大白法

平成14年12月1日号


主な記事

<1〜5面>


<6〜8面>


back       index      next


御法主上人猊下御説法
総本山御大会式の砌


妙法蓮華経如来寿量品第十六

「爾(そ)の時に世尊、諸(もろもろ)の菩薩の、三たび請(しょう)じて止(や)まざることを知ろしめして、之(これ)に告げて言(のたま)わく、汝等(なんだち)諦(あきら)かに聴(き)け、如来の秘密神通の力を」(法華経429頁)


宗旨建立750年の大佳節たる本年、恒例による宗祖大聖人御大会式を奉修つかまつりましたるところ、法華講総講頭・柳沢喜惣次氏、同大講頭・石毛寅松氏をはじめ、法華講連合会幹部ならびに各寺法華講講頭以下の役員および信徒各位には多数御参詣せられ、盛大に仏恩報謝の大法要が執り行われますことは、まことに有り難く存ずるものであります。

顧みれば野衲(やのう)登座以来、昨年までの23年間の総本山御大会式において、古来の恒例である寿量品説法を都合25回にわたり、妙法蓮華経如来寿量品の題号および「爾時仏告」以下の文につき、初めより逐一、次第を追って行わせていただきました。しかして、昨年の御大会をもって最後の御文である「速成就仏身」までを終了した次第であります。そこで今年よりは、文々の次第とは別に、寿量品の文中の大切な御文の一部について、随自に拝説することにいたしました。よって本日は、先程拝読の御文、特「如来秘密神通之力」の八字について、ほぼ申し上げるものであります。

寿量品は釈尊一代化導の最大肝要にして難信難解の法門でありますから、その説法の始めに当たっては、三誡三請・重請重誡の厳然たる次第を設けられました。これによって釈尊が出世の本懐たる重大な御決意のもとに本門寿量の開顕をあそばされますが、その説法の始め、三誡三請と重請ののち、重誡からの仏語がただいま拝読いたした文であります。

すなわち、その時に世尊は諸々の菩薩が三たび仏の説法を請い奉って止(や)むことなき志を知ろしめし、これらの菩薩衆に告げられたのが「汝等諦かに聴け」という最後の重誡の言葉であり、そして直ちに「如来の秘密神通の力を」と述べられました。これは寿量品全体、二千余字をこの八字において括(くく)り束ねるところの重要な意義を含み具えるのであります。本日はこの八文字の意義に関して少々申し述べます。 天台大師は『法華文句』のなかに、この「如来」の文、およびその「秘密」と「神通」について深義を丁重に釈しております。


▼如来の語と仏の三身の常住について

まず初めに「如来」について真身と応身のニ身あることに、『成実論』の、「如実の道に乗じ来って正覚を成ず、故に如来と名づく」(学林版文句会本下245頁)の文を引き、「境」と「智」が和合すればそこに因果が生じますが、その智が境を照らすのを「因」とし、照らした結果、その源を尽くすのが「果」であるとし、その因と果が仏身の成就であること、それによって正覚を成ずるのは真身の如来であり、さらに衆生を導くために三界のなかに来生するのは応身の如来であるとして、如来とは真応ニ身であると述べております。

また次に、如来の身に法身・報身・応身の三如来があることについて、そのなかの法身とは法界の真実の体、いわゆる如々の境は一切の所に遍(あまね)く空仮中の妙理が行き渡っている故にこれを「如」と言い、したがって動くことなくしてあらゆる所に妙理が行き渡っていることをもって「来」となすとして、これが法身の如来であると立てます。次に報身とは、不可思議なる如々の智をもって如々真実の道に乗じ来たるとき、その智は如々の真理に合します。その妙理について「如」と言い、妙智について「来」と言うと立てるのは報身の如来のことであります。最後に応身とは、如々真実の境が如々真実の智と合する功徳として無限の慈悲が起こり、衆生救済の因縁を成じます。かくて三界に来たり現じて、八相成道して妙法を説くのは応身の如来であると示しております。

しかし、これらは方便の爾前経でも談ずるところでありますが、純円一実の法華経においては円(まど)かに、縦ならず横ならず、不縦不横の三如来を説くのであり、特に寿量品に至って、従来の爾前迹門の仏身を破って久遠本地の仏身たる三如来を顕すことは、諸経に絶えて、ないところであります。これを天台は、「発迹顕本の三如来は永く諸経に異なる」(同254頁)としております。

