大白法

平成15年4月16日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜8面>


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御法主上人猊下御言葉
第7回講頭・副講頭指導会の砌


本年度の法華講連合会春季総登山会に当たり、宗務院の企画によりまして、全国各法華講支部の講頭・副講頭の方々がこのように御参集になり、指導会が執り行われておる次第であります。

ただいままで、早瀬庶務部長、さらに藤本総監から、現下の宗門における目標に向かっての前進について、色々な面から縷々(るる)、話がありました。そして、それに対する考え方、見方、構格については、それらの話のなかでほとんど尽きておると思うのであります。ですから、私がいまさら付け加えることもないのであります。

御本仏日蓮大聖人様の真実の大法を伝承し、一切衆生を導いていくための唯一の宗団である日蓮正宗が、昨年は宗旨建立750年の大佳節を僧俗一致の姿をもってことごとく立派に御報恩申し上げ、さらに「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって出発をせんとしておることは、法界の上からの真の仏様の御心をそのまま顕し、また体しておるところの姿と私は感じておるものであります。

その証拠の一つを挙げますと、皆様も御承知のとおり、総本山における主な桜である「ソメイヨシノ」が、例年と同じように本日はまだ咲いておりません。このままの経過からしますと、ちょうど虫払大法会のころに満開になるのではないかと思いますが、これは例年のとおりなのです。

しかしながら昨年だけは、何十年来か何百年来か判りませんが、その深い意義をもって執り行われた宗旨建立750年慶祝記念『開宣大法要』が奉修された3月28日に、それまでに咲き始めた総本山における桜が満開となったのであります。そして29日・30日には、もはや花が散り始めたのであります。このことは、皆様方のなかで御記憶の方もあると思います。これは本当に不思議な天地法界の運行であります。すなわち、久遠元初の御本仏の統治するところの法界の上からの仏法の功徳の顕れとして、そのような姿をもって我々の目の前に顕してくださったと思うのであります。

先程からの話にもありましたが、今日、世界は言いようのない大混乱の様相を呈しております。現在、アメリカを中心にイラク攻撃が続いておりますが、たとえアメリカが一時的に勝とうとも負けようとも、そのようなことのさらに奥には、多くの人々が論じていないところの深い対立が存するのであります。これは大聖人様が御書の上にはっきりとお示しになっております。すなわち、「末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して云云」(御書764ページ)という御文であります。いわゆる、正しい教えが全く隠れて謗法の姿が現れておるところからの、しかも、その誤った宗教が根本となって、このような争いが現れておるということを世間の人々は知りません。そのもっと手前のところにおいて色々と論じておるのであります。

ですから、我々は宗教の正邪の上から本当に衆生を導いていかなければならないのであり、そこに日蓮正宗の今日からの前進があると私は信じておるものであります。そのような点から、我々はしっかりやってまいりましょう。


先程来、色々とお話がありましたけれども、皆様方がお話を聞いておられて「私の信心では、とてもそのようなことはできない」と思われた方も、このなかにかなりおられたのではないでしょうか。しかしながら、一つのところから始めるべきなのです。私も、たくさんの仕事がありますと、初めに「これを全部やるのはとても無理だ」と思ってしまうのです。ところが、一つひとつについてきちんとした気持ちで、お題目を唱えつつ進めていくと、いつの間にかその一つひとつが成就していくものなのです。

そこで皆様方に申し上げたいのは、大聖人様の御金言として『三三蔵祈雨事』にあります有名な、「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(同874ページ)という御文であり、この文中で大聖人様は「こヽろみる」ということをおっしゃっておられます。大聖人様自らが試みになって、そして一切衆生を根本的に導くところの本門の三大秘法を顕されたのであります。

ですから、皆様方一人ひとりが毎日の生活のなかにおいて、信心の問題、家庭の問題、教育の問題に直面し、しかも悩み、あるいは苦しんでおるところのすべてを根本的に解決してくれるのが仏法なのです。けれども、それにはまず試みなければならないのです。「よし、まずこれを試みよう」と思って唱題を根本に試みてごらんなさい。そして試みて、「道理証文よりも現証にはすぎず」の御文のとおり、実際に一つひとつを現証として身に当ててはっきりと掴(つか)んだときに、言われなくても、人に向かってこの仏法の話をしたくなってしょうがなくなるのです。講頭さんであるならば副講頭に話し、講頭・副講頭であるならば幹事に話し、さらに多くの人々に「大聖人様の仏法を信じ、お題目を唱えることによって、このようなことがあるのだ」ということを、自らの実証・体験をもって、心の底から人に向かって話をされていくところに、試みという意味からの実証の姿があると思うのであります。

上の人から「これはよい」と言われても、何がよいのか本当のところは解らないということでは困るのです。自分が本当に「これだ」ということをしっかりと掴んで、その試みに応じて、人に向かってたとえ一言でも二言でも乃至、百言でも千言でも「必ず幸せになるのだ。一つひとつの仕事や問題が正しく解決するのだ」という仏法の信心修行の大きな功徳を、実際に自分自身が掴みながら人に向かって話していくことこそ、大切だと思うのであります。

