大白法

平成15年10月16日号


主な記事

<1〜4面>

<6〜8面>


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御法主上人猊下御講義 立正安国論(3−下)
於夏季講習会第5・6期


次は、主人の答えであります。

主人咲(え)み止めて曰く、辛きを蓼葉(りょうよう)に習ひ臭きを溷厠(こんし)に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。事の起こりを聞け、委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間先後を立てゝ権実を弁ず。而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ、先に依って後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中法然其の流れを酌むと雖も其の源を知らず。所以は何。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を薄(おか)す。是偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず。妄語の至り、悪口の科、言ひても比(たぐい)無く、責めても余り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛うち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠に是諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり。此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に遍す。

 ・主人咲み止めて曰く、

これはまず主人が微笑しつつ「そんなに怒らずに、もう少し私の話を聞きなさい」と言われるのであります。さて、次の二句はやはり譬えで、濁った中にいるとそれに慣れて正しいことが判らなくなるという意味です。

 ・辛きを蓼葉に習ひ

蓼(たで)の葉というのは辛いのです。しかし、それをいつも舐めていると、次第にその辛さを感じなくなるということです。つまり悪事を習うと、それが当たり前のようになる、これを「習ひ」という言葉で表現しているのです。

 ・臭きを溷厠(こんし)に忘る。

この「溷厠」は便所のことであります。今日では水洗便所が当たり前ですから、そう臭くはないかも知れませんが、昔はそういうものがありませんでしたから、便所は大体臭い場所と決まっていたわけです。ところがそこに長くいると、嗅覚が麻痺してきて、その臭さを忘れてしまいます。

要するにこの2つの譬えは、悪に慣れると悪であることが判らなくなるということで、つまり法然の間違った教えに慣れてしまって、それが悪であることに気が付かないということを言われるのです。

 ・善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。

この「謗者」というのは、仏教を謗る者、これは大変な罪ですが、それが法然であるということです。しかるに、あなたはその法然のごとき謗者を指して聖人であると思っておる。さらに仏法の筋道をきちんと正すところの正しい師匠を疑って、悪侶に擬しておる。

 ・其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。

そして、その迷いはまことに深く、その罪も浅くはないと、まず教諭されます。まことに理義堂々たる文言です。

 ・事の起こりを聞かんとならば、委しく其の趣を談ぜん。

「事の起こり」というのは、仏法の本来の起こりということです。日本における法然や、中国の曇鸞・道綽・善導等が言い出したことは、仏教を間違えてしまった臆説・邪説であり、本来の仏教のあり方というものを、元からきちんと考えなければならないという意味であります。

 ・釈尊説法の内、一代五時の間先後を立てゝ権実を弁ず。

御会式のときに申し状を僧侶が読むのを聞かれていると思いますが、その中にもこの文が出てまいります。そしてこれは、どなたが先後を立て権実を弁じたかと言うと、実はその元において仏教を説かれた釈尊自身がはっきりと立て分け、かつ弁じておると言われるのです。

お釈迦様の教えを正直に聞くならば、必ず一代五時の説法の上において、先と後の違いがあるのです。先に述べ判じた教えの内容を「先判」と言います。それから後に判じた教えの内容を「後判」と言います。この先判と後判を釈尊が明らかに立てられ、先判は「権」すなわち、かりの教え、方便の教えであるとし、後判は「実」すなわち真実の教とされました。その区別を釈尊がきちんと弁じておると言われるのです。

これはご承知のとおり、法華経の前に無量義経という教えをまず説かれて、それから法華経を説く直前の禅定に入る、すなわち無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)に入るわけです。その無量義処三昧から出て、釈尊は初めて、「爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗。(爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく)」(法華経88ページ)と、その三昧より安詳として起って法華経の説法が始まったのであります。

そういう意味から無量義経には、「諸の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(同23ページ)という文があるのです。これは、釈尊の教えは華厳・阿含・方等・般若等、四十余年の経教を説いたけれども、あらゆる教えを総決算するとき、これらにはまだ真実を顕していないということを、無量義経において釈尊自らが仰っておるのです。

そして今度は、いよいよ法華経に来て、その『方便品』の中に、「正直に方便を捨てて但(ただ)無上道を説く」(同124ページ)という御文が説かれます。ここに無量義経と法華経の文等においても、はっきりと前判と後判が分かれており、権教と実教のけじめがきちんとつけられておることが明らかです。このことを「先後を立て・権実を弁ず」とおっしゃっているわけです。

