加之(しかのみならず)国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱ると。今此の文に就いて具に事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。
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・加之(しかのみならず)国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱ると。
この「加之」というのは、前の仁王経に七難を挙げると共に、さらに「国土乱れん時は先づ鬼神乱る」という文が述ベられておることを強調されるのであります。つまり鬼神が乱れることが国土の乱れる前兆であり、それによって万民が乱れ、国土が混乱するのであるということです。
・今此の文に就いて具に事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。
これは、あらゆる難が諸経に説かれておるように起こっている中で、自界叛逆の難と他国侵逼の難だけがまだ現れていないけれども、その他の難が様々な形において現れてきておるのは、まさしく「百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ」姿であります。
・先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。
そして、これはまだ先の難である。これが明らかに現れておる以上、経文に予証される後の災いが必ず来たることをどうして疑えようか、疑いのないことである。
・若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。
したがって残るところの難が、悪法の科によって並び起こり競い来たらば、その時はどうしてよいであろうか、為す術もないのではないかとの警告です。
・帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。
帝王は国家を基本として政治を行うのであり、人臣は田園を領して、分々にそれぞれ田園を所有するところにおいて世の中における生活を保ち、安楽な生活も送ることができるのである。
・而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。
しかるに、いわゆる他国侵逼の難と自界叛逆の難が起こってきたら、平和な国土や民衆の生活が、なお驚き苦しみ騒ぐことになると言われるのであります。「他方の賊来たりて」ということは、余所のほうからこの国を攻め寄せる他国侵逼の難、「自界叛逆して」というのは、国内においてお互いに背き、逆らい、争いが起こる難です。それによってそれぞれの地を掠(かす)め取るならばこれは大変な大乱であり、したがって国の上下の人々は非常に驚き騒ぐことは必然である。
・国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。
もし、そういうことで国を失い、また家がなくなってしまうならば、どこへ世を逃れたらよいか、身の置き所もなくなるではないかと警醒されます。
・汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。
したがってあなたが自分自身の安堵・安泰を欲するならば、四表すなわち東西南北、国中全体の静詮を祈るべきであると言われます。つまり、仁王経・金光明経・薬師経・大集経等に説かれる七難等の災難の中での残るところの難が必ず現れてくることになるから、四表の静謐を祈るために邪義を誡めるべきことを述べらてきたのであります。
さて、ここまでは現当二世のうちの現在のこと、つまり現世の災難を防ぎ、幸せを得るための方術と誡めを述べられておりますが、この次からは「当」すなわち各人の当来の世、つまり死後についての教示に移ります。
つまりこの『安国論』の趣旨は、現世のことだけを論ずるのではないのです。仏法の本質の上からも現当二世、いわゆる現世安穏・後生善処が大切なのです。人々が生きておる間の悩み苦しみを消して、安楽な幸福の生活を得るための方策を図ることも必要であるけれども、さらに死んだ後において地獄へ堕ちたり、餓鬼・畜生に堕ちて苦しみを受けるようなこともあってはならないのです。そのためには、本当に幸せな死後の未来を迎えるべきであり、その上から「当」すなわち未来の大切な意味を示されるのが、これからのところであります。
就中人の世に在るや各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん。所以は何、大集経に云はく「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護せずんば、是くの如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならんと。
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今の人たちは、死んだ後は何もかもなくなってしまうくらいに思っている人が多いと思いますから、後生を恐れるという考えなどもないと思われます。しかし、日蓮正宗の信徒は、現当二世の道理をきちんと信じ、正しく考えるべきであると思います。
