭等の反対者のことが全く示されていません。ということは、この時地頭・東条景信はその席に居合わせなかったものと想像されます。まして順縁の浄円房を代表に挙げられるところ、3月は父母、兄弟、師匠等が念仏無間の法門に驚いて直ちにかなりの反対はあったものの、4月の如きはなはだしいことはなかったように拝せられます。

この『清澄寺大衆中』の説法の対告衆や状況と、4月28日のそれとは、明らかに異なるものと見られ、したがって3月と4月の2度の説法をあそばされたと言えるのであります。


(5)父母の制止の時期

また第五に『王舎城事』に、「されば日蓮は此の経文を見候ひしかば、父母手をす(擦)りてせい(制)せしかども、師にて候ひし人かんだう(勘当)せしかども・・(乃至)・・ついにをそ(恐)れずして候」云々(同976ページ)とあり、このなかの「父母手をすりてせいせしかども」とは、父母が大聖人様の決意の表明に迫害災難を慮(おもんばか)り制止されたことであり、これは4月28日乃至以降と見ることは、その直後大聖人様が清澄寺を追われ、避難されたことからも考え難いのであります。

しかるに3月28日の説法の浄円房ほか少々の大衆中に直接父母がおられたか、あるいは念仏無間の法門を伝え聞いて驚かれ、再度、4月28日に行う大聖人様の決意を聞かれた時、もう二度と言わないようにと「父母手をすりてせいせしかども」という制止の行為を生じたことが、3月と4月の間にあるべき状況として拝されます。

以上の諸点の違いからも、3月と4月にわたって2回の説法があったと考える次第であります。


(6)二十八日に説法の謂れ

第六に、それなら3月も4月も何故に「二十八日」をもってなされたのか。これは前にも述べた如く、八宗ならびに一切経の勝劣を手に取る如く証されたことから、宗旨建立の大行がなされたのであり、その悟りに至る手継ぎとして、虚空蔵菩薩による智慧の宝珠の奇瑞があったのですから、その奇瑞の日こそまさに28日であったと思われます。

その大感激が幾日であったかを大聖人様がお忘れになるはずはありえません。そこでこの大霊瑞の日を記念し虚空蔵菩薩に報恩すべく定められ、まず3月の28日に浄円房外少々の者に対し、内証の妙法に具わる一切の法門のなか、まず権実相対の構格をもって念仏無間の法門を述べられ、さらに4月の28日においては、既に大聖人様の説法のうわさや破折の内容を伝え聞いて反対し批判する逆縁の衆生も現れてきた時、再度この大因縁ある28日を選んで諸仏坊の持仏堂の南面にして、念仏等を止(とど)めて妙法唱題をなすべく法輪を転ぜられたのが大難の始まりであったと思います。

すなわち3月と4月の2回ともに、他の日でなく28日に定められた理由がここに存すると考えられます。


(7)内証に具わる題目と一期弘通の題目

第七の件として、宗旨建立に唱え出だされた南無妙法蓮華経について、3月は内証に具わる題目、4月は一期弘通の題目という違いが拝されます。

すなわち内面的な悟りと外面的な化導との違いであり、この上から3月と4月の各御書の文を拝すると、そこに法義上の顕著かつ重大な相違が感ぜられます。すなわち、宗旨の肝要たる妙法蓮華経の五字・七字について「三月二十八日」の御書では、唱え出す題目における内証の上の甚深の意義を説き給う文が、『御義口伝』『大白牛車書』に拝されるのであります。

