大白法

平成14年12月16日号


主な記事

<1〜4面>


<5〜8面>


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宗旨建立750年慶祝記念海外信徒総登山大法要

終会


宗旨建立750年慶祝記念海外信徒総登山大法要の最後となる終会が、11月30日・12月1日の2日間にわたり、海外13カ国より3110余名の海外信徒が参加して行われた。10月26・27日の初会より3会にわたった海外信徒総登山には、34カ国計1万1271名の代表信徒が参詣した。また、3月の開宣大法要から始まった宗旨建立750年慶祝記念大法要の一切が、この日をもって終了した。

1日目は、午前9時半よりの御法主上人猊下御目通りで始まり、御開扉の後、照心庭において全員で富士山と奉安堂を背景にして記念撮影を行った。午後2時半より客殿において、海外信徒総登山大法要が奉修され、御法主上人猊下大導師のもと御経行、論義式が奉修された。

2日目は、午前2時半の丑寅勤行から始まった。明けて午前10時半からの御開扉では、御法主上人猊下より御言葉を賜り、次いで奉安堂建設委員会主事の小川只道御尊師より奉安堂建設の経過報告、慶祝記念局委員長の藤本日潤御尊能化より挨拶があった。

午後2時半からは広布坊において、御法主上人猊下御臨席のもと海外信徒総会が開催された。これには、宗務院より教学部長・大村日統御尊能化、海外部長・尾林日至御尊能化、財務部長・長倉教明御尊師、また、海外有縁の指導教師、大石寺山内教師、海外各国寺院等の御尊師、各国担当指導教師など、多数の御尊師方が御出席。他に山内の所化・小僧さん、寺族も多数参加された。法華講連合会からは法華講総講頭・柳沢委員長、大講頭・石毛副委員長はじめ21名の代表が参列した。また、大石寺塔中の各支部より法華講員150余名も参加した。

総会は開会宣言で始まり、尾林海外部長の挨拶と進められた。壮年・婦人・青年・少年の各部より代表1名が決意発表を行い、続いて、各国よりの代表36名による共同宣言と続いた。次に、柳沢委員長(法華講連合会代表)、大村教学部長(宗務院代表)が順に祝辞を述べた後、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。ここでシンガポール・開妙布教所合唱団による合唱が披露され、最後に全員で「地涌讃徳」を合唱し、閉会宣言をもって終了した。

下山は夕刻より始まり、2日の丑寅勤行に参加したのち下山するなど、順次帰国の途についた。



実修山妙證寺移転新築落慶法要


東京都北区の実修山妙證寺において、同寺の移転新築落慶入仏法要並びに御親教が、御法主日顕上人猊下大導師のもと、厳粛かつ盛大に奉修された。同寺は、昨年9月20日に御法主日顕上人猊下の御下向を賜り、それまでの蓮成坊東京出張所より実修山妙證寺と寺号公称を許され、寺号公称板御本尊入仏式並びに御親教を奉修した。年ごとの折伏誓願目標を僧俗一体となって毎年達成し1400世帯の陣容となった妙證寺は、信徒が悠々と一堂に会することがでさる広い本堂をとの、かねてよりの僧俗一同の願いが叶い、旧妙證寺からさほど離れていない場所に移転新築され、このたびの慶事を迎えた。

この法要には、随行の総監・藤本日潤御尊能化、大石寺理事補・小林道剛御尊師、さらには重役・吉田日勇御尊能化、高野日海御尊能化、庶務部長・早瀬日如御尊能化、菅野日龍御尊能化、宗会議長・士居崎慈成御尊師、そして東京第一布教区の支院長で妙縁寺住職・光久日康御尊能化、副支院長の妙因寺住職・鈴木譲信御尊師をはじめ布教区内外から多数の御僧侶方が御出席された。法華講連合会からは総講頭・柳沢委員長、大講頭・石毛副委員長、佐々木東京第一地方部長をはじめ、布教区内各支部の講頭ならびに信徒代表、妙證寺信徒代表820余名が参列した。

