大白法

平成14年7月1日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜8面>


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奉安堂のある風景

奉安堂7月1日


海外リポート
中華民国台湾宜蘭県に日蓮正宗東台布教所開所

中華民国台湾において、同国としては第4番目の法城となる待望の日蓮正宗東台布教所が開設され、6月23日、御法主日顕上人猊下の御名代として海外部長・尾林広徳御尊師が訪台し、開所式が盛大かつ厳粛に奉修された。

これには、本種寺住職・佐藤公妙御尊師をはじめ日本・アメリカ・アジアから有縁の御尊師方が多数御出席。また本興院主管・黒沢糾道御尊師をはじめとする同国在住の御尊師及び地元東台湾地域をはじめ全土から2,000名を越える信徒が勇躍して参集、同布教所の誕生を慶祝した。

法要は、午前と午後の計3回に分けて執り行われた。第1回目は現地時間の午前10時より、尾林海外部長の御導師のもと奉修され、御本尊御開扉・献膳の儀・説経・唱題と進められた。

引き続き式の部に移り、信徒代表による経過報告の後、新布教所の母体法人・中華民国日蓮正宗基金会の董事長である尾林海外部長より挨拶があった。その中で同部長は、「一人ひとりが参詣の志を立て、自らの生命を磨き、御報恩の誠を尽くしながら、多くの人々をこの布教所に案内して大寺院へと発展させていっていただきたい(趣意)」と述べられ、新法城の外護と台湾広布のさらなる進展に期待を寄せられた。続いて来賓祝辞、最後に責任者に就任された佐藤信俊御尊師より丁重な謝辞が述べられ、記念撮影をもって法要は滞りなく終了した。

このあと法要は、午後1時と3時半にも同様に奉修され、それぞれ信徒の喜びが堂内に満ちあふれていた。特に2回目と3回目の法要では、小憩をはさんで大慈院住職・上地広暁御尊師と香港事務所責任者・後藤史道御尊師より、日々の活動について報告が行われ、参列者は他国の同志の活動に熱心に耳を傾けた。

タ刻には宜蘭市内において祝賀会が開かれ、御尊師方及び信徒の代表あわせて約500名が一堂に会し、宗旨建立750年に符節を合わせて開設された新布教所の晴れの門出を祝福し、喜びを分かち合った。

なお新布教所は、宜蘭市と羅東市のほぼ中央部、宜蘭と羅東の両駅から車で10分前後という参詣の便のよい緑豊かな地にあり、約230坪の敷地に、堂々たる堂宇を構えている。

台北・本興院、高雄・法宣院、中台・中台布教所に次ぐ台湾第4の拠点の誕生で、台湾における僧俗和合の布教体制は一層磐石となった。特にこれまで遠隔の本興院まで足を運んでいた地元信徒にとって、僧侶常駐の新法城の誕生は大きな喜びであり、これを契機に今後台湾東部地域の広布の大きな前進が期待される。




30万総登山体験発表
玉林寺支部・久本静夫,山下熱海

○久本静夫

5月18日の第8会、玉林寺支部の登山第1回目に参加させていただきました。この日は、あいにくの雨でしたが、参詣の皆さんの生き生きした姿を拝見し、なんてすばらしい登山だろうと思いました。

三門で御題目を三唱するときに目がうるんで、涙が出て困りました。御開扉、記念大法要に参加させていただき、本当に感動し生涯忘れることができない登山になりました。御開扉で大御本尊様に班員の山下さんをお連れしたことを報告申し上げたとたん、目頭が熱くなり、涙がとめどなく出て目がかすみ、大御本尊様をよく拝することができませんでした。

山下熱海さんは、私がお世話させていただいている班員さんで、80歳になられます。60歳の頃に患い、右手、右足が不自由になられ、何をするにも車イスで用事を済ませなければなりません。最初は、登山参詣は無理だとご本人も言われ、とても行けるような状態ではありませんでした。

しかし、穴吹区長から身障者が自家用車で登山されたという話を聞き、私は、山下さんもぜひ30万総登山に参加させてあげたいと思い、お宅にお伺いし、30万総登山への参詣を勧めました。その時は、「今は入退院を繰り返しているから」と断られました、後日、再ぴお伺いした折も、「体力もなく登山する気力も自信もなくて、皆さんに迷惑をかけては申しわけない」と断られました。

私は、このよき年、30万総登山にどうしても参詣させてあげたい一心で御祈念し、懸命に唱題しました御本尊様に祈って祈り抜きました。そして「大白法」を届けにお伺いした折、突然「登山に行きます」と返事がありました、その声を聞き、「よく決心してくださいました元気で一緒に登山しましょう。必ず御本尊様が守ってくださいます」と激励しました。

