大白法

平成15年11月1日号


主な記事

<1〜4面>


<5〜8面>


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御法主上人猊下御講義 立正安国論(4−上)
於夏季講習会第7・8期


今日は、第七問答から始まることになります。この第七問答は、経文の証拠を引いて、国難退治の実際の要術について、どういうことが大切であるかということを述べられるのであります。


<第七問答:施を止めて命を断つ>

客則ち和らぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し。然れども大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の四字に載す。其の詞勿論なり、其の文顕然なり。此の瑕瑾(かきん)を守りて其の誹謗を成せども、迷ふて言ふか、覚りて語るか。賢愚弁(わかた)たず、是非定め難し。但し災難の起こりは選択に因るの由、盛んに其の詞を増し、弥其の旨を談ず。所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽ふ所、土民の思ふ所なり。夫国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし。若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。

 ・客則ち和らぎて曰く、

今までずっと論じてきまして、主人が道理の上から道理・文証・現証を示されるので、客がいささかその怒りを和らげてきたのであります。

 ・経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し。

それで「一往、あなたの言うことを考てみるが、しかし貴僧が言うごとく、法然が一切経乃至法華経を下し、また一切の聖道門の聖僧を謗ずるということの是非については、私一人では軽々に論断することはできない」と言うのです。つまり客は、私一人でそういう大事を論じ、定めるわけにはいかない。まだはっきりしないと言うのです。

 ・然れども・・・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の四字に載す・・・其の文顕然なり。

しかしながら、法然の『選択集』に「大乗経六百三十八部・二千八百八十三巻」、それから「一切の諸仏菩薩及び諸の世天等」について、皆その「捨閉閣抛」の四字に載せておることはあきらかな事実として認めるのです。この四字の「捨」とは捨てよ、それから「閉」とは閉じよ、「閣」は閣(さしお)け、「抛」は抛(なげう)てということで、これはあらゆる経文と仏菩薩等について、この四字を実行せよと示しております。すなわち『選択集』にその言葉ははっきりとあり、またその文も明らかであると肯定します。

 ・此の瑕瑾(かきん)を守りて其の誹謗を成せども・・・是非定め難し。

しかしながら、まだ客は法然という人は立派な偉い僧であると思い込んでいますから、「それは珠のような人格における僧侶の瑕瑾、すなわち珠の瑕であるには違いないけれども、わざわざその傷についてとらわれて誹謗をなしておる。したがって、あなたの言うことは一体、迷っているのか、覚っているのか、あなたが本当に賢いのか愚かなのか、利口なのか莫迦なのか、その是非は定められない」と答えます。

この「是非定め難し」の「是非」ということは、日常の生活でみんな使っておることで、「是」は正しいこと、「非」は間違ったことを言うのです。つまりあなたの言葉について、私がはっきりとその正邪を定めることはできないとまず申します。

しかしこの次に、客は続いて実際的、具体的な問題について論ずるのです。

 ・但し災難の起こりは選択に因るの由、盛んに其の詞を増し、弥其の旨を談ず。所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽ふ所、土民の思ふ所なり。

すなわち「あなたの言っていることが本当か嘘か判らないけれども、このような災難が並び起こり、多くの人々が悩み苦しんでおることについて、それが『選択集』によることを盛んに言葉を多くし、その旨を談じておる。しかしながら詮(あき)らめるべきところは、あなたの言う天下泰平・国土安穏ということであり、これはあらゆる人々が願うところであり、土民の思うところである」と、この点は肯定するのです。

今の日本の国では一往、民衆の生活は満ち足りた形があります。ですからあまり衣食住、その他の苦しみのことを知らない。特に、時の経過と共に今では戦争中の様々な苦しみを知っている人が少なくなってきています。戦争中の国民生活は、実に悲惨なものがありました。特に東京や大阪、その他の大空襲で、炎の中で亡くなっていった多くの人がありました。そして食べる物もほとんどなく、家は焼かれ、阿鼻叫喚の地獄相や餓鬼の苦しみにさいなまれたものです。あの頃の本当にひどい状態を、今では知らない人が増えておるように思います。しかるに、あらゆる災難が起こってくる中に、昔は疫病も盛んであり、様々な不如意の難が起こる生活の中で、本当に苦しいということが判るのです。