正午過ぎ、僧俗一同がお出迎え申し上げるなか、御法主上人猊下が妙證寺に御到着あそばされ、直ちに各御尊能化、宗務院各部の部長・副部長、住職・石井信量御尊師、布教区内外の御僧侶、信徒代表、寺族、親族、来賓の順に親しく御目通りを許された。

法要の部は午後1時に開始され、御法主上人猊下大導師のもと石井住職による御本尊御開扉、藤本総監による献膳の儀、読経・唱題と奉修され、本堂の御本尊御開扉と同時に3階客殿の御本尊御開扉もなされた。この後、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。

引き続き式の部に移り、深沢信幸講頭より経過報告、続いて藤本総監(宗務院代表)、光久支院長(布教区代表)、柳沢総講頭(信徒代表)より祝辞が述べられた。次いで石井住職によって設計・施工等の業者代表に感謝状並びに記念品が贈呈された。この後、石井住職より、御法主上人猊下及び参列の各位に対して、丁重なる謝辞と今後の決意が述べられた。

ここで正面玄関前において御法主上人猊下による「黒松」のお手植えがなされ、信徒の入れ替え、小憩の後、御親教の部に移った。御法主上人猊下は午後3時15分、再び本堂に御出仕あそばされ、『観心本尊抄』(御書644ページ4行目)の御文について、約1時間にわたり甚深の御説法を賜った。そのなかで御法主上人猊下は、今の世の中は物質偏重故に、物は心の従であることも忘れ、命の実態を知らず自ずと不幸になっている姿があることを御教示あそばされ、大良薬たる末法下種の久遠元初、御本仏の悟られた人法一箇の本因名字の「妙法蓮華経」を受持していくことにより体と心の真の調和、揺るぎない充実の生命を得ることができると仰せあそばされ、自行化他の信心に一層励むよう望まれた。

最後に本堂において代表者による記念撮影が行われ、さらに会食が持たれた。会食に先立ち、妙證寺支部少年部鼓笛隊による演奏が披露され、石井住職より丁重なる挨拶が述べられた。会食終了後、御法主上人猊下には午後6時半過ぎ、僧俗一同がお見送り申し上げるなか妙證寺をお発ちになられ、法要の一切がとどこおりなく修了した。



海外リポート(米国アーカンソー州)


アメリカに「バイブル・ベルト」と呼ばれる地域があります、これは主にプロテスタントの一派であるバプティストやメソジストと言われるキリスト教保守派、またはキリスト教原理主義者と呼ばれる人々が多く住む、アメリカ中西部の南から南部にかけての地域のことを指します。

これらの地域に住むキリスト教徒は、『聖書』の記述は一言一句間違いなく現実に起きた事実であるとして、それを信仰の信条としています。彼らは、この世界も人間も『聖書』の記述通り、神によって創造されたとする天地創造説を頑なに信じています。バイブル・ベルトに属する州の公立学校の中には、カリキュラムから進化論を削除したり、進化論と天地創造説を併行して教えるべきであるとしているところもあるほどです。いかにキリスト教保守派の影響が根強く社会に浸透しているかを伺い知ることができます。バイブル・ペルトでは、すべての常識が『聖書』を中心として成り立っているのです。

このような社会環境の中で、大聖人様の仏法を信仰することが、いかに困難であるか、想像を絶するものがあります。シカゴ妙行寺は、アメリカ中西部から南部にかけての17の州を管轄しています。その面積の合計は、日本の6.8倍にもなります。パイブル・ペルトもその中に含まれています。今回は、このパイブル・ベルトの中にあるアーカンソー州の中心者マイケル・モアーさんにお話を伺いました。