まず『御義口伝』は、前述の如くその古版本として京都・要法寺本、金川(かながわ)・妙覚寺本の2本がありますが、方便品の下の文にはこの2本ともすべて「三月」とあり、したがって宗門の『新編』『新定』両書も「三月」としてあります。この法華経方便品の「如我等無異如我昔所願」の文について、『御義口伝』には、「我とは釈尊、我実成仏久遠の仏なり。此の本門の釈尊は我等衆生の事なり・・(乃至)・・我等衆生は親なり、仏は子なり・・(乃至)・・此の我等を寿量品にして無作の三身と説きたるなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱ふるは是なり・・(乃至)・・此の故に南無妙法蓮華経と唱へ奉る日本国の一切衆生を、我が如く成仏せしむと云ふ処の願、併(しかしなが)ら如我昔所願なり。終に引導して己身と和合するを、今者已満足(こんじゃいまんぞく)と意得べきなり」(同1732ページ)と説かれ、寿量文上の本果の仏の奥にある、凡夫即極の無作三身こそ真仏であって、それは南無妙法蓮華経と唱える日蓮とその類であり、そこに一切衆生成仏の要義があることを示されました。

さらに続いて南無妙法蓮華経にこそ寿量品の極地たる本因妙・本果妙があることを説かれ、この大法が末法一万年の衆生を成仏せしめることを宣言せられたのち、「今者已満足」の「已・すでに」の文について、「已とは建長五年三月廿八日に始めて唱へ出だす処の題目を指して已と意得べきなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑ひ無きなり」(同ページ)と断ぜられました。

「今は已(すで)に満足しぬ」の経文の「已」とは「すでに」と読み、過去の完了を意味します。したがって建長5年3月28日、初めて唱え出だす題目が既にその目的を達成しているとの、不思議な御指南であります。これは久遠元初以来、無始無終三世一貫の内証の題目である故に、初めて唱え出すところがそのまま久遠常恒の法体に即するのであり、そこにこそ一切衆生の凡夫即極即身成仏の大功徳があるとの、久遠元初本因即座開悟の妙法の深意を述べ給うにほかなりません。特に「一切衆生の無明の大病を治せん事疑ひ無きなり」の文に絶対的な救済の意義が示されてあります。まことに「三月二十八日」の題目について『御義口伝』に述べ給うところ、甚深の大聖人様の御内証が拝されるのであります。

また『大白牛車書』は『録外』5巻に収録されていますが、同じく3月28日となっています。いわく、「日蓮は建長五年三月二十八日、初めて此の大白牛車の一乗法華の相伝を申し顕はせり・・(乃至)・・抑(そもそも)此の車と申すは本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、三界の火宅を生死生死とぐるりぐるりとまは(廻)り候ところの車なり」(同1188ページ)と示されております。

これは『御義口伝』その他の重要御書にも説かれるところの、法華経本迹二門の元意たる寿量品文底本有の実相としての生死即涅槃をお示しの文であります。故に車の輪と牛に譬えられ、文上教相の本迹二門の輪よりさらに深く立ち入ったところに、妙法蓮華経の牛が原動力となって、無始常住の生死の大海中において一切衆生に対する妙法の涅槃を顕すという、本門の真義が説かれております。特に「相伝」という二字は、本門五百塵点の当初の内証たる寿量品の付嘱によるものであり、さればこそ凡夫即極元初本因妙の妙法蓮華経がその正体であります。その妙法の相伝の元意において『大白牛車書』に相伝を申し顕すと仰せられたと拝され、これも妙法の深い内容を3月28日の題目において説かれております。

以上のように3月28日に顕された題目については大聖人様の甚深内証の意義が込められた法門を説き給うことが明らかであります。


散華 さて、これに対し「四月二十八日」の題目の御表示はいかがでありましょう。まず4月28日に当たると思われる建治2年の『松野殿御消息』には、「南無妙法蓮華経と唱ふる人は日本国に一人も無し。日蓮始めて建長五年夏の始めより二十余年が間、唯一人当時の人の念仏を申すやうに唱ふ」云々(同951ページ)とあり、やはり4月28日と思われる弘安2年3月の『松野殿後家尼御前御返事』には、「去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱ふる事は一人なり」(同1356ページ)と、同じく題目の自行を中心とする中に、化他の意を含めて示されております。