 ・而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ、先に依って後を捨つ。

すなわちこれら中国の念仏者たちは、般若経等の方便経や涅槃経、この涅槃経はすべてが方便の教ではないけれども追説の方便が入っているわけで、そこにとらわれて法華経のありのままの姿、妙法による十界互具・百界千如、いわゆる即身成仏が大乗の真の内容であることを忘れたのであります。したがって、権について実を忘れたというのであります。

また阿弥陀経は、先ほど述べた中の方等部の経典に入ります。大乗ではあるけれども権大乗であり、まして方便の教えとして説かれたのですから、これを最上とすることは、まさに先の方便にとらわれて、後の法華経を捨てたと言えるのであります。

 ・未だ仏教の淵底を探らざる者なり。

この「淵底」の「淵」というのは深い水のことで、その底とはつまりこの場合は、仏教の深い奥義を言うわけであります。中国の三師はそれを探っていない、至らない者であるということです。

 ・就中法然其の流れを酌むと雖も其の源を知らず。

次は、法然の邪義への破折です。法然は、中国の曇鸞・道綽・善導、特に善導の教えの流れを酌んで日本の国において念仏の浄土宗を立てたけれども、しかしその教えの源を知らないと言われるのです。つまり釈尊は浄土の三部経だけを説かれたわけではなく、五千・七千というあらゆる経巻を説かれています。その最後に先後を立て、権実を弁ぜられておる中で、念仏の依拠とする浄土の三部経は方便権教にすぎない。それにのみとらわれることは、一代仏教の源を知らない者であると、まず述べられるのです。

 ・所以は何。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻・・・捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を薄(おか)す。

さて、その理由は何かと言うに、広汎な大乗の教えとそこに説かれる諸仏菩薩守護の諸天等の徳を一切否定し、捨閉閣抛せよとして一切衆生を誑かしていると指摘されます。この「捨閉閣抛」については、前の第四問答のところで法然の『選択集』の文を挙げられて破折されておりましたが、要するにその中で捨閉閣抛ということをはっきり言っておるのです。「捨」とは、つまり聖道門を捨てよと言うのであり、聖道門を捨てるということは、要するに法華経も捨てよということです。また「閉」とは、法華経を閉じて見るべからずということで、「閣」は差し置け、「抛」は投げ打てということも、すべて法華経を指しています。

すなわち聖道門には当然法華経が入っているからで、その一切を捨閉閣抛せよと言うのは、釈尊の真実、本懐の教えとして説かれたところの法華経を捨閉閣抛せよということです。これは仏様とその教えに対する大変な反逆であります。したがって、仏様が本当に衆生を導こうとする大慈大悲の気持ちに対する一切衆生の信心を、侵し失わせておるということであります。

 ・是偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず。

この「私曲」とは、「私」は私の見解、「曲」は曲がった見解であります。私のみの曲がった見解の言葉によって、仏の正しい教えを全く見ていない。

 ・妄語の至り、悪口の科、言ひても比(たぐい)無く、責めても余り有り。

すなわちその法然の言葉は妄語の至りであり、比類を見ない悪口であります。故に、その罪はいくら責めてもまだ尽くすことができないほど余りあることである、と破されるのです。

 ・人皆其の妄語を信じ・・・極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。

この法然の「妄語」、つまりうその言によって多くの人々がそれを信じ、その妄語たる『選択集』を貴んでいる。つまり「浄土の三経」のみを崇めて、他の経典は全部捨てさせ、そして「極楽の一仏」すなわち阿弥陀仏だけを信仰して、南無阿弥陀仏と唱えよということを言う故に、他の尊い多くの仏の教えと功徳を全く忘れておる。

 ・誠に是諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり。

これは本当に諸仏諸経に怨をなす仏敵であり、一切の僧侶と多くの人々の仇敵であると言われるのです。

 ・此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に遍す。

「八荒」の「荒」というのは、荒れ果てた土地という意味です。したがって、国の中には、隅のほうに荒れ果てた土地がたくさんありますが、ここではその荒れ果てた土地を含めたところの国中という意味です。「十方」も同様に国中のことで、遍く弥陀念仏の邪義が弘まってしまったと言われるのです。

仰(そもそも)近年の災を以て往代を難ずるの由強ちに之を恐る。聊先例を引いて汝の迷ひを悟すべし。止観の第二に史記を引いて云はく「周の末に被髪袒身にして礼度に依らざる者有り」と。弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引いて曰く「初め平王の東遷するや、伊川に被髪の者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばざらん。其の礼先ず亡びぬ」と。爰に知んぬ、徴(しるし)前に顕はれ災ひ後に致ることを。「又阮籍逸才にして蓬頭散帯す。後に公卿の子孫皆之に教(なら)ひて、奴苟(どく)して相辱しむる者を方に自然に達すといひ、樽節兢持する者を呼んで田舎と為す。司馬氏の滅ぶる相と為す」已上。