●たいへん因習の深い地域とお聞きしていますが。地域の特質、特に住民の宗教観について伺いたいのですが。

■私が住んでいるアーカンソー州は、州そのものがアメリカの中では田舎に属します。田舎は、日本でもそうかも知れませんが、保守的で排他的な傾向が顕著です。バイブル・ベルトでは、教条的に『聖書』を解釈することを信条とする、いわゆる保守的なクリスチャンが人口の大半を占めています。もちろんアメリカは信教の自由が憲法で保障されているのですから、特定の信仰を強要されることはありません。しかしキリスト教では「神を信じない者は悪魔である」と説かれているため、個人レベルでは「仏教徒は悪魔を崇拝けがする汚らわしい異教徒」として毛嫌いされるのです。

キリスト教徒が人口の大部分を占めるこの地域では、日蓮正宗の信仰を持つ上で陰に陽に様々な障害があります。実際、こちらが仏教徒であると判ると、あからさまに顔をしかめられたりすることは日常茶飯事です。


●この信心を持つ故に、実生活の中で苦難に遭遇したことはありますか。

■そうですね。信心をしているために職を失ったり、子供が学校で「悪魔の信仰をしている悪魔の子」と言われて、いじめられることはよくあることです。

最近の例ですが、私の縁で2人の青年に信心の話をしたところ、それを聞きつけて彼ら2人が所属する教会の牧師が私に面会を求めて抗議をしてきました。このときには「仏教は悪魔の信仰である」という相手の誤った認識の蒙を啓(ひら)く好機と考え、毅然と対応しました。その牧師は、大聖人様の仏法の深遠さに、一言もありませんでした。

自分が日蓮正宗の信徒であることを表明した時点から、この信心に対する社会の偏見との闘いが始まります。しかしそうした偏見にもひる怯むことなく、あらゆる機会をとらえて折伏に精進しています。


●日常の主な活動について教えてください。

■今年のはじめに、御住職の御指導のもと、アーカンソー・エリア(地区)に5つの班を設け、よりきめ細かく活動できるような体制を整えました。具体的には、各班で週1回の唱題会、エリア単位では、月に1度勉強会が行われています。また講員同士の連絡は、常に緊密に取り合って、お互いに励まし合うことを心がけています。


●信心活動をする上で、常に心がけていることはどういうことですか。

■私たちの地域から所属寺院の妙行寺までは、車で15時間ほどかかります。ですから、寺院に参詣することも、御住職の御指導を仰ぐこともなかなか困難です。そこで私は、定期的に御住職に電話でこちらの状況を報告し、その都度、御指導をいただくようにしています。さらに御法主上人猊下から賜った我々の寺院をお守りすることも大切な仏道修行と心得て、できる範囲でお寺へ御供養を郵送するよう心がけています。

また、この地域から登山した人がいた場合には、総本山の様子や御法主上人猊下の大導師で大御本尊様に御目通りさせていただいた感激等を話してもらい、常に総本山と御法主上人猊下を渇仰恋慕する信心を忘れないように努めています。


●最後に、厳しい環境の中で信仰を持続する心構えをお聞かせください。

■はい。大御本尊様を渇仰恋慕すること。常に御法主上人猊下の御指南を中心とすること。この2点を肝に銘じています。また日々の活動としては、常に唱題をしつつ折伏を心がけることに尽きると思います。会合に新来者や新入信者がいることによって、信仰歴の古い人もよい刺激を受けることになります。何よりも折伏を行ずる功徳によって、一人ひとりの生命が躍動し、たとえ環境が厳しくても困難に立ち向かう勇気が涌いてきます。この勇気と歓喜が、さらなる唱題へと向かわせてくれます。唱題と折伏、常にこのことを心がけ、これからも一層精進してまいります。



御大会布教講演 『下種本因妙の御本仏日蓮大聖人』
本行寺住職・高野日海御尊能化


 本日は、立宗750年の大佳節に当たる意義深い年の御大会であります。法華講30万総登山が、すばらしい成果のもとに奉修され、続いて奉安堂落慶大法要などが盛大に厳修されまして、それに続いての御大会であります。まことにおめでとうございます。

