また、担当の方々ならぴに父兄の方々もたいへん御苦労さまでした。皆様方のますますの信行倍増と御繁栄を心からお祈りいたします。
御法主日顕上人猊下御説法
『聖人御難事』 特別大法要御書講の砌
『聖人御難事』に曰く、「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡(ながさのこおり)の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御(み)くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや(御厨)、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書1396ページ)と。
宗旨建立750年慶祝記念特別大法要を、当総本山において今、明日の2日間にわたり奉修つかまつるなか、今夕はその意義を拝して仏恩報謝の法話を申し上げる次第であります。しかるところ、法華講総講頭・柳沢喜惣次氏、同大講頭・石毛寅松氏ほか全国の法華講員各位、また海外16カ国よりの信徒各位、多数参詣せられ、盛大にこの大法要を執行つかまつることは、まことに有り難く存ずるものであります。
ただいま拝読いたした御書は『聖人御難事』の冒頭の御文で、大聖人様が建長5年4月28日に宗旨建立をあそばされたことと、出世の本懐に関することを説き給う、まことに大切な御文であります。故に御文には、一に宗旨建立の事実と、二に大難の御化導、および三に出世の本懐のお示しという3点が、その文意・文脈の上に明らかに拝せられるのであります。このところにおいて古来、他門下の解釈はきわめて不充分で意を尽くさないものがあることを指摘しつつ、この文の正意を拝したいと思います。
そこで初めに申し述べておくことは、この御文の「建長五年太歳癸丑四月二十八日・・・此の法門申しはじめて今に二十七年」とあるなかの「申しはじめて」の字義についてであります。「申す」とは告げること、「はじめて」とは最初である様を示す語であり、要するに、過去には申さず、今初めて告げるということを述べる文言です。
この文のみについて考えると、大聖人様がこの法門を申されたことは、4月28日に始められたのであり、過去にはなかったという解釈になります。そこで他門で出版の御書や『御書全集』では、この『聖人御難事』の御真蹟があることをも踏まえて、この書の「申しはじめて」の文をもって、4月にその時期を特定し、宗旨建立を「三月」と記された『清澄寺大衆中』や『大白牛車書』の「三月」をすべて「四月」に改変してしまいました。
しかし『清澄寺大衆中』の文が「三月」であることは、先般の開宣大法要に論証したとおりであります。しかも、その御文にも、「建長五年三月二十八日(乃至)これを申しはじめて」(御書946ページ)とあります。つまり3月と4月の28日について両方に、大聖人様は「申しはじめて」と仰せになっているのです。これは一見、矛盾のようですが、大聖人様が重大にして悲壮な大覚悟に基づく宗旨建立を始め給うに当たり、その実行に当たる御胸中に万感の配慮と委細(いさい)がおわしましたことを拝すべきであります。
したがって、まず3月28日における「申しはじめて」の意味においては、順縁の者ならびに少々の大衆に念仏・禅の邪義の破折を行われるとともに、法界に対する内証の題目の開宣および少々の機類に対する妙法の開示をあそばされました。
次に、4月の時の「申しはじめて」は、広く順逆二縁に妙法唱題を勧められつつ邪法を禁止され、地頭等による擯出(ひんずい)の大難より以降における、一期御化導の大難と本懐の成就に至る大法弘宣(ぐせん)の初めの意義を込められたと拝され、したがって二重の「申しはじめ」を示される経過がおわしましたのであります。故に、この4月28日の『聖人御難事』に「申しはじめて」の文があるからといって、3月の宗旨建立が否定されるべきものではないことを、特に申し述べておきます。
さて、この冒頭一連の御文は、まず宗旨建立の年月日を挙げられ、次にその場所を特定あそばすについて「安房国長狭郡(ながさのこおり)の内、東条の郷」とその名を挙げ給い、それが今は郡となっているが、そこに「右大将家」すなわち源頼朝が立てた天照太神の「みくりや」があることを差し挟(はさ)まれております。