そういう苦しい中にいると、「何とか幸せになりたい」「もっと安楽になりたい」と、誰もが切実に思うのです。いつでも飛行機がやってきて、焼夷弾(しょういだん)を落とされ、大火災になっていつ死ぬか判らないという状態だと、そこから何とか抜け出したいという気持ちに本当になるのです。若い人は知らないでしょうが、この中でお年寄りの方は、まだそのことを覚えている方も少しはいるでしょう。もっとも太平洋戦争が終わったのが昭和20年ですから、あれからもう58年経っているわけで、ほとんどの人はもう知らないわけです。

ですから、この「天下泰平国土安穏は君臣の楽ふ所」ということが、あらゆる国土の災難の起こっている状態においては、切実に感ずるのであります。

 ・夫国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。

国家というものは、間違った考え方による法が制定せられていると、必ずその国家が乱れてくるという姿があるのです。したがって、その国は法の如何によって栄えもするし、また衰えもするということをおっしゃるのであります。

もっとも、これは客の言葉の部分ですけれども、道理を示されたのであります。そしてその法はまた、それを正しく弘め行ずるところの人によって、その法の功徳が現れてくるということを示されるのであります。

 ・国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。

故に、もしもその国が滅び、人も滅してしまったならば、仏を誰か崇むることができようか、また法を誰か信ずることがあろうかという、最悪の状態を提示されます。不正と歪曲がいよいよ深まれば、国家は当然そういう状態になるわけであります。

 ・先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし。

先般の、イラクのような国の状況というのが、やはり様々な面から、ああいう不幸な姿が本当に現れてきておるということであり、今日でもまだいろいろな余燼(よじん)が燻(くすぶ)って、様々な争いと不幸が各所において残っておるようです。そういうことからも、まず国家の安寧を願うことが大切であり、そのために正しい仏法を立てるべきであるという客の言であります。

これは客が言っておることではあるけれども、この点については国家と仏法との関係を述べて、国家を正しくするために、また国家の安寧秩序が行われるようになるためには、仏法をしっかり立てなければならないということを言っておるわけです。これは大切なことであり、またこれが正しい筋道であると思います。

 ・若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。

そこで最後に、この国家と仏法の関係の上から「若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す」と述べて、当時における様々な災難について、この災いを消し難を止むることの術策が果たしてあるならば聞きたいものであると質問いたします。


これに対して、次の主人の答えが、この項目の全体の趣意をなしておるのです。

主人の曰く、余は是頑愚にして敢へて賢を存せず。唯経文に就いて聊所存を述べん。抑治術の旨、内外の間、其の文幾多ぞや。具に挙ぐべきこと難し。但し仏道に入りて数愚案を廻らすに、謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。

 ・主人の曰く、余は是頑愚にして敢へて賢を存せず。

この「頑愚」とは、頑(かたく)なで愚かであるということですが、これは大聖人様が主人のお立場において、謙遜の御言葉として言われておるのです。

 ・唯経文に就いて聊所存を述べん。

しかるに大聖人様の御指南は、一切の経文をことごとくご覧になって、その上から旨帰(しき)するところをきちっと悟られておるわけです。枝葉を掴(つか)んで中心を忘れていたら、やはりこの仏法の見方において誤りを生じてくるわけでありますが、それについて正しく一代仏教をご覧になるが故に、正しい経文を引かれるのであり、その上から経文について所存を述べようと仰せられるのです。

 ・抑治術の旨、

この「治術」ということは、国を正しく治める術、つまり天下泰平・国土安穏に向かって、これを明らかに現していくための術策ということです。今で言えば、政治が根本ということになるわけです。

 ・内外の間、其の文幾多ぞや。

それから「内外の間」とは、「内」は内道のこと、「外」は外道に関する教えで、つまり仏法とそれ以外の教えのことであります。中国における孔子・孟子等の儒教や、インドのバラモン教、その他、世界中にはあらゆる哲学や宗教があり、また種々の道徳もあれば、様々な人文の上の方策や方法を説いたものがあるわけですが、それはまことに多量である故に「其の文幾多ぞや」と言われています。これは現代においてもたくさんあるけれども、その頃も非常にたくさんあったので、具に挙げるのは難しいということです。

