大白法

平成14年7月16日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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奉安堂のある風景

奉安堂7月16日


法華講30万総登山


○光明 『ご登山のよろこび』

車イスで付き添いの方に守られながら、満面の笑顔こぼれんばかりのお年寄りのご婦人が、客殿から出てこられる。法華講30万総登山では、参詣者に100歳、90歳という高齢者や、身障者を多く見かける。しかも、宿坊から御開扉・大法要の会場へ塔中を移動するときなど、孫や子、伴侶に囲まれて。または、支部の手伝いの青年たちが介助して、それはそれは賑わしく楽しげである。そうやって周りの人と語り合い、晴れの慶祝登山に参列できた喜びを確認しているのが伝わってくる。

法要後、参列者の退場が終わる頃、車イスで参列していた方々7・8名が大講堂の前に並んでいた。付き添いの方に伺ってみると、福岡からバスに乗って12時間かけて登山してきたとのこと。疲れた様子もなく、「支部の青年の人たちがよく面倒を見てくれて、私たち家族も安心でした」と、高齢の親・祖父母を無事に総本山に連れて来ることができ、ほっとしていた。

雪山坊

また、そういう方々のために、総本山では数々の配慮をしてくださっている。山内は、8月の始めくらいには、三門脇に清貫洞出入り口と並んで、車イス用のスロープの出入り口が出現、通行できる予定である。他にも、高齢者や車イスの方が使いやすいように、宿坊を改修し、塔中参道は石畳のくぼみを一つひとつ埋めて平らにし、石段の端になだらかなスロープを設け、傾斜のある側溝は蓋をするなど、細心の準備をして登山者を待って下さっている。

西裏溝

法華講連合会でも、駐車場の配慮をはじめ、奉安殿・客殿等への入場の際には介助の任務者が、献身的に汗を流している。「ここ何年も、遠慮してご登山を諦めていた。行けば、大勢の世話になってしまうから」と言う。かつて創価学会時代の登山で、切り捨てられてきた弱者が多いことを改めて知った。しかし今、総本山の境内には、家族や講中が当たり前にお年寄りの世話をし、家族そろって参詣するという法華講本来の姿が蘇っているのである。



○教学用語解説(折伏の大事)

▼折伏の意義−抜苦与楽−

日蓮大聖人は『立正安国論』に、「世皆正に背き人悉く悪に帰す(中略)是を以て(中略)災起こり難起こる」(御書234ページ)と、大災害や大事件が起こるのは、邪宗教の蔓延によることを明かされました。そして、謗法による人々の苦悩を取り除き、本当の幸せを得せしめるために教えを説かれたのです。つまり、この人々の苦を除き楽を与える「抜苦与楽」の行為が折伏の基本精神です。

▼折伏とは慈悲行にして報恩行

『諌暁八幡抄』に、「只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。比即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(同1539ページ)とあります。大聖人の謗法者に対する忍難弘通は、ひとえに衆生を愍むがゆえの行為、慈悲行にほかなりません。

また『四恩抄』には、「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(同268ページ)と仰せです。私たちが折伏を行ずることは、下種三宝尊に対する真実の報恩になるばかりでなく、恩ある一切の人々への報恩ともなるのです。

▼法体の折伏と化儀の折伏

折伏には、法体の折伏と化儀の折伏があります。大聖人は宗旨建立以来、四箇の格言をもって諸宗を厳しく破折されました。これは大聖人が法華経の行者としての折伏行を通して、御本仏の御立場を明らかにされ、また御自身が所持される久遠元初の本法を顕されるためでした。その本法とは、末法に流布すべき三大秘法です。

その上で、大聖人は末法万年・尽未来際(じんみらいさい)の衆生を救済する根源の法体として、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。この根源の法体が建立されたことを「法体の折伏」といいます。

次に化儀の折伏とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法を、日本をはじめ全世界に広く流布せしめて、人々に唯一絶対の信仰を受持させることです。言い換えれば、本宗の僧俗が真剣に折伏弘教に遭進していく姿が「化儀の折伏」に当たるのです。