「みくりや」とは、その字義は厨房(ちゅうぼう)すなわち俗に台所を意味します。故に古代から中世において朝廷や伊勢神宮に付属し、贄(にえ)に供する種々の食物を調達するために定められた領地を「みくりや」と呼ぶようになりました。
『吾妻鏡』の「元暦元年五月」の条に、同年である寿永3年5月3日付の源頼朝の寄進状を載せてあり、それには安房国東条の地を御厨として伊勢太神宮に寄進する旨が書かれており、右大将家の立てた「みくりや」とは、これを仰せになったものであります。この「みくりや」の土地には、その趣意に基づき天照太神を祭祀(さいし)した神宮がありました。
そして、これについて「日本第二のみくりや、今は日本第一なり」と仰せられたのは、おそらく伊勢における朝廷よりの寄進で祭祀された「みくりや」は、本来が第一であり、それに対し将軍・頼朝の寄進・祭祀の安房の「みくりや」は第二でありましたが、朝廷は真言の邪義による祈祷により、あの承久3年の大敗を喫(きっ)したのち、その威光も衰退して伊勢の廟(びょう)も頽(すた)れ、ために天照太神の御心に背き、太神の御魂は伊勢を去って既に法華経を信ずる幕府の主権者・頼朝の寄進した安房の「みくりや」に移られている。故に、このところこそ今は日本第一に、まさしく天照太神を祀る「みくりや」となったとの御意で仰せられたものと拝します。なお、頼朝が法華経を信仰したことは種々の御書にもかいま見るところであります。
さて次の「此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に」までの御文については、3月28日の『清澄寺大衆中』の文との比較において、先般の開宣大法要に申し述べましたが、何故に大聖人様が清澄寺を宗旨建立の第一声の場所として選ばれたかについては省略いたしました。今回これについて拝考いたしますと、一に虚空蔵菩薩への報恩および得道の師・道善房への報恩のため、二に父母・知人・同輩を教化せんため、三に誕生有縁の地であること、四に修学深縁の寺であること等が拝せられます。
また、右文中の「諸仏坊の持仏堂」と『清澄寺大衆中』における、「道善の房の持仏堂」(同946ページ)
との御記述の同異については、宗旨建立が3月・4月の両回とする時、同と異のいずれでも明白に会通ができるとのみ述べて、その判定はいたしませんでしたが、虚心坦懐(きょしんたんかい)に両文を拝するとき、3月は道善房の持仏堂であったからそのように書かれ、4月は諸仏坊の持仏堂で行われたからそのように書き給うたものと素直に拝するとき、3月と4月は異なった場所であったろうと推測することが自然の拝し方のように思われるのであります。
また「南面」の語については、この『聖人御難事』と『清澄寺大衆中』の両書の宗旨建立の文に拝されます。これは当時の清澄寺の坊舎(ぼうしゃ)形式より自然に南面の法席をもってなされたかとも思われますが、さらに法華経薬王品に、「此の経も亦復(またまた)是(かく)の如し、諸経の中の王なり」(法華経535ページ)
とある「王」の意よりすれば、漢土・日本は天子南面の故に左尊右卑という古習の如く、南面こそ諸経の王たる法華経の説法、およびこの正義を示す日蓮の振る舞いにふさわしいとの意を含め、このようにお書きになったと拝察いたします。
さて、次に続く御文は「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」とのお示しであり、本日はこの御文について、その理の帰するところを深く論究いたしたいと存じます。
右の御文全体を一貫する主意は「此の法門申しはじめて」の「此の法門」すなわち法華経の弘通に尽きるのであります。故に、この法華経の弘通の意義をもって右の御文全体を拝するとき、そこに大聖人様の末法法華経弘通を中心として、この御文は標(ひょう)・釈(しゃく)・結(けつ)の3段に拝すべきであると信じます。すなわち「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日」以降「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり」が標文であり、次の「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計りなし」までが釈文、次の「先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」までを結文と拝するものです。