さて寿量品は、詮ずるところ、この如来の寿命を説き顕すのであり、その「寿」ということは、右三如来の寿命が長く久しいという意であります。また寿量品の「量」とは、三如来たる法身・報身・応身それぞれの寿命を詮(あき)らめ量(はか)ることであります。

まず法身如来の命は如々真実の理であり、法界全体、本来本有の相・性・体が三界衆生の有無の判断を超えて常住であるとして、その命を詮らめ量るのであります。これについて、のちの文には「非実非虚。非如非異。不如三界。見於三界」と説かれてあります。

次に報身如来の命は、如々の智が如々の境に契合するところ、境が無量無辺にして常住不滅である故に、智もまた、かくの如く無量無辺であるとして、その智慧の命を詮らめ量るとの意であり、これをのちの文に「我智力如是。慧光照無量。寿命無数劫」等と説いてあります。

また応身如来の命は、その導く相手との縁によるのであり、衆生との縁が長ければその寿命は長く、短ければ短いのであります。数々生を現じ、減を現じて、その縁に同ずる相を拝することが寿命を詮らめることであります。これを経文には「名字不同。年紀大小」と説いてあります。

以上、ごく概略ながら釈による「如来」の二字を申し述べました。


▼秘密の語と体の三身について

さて、次に「秘密」の二字を申し述べます。この秘密には二つの意があります。一つは「陰密(おんみつ)」と言い、きずや悪事を隠し、また、諸々の知られたくない事柄を隠す等の意であり、凡夫の迷情による秘密であります。他の一つは「微密(みみつ)」と言います。仏の境智は広大深遠微妙(みみょう)であり、故に仏はこれを秘して容易には説かれないため、衆生は知ることができません。それがおのずから「秘密」の体となりますが、この寿量品の「如来秘密」とは、もちろん微妙のことであります。

この「秘密」について天台は、「秘密とは、一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知りたもうを名づけて密と為す」(同278頁)と釈しました。釈尊が十九出家・三十成道の時、法を悟って仏と成ったのですから、その法について法身、次に悟った智慧は報身、それによって衆生を化導するのが応身で、前後が別々に次第いたします。故に爾前経では、三身がバラバラで一致しません。しかるに、この寿量品に至って法身にも報身・応身が具わり、報身に法身と応身、応身にも他の二身が蔵(ぞう)されており、これを三身の相即と言います。つまり本来常住の法身に、仏の智慧たる報身、仏の身体である応身が共に具わり、本来が一即三、三即一であること、ここに仏の寿命が長久である理由が存します。この一身が三身であることを示さない故に「秘」とし、また三身がそのまま一身を成じていることを容易に説き明かさない故をもって「密」とするという意義が存するのであります。

したがって昔の化導、すなわち寿量品以前の爾前迹門においては、この三身相即の仏身を説かれなかったことが「秘」という意味であり、また一切衆生、等覚の大菩薩に至るまでこれを知ることがなく、ただ仏のみ自ら知ることが「密」という意であります。そして、この「如来秘密」の三身こそ、一切の諸仏がその身を現ずる本体でありますから、これを「体(たい)の三身」と申します。


▼神通之力の語と用の三身について

次に「神通之力」の文について申し述べます。釈に、「神通之力とは三身の用(ゆう)なり、神は是(こ)れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅(むよう)不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」(同頁)とあり、「体の三身」に対して「用の三身」、用(はたら)きの上の三身であると示されます。

まず「神通之力」の「神」とは、この場合は深くして一切にわたる妙法の理を言うのであり、不動にして一切を生ずる根元の法の身であります。「通」は無壅すなわち塞がることがなく、すべてに通じてこれを照らす不思議な智慧の身ですから報身。「力」は衆生を導き救う能力が勝れて自由自在にそれを行う故に応身であります。これは「如来秘密」の「体の三身」から顕れる「用の三身」であり、したがって一代仏教のすべてに現れる阿弥陀、大日等の諸々の仏はすべて、この三身の用きなのであります。

されば、寿量品の「如来秘密神通之力」とは、本仏が三世において「体の三身」と「用の三身」あって、一切衆生化導の根幹であることを顕す文であります。爾前迹門の諸経にはこれを秘して説かず、今、本門寿量に至って初めて、これを顕されたのであります。

さて、この「神通之力」の三身は用きの上の三身相即でありますから、これを開けば如来以下の応供(おうぐ)・正遍知・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏(ぶつ)・世尊の十一号に示される如く、種々の用きが見られます。