 ・仰(そもそも)近年の災を以て往代を難ずるの由強ちに之を恐る。

あなたはこれについて、近年の災難は以前の法然の邪義が原因だという私の言を、道理に合わないことであり、間違いだと言っておる。しかし、それこそ汝の誤りであると指摘されるのです。

 ・聊先例を引いて汝の迷ひを悟すべし。

そこで、これから後に挙げる実例をもって、物事は徴(しるし)が先にあって、災難が後に現れてくるという先例を述べ、汝の迷いを悟らせようと言われるのであります。

 ・止観の第二に史記を引いて云はく、

これよりその実例を三事にわたって述べられますが、その第一が周の代の末の故事です。

 ・『周の末に被髪袒身にして礼度に依らざる者有り』

ここに「周の末に」とある「周」とは、昔、中国に夏・殷・周という順番に3つの国家がありましたが、その3番目で中国ではかなり古い国家です。この周の末において「被髪袒身」、つまり髪をボサボサにして、さらに着衣を正しくせず、肌脱ぎのような不作法な形で、一切の礼儀を守らない者が現れたとあります。

 ・弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引いて曰く、

天台大師の『摩訶止観』を釈した妙楽大師の『弘決』に『左伝』を引いた文をここのところに挙げられております。この「左伝」というのは『春秋左氏伝』と言い、左丘明という人の釈した『春秋』の釈書であります。その『春秋』とは、孔子が周代の魯国の歴史を記したものであり、いろいろな教えにおける、国家を治め、道を教えるところの大義名分等が述べてあります。

 ・『初め平王の東遷するや、伊川に被髪の者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばざらん。其の礼先ず亡びぬ』と。

『春秋』の中の故事に、平王という周の第13代の王様がありまして、この王は周の第12代の幽王の息子であります。この幽王には有名な褒似(ほうじ)という女がいまして、この褒似は傾国の美女だったのですが、すごく精神の悪い女で、この褒似の色香に迷った幽王は、女に唆(そそのか)されて様々な悪いことをさせられ、その結果、最後に幽王は異民族の侵入によって殺されてしまうのであります。

そこで、その次に即位した第13代の平王は、難を避けて国の都を遷すわけです。それがこの文の「東遷」ということです。そして、そのときに「伊川」というところで「被髪の者の野に於て祭る」ということがあった。つまり髪をボサボサにして、裸のような形で神を祭り、あるいは先祖を供養するという神聖な行為をなす者がいたということです。これが実は大変な思想上の退廃、礼儀の無視を示しているのです。そのときそれを見た識者、これは辛有という人ですが、「このような状態では、この周の国はあと100年もつか、あるいはもたないかであろう」と予言しました。果たして、それから100年ほどして周が滅んだということの実例であります。

 ・爰に知んぬ、徴(しるし)前に顕はれ災ひ後に致ることを。

つまり周の国が滅びる徴候として、まず国民の礼儀が乱れたということです。この礼儀ということは、国が立派に成り立ち、民衆がきちんと正しくなり、いわゆる国利民福を実現していくための根本であります。その礼が乱れたということは、もう間もなくこの周の国も滅びるであろうと言ったのが、全くそのとおりであったのです。これを、まず徴が先に現れ、災いが後に至ることの実例として挙げられたのであります。

 ・「又阮籍逸才にして蓬頭散帯す。

次に、もう一つの例を挙げられます。皆さん方の中には、『三国志』という中国の歴史文学を読んだ方もあると思います。呉の孫権・魏の曹操・蜀の劉備を中心とする治乱興亡で、大変おもしろい歴史物語です。最後に蜀を滅ぼしたのが、魏の国から政権を取って代わった司馬炎という人であります。その人が晋という国を作るのですが、その晋の時代に「竹林の七賢」という人々がいたのです。

「阮籍」というのは、この竹林の七賢の一人でありまして、竹林の中に住んでいて、酒を飲みながらのんびりと暮らしていました。要するに、これらの人々は老荘の思想をもとに生活をし、また国家というものは、その思想に基づくべきであると考えていました。その思想はむしろ発展性のない虚無の道という考えで、その消極性の上からは亡国的な考え方なのです。したがって、一切は自然にまかすべきだから、すなわち礼儀もいらない、あるいは目上とか目下というようなものは必要ない、あくせく努力する必要もない。ありとあらゆることを自然の形で行うということから、礼儀も必要ないし、世の中において孤軍奮闘して立派な人になろうとか、世の中に益することをしようとか、そういうことも無駄なこと、余計なことであるという思想、非常に変わっているわけですが、このような風潮が一時期尊敬されたのです。