早速、穴吹区長に連絡し、申し込みを済ませ、ご本人の要望をいろいろ聞いたうえ、区長の自家用車の座席を倒して寝台車のようにして、少しでも身体に負担のかからないよう横になって行けるようにと、区長が気を配ってくださいました。乗員数が限られるので運転を区長と林登山部長にお任せし、私はバスで登山させていただきました。いくら山下さんが登山すると言っても、私一人の力ではとても登山させてあげられなかったと思います。

こうして山下さんは20年ぶりに登山参詣でき、たいへん喜んでくださいました。後日、体調を伺いに訪ねたところ、登山前より元気な姿にあんど安堵いたしました。

御法主日顕上人猊下は「一切を開く鍵は唱題行にある」と御指南されました。そのとおり、朝夕の勤行を真剣に、御題目を唱えに唱えていけば必ず祈りが叶うことを信じて、一人でも多くの人を慈悲の心をもって折伏してまいります。


○山下熱海

どう云っていいのかわかりません。それが今の気持ちです。老齢で、しかも重度身障者でありながら、若者のように身をふるわせているのです、それは云いようがないのです。

昭和35年4月28日入信しましたが、昭和56年10月13日(自分の誕生日)、病気になって、それ以来は一度も登山をしていません。20年以上も、登山はできないものと一人で定めていました。

それが諸天の加護と同志のなみなみならぬ心づくしのおかげで、このたび登山をすることができました。この喜びは、何と云ったらよいのでしょうか。雪山坊の前でおもわず「折伏したい!」と叫びました。

鉄筋コンクリートで新興宗教のような風景であったお山も、重厚な建物に変わり、富士を背にした様相は、実に絵のようです。大作という無法者に依って汚された聖地が、今、今、蘇っているのです。この感激を、どう云っていいのかわかりません。只、嬉しくてなりませんでした。

「大歓喜の中の大歓喜」とは、このことでしょう。この登山は、私の脳裏に奥深く、刻み込まれ、これからは常に、知恵と勇気をもって、この感激を胸で反芻(はんすう)しながら、明るく明るく生きていかなければならぬと、心に深く深く感じました。




破邪鉄槌 『御書根本!?』

池田創価学会で頻繁に便用される言葉のなかで、一見、解りよさそうだが、本当はよく解らないものとして「人間主義」とか「御書根本」を挙げることができる。このうち、今回は「御書根本」について考えてみたい。


日什の「経巻相承」

日蓮大聖人滅後百年のころに顕本法華宗を開いた日什は、当時の日蓮宗各派の分派抗争を批判し、血脈相承と師資相承(師は師匠、資は弟子の意)を排して「経巻相承」を主張した。言うところの経巻相承とは、後世の者が経巻を読んで師の真意を悟り、付嘱を受けたと自称することである。


正論を述べる「新版ぶってつ」

これについて、創価学会の教学部が編んだ『新版仏教哲学大辞典』の解説は、たいへん興味深いので、ちょっと紹介してみよう。まず、総論的な破折として、「経典に依拠するのは仏教の基本であり、経巻を読んで仏の教えを学ぶことはだれでも同じで、特に相承を受けたなどと主張する必要はない」と述べているが、まことに明快な論理である。

同大辞典は続けて、「経巻<御書>から思い思いに学んでいくうちにいろいろの解釈や主張の乱れを生ずるので、単なる経巻相承<御書根本>では新たな分立諍論の基となる。そこで仏<日蓮大聖人>の真意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。仏教においては究極の法体はすべて血脈相承、師資相承される」(<カッコ>内の語句は筆者)とも述べている。これもまた正論であって、まことに立派な文章ではないか。

ここまで解っていながら、「御書根本」だとか「大聖人直結」などの邪義をまき散らす池田大作を諌められない創価学会教学部の阿諛追従(あゆついしょう)ぶりは、なんとも情けないかぎりである。


大事なことは「血脈相伝」の深義!