今の世間の教育者とか哲学者などが、さも人生や真理について判っているようなことを言いますが、万人に見惑・思惑という迷いのあることすら知らないのです。思想上の迷いである見惑に5つあるうちに辺見があります。この辺見には、さらに断見と常見があるわけですが、これらの人々もそのどちらかの迷いに入っているのです。
簡単に言えば、「断見」というのは、人間が死んだ後その生命は断滅して何も残らないという考えです。それから「常見」というのは、個人の生命が霊魂として滅することなく存在していくという考えです。しかし、これは両方とも間違いなのです。
生命は「業」として存在します。我々の命は色心の二法なのです。色は「肉体」であり、心は「精神」で、この2つによって我々の命があるのです。現在の我々は、前世からの色心の在り方が因となって今日の命が存在します。ですから死んだ後も、色法すなわち肉体が心ともなり、心法すなわち精神が色法とも合して因縁果報の原理によって種々に変化しつつ、次の生が開かれるのです。
したがって、法界の無限の広さの中で地獄へ堕ちる生命もあれば、餓鬼に生まれる者もある。さらに畜生もあれば、人天の果報を得る場合もあるというわけであります。ですから死んだときの相が大切で、呼吸は止まっているけれども肉体はまだそこに残っておる。そこでやはり死相が本当に立派な方は、いわゆる仏の心を肉体が表しておるのです。肉体と精神との両方において次の生が決まっていくのであります。
・就中人の世に在るや各後生を恐る。
そういうことからも「人の世に在るや各後生を恐る」とは、仏教の正しい三世の因縁果報を信ずる人は死んだ後の世について、いかなる因果につながるかということに大変関心を持ち、三悪道に堕ちることを恐れておるということです。
・是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。
後生を恐れる故に、深くも考えず忘恩背教の教えである法然の『選択集』の邪義邪教を信じ、貴んでいると言うのです。
・各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。
「是」は正しいこと「非」は誤ったことで、多くの人がこれに迷い、是を捨てて非を取っているのは、まことに悪(にく)むべきことであるけれども、この人々もなお仏法によって来世のことを願おうという志のあることは、まことに哀れで殊勝なことである。
・何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。
したがって、同じ信心を持つならば、正しい信仰を持つべきではないか。どうして誤った言葉に執着して、誤った教えにとらわれることがあろうかと言われるのであります。
・若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん。
右は、要するに邪法によって得るところの悪の結果を明らかに示されるのであります。すなわち法然の『選択集』等に示される「捨閉閣抛」のごとき邪義による念仏への執着が翻(ひるがえ)らず、曲がりねじけた邪教に対する心が存するならば、「早く有為の郷」つまりこの世を辞して必ず無間の獄に堕ちるであろうとの大断です。
この「有為」とは「無為」に対する語で、あらゆる因縁の行為によって作られ転変していくところの現世を言うのであります。つまり我々の生活は、あらゆる縁にしたがって善くも悪くもなり、いろいろに変わっていくという泡沫のような人生と国土が「有為の郷」です。
そして堕ちるべき「無間の獄」とは、地獄のうちでも一番下にある最も苦しい地獄のことです。およそ地獄には八大地獄があります。すなわち上から等活地獄・黒蠅(こくじよう)地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄とあり、一番下の最苦のところに無間地獄があるのです。種々の悪業の中でもその軽重によって地獄にも区別がありますが、謗法の罪によっては、このような八大地獄のうちの一番下の無間地獄に堕ちると仰せであります。
・所以は何、大集経に云はく
この件について大聖人様御一人のお考えではなく、経典にはっきりと示されてあるという文証を示されます。
・「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護せずんば、是くの如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、
この経は頻婆舎羅王(びんばしゃらおう)に対するお釈迦様の教訓の言葉です。したがって、国王の心掛けについて頻婆舎羅王に述べておられる意味があります。要するに国王があって、無量世の中において仏教を信じ、布施を行じ、戒律を持ち、乃至仏教の智慧の修行をして功徳を積んでいても、仏法が存亡に瀕(ひん)するとき、全く仏法に対して護る志を捨ててしまっておるならば、過去において植えたところの無量の善根があったとしても、それは直ちになくなってしまうとの趣旨です。
・乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし。
この大集経の文は、前に一度挙げてあります。そこでは右の文の中の「乃至」の部分に「其の国当に三つの不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。・・・内外の親戚其れ共に謀叛せん」の文が入っており、これは現世における災難についての文です。しかるに、ここでは死後未来について示されることから、現世の部分の文は省かれておるのです。そして「乃至」の次に、その王は久しからずして重い病に遇ってその寿命を終え、死んだ後は大地獄に生ずるであろう。
・王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならんと。
また王のみならず、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官等、つまり同一国土に王と一緒にその因縁果報を受けておるところの者たちが、すべて共に地獄に堕ちるであろうという仏の教説です。国土因縁を同じくする衆生には、やはり一蓮托生(いちれんたくしょう)という意味があるのです。
仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。
法華経第二に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。
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・仁王経に云く
次は、仁王経の『嘱累品』であります。ここでは、仏教に背き、それを壊ることの悪果報について述べられております。
・「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐(たす)けず、
まず親に孝を行う子供がなくなって、不孝者が充満する。次に六親が和せず、争う姿が出る。この「六親」というのは、親しい者という意味で、内容にはいろいろな説がありますが、一往、妙楽大師の『法華玄義釈籤(しゃくせん)』には、父と母、兄と弟、妻と子の6つを挙げております。つまり自分の親戚縁者中の一番主な人々になります。それらが非常に仲が悪くなり、その生活において天神つまり神様も助けることがない。
・疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、
また様々な病気が流行し、災いを起こすところの悪鬼が来たって国民生活心理を侵害する故、様々な怪しい災いが重なり来たって、縦の時間、横の空間に遍満するに至るというのであります。
・死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。
そして死んだ後は、地獄・餓鬼・畜生に入るであろうし、さらにもし出でてまた人となったならば、兵奴の果報のごとき者となるであろうとあります。この「兵奴」というのは、怒りをもって正法を壊る衆生を言うのであります。その報いを受けて、人間に生まれたとしても、刃の中に身をさらすようなことになり、あるいは様々な刃をもって身を苦しめられる形になってくるというような果報があるのです。
・響きの如く影の如く、
過去から現在、現在から将来にわたって、善悪の因縁による三界の果報は、絶対に消えることがないことを譬えによって説かれております。
まず「響きの如く影の如く」の「響き」というのは、音に対しての響きです。それから「影」とは、体に対しての影であります。音があれば必ず響きがあり、体があれば影がある。この譬えをもって人間が生きておる間を体とし音として、死んだ後の形が響きとなり、また影となる意味から死後の業の存続を示しております。そこでその果報がどういう形かと言うと、必ず地獄・餓鬼・畜生乃至六道の生を受けるということであります。
・人の夜書(ものか)くに火は滅すれども字は存するが如く、
次が、これについての譬えです。つまり人が夜に灯火の下で字を書き、書き終わった後に火を消す。すると真っ暗になって書いた字が見えなくなります。けれどもその字は残っておるわけで、これは目には見えないけれども果報は厳然として存在するという譬えであります。要するに、人間が生きている間に行ったいろいろな行為というものは、死んでしまえば、それらはなくなってしまうように見えるけれども、結局、その果報というものは、次の生においてはっきりと出てくるのであり、その業はなくならないと言われておるのです。
・三界の果報も亦復是くの如し」と。
この「三界」とは、欲界・色界・無色界のことで、つまり六道を言います。この色界と無色界は天界を指し、欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天までがあるのです。ですから天界とは、欲界天と色界天と無色界天の3つがあるわけです。要するにこの文は、六道の迷いの果報が永く未来に続いていくことを述べておるのです。
・法華経第二に云はく
大聖人様が『安国論』において、この法華経『譬喩品』の文を引かれるのは、これで三度目です。
・「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。
