大白法

平成14年6月16日号


主な記事

<1〜6面>

<7〜8面>


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宗旨建立750年慶祝30万総登山大法要に参詣して


○正境寺支部 鈴木真喜男

待望の宗旨建立750年の大慶事を迎え、法華講30万総登山の成就をもって慶祝すべく、我が正境寺支部からの第一陣は5月5日でした。前日の5月4日、正境寺から車で約50分の所にある鷹巣町に集合した32名は、午後7時、チャーターバスで東北自動車道の十和田インターへ向かいました。

東北自動車道に乗って30分ほど経過したとき、ある講員が黒の略礼服を忘れたことに気づきました。「しかたがない、御開扉及び大法要には参加せずに帰宅するしかない」となったとき、いきさつを聞いていたバスの運転手が家族に連絡を取り始めてくれました。偶然にも、仕事帰りの息子さんがバスの後を運転中で、自宅まで取りに行ってくださりサービスエリアで合流、略礼服を借りることができました。

あとは無事故で大石寺に到着するばかり、2時間ごとの運転交替時をトイレ休憩とし、途中、何度か休みながら首都高速、東名自動車道を乗り継ぎ、事故や渋滞に巻き込まれることもなく、午前4時前、足柄サービスエリアに到着しました。ここで1時間の休憩を取り、その間に洗面、朝食等を済ませました。そして6時前、総一坊バスターミナルに到着。御出仕で大石寺に滞在中の御住職が出迎えてくださいました。

その後、朝の勤行、着山受付など手続きが終了し、身支度を整えて8時半からの御開扉、10時からの大法要に臨みました。厳粛な大法要が終了し、客殿から出てきた一人ひとりは、皆、歓喜に包まれ笑顔でした。客殿前で、握手をしている、家族そろって談笑している、「宗旨建立800年をめざして」との願いを込めて記念写真を撮っている人等々。皆、50年に一度の大慶事に巡り合えた自身の福徳に、心から感謝せずにいられなかったに違いありません。

午後1時50分、菊地地方部長の見送りを受けて私たちは下山し、6日の午前1時半、解散地点の鷹巣町に無事に到着しました。車中では、30万総登山への第2陣、第3陣等に対する参加啓蒙の徹底、折伏誓願目標の早期達成、さらなる家庭訪問で法統相続の確立、経済等の厳しい現況の打破等々、それぞれが決意を堅固にして帰路につきました。


訓読


○大聖寺支部 細川良博

我が支部の30万総登山参加第1回目は、5月4日の第3会でした。これには、高橋知子さんが昨年、今年と折伏した遠藤さん、野村さんと、知子さんのお母さんが参加しました。他にも、今年の3月に妹さん夫婦を折伏した武田幸一さんが、家族8人と、入信した阿部夫妻と参加しました。知子さんと遠藤さんは視力がないため、付き添いで細川青年部長と私が参加しました。

今回の御登山では、知子さんが折伏した友人共々参加できたことの喜び、物静かな人だと思っていた遠藤さんがたいへん明るくなり、笑顔がすばらしく、本人も自分の回りが明るくなったと話していたこと、今まで折伏したことのなかった武田さんが、妹さんを御登山に参加させたい一心で折伏し、その一念が通じて一家そろって参加できたこと、その阿部さんが、今回は夫婦2人だけだが、子供たちを入信させたいと決意したこと等、感動することばかりでした。

また、少ない時間ではありましたが特別記念展を見学でき、有意義な登山会でした。私は付き添いですので大講堂での法要参加でしたが、この2つのグループの登山の様子には本当に感動させられました。この感動をバネに、支部目標完遂に自信の持てた一日でした。


展示


○妙通寺支部 水谷鈴子

私は5月12日に、一族7人そろって宗旨建立750年慶祝記念法華講30万総登山大法要に参加させていただきました。30万人の一人として87歳の高齢で無事に参加させていただくことができましたことを、御本尊様に深く感謝いたしております。

前日までの雨予報を覆して、当日はすばらしい慶祝日和に恵まれました。これも諸天のご加護でございます。大法要に参列するために客殿に入場いたしますと、大聖人様の御影様は、あたかも御書のなかの、あのお優しい御言葉を投げかけられるかのような慈愛に満ちたお姿で、じっと私たちを見守ってくださっているようでした。

そして大法要の荘厳さは、たとえるものもないほどでございました。猊下様、講師や問者の御尊能化様、御尊師様のお姿は、あまりにも尊く清らかで、とてもこの世のものとは思われません。「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1165ページ)と大聖人様は仰せです。これまで信心に励んでこられたのは、すべてこの大法要に参列するためではなかったかと感じたものでございます。

仏様は私に更賜寿命の大功徳をお与えくださいました。こうして元気に大法要に参列できたのも、大聖人様のお導きの賜であると拝察申し上げ、しみじみとこの信心の有り難さと我が身の福徳を感ぜずにはおられませんでした。