次に、弘安2年11月の『中興入道御消息』には、「去ぬる建長五年四月二十八日より、今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみ(満)つるがごとく、しほ(潮)のさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、見る人、値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいか(怒)らかし・・(乃至)・・すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方、或はうたがひ、或は一向念仏者」云々(同1431ページ)と、妙法弘通とそれによる怨嫉のはなはだしきを説かれてあります。

また、弘安3年12月の『諌暁八幡抄』は、「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり」(同1539ページ)と題目の自行・化他を説かれております。

最後に『聖人御難事』では「午の時に此の法門申しはじめ」の文と以後27年間の大難の文に即して、出世の本懐が示されております。

さて4月28日の宗旨建立を示し、あるいは意味する右5書の文を挙げましたが、この御文の共通点は、すなわち大聖人様ただお一人で、建長5年4月28日より20数年の間題目を唱え、あらゆる人々の憎しみと迫害を被りつつも、妙法五字・七字を多くの人の口に入れんと励まれたことを示されるものであり、つまり三大秘法中の題目の弘通であります。

その反面、この4月28日を表示し給う部分の御文については、妙法五字・七字の内容についての甚深の御内証を含みつつも、それを表面に顕された法門は直接には見当たりません。故に、4月28日の題目は大聖人様が題目の自行化他の弘通化導を示されるところに特性があると拝されるのであります。


両月に甚深の法義

そこで、さらに右3月と4月の、2回にわたる妙法の関係意義を法門の上から述べたいと思います。

『報恩抄』に、「疑って云はく、二十八品の中に何れか肝心なる。答へて云はく、或は云はく、品々(ほんぼん)皆事に随ひて肝心なり。或は云はく、方便品・寿量品肝心なり。或は云はく、方便品肝心なり。或は云はく、寿量品肝心なり・・(乃至)・・問うて云はく、汝が心如何(いかん)。答ふ、南無妙法蓮華経肝心なり。其の証如何。答へて云はく、阿難・文殊等、如是我聞等云云・・(乃至)・・仏の滅後に結集の時九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、妙法蓮華経とかゝせて次に如是我聞と唱へさせ給ひしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや」(同1032ページ)と示され、妙法蓮華経が一部八巻の肝心・中心であると述べられました。

その法華経について二十八品の初めの一々に妙法蓮華経という名前があるのは、そのすべてに名通(みょうつう)すなわち妙法蓮華経の名前が通じているからであります。しかして、この名通につきさらに一歩を進めば、義別すなわちこの妙法蓮華経に本迹二門の義が収められているのであります。この妙法の名通と義別は所対によって一代仏教にわたりますが、今は中心の法華経に限って論ずれば、名通すなわち妙法の名前は二十八品を通じて妙法蓮華経そのものですが、その義は迹門と本門に分れます。

迹門の義は、方便品を中心とする開権顕実の妙法であり、九界・仏界融合して不可思議である故に妙法と名付けます。次に本門の義は、寿量品を中心とする開迹顕本の妙法であり、始覚の十界はことごとく本覚の十界互具に帰入して真の一千三千を成ずること融妙不可思議であるから妙法と名付けます。

そこで先程の『報恩抄』で、妙法蓮華経を一部八巻二十八品の肝心と仰せられのた、その肝心とは三つの意があります。一は、妙法蓮華経に一部二十八品を通じて収めるのが名通の肝心です。第二に、義別の辺では開権顕実の義において妙法に迹門十四品を収めるのが諸法実相迹門の肝心の義であり、第三に、開迹顕本の義において妙法は本門十四品を収めるのが、久遠実成本門の肝心の義であります。

さて、しかるに天台は『玄義』の一に、「此の妙法蓮華経は、本地甚深の奥蔵なり・・(乃至)・・三世の如来の証得する所なり」(学林版玄義会本上25ページ)と説き、釈尊が説かれた本懐の法華経の妙法五字は、その功徳の所以を推(お)すところ、その帰すべき元があり、この功帰のところを本地と言われております。