一切衆生を救う仏種によって仏に成ることを示す経典が法華経でありますから、その法華経を謗るということは、一切衆生の仏種を壊(やぶ)ることになる。したがって、それは必ず無間地獄に堕ちるということがこの経文であり、当来の大悪果報を示す総結の文であります。
・又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。
これは不軽菩薩を謗った衆生が、その後に改心したけれども、前に謗った罪によって千劫の間、阿鼻地獄において苦しまなければならなかったという死後の罪報の文であります。
・涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、
この「善友」というのは善知識のことであります。これには3つあり、いろいろなことを正しく教えてくれる教授の善知識、それから一緒に善いことを行っていくところの同行の善知識、さらには仏法を外から正しく守るところの外護の善知識であります。
・是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。
要するにこのところでは、そのような善知識たる人々を嫌い正法に背き、そして悪い人間の教えを受け、その悪法によって生活する。このような因縁を作れば、阿鼻地獄に沈んで苦しみ、その受けるところの身形は縦横8万4千由延であると言うのです。
この「八万四千由延」の「由延」というのは長さを言います。一由延は帝王一日の行程と言い、中国の里程においては30里です。これは日本の里程では約5里に当たります。一里は4kmですから、一由延は約20kmということになります。その20kmの8万4千倍ですから168万kmで、大変な長さになりますが、これは横の線だけではないのです。「身形縦横」とあるように、我々が無間地獄に堕ちると、身体が縦横にそれだけの広さに拡張し、その全身に充満する苦しみを受けるということです。
無間地獄に堕ちる人間は1人だけではないとして、1人で地獄がいっぱいになったら他の人は入れなくならないかと思うけれども、そうではないのです。やはりこれは業によって、各々の身体が等しく8万4千由延の広さになって苦しみを受けるるように感ずるのであります。
広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつ)はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。
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・広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。
このところより主人の言となります。以上挙げたところのすべての経文を拝してみると、謗法が非常に恐ろしいことを述べられておる。すなわち仏の説かれた正しい法に背くことにおいて大きな罪を得るということです。
・悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。
そこでまず「悲しいかな」と言われるのは、釈尊が一代仏教を説きながら方便の教えと真実の教えということのけじめをつけられ、また中国に現れた天台大師や日本に比叡山を建立した伝教大師という方々が、仏法の筋道をきちっと立て分けられておる。その中で小乗に対する大乗、大乗の中においては権経に対する実経としての法華経が「正法の門」として最も勝れた教えであり、他の経々はその門から出でたところの方便の小乗であり、権大乗であるにもかかわらず、その中の一分にとらわれて、自ら邪法の地獄の中に入ってしまっておることについてであります。
・愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の綱に纏(まつ)はる。
また「愚かなるかな」と嘆かれるのは、法然の『選択集』という悪教の綱に懸かり、永く法華経の教えを謗るという邪な網に纏われておることを言われるのです。
・此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。
次に「此の朦霧の迷ひ」という「朦(もう)」は、月篇に「蒙」という字です。これは月の光がまさに失われんとするところの薄暗い状態を指すものです。次の「霧」とは、それが太陽や月の光を覆っているという形容で、法然の悪教によるところの迷いが真実の仏性の日月を隠しておるということに譬えるのであります。また「盛焔の底」というのは無間地獄の異名であり、つまり無間地獄の中に堕ちて苦しむということです。
・豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。
したがって、このような来世の惨状について、今生のみならず来生において耐え難い無間地獄に堕ちることを愁えないでよかろうか、また苦しまないことがあろうか。それにつけても謗法にとらわれるということを注意し、誡めなければならないとの仰せであります。
この次が、いよいよ『立正安国論』の肝要の御文であります。皆さん方も寺院の御会式に出て聞かれておるでしょうが、ここのところが一番大事だと思ってください。