 先の大法要で、もったいなくも御法主日顕上人猊下は、宗旨建立750年慶祝記念事業の一切が、仏祖三宝尊の御加護のもとに、僧俗一致して立派に成し遂げられたことを、心からお慶びあそばされ、この感激をもって、7年後の平成21年には「『立正安国論』による正義顕揚750年」を迎えるのでありますから、さらなる折伏と育成の信行をもって、正法による国家安寧(あんねい)の実現を目指すよう、御指南あそばされました。


 今回の総登山には、初めて総本山に御参詣された新入信の方々もたくさんおられましたが、その人たちが異口同音に漏らされた感想は、美しく整った大石寺の偉容と尊厳さに心を打たれ、心の底まで洗い浄められたと、感激されておられましたが、その中で不思議に思われたことも随分あったそうです。

 その1つは、御宝前にあるはずのお賽銭箱(さいせんばこ)がどこにもなかったことや、美しい花が供えられていないで、緑のお樒ばかりだったこと、それから他所(よそ)のお寺はみんな、お釈迦様とか大日如来、阿弥陀如来のように、仏像が祀(まつ)られているのに、大石寺には仏像がどこにも祀られていないで、南無妙法蓮華経の御漫荼羅と日蓮大聖人の御影様が、本堂の中央に御安置されているだけ。それから御法要のときも、他宗では、上のほうの偉いお坊様は、紫の衣とか緋の衣とか、それから下のほうの若い方は、茶色とか黄色、黒など、いろいろな色の衣でお経を唱えておりますが、日蓮正宗では、御法主上人猊下から小僧さんに至るまで、皆薄墨(うすずみ)の衣一色に統一されていて、本当に清楚で神々(こうごう)しい感じでしたが、他宗と日蓮正宗とは随分違うんですねと、びっくりしておられました。

 この初めて登山された人たちが、このような違いの1つ1つに強烈な印象を持たれたように、日蓮正宗の信心は他宗に独歩する、独一本門下種本因妙、最勝最尊の宗旨でありまして、隋他の方便教、迷いの凡夫の考え方に順じた教えではないのであります。一般民衆は、四転倒と申しまして、真実でないものを真実と思ったり、楽を苦と感じ、苦を楽と考えたりするのであります。

 この逆さまな考え違いを直されるために、仏様は世の中に出現されて法華経を説かれ、日蓮大聖人は三大秘法を御建立あそばされて、この間違いを折伏されたのであります。そして、その一切を日興上人が稟(う)け継がれて、日蓮大聖人が修行あそばされていた通りに、戒壇の大御本尊の前に『方便品』と『寿量品』だけを読んで、この御題目中心の信心修行を伝えられたのであります。

 そのほか、色花を上げないでお樒をお供えするのも、爾前の教えが無常の上の法門であるのに対しまして、日蓮正宗は常住の教えですから、花が咲きやがて散る無常の花を上げないで、四季を通じて変わらない常磐木(ときわぎ)、常緑樹の香木のお樒を飾るのであります。お賽銭箱がないのは、謗法の人の施(ほどこ)しは受けないという、貪欲(とんよく)を治して、小欲知足に住する、清浄潔白な信心を大聖人以来堅く守っているのであります。他宗他門で観音菩薩や帝釈天、鬼子母神の菩薩像、天人像を、十把一絡(じっぱひとから)げに仏像と詐称している間違い、これを謗法といいますが、そのどこがどう違うのかについて、慶祝30万総登山の60会にわたって行われました論議式の中で、御法主上人猊下の尊い御指南を戴いて、他宗に独歩する孤高の宗旨の心髄たることを、私たちは教えていただけたのであります。