ところで、御書を根本とするとはいっても、その御書に示される法門は所対によって、それぞれの意義と価値が異なってくる。例えば『報恩抄』の、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書1036ページ)の文を読んで、血脈相伝の深義を知らざる他門下においては熟脱の教主たる色相荘厳の釈尊像を本尊とする。

池田創価学会も「御書根本」を標榜し、それ以外の血脈相伝を無用のものとするならば、他門下と同様に、当文を文字づらだけで判断して、金ピカの釈尊像をもって本尊とするのが順当であろう。

池田創価学会がそうしない理由は何か、それは、口では「御書根本」と言って独自の見解を立てた如くに述べるも、その実、歴代御法主上人から学んだ相伝による判釈を用いているからである。

この例からも判るように、御書の解釈の大綱を、他門にはない、日蓮正宗の相伝によよる判釈に依っていながら、自ら相伝を否定するのは、枝葉に執して根を切る愚であると言えよう。


池田大作が言う「御書根本」

池田創価学会が言う「御書根本」は、御歴代上人による相伝の仏法に頼らなくとも、御書さえ読めば、大聖人の仏意にかなうというものであるが、大作の言うそれは、さらにタチが悪い。

つまり池田大作は、自分勝手な我見をもって御書を解釈し、三大秘法を曲解しつつ、それでいて「私の御書の解釈の仕方が一番正しい」と考えているからである。

しかしながら、創価学会の辞典に述べられているように、それは全くの邪義であり、御本仏の聖意にかなうことはない。血脈相伝の深義を否定する池田大作の「御書根本」は、驕慢・浅識・不解・不信・疑惑・誹謗等の、十四誹謗のすべてに該当する大悪言であることを知らなければならない。



御書解説 光日房御書(平成新編958べ一ジ)

一、御述作の由来

本抄は、建治2(1276)年3月、日蓮大聖人様が55歳の御時の御述作です。御真蹟はかつて身延に所蔵されていました。一部分が切り取られて別の寺院へ移されたのち、明治8年の身延大火災によって本抄は焼失したため、先に切り取られた部分のみが現存しています。

本抄を賜った光日房は、大聖人様と同郷の安房国(あわのくに=現在の千葉県)天津(あまつ)という所に住んでいました。光日房は、息子の弥四郎が大聖人様に帰依したのをきっかけに入信した人です。弘安3(1280)年に大聖人様から御消息をいただいた「光日尼」、翌年にお手紙をいただいた「光日上人」とは同一人物と目されています。

さて、大聖人様は御一生の中で三度にわたって国家への諌暁を遂げられています。すなわち一度目は、文応元(1260)年7月16日の『立正安国論』の奏上です。そして二度目の諌暁は、文永8(1271)年9月12日、良観等の謀議・讒言(ざんげん)により、大聖人様を捕らえにきた平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)に対して行われました。さらに三度目の諌暁は、佐渡赦免の後、文永11(1274)年4月8日、幕府の権威を盾に取り、大聖人様を懐柔しようと企んだ平左衛門尉らに対して、大聖人様は堂々と仏法の正義を述べられたのです。

本抄では、この佐渡赦免から三度目の国家諌暁、身延入山までの経緯について詳しく綴られています。ですからこの時期の大聖人様の御様子を拝する上で、本抄は貴重な資料となっています。


さて、身延へ入られた大聖人様のもとに、同郷の光日房から便りが届きました。望郷の念を熱く懐かれていた大聖人様は、この便りをことのほか喜ばれました。しかしその手紙を読んで愕然(がくぜん)とされました。光日房の息子であり、若き日より熱心に信心を貫いていた弥四郎が逝去したとの知らせだったからです。

大聖人様は、最愛の息子を失った光日房の悲嘆を慰(なぐさ)めるとともに、法華経を信仰するが故に惹起(じゃっき)する法難は諸天の加護により必ず乗り越えることができるとの確信を綴り、光日房の一層の信心を励まされた書が本抄です。


二、本抄の大意

本抄は、内容において大きく三段に分けることができます。

第一段目では、文永8年9月の竜の口法難とそれに続く佐渡配流から、文永11年に身延へ入られるまでの経緯を語られています。中でも、「日本一国が挙(こぞ)って崇拝する念仏信仰や武士の間で崇められる禅宗、さらに朝廷で重用される真言密教等について、日蓮は徹底してその邪義を破折しているのであるから、国家による法難を受けることは当然である」と示されています。

ところが、「法華経の行者を守護する諸天の不思議な加護により、無事に鎌倉へ戻ることができた。一刻も早く故郷を訪ねて両親の墓参をしたいと願ったものの、未だ大法広布という初志を貫いていないため、断腸の思いで身延へと入ったところ、光日房から久方ぶりの手紙を受け取り、懐かしさのあまり心から喜んだ」と語られています。

次に第二段目では、弥四郎の逝去を悲しまれるとともに息子を失った光日房の悲哀を慰撫(いぶ)し、信心によって立ち直るよう教導されています。中でも武士として多くの人を殺した弥四郎が果たして成仏できるのだろうかとの光日房の質問に対して大聖人様は、「たとえ悪人であってもその罪を懺悔し、法華経を信ずれば必ず成仏することができる。特に母親を法華経へ導いた孝養の子が成仏できないはずはない」と断言されています。