 ・但し仏道に入りて数(しばしば)愚案を廻らすに、

これより仏法の上からの活術の方策を述べられるのであります。

 ・謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。

すなわち法然のように、法華経という大事な経典を全部、捨てよ・閉じよ・閣け・拠てというような意味においてけなして貶(おとし)めておる者、そういう謗法の人とその主張を誤りとしてはっきりさせ、そして正道の僧侶を重んずることが、国中の安穏にして天下泰平となる一番の道であると述べられております。

この「正道の侶」ということは、その一番の元は大聖人様が一代の御弘通の根本として示された本門三大秘法であります。この三大秘法を弘通する僧侶、これが末法万年の指導原理を示す正道の僧侶ということになるのであります。しかしながら一往、この文の上からするならば、一代仏教の中で爾前権教方便の教えに対して、真実の法華経を説き弘めるところの僧侶が正道の僧侶であるということであります。

その意味において、これから後はずっと経文を引かれるのです。したがって、この経文について粗々拝読をしていきたいと思います。


まず涅槃経を引かれます。

即ち涅槃経に云はく「仏の言はく、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。純陀問ふて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復た言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何。仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に禍咎(かぐ)多からん。是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。唯此くの如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし」と。

この経文の「施さば」という文は、布施供養のことなのです。皆さん方も、本当に気の毒な人を見たときに、たとえわずかな食べ物、あるいはお金であっても、これをあげることによってその人が救われそうだというときには、そういう物をあげようという気持ちになるでしょう。これが要するに仏法でいう布施の一分なのです。

それからもう一つは、非常に勝れた教えを説く方に対して、自分が応分の気持ちをそこに捧げ、その法を説く方に供養をする、これがいわゆる布施なのです。布施をした人は、その法と人へ布施をすることにおいて大きな功徳も生ずるし、また受けた方はその布施によって何分かの生活の道を得て、さらに法を正しく説いていくことができるわけです。

大聖人様の御書を拝しますと、四百余編の御書の中で特に御消息の文には、布施すなわち御供養を戴いたということに対して、本当に有り難いということを述べられると共に、その功徳を説かれております。故に仏法においても、それから社会の上においても、布施ということは非常に大事とされておるのです。

キリスト教でも、バザーなどのイベントを行って、みんながお互いにいろいろな物を出し合って、困っている人たちに分かち与える習慣があるようですが、これはすべての人間の、助け合うという通有性であります。

仏法の修行において、さらに広く深い意味において述べたのが六度、すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という6つの修行ですが、その中で最初に出てくるのが布施であります。故にこの布施ということが非常に大事なのです。

 ・即ち涅槃経に云はく「仏の言はく、

さて、この引かれた文は、涅槃経の『一切大衆所問品』という品の一節です。釈尊は、亡くなるときに拘戸那掲羅(くしながら)という国へお出でになり、そこの純陀(じゅんだ)という信徒の家へ行かれました。そこでその純陀が、釈尊をはじめ弟子や多くの人たちに、真心を込めた食事の御供養をするわけであります。そしてそれを受け終わって釈尊は、沙羅双樹林というところに至って、そこで亡くなるのです。

この純陀の家において彼は釈尊に対して、「布施、つまり御供養をするということは、あらゆる人にすべきなのでしょうか」ということを質問するわけです。つまりどんな人にでも御供養していいのか、それともそこに善い悪いのけじめがあるのかということです。その質問に対しての答えが、ここに述べておられる御言葉です。

 ・唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。

つまり、ある一人の者だけは布施をしてはならない、除くべきであり、その他のあらゆる者については、その人々に布施をすることで、その人を助けることになるから、大きな功徳として讃歎されるべきであると言われたのです。