 初登山の人が、お賽銭箱や色花のことを不思議に感じられた以上に、「諸宗は本尊にまどえり」(御書554ページ) と申されまして、一番違うところは本尊、仏法僧の三宝様が違うのであります。身延の日蓮宗などは、法華経二十八品の全部、これを一部読誦と言って全部読みますが、本宗では宗祖日蓮大聖人が行ぜられた勤行の通り、『方便品』と『寿量品』だけを読誦して後は読みません。専(もっぱ)ら御題目だけをお唱えしますが、その理由はこういうわけであるとか、お釈迦様や阿弥陀如来を祀らないで、大漫荼羅と日蓮大聖人だけを御本仏として拝むのは、こういう筋道、道理であると、釈尊の脱益仏法と日蓮大聖人の下種仏法との違いを諄々(じゅんじゅん)と教えていただきました。

 本日の御大会は、日蓮大聖人の非滅現滅、実際には御入滅されたのではありませんが、御入滅のお姿を表わされて、御本仏の相を示されたという、お祝いの御法要でございます。身延とかほかの日蓮宗は、三宝尊を、仏はお釈迦様、法は法華経、僧は日蓮大菩薩と間違えて立てますが、日蓮正宗の正しい御法門によりますと、仏は久遠元初下種本因妙の教主日蓮大聖人、法は寿量文底秘沈の南無妙法蓮華経、すなわち本門戒壇の大御本尊様、そして僧は血脈付法、唯我与我の御開山日興上人であるとして、700年来変わらない信仰を貫いてまいりました。

 今世間で、仏様でない観世音菩薩や、毘沙門天、鬼子母神などを信仰の対象として、幸せになろうとする信心が流布しておりますが、このような信仰の間違いを糺(ただ)して、末法の今の世の中に適(かな)った、正しい三大秘法の信仰を教え、本門戒壇の大御本尊、日蓮大聖人に向かって南無妙法蓮華経とお唱えする、この成仏の大直道に導き入れる浄業を、折伏行、化他行と申します。

 私たちの信心は一目瞭然、南無妙法蓮華経の信心でございます。そしてこの南無妙法蓮華経は『御義口伝』に、「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ず。既に此の品の時上行菩薩に付嘱し玉ふ故なり」(同1783ページ)とありまして、『神力品』ですでに釈尊の手を離れて上行菩薩御所持の大法となっているのであります。

 この信心は、自分が正しい信心をすればそれでよいという信心ではありません。「我もいたし人をも教化候へ」(同668ページ)とも、「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(同)と、教えられる自行化他の信心修行であります。

 この南無妙法蓮華経を身口意三業の上に持つ信心を、この上なく荒(すさ)び乱れる末法の今の時代に行ずることは、たいへんに難しいことであります。「如来の現在すら、猶怨嫉(なおおんしつ)多し。況や滅度の後をや」(法華経326ページ)と、御経にございます。人の心も行いも素直な時代に、三十二相を具えられた高貴な仏様が説かれても、なお恨(うら)み妬(ねた)みの心をもって反対する者共がいたのですから、ましてや悪意に満ちた判らず屋の多い末法に、地位も名誉もない凡夫僧の日蓮大聖人はじめその眷属が、この法華経を修行すれば、難儀この上ないことは言うまでもありません。その難を乗り越え、勇気を持ってこの信心を貫き通すならば、「此の経は持(たも)ち難し 若し暫(しばら)くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦(また) 然なり」(同 354ページ)と、私たちの健気な信行を一切の仏様が喜ばれ、褒(ほ)め称(たた)えられるのであります。

 仏様が最高の法、真実の覚りを明かされた勝れた教でありますから妙法というのですが、この無上の宝珠を、途中で立ち消えさせ、断絶させるようなことは絶対にしてはなりません。末法万年のほか、尽未来際までも命懸けで護り切り、人から人に、国から国に伝えて、そうして世界中にこの妙法を弘めていくようにと、付嘱と申しまして、この信行を上行菩薩様に託されたのであります。

