皆様、おはようございます。ご案内のとおり、『立正安国論』正義顕揚750年に向かって、本年度からまた講習会が行われることになりまして、今回はその第4期に当たる次第であります。そこで私は、今年は何を申し上げようかと考えましたが、やはり本年は「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進む第1年目でありますから、『安国論』に関しての御仏意を拝読して、皆様方と共に研鑚いたしたいと思った次第であります。
それで今回行うところは『立正安国論』の全体「九問答・一領解」のうちの第三問答・第四問答の内容になります。ここも経文がずっと説かれていまして、なかなか難しいのです。特に、この第四問答の邪法邪義に関しての引文とその内容は、要点を摘文されている関係上、表面の文字だけを拝すると大変判りにくいところがあります。
<第三問答:誹謗正法の由>
そこでこの第三問答は、まず客が血相を変えて詰(なじ)るのであります。つまり国土に仏教がまことに盛んであるにもかかわらず、その誰人を指して仏教を破る者と言えるのかという質問です。それに対して主人が、悪い僧侶等によって人々が迷っておる故に、その悪僧が輩出することの根拠として経文をまた挙げられるわけであります。これが仁王経、涅槃経、法華経の文であり、その悪僧がその経文のごとく生じておること、その悪僧の邪言を誡めるべきであるということを述べるのが、この第三問答の要旨であります。
客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟りて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構へを成す。爾しより来(このかた)、上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専らにす。然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道に、仏経は星のごとく羅(つら)なり、堂宇雲のごとく布けり。シュウ子(しゅうし)の族は則ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流(たぐい)は亦鶏足の風を伝ふ。誰か一代の教を褊(さみ)し三宝の跡を廃すと謂はんや。若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。
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・色を作して曰く
血相を変えたということをよく言いますが、むっとしたような顔です。
・後漢の明帝は金人の夢を悟りて白馬の教を得
これは後漢の第2番目に孝明皇帝という方がいますが、その人の代にその皇帝が夢を見ました。すなわち全身金色の人が現れて、前庭を飛ぶ姿が目に入ったということであります。それで、この夢はどういうものかということを、宮中の太史傳毅(ふぎ)、あるいは博士王遵(おうじゅん)というような学者に占わせたところ、この「金人」というのは、遠く西のほうにいる聖人であり、その聖人の教えが西のほうに弘まっているということを述べたのです。
そこで皇帝は、その聖人の教えを知りたいということで、インドに使いを派遣しました。その途中で、ちょうどインドのほうから摩騰迦(まとうか)、竺法蘭(じくほうらん)という2人の者が、仏像や経巻を積んで中国へ向かっていたのに出会いました。そこで、その案内をしながら中国に引き返して来ましたが、そのときの2人は仏像や経巻を白い馬に載(の)せてきたのであります。それを孝明皇帝が大変喜んで、この伝来した仏教を篤く保護し、その仏像や経巻を安置するところの寺を建てたのです。すなわち白い馬に載せて来たという因縁をもって、その寺を白馬寺と名付けました。したがって、ここでは仏教のことを「白馬の教」と言っておるのであります。これは中国における仏教伝来の姿、因縁を述べております。
・上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構へを成す
前の中国に対して日本国における仏教渡来のことを挙げておるわけです。皇紀1212年、欽明天皇の御宇(ぎょう)に、百済(くだら)の聖明(せいめい)王という王様から仏像・経巻が献上されました。この仏教を用いるか否かで大きく意見が分かれたのであります。
聖徳太子、蘇我馬子というような方々は、この仏教を受けてこの教えを信じ崇むべしという意見でしたが、これに対して古来、日本国にあった神道に固執した物部氏の一族、特に守屋という人が中心となって大きな反対があり、大変な争いになって結局、首魁・守屋が誅殺されたわけであります。
かかる仏教受容に対する反対分子を鎮圧した後、聖徳太子は仏教を非常に手厚く保護し弘通しました。今でも大阪に四天王寺という大きなお寺があり、それから奈良には元興寺とか、法隆寺というような立派な寺があります。これらはすべて聖徳太子が仏教伝道のために建てた寺であります。したがって「寺塔の構へを成す」という文は、そのような意味で聖徳太子が仏教を手厚く保護し、寺を建てたということを述べております。
・爾しより来、上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専らにす
多くの人々がこの仏像を崇め、また経巻を勉強した、信仰したということであります。
・然れば則ち叡山・南都・園城・東寺