▼如説修行の功徳

如説修行とは、法華経に説かれているとおりに修行することをいいます。如説修行の行者は、たとえ三類の強敵が起ころうとも、いかなる魔が競ってこようとも、必ず偉大な功徳を頂戴し、幸せな自受法楽の境界に安住できるのです。それには大聖人の御意に叶う「如説修行」の振る舞いである折伏を実践していくことが肝要です。

▼転重軽受の功徳

転重軽受とは、折伏を行ずることによって過去のすべての罪障や宿業を今生に軽い果報として受けることです。

大聖人は『佐渡御書』に、「般泥亘経に云はく『善男子過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに(中略)余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯護法の功徳力に由る故なり』等云云。(中階)此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。(中略)此の八種は尽未来際が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚(あつ)まり起こせるなり。(中略)『斯護法の功徳力に由る故なり』等は是なり」(同582ページ)と仰せです。

業病の苦しみや家庭不和、生活の貧しさなどは過去からの宿業によるものですが、真剣に折伏を行ずれば、その護法の功徳力により、それらをことごとく解決できるのです。

▼仏の誡め−謗法与同罪−

大聖人は御書のいたるところに、謗法を許さず、謗法を呵責すべきであると誡められています。日寛上人も『如説修行抄筆記』に、「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(日寛上人御書文段608ページ)と、身口意の三業にわたって折伏を行ずべきことを固く誠められています。

法華経の敵(かたき)を許さず、立正安国の精神を胸に、敢然と邪義・邪宗を破折してこそ、真に大聖人の御意に副(そ)い奉る修行となり、謗法与同の罪を逃れることになるのです。

▼化他の折伏は自行の実践より起こる

御法主日顕上人猊下は、「かくて毎日の題目受持の功徳は、或る時には直ちに罪障消滅の不可思議な現証となって顕れ、また次第に積って五尺の器に充満し、おのずから化他の徳となって外へ流れ出ます」(大白法277号)と、毎日の勤行・唱題を着実に実践することによって、必ず化他行である折伏を実行することができると御指南されています。

▼御本仏の御遺命「広宣流布・戒壇建立」

大聖人は『撰時抄』に、「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内に(中略)広宣流布せさせ給ふべきなり」(御書837ページ)と御教示です、今こそ、私たちが果敢に折伏を実践し、その尊い使命を果たしていく時です。御本仏の御遺命たる広宣流布と本門戒壇建立の実現に向かって、その礎(いしずえ)を築くべく、「法礎建立の年」に相応しい信行の実践をいたしましょう。



○体験発表 『眷族18人で30万総登山へ』 寿海寺支部・郡司勝江

私は、寿海寺支部で会計を担当させていただいております郡司勝江と申します。昭和59年3月4日に、近所に住む姉から折伏されて入信いたしました。きっかけは、当時同居していた姑との人間関係の悩みでした。姉から、「人を責めるのではなく、自分自身が変わらなければ問題は解決しない」こと、そして、「この信心をすれぱ必ず自分の命が変わって、相手をも変えることができる」ということを聞いて、半信半疑ながらも、姉の確信と私を思ってくれる心に打たれて入信いたしました。

入信してすぐに、姉に誘われるまま総本山大石寺に連れていってもらいました。そのときのことは忘れられません。初めて大御本尊様に御目通りしたのに、次から次へと涙が込み上げてきて、言葉では言い表せない感激が胸を塞(ふさ)ぎ、不思議な気持ちでいっぱいになったことを今でも覚えています。そのような私に姉は、信心についていろいろと細かく教えてくれました。それが私の信心の原点になっていると思います。

その後、創価学会問題が起こり、学会の指導に矛盾を感じた私は、平成4年に法華講に入講いたしました。しかし、姉は、未だに創価学会を抜け切れずにいます。あれほど信心に厳しく、信心の根本をよく判っているはずの姉なのに、非常に残念でなりません。

入講してからはお寺を中心に、お寺の行事があるときには必ず参詣して、御住職・菅野蔵道御尊師の法話を聞き、一生懸命に御題目を唱えることを心がけてきました。そうした中で、姑との間にはこれといった問題も起こらず、姑は平成7年に他界し、無事に嫁としての役目を果たすことができました。姑と私の板挟みにあって何も協力せず、また信心にも反対していた主人が、母を送り出してからは、「いろいろよくやってくれた」と、感謝の言葉をかけてくれたり、あれだけ反対していた信心にも協力してくれるようになっていました。未だに入信には至りませんが、一緒に登山できますよう、御本尊様に祈っているところです。