 「諸仏の眼目(げんもく)たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提(いちえんぶだい)にひろまらせ給ふべき瑞相(ずいそう)に日蓮さきがけしたり。わたうども(和党共)二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし」(御書1057ページ)

 松は万年の生命を持つ故に、風雪に枝を折り曲げられますが、それに耐えてすばらしい枝振りで生き続けるのであります。それと同じように、法華経の修行者は、久遠長寿の仏として修行の枝を切られ、曲げられることは必定と心得て、折伏弘教に精進するよう励まされます。

 御法主日顕上人猊下は、この折伏について、「どれだけ真心をもって折伏をしても、こと大聖人の御本尊様の正義・正道を説く場合には、それ以外の思想・宗教を“それは謗法ですよ”と言って打ち破らなければいけないのですから、絶対に他から悪く言われるということであります。どんなに慈悲の心を持ち、柔らかい心を持ち、態度を立派にして素直な気持ちをもっていたとしても、言うことが相手の心にさわるのですから仕方がありません。それでなければまた、この正法正義ははっきりと顕わしていけないのであります」(大日蓮 427号)と御指南あそばされ、折伏に従えない人は、必ず反対して悪口を言うのでありまして、これが御経文の中の三類の強敵(ごうてき)、俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)の悪口罵詈(あっくめり)であります。

 そして『兄弟抄』の中には、「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」(御書 986ページ)と、信心が深まって折伏にも熱が入り、その行儀行体が仏の振る舞いとなって成仏の域に達しようとする時に、この三障四魔が競い起こるのでありまして、決してこれに負けてはならない。

 「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(同1109ページ)、「いかに人をど(嚇)すともをづ(怖)る事なかれ。師子王は百獣にをぢ(怖)ず、師子の子又かくのごとし」(同1397ページ)と、どんな難が迫ろうとも、これに負けないでこの信行を貫き通さなくては、成仏することはできないのであります。

 こうして日蓮正宗の信仰は、他の日蓮門下が日蓮大聖人を、釈尊から召(め)し出されて釈尊の説かれた法華経を末法に流布するよう付嘱された遺使還告(けんしげんごう)の上行菩薩という文上の法華経を通り一辺に理解するだけなのに対し、久遠元初、自受用報身如来、下種本因妙の教主として仰ぎ奉り、その御当体である大漫荼羅を最高深秘、本門戒壇の大御本尊と尊信する唯一の教団であります。

 ですからこの信心に励む私たちの位と言いますか境界を、日蓮大聖人は、「持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(同298ページ)と、このように明かされて、私たちを最高の境界の人と称えられるのであります。

 このようなすばらしい最高の信心に、かつては縁して、折伏行という最高の功徳善根を積んで成仏の道を歩んでいた創価学会の人たちも、他と違う特色、独一本門の宗旨を誇りに思えなくなって、三類の強敵に負けて退いてしまいました。いかに世間に融け込んで馴染(なじ)もうかと、謗法厳誡の日蓮正宗から離れて、御本尊は何でもよい、十字架入りの勲章も国際化するためには喜んで戴きましょう、お神輿(みこし)も担いで選挙の票も貰いましょうと、謗法のおこぼれを頂戴して感激し、そういう貪欲の似非(えせ)信心を少しも恥じない、単なる新興宗教となってしまいました。

 これはちょうど700年前、波木井(はきり)が四箇の謗法をもって邪宗化した路線と同じでありまして、世間並にお釈迦様を祀りたい、世間の人たちと一緒に三島神社にも参詣したい、それから福士の塔の建立の一味にも加わって、世間の人たちの中に同化したいという、成仏放棄の大謗法路線であります。そしてまた、池上や中山系の僧侶の法衣が、邪宗の赤や黒の法衣と同化して、天台沙門に紛(まぎ)れ、邪宗門の中に隠れて、折伏の法華講衆として目立たないようにという魂胆から、その独自性を暈(ぼか)していったのと少しも変わらない所業であります。