これが竹林の七賢というような人たちに代表される思想で、そのうちの一人がこの「阮籍」であります。「逸才」ということは、一面非常に才気が勝れていたということであります。しかしながら「蓬頭」とは、よもぎの頭と言うのですから、先ほど言ったような意味で、頭がボサボサで髪を梳(くしけず)り整えることもない。「散帯」というのは、帯をきちんと結ばず緩くなって、前がはだけているというような格好を言います。むしろそういう格好をしていることが、自然に通ずる姿で勝れでおるという考えです。

 ・後に公卿の子孫皆之に教(なら)ひて、

つまりそういう思想が知識階級、上流階級に流行ったものですから、いろいろな国において大事なことを司る大臣百官というような人々の子や孫たちが、つまり前途有為たるべき青年たちが、みんなその思想行為に習ったと言うのです。

 ・奴苟(どく)して相辱しむる者を方に自然に達すといひ、

この「奴苟」の「奴」とは、卑賎な人間を意味する言葉であり、「苟」は軽率の意味がありますから、非常に卑賎軽率な言動をなすことであります。要するに、礼儀などを考えずに卑しい口のきき方で、お互いに辱め合うような言動を取ることを自然の道に達した者と言うのです。

 ・樽節兢持する者を呼んで田舎と為す。

「樽節」とは、節度に赴くところのきちんとした行為を言います。「兢持」の「兢」は誡めること、「持」は持つことで、つまり言動を慎み誡め、礼節を持つ人ということです。そういう者を「呼んで田舎と為す」。「田舎」というのは、つまり田舎者(いなかもの)ということで、きちんとした礼儀で正しく言動する人に対して、あのような田舎者は話にならないと言って見下すことです。

 ・司馬氏の滅ぶる相と為す」已上。

すなわちこのような曲がった風潮が世の中に出て来たことにより、天下を取った司馬氏の国が滅ぶに至ったということを挙げておるのです。


次のところからは、念仏の教えによる現証、悪義を述べられます。

又慈覚大師の入唐(にっとう)巡礼記を案ずるに云はく「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年河北の節度使忽ち乱を起こす。其の後大蕃国更(ま)た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火邑里(ゆうり)の際に起こる。何に況んや武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥(おさ)むること能はずして遂に以て事有り」已上趣意。

 ・又慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云はく、

この慈覚大師という人は、天台の延暦寺第3代座主です。この人は中国、すなわち当時は国号が唐と言っていましたから、その中国に入って10年間、仏教寺院のありとあらゆるところを巡って大乗の教えを勉強し、また経典・書籍をいろいろと受け携えて帰ってきたのであります。

伝教大師が中国にいたのは1年数力月でしたが、慈覚大師の場合は10年程いて、11年目に日本へ帰ってきたのです、そのときに見聞したことを『入唐巡礼記』の中に記しております。私も見ましたけれども、これは入唐中の出来事を日記のような形で実に詳しく書いてあるのです。

 ・「唐の武宗皇帝の会昌元年、

入唐4年目が、ここで言う「会昌元年」です。この会昌元年という年は、武帝という人が唐の国の帝位についた年なのです。

 ・勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。

そのときに勅をして「章敬寺の鏡霜法師をして」と慈覚大師が書いていますが、実はこの鏡霜法師という人がどういう人であったか、種々の各仏家の伝記には見当たりません。しかし、その人を起用して「諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ」とあります。これはおそらく国を治めるという意味での宗教政策として、こういうことを行ったのだと思います。それで寺ごとに3日ずつ巡回して念仏の教えを伝え、その法輪を転じたという記録です。

 ・同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。

ところが「同二年」、これはその翌年になりますが、たちどころに回鶻国の軍兵等が唐の堺を侵してきました。この「回鶻国」とは、中国のゴビ砂漠の北方、外蒙古に住したトルコ種族と言われております。やはり唐朝に一往従いながら、さらにまた背くような行為を繰り返したのですが、このときにまた北方から侵略してきたということです。

 ・同三年河北の節度使忽ち乱を起こす。

それから「同三年」には、河北の節度使が忽ち乱を起こしたとあります。「河北」というのは、今、中国に河北省という省があります。河南省にある都から北に当たる地域で黄河の北方を言うのです。今で言う山西省と山東省の地方になります。その「節度使」というのは、蛮族が襲ってこないように、またその地方の地域をきちんと治めるために、天子が将軍を派遣するに当たり刀を与える、それを節刀と言うのですが、その刀を与えて外部の地域を治め、また外敵から国を守るという役目が、その将軍の仕事です。同三年の「乱」というのは、正規に任命された節度使が死んだ後、その息子が何らかの理由でこの皇帝に背いたことがあり、その乱を言うのであります。