ここにこそ妙法五字の肝心としての究竟の意義が存するのでありますが、これにまた二意があります。第一は、本果の仏の証した妙法であり、これを本地甚深の妙法と言い、この久遠本果所証の妙法に通じて二十八品を収める故に肝心と言うのであります。すなわち本果肝心の義であります。第二は、本因名字に証するところの妙法であり、五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫即極の仏の証する妙法を本地甚深とします。この本因の仏が証するところの妙法に通じて一部八巻を収める故に肝心なのであり、すなわち本因肝心の義であります。

この一番元の本種たる本因名字の妙法は一切の仏法の根源であり、このところより時と機に対して大乗・小乗、権教・実教、本門・迹門等のあらゆる仏法が開かれ、顕れるのであります。そして末法出現の地涌上行菩薩、内証久遠元初の本仏たる大聖人様が宗旨建立の暁、建長5年の3月28日に「今者已満足」としての妙法を唱え出だされたのは先に述べた如く、本来その身に具え給うところの本因名字所証の妙法、すなわち内証の法体であることを、大聖人様が後年の『御義口伝』等の御指南において示し給うことが明らかに拝せられます。

ただし内証に具わる妙法ではあっても、この時直ちに大聖人様が久遠元初自受用身の成道を示されたのではありません。宗旨建立以後、法華経の行者の御振る舞いに三類の敵人の扣発(こうはつ)をもって経文の予証をことごとく身読せられ、下種本仏の八相の上の最後の天子魔に対する降魔とその成道を現ぜられたのは、かの文永8年9月12日、竜の口の発迹顕本に存するのであります。

この御一期の自行化他について3月28日の妙法は、もし三種法華の説相を借りるならば、「根本法華」として大聖人様の胸中の内証に具え給うところであります。すなわち根本内証と、その一期の御化導における事行・事証を現じ給う本仏の当体・当相とはおのずから相違があり、この区別は正しく弁えるべきであります。しかしてまた、この本因名字久遠元初の妙法に、釈尊の化導の本懐たる一部八巻二十八品が含まれ、また、そこから開かれるのでありますから、この元より垂迹の釈尊の法華経と如是我聞の上の妙法を化導の順序に従って自由自在に用い給うのであります。

すなわち大聖人様が4月28日に始むと仰せあそばされた題目は、本因名字の根本妙法であるとともに、垂迹の釈尊の説かれた本迹二門の妙法の一切が含まれるのであります。故に、佐渡以前の『唱法華題目抄』『法華題目抄』『聖愚間答抄』等の御書に釈尊の法華経の題目に主(ぬし)付けて妙法を解説し給い、また唱題を勧め給うは、爾前権経の念仏等を謗法として廃する意味を含め、法華一部名通の妙法蓮華経を肝心とし給う意が拝せられます。また法門の所対に従っては、義別の上に迹門の妙法蓮華経を肝心とし、あるいは本門の五字を肝心とし給い、特に佐渡以降の法門には文上本門の妙法より一重立ち入って文底本門における肝心として、種・熟・脱のなかには種の妙法、文・義・意のなかには意の妙法、広・略・要のなかには要の妙法を、上行菩薩の末法出現に即して示し給うのであります。

このなかの下種の妙法の当体たる本門の本尊、三大秘法はもちろん御内証の発露でありますが、それを衆生化導のために表し給うところ、いわゆる下種の「顕説法華」としての出世の本懐であります。そこで、すなわち建長5年3月28日の題目には内証元意・本因名字の題目を志し給うことが拝せられ、4月28日の題目は一切衆生へ妙法を弘通し給う意(こころ)、すなわち化導に約する題目の相であり、それが佐渡以降、本門下種の妙法開闡(かいせん)とともに弘安期に至って、三大秘法の整足をもって本懐を究竟し給うのであります。

したがって3月28日の御書の妙法は、各文の虚空蔵菩薩への報恩および仏法の本種に至り給う開示であるに対し、4月28日の御書の各文の妙法は、その受持に関する衆生への弘通を主とされており、虚空蔵との関係や本門文底の教義を直接、開示しておられないという区別が明らかであります。このことからも3月・4月の両28日に別々の宗旨建立の行事がなされたことが拝せられるのであります。