故に、標文の中心としての大聖人様の法華弘通に関する「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり」の文が以下、結文の終わりまでの内容を標示しており、全体の基軸となっております。この文中、特に注目すべき文辞は「此の法門」の4字であります。これを建長5年4月に申し始めて以来、一貫して弘められたのは南無妙法蓮華経の五字七字であり、以来27年の間、いささかも変化はないのでありますが、そこに大聖人様の御出現の目的たる一期の御化導に約して考えると、所弘(しょぐ)の妙法の五字七字の法体の表示が釈尊の妙法より上行日蓮の所有に変化する法門が明らかに拝せられるのであります。『三沢抄』に、「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書1204ページ)との御文に、その意義がはっきり示されております。
これについては本年3月の開宣大法要の時も、『報恩抄』の如是我聞の妙法蓮華経が一部八巻の肝心なる御指南について、一部名通の肝心、迹門義別(しゃくもんぎべつ)の肝心、本門義別(ほんもんぎべつ)の肝心が一往、法相に就(つ)く法門として存すること、次に再往、その功(こう)の元に帰す法門として本果と本因が存し、特に本因元初の妙法蓮華経が法華経一部八巻二十八品の究竟の肝心であることを述べました。故に、佐渡以前に弘通の妙法は久遠元初・本因・妙法蓮華経から開かれた垂迹の釈尊の法華経二十八品における名通の肝心に主(ぬし)付けて、『法華題目抄』『聖愚問答抄』等が説かれたことを述べた次第であります。
しかし、佐渡以降において開示された妙法は、釈尊から上行菩薩へ譲り渡された意義を確立せられ、したがって『開目抄』には釈尊の文上本門に対する文底の本門、『観心本尊抄』には釈尊の熟・脱に対する下種の妙法、『法華取要抄』には釈尊の広・略に対する要法、『四信五品抄』『曽谷抄』等には文・義に対する意としての本因の妙法を示し給うことが拝せられます。
このように妙法の法体が結要付嘱によって釈尊より上行菩薩すなわち日蓮大聖人の当体へ移り変わり、文底下種の要法、本因妙の妙法が上行日蓮大聖人により、衆生化導の意義において明確となったのは、大聖人様が佐渡より始め給う妙法大漫茶羅本尊の御顕示に存するのであります。けだし三大秘法中の題目は、宗旨建立以来その唱題を勧められましたが、この本門の妙法漫茶羅本尊の顕示以降、この御本尊の妙法に具(そな)わる題目としてその在所が明確になったのであります。
そして、この妙法本尊を顕し給う上にも2つの意が拝せられます。すなわち第一は、久遠元初自受用身の垂迹、上行菩薩の再誕として日蓮が顕し給う、文永より建治初期の妙法大漫茶羅本尊であります。その本尊においては、大聖人様の署名・御花押が中央の妙法七字よりはるかに左右に偏(かたよ)り、いまだ法格を中心とあそばされており、法即人・人即法の一体なる御顕示を控(ひか)え給うのであります。
これに対し第二として、久遠元初自受用身の垂迹、上行日蓮より直ちに久遠元初自受用身の再誕としての本地を顕し給う、建治後期より弘安における御本尊は日蓮の署名・花押が妙法七字の直下に据えさせられ、人と法がともに一体となる人法一箇の上の法界遍満(へんまん)、事の一念三千の御尊容を拝するのであります。ここに三大秘法整足の第一義たる御本尊の整足が存すると拝するものであります。