 ・其の後大蕃国更た命を拒み、

次に「其の後大蕃国更た命を拒み」という「大蕃国」とは、さらに南西のほうに当たるチベットのことであります。チベットの国を当時は大蕃国と言ったのです。やはりこの国も唐の国と交通しつつ、何回も辺境を攻めてきたことがありました。

 ・回鶻国重ねて地を奪ふ。

さらに、再々の北方からの侵略があったことを記してあります。

 ・凡そ兵乱は秦項の代に同じく、

秦項の代とは、すなわち秦の始皇帝が昔6国と戦い、次々にそれを亡ぼして天下を統一するまでの戦乱の相は甚だしく、その後、始皇帝が死んだ後、直ちに今度は項羽と漢の高祖に国を覆(くつがえ)され、さらに引き続いて項羽と高祖との戦いが起こって、これがまた8年間続いたということです。要するに、その間の20年乃至30年というものは、常に戦争が行われていたのです。

 ・災火邑里の際に起こる。

そういう意味において、災いの戦火が村や里のいたるところ、つまり国中に起こったというのです。すなわち、これらは武宗皇帝が念仏の邪教をもって会昌元年に巡輪させたことがその原因であると、ここに慈覚が述べていることを挙げられるわけです。

 ・何に況んや武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。

次に、日記には武宗皇帝が会昌4年に行った廃仏のことを書いてあります。これは即位のときからそういう意味があったのだけれども、特にこの会昌4年に、初めて道教の趙帰真という人を崇め、その帰真等の人たちの勧めによって、会昌5年に詔をもってあらゆる寺を壊してしまったのです。そして寺院を壊した数が4千6百ヶ寺、破壊した堂塔が4万、僧尼を還俗させたのが26万5百人と言われます。

 ・乱を撥(おさ)むること能はずして遂に以て事有り」已上趣意。

これは武宗皇帝が邪な仏教を崇めたり、また仏教を迫害した結果、非常に悲惨な病気となり、国中の乱れた姿を見ながら、狂乱して死んだことを言うのです。つまり邪義による悪い現証であります。

さて、この次からは法然の事例を大聖人様が述べられるのです。

此を以て之を惟ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕はす。汝疑ふこと莫れ汝怪しむこと莫れ。唯須く凶を捨てゝ善に帰し源を塞ぎ根を截るべし。

 ・此を以て之を惟ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。

建仁年中は、法然がすでに念仏の教えを弘めてから20年くらい経ったときでありまして、京都において盛んに活躍し、弘通をしていた時期であります。その頃のことを建仁年中とおっしゃっておるのです。

 ・彼の院の御事既に眼前に在り。

それから20年後に何があったかと言うと、これが有名な承久の乱であります。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の御家人制度等によるところの国中を支配する越権行為を非常に憤(いきどお)られて、これは従来皇室や公郷(くぎょう)が支配していた荘園との対立とか、そういう経済上の問題もあったのですが、とにかく後鳥羽上皇が鎌倉幕府の中心者・北条義時追討の令を発されたのです。

ところがあに図らんや、この義時が今度は逆に窮鼠かえって猫を食むがごとく、関東の兵力をもって京都に攻め上って、あの有名な宇治川の戦いで官軍を撃ち破って京都に乱入し、順徳上皇、土御門上皇、それから後鳥羽上皇のお三方を、それぞれ佐渡と土佐と隠岐に流してしまったのです。臣下が天皇を襲って武力をもって撃ち破り、その結果、島流しにするという日本の歴史始まって以来の下剋上の反逆が堂々と行われたのです。これは実に大変な悪い現証と言う外はありません。

これが、法然が念仏を唱え『選択集』を著した建仁年中から20年後に起こったことは、すなわち邪義が前に起こって、その災いが後に至ることの現証であると示されるのであります。

 ・然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕はす。

つまり、念仏が国家的な災難を起こすところの原因であることの例を、「大唐」すなわち中国と我が日本の両国において明らかに残しておる、その証拠が顕れておると言われるのです。

 ・汝疑ふこと莫れ汝怪しむこと莫れ。唯須く凶を捨てゝ善に帰し源を塞ぎ根を截るべし。

かく論じ来たってその結論として、「あなたは、この仏法の正しい法理の上から、私の言うことを疑ってはならない、また怪しんではならない。すべからく凶を捨てて善に帰し、その災いの源を防ぎ、またその禍根を断つべきである」と強く諌められるのであります。