当時の仏教の大寺、中心を挙げております。この「叡山」というのは比叡山の延暦寺のことです。「南都」というのは当時、南都七大寺がありましたが、いわゆる東大寺・興福寺・元興寺・薬師寺・法隆寺・大安寺・西大寺の7つの寺で、奈良における仏教の存在を言っております。次の「園城」は三井寺(みいでら)で、天台宗の寺門派で延暦寺の座主を務めた智証が開いたところであります。次の「東寺」というのは、京都にある東寺のことで、京都駅から西南の方角を見ると大きな五重塔が見えます。その寺域が東寺です。あれは真言宗の弘法という僧が、もともとあの所にあった東寺という寺を朝廷より戴いて、真言の寺としたわけであります。現在では、教王護国寺というのが、その教義の内容から決まったところの正規の名称であります。
・四海・一州・五畿・七道に、仏経は星のごとく羅(つら)なり
「四海・一州」、これも対句ですね。「五畿・七道」もそのような意味があります。それで「四海」に囲まれた国と、「一州」つまり日本全体の土地ということで、これは日本の国のことを言っておるわけです。
次に「五畿」の「畿」という字は、当時の王城を中心とした四方500百里以内の地という意味があり、要するに帝都周辺の文化圏の地域を言います。そこで「五畿」とは、その頃の王城、京都を中心とした、山城・大和・河内・和泉・摂津という5つの国であります。今の地名で言うと山城は京都で、大和というのは奈良です。それから河内は現在の大阪の東のほうの地域で、和泉は堺(さかい)のほうに当たります。摂津も大阪の北のほうから兵庫東部の辺りで、それらを五畿と言います。
それから「七道」は、当時の日本において京都を起点とするあらゆる交通の要路、道路の中心でありまして、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の7つであります。すなわち日本国全体を言うわけで、その中に仏教が星のごとくに網羅して、布教されておるということです。
・堂宇雲のごとく布けり
立派な堂宇もまたあちらこちらにあり、たくさんの仏堂が存在しておるという意であります。
・シュウ子(しゅうし)の族は
この「シュウ子」というのは「島津鳥」とか「鵜」とか言いまして、鶴に似た足の長い水鳥のことを言うのです。丈が5尺ぐらいあり、その鳥の目が非常にきれいであると言います。
それで皆さん方は、あの『方便品』に出てくる舎利弗をご存じでしょう。この舎利弗は釈尊の十大弟子の筆頭に当たるような方でありますが、この舎利弗の母が非常にきれいな目を持っていて、その母の名を舎利と言ったのです。この舎利というのが、シュウという鳥の梵名であります。「弗」というのは「子」という意味ですから、舎利という婦人の子はすなわち舎利弗で、つまりそういう意味からこの「鷲子の族」とは、舎利弗及びその一類の僧を言っておるわけです。
・則ち鷲頭の月を観じ
「鷲頭」というのは霊鷲山の頭上のことです。『寿量品』の「自我偈」に、「倶出霊鷲山・我時語衆生」(法華経440ページ)とあります。あの霊鷲山は釈尊が法華経を説かれた所です。法華経以外の経典も多くあそこで説かれているけれども、要するにこの大乗中の極大乗である法華経を説かれたのが霊鷲山ということで、非常にこの霊鷲山という所が、仏法上の大事な意義を持っております。
その頭上の「月を観じ」とは、霊鷲山において説かれた法華経の深い教えと、その中の尊い悟りを月に譬えたのです。つまり舎利弗等の人々は、法華経において二乗作仏による一念三千の悟りを得たということを形容して「月を観じ」と述べておると思われます。また、この「観じ」ということは、「慧」によって法理を観ずるわけですから、つまり仏教の3つの基本たる戒・定・慧の中の智慧の得道を意味しております。
・鶴勒の流(たぐい)は亦鶏足の風を伝ふ
この「鶴勒」というのは、付法蔵(ふほうぞう)第23祖の鶴勒那(かくろくな)という人のことであります。500人の弟子がおりましたが、福徳がまことに薄く、皆鶴となって尊者にしたがったというようなことから鶴勒那と言われます。その僧団の人々が「鶏足の風を伝ふ」ということを示しておるのです。
この「鶏足」とは、鶏足山という山を言います。これは何かと言うと、釈尊十大弟子の中で舎利弗と迦葉の2人がその筆頭と言うべき方でありますが、そのうちの迦葉尊者が入定(にゅうじょう)した山がこの鶏足山なのです。そして迦葉は、釈尊から直授相承の禅定の法を受け継いだということを言われておる。つまり迦葉の教風における定による得道を示しております。
そういうことで、ここは要するに仏教の中の中心眼目としての定・慧の二法、すなわち仏教がより盛んであるという状況を述べておるのです。
そこで次に、客は、
・誰か一代の教を褊(さみ)し三宝の跡を廃すと謂はんや
と反論します。この「褊し」ということは、軽蔑するとか見下すという意味でありまして、「誰が一代の仏教を、あなたの言うような意味において見下しておることがあろうか」、「仏法僧の三宝を廃して、その外護を止めるようなことがあろうか」と駁(ばく)しておるわけです。
・若し其の証有らば委しく其の故を聞かん
「そういうことをあなたが言うのであれば、どこにその証拠があるのか、委しく聞きたい」と、客がまず主人に反論の質問をするのであります。
次が、主人の言葉です、
主人喩して曰く、仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く侶は稻麻に似たり。崇重年旧(ふ)り尊貴日に新たなり。但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ふること無し。
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・主人喩して曰く・・・
ここのところは、「確かにあなたのおっしゃるとおりである」と、主人が一往、肯定する文です。やはり何でも問答の時は一往、肯定することが大事です。つまり「あなたのおっしゃることも判りますが」ということです。それを「あなたの言っていることは違うよ」と頭から言ってしまうと、相手は怒って聞く気持ちをなくしてしまう。それでは折伏になりません。ですから一往、相手の言っていることを受け入れ肯定して、「しかしながら、その本当の意味はこうだ」と言うところに、無理なく話の筋道を展開する方法があるように思います。
・僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり
竹や葦のように僧侶が多く、また稲や麻のようにその僧侶の仲間がたくさんいるということであります。
・崇重年旧(ふ)り尊貴日に新たなり
日本の国土において仏法を崇め重んずるという状態が、実に年も長く経っており、またさらに現在も仏法を深く尊んでおる姿が日々に新たであると言われます。
この辺の文を拝しても、また『立正安国論』全体にわたり、見事な対句になっているのです。この「崇重」と「尊貴」は同じ意味ですが、こういうふうに別の表現をしておる。「年旧り」ということは、長くなっておるということ、それから「尊貴」が日に新たで、日々においてまた新たに仏法が尊ばれておるということです。この「旧り」という言葉と「新た」という言葉がまた対称されております。『安国論』のいたるところが、このような卓越した文辞になっているのです。実に文章がすばらしく見事であるということについては、世のあらゆる人たちも感心しておるようであります。
・但し、法師は諂曲(てんごく)にして人倫を迷惑し
ここからが「但し」ということで、主人の本音が述べられるのです。「あなたはそのようにおっしゃる、また事実そのように見えるけれども、事実としては仏法を弘め持つところの法師は諂曲である」と言うのです。「諂曲」というのは、諂(へつら)い曲がっておる、つまり根性がねじけておることであります。「人倫を迷惑」するということは、やはり人の道すら守れないように、その考えが堕落をしておると、まず僧侶について指弾されます。
・王臣は不覚にして邪正を弁(わきま)ふること無し
つまりこれは仏法外護の国王、その国王の臣下等の、国の重要な政治を執る人々も、僧侶の諂曲にして誤っておる姿に対して邪と正を弁える見識がないということを、続いて指摘されるのであります。
そこでこの次からは、このことに関する文証としての経文を挙げられます。すなわち仁王経、涅槃経、法華経等には、未来において邪悪の僧が出て仏法を乱すという予言を釈尊がはっきり説かれており、それによって様々な誤りが生ずることを述べられる文を引いてあります。
◆◆◆【誹謗正法の経証1:仁王経嘱累品】◆◆◆
仁王経に云はく『諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て自(みずか)ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別(わきま)へずして此の語(ことば)を信聴し、横(よこしま)に法制を作りて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す』已上
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・『諸の悪比丘多く名利を求め、
これは、この世において悪比丘が法を破し、国を破すような悪い因果を作るであろうということを述べております。この中の「名利を求め」の「名」とは名声であり、つまり世間から讃えられることを求めるということです。それから「利」は利養、すなわち多くの人々からの供養を受けて豊かな生活をすることを求めるであろうという意味です。
・国王・太子・王子の前に於て自(みずか)ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。
しかも、国王・太子・王子の前において自ら悪比丘の行為として間違った教えを説く、すなわち「破仏法の因縁」です。破仏法というのは、仏法を破すところの因縁となるような悪説を述べるということです。「破国の因縁」とは、仏法を破す悪説がそのまま国を破すような悪義となる。それを述べて反省するところがないということです。
・其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す』已上
したがって、正しい仏教の教えに基づかずに間違ったことを信ずるから、国政を執る者として、自己の利益を中心として民衆の幸福を考えない法律制度を作るということになるのです。そういう法律を作って仏の戒めによらない、こういうことを「破仏・破国の因縁と為す」と、仏が断ぜられております。
つまり悪比丘が邪教を弘め、正法の人を誹謗する。そして正法を持つ人に対して怨嫉を生じ、国王等に讒言をすることが、破仏・破国の因となるわけです。そして王臣等がその讒言を信じて正法を曲げ、また正しい仏法の師を迫害するに至るのは、その破仏・破国の縁となるのであります。そのような意味において、悪比丘によって謗法破国の姿が現出するということを述べられております。
◆◆◆【誹謗正法の経証2:涅槃経高貴徳王品】◆◆◆
先ほどのところは、この世における邪悪の僧による破仏・破国の内容を述べられましたが、ここでは死んだ後の未来のことを述べられます。未来においては、悪法によって地獄に堕ちるという意味を警告されるのであります。
涅槃経に云はく『菩薩、悪象等に於ては心に恐怖(くふ)すること無かれ。悪知識に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る』已上
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・悪象等に於ては心に恐怖(くふ)すること無かれ