(8)「安国論問答』の文辞

次に、第八の理由は、初めにも述べたところの、日興上人の『安国論問答』の文辞であり、これは日興上人が『清澄寺大衆中』を直接、御覧になっていなければ全く説明できない同一の文であります。そこに建長5年3月とある以上、大聖人様の御真蹟のかつて存在した『清澄寺大衆中』の宗旨建立の御文が、まさしく3月であった証拠であり、これはそのまま大聖人様が御自身の宗旨建立の転法輪を、3月と4月の両28日に行ったことを証明あそばしていることであります。


(9)『御伝土代』の文

次に第九の案件として、全門下中、最古の史伝書たる総本山4世日道上人の『御伝土代』には、「建長五年みつのとのうし三月廿八日、きよすみ寺たうせんはう持仏たうのみなみおもてにして、浄円房ならひに大衆等少々くわいこふ(会合)なして、念仏むけん地獄南無妙法蓮華経と唱ひはしめ給畢(おわんぬ)」(歴代法主全書1巻253ページ)と書かれてあります。この文は疑いもなく『清澄寺大衆中』および日興上人の『安国論問答』の記を元にされ、やはり3月と示されているのであります。

しかるに、ちょっとお断りすることは、この『御伝土代』ではそのあとに続いて「しかるあいたその日きよすみ寺をひんしゆつせられ給おわん」(同ページ)と書かれておることであります。「しかるあいたその日」とは、それを「それ故にその日」という意味に取れば3月28日の擯出となり、4月宗旨建立の文と反するようであります。

これはおそらく3月28日の説法の時、浄円房等の順縁者はおりましたが、師匠・道善房は念仏無間の法門にたいへん怒ったことは明らかです。そして前掲の『王舎城事』にも「師にて侯ひし人かんだうせしかども」とある文を考えれば、この時、道善房が大聖人様を勘当し、自坊より追い立てたことが伺われます。要するに、平穏ならざる事態がまず3月28日に起こり、さらに4月28日に地頭・景信による大聖人様の清澄寺退出があったのであります。それら一連のことをまとめて「しかるあいたその日」と書かれたと思います。

また「しかるあいた」とは「そうしているうちに」という本来の意味にとれば、次の「その日」とは4月28日を指されたことになります。元来、この書はその題名の如く御伝土代、すなわち「土代」とは下書きあるいは草案の意であり、記述の文の前後や脈絡、時間的間隔等をあまり考慮することなく、事柄をごく簡潔にまとめて書かれていることが、その特徴と思われるからであります。

ただし日道上人が、3月と4月の両度の28日の説法について意識されていたことは明らかであります。その例証として日道上人は、当総本山格護の『諌暁八幡抄』を拝閲され、その第33紙すなわち大聖人様が4月28日の宗旨建立を記されたその紙の裏面に、月は変わりますが日道上人御自身の28という日における仏法上の諸体験を記されており、しかもその同抄の表には、大聖人様は「四月廿八日より」と明らかに書かれてある以上、日道上人はこの「四月」の文字を必ず御覧になっているはずであります。

しかるにもかかわらず『御伝土代』に「三月」と書かれたことは、むしろ3月と4月の両度の28日において大聖人様の御説法があったことを拝されつつ、その初めを採って「三月二十八日」と記されたのがこの史伝書であると確信するものであります。


その他の資料

なお今般、総本山において宗旨建立750年を記念して、その間における種々の資料を大講堂に展示いたしますが、そのなかで宗門史における徳川時代の金沢地方の弘教者として有名な金沢藩士・福原昭房の享保2年9月付の『秘釈独見』なる書があります。