<第六問答:勘状の奏否>

次が、第六問答になります。第五問答の主人の答えで、念仏の邪義によってこのように災いが起こることについて具体的な証拠を示されたわけですから、客も大変に怒ってはいたのだけれども、少し気持ちが和らいだのであります。

客聊和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども数其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで釈門に枢■(すうけん)在り、仏家に棟梁在り。然れども未だ勘状を進らぜず、上奏に及ばず。汝賤しき身を以て輙(たやす)く莠言(ゆうげん)を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。

 ・客聊和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども数其の趣を知る。

これは、あなたのおっしゃっていることの淵の底、すなわち深い意味まではなかなか判らないけれども、あなたのお話を聞くことによって、大体その言うところの趣意は判ってきたというのです。けれども、さらに疑問があるわけで、次にそれをさらに質問します。

 ・但し華洛より柳営に至るまで

「華洛」というのは、天子のおわしますところを言います。特に洛陽というのは、中国において周の国のときに洛陽という都を作ったのです。その「洛」の字を取って華やかな都、すなわち華洛とは、天子のおわしますところを言います。「柳営」は、これも故事により将軍のいるところを意味します。ですからこれは国中の政治の及ぶところの総てという意味です。

 ・釈門に枢■(すうけん)在り、仏家に棟梁在り。

次に「釈門」の「釈」とは、釈尊の教えの門の意ですから、要するに仏教の内容を言うのです。ここで「釈門」と言われましたから次は「仏家」と言って、「釈」と「仏」、また「門」と「家」とを対称されつつ、結局は「釈門」「仏家」とも同じ内容を意味しているのです。

また、「門」において大事なことは、扉がなければならないのです。その扉を開くについて、昔の門は蝶番(ちょうつがい)で開くようになっておりますが、その場合、門の柱と扉をつなぐところに枢(くるる)というものがあり、それによって門が開くのです。それを「枢」と言うのです。また「■(けん=木偏に建)」とは、閂(かんぬき)乃至鍵のことであります。ですから「釈門に枢■在り」という意味は、門の肝要な部分ということで、要するに釈尊の教えにおけるところの僧侶の立派な中心人物ということです。

それから「仏家に棟梁在り」の「棟梁」とは、家には必ず棟と梁(うつばり)があり、なければ家がもたないのです。故にこれも同じく、仏家におけるところの中心たる碩学の徳の高い僧侶のことで、そういう方々がたくさんおるではないかと指摘します。

 ・然れども未だ勘状を進らぜず、上奏に及ばず。

そのような仏教の中心者、権威ある人たちがいるにもかかわらず、その人たちが法然の誤りについての弾劾の状を公処へ捧げることもなく、朝廷に奏し訴えることもないではないかと疑難するのです。

 ・汝賤しき身を以て輙(たやす)く莠言(ゆうげん)を吐く。

さらに客が反論します。この「莠言」の「莠」(ゆう=えのころぐさ、ねこじゃらし)というのは、稲に似ておる草で、しかも稲ではなく、害をなすような草という意味で、「莠言」とは無駄で間違った言葉、有害な言葉を意味します。つまりここでは「あなたの言うことは結局、莠言にすぎない」と言うのです。客は前来の問答により少し和らいだけれども、未だ主人の言をはっきり納得していないのです。

 ・其の義余り有り、

あなたの言っておる義は、まだ十分に尽くされていない。したがって余りがある故に、あなたの言う義については承服できないということです。

 ・其の理謂れ無し。

今度は理について論ずるのです。これは「道理として必然的な納得性が感じられないから、私はあなたの言う理については承服できない」と言うのであります。


そして次が、主人の第六番目の答えとなります。

主人の曰く、予少量たりと雖も忝(かたじけな)くも大乗を学す。蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。その上涅槃経に云はく「若し善比丘ありて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遺し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遺し呵責し挙処せば是我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮って粗一端を示す。

 ・主人の曰く、予少量たりと雖も恭くも大乗を学す。蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。

これは、謙遜しながらも主人の説が大きく勝れていることを示す譬えです。つまり私は非常に器量の少ない者であるけれどもと謙遜しつつ、しかし恭なくも仏教の深い教えを篭めた大乗という教えを学んでおる故、自己中心の小見を述べているのではないと言われるのです。

そこで「蒼蠅」、つまり青蝿のような小さなものでも、驥という天空を翔るような動物の尻尾に附いておれば、自らの力を労せずして万里の道を往くことができる。また「碧蘿」とは、緑の蔦(つた)を言います。蔦というのは、蔓が柔らかく自分の力では立ち上がり上へ伸びることができない。しかし松のような堅い木にグルグルと巻き付きながら、上のほうに向かって伸びていきます。そうして松の一番上のところまで蔓が伸び懸かって、千尋の高さの松頭にまでも伸びるというに譬えるのです。要するに、器量の少ない者であっても、尊いもの、勝れたものに依ることで、勝れた正しいところに到達することができるという譬えであります。