さて、話は変わりますが、私は平成12年3月31日に郡山市役所を定年退職いたしました。同僚たちの話を聞きますと、退職記念に海外旅行をしたり、高価な指輪や装飾品を買ったりするらしいのですが、私はもっと素晴らしいことがあると気づきました。それは、いつもお世話になっている寿海寺の本堂の畳替えをすることです。お寺のお掃除をする毎月の奉仕会のときに畳拭(ふ)きをしながら、拭く度に表面の塵(ちり)が付いてくるのを見て、大分傷んでいると感じていたからでした。

さらに、奉安堂の御供養はもとより、我が家の新築にともない、主人の許可を得て新しい仏壇を購入し、御住職様に入仏式を執り行っていただきました。新築が決まったとき、自分だけが新しい家に入る気持ちにはどうしてもなれず、ぜひ御本尊様にも新しい仏壇に入っていただきたかったのです。入仏式以降は、毎日がうれしくて楽しくて、1日に3時間以上、多いときには5時間と、御題目を唱えさせていただいています。御題目を唱えていると、御法主上人猊下の「1年に1人が1人乃至以上の折伏を」との御指南が聞こえてきて、友人を折伏しようという意欲が涌いてくるのです。

そして、最初に折伏を成し遂げたのは、平成11年の6月。同僚の日下部芳子さんでした。いろいろな悩みを抱えていた日下部さんに、姉から折伏されたように話してあげただけでしたが、日下部さんは普段の私を見ていて何かを感じていたらしく、話を聞きたいと言ってくれました。そして、日下部さんは御授戒を受け、入信しました。

その後、平成12年11月26日には、私の信仰の姿を見ていた甥夫婦から「助けてほしい」と相談を受け、これも同じく、「人のことばかり責めていないで、自分自身を反省し、お互いに相手に何ができるかを考えなさい」ということと、「この御本尊様にはすごい功徳があるのよ」ということを話し、信心することを勧めると、夫婦そろって入信を決意し、御本尊様を御下付して戴くことになりました。

次に、昨年の2月7日には、郡山市内に住む兄より電話があり、「信心をしたいからお寺に連れていってくれ」と頼まれました。講頭さん夫妻に折伏していただき、謗法払いをして御本尊様を御安置することができました。

その後も不思議と、思わぬ人から話を聞きたいと言われて、折伏ができました。それは、決意した300万遍の唱題をやり遂げたときのことです。知人の佐藤美枝子さんと世間話をしていたときに、信心の話となり、私が日蓮正宗の信仰をしていることと、御本尊様の偉大さをお話しました。佐藤さんは、「私もその信心をしたい」と言われたのでお寺に連れていき、御住職様に話をしていただいて、昨年の3月24日に御本尊様を御下付戴くことができました。

それから半年が過ぎた頃、幼なじみの柳内佳津子さんが久しぶりに我が家に遊びに来ました。そのときも世間話から信仰の話となり、私は一生懸命に折伏しました。すると、彼女は素直に信心をすると言うのです。私はうれしくなって、8月29日に柳内さんをお寺に連れていき、御本尊様を御下付して戴きました。

今年に入ってからは、2月の初めに近所の橋本富子さんという方が遊びに来ました。橋本さんは、私が信仰をしていたのは知っていたそうですが、創価学会だと思って声もかけないでいたそうです。「今年が立宗750年という歴史のある、そして一番正しい日蓮正宗という信仰なのよ」と教えてあげると、御住職様のお話を聞きたいと言ってくれました。お寺に案内し、2人で御住職様のお話を伺ったところ、橋本さんはたいへん感激されて、近いうちに御授戒を受けることになっております。

こうして、平成11年の6月から昨年の8月までに、甥夫婦と子供たち、それに兄夫婦や佐藤さん、柳内さん、日下部さんと、5世帯9人の人たちを御本尊様に縁させることができました。この間、身内の者を含めて、今まで何気なくお付き合いをさせていただいていた人から「仏法の話を聞きたい」と求めてこられたことに対して、私はたいへん不思議な縁(えにし)を感じております。これも最初に姉に言われたように私が変わったからなのでしょうか。自分では少しも変わっていないように思うのですが、周りを見ると、何かしら変わってきていると、少しずつ感じているところです。