・汝早く信仰の寸心を改めて
この「信仰」とは、まことに大事なことであります。我々の生活自体が全部「信」と「仰」によって存在しているのです。「私は無宗教者だ」と言う人であっても、何らかのものに対する「信」と、何らかの「仰」、つまり仰ぎ尊ぶことによって、過去から現在、そして未来にわたるその人の生活が存在するのです。
どのような人でも、生活の中における何らかの信じ方があり、その意味において広く考えれば、信仰はあらゆる人が持っておるのです。例えば、「私はお金が最高で、お金を貯めることが一番大事だと思う」と言う人は、そういう“信仰”なのです。故に、正しい信仰と誤った信仰の見分けが人生観において大切であり、この場合は、法然の間違った念仏の信仰を言われるのです。
さて、その「寸心」の「寸」とは小さいということ、つまり小さな信仰という意味で、偏った狭い信じ方を言います。それを改めて「速やかに実乗の一善に帰せよ」と言われるのは、そこに大きな広い信仰、すなわち正しい信仰に帰すべしと示されるのです。
・速やかに実乗の一善に帰せよ。
「実」の字は、真実で偽りのない「まこと」ということ、「乗」は乗り物、すなわち人を乗せて幸せなところへ運んでいく乗り物で、教えのことです。したがって、真実の教えというものを「実乗」と言うのです。
この実乗に対して、一時的な権(かり)の教えとしての方便があります。故に釈尊自らが無量義経において、「諸の衆生の性欲不なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす」(法華経23ページ)と、華厳・阿含・方等・般若等の40余年の諸経はすべて方便経であるとはっきりと述べられておるのです。
そしてこれは、今まさに法華経に、「正直捨方便・但説無上道(正直に方便を捨てて、但無上道を説く)」(同124ページ)と示されるごとく、衆生を正しく導くためには正直ということが非常に大事であり、これによって方便を捨てて無上道を説かれるのです。要するに、正しいことを素直に説き、また信じるところに本当の幸せの道が存する。これが法華経の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」ということであり、「実乗」であります。
さらに言うならば、その法華経の中で真実の教えは、迹門をすべて包含した本門の教えに存するのであります。この本門の教えの中で、さらに釈尊が『神力品』において地涌上行等の菩薩に結要付嘱されたところの妙法蓮華経が『寿量品』の根本法体であります。
これを大聖人様が御出現あそばされて、久遠元初の仏法本源の法体を明らかに示されたのが、『当体義抄』『総勘文抄』等の御文に明らかでありますが、その実体はすなわち本門三大秘法であります。本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法は、そのまま久遠元初の仏法の法体たる南無妙法蓮華経に存するのであります。
「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(御書1684ページ)という有名な『本因妙抄』の御文があります。この文からも、南無妙法蓮華経の法体がそのまま本門三大秘法であることが明らかであります。これが末法における一切衆生を真に正しく導くところの「実乗の一善」なのです。この『安国論』の御文は、ここに帰するということを元意として拝さなければなりません。
・然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
この文のところは、少し判りにくいかもしれません。まず「三界は皆仏国」とあります。三界とは何かと言えば、先ほども出てきましたが、欲界・色界・無色界の3つで、これは六道のことです。六道輪廻という言葉があるように、これは迷いと苦しみの世界です。その世界が実乗の一善に帰することによって、そのまま直ちに仏国になると言うのです。
これは普通の常識では判りにくいかも知れませんが、ここに法界の不思議な当体・当相として法華経の大きな功徳を信ずべきであります。これは大聖人様の教えの中で、一人ひとりが仏の境界を得るための無限の功徳とその道が、正法正義を持つ上に存在しておることを述べられると同時に、そこから広宣流布の道がはっきり現れると述べられておるのであります。
したがって、これは『当体義抄』に、「正直に方便を捨て但法華経を信じ」(同694ページ)と示されるように、法華経以外の教えは全部方便であり、その方便をきれいに捨てよということを仏様がおっしゃっておられるのです。
創価学会なども、今、世間の宗教に迎合して大聖人の教えの本筋を捨て、世の中をうまくごまかすため、あらゆることを言っておりますが、あれはすべて大聖人様の真実の教えではないのです。真実の教えではないから、その言っていることはみんな方便以下のまやかしに過ぎないわけで、そのようなものを一切捨てよということです。
そしてさらに、「南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じてへ三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(同)と。
