大白法

平成16年2月1日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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御法主上人猊下御言葉



◎1月11日唱題行の砌

おはようございます。ただいまは、参詣の信徒の方々と共に1時間の唱題行を行った次第であります。

本日は参詣者が多いようですが、第2日曜日は各末寺において御報恩御講が奉修されるために登山される方はないと思われますので、ここには理境坊妙観講支部の方々が多く参詣されたことと思うのであります。また、塔中各坊に所属している近隣の方もいることと思います。

この妙観講は、非常に折伏教化が進んで大きく発展しております。それは妙観講の講頭である大草一男氏の指導によって、折伏を進めてきたことによるものであります。

顧みれば、平成3年に創価学会問題が顕著となり、翌年から創価学会を主体とした登山は一切なくなりました。それに対して、全国の各末寺において、法華講の支部総登山という行事を執り行うことになったのであります。これは年に1回、各支部において一切の人達が御報恩のために総本山へ登山することであります。

しかるに平成4年以来、その行事が行われておりますが、本来ならば広宣流布に向かって進む各講中ですから、年々充実してよいはずでありますが、実状は必ずしもそうではないという形もあります。しかし、これからは支部総登山も本来の目的に従って、全国的に講中が充実発展していくことが大切と思うのであります。

そのなかにおいて妙観講は平成4年の開始以来、年々に減ることなくずっと増えておりまして、特に、平成14年は特別な行事がありましたから総登山は行われなかったのでありますが、平成13年の支部総登山では約3千名であったのが、平成15年には4千数百名に増加しています。実に、一気に千名近くも増加しているのであります。これは、まことに全国の法華講が模範とすべき姿であります。

それらの意味をも含め、今般、妙観講講頭の大草一男氏を、総本山総代の渡辺定元氏らと共に、法華講大講頭に任命いたしました。これまで、法華講支部は全国にあったわけですが、法華講本部は名前はあったものの、機能していませんでした。今までは総講頭として柳沢喜惣次氏、大講頭として石毛寅松氏がいたのですが、「宗規」には大講頭は「若干人」と示されていることからも、今般新たに、今日ここに参詣している大草氏と渡辺氏を他の方々と共に任命し、大講頭を都合6名といたしました。このように「宗規」に基づき、支部に対する本部の体制を確立させた次第であります。

さて、本日は11日ということで、月は違いますが、文永元(1264)年11月11日の小松原の法難の日に当たります。大聖人様が東条景信ら数百人の兵に囲まれ、弟子の鏡忍房が殺され、駆け付けた信徒の工藤左近尉も討ち死にしています。しかし大聖人様は弓箭も持たず、数珠だけであったにもかかわらず、額(ひたい)に3寸ほどの傷を負われ、腕を打ち折られただけで、不思議なことにその御命を奪われることはなかったのであります。これは諸天の加護であり、まことに不思議なことであります。

我々はその大聖人様の、法華経を真に行ぜられたお振る舞いの尊さを拝し、その仏様としての御威光の上から妙法の受持によって真の成仏得道ができることを確信しなければならないと思います。

特に本年は「破邪顕正の年」でありますから、邪を破していくということが、これは既に今まで行ってきたことではあるけれども、特に本年に意義づけられておることを感ずるのであります。

総本山7百年の仏法に対して、わずか7,80年の歴史しかない創価学会・池田大作が久遠元初の仏法の根本であるなどという大それた考えを持っており、そういう謗法の根底が今日に至るまで存し、あらゆる面から宗門を誹謗しておるのであります。その邪義に対してはっきりと正していくところに、真の破邪顕正の意義があり、また具体的な形であのような妙観講の折伏発展があると思うのであります。妙観講の方々には、本年もなおしっかり、破邪顕正の意義をもって自行化他の行業に邁進していただきたいと思うのであります。

それとともに、総本山内には各塔中坊がありますが、坊にもそれぞれ昔からの檀家があります。これがまた創価学会の邪悪な影響を受けて、いまだに謗法の念慮をもって行っておる者も総本山の地元に残っておるのであります。なかには正しく法華講の信心をしておる人もありますが、やはりそれらの関係の上から色々な間違った形がそのままにされておるということがあるようでもあります。

それについて、「相構へ相構ヘて、とわりを我家ヘよ(寄)せたくもなき様に、謗法の者をせ(塞)かせ給ふべし」(御書1388ページ)という大聖人の御指南をしっかり肝に銘じていくことが、この「破邪顕正の年」として大切であります。いわゆる身口意の三業の上から謗法をはっきりと破折していくのです。

「謗法の者をせかせ給ふべし」ということは、心にはっきりと謗法に対する堰(せき)を作れということのお言葉と思います。しかしながら、もちろん大聖人の大慈大悲のお心を体して、あらゆる面から、あるときはやさしく、あるときは大きな心でその謗法の者どもの邪悪な心を打ち破っていくということが、本当に「破邪顕正の年」として大切であるとも思うのであります。