 ・純陀問ふて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。

そこで純陀は、「ただ一人を除くというのは、一体誰のことですか」と聞くのであります。

 ・仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。

釈尊はこれに答えて、ただ一人というのは戒を破る者であると答えます。すなわち戒を破る者については、供養をしてはいけないということです。

 ・純陀復た言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。

これに対する、純陀の質問は何かと言うと、単に破戒であると言われても、意味が広くてはっきりしないことにあります。つまり戒には実にたくさんの種類があるのです。重い戒もあれば簡単な戒もある。戒を破るという中でも、ちょっとした小さな悪いことは誰でもやることです。例えば、軽い気持ちで悪態をつくとか、嘘を言うとか、子供が時として親に反抗するとかというようなことは、いつもあることです。けれども、そのようなことも戒律の全体の上からいくと、戒は実に広い内容を含む故に結局、戒を破ることになるわけです。それら全部の行為を破戒として決めつけるとなると、誰に対しても供養することができないことになります。そこで純陀としては、この仏の言葉が具体的によく判らないから、さらに判るように説いてくださいと願うのです。

 ・仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲(え)ん。

それに対して、仏はここにはっきりとした意味で、破戒とは特に「一闡提」の者であると示され、一闡提だけには布施供養をしてはいけない。それ以外の者に対しては、布施を行うことによってその徳を皆から讃歎され、大きな善い果報を得ると言われたのです。

 ・純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何。

そこで純陀は、その一闡提という者は、どういう者で、何なる義によって供養してはいけないのですかと問うのです。

 ・仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。

仏はこれに答えて、仏弟子たる比丘・比丘尼、また信者としての男女の中で、麁悪の言を発し、正法を誹謗しつつ、しかも改悔なく懺悔しない者が一闡提という重罪の道に趣くことであると言われました。「麁悪」とは、要するに仏法に背く邪義の悪言で、それによって正しい法を誹謗する。

この正しい法というのは、仏教においては段階があります。小乗仏教も、仏教の他の外道の教えに対しては非常に勝れ、かつ正しい意味がある。しかし、小乗仏教と大乗仏教を相対すると、大乗のほうが勝れて正しいわけで、したがって大乗が正法となります。さらに権教と実教を相対したときには、方便の権教に対して真実の教えとしての法華経が、本当の正法なのです。

その正法を誹謗するというところに、大きな罪業を生じます。それがいわゆる本当の悪であるということを、ここで言っているのです。ですから一闡提という悪の定義が、まずここで示されておるわけであります。続いて「四重」と「五逆罪」ということから、この一闡提を通常の広い意味から重ねて詳しく述べるのですが、要はこの正法を誹謗するというところが、一闡提の一番中心の悪なのです。

 ・若し四重を犯し五逆罪を作り、

「四重」というのは、殺生・偸盗・邪淫という十悪の中の身の3つと、口に4つある中の一つである妄語を特に抽(ぬき)ん出て、これを4つの重い罪とするのです。

それより重いのが、次の「五逆罪」であります。まず第一は、父を殺すことです。第二は、母を殺すこと。これは大変な悪事です。最近では平気でお父さんやお母さんを殺している者がある。あれはまさに、今、日本国に悪鬼が乱入しておる姿です。第三が、阿羅漢を殺す。阿羅漢というのは、いわゆる聖者を言うのです。煩悩を断尽したところの徳の高い人を殺すことです。

次の第四が出仏身血(すいぶつしんけつ)、すなわち仏の身から血を出だすということであります。提婆達多が釈尊を殺そうとして、釈尊の通られる道の高い所から大石を落として仏を押し潰そうとしましたが、その石の破片が釈尊の足の指に当たって血が出たという説があります。それから、文永元(1264)年11月11日、房州の小松原において、東条左衛門景信等の数百人の者が、槍・刀・弓矢等で大聖人様を殺そうと襲いかかったのです。このとき大聖人様の弟子の鏡忍房は、大聖人様を守るべく奮闘して殺されてしまうのです。さらに大聖人様の檀那であった工藤吉隆という方が駆け付けて、命を賭してお守り申し上げたのですが、この方もそのときに命を落としました。しかるに、このような大難であったにもかかわらず、大聖人様は不思議にも命を落とされなかったのです。東条景信をはじめとする多くの人間が大聖人様を目標として取り囲み、害そうとして弟子・檀那に死人が出たけれども、結局、大聖人様は額(ひたい)に傷を受けられ、左の手を打ち折られたのみで、殺されることがなかったのです。これはやはり大聖人様が仏様、下種の本仏だからなのです。先ほどの五逆罪の中に、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺すという規定はありましたが、仏を殺すという規定はありません。どんなに悪魔・悪鬼が仏様を殺そうとしても殺せないのが仏様なのです。そこで結局、仏身より血を出すのが五逆罪の1つになっておるのです。