このところに「能居・所居、身土・色心」とありますが、御題目を唱える人の命が下種本仏の悟りと同じく、無作の法身・報身・応身という、三身の上の功徳を成就していくことを説かれてあります。したがって、その功徳を成就することによって、直ちにその人の所住のところが仏国土となると示されるのであります。
南無妙法蓮華経と唱えるところ、その身がそのまま法の姿を表す。これが、「身土一念の三千なり」(同106ページ)と言われるところの「身」と「土」、つまり衆生の身体と国土が融妙(ゆうみょう)な関係において常楽我浄という四徳の功徳を成ずるという意味であります。依報(えほうし)と正報(しょうほう)という言葉がありますが、その正報は我々衆生であり、依報は国土であります。国土が存在しなければ、我々の生活、我々の身は存在しないわけです。故に、身と土ということは非常に大事な相関関係にあることを、ここでおっしゃっておるのであります。
南無妙法蓮華経と唱えるところが、そのまま三観・三諦即一心に顕れる。と同時に、「能居・所居」、これは能(よ)く居し、居される所、すなわち衆生の身とその身が存する国土を言うわけです。この場合は、我々の体がその妙法の功徳を成就する形において、無作応身を成就するということになります。それから「身土」とは、本有の四徳と修徳の四徳を能所とする身と、その身の所依となる土との融妙な法の体を言われるので無作法身であります。また「色心」とは色法と心法ですが、これはそのまま我々衆生の色法を依拠として心法が存するという上から、その深い悟りを生ずるところが無作報身を意味します。その無作報身の功徳が十法界を遍く照らすのであります。要するに、我々のこの信心の姿が御本尊に冥合し、そのまま無作三身として顕れるということを仰せになっておるのであります。
この『立正安国論』の御文も、強固な信心の上において仏国も衰えることがなく、十方もまた宝土となり、その宝土も壊れることがないと示されます。ここは法華経における三変土田(さんぺんどでん)の変革の上からの宝土の意義も含まれておると思います。
・国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。
身と国土の上に変化災難がなければ、我々の身心は安らかにして幸福の境地が定まるのである。
・此の詞此の言信ずべく崇むべし。
しかし、このためには邪を破して正を立てるということが大切であり、それが「此の詞」に当たるわけであります。それによって必ず仏国土が成就されるということが、その次の「此の言」に当たっております。要するに立正安国は、信仰の寸心を改め、速やかに実乗の一善に帰するというこの文に明らかに示されておるのであります。
<正に帰して領納す>
次が、最後の客の領解であります。
客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。此の経文を被きて具に仏語を承るに、誹謗の科至って重く毀謗の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。
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・客の曰く、今生後生誰か慎まざらん誰か和(したが)はざらん。
この「今生」とは現世のこと、それから「後生」とは来世のことです。客は従来の主人の懇(ねんご)ろな教示によって今までの執着を離れ、この現当二世の意味から謗法を深く恐れ、かつ誡めて、主人の一言われるところの立正安国の趣旨にしたがわなければならないということをここに述べるのであります。
・此の経文を被きて具に仏語を承るに、誹謗の科至って重く毀謗の罪誠に深し。
すなわち「あなたの言葉を承ったことにより、正法を誹謗するところの科が重いこと、また法を謗るところの罪が深いということが判りました」と、まず申します。
・我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは是私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。
つまり私は法然の捨閉閣抛の教えを信仰し、阿弥陀仏を信じて他の仏を抛(なげう)ってしまい、また浄土の三部経のみを仰いで他の諸経を手に取ろうともしなかったのは、私が自ら曲げて考えたことではありません。すなわち念仏のみを正しい教えとして勧めたところの法然等の人々の詞にしたがったのであります。
・十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。
しかし私のみならず、他の多くの人たちも、すべてこのような誤りを犯していることでしょう。
・今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。
それによって、心の表面のみならず、本性を煩(わずら)わすことによって様々な悩みを生じ、また来生には阿鼻地獄に堕ちることが経文に明らかであると共に、その道理が詳らかであることから、それは疑うべからざることでありますと、このように客が自らの領解を述べるのであります。
次が、最後の客の誓いの言葉となります。
・弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。