いずれにいたしましても、この方たちを一人前に育て上げるまではこの縁を大切にしていきたいと思っております。そして、私自身も、成長するためには組織の中にしっかり入って、御住職様をはじめ、先輩たちの信心の姿から学ぶしかありません。縁の人たちにも絶えず声をかけて、行事には必ず出席するようにと励ましております。

いよいよ始まる30万総登山参詣は、折伏させていただいた9人の人たちと、私の家族9名を合わせて18人になります。夫だけが未入信ですので、10月の慶祝登山の最終までには折伏して、主人も総本山に連れていきたいと念願しています。

この数年の信心を通して、「正しい願いは必ず叶う」ことと「御本尊様に間違いはない。すべては自身の信心なのだ」ということを実感してまいりました。これからも、目標と確信をもって精進してまいりたいと思います。


※この原稿は、若山様の御協力で転載いたしました。


千歳空港


○体験発表 『ご住職のもと、活発に学会員・正信会員を折伏』 宣正寺支部・鈴木昌子

皆さん、こんにちは。本日は第9回静岡地方部総会、まことにおめでとうございます。本日は、一昨年よりの支部折伏活動と本年の決意を発表させていただきます。

私は主人と共に、平成5年11月19日、長年在籍した創価学会と決別、脱会し、法華講に入講しました。平成12年2月29日、宣正寺第2代御住職として、今野信円御尊師が御赴任され、3月1日の御経日より宗旨建立750年の大佳節をめざし、新たな気持ちで出発しました。4月28日より、御法主上人猊下御指南の「百日間唱題行」が始まって、支部においても徐々に僧俗一致の折伏活動が開始されました。35世帯の支部折伏目標を掲げ、御住職の御指導のもと、講頭さんを中心に講中には折伏への意欲が涌いて、盛り上がりが見られるようになりました。

5月になり、役員の手で学会員の古い名簿をもとに、一軒一軒の地図をつけた事績表が作成され、その事績表に基づいて昼夜に分けた幅広い、折伏活動が展開されました。昼間は、限られた人数ながら、何枚かずつの事績表を持って、一軒一軒地図を頼りに折伏に励みました。移動手段のない私たちのために、仕事の合間を縫っては車を運転してくださった岡本さんや、このような日のためにと密かに教習所に通って免許を取得され、一緒に活動してくださった熊谷さんなどの応援もあり、遠方の折伏先も難なく訪問することができました。活動後はお寺に戻り、御住職に結果を報告し、事績表に様子を書き記して帰宅します。時間が限られる夜の活動者は、その事績表を見て、昼間不在だった家や、夜でも訪問できる家庭に行きました。

平成12年9月15日に行われた宣正寺支部の折伏完遂・決起集会では、渾身の力を込めた力強い御住職の御指導をしかと心に受けとめ、折伏成就の決意をそれぞれが誓い、出陣しました。その後の活動の中でも、事績表の効果は意外に大きく、私も班の杉田さんと共に訪問した、寺田さんを折伏することができました。寺田さんは、「学会は総本山を乗っ取ろうとしていたのではないか」と、日頃よりたいへん悩んでおられたのです。2時間あまりの話の中で、寺田さんは脱会の決意をされ、翌日勧誡を受け、入講しました。このような折伏活動の中で一軒、また一軒と折伏が実り、宣正寺支部にとってはかついてない14世帯の成果で「折伏実行の年」を終えることができました。

そして平成13年「誓願貫徹の年」、30万総登山に向け、厳しい一年が始まろうとしていた折、テレビで放映中の「北条時宗」を観たと言って、一人の壮年がお寺に駆け込んできました。学会員でしたが、自ら勧誡を願い出てきたのです。「時正に来たれり」とはこのことでしょうか。

