<6〜8面>
これらの大法要を2カ月後に控え、奉安堂の本体工事が完了した。平成12年9月の本体建築工事着工以来、約2年の期間を経て、今、総本山で最も新しく意義深い堂宇が完成したことになる。今年の5月頃から、奉安堂内部の仕上げに取りかかり、現在は僧侶席の畳、信徒席の5,000脚の椅子、音響設備等の設置、また、須弥壇の仕上げ等の工事がすでに終わった。さらに、業者からの各設備の取り扱い説明・試運転も終了しており、これにより本体工事がすべて完了した。
大聖人の仏法の一切を別付嘱され、また身命を捨てて伝授弘教された本門弘通の大導師、日興上人―。唯我与我の境地をもって、大聖人の深義を正しく信解され、大石寺を創建せられた。その行体堅固・随力弘通の御精神と歴史が刻まれた当御数珠は、見る者に烈々たる気迫となって語りかけよう。
日興上人御影(第1部展示)の拝観とともに、身に帯されたという御数珠を眼前にすれば、誰しも日興上人ありし日の面影しのが偲ばれ、折伏弘教の決意を新たにせずにはいられない。
本文では、まず創価学会発足より今日までの変節の歴史を述べ、次に新「会則」・「規則」の条文が欺瞞に満ちたものであり、学会が名実ともに悩乱顛倒の新興宗教・池田教集団となったことを明らかにしている。また「会則」改変に関する秋谷会長・斉藤教学部長の公式説明をとり上げ、その誑惑と謗法を破折している。
前回、凡夫本仏論という新たな教義の上に、池田大作の教祖としての絶対的立場を築かんとしていることを紹介したが、創価学会が『池田大作絶対主義』であることは衆目の一致するところである。たとえ自らの「規則」や「会則」で会長の権限を高らかに謳おうとも、すべてが大作の手のひらの上にあることは、社会周知の事実と言える。
さらに、もう一つの特徴として『創価学会至上主義』とも言うべき、危険きわまる思想を持つことが挙げられる。本当に書いてあるのかどうか真偽のほどは疑わしいが、既に昭和32年7月の日記に、「学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(平成14年7月17日付聖教新聞の社説)と書き記したという池田大作は、かつて、「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(平成6年9月2日付聖教新聞)と述べて会員を煽動したことがある。憎悪の念を植えつけるだけでなく、反学会・反池田を唱える者に対しては、人間としての尊厳をも認めないという、非人道的な体質をあらわにした発言と言えよう。
もっとも、このような悪指導は日常茶飯事で、聖教新聞の各紙面にごろごろしている。したがって、わざわざ挙げる価値もないところではあるが、大作はこのような悪言を繰り返し述べて、判断力のない無智な会員を洗脳しているのである。
実際、数を頼んで日蓮正宗の寺院や法華講員宅に押し掛けては恫喝を繰り返してきたことや、機関紙などで連日のように誹謗の限りを尽くしている現実を見れば、池田大作らの言う「人間主義」が、ただの見せかけに過ぎず、創価学会至上主義を意味することが容易に見抜けるところである。
つまり、大作らの言う「人間主義」とは、人間という言葉を使いつつも、けっしてすべての人間を指すのではなく、あくまで創価学会員だけを人間とするのであり、自分たちの思想や意見に従わない者は人間として見なさないのである。
しかし創価学会は、そうした「池田大作絶対主義」・「創価学会至上主義」体質を、なるべく世間にさとられないようにしながら、平和運動や文化連動なるものを機軸として、さらなる組織拡大を図っている。その旗印として「人間主義」という、いかにも耳に聞こえのいい言葉を多用し、危険性のない、善良なイメージを演出しているのである。
創価学会の言う「人間主義」は、法義的には凡夫本仏論を立てて戒壇の大御本尊と血脈相伝の仏法を否定するものであり、布教的には破邪顕正の折伏精神を忘れて振興の政治団体と化したことを象徴するものである。
我らは「人間主義」の美名に隠れた、創価学会と池田大作の本質を断固として糾明し、徹底した破折を加えていかなければならない。
今般、全国の僧俗が待望する、宗旨建立750年慶祝記念総本山奉安堂の建立落成に関する、各法要の奉修日程計画が発表された。はじめに10月8日に奉安堂竣工式が奉修され、同12日に落慶大法要、その翌13日から10日間にわたって落慶記念大法要が行われる。
伝開山日興上人御所持半装束数珠
<創価学会至上主義>
<「人間」とは学会員だけ?>
<組織拡大の「旗印」>
<学会の本質を糾明していこう!>