その昔、弘安5年9月、大聖人様の御命を受けられた御年23歳のお若き日目上人様が、幕府の要人・二階堂伊勢守の子息で天台僧の伊勢法印と十番問答を行われました。この時、日目上人様は、伊勢法印の邪義を完膚なきまでに論破されました。さぞかし凛々しいお姿でございましたでしょう。初めて拝聴いたしました論義式において、私はまさにこの問答における日目上人様のお姿を重ね合わせ、日蓮正宗の教義が750年を迎えてさらに未来まで、一筋の狂いもなく伝えられていくことを確信しました。

私は現在、何人かの方を折伏させていただいております。日蓮正宗の正しさを、学会員の方をはじめ多くの他宗の方々に強く訴えていくのは、今を置いて他にはないと思いました。「一閻浮提第一の大御本尊様です」、「何よりもすばらしい総本山大石寺です」と申し上げましても、自分の目で見て、肌で感じていただかなければ、理解していただくことは難しいものです。とにかく一人でも多くの方を折伏して、実際に総本山へお連れし、30万総登山に参列していただくことが一番大事であると思います。

妙通寺においては、私が最高齢で、私に比べれば皆様は、ずっとお若くて元気な方ばかりです。全国の法華講の皆様の活動に我が支部も遅れを取らないよう、五十展転の功徳を伝え、大聖人様の御照覧を伏して仰いでまいりたいものでございます。

信心とはたゆみない努力の持続でございます。今こそ一丸となって、大聖人様の仏子としてあかしの証を立て、大聖人様、猊下様への御報恩の誠を尽くしてまいりたく存じます。


※写真は大日蓮676号より。


破邪鉄槌
創価学会の言う『大聖人直結』の真意


邪教化の著しい池田創価学会が声高に唱える言葉に「大聖人直結」があるが、これはなにも新しいものではない。近いところでは昭和52年ごろに顕在化した謗法路線、いわゆる「52年路線」においてもはっきり述べていて、学会には宗門からその意義・内容を詰問されたにがい経験があろう。


<御法主上人を通しての大聖人への直結?>

この「大聖人直結」について、昭和52年路線当時の創価学会は、宗門の指摘により、いやいやながら作らされた『特別学習会テキスト』のなかで、「大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥台するとの意昧で述べたものであります。したがって、唯授一人、遣使還告であられる御法主上人猊下を通しての大聖人への直結であることは当然であります」(同書25ページ)と釈明している。

クロをシロと言いくるめるのをお家芸とする創価学会のことだから、にわかには納得しがたいが、そもそも「Bを通してのAへの直結」などという論理が成り立つのだろうか。

辞書を繰(く)ってみると、「直結=間にものをはさまないで直接結びつくこと。直接関係があること」(小学館・日本国語大辞典)とあって、そこに「B」が介在する余地はない。創価学会の言う「大聖人直結」はまさにこの意味であって、テキストに書いた「御法主上人猊下を通して」との回答は全くの詭弁である。


<「大聖人直結」「御書根本」は異流義の常套句(じょうとうく)!>

冷や汗をかきながら懸命に詭弁を弄(ろう)する創価学会首脳の姿はまことに哀れであるが、どうして再び「大聖人直結」を高唱しなければならないのであろうか。それは池田大作に、血脈伝持の御法主上人を押しのけて、その上に立ちたいという、大慢心があるからである。

いまさら言うまでもないが、末法の御本仏・日蓮大聖人の下種仏法は、本門戒壇の大御本尊を信仰の主体とし、化儀・化法の一切を唯授一人の血脈によって相伝されることによって正しく伝持される。その血脈を所持される御法主上人の御指南に基づいて信心をしてこそ、一切衆生の成仏もかなうのであり、そうした大聖人の正法を750年間、正しく受け継いだ宗団が日蓮正宗である。

この正系・正統宗団である日蓮正宗の教義とは異なった義を立て、宗門から分立し一派を形成していく流派−これを異流義と言うが、それら異流義は自らの存続のため、必ず血脈相伝による仏法の承継を否定しなければならなくなる。よって、日興上人以下の御歴代上人を抹殺せんとする「大聖人直結」とか、経巻相承と同義の「御書根本」などが常套句となって登場することになるが、創価学会もまた、多分に洩(も)れない。


<池田大作が言う「大聖人直結」の真意!>

大作は様々な機会に「大聖人直結」を述べるが、その主意は、大作と大聖人とが直ちに結びついているということを会員に知らしめるところにある。したがって、表向きは崇(あが)めているようであるが、実際には日興上人も、また日寛上人も必要ないと考えているのである。

つまり、「血脈の次第日蓮日興」と示される、唯我与我の僧宝・日興上人の意義を全く否定し、さらには相伝による御歴代上人の御指南もなきものとして、直ちに大聖人の仏知・仏見を得ることができるというのが大作の考えであって、その傲慢(ごうまん)非道にはあきれ果てるのみである。


※この原稿は修徳院支部の川人さんの御協力で転載いたしました。


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