それから五逆罪の5つ目が、破和合僧です。これは仏や仏弟子が正しい法を持って、心を一つにして異体同心に法を弘めようとするその和合の信心の姿に対し、いろいろな罵詈誹謗をして間を裂き、和合僧を破ろうとすることです。これは今、創価学会が行っていることが、まことにその通りです。そういう形が破和合僧という大逆罪になります。

 ・自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。

悪鬼入其身の故にこのような大罪を犯しても恐れることなく、反省のない者を言うのです。特に、この「懺悔がない」ということは、悪いことを行っていながらも、少しも悔い改めず、悪いと思わないことです。「こんなことぐらい当たり前だ。自分は己の信念と自覚においてこういうことを行っているのだ」というような考えにおいて、悪いことをしていながら、少しも悪いと思わない。この懺悔がないということも、創価学会にそっくり当てはまります。

また、「発露せず」とは、自ら罪をはっきりと自白し、他に告白することがないということです。

 ・彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、

このように悪事を犯して、恐れも反省も告白もない故に、正法に対して「護惜建立」の心、つまり正法を護り惜しみ、これを正しく建てて行こうという心が必然的に失われることになる。

 ・毀呰(きし)軽賤して言に禍咎(かぐ)多からん。

したがって「毀呰軽賤」、すなわち正法を毀(そし)り軽んじ賎しめる大不道徳を行う故に、禍を起こし咎を来たす誤りの言葉がまことに多くなるであろうと言われます。結局、正法誹謗が一闡提であると述べられておるのです。

 ・唯此くの如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし』と。

これは布施に関する結論の文です。つまりわずかに悪いことをしている人にも布施を、してはいけないと言うのではなく、一闡提のような悪人にだけは布施をしてはいけないと言うのです。つまり布施をすることによって、ますますその一闡提の者たちの悪が増長する。その布施が結局、悪事を行うのを助けることになるわけですから、その人自身が結果として悪業を積むことになるのです。自分では布施をして善いことをしているつもりでも、かえって悪業を積むことになってしまうのです。

創価学会の多くの会員が、創価学会は正しい広宣流布の団体であると思い込んで、財務などと言ってお金を出していますが、あれが仏法背反の大悪団体である以上、それに布施することは大悪の行為なのです。そこのところを皆さん方は、しっかりと肚に入れていただきたいと思います。


さて、次は涅槃経『聖行品』を引かれます。今度の経文には、謗法者の命を断つという意味が出てきます。しかし、この殺すということも、実は正法を護るという意義より示されるのであります。

又云はく「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。又云はく「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。又云はく「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

 ・又云はく、「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。

すなわち昔、仙予という国王がいたのであり、それは釈尊が自分の前身であるとおっしゃっておるのです。その仙予国王が現れた時には、その国の状態において、仏様がまだ出世しておられなかったのです。それから菩薩もいなかったし、声聞・縁覚というような聖者もいなかったのです。したがって宗教・道徳についても、その道を説くところの婆羅門という指導者の教えを受けて、12年間、様々に国王としての種々の道を勉強してきたのです。

 ・大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。

けれども本来、仙予国王は、不思議な因縁で以前に大乗経典を聞いておったために、大乗の教えに対して非常に憧憬の念を持ち、またそれを大切と思っておりました。故に心は純真に善事を心掛け、様々の悪心や嫉みや物を惜しむ心がなかったと言われます。

 ・善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。

そこでで12年を過ぎたとき、仙予国王が婆羅門に対して「私は、どうしても大乗の教えが正しいと思う。我々は、すべからく本当の菩提心を起こして、大乗の教えによって正しい道を学ぶべきである」という信念を述ベたわけです。

 ・婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。

ところがそのとき、師匠であった婆羅門が「あの大乗の教えなどは、虚空のように掴みどころのない空虚な教えであって、そんなものは考えるに足らないものである」と答えたのです。そのときに仙予国王が、その言葉を聞き終わって、直ちにその人の命を断ってしまったのです。