同じ意義の上から、さらに第二の2として、御本尊の整足が弘安元年に入って善徳仏等の十方仏の代表と十方分身諸仏の消除によって文底の元意を示し給う意が拝されること。また第二の3として、日寛上人の『観心本尊抄文段』に、弘安元年が大聖人の平常の御算定で2,227年であるにもかかわらず、弘安元年より御本尊、御書等に「二千二百三十余年」と示されるのは、釈尊の寿量品説法よりの算定によるもので、故に弘安元年以降、御本尊の本懐究竟なりとの指南があり、その意義をさらに拝究すると、弘安元年より同3年までの御本尊の仏滅讃文に「二千二百三十余年」と「二千二百二十余年」との両方が示されることにより、それが寿量品の意義に基づく拝考において、究極的には非生現生・非滅現滅の上の本地、本因妙を志(こころざ)し給うと拝するとき、それぞれの御本尊の当体において久遠元初自受用身ならびに無作三身の仏身が拝されること、また第二の4として、梵(ぼん)・漢・和の表示において法界全体を含む御判形の改変が弘安以降に示されること等において、御本尊に関する究竟の正意を顕されることを拝し奉るのであります。
かくて下種本仏の大慈大悲が法界に遍満するところ、無始永恒(えいごう)本仏常住のなかにおける元初の仏身をもって一切衆生に下種成仏の利益を顕し給うに当たり、その順逆二縁に対し徹底して十界皆成の化導を示し給うのは、弘安2年2月の日目上人授与の本尊において、過去に文永11年7月の1幅の本尊の他は全く示されていないところの提婆達多を示しはじめられ、以後の本尊にも拝されることであります。このところに十界皆成、法界即日蓮、日蓮即法界なる最後究竟の整足を拝するのであります。
しかして仏法の大不思議は、この弘安2年の年において、かの熱原の法難が惹起(じゃっき)したことであります。これは宗旨建立以来の大聖人様御自身の大難4カ度、小難数知れざる大迫害に身を置かれつつ、妙法5字・7字の大功徳による金剛不壊の仏身を成就し、その本懐を顕し給うことは、大難を乗り越えてこそ妙法の大真理が顕れるという不惜身命の振る舞いによる妙法と大難との一致和合の姿を示し給うところに、その根本があります。その仏意を受けて熱原の信徒一同が、これまた絶大な信力・行力をもって不惜身命に妙法を受持する大因縁を成じたことこそ、師弟不二の如是相であります。
すなわち能化の仏たる大聖人様のみならず、所化のなかにも特に在家の信徒達が身をもって大法を受持しその信仰を貫くことは、信心決定・謗法厳誡の振る舞いであり、取りも直さず本門大戒の実践でありました。この僧俗一致・正法厳護の相こそ、まさしくかねて究極された本尊と題目に加えて、末法万年の衆生を導くべき本門戒壇が具わるところの、化導上の本懐たる三大秘法整足の時期であることを御照覧あそばされた大聖人様が、本門戒壇の大御本尊を顕すべく、その覚悟を披瀝あそばされたのが、この『聖人御難事』の文の「出世の本懐(乃至)余は二十七年」の文であります。すなわち、これは末法万年の衆生救済のための大慈大悲の発露と拝されます。
以上が「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり」の標文に具わる内容であり、「此の法門申しはじめて」の語のなかに、その間の大難と法門の究竟すなわち出世の本懐の二事が1本の縄の如くあざなわれて今、弘安2年に至ることを述べ給うのであります。
さて、次に「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし」の文は釈文として、標文における大聖人御自身の法華弘通の内容を、釈尊等の三師の法華弘通の事蹟をもって解釈されておられるのであります。
すなわち釈尊、天台大師、伝教大師がそれぞれ出世の本懐に至った年限を挙げられて、法華経を行ずる聖者は必ず出世の本懐を遂げることと、その成就に至るためには必ず大難が存在すること、つまり出世の本懐と大難は絶対に離すことのできない意義を込められております。すなわち上の「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり」との大聖人御自身の法門における大難と本懐成就と、釈尊、天台、伝教の難と本懐成就の例証を挙げて釈されているのであります。
この文の「仏」とはもちろん釈尊であり、無量義経の、「四十余年。未顕真実」(法華経23ページ)の文の如く、釈尊は三十成道されてより42年の間、華厳・阿含・方等・般若等の方便経を説かれたのち、御歳72歳より「正直捨方便」の法華経を説き始められました。そして8カ年の説法は、1年に3品半として寿量品に至るまで5年を要するので、本門の本懐宣示は76歳の時となります。三十成道から起算すると47年目であり、やはり40を超えた余りの年の範囲となる故に、釈尊の出世の本懐に至る年次を「四十余年」と仰せられたのであります。