その書中「御本家御歴代」の名目の筆頭に「日蓮大聖人」とある下に、「建長五年癸丑三月二十八日宗旨御建立」と記され、また「御法式」の名目の文中に「一、三月二十八日宗旨御建立日 誦経」と、当時の総本山の年中行事法式を書いてある反面、4月28日の文字は全く見当たりません。享保2年は25世日宥上人御当職の時であり、このころには3月28日を宗旨建立の御報恩日とされていたことが判ります。

また、そののち、33世日元上人御筆と記された日量上人写本の『総本山年中行事』には、3月と4月の両28日に立宗報恩御講が行われていた記録もあります。それによるも総本山において3月28日の立宗御報恩行事は、過去に厳として存在したのであります。


三・四月両度の意義

以上、種々に述べてまいりましたが、大聖人様に3月と4月の両度において、それぞれの意義を持った宗旨建立ならびに説法の振る舞いがおわしましたことが確実であります。すなわち3月は法界に対する内証の題目の開宣で、4月は外用弘通の題目の開示であり、3月は顕正に即する破邪の説法を面とされるのに対し、4月は破邪に即する顕正の説法が面となり、また3月は別して少機のために大法を示し、4月は万機のために題目を弘通せられる等の区別が拝されます。

特に『清澄寺大衆中』の文が3月28日と確定するところ、3月にも説法を行われた上から3月と4月の両度にわたる仏恩報謝の大法要を執り行うことは、まことに適切であると信ずるものであります。


以上、本年の宗旨建立750年の大佳節に当たり、まず3月28日の本日をもって宗旨建立慶祝のため「開宣大法要」と名付けて、仏恩報謝の行事を修した次第であります。

これを始めとして宗旨建立の主意を込めて、来たる4月の27・28両日の「特別大法要」、さらに翌29日より10月7日に至る60回の30万総登山の大事業に、明らかな宗門の広宣流布への大前進の姿をもって、広大なる仏恩に報じ奉り、正法興隆とともにその大功徳を広く濁悪の世界に回向し、自他倶安同帰寂光の大光明を皆様と共に顕してまいろうではありませんか。

本日御参詣皆様のいよいよの信行倍増と自行化他の功徳増進をお祈り申し上げ、以上、3月28日宗旨建立御報恩の法話といたします。

※この記事は大白法596号にしたがって、一部訂正されています。
※この御説法は修徳院支部の川人さんの御協力で掲載いたしました。


教学用語解説
折伏実践

<折伏の意義と目的>

折伏とは全世界の人々を災難と苦悩の人生から救うところの慈悲の行為です。この世の災難の根本原因は、人々が邪宗邪義を信じて、正しい仏法を誹謗することにあります。これを解決するには『立正安国論』に、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(御書250ページ)、「須(すべから)く国中の謗法を断つべし」(同247ページ)と勧誡されているように、謗法が国土や人心を破壊する根本原因であることを教え、人々を法華真実の正法に帰依せしめなければなりません。これが立正安国の原理です。

日寛上人は「立正」の二字について、「立正の両字は三箇の秘法を含むなり」(日寛上人御書文段6ページ)と釈されているように、御本仏日蓮大聖人が建立された三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を唯一無上の正法と立て、弘通していくことが『立正安国論』の正意と拝すべきです。

では、なせ大御本尊に帰依しない人々が増えると災難が現れるのでしょうか。それは正法誹謗の結果として、五濁(ごじょく)すなわち「見濁」(思想の乱れ)・「煩悩濁」(煩悩が盛んになる)・「衆生濁」(社会全般の乱れ)・「命(みょう)濁」(寿命が短くなること)・「劫濁」(前の四濁が因となって飢饉・天災・疫病・戦争などが起こる不幸な時代)が強盛になるからなのです。

御書には五濁の中でも謗法の邪宗邪義による人心の乱れ、すなわち「衆生濁」「見濁」が災難の原因になっていると御教示されています。ですから、このような五濁乱漫の濁世を根本的に浄化する具体的な実践こそが大切であり、それが折伏なのです。