この「悪象」というのは、酒を飲ませ、酔って荒れ狂う象のことでありますこの悪象は、もう手がつけられないほど、ありとあらゆるものを壊し、人間を踏み潰し、様々な悪害を行うのです。しかし経文は、この「悪象」よりも本当は「悪知識」のほうが恐ろしいのであり、悪象においては恐ろしがる必要はないと言われます。
・悪知識に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣に至らず、
ところが、悪知識においては、本当に恐ろしいという気持ちを持たなければならない。なぜならば、悪象のために殺されては三趣に至らない、つまり悪象に殺されるということは肉体的な損傷ですから、この結果として死んだ後、地獄・餓鬼・畜生には堕ちないと言われるのです。つまり人間として生まれた因縁の果報があるわけですから、悪象によって殺害されたとしても結局、またさらに人間に生まれてくる意味があり、地獄・餓鬼・畜生には堕ちないということです。
・悪友の為に殺されては必ず三趣に至る』已上
ところが「悪友」のために殺される時は、必ず地獄・餓鬼・畜生の三趣に至ると言われますが、特に地獄に堕ちる意味において示されております。これはどういうことかと言うと、悪知識は我々の善い心、仏に成る善心を破るのです。悪象は、この善心までは破れない。肉体だけは破るけれども、心の徳は破れないのです。ところが悪知識は、我々の善い心とその徳を破ってしまうのです。したがって、悪知識が間違ったことを教えることによって、それを信ずれば、人々の善い心がなくなって堕地獄の悪心になると言われるのです。
これは今の創価学会の者共が、全くこのとおりなのです。悪知識によってますます悪心が増長しておるのです。つまり「嘘も百遍言えば本当になる」と言われれば、それを本気で何の批判もなく受け入れてしまう。それによって多くの人間が、自己の利益のためにはどんな嘘を言ってもいいんだと思い込み、そういう性格になり切っていく。自分に都合のいいようになれば嘘を言ってもいいんだということになると、平気で嘘を言うようになり、さらにそれが正しいと思い込む。実に国家社会にとっても憂うべきことであります。
そのようなことによって、要するに多くの人が心中の善心を破ってしまっておるわけです。それが池田ら悪知識の悪業であります。皆さん方は、本当によかったのです。大聖人様の仏法を正しく受け継ぐこの日蓮正宗にきちんと入って来られたからであります。ですから根本に悪心を秘めつつ、巧言令色、人を牽(ひき)いて悪をなさしむる元として、その善心を破るのが悪知識であり、必ず未来に三悪道に堕ちるのであります。したがって、本当に恐ろしいということを知らなければならないということが説かれておるのです。
◆◆◆【誹謗正法の経証3:法華経勧持品】◆◆◆
次は、法華経の『勧持品』です。
法華経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん。或は阿練若に納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂ひて人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に白衣の与(ため)に法を説いて、世に恭敬せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって誹謗して我が悪を説いて、是邪見の人外道の論議を説くと謂はん。濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入って我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し数々擯出せられん」已上。
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・『悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に
まず、『勧持品』の三類の強敵を示す中の、道門増上慢を述べられた文です。つまり悪世末法の僧侶は邪悪な智慧を持ち、心が諂(へつら)い曲がっておる。これはまさしく仏法を聞き学ばないからであります。
・未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん。
そこで「未だ得ざるを為れ得たり」と思い込む。つまり「自分は偉い、自分は悟ったのだ」と、このように考えて多くの者を軽蔑し、その結果として正しい法を持つ人を迫害するに至るということであります。
・或は阿練若(あれんにゃ)に納衣にして空閑(くうげん)に在り
続いて、僣聖増上慢の文を引かれています。この「納衣」というのは、粗末な布のことです。つまりあちらこちらから布施された汚い粗末な布で作った衣を着し、質素な身なりで、いかにも聖人ぶっておる。それから「空閑」とは、静かな所におるということ。「阿練若」もまた閑静な所という意味であります。
・自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賎する者有らん
この僣聖増上慢という種類の者が、また実に深く大きく正法を破るという姿があるということです。
・利養に貧著するが故に
これは先ほども出ましたが、世間からの名誉に執着し、信者民衆からの供養を貪り執着するのが、利養に貧著するということです。
・白衣の与(ため)に法を説いて
この「白衣」というのは、在家の人のことで、この人々に法を説くのです。
・世に恭敬せらるゝこと六通の羅漢の如くならん
これは仏法を破る大本の僧が、かえって聖人のような形を装っておるということです。この「六通」とは、天眼通・天耳通・宿命通・神足通・他心通・漏尽(ろじん)通の6つです。