そして第三段目においては、妙法を唱える者は法華経の敵を見抜き、その敵を恐れずに果敢に立ち向かってこそ成仏は叶うこと、故弥四郎への追善供養の大事を説かれ、本抄を終えられています。


三、拝読のポイント

<正法流布には必ず魔が出来する>

大聖人様は本抄に、「日蓮はさせる失(とが)あるべしとはをも(思)はねども、此の国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすか(賺)されぬるゆへ(故)に(中略)上一人より下万人にいたるまで、名をもき(聞)かじ、まして形をみる事はをも(思)ひよらず。さればたとひ失なくとも、かくなさるゝ上はゆるしがたし」と示されています。つまり何ら世法上の罪のない大聖人様が迫害を受けられるのは、正法流布への障魔の用きであるということです。

これは法華経に、「濁劫悪世(じょっこうあくせ)の中には 多く諸の恐怖(くふ)有らん 悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱(めりきにく)せん 我等仏を敬信(きょうしん)して 当に忍辱の鎧を著(き)るべし 是の経を説かんが為の故に此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず但無上道を惜む」(法華経377ページ)と説かれるように、末法濁悪の時代に真実の法華経すなわち文底秘沈の南無妙法蓮華経を流布する人には必ず諸難が競うのであり、このことを末法の御本仏大聖人様が身をもって実証されたことに他なりません。

ですから『兄弟抄』に、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」(御書986ページ)と仰せになるように、私たちが折伏行に邁進するとき障魔が出現するのは、まさしく御本仏のお心に適った正しい仏道修行を実践していることが証明されているということなのです。


<魔の正体を見抜く>

大聖人様は本抄に、「法華経を信ずる人は、かまへてかまへて法華経のかたき(敵)ををそ(怖)れさせ給へ(中略)かたきをし(知)らねばかたきにたぼらか(誑)され候ぞ」と仰せです。

障魔はあらゆる形で私たちの仏道修行を妨げます。特に池田創価学会のように、本門戒壇の大御本尊様への信仰と唯授一人の血脈への尊崇を破壊しようとする大謗法に対して、その悪義を破折すれば、川の流れに竿を差したときに激しく波がたつような大きな障魔が起こります。ここで大聖人様が「敵を恐れるべし」と示されたのは、恐れて逃げるという意味ではなく、魔の用きを十分に見極め、紛動されることのないよう用心すべきであるという意味です。

『椎地四郎殿御書』に、「大難来たりなば強盛の信心弥々(いよいよ)悦びをなすべし。火に薪をくわ(加)へんにさかん(盛)なる事なかるべしや」(御書1555ページ)と示されるように、燃えさかる火にさらに薪を加えるように、いかなる障魔が競おうとも私たちは決して怯(ひる)むことなく、一層の信力・行力を振り絞って破邪顕正の闘いに尽力することこそ成仏のための唯一の修行と心得るべきです。


<折伏によって罪障を消滅>

『御講聞書』に「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり」(御書1818ページ)と示されています。つまり末法の南無妙法蓮華経の仏道修行による功徳は、折伏を実践してこそはじめて得られるのです。そして一生にわたって自行化他の妙法を唱え切っていくならば、本抄に、

 「大石も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用(ゆう)にあらずや。小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪き(消)へぬ」

とあるように、たとえ過去世に謗法悪逆の姿があったとしても、一生のうちに必ずその罪障を消滅させていくことができるのです。


四、結び

大聖人様は、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(御書1242ページ)と仰せられ、南条時光殿に富士方面の大折伏の一切を任されていました。

総本山のお膝元にあっても、北海道や九州などのような総本山から遠く離れた地にあっても、私たち法華講員一人ひとりは、大聖人様からその国土の広宣流布を任された地涌の菩薩の眷属です。私たちが地涌の眷属としての誇りを持つならば、おのずと私たちの果たすべき使命は明白です。

御法主日顕上人猊下は、平成11年の出陣式の砌、「地涌の菩薩は、世の腐敗・堕落の泥水に染まらぬこと、蓮華の水に在るが如く、しかもその汚泥を離れず、大慈悲をもって志念力堅固に妙法を弘通することが経文の相であります。つまり、世間の迷いのなかの悪習・悪風に盲従せず、妙法受持を根本として折伏の信念を持って濁悪の世を進むことこそ、地涌の使命であります」(大白法517号)と示されています。

私たちは困難な時こそ唱題の実践によって地涌の眷属としての自覚を新たにし、障魔の用きをむしろ喜びと受け止めて、30万総登山の完遂のために一層の折伏に精進してまいりましょう。


※この記事は修徳院支部の川人さんの御協力で転載いたしました。


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