 ・善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。

それについて釈尊が「善男子よ、私のこの殺の因縁は善事である故に、この功徳によってこれより以後、地獄に堕ちることがないのだ」と仰せになっている文であります。

 ・又云はく、

それでこのところでは、一体、謗法者を殺すことにおいては、どのような意味があるのかについて、涅槃経の『梵行品』を引かれて述べられます。

 ・「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。

この『梵行品』の内容においては、前の部分から釈尊が、菩薩が仏に成るための大きな慈悲についてずっと説いてきておるのです。特にこの場合は、菩薩にも段階があり、下のほうの初心の菩薩から、かなり高く深い境界になったような上位の菩薩がありますが、非常に勝れた境界の菩薩になると、常にあらゆる人を導こうという気持ちになって励むのです。そのような菩薩の境界について、仏様がこの『梵行品』でずっと説いておるのであります。

特に、自分に仇をする者、またはどんな者に対してでも、根本的にはこの者を救おうという気持ちを持って導くことが大切であると説いているのです。そのときに、それらの始終を聞いておったのが迦葉という菩薩でありました。そのことに関してこの菩薩が疑問を感じ、一切衆生を慈悲をもって導くべしと言われるけれども、仏様、あなたは昔、婆羅門を殺し、命を断ったことがあると言われたではありませんか」という質問の言葉が、この文なのです。

この『梵行品』に説かれている中に「一子地(いっしち)」という菩薩の境界がありますが、これは自分の子供に対しては、親はありとあらゆる愛情を傾けて、自分の命にも代えて子供を救おうとする、そのような境界であり、つまりあらゆるものを救おうとする菩薩の境界を言うのです。そのような菩薩の境界であなたは説いているにもかかわらず、あなたは昔、婆羅門を殺したと言うのは、一仏二言の矛盾ではないかと、釈尊の言の矛盾背反を詰(なじ)る質問の文なのです。

それに対して釈尊は、迦葉菩薩を納得させるためにいろいろ説かれるのですが、その文は原経典にあって『安国論』に引用はされていません。簡略に申しますと、要するに釈尊は「この婆羅門を、憎いという悪い心をもって殺したのではない」とおっしゃるのです。「このままいけば、この者は必ず地獄へ堕ちる、したがって今殺すことによって命を改めさせ、それによってむしろこの大乗をもって殺された因縁において、将来、正しい大乗の教えにおいて救われることになる意義を観じ、その慈悲の気持ちを持って殺したのである」と言われました。

したがって、その殺した行為の元となる心は、菩薩が一子地に住して、親が子供を本当に救おうというごとき、菩薩が一子地に住して衆生を救う慈悲の気持ちといささかも変わりないものであったと釈明されたのであります。つまり大乗を誹謗する者に対し、慈悲の上からその命根を断つ行為を護法の手段として挙げられているのです。

 ・又云はく、「殺に三つ有り、謂はく下中上なり。

ここからの経文も、涅槃経『梵行品』です。殺という行為の不可と可についての仏説を挙げられるのであります。

「下中上なり」とは、つまり殺の行為には下と中と上の3段階の罪があると言われます。まず初めに「下」とは、殺す罪の中でも一番軽い罪を言うのです。

 ・下とは蟻子乃至一切の畜生なり。

この下殺とは、諸の畜生を殺すことであると示されています。

 ・唯菩薩の示現生の者を除く。

ただ「菩薩の示現生」というのは、菩薩が特別に衆生を導く誓願により畜生として生まれ、自分が殺されることによって、その因縁で衆生を救うという、深い三世の仏法の因縁果報の上からの誓願によるものです。したがって、それを殺しても罪にはならないと言われるのです。

 ・下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。

けれども、それ以外の畜生について殺生を犯せば、具に下殺の因縁で地獄・餓鬼・畜生に堕し、「下の苦」、すなわち「上」「中」に比べれば比較的に軽い苦を受けるとの仏説です。