次の天台と伝教の出世の本懐の年次の内容についても、近年の他門の講義書には明白な解釈がありません。これは一連の文意を正しく推究(すいきゅう)するとき「出世の本懐」の言の趣意は、釈尊・天台・伝教の三師からおのずと大聖人の27年に及ぶ意義が明らかであるため、敢(あ)えて触れることを避けたと思うものであります。
さて、御文の「天台大師は三十余年」とは、大師23歳、天嘉元年に大蘇山に至り、慧思南岳大師に謁(えつ)し、普賢道場に入り四安楽行を修する時、薬王品の、「是真精進。是名真法。供養如来(是を真の法をもって如来を供養すと名づく)」(同526ページ)の文に至って法華経の定慧を発し、諸法実相を証されました。これを大蘇山の妙悟と称します。この時を起点として天台大師の多くの経典解釈、正義の開説が始まりますが、大師畢生(ひっせい)の名講たる『法華玄義』は開皇13年4月玉泉において説き、『法華文句』は同年7月玉泉寺建立後の8月に講ぜられ、次いで14年4月、57歳にして『摩詞止観』を説かれました。大蘇山の妙悟より『玄義』『文句』『止観』を説くまで33、4年であり、故に「三十余年(乃至)出世の本懐」とお書きになったのであります。
また「伝教大師は二十余年」とは、大師19歳の延暦4年、叡山に入り日夜法華経を修して5つの願を発し、爾来、延暦7年一乗止観院の建立、延暦21年正月19日高雄において六宗と対論し、同23年入唐(にっとう)、同24年5月に帰朝、この間道邃(どうずい)、行満両師より天台の深奥の法門秘書を受け携(たずさ)えて帰朝しました。発願の年より中国の天台の秘書をことごとく伝来するに至るまで20年余となります。しかしまた伝教大師は弘仁10年、大乗円頓(えんどん)戒壇の建立を願い出でられましたが、南都六宗の反対という大難があって許されず、弘仁13年6月、伝教大師の没後7日目に勅許(ちょっきょ)が下り、同月円頓戒壇が建てられたと伝えます。さらに5年後の天長4年5月、延暦寺に戒壇院が建立されました。延暦24年の帰朝より戒壇院建立まで22年であり、大師の没後ではありますが、大難という意味からは「二十余年の本懐」とは、これを仰せられたものかと思われます。
要するに、釈尊等の三師の法華弘通による出世の本懐とその年限と大難を挙げられることは、大聖人御自身の法華弘通と27年、弘安2年に至る文として、その本懐を顕し給うことの例証であり、三師と御自身との間に重要な関係があることの御文を正しく拝すべきであります。
さて、その次の「先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」は、この段の結文と拝すべき文意・文脈であります。したがって、この文は釈文の意義をそのまま大聖人御自身の弘通の上に受け止める文であると拝さねばなりません。釈文に示される意義とは、1つには釈尊、天台、伝教の三師がそれぞれの年限によって出世の本懐を遂げたということであり、2つにはその本懐を遂げるためには必ず大難を受けたということであります。
そこで結文の「先々に申すがごとし」とは何を申されたかと言えば、2つの意義が込められておると拝します。一つには、大聖人様が建長5年4月より一貫して述べられてきた法門は、妙法五5字七字の弘通、すなわち三大秘法の大法門であること。二つには、その破邪顕正の弘通の故に悪口罵詈(あっくめり)、刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)、流罪・死罪等、「勧持品二十行の偈」の身読(しんどく)、いわゆる「況滅度後」の大難を数知れず受けられてきたことであり、この2意についてあらゆる御書に説き示されさてきたことをおのずから指されるのであります。