その後講中は、7つあった地区を5つの地区に編成し、赤池新講頭さんをはじめ新役員も任命され、新体制で発足し、3月4日には支部総会が盛大に開催されました。私も御住職より再度、地区の婦人部担当の任命をいただきました。使命の重大さと、保健委員と体育部役員を兼任する地域の活動との責務の重さに一時は悩みましたが、御住職が、「私は愚癡を言いません。信徒の皆さんにも言わせません」と言われたその言葉をふと思い出し、「そうだ愚癡を言っている場合ではない」と決意しました。


平成13年の支部総登山は400名以上を目標とし、支部折伏目標は50世帯完遂をめざして出発しました。お寺での唱題会も午前は10時半から、午後は7時から、10月まで毎日行われることとなりました。

そして、折伏推進のために、御住職はいくつかの御提案をなされました。一つに、折伏したい方々の名前を書いて提出すること。二つに、徹底した家庭訪問によって、30万総登山の御祈念表に署名をしていただくこと。三つに、御住職による家庭訪問を行うこと。四つに、新来者のための3回に及ぶ折伏推進登山を行うこと。これはその後、勧誡者・御本尊御下付という成果を生み、尊い活動となっています。

御住職は一度折伏を耳にされると、遠隔地の鹿児島であろうが熊本であろうが足を運ばれ、まさに東奔西走なされています。そのような御住職を常に追い求めていかないと、折伏の陣列から取り残されてしまいそうで、毎日を必死に活動に励みました。

昼間の活動は、午前10時半からの唱題を終え、手弁当で、それぞれ折伏に、家庭訪問に散って行くのですが、人数は少ないながらもやる気満々の婦人部ばかりです。和気あいあいと、互いの活動を語り合い、励まし合って、それは楽しい折伏活動の毎日でした。それでも、ときには一人減り、二人減りしていく午前の唱題会で、御住職自ら太鼓を打ってくださることもあり、その力強い響きは心に染み渡り、どれほどの勇気と自信を与えていただけたことでしょうか。

夜の活動は、7時からの唱題を終え、壮年の方々を交え、地区にこだわらず、とにかく徹底した折伏活動と家庭訪問に励みました。折伏先で、「塩をまくぞ」と言われるくらいはよいほうで、実際に一握りの大塩をまかれ追い出されたときもありました。

折伏によい方法はないかと考えていたとき、『大白法』に掲載されていた柳沢総講頭さんの「この時を失せず、御自分の親戚、身近な人々に手紙を書いたり」(大白法566号)という御指導に目が止まり、手紙作戦を思い立ちました。活動の合間を縫って、ときには深夜にかけて書き綴り、かつて訪問した学会員や縁者はもとより、久しく支部の活動から遠ざかっている地区員に至るまで何通も何通も送り続けました。

後日反応を見るために訪問してみると、「血脈のない御本尊では功徳はないと言われ、ショックであった」とか、「あんなに『ニセ本尊』、『ニセ本尊』と言われたら、拝めなくなってしまった。女房はもっと悩んでいるよ」などと言われました。お寺にお誘いしたのですが、判っているがしがらみがあるから学会でやっていくしかないと、あきらめきった様子でした。折伏には至らなかったものの、手紙の効果も多少はあったと推察できました。こうした弛みない唱題と折伏の中から、一世帯、また一世帯と、着実に成果は増えていきました。

私は、「誓願貫徹の年」に何としても長女と三女の勧誡を成就しなくてはと、決意していました。ある日、長女より「既に『ニセ本尊』に換えられてしまっている」と、告白の電話があったと主人から聞かされ、愕然としてしまいました。主人と私は、娘の顔さえ見れば「『ニセ本尊』にだけはするな」と言い聞かせてきました。ところは、娘婿は娘の猛反対を押し切り、母親にも内緒で『ニセ本尊』交換に踏み切っていたのです。娘夫婦に、とにかくお寺に来るよう説得を重ねました。そして、自分の誕生日である3月11日を決意の日としてお寺に臨んだ長女は、御住職の温かい御指導をいただいて、無事勧誡を受け、入講できました。まだまだ問題山積みではありますが、7年あまりの歳月、祈り続けた長女の勧誡は、ひとまず成就できました。また、5月30日には、三女も、生まれた息子の御授戒に合わせ、勧誡を受け入講しました。