いわゆる如来とは仏の体・用のすべてを総括した名称であり、他の十号は仏の徳性におけるそれぞれの用きに名付けたものと言えます。十号の一々の説明は、本日は省略いたしますが、一往のところでは、あらゆる諸仏がこの諸々の徳を具えていると言えます。しかし教法の小と大、権と実、迹と本等の筋目よりすれば、やはりそこに勝劣の段階があります。

小乗・阿含経の仏はただ「空」のみを説き、三諦不具足である故に化導の対象も、その仏の徳性も、ごく一部に限られます。華厳経・方等経・般若経等の大乗諸経も、それぞれ蔵・通・別の三教、通・別の二教等の方便を兼ねておりますから、本来の円教による指導の功徳が正しく顕れず、したがってその徳も限られ、完全円満な如来乃至、十号の諸徳は具わりません。この如来乃至、十号の円満な仏身は、釈尊一代の化導においてはただ法華経を説く仏、特に本門寿量の真仏においてのみ存するのであります。

故に、一代仏教中に顕れる仏身は、釈尊が十九出家・三十成道以降の始成正覚の立場で説かれたのであり、本無今有、有名無実の二つの失(とが)を持つ無常の仏であります。しかるに、寿量品の「如来秘密神通之力」の仏身は、伽耶(がや)始成を打ち破り、法身・報身・応身が三身相即してそのまま久遠常住であると示されるのであります。ここに、法身大日如来も阿弥陀如来の仏国土等も、すべて三身円満の寿量品の仏より出た方便の仏身であり、天の一月に対する水中の月であることが明らかとなります。

大聖人様は『開目抄』に、「双林(そうりん)最後の大般涅槃経四十巻、其の外(ほか)の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(御書536頁)と仰せられ、始成正覚の仏身を破す応身・報身の常住こそ「如来秘密神通之力」の仏身であることを御指南であります。

さて、以上は釈尊の寿量顕本の意義より「如来秘密」等の八字について拝してまいりました。


▼寿量文底倶体倶用の無作三身とその総別について

次に、宗祖大聖人の結要付嘱による内証の寿量品、いわゆる末法のための寿量品の「如来秘密」を拝したいと思います。

結要付嘱の内容たる寿量品は、上行菩薩へ既に付嘱されておりますから、この法体の解説は上行の再誕たる末法出現の日蓮大聖人によってのみ、その権能がましますのであります。大聖人様は、この結要の妙法蓮華経を釈尊の法華経に対し、種・熟・脱のなかには「種」の妙法、広・略・要のなかには「要」の妙法、文・義・意のなかには「意」の妙法と立て分けあそばされましたが、その下種文底肝要の法体と一体である「如来秘密」の仏身についても釈尊の本門との大きな違いを述べられております。

その種脱の仏身の異なりを一言もって言うならば、色相荘厳の「如来秘密」の三身に対する凡夫即極の「如来秘密」、いわゆる無作三身の仏身であります。『御義口伝』に如来寿量の題号たる「如来」について、「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり」(同1765頁)と示されております。釈尊一代の仏身について、色相荘厳の十方三世の仏と、その中心たる本門の釈尊を挙げられてこれを「総」とする一方、しかしながら「色相荘厳の仏の本地は無作三身にあるぞ」との、総より別に入る深意を明らかに示されております。すなわち色相荘厳の本仏の奥を尋ねれば、その本地は別して色相を除いた凡夫即極の仏であるとの御教示であります。

さて、ここに「無作(むさ)」という用語が拝されますが、無作とは「有作(うさ)」に対する語であります。有作とは種々に作りこしらえることで、これに対し無作とは本来の真理による勝徳が判れば改めて種々に作りこしらえる必要がないという意味であります。すなわち衆生を導くためにあれこれの手段を作り出して、その機根に応じて方便の化導をなすのが有作で、これに対し本来具わる徳を直ちに体し顕せば、方便を作る必要なく悟りを得る、つまり作るところなく真徳を顕すのが無作であります。

この「無作」について、法門の上に二つの段階があります。第一は権実の関係で、教法についての有作と無作であります。蔵・通・別・円の四教のなか、蔵教は見惑・思惑の煩悩を立て、これを少しずつ消滅して空理を悟る「生滅の四諦」である故に有作、方便に属します。通教の「無生の四諦」も煩悩断尽の道であるから、やはり有作の方便となります。大乗の別教はさらに塵沙(じんじゃ)と無明について別惑を立てて無量劫の長い時間においてこれを断ずる「無量の四諦」である故に、やはり有作の修行、したがって方便の教えから免れません。円教において初めて、当体そのままが空・仮・中の実相であり、一念に十界互具して無明即明、煩悩即菩薩、生死即涅槃の妙旨が顕れ、種々の方便と造作を離れた「無作の四諦」の義が確立します。これを経典について言えば、法華以前の諸大乗経に円教が説かれていても、そのなかに方便の蔵・通・別三教が混入していますから、円の用きが顕れません。これらは即身成仏の実義がない有作方便の経々なのです。ただ独り法華経のみ、蔵・通・別の有作方便を交えない無作真実の経典であります。これが権実の教法における無作と有作のけじめであります。