そこで次の「余は二十七年なり」の文は「先々に申す」という前文の2意のうちの1つである三大秘法の弘通の意を受けつつ、それがさらに前の釈文における釈尊・天台・伝教三師の出世の本懐の義に直結するところ、すなわち建長5年より27年にして三大秘法の究竟として一切衆生下種得道のための大慈大悲による一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊を顕す時が来たことを示されるものであります。
他門では、これらの一連の文は法華経を行ずる上の大難の始終を述べたもので、宗祖の弘通としての出世の本懐の意はないと主張しております。しかし、それならわざわざ直前の文に釈尊・天台・伝教を挙げ、その出世の本懐に至る年限と大難の関係を述べられる必要も理由もありません。大難のところにこそ切っても切れない出世の本懐があり、その関係においてそれぞれ「四十余年」「三十余年」「二十余年」という三師の年限を示す文脈・文勢の上から次に「余は二十七年なり」と言われるのは、まさに先の釈文の三師の「出世の本懐」の語を受けるものであります。故に、大聖人自ら出世の本懐を顕すべき時を建長5年の宗旨建立以来27年であると仰せられたことは、鏡の如く明らかであります。
したがって、この結文の最後に「其の間の大難は各々かつしろしめせり」とあるのは、釈文の釈尊等について「其の中の大難申す計りなし」の例証を直接受ける文であり、また直前の「余は二十七年なり」との出世の本懐の時来たるを示し給う文と一対にして、前代未聞の法華経の行者としての大難と能所不二の上から、熱原法難をも御自身の大難に含めて本懐成就を締(し)め括(くく)り給うたのであります。
以上『聖人御難事』の建長5年4月28日宗旨建立に関する御文を拝してまいりましたが、この文中に宗旨建立以来、一期の本懐成就に至る御化導が要括(ようかつ)されていることを明らかに拝すべきであります。
日寛上人はその広汎な著述中に2カ所ほど宗旨建立を建長5年4月28日と示されておりますが、これは宗旨建立より三大秘法顕発に至るまでの弘通の意により、この『聖人御難事』の文を取られたものであり、今日、宗門においても4月28日を宗旨建立の日と定めております。しかし、その2カ所の御文が必ずしも3月28日の宗旨建立の行事を否定されるものではないと思うものであります。
これを要するに、建長5年4月よりの題目は、その後の鎌倉期よりの初めにおいて、権実相対の法門の構格より、釈尊の一部八巻の法華経に名通する肝心としての題目の弘通の相がありましたが、法華経の行者たるお振る舞い、御化導の進展において竜の口の発迹顕本以降、本迹相対、種脱相対して本因下種の要法たる妙法を弘宣せられました。そして文永11年の『法華取要抄』に初めて三大秘法の名目を挙げ、末法弘通の法体を示されるとともに、その御本尊の当体・当相が弘安以降、下種本仏日蓮大聖人の人法一箇の当体として究竟せられ、これより三大秘法の整足をもって末法万年の一切衆生を化導すべき大法が本門戒壇の大御本尊として顕れ給うた次第であります。この大法は唯我与我一体の相伝をもって大聖人様より日興上人へ伝えられ、厳然たる付嘱の実証による正法正義が我が日蓮正宗に存するところであります。
思えば、大聖人様が建長5年4月28日の宗旨建立より、広く万機に対する弘通を開始あそばされ、弘安2年10月12日に本懐を成就されたことを拝するとき、本年宗旨建立750年の大佳節に当たり、明4月28日の大法要に続き、同29日より開始される30万総登山が10月7日まで60回にわたって行われ、その功徳をもって10月12日に本門戒壇の大御本尊御安置の奉安堂が建立されることは、まことに不思議な実相であり、まさにこの30万総登山と奉安堂の建立こそ、未来末法広布の大前進を示すものと信じます。
故に今日、宗旨建立750年を迎えて確固たる広布への大確信のもとに僧俗一致して前進するところに、あらゆる暗黒の世界を救い、赫々(かくかく)たる正法の功徳を必ず発揚(はつよう)するものと信ずるのであります。明後日より始まる30万総登山に対し、僧俗共に渾身(こんしん)の信力・行力を奮ってこの達成に邁進し、もって広大なる仏恩に報じ奉りたいと存じます。皆様のますますの御精進を祈り、本日の法話といたします。
※この御説法は修徳院支部の川人さんの御協力により掲載させていただきました。
※大白法第598号にしたがって、文面を一部修正しました。