 ・弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事(つか)ふ。

これは一往、大聖人様が釈尊の仏教中の仏子としての立場を仰せであります。つまり仏の子として「諸経の王に事ふ」ということは、大乗の最極たる法華経に仕えておるということです。

 ・何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。

念仏の専横の悪行、その邪法邪義によって、仏の出世の本懐にして最極たる法華経の教えがまことに衰微をいたしておる姿を見るときに、法華経の正しい教えを惜しみ、またその衰微を悲しむという心が起こらないはずがあろうか、否、私はそれを心より哀しんでいるのであるとの述懐です。

 ・その上涅槃経に云はく、

ここからは、邪義・邪法に対して放っておいてはいけない、きちんとした形でけじめをつけて邪義・邪法を裁くべきであるということが経文、特に涅槃経に説いてあるわけで、それを挙げられるのであります。

 ・「若し善比丘ありて法をや壊る者を見て置いて呵責し駈遺し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。

この文の「善比丘」というのは、仏様の教えを聞いてその戒を破ることなく正しく修行をしている、いわゆる一般的な善い僧侶を言うのです、けれども、たとえ善比丘と言われるように徳の高い者であったとしても、もし法を壊る者を見たときに、それをそのまま拠置(ほうち)していると、これは真実の善比丘にはならないということです。逆に、仏法の中においてその怨敵となっての罪障を積むということであります。

まことの善比丘は、破法の者を見たときは、呵責し駈遣し挙処せねばならないと言われるのです。まず「呵責」とは、法を壊る者を見たならば、言論をもってきちんと悪を責めよということです。次に「駈遣」ということは、呵責して悪を改めなければ、その者を追い払うべしというのであります。つまり共に修行している教団の中から追い出してしまうことです。また「挙処」ということは、その罪を挙げて、それに対して処置をすることであります。つまり罪に対する科条をもってきちんと処罰をするという意味です。

 ・若し能く駈遺し呵責し挙処せば是我が弟子、真の声聞なり」と。

このように、法を壊る者に対し、よく駈遣し呵責し挙処する者が我が弟子であり、真の声聞すなわち仏の教えを聞く者であるという仏の誡めであります。

次は、大聖人様が仏子としての筋道より、この文を受けて仰せられるのです。

 ・余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮って粗一端を示す。

仏様が説かれた、この「仏法中怨」という呵責を逃れんがために、大綱の一端を示すと言われます。この「大綱」とは、広大な仏法の教えにおける大本の道を言うのです。その正しい意義を取って、充分ではないけれどもその一分を述べておるのであるとおっしゃっています。つまり、大聖人様御自身における仏法の信条の上からの、また涅槃経の誡めを受けての御指南の文であります。

 ・其の上去ぬる元仁年中に、延暦・興福の両寺より度々奏聞を経、

ここからが先ほどの客の、釈門に枢■(けん)があり、仏家に棟梁があるけれども、誰も勘状を進らすことはない、あるいは上奏することもないではないかという質問に対して、今度は主人が、そんなことはない、元仁年中において実際にあったのだという現証を述べられるのです。

 ・勅宣御教書を申し下して、

つまり天台宗の総本山である延暦寺、それから奈良の七大寺の一つで有名な大寺である興福寺、今は法相宗になっていますが、その両寺よりたびたび奏聞、つまり君主への言上によってたびたび勅宣や御教書が下されたことがある。

この「勅宣」というのは、天皇の詔(みことのり)のことであります。また「御教書」というのは、その天皇の詔について、将軍がさらに進達を行うのです。つまり天皇の上意を奉じて出すところの文書が御教書であり、この勅宣と御教書が念仏の邪義を誡めるために出された事例を示されるのです。

 ・法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ、

その具体的な誡めの形として、『選択集』の印板を大講堂、つまり一代仏教を正しく研鑽する場所において、これがまことに不適当なものとして取り上げてしまったということです。「大講堂」とは、延暦寺の大講堂のことと思われます。それで、三世にわたる仏様の恩に報いるため、このような悪書があってはならないとして焼いてしまったのであります。

 ・法然の墓所に於ては感神院の犬神人(いぬじにん)に仰せ付けて破却せしむ。

それから、法然の墓所についての処置を挙げられています。法然は、80歳で亡くなり、京都の大谷という所に弟子関係者によって墓を作ったのです。ところがこの法然の墓地を発掘し、遺骸を賀茂川に流してしまったという伝えが、はっきりと残っております。