第二は、仏身における有作と無作の違いであります。釈尊の法華経の迹門と本門、すなわち始成正覚と久遠実成の仏身についても有作と無作との立て分けができますが、釈尊の法華経は一経として化導の上に括る意義があるため、経旨本迹すなわち文上の本迹相対においては、特に本門に対する無作の仏身の表明はわずかであります。これは要するに、迹門・本門ともに色相荘厳の仏であるからであります。これに対し、種脱相対して寿量品の文上に対する文底の法体を顕す時は、明らかに有作と無作のけじめを示されます。つまり一代仏教迹本ニ門はすべて色相荘厳の応身仏化導の範囲であり、その如来は色相荘厳という方便を帯しておる故に、仏身の上において有作となります。これに対し下種の仏、久遠元初の本仏は凡夫即極名字の仏身であり、即身成仏・即座開悟の本法に荘厳されますから、色相をもってわざわざ身を荘厳する必要がなく、ために方便の色相は存在しません。ここに真実のあらゆる方便を捨てた無作の仏身が存するのであり、大聖人様が『総勘文抄』『御義口伝』等に、枚挙にいとまなくこの精義を御指南であります。

故に、先程の『御義口伝』に続く御文に、「今日蓮等の類(たぐい)の意は、総じては如来とは一切衆生なり」(同頁)として大聖人の下種仏法の基本が説かれてあります。この文は「如来」の概念が色相荘厳の仏ではなく、凡夫の当体に直ちに成仏しうる「如来秘密」の大法があることを御指南であります。

続いて総別の二義を構えられ、「別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経妙と云ふなり」(同頁)と次第して、二重の総別をもって真の法華経の行者・日蓮大聖人御自身が人法体一の真実の「如来秘密無作三身」であることを刻成(こくじょう)あそばされました。そして、この無作三身は久遠元初自受用の一身に具わる徳性であります。故に、この如来秘密の一身即三身の「一身」とは久遠元初自受用身にして、「三身」とはすなわち無作三身であります。これに関する大聖人の御内証は相伝書、特に大御本尊様の御当体に明らからに拝せられます。

故に、その大功徳について、「今日蓮等の類の意は、即身成仏と開覚するを如来秘密神通乃力とは云ふなり。成仏するより外の神通と秘密とは之無きなり。此の無作の三身をば一字を以て得たり。所謂(いわゆる)信の一字なり」(同1766頁)と述べ給い、如来秘密の究極の深意は無作三身の即身成仏にありと説かれました。その当体が日蓮大聖人にまします上から、大聖人を本仏と信じて南無妙法蓮華経を唱えるすべての人の即身成仏が決定するのであり、なかんずく信の一字こそ成仏の根幹であると知るべきであります。

仏法はまことに広大深遠であるとはいえ、無作三身の本仏日蓮大聖人の大慈大悲により、当宗の檀信徒は、ただ信の一字をもって無量劫の罪障を消滅し、即身成仏無作三身の大果を得るのであります。皆様にはこの功徳を深く感ぜられ、いよいよ信行を増進いたさるべきであります。明年の「広布大願の年」へ向かって、ますます行学の二道に励まされることを祈り、本日はこれをもって失礼いたします。

※猊下様の御説法は寿照寺支部の土井さんのご協力で転載しました。
※中見出しは妙音でつけたものです。




☆宗旨建立750年慶祝記念海外信徒総登山・中会に17カ国より3860余名が参詣

晴天に恵まれた11月9日・10日の2日間にわたり、宗旨建立750年慶祝記念海外信徒総登山大法要の中会が、海外17力国より3860余名の海外信徒が参加して行われた。

9日は、午前9時から客殿で行われた御法主上人猊下の御目通りで始まり、11時から奉安堂での御開扉に臨み、本門戒壇の大御本尊様に御内拝を戴いた。御開扉の後、照心庭において全員で記念撮影を行った。午後2時半より客殿において、宗旨建立750年慶祝記念海外信徒総登山大法要が奉修され、御法主上人猊下大導師のもと御経行、論義式が厳粛に執り行われた。