その意味で、先程からのお話は全部が大切なことであります。上の人から言われたことを、ただ鵜呑(うの)みにするのではなく、大聖人様が「日蓮仏法をこヽろみる」とおっしゃっておられるのですから、皆様方一人ひとりが「よし、試みてみよう」と、まず試みてください。

仮りに不良の子供がいるとします。この問題はすぐには解決しませんが、この不良の子供に対して何をすべきかは、仏法を試みていく上において、その解決法が次第にはっきりと顕れてくるのであります。

はなはだ簡単なことではありますけれども、本日はこのことを申し上げますとともに、皆様方の講頭・副講頭としての確信を持ってのいよいよの御精進を心からお祈り申し上げる次第であります。



教学用語解説 『国を知る』


日蓮大聖人は『教機時国抄』に、「四に国とは、仏教は必ず国に依って之を弘むべし。国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国、一向偸盗国(ちゅうとうこく)・一向殺生国・一向不孝国等之有り。又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り。而るに日本国は一向に小乗の国か、一向に大乗の国か、大小兼学の国か、能く能く之を勘ふべし」(御書271ページ)と仰せられ、国情を踏まえて布教することが肝要であると御指南されています。

御書の中での「国」についての御教示は大きく分けて三通りあります。


<地理的・社会的な情況の違い>

その第一は、一般的な国の種々相であり、教法を弘通するには、その国々の特殊性を考えなければならないことを示されています。

世界には多くの国がありますが、国によって気候風土の差、経済的な貧富の差、地理的な辺国・中国、大国・小国の相違、あるいは道徳的・文化的な観点よりの種々の段階があることが示されています。さらに仏法流布の因縁において、小乗・大乗・大小兼学等の差別があることを説かれています。

これは、仏法を弘通するには、国を鑑みよということであり、その国の気候風土の違い、経済的な貧富の差、地理的な辺国、大国・小国の相違、道徳文化の違い等と社会的な環境を考えなければならないということを示されているのです。


<「日本」の呼称に具わる因縁>

第二は、「日本」という呼称に具わる不思議な因縁です。大聖人は『諌暁八幡抄』に、「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相(ずいそう)なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(同1543ページ)と、「月氏」に対して「日本」という名前には自(おのず)ずから三大秘法建立の妙国たる因縁が具わっているのであると御指南されています。

すなわち、一往、仏教はインドより日本に伝わるという筋目が存在します。しかし、日本国に大聖人が建立あそばされるところの三大秘法の大白法は、あたかも月に比して、日輪がすべてを遍く照らして赫々(かくかく)たるごとく、末法万年の闇を照らし、一切衆生に功徳を及ぼしていくのであると御指南されているのです。

総本山第26世日寛上人は、さらに「日本」という名前の意義について、三義を示されています。

一、「日」の光は一切を遍く照らしてもろもろの闇を除くのであり、あたかも「文底独一本門三大秘法」が一切衆生を遍く照らして功徳を及ぼすごとくである。すなわち「日本」という名前は「三大秘法」の体を表しているのである。

二、「日本」とは、末法の御本仏日蓮大聖人が御出現なされ、御化導あそばされる「日蓮」の「本国」であるということを自ずから顕しているのである。

三、先の「一」で述べたように、「日」は三大秘法の体を表しているのであり、日本とはその三大秘法が広宣流布する「根本」の妙国であることを顕しているのである。

(以上趣意・六巻抄111〜112ページ)と御指南されています。すなわち「日本」には、大聖人が御出現になり、三大秘法を建立あそばされる必然性が具わっており、その不思議な因縁によって、はるか以前より「日本」との呼称が使われてきたのです。


<日本における弘通の方軌>

第三は、日本における具体的な弘通の方軌についてです。大聖人は『教機時国抄』に、「日本国は一向に大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国たるべきなり。・・・而るに当世の学者日本国の衆生に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは、譬へば宝器に穢食(えじき)を入れたるが如し等と云云」(御書272ページ)と仰せられ、日本は実大乗たる法華経の弘まるべき妙国であると御指南されています。

すなわち大聖人の仏法をご飯、少々の謗法を砂利に譬えたとします。ご飯はそれのみで食することができますが、少々の砂利が混ざっていては、全く食べることはできないのです。砂利はその一々を取り除かなければなりません。

このように、日本における弘通は折伏に限るのです。それは大聖人が時の為政者を諌暁された御振る舞いをはじめ、御歴代上人の度重なる国家諌暁、また法華講の鑑とされる熱原三烈士の事振る舞いを考えれば自明です。日本は大聖人が三大秘法を建立あそばされた妙国であり、どこまでも死身弘法の折伏弘通を貫かねばならないのです。

また、『顕仏未来記』の、「正像には西より東に向かひ末法には東より西に往く・・・仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(同677ページ)のごとく、日本が起点となり、現在、世界の国々に正法が流布し、寺院、布教所、事務所が多くの国で置かれるまでになりました。死身弘法の精神はすでに世界へ弘まっています。

私たちは、今こそ平成21年をめざして、どこまでも『立正安国論』に貫かれる諸宗の邪義を破して正直の妙法を立つという精神を確立しなければなりません。「立正」なくして「安国」はない、「立正」なくして、自身の境界を仏と開き、数多(あまた)存する社会不安を除くこともないとの大確信を開くことこそ、「国を知る」ということになるのです。



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