大白法

平成14年9月16日号


主な記事

<1〜6面>

<7〜8面>


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平成15年は『広布大願の年』


明年の宗門方針が「広布大願の年」と決定された。

御宗門は今、宗旨建立750年の大佳節を慶祝し、宗内僧俗の信心を総集結して、法華講30万総登山、総本山奉安堂建立をはじめとする諸記念事業を達成し、もって仏恩報謝に供え奉るべく全力を尽くされている。

この仏恩報謝の大誓願たる慶祝記念事業を、本年の「法礎建立の年」に堂々と完遂し、新たなる未来広布への大願のもとに、僧俗一致の信行を実践すべく、明年の宗門方針を「広布大願の年」と決定されたものである。



寄稿 『結成40周年を祝し、さらなる精進を誓う』
妙栄寺支部副講頭・殿原誠三


法華講連合会結成40周年、まことにおめでとうございます。現在、宗旨建立750年の佳節に30万総登山の成功に御奉公する法華講があるのは、40年前に御先師日達上人の大英断と、御当代日顕上人猊下の御教導の賜物であります。深い因縁の上に熱原の法華講衆の末裔として御奉公できる我ら、今、まさにその真価を発揮しているという因縁を深く感じます。

御先師日達上人と御当代日顕上人猊下の大慈悲に御報恩申し上げるとともに、法華講の先輩方のご苦労に感謝するためにも、何としても30万総登山は名実ともに成就させねばならない事業であると、心の底から感じます。残された推進の日々はあとわずかとなりましたが、決して弛むことなく参加を推進してまいります。


委員長さんの連合会結成当時についてのお話(8月16日号)を、当時活躍された方々のご苦労があったればこそ現在があると、感謝一杯の気持ちで読みました。

当時、父から「このままでは法華講は、創価学会の陰に隠れて雲散霧消してしまう。そんなことになれば、先師・先輩の方々に何とお詫びするのか。今立ち上がらなければ。何とかしなければ」という思いを聞かされておりました。

父は、関西のお寺で同じ思いを持っている方々と連絡を取り合っておりました。私はまだ中学生だったので、詳しい事情が判りませんが、漠然と「我家存亡の危機」という思いで、法華講の青年部組織を立ち上げねばと、青年部活動をしておりました。

私は父に伴われて、昭和37年7月31日、大講堂での連合会結成大会に、翌・昭和38年10月6日、尼崎文化会館での御先師日達上人御臨席のもと開催された関西地区連合会第1回総会、その翌月の11月24日、総本山御影堂前での連合会第1回総会に参加しておりました。

振り返って見ると、これらの総会は、まさに正嫡の法華講が時を得て、その存在を明らかにするという意義を持っていたと考えます。私自身、これらの意義ある総会に参加し、背中を電流が走るような強烈な感激をしたことを記憶しています。参加者の一人ひとりが法華講を蘇らせる使命があるのだという決意と感激で、奥歯がガチガチ鳴りました。本当に法華講が全国一丸となって前進するスタートでした。

そして私は輸送班として、青年時代に本当に有り難い薫陶を受けることができました。昭和40年3月14日、東京妙光寺での法華講全国連合会輸送班結成大会に参加し、以来6年間、総本山での輸送班として任務させていただきました。当時の輸送班は、自分たち青年が法華講を蘇らせるんだとの熱き情熱で、互いに啓発し合っていました。

特筆すべきことは、輸送班では柳沢委員長(当時・総務部長)から本当に多岐にわたっての激励を受けたことであります。全国の青年はこれに触発されて、自分の支部に帰って真面目に青年部活動に取り組んでいったのです。


その中で私にとって忘れられないことがあります。いくら精一杯努力しても、結果が出せないで悩んでいたときです。創価学会のような多岐にわたる楽しい活動をしなければ、今の青年は信心しないのではないか、と考えたりしました。

そんな折に、委員長さんから「法華はは覇道を嫌う。王道なんだ。」と、法華講と創価学会とは因縁が違うということをうかがいました。併せて、因縁を知ることの大切さを教えていただきました。それからは、各講中が所属寺院の御住職の御指導を基本に信心する法華講の在り方が、スッと納得できました。

縦糸と横糸の御指導も、時の御法主様の御指南を、全国足並みそろえて承り、連合会が時に適った指針を示し、その実践はそれぞれの講中が工夫を凝らして実践する。「法華講は連合体なんだよ」といわれる意味を了解できました。


本年は「法礎建立の年」。未来広布に勇躍前進するときであります。私は、青年が時を感じ、時に適った信心修行を実践し、広宣流布の大願に向かい折伏・登山・御供養に力の限り精進することが、最も大切であると思います。

家で勤行をしてお寺に参詣しているだけで、信心していると思っていては後悔します。青年部で折伏・登山を推進し、若き法華講員として活動することです。広布への善友に親近することに心がけることだと思います。

今、私が寂しく思うことは、関西から連合会結成大会などに参加した者の中で、30万総登山に参加している者はほんのわずかしかいないことです。ほとんどが昭和55年の、いわゆる正信会として猊下に叛(そむ)き、御戒壇様に背を向けて退転してしまったのです。

大聖人様は『三沢抄』に、「抑(そもそも)仏法をがく(学)する者は大地微塵多よりをほ(多)けれども、まことに仏になる人は爪上の土よりもすくなし」(御書1202ページ)と。また『四条金吾殿御返事』に、「此の経をきヽうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども『憶持不忘』の人は希なるなり。受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(同775ページ)と仰せられて、受持することの大切さを御指南あそばされています。

「法礎建立の年」の今こそ、この御金言を心肝に染め、御戒壇様と御法主様への絶対の信が法華講の信心の命脈であることを、そして時に叶った御奉公に立ち上がることこそ、熱原の法華講衆の末裔であることを、我が家の子供たちに、そして講中の青年に、しっかり伝えていく決意であります。

奉安堂落慶の今この時に、法華講員として御法主上人猊下の御教導のままに信心できる我が身の大福運を感謝申し上げ、さらなる精進をお誓い申し上げます。



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