これは一番最後の大事な御文であります。つまりあなたの慈悲の諭(さと)しをいよいよ仰ぎ、私の誤った心、無智な心を開いて、速やかに災いのもとであるところの謗法を対治し、早くこの世の泰平を見るために努力をいたします。そして生前、つまり現世における身心や国家社会が安らかとなるよう、また没後、つまり死後が幸せとなるよう、この現当二世の意味から願い行じてまいります、ということが客の最後の誓いであります。
・唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。
そして、次の最後の一文がまことに大事なのです。これは自分だけが信じるということではなく、他の人々の誤りをも誡めてまいりますという決意です。
このことを大聖人様は、また自行化他の南無妙法蓮華経とおっしゃっております。自らが正法を行ずると共に他にもこれを勧めていく。他に勧めるためには、他の人々が持っておるところの誤った人生観・世界観、乃至宗教観を折伏することが大切であります。折伏をすることによって正法への眼を開かせ、化他の道が成就していくということになるのです。したがって「又他の誤りをも誡めんのみ」というのは、自行の上の化他の折伏であり、それがこの『立正安国論』の趣旨になっております。したがって、我々も縁のあるところから折伏を行っていくことが大事なのです。
しかしながら、大聖人様があの当時においていろいろな謗法がある中で、その中心としてまず法然の『選択集』における邪法邪義を『立正安国論』において指摘あそばされたということは、当時としての衆生の機根や罰の現証の上から大事な意味を持っておったのです。けれども今日では、いろいろな意味において謗法の姿が大きくなり、また変わってきております。
そこで第四問答の最後に、主人の答えとして、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)という有名な御文がありますが、この「一凶」ということにおいて、当時、大聖人様は法然の『選択集』を謗法対治の基準とされてお示しになっておるのであります。当時は念仏の教えによって、様々な人が臨終の際に、地獄に堕ちて行くような悪相を現じていたということが、当時の文献において明らかであります。
今日においては、多くの人々がありとあらゆる信仰をしておる姿がありますが、それらはやはり本当の意味で成仏するところの教えではありませんから、これを折伏していくべきであります。しかしながら、今日における「一凶」ということの意味からいけば、これはいわゆる正法の門を出でて邪法の獄に走ったところの創価学会が、最もその邪悪な姿として顕れていることを知るべきであります。その元凶は言うまでもなく、あの池田大作であり、その池田大作の体質をすベてそのまま受けたような形で、偏狭で自己中心の我意識をもって世間に誹謗と邪義の思想をまき散らしておるのが、創価学会の今日の姿であります。
彼らは日蓮大聖人の教えなどと言いますが、彼らの主張するところは全く大聖人様の仏法ではありません。先ほども申し上げましたように、大聖人様は常に正しい修行と振る舞いをもって、真の仏法、南無妙法蓮華経の法体とされておるのであります。ですから妙法を弘める上において、誹謗や邪義をもって世の中を誑(たぶら)かしていこうという考え方は、まことに大聖人様の仏法ではないのです。口先だけ「大聖人、大聖人」と言いながらも、実は大聖人様の仏法に徹底して背いておる。このような矛盾した考え方は、大変な誤りであると言うべきであります。
大聖人様は、「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(同1066ページ)とおっしゃっております。つまり日蓮大聖人、日興上人に背いて、仏法を惑乱しておるところの創価学会の者どもは、特に池田大作を中心とする大幹部の者どもは、堕地獄必定であると、ここにはっきりと『安国論』の教えに基づいて申し上げるものであります。
したがって、この一凶を禁じ、また救うべき意味において、一人でも多くの創価学会員、またそれ以外の人々にも慈悲の折伏を行じ、日蓮正宗の正しい仏法へ導くことが大切であります。なお今日、創価学会の誤りをいろいろに指摘しておる本がたくさん出ておりますが、それらもお読みになれば、参考になる点も多いかと思います。
今、宗門は「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進んでおります。是非、皆様方には、この最後の御文「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」という、このところを心肝に入れられまして、縁のあるところから一人でも多くの人の迷妄を開き、正しい信仰の道に導かんという気持ちをもって精進していただきたいと存じます。
たとえそれが一人であったとしても、それだけこの世の中が明るくなっていくのであるということを確信されて、あらゆる面から折伏の意義を常に実践していかれること、それが『立正安国論』の正義顕揚に当たるのであります。
皆様の御精進を心よりお祈り申し上げまして、私の『立正安国論』の拙講を終わる次第であります。(題目三唱)