その後私は、班の杉田さんと共に正信会の大石さんを折伏しました。大石さんは、脳梗塞、けがと次々と起こる難に疑問を感じ、近所に住む正信会員が、正信会のお寺に大金をつぎ込んで4日後に亡くなったことに不信を抱き、悩んでいました。私は、大石さんに、所属している正信会寺院は邪宗であり、正宗の信心をしなければ、絶対幸せになれないことを話しました。「お山に行きたくない?」と聞いてみると、「日蓮さんに逢いたいよう」と言われ、本門戒壇の大御本尊様への渇仰恋慕の心があれば大丈夫だと確信しました。勧誡の決意もあることを確認し、翌々日、お寺にて勧誡を受け入講こうすることができました。

また、正信会のSさんは、勧誡を受けたのですが、ビデオを持って日参する正信会住職のしがらみを断ち切れずにいました。その後、Sさんは病弱の上、入院、手術と重なって、見る影もなく痩せ衰えてしまいました。

一方、大石さんは、相も変わらず日参する正信会住職に、ただただ「お山に行きたいの」の一点張りで、「あんたは邪宗じゃ」と住職に言われると、「住職さんこそ邪宗じゃないですか」と反発するほどの生命力です。入講後の体の回復はめざましく、杖は不要となり、自転車で買い物にも行けるようになり、折伏にも意欲を燃やし、ややもすると私たちが発破をかけられてしまいます。

また、喜んで勧誡を受けたにもかかわらず、正信会に戻ってしまったNさんは、正信会住職に誑かされ、正信会ビデオ持参で地区の杉本さんの家に脱講運動に来たのです。しかし、そのことがあって逆に発奮した杉本さんは、直ちに長年の知人でもある正信会の岩井さんを訪問、まずは岩井さん、ほどなくして奥さんと次々に折伏しました。その後、岩井さんの奥さんは、別居している息子さん夫婦と2人のお孫さんを、お寺で御住職に折伏していただき、それぞれ勧誡、御授戒を受け、御本尊様を御下付戴くことができました。

大石さんや、岩井さんのように、数々の方が入講する一方、Nさんのように正信会に連れ戻されていく人を見ると、この人たちを、何とかくい止める方法はないものかと、重いあぐねていました。そこで私は御住職に悩みを打ち明けてみたのです。すると御住職は、いつの間にご用意されておられたのか、「昌子さん、正信会のビデオ観ませんか」と言われ、見せてくださったのです。御住職のお心づかいがうれしくて、こみあげる涙をこらえながら、一方ではどんなビデオか興味津々で食い入るように画面を見つめました。また、正信会についての資料もすぐさままとめて、何部もコピーしてくださいました。

日々活動に励む中、私は御本尊様より、たいへんな御加護を戴くことができました。折伏の帰り、青信号の市道交差点の横断歩道を、自転車の引きながら渡っているときのことでした。猛スピードで対向してきた車が急に左折し、私を目がけてきました。私は、「ひかれる」と思い、思わず目をつぶりました。頭の中は真っ白になり、あまりの静けさの中で恐る恐る目を開けると、左側には信じられないほど近くに車がピタッと停車していたのです。これは不思議な力が用いたとしか、どうしても思えないのです。何とか横断歩道を渡りきり、やっと我に返りましたが、足はガクガク、心臓はバクバク、口をついて出るのは、「御本尊様ありがとうございました」、「南無妙法蓮華経」、ただただこの繰り返しでした。「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1156ページ)の御文を拝し、大佳節を前にまだ使命があったのだと報恩感謝の毎日でした。

さて、様々な努力の結果、平成13年の支部総登山は、バス6台、高齢者と身障者を乗せた車が5台、総員で300名となりました。目標には及びませんでしたが、勇猛果敢な御住職の陣頭指揮のもと、講頭さんを中心に、講中一丸となって成し遂げた37世帯の成果に決して悔いはありません。「一年に一人が一人乃至それ以上の折伏を」の御法主上人猊下の御命題にお応えできた喜びでいっぱいでした。季節の到来も忘れるほどの目まぐるしい、あっという間の一年であったような気がします。


そして「法礎建立の年」が明け、私は新年早々より病魔に見舞われ、お寺のでの毎日の唱題行にも出遅れてしまいました。主人からは、「折伏、折伏と飛び回っているほうがお母さんらしい」と言われて発奮し、後半の唱題行には何とか参加できました。