ついでに言えば、これらの能力は、皆さん方の一人ひとりにも潜在しておるのです。けれどもその能力を本当に出すためには、これから飯もろくに食べずに洞穴に入って、種々の禅定や智慧の修行をし、一生涯を終えなければならない。一生でもまだだめでしょうから、この次にまた生まれ変わり、3回、5回と生まれ変わってくれば、だんだんとそういう通力が出るかも知れません。しかし末法は、大体そういう面では鈍(にぶ)い人が多く、もともとの能力に欠けているのですからしょうがない。本質的には一切の人に具わっているのだけれども、ないような状態としてほとんどの人が生まれてきているということです。食欲・性欲・権勢欲、その他様々な欲望充満の生命では、これらの五通、六通の通力は出てきません。今のこの世の中の姿がそうなんです。ですから、皆さんもそんなことに時間を費やす必要はありません。むしろそれよりも根本の仏道成就の南無妙法蓮華経の御題目を唱えることが大切であります。
・乃至常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲するが故に
こういう者共は、ただ自分だけで誤ったことを行っているならまだいいけれども、こういう者に限って、正しい法を弘めようとする人に対して嫉みを生じ、悪口を言うのです。
・国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって誹謗して我が悪を説いて、是邪見の人外道の論議を説くと謂はん
すなわちこの悪僧は、国の権力者たる国王や高官、世の指導者に向かって、ありとあらゆる誹謗の言をもって、正しい法を持つ僧を、邪見外道と悪口を言うのであります。
・濁劫(じょっこう)悪世の中には多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入って我を罵詈(めり)し毀辱(きにく)せん
このところで、悪世中に正法を持つ人には、多くの恐るべき事柄が現れるという予言が、まず示されます。次の「悪鬼入其身」ということは、非常に有名な言葉です。つまり人々が悪人に変化していろいろな悪口を言うというのは、その命の中に悪鬼が入るからなのです。そういうところから様々な誹謗、悪口、迫害等が生じてくるということであります。
・濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し数々(しばしば)擯出(ひんずい)せられん』巳上
ここまでが三類の強敵の中の僣聖増上慢の怨嫉迫害の形として示されておるところです。この僣聖増上慢の悪比丘は、偉そうな行いを装っていても、仏の肝要な化導の方法を知らず、方便随宜によって法を説くことに迷うという意味です。
この「随宜」とは、仏の真実の心でなく、相手の低い機根にしたがって法を説くことです。すなわちこの悪比丘は、教えの中に方便と真実があることを知らない。仏の随宜所説の法を知らないということは、また仏の真実の法を知らないということなのです。真実の法と随宜所説の法の区別に迷って、方便の随宜所説の法を真実の法と思い込み、そこに大変な混乱を起こしてしまっておるのです。したがって、法華経を真実の法であると説く僧侶に対して怨嫉し、悪口誹謗をするのであります。
また「顰蹙」は顔をしかめること。そして「数々濱出せられん」というのは、正しい法華経の行者が、しばしばその住んでおる所から追い出されるということであります。そのような迫害が行われるという予言であります。
◆◆◆【誹謗正法の経証4:涅槃経如来性品】◆◆◆
次は、涅槃経の北本『如来性品』を引かれてあります。
涅槃経に云はく「我涅槃の後無量百歳に四道の聖人悉く復涅槃せん。正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少しく経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細視除行するが如く猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。
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・我涅槃の後無量百歳に四道の聖人悉く復涅槃せん
「四道の聖人」とは、仏道修行の中で初果・二果・三果・四果の段階があり、これらの修行によってあるいは見惑、あるいは思惑等を断尽した聖者が、その徳をもって世を導きます。しかし、仏が亡くなられて時が過ぎると、これらの聖人も皆死んでしまう。そこで仏の教えが正しく弘まる正法時代より、像法という教えの形式化された時代に移ると、悪比丘が輩出するという未来記であります。
・正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少しく経を読誦し・・・我羅漢を得たりと。
すなわちこれは、心の中に仏法の行者として、正邪に対する深い懺悔、反省等の気持ちもなく、ただ我欲にとらわれておる僧侶が出ることを予言しておるのであります。こういう者に限って「自分は羅漢を得たのだ」とか「自分は聖人であるから一切に勝れており偉いのだ」と言うのですが、末法において、特に自分のことを偉そうに言う人間には、ろくな者はいないのです。
宗門では、法主に対する形として合掌礼を行うことになっていますが、私としては、他の人々から拝まれることに心中、忸怩(じくじ)たる気持ちがあります。私のような人間が人から合掌されることは、本当に申しわけなく思っておるのです。ただ、そのとき心の中で御題目を唱えています。ですから私は今まで「自分が偉いのだ」とか「私はこういう境界を得ている」などの言は、一遍も吐いたことはないのです。
けれども本当に悪い宗教家は「自分は本当に偉いのだ」ということを平気で言うのです。ですから、こういう形で悪い僧侶が出るということを言われておるのであります。
・外には賢善を現じ内には貪嫉妬を懐く