 日蓮大聖人御教示の三大秘法の広宣流布は、全世界を妙法化して、理想の仏国土をこの娑婆世界の上に建設することでありまして、決して妙法の世俗化、一般化をめざすものではありません。随自意、独一本門の宗旨を堅持すればこそ、爾前権門の一切の方便を打ち破っての強折(ごうしゃく)ができるのであります。三大秘法の信心が、世間並の信心ならば、他宗とどこがどう違ってと、それを糺し、この御本尊を持たせる余地があるでしょうか。

 今の時代はすべからく、「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同403ページ)との仰せのままに、下種本因妙の三大秘法の独自性、特色を無上の誇りとして、御法主上人猊下が「折伏は、『あなたの考えは誤りであり、堕地獄の因である』あるいは『その宗教は正しい原因・結果の理法に背いているから間違っていますよ』」(大日蓮583号)と、強く言い切っていきなさいと御指南あそばされる、その強い折伏行に生きる時であります。

 仏教と言えば、お釈迦様が説かれたものと決まっておりますが、信心の上では、このお釈迦様はインドに生まれたお釈迦様だけではありません。修行中のお釈迦様もあれば、小乗教を説くお釈迦様、大乗教を説くお釈迦様のほかにも、迹門、本門、文底と、いろいろの釈尊が立てられるのであります。この深いところの御法門、一重立ち入りたる第三、種脱の御法門が、先の30万総登山の御法要の砌、論議式を通して御法主上人猊下より詳しく御説法されました。この論議式は、難しくて判らなかったという人もおられましたが、決して恥ではありません。

 その御説法というのが、先に申しました釈尊とは、久遠元初の凡夫僧日蓮大聖人であり、法華経というのは、三大秘法の御本尊であるという筋の御法門ですから、このところは比叡山の座主も、身延山の貫主も、立正大学の教授も、それから各宗各派の法主、大僧正でも、一向に判らないところでありまして、大聖人の門下ですから、自分では大分判ったと思っている一般日蓮門下の大学匠でも、久遠五百塵点劫の本果妙の釈尊のところまでは判りますが、その前の久遠名字の凡夫僧、無作三身如来、本因妙の御本仏日蓮大聖人であるというところまでは、御法主上人猊下よりの極理を師伝できませんから、そこまで遡(さかのぼ)って信解することはできません。

 また世間一般では、浄土系の考えでも理深解微(りじんげみ)というように、法華経は最高の教えで有り難い御経とするのが通説ですが、では何故法華経が尊いのかについては知りません。それは『三大秘法抄』に、「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(御書1595ページ)と、末法適時の三大秘法が、法華経の文の底に秘し沈められて、「今留在此」(法華経437ページ)、今ここに留め置かれているためであると、日蓮大聖人は教えられるのであります。

 身延の大学者でさえ、この理由を知りませんから、インドにお生まれになったお釈迦様を通じての、久遠五百塵点劫の仏様を崇(あが)め、二十八品の法華経を読誦して、有り難がっているのであります。それに引き替え、私たちは信心をもって今現に、本門戒壇の大御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱え、自行化他にわたって折伏を行ずるのですから、論議式の難解難入の御法門にも立派に通達している人であり、各宗の宗祖よりも偉いと位置づけられるのであります。

 法華経の『寿量品』には、本因・本果・本国土という3つの尊い真実が明かされますが、これはあくまでインドに生まれて修行して、仏に成られたと思っている人たちに対して、実は五百塵点劫という遠い遠い大昔に、菩薩道を修行して立派な仏に成ったという文上の御法門で、文の上にはっきりと述べられているところですから、天台の人でも身延の人でも、誰にでも判るところであります。