10日は、午前2時半の丑寅勤行から始まった。午前10時半からは、奉安堂での御開扉に臨んだ。ここで、御法主上人猊下より御言葉を賜り、次いで奉安堂建設委員会主任委員の八木日照御尊能化より経過報告、慶祝記念局委員長の藤本日潤御尊能化より挨拶があった。午後2時半からは広布坊において、御法主上人猊下御臨席のもと海外信徒総会が開催された。これには、総監・藤本御尊能化、海外部長・尾林日至御尊能化をはじめ大石寺各理事、山内教師、海外各国寺院等の御尊師、各国担当指導教師など、御尊師方多数が御出席。他に山内の所化・小僧さんも多数参加された。法華講連合会からは来賓として法華講総講頭・柳沢委員長、大講頭・石毛副委員長はじめ17名の代表が参列した。

総会はバース・センシリワタナさん(タイ)の開会宣言で始まり、尾林海外部長の挨拶と続いた。次いで、壮年・婦人・青年・少年の各部より代表1名が、決意発表を行った。続いて、各国よりの代表36名による共同宣言が行われ、アーサー・ウィットニーさん(サンフランシスコ・妙信寺支部)より御法主上人猊下に奉呈された。法華講連合会を代表して柳沢委員長、宗務院を代表して藤本総監が祝辞を述べた後、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。ここで中華民国台湾・本興院支部の霑心合唱団による合唱が披露され、最後に参加者全員で「地涌讃徳」を合唱した。セルジオ・メモリ・ソブリーニョさん(ブラジル・一乗寺支部)が閉会宣言を述べ、盛大裡に終了した。

下山は10日夕刻より開始。翌11日にかけて、御僧侶、サポートスタッフに見送られ、歓喜に溢れ帰国の途についた。



☆シンガポールで開妙布教所の開所式が盛大に行われる

11月17日、シンガポールにおいて開妙布教所の開所式並びに常住御本尊の入仏式が奉修された。これは従来のシンガポール事務所が、母体法人の「日蓮仏教会」への移行を契機として発展的に布教所へ昇格したことに伴うものである。これには、海外部長・尾林日至御尊能化をはじめ海外部の御尊師方、日本・中華民国・インドネシアより有縁の御尊師方が御出席。また待望の布教所の開所に全土から信徒が参集し、御宝前には午後から奉修される御会式の桜花が飾られ、慶祝ムードに花を添えた。

午前9時半、開式が宣せられると、御法主上人猊下の御名代として尾林海外部長の御導師により法要が始められ、常住御本尊の御開扉、献膳の儀、読経、唱題と進められた。式の部に入り、はじめに海外部主任・石橋頂道御尊師が経過報告を述べられた。続いて祝辞に立たれた尾林海外部長は、新布教所がさらに寺院へと発展していくよう願われ、改めて布教所責任者に任命された滝川信雅御尊師を紹介、続いて大聖人の仏法の深い意義と力用について述べられ、布教所の充実発展と平成21年に向けて一層の精進をと結ばれた。

次いで、組織再編に伴う役員幹部の認証が行われた後、法人役員を代表して会長のロック・ヒップメン氏の挨拶、信徒を代表してチーフコーディネーターのクエ・キヤキー氏の決意と続き、最後に滝川責任者が丁重に謝辞を述べ、開所式はとどこおりなく終了した。この後、代表による記念撮影が本堂内で行われた。

午後からは、0時半と3時半の2回にわたり、開所記念法要を兼ねた御会式が奉修された。それぞれ申状奉読を含む御会式の奉修に引き続き、2回目の法要では、経過報告、祝辞、クエ・キヤキー氏の信徒代表決意、責任者謝辞と続き、小憩の後、仏覚寺住職・合原歓道御尊師より活動報告が行われた。さらに3回目の法要では、信徒代表決意はシャー・ケンヒャン氏、活動報告は見仏寺住職・小笠原来道御尊師により行われた。

こうして計3回に及ぶ法要に、合わせて1500名を越える信徒が参列し、午後5時過ぎ、一切の法要が終了。また午後7時から、会場を移して記念の祝賀会が催された。新布教所は幹線道路の交差する交通の要衝にあり、市の中心部から車で約10分、最寄りの地下鉄駅からも徒歩7分と、参詣に極めて便利な立地である。このたび開妙布教所開設は、シンガポール広布を促進し、寺院建立という新たな目標に向けて大きく前進を遂げていくことになろう。



back       index      next