それで外には非常に賢く、心掛けのよい僧侶であるような形を現じ、内には醜い貪りと嫉みを強く抱いておるというのです。
・唖法を受けたる婆羅門等の如し
この「唖法」というのは、インドの外道の一種が、常に無言を実行することにより悟るという、誤りの修行です。ですから喋らないことが悟りに至る道であるということをもって常に黙り、その道を磨くというのが唖法ということなのです。
ともかく、なぜこの「唖法を受けたる婆羅門等の如し」ということを言われたのかと言うと、人を導くためには人々と語り合う、お互いに気持ちを通じ合わせる必要があります。私も皆さん方と、こうしてお話していますが、やはりお互いの気持ちが通じ合うことが必要です。そしてお互いに正しいことを修行し、勉強し、お互いに啓発し合っていくと共に、常に正しいことを願う僧俗でなければならないわけです。にもかかわらず、上辺だけ賢人に見せるために黙っていて、偉そうに見せかけるところの者が、かえって悪い僧侶であるということになるわけであります。ですから、それを称して「唖法を受けたる婆羅門」と言われたのです。
・実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん』已上
これは沙門ではない者が、沙門の形だけを表しておる故に、誤った邪な見解、因果を無視するのを邪見と言うのですが、それが火のように盛んであり、この者共が正法を誹謗するという予言です。
文に就いて世を見るに誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや。
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これは大聖人様の御言葉です。すなわちこれまで種々の経文を挙げられましたが、これらの文によってこの世の中を見ると、まさしく今日においてこのような悪侶が充満しておるではないかとおっしゃるのです。
そこでこの悪侶を誡めなければならない。誡めるということは、その悪を改めるべく教え諭すこと、また悪を禁止することであります。もう一つ言うならば、誡めるという言葉の中には懲らしめるという意味があります。すなわちこれは折伏であります。大聖人様の教えが正法正義の上から、誤った邪義邪僧を誡めるということ、折伏するということが、ここにはっきりと、この御文において明らかであります。故に「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」ということをもって、この段の答えの結語とされるのであります。
※御講義中の見出しは妙音で付けさせていただきました。
○少年部大会の砌
法華講連合会第12回少年部大会が、このように盛大に執り行われまして、本当におめでとうこざいます。このような立派な大会が行われるに当たっては、法華講総講頭、同連合会委員長・柳沢喜惣次殿ほか各役員の方々、さらに少年部員各位のお父さん、お母さん方の尊い尽力があったことと思います。私は、初めて少年部大会に出席をいたしました。前のほうに座っている少年部の男女の方々の姿を見て、心からうれしく思います。
<少年部は宗門の宝>
「子は宝なり」という大聖人様のお言葉があります。親にとって一番の宝は子供だということです。しかし、その子供が色々と間違ったことをしたり、間違った方向へ行ってしまって、親の期待に反するようなことが出てくると、親はたいへん悲しみます。そして結局、その子供は宝としての値打ちがなくなってしまう場合もあります。ところが、本当の正しい教えである日蓮大聖人様の教えを信じて、南無妙法蓮華経と唱える皆さん達は、本当にお父さん、お母さんにとっての宝物であります。また、私は、日蓮正宗という、本当の正しい仏法を弘めていく宗団において、あなた方は未来の宗門を背負って立つ信徒の方々になるという意味では、本当に宝物だという感じがするのであります。
先程から色々な尊い体験や、子供さんながらも一生懸命に信心をし、特に御祈念をしておるということを聞きました。たいへん立派なことであります。皆さんがよく聞く言葉に「広宣流布」ということがあると思います。広宣流布ということは、大聖人様の正しい教えをどこまでも弘めていくことで、多くの人々が幸せになっていくことです。みんなが正しい教えを持(たも)ち、ますますこの教えを弘めていくことによって、さらに幸せになっていくと思うのであります。
そこで、私が皆さん方に望みたいのは、皆さん方には広宣流布のために闘っていく人になってもらいたいということであります。先程のお話にもありましたが、世の中では間違ったことを考えて不幸になっている人達がたくさんおります。しかし、その人達の間違った考えを打ち破って、そして本当の正しい教えをどこまでも弘めていってもらいたいと思うのであります。
大聖人様は、「悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書1390ページ)ということを言われております。今の世の中にはたくさんの悪があるのです。先程の体験発表者のなかで、2人の方が創価学会ということを言っておりました。創価学会も一往、宗門の教えを受けましたけれども、池田大作やそのほかの人達の色々な我見が元になって、根本を忘れてしまったのです。一番の元を忘れてしまうと、ふらふらと元から離れてしまい、そこには間違った考え方がたくさん出てくるのです。そして結局、今、創価学会は大聖人様の教えから離れているのです。それでまた、宗門や私に対して色々なことを言っていますけれども、結局、先程の大聖人様のお言葉のとおり、「悪は多けれども一善にかつ事なし」なのであります。皆さん、このお言葉をよく覚えてください。悪いことはたくさんあっても、また悪い人間が大勢いても、結局、一つの善には絶対に勝てないのだということであります。