 けれども日蓮大聖人が説かれる本因と申しますのは、『総勘文抄』に、「釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟(さと)りを開きたまひき」(御書 1419ページ)と示される「当初」の中に明かされる本因でありまして、この御文に境智行位の四妙、本因妙が残りなく明かされているのであります。

 すなわち、この五百塵点劫の「当初」と書いて「そのかみ」と訓じますが、この当初が他門徒にははっきりと理解されません。日蓮正宗以外の人の考える本因妙というのは、布施・持戒・忍辱・禅定・精進・智慧というような難しい菩薩行を長く修行して覚りを開き、三十二相八十種好を具えた立派な仏に成ったところと解釈してしまいます。

 菩薩に成る前には凡夫の位があります。その凡夫の時に即座開悟するというのが大事なことですから、これを位妙、位が勝れているというのであります。そして、次の「我が身は地水火風空なり」、この凡夫の我が身がそのまま天地法界を構成する5大要素であり、その宇宙法界と一体一如、一念三千、妙法蓮華経の当体であると悟る、すなわち悟りの対象ですから境であり、それが勝れておりますから境妙であります。そして「知ろしめして」と、この対境、御本尊を知る本因でありますから、これを智妙というのであります。

 この御本尊の境と私たちの信心が境智冥合するところ、御題目を唱えて即座に悟りを開くのですから、これは行であり、その行も長く修行しての暁(あかつき)ではなしに、はったと膝(ひざ)を打って即座に悟る、『本因妙抄』に、 「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是(これ)なり」(同1684ページ)とありますように、余行にわたさず直ちに正観に達する、正しい悟りに達する、すなわち布施・持戒・智慧等の菩薩道、中にも智慧中心の行によって仏の教えを理解して悟りを開く修行、これは正法・像法時代の修行でありまして、この修行を余行というのであります。余行によって悟りに達するのではなくて、以信代慧、信心の力をもってありのままの悟りを開くのであります。

 智慧を用(はたら)かせて成仏がどうしてとか、何故にとかいう道理や筋道を考えていても、真実の法は悟れません。「一心欲見仏 不自惜身命」(法華経439ページ)の信の一字が、直達正観のもとでありまして、「日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり」(御書 669ページ)と。

 「余行にわたさず」とは、智慧で理解しようとするのではなしに、そのまま受け入れて信ずる師弟相対の信心、唱題・折伏の一行をもって覚るのであります。ここに「知る」というのは智慧でして、その智慧がないのですから信をもってその智慧に代えるのであります。その信心とは唱題修行、行であり、この行が最高に勝れていますから行妙というのであります。

 この境智、信心の対境であります御本尊に向かって信心する主体が冥合一体するところに、衣座室(えざしつ)の三軌(さんき)による自行化他の折伏行が存するのであります。どんなに悪口を言われ罵(ののし)られても、切れないで我慢する、投げ出さないで耐え忍んで、一切衆生の苦しみに涙し、一切衆生が幸せであることを心から願う慈悲の心をもって、今の謗法を払って、この三大秘法の信心でなくては絶対に幸せになれないと言い切って、折伏を行ずるのであります。

 仏教は知恩報恩であります。末法の御本仏日蓮大聖人によって、私たちは地獄に堕(お)ちないで成仏するという最高の利益を戴く大恩を受けました。この白烏(はくう)の大恩を、謗法罪によって地獄に堕ちる謗法の黒烏(こくう)に、何ものにも屈しない不惜身命の折伏をもって御恩返しするのであります。

 平成14年、立宗750年も御法主日顕上人猊下の御教導のもとに、一切が見事な成果をもって完結しようとしております。本年の大歓喜と確信を持って、次の7年に向かっての、「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集を」(大白法 608号)との御命題にお応えすべく、大折伏の誓いを立てて勇猛精進してまいりましょう。御清聴、ありがとうございました。

※この原稿は昭倫寺支部の若山祐太郎さんの御協力で掲載いたしました。



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