『諸法実相抄』の、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書666ページ)、「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(同)との仰せを拝するならば、私たちは折伏弘通の大任を受けた地涌の菩薩と言えましょう。

その使命は、「二人三人百人と次第に唱へつた(伝)ふるなり。未来も又しかるべし」(同)とお示しのように、まさに「一人が一人の折伏」を実践することにあるのです。


大聖人は、一切衆生を無間地獄の苦から救うところの三大秘法を御建立され、「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ」(同1539ページ)ように、末法の一切衆生に南無妙法蓮華経の大良薬を与えんとの大慈悲の御化導を示されました。これに浴した私たちは、煩悩・業・苦の三道を、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じ、現当二世の功徳を成就させていただけることを深く報恩謝徳しなければなりません。

日寛上人は、「邪法を退治するは即ちこれ報恩(中略)正法を弘通するは即ち是れ謝徳(しゃとく)(中略)謂わく、身命を惜(お)しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫(な)きが故なり」(日寛上人御書文段384ページ)と御指南されています。地涌の眷属たる日蓮正宗僧俗の真実の報恩行とは、まさに不惜身命(ふしゃくしんみょう)の信心をもって、破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏を実践するところにあると、自覚すべきです。


<折伏実践の心得>

唱題とは、三大秘法の本門の題目の実践であり、根本の行です。『三大秘法抄』に、「日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594ページ)とあるように、自行の唱題行に化他の折伏行が伴わなければ本門の題目とはなりません。

また、御法主日顕上人猊下は、「毎日の題目受持の功徳は、或る時には直ちに罪障消滅の不可思議な現証となって顕れ、また次第に積って五尺の器に充満し、おのずから化他の徳となって外へ流れ出ます」(大白法277号)と御指南されています。

末法の一切衆生は、客観的な機の上からは、本未有善(ほんみうぜん)の荒凡夫ですが、一方、自行化他にわたって唱題に励む日蓮正宗の僧俗は、その観心境界において地涌の菩薩の境界を開くことができるのです。

そのためには、無疑曰信(むぎわっしん)の信心を根本とした魔を断ち切る強盛な唱題と、僧俗一致して異体同心の唱題行を行うことが絶対の条件となるのです。


また折伏において大切なことは、御本尊以外に幸せになる法は絶対にない、との大確信をもって人々に強く訴えていくことです。

ただし、決して非常識や感情的な言動になってはなりません。心がけるべきことは、「彼が為に悪を除くは、即ち是(これ)彼が親なり」(御書577ページ)と仰せのように、謗法に対して、傍観者的姿勢であったり、勧誘的な弱い折伏であってはいけないということです。邪宗教こそが人を不幸にし、国家を危うくする元凶であることを言い切り、一切の謗法を破折し、屈伏せしめる威勢が大切なのです。

また相手が無信仰であったとしても、正法に背くばかりではなく、正法を知らないこと自体が、その人にとっては不幸の原因となるのですから、兎にも角にも正法を説き聞かせることが本当の慈悲であり、折伏なのです。


<邪宗教の人々を折伏し、法華講三十万総登山を成就>

今日の社会のあらゆる不幸の原因は、邪宗教にあり、特に日蓮大聖人の正法正義を妨げる第一の邪宗教こそ、創価学会なのです。我らはこの邪義謗法の恐ろしさを多くの人々に教えるためにも、慈悲の折伏に精進しなければなりません。

御法主日顕上人猊下は、三十万総登山の意義を、「広布の確実な進展とともに法界を浄化し、清気・清風を世に送り、国家社会の自他倶安同帰寂光の礎(いしずえ)を建設することにより、広大な仏恩に報い奉る」(大白法414号)ことにあると御指南されています。

私どもは、これらの甚深の御指南を心から拝し奉り、いよいよ身軽法重・死身弘法の精神に立って、未曽有の大折伏戦を展開し、もって必ずや法華講三十万総登山を達成しようではありませんか。


※この記事は修徳院支部の川人さんの御協力で掲載いたしました。


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