大聖人様はただ一人、初めて南無妙法蓮華経とお唱えになりました。ほかにも間違った教えがたくさんありましたけれども、それがだんだんと排除されて、今は大聖人様の教えを正しく持っていく人々が、このように増えております。たとえ一つの善でも、正しい善ならば、それを信仰していくことによって、あらゆる悪を打ち破っていくことができるのであります。
<勤行の正しい姿勢について>
また先程、勤行の話が出ましたが、勤行は本当に大切です。その勤行の時には、まず身体の姿勢を整えることが大切なのです。両脇をきちんと締めてそのまま手を合わせると、ちょうど胸の前、心臓の所で合掌ができます。これが一番正しい合掌の姿勢なのです。しかし、眠い時は合掌した手が下がってくる人もあります。それから、顔の前で合掌する人もいます。御本尊様を真剣に拝する気持ちから、そのような姿勢になってしまうのでしょうけれども、手は胸の前で合わせるのが合掌の正しい形なのです。
そして、目は御本尊様をはっきり拝することが大切です。御本尊様の「妙法」を拝することが基準ですが、場合によっては「南無」を拝してもよいのです。また「蓮華」を拝してもよいのです。「経」を拝しても、その下の「日蓮」というお名前を拝してもよいのです。それは「南無妙法蓮華経 日蓮」という真ん中のお文字が御本尊様の中心だからであります。けれども、一往は「妙法」、特に「妙」という字を拝することが基本であります。でも「妙」以外を拝してはいけないとか間違いだということはありません。皆さんもそんなことは聞いたことがないでしょう。ですから、目はしっかりと御本尊様を拝して、そして、いい加減な口調でなく、しっかりとした口調で南無妙法蓮華経とはっきり唱えることがたいへん大事であります。
もう一つは、難しいかも知れませんが、我々の命は3つの要素で成り立っているのです。三つの要素の一つは、今言った、きちんとした姿勢で勤行をする身体です。もう一つはお経をあげ、お題目を唱える口です。皆さん方も口で色々なことを言うと思います。お父さん、お母さんに逆らって、お父さん、お母さんに対して悪口を言ったりすることはありませんか。おそらくないとは思いますが、ともかく、悪いことも善いことも口で言うのです。だから口で話すということが大事なのです。そして、その口で行うことの一番善いこと、最高の善は、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることであります。それが一番大事なことであります。
そして三つの要素には、今の身体と口のほかに、もう一つあるのです。何だと思いますか。我々が生活していく上に必要な命の要素がもう一つあるのです。(※ここで少年部員から「目です」という声が上がる。)目だということを言った人がいますが、目は御本尊様をきちんと拝する時に使うもので、これは身体のなかに含まれます。ですから、目ではなく、もう一つは心なのです。心で「御本尊様は有り難い。大聖人様は有り難い」と思うことが信心なのです。
大聖人様は世の中の全部の内容の元をしっかりとお悟りになって、それが南無妙法蓮華経であるということをお示しくださっているのです。ですから、我々は大聖人様を仏様と信ずることが大事なのです。それがまた、御本尊様をしっかり信ずることなのであります。そして、先程からの体験発表にもありましたが、南無妙法蓮華経と唱えるその心が、つまり信ずるということが大事なのです。ほかにも色々な考え方がありますけれども、幸せになる元は、一番勝れたもの、正しいものを信ずることであり、それが大事なのです。ですから、皆さん方はそこを根本として色々なことを勉強してください。本もたくさん読んでください。お父さん、お母さんから色々な本を買ってもらう場合もあるでしょうし、色々な話を聞くこともあるでしょう。あるいは音楽を聞くこともあるでしょう。なんでもよいのです。どんなことでもどんどん挑戦して、自分でそれを掴(つか)んでいってもらいたいと思います。
ただ、問題は、その一番の根本である南無妙法蓮華経の信心を忘れてしまうと、せっかく勉強しても、勉強したものの一分に執われてしまって、本当の心がどこかへ飛んでいってしまうということです。ですから南無妙法蓮華経の信心を中心に、あらゆるものを勉強して幅の広い人間になることが、広宣流布の戦士として立派な人間になっていくための大事なことなのであります。そして、その元はお題目であります。
<御本尊から功徳をいただいて成長しよう>
先程からの体験発表では、さすがに子供さんの体験でしたから、功徳があったということは聞きませんでしたけれども、みんな、功徳の内容については言っていました。3人の人がみんな功徳を受けたようです。皆さん、功徳ということを聞いたことがありますか。功徳とはどういうことでしょう。もっとも、大人でも「功徳とは何でしょうか」と聞かれて、すぐに返事をできる人は割と少ないかも知れません。功徳とは幸福、つまり幸いということなのです。幸いを得ることが功徳を得ることなのです。
功徳の「功」という字は、悪い心、悪い行い、悪い結果、いやなこと、これを全部なくしていくのが功徳の「功」という意味で、功徳の「徳」というのは、悪いことに対して善い心がどんどん出てくる、善いことを行っていく、そしてその結果として幸せな気持ちになり、幸せなものを掴んでいける、それが「徳」であります。つまり、悪いことがなくなって善いことがどんどん出てくるということが、はっきり言えば幸せであり、功徳ということなのです。その意味からも、先程の人達の体験発表は本当に立派でした。