ところが、病が癒える暇もない2月5日、大佳節を待たず、あまりにあっけなく母が他界してしまいました。次から次へと、いつにない厳しい現実に、宗旨建立750年の大佳節なればこそ、このような魔も競い起こっていることを、改めて確信しました。「一年に一人が一人乃至それ以上の折伏を」の御法主上人猊下の御命題は、今年も続行し、取りこぼしのない折伏をし、一人も漏れなく大佳節への参加が叶うようにと御祈念していきたいと思います。また、己心の魔に負けることなく、法華講30万総登山達成を願い、弛みない唱題と悔いのない活動に邁進していく決意です。


※この原稿は、谷口様の御協力で転載いたしました。



破邪鉄槌 創価学会の『人間主義』の正体は?


今般の創価学会問題が表面化した平成2年ごろより、学会の機関紙誌に登場してきた言葉に「人間主義」がある。学会では「ヒューマニズム」と同義で使うことが多いようであるが、言葉自体が抽象的であり、その使われ方も様々で、意味するところがなかなか判りづらいのも事実である。そこで、学会はこの言葉をもって、結局、何を言わんとするのかを考えてみたい。


<新教義を構築するための「人間主義」>

平成3年11月に宗門から破門された創価学会は、自らの正当性を裏付けるための、新しい教義の構築が緊要の課題であった。そこで、まず、学会員でもある御用学者の松戸行雄に、『人間主義の日蓮本仏論を求めて』(以下、『人間主義』と略称)や『日蓮思想の革新』(以下、『革新』と略称)という本を書かせて、世間や学会員の反応をうかがい、そのあとで池田大作をはじめとする創価学会幹部が、それらの本に書かれている教義内容に沿って会員を洗脳していくという方法を採ったのである。


<「人間主義」とは凡夫本仏論>

「人間主義」という言葉について、松戸は、「人間主義仏法の根本的立場は、自行化他の題目を実践する私たちが凡夫の体そのままで南無妙法蓮華経の九界即仏界を体現する地湧の菩薩であるとする『凡夫本仏論』である」(革新 まえがき)と述べ、凡夫本仏論が「人間主義」の根本的立場であるとしている。この凡夫本仏論を打ち立てることにより、池田大作を日蓮大聖人と比肩し、ついには超越させることをもくろんでいるのである。


<大聖人と肩を並べたい大作>

松戸は、大作の本音を代弁するかのように、「日蓮大聖人も法主も池田名誉会長も、そして私たちも全く同じ『人間』である(中略)大聖人だけが特別に神格化され、久遠本仏に祭り上げられる必要はない」(革新47ページ)と述べ、久遠元初の御本仏である大聖人を「全く同じ人間」と見下し、迷いの凡夫と同列に仕立てようとする。

このように松戸によって地ならしがなされた上で、池田大作自身も、「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」(平成6年5月26日付聖教新聞)と言い、凡夫本仏論を創価学会の教義として定着させていく。学者や著名人の論を利用しながら学会員を洗脳していくのが、いつものパターンである。


<大作が「人間主義」の王者?>

さらに松戸は、「池田SGI会長は徹底した真の人間主義の王者だからこそ、会員はますます敬愛し、信頼し、共に広宣流布のために動くのである」(人間主義 まえがき)と述べ、一方では大聖人を迷いの凡夫に引き下げながら、一方では大作を「人間主義の王者」と持ち上げ、大聖人をも凌(しの)ぐ偉大なる存在として、強く印象づけるのである。こうして、凡夫本仏論という新教義の上に、池田大作の教祖としての絶対的立場が築かれていくことになる。

しかしながら、大作が、会内においていかに強大な権力を手にしようとも、あるいは外道の教えを信仰する人々から摧尊入卑(さいそんにゅうひ)の勲章や名誉称号をいくつもらおうとも、御本仏大聖人と肩を並べることはできないし、ましてや越えることなど、できるはずもない。私たちは、俗のなかの俗人である、「人間主義の王者」とやらの実像を、多くの学会員に知らしめていきたい。


※この原稿は、川人様の御協力で掲載いたしました。


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