次に「感神院」というのは、昔、藤原基経という偉い公家がいまして、その人がある宗教的なことを観じて八坂に精舎を造って観慶寺と称し、牛頭(ごず)天王を勧請したという伝えがあり、それを観慶寺感神院と名づけたということが伝えられています。これが今の京都の祇園神社です。つまり長い間のいろいろな経緯があって名称なども変遷しておりますが、この当時においては比叡山の天台宗延暦寺の差配を受けていたことから、日吉(ひえ)神社等の御輿を運営したりするところの延暦寺のいろいろな雑役を行っていたのです。

また「犬神人」というのは、単に「神人」ということであるならば、神社にいて神様に仕えるという意味での正式な神主を言うのだけれども、特に「犬」という字がつくのは、当時、感神院にいたところの雑役の者のことです。つまめ祭礼などが行われる前において、あちらこちらを見回って、猫や犬の死骸があると、それをきちんと片づけたりする、また御輿が行くところの道をきれいに清掃したりする、そういう雑役の者を犬神人と言ったのであります。

この祇園神社も、今はもう延暦寺の差配を受けてはいないと思いますが、当時はやはりそういう形があったので、延暦寺よりその感神院の犬神人に仰せつけて、法然の墓地を破り、その遺骸を捨ててしまったという事例です。

 ・其の門弟隆寛・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せられ、其の後未だ御勘気を許されず。豈未だ勘状を進らぜずと云はんや。

この「隆観・聖光・成覚・薩生」というのは、これは皆法然の弟子であり、かなりの高弟であります。特に「隆観」という人は、浄土宗の巨匠として、また『顕選択』という本を著したりして大いに念仏義を鼓吹しましたが、やはり遠国に流罪をせられたことがあります。

これらの人々が死ぬときには、重病を受けて狂乱して死んだということが、大聖人様の『当世念仏者無間地獄事』等の御文に、当時の伝承を受けてお書きになってあります。こういう形で念仏の教えが、現証においても、また法華誹謗という誤りの内容からも、ことごとく信者、行者が不幸になる教えであるということを、ここに述べられておる次第であります。


ここまで第五問答、第六問答が終了した次第でありますが、この最後のところについて考えるべきは、この当時において、念仏の曲がった教えが国中の騒乱の元になっているような形が現実にありましたので、延暦寺、それから興福寺等から上奏を申し上げ、勅宣によって念仏の処置が行われたのであり、これは仏説に基づくはっきりとした処置であります。いわゆる呵責し駈遣し挙処するという形が現実に行われたのであります。

しかし、現在はどうでしょうか。この前のところにも述べられておるように、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)というところに、仏法の本来の行における肝要があると思われます。不完全な教えや大綱から外れた信仰をいくら頼っても、祈ってみても、それによって不幸な状態が治ることは決してないということであります。やはり正しい教えをもって祈ることが肝要であり、さらにまたその正しい教えによって真の正法を正しく弘めていくという上から、一凶を禁ずるということが大切であります。一凶を禁ずるということは、現時は現時におけるところのそれぞれの立場からの、誤った教えに対するはっきりとした折伏・破折ということになります。この折伏が行われて初めて一凶を禁ずる上の真の正法の威光が顕れてくるのであります。

池田大作という者は、前によく「何もかも、みんな私がやったんだ」というようなことを言いましたけれども、今、日蓮正宗総本山大石寺において彼の行ったと言うべきものはあまり残っておりません。これは彼の行っておったことが、ことごとく我見・我意に基づく歪んだものであったからだと思います。しかも未だに「私こそ皆さん方を守ってやっている。私が根本だ」というような、実に傲慢な我意・我見に基づいた考えや、世俗の野心・野望に基づく行い、欲望や怨念に終始しており、その思想が創価学会何百万の人を毒しております。これもまた日本国における様々な面で、民心を悪化させていく悪心の元になっておると思われます。特に「嘘も百遍言えば本当になる」などと、小我の塊のごとき無益な平等と修羅の心をもって、自分に従わない者を敵視し、柄(え)のないところへ柄をすげて、ありとあらゆる誹謗を行っておる悪事が、今の創価学会に存在するのであります。

これらを含めて今日、『立正安国論』の正義を我々が正しく顕揚していくということは、要するに『立正安国論』に示された折伏の大行をもって、日蓮正宗の尊い存在の上から正しく世間の邪義・邪法をことごとく折伏し、大法に帰依せしめるところに、本当の正法正義の功徳がはっきりと顕れていくということを申し上げまして、皆様方のいよいよの精進をお祈りし、本日の私の話を終わる次第であります。




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