 ・何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。

つまりこれらの畜生にも、生を受けた命には過去の善根が微かに存在する。故にこれを殺せば、やはり罪を受けるのです。これは法界全体観の上から見る仏の知見であります。それによれば、蟻を殺しても地獄へ堕ちると書いてあるのです。すなわち仏教を正しく勉強すると、蟻も理由なく殺してはいけないということが判るのです。蟻も微かな善根の命を持っているから、無益に悪心をもって残虐な心によって殺せば、やはりそれだけの報いを受けると言われるのです。これは、蟻に限らず一切の畜生を殺すのも同様で、やはり仏法の上から罪になるのです。

 ・中殺とは凡夫の人より阿那含(あなごん)に至るまで是を名づけて中と為す。

この「中殺」とは、人を殺す罪がこれであります。普通の凡夫の、つまり凡人から阿那含までを殺すのは「中」の罪業になるのです。

「阿那含」というのは、下のほうから須陀亘(しゅだごん、初果)・斯陀含(しだごん、二果)・阿那含(三果)・阿羅漢(四果)という4つの聖者の位があるうちの、先ほど出た阿羅漢より1つ下の位でありまして、かなり上の境界であります。これは「不還果」と言いまして、三界のうちの欲界の煩悩を断尽した聖者の名であります。ただし未だ色界・無色界の思惑が残っていますから、未だ三界を脱却できないけれども、欲界に再び生まれることはないのです。しかし、まだ完全な聖者ではないという意味がありますから、凡夫の人から阿那含までを殺すのを「中殺」と名付けるということであります。

 ・是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。

この業因によって、地獄・餓鬼・畜生に堕ちて具に「中の苦」を受けると説かれます。

 ・上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。

この「上殺」には、先ほど言った五逆罪という意味が出てきます。父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺す。これらは五逆罪です。さらに辟支仏、畢定の菩薩を殺すということです。阿羅漢と辟支仏は、大体同じような意味ですが、阿羅漢は声聞の極位で、辟支仏は縁覚の聖者という位であります。皆さん方が読んでいる『方便品』と『寿量品』の中にも、「辟支仏。所不能知」(法華経88ページ)「辟支仏。以無漏智」(同430ページ)という文が出てきます。

この辟支仏の「辟支」という語には、各々、独、一人という意味があるのです。それから「仏」という字は、当然「覚」という意味です。ですから辟支仏は一人で覚る、すなわち独覚という意味で、十二因縁という法門がありますが、その無明・行・識・名色(みょうしき)・六入・触・受・愛・取・有・生・老死を自分で観じつつ煩悩を断じ、空理を覚っていくのです。山林に入って修行をし、それによって心を研ぎ澄ましつつ十二因縁を観じ、それによって覚るのが辟支仏で、阿羅漢と同様の聖者のことであります。

次に「畢定の菩薩」という「畢」とは、「おわる」という意です。「定」は「さだまる」ことで、したがって「畢定」というのは「おわりさだまる」、いわゆる深い仏法において修行すべきことが完全に畢り定まったという意味であります。ですから非常に勝れた境界の菩薩、いわゆる不退の菩薩ということであります。

 ・阿鼻大地獄の中に堕す。

つまりこれら父母・阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩を殺す場合は、阿鼻大地獄という、最も重く苦しい地獄に堕ちると言われるのです。

 ・善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。

この文は、前の三種の殺罪が不可であることと比較対照して、殺の可を示されるのです。すなわち、一闡提を殺すということは、前の三種と異なって罪にならないと言われる。

 ・善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

その上で「彼の諸の婆羅門」とは、釈尊が過去において仙予国王だったときに殺した者であり、これは一闡提の悪人であったと言うのです。したがって、それらを殺すことは罪にはならないと言うと共に、同時にまた仏が殺を犯したその境界が、先ほども言ったとおり、悪心を持って殺したのではなく、慈悲の上に殺したということなのです。その両面の意味を含めて、殺は悪いけれども一闡提を殺すのは罪にならないと言われるのであります。さらに、この殺すという趣意が、正しい法を護るということに、その根本の目的があるということを申しておきます。

また、この『安国論』で後の第八問答に出てくる主意から言えば、たとえ一闡提人といえども無闇に人を殺さず、別の方法をもってその邪悪を止めるという義のあることを申し添えておきます。




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