さて、先程からの話にもありましたとおり、あなた方は毎日の生活のなかで、起床してから勤行をして学校へ行くでしょうが、場合によっては色々なことがあると思います。あるいは試合があったり、それから学芸会で何かやらなければならないとか、色々なことがあると思うのですけれども、そういう時に不安な気持ちになりませんか。立派にできるだろうか、できないだろうかというような不安は、たとえ大人になったとしても、人間の生活のなかには付いて回っているのです。あなた達も、そういうふうに不安な考えを持つこともあるのではないかと思うのです。その時に、先程の体験発表のなかにもありましたように、10分でも、あるいは30分でも、先程の方は1時間と言いましたが、しっかり南無妙法蓮華経とお題目を唱えると、その不安が正しく消えていきます。自分のなかで変な形で消えるのではなくて、正しく消えていくのです。
それから、色々な面で解らないところがあったとしても、そういう時もしっかりお題目を唱えていくと、解らなかった問題が、自分の心のなかで解ってくる感じがあるのです。そういうところから、あらゆる問題がだんだんとはっきりして、正しく解ってくる意味もあると思います。
要するに、私が皆さん方に言いたいのは、あなた方一人ひとりはとてもよい子で、よいものを持っています。けれども、なかには色々なことに対して不安な気持ちを持ったり、そのほか様々な形から不幸になったり、いやな気持ちを持って生活をしているような人も、あるいはいるのではないかと思うのです。しかし、とにかくしっかりとお題目を唱えることで、自分自身が持っている最高の力を発揮することができるということを申し上げたいのです。それが一番なのです。あなた方一人ひとりは色々と優れたものを持っていますから、しっかりお題目を唱えることによって、あなた方の命のなかにおける最高のものをどんな場合でもはっきりと出すことができるのです。
よって、結果に執われる必要はないのです。例えば何かの競技会や試合があったとしても、負けたら負けたでよいのです。しっかりお題目を唱えて、あなた方が自分の持っている力を出しきったらよいのです。勉強もそうです。それによってあなた方が、自分自身の力を信じて立派に成長していくことができるようになると思うのです。
ですから、お題目があくまで根本であります。どのような事柄についても、それを本当にお題目をもって進んでいくならば、その人その人において本当にしっかりした命が生まれてくるのであります。これがまた、大聖人様の御慈悲だと思うのであります。あくまで結果に執われず、どんなことでもお題目を唱えつつ体当たりで行っていくところに、あなた方が立派な体験を積んで、立派な人になっていくことができると思うのであります。
そしてまた、皆さん方が大聖人様の教えに入られたこと、お題目を唱えることができるようになったのも、あなた方のお父さん、お母さんのおかげなのです。ですから、お父さん、お母さんに心から感謝して、お父さん、お母さんに受けた恩をお返ししていくということが大事です。そのためにもしっかり信心をして、勤行、唱題を根本として立派な生活を送り、立派な子供になっていくことが、本当にお父さん、お母さんを幸せにしていくことになると思います。どうか、これからも頑張ってください。
※この御指南は修徳院支部の川人さんの御協力で掲載させていただきました。
○8月度広布唱題会の砌
皆さん、ただいまは、総本山に登山をされております法華講総講頭・柳沢喜惣次氏ほか役員の方々、また鼓笛隊コンクールに出席の少年部の方々が、ここに大勢集まって、8月度の第1日曜日における広布唱題会を奉修することができまして、大変うれしく思います。
鼓笛隊の方々には、一昨日から今日に至るまでの3日間、総本山における錬成を行って、たいへん御苦労さまでございました。昨日の鼓笛隊コンクールについては、私も始めから終わりまで見学いたしましたが、皆さんが本当に真剣に取り組んでいる姿を見まして、これもしっかりお題目を唱えておる結果の姿だと、つくづく感じた次第であります。
宗祖大聖人様の三大秘法を受持していくこと、いわゆる御本尊様に向かって真剣に唱題をするところには、尽きせぬ功徳が存するのであります。このことは私がここで申し上げるまでもなく、皆さん方が色々と体験しておることと思います。
その功徳の一つは、外から来る魔縁を、おのずから退けていくところの大きな用きが成ずることであります。我々の生活のなかでは様々な魔縁が競ってまいります。これは大人の場合もあるし、子供の場合も存します。子供の場合では、いじめだとか、そのほか様々な問題によって苦しんでおる子供さんがいるように聞きますが、これも一つの魔縁の姿であります。けれども、しっかりお題目を唱えていくことによって、おのずからそこにそれらの魔縁を排除していくところの大きな因縁、力が自然に生じてくるということを感ずるのであります。
それから2番目には、我々の身体のなかには前世から持ってきておるところの様々な不幸になる原因、つまり悪の要素が存するのでありますが、それがおのずと善の方向に転じていくということ、すなわち自分自身の命が浄化されていくという功徳が存するのであります。
それによって今度は、コップに水を注いでいきますと、一杯になった水がそこからあふれてこぼれるように、我々の身体のなかに篭もった題目の功徳が、さらに外へ向かって流れていくのです。いわゆる自分自身の信心修行の功徳によって、しっかりした確信をもって他に向かってこの正しい信心の教えを説いていくということ、すなわち折伏ができるようになるのです。これは要するに、自分自身の信心の功徳によって他の人々をも幸せにしていくという功徳でありますが、この3つの功徳がお題目をしっかり受持していくなかにはっきり存すると思うのであります。
少年部の方々、鼓笛隊の人々、これから暑いなか、色々と大変でしょうが、お題目を常に忘れず、そして大聖人様に対し奉る御報恩、御本尊様への御報恩とともに、お父さん、お母さんにもしっかり孝行して、頑張っていっていただきたいと思います。一切はお題目が根本ですから、そこを忘れないようにしっかりお願いいたします。本日はたいへん御苦労さまでございました。