特に総本山のなかにおいて、それら信徒の人達を正しく教導していくのが、各坊の住職であります。したがって本年の意義をもって、檀家の人達が謗法に流れないように教導しなければなりません。聞くところによれば、法華講の信徒でありながら『聖教新聞』を取っておる人もいるようです。こんな間違ったことはないと思います。正しい方向に向かって僧俗が一致して謗法を破折していくというところに、本年の破邪顕正の意義があると思うのであります。

したがって、ここにいる坊の住職達には、ひとつ今年はしっかりやってもらいたいと思います。今までのようないい加減な、すなわち各坊の檀家に対して、その謗法をそのまま認めているような住職は、住職自身がそこに破邪顕正の意識がないということにもなります。信徒の方々だけではなく、僧侶も本年の破邪顕正の意義を深く体して、しっかり謗法の者を塞(せ)いて、その邪悪を大きな心において慈悲の気持ちをもって正していくことが大切であり、まず間違った姿をことごとく改めていかせることが大切であります。

どうぞ本年度における皆さんのそれぞれの立場における精進をお祈りする次第であります。御清聴、たいへん有り難うございました。



◎1月12日唱題行の砌

皆さん、おはようございます。本日は1月の12日であります。月は違いますが、大聖人様が発迹顕本をあそばされた日であります。

皆さんも聞かれたことがあると思いますが、『開目抄』のなかに、「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば云云」(御書563ページ)という有名な御文がございます。

この「魂魄佐土の国にいた」るということにつきましては、特に本宗においては仏法の相伝の上から総本山第26世日寛上人が、その深義を述べられておるところでもありますが、いわゆる迹を発(はら)って本を顕された久遠元初の自受用身、その仏身が佐渡の国においでになったという意義があります。すなわち「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ」とは、凡夫の日蓮の首は落ちてしまったのであり、その命は魂魄として、久遠元初の自受用身として佐渡の国においでになったということであります。

そこから、大聖人様の御出現の本懐である三大秘法のなかの本門の題目の裏付けとして、すなわちその元としての本門の本尊が、佐渡以降の御化導において顕され給うのであります。いわゆる『開目抄』においてはそのなかの人(にん)の本尊を、また『観心本尊抄』においてはそのなかの法の本尊の意義を、あらゆる教えを網羅したなかから、末法の衆生の即身成仏の法として、その大法をお示しになったのであります。

「教」ということがありますが、あらゆる教えのなかから真の即身成仏の大法を取り出だされたのが大聖人様の御化導であります。しからば「教えというものは何か」ということを聞かれた場合に、即座に「これだ」と答えられる方は、このなかにも多数いらっしゃると思いますが、折伏等の上においてはこれが一番大事なことなのです。すなわち、「教とは、聖人、下に被(こうむ)らしむるの言なり」(学林版玄義会本上57ページ)ということが言われております。

そして、その教についての相というものがあり、これを「教相」と言います。相とは外から見て分かつべきものであり、いわゆる「この人は男性で、あの人は女性である」とか「これは何であり、あれは何である」ということが解るのは、面(おもて)に表れた相によるのであります。

さらに、その相について、同じか異なっておるかという「同異を分別する」ということがあります。この同異という内容には、一つには大と小があります。つまり大きいか小さいかということです。それから勝れておるか、劣っておるかということ、さらにその全体が多いものか少ないものか、すなわち色々な価値判断というものがたくさんありますが、そのものの内容においてそれが多いものか少ないものか、そのような3つの面から見て同異が分別されるのであります。

あらゆる教えを比べてみると、この教えは大きい、この教えは小さいということ、いわゆる大乗と小乗という形も当然出てくるのであります。さらにまた仏教と仏教以外の他の様々な教え、これを外道と言いますが、道から外れたところの教えとの勝劣、いわゆるどちらが勝れどちらが劣っているか、その勝れ劣る所以(ゆえん)はどこにあるのかということをきちんと分別していくのが教えの相、つまり教えの同異を分別するということであります。

それらの意味で、教えは日本はおろか世界中にたくさんあります。また、古い歴史を考えれば、あらゆる時代において、その時代における相応の聖人が現れて様々な教えを民衆に示し、その教えによって民衆が正しい生活を送り、幸せになっていくという形が存したのであります。

さらに、教えに対して法というものがあります。これを合わせて「教法」とも言うのでありますが、教は能顕(のうけん)、すなわち能く顕すところの言葉であり、いわゆる「聖人、下に被らしむるの言」であります。では何を顕すのかというと、法を顕すのであります。つまり教えは、その元の真理である法を顕していくのです。したがって法は所顕(しょけん)であります。能く顕す能顕が教えであり、顕されるところの法体が法、すなわちこれは所顕であります。

したがって大聖人様は、教・機・時・国・教法流布の前後という五綱教判をお示しになり、その五綱教判の第一に教を挙げられております。その教の顕すところは何かというと、大聖人様の御一代の御化導の上においては三大秘法であります。すなわち、大聖人様の教えによって顕される法でありますから三大秘法と示されておるのであります。よって「三大秘教」とは言わないのです。教は能く顕すほうで能顕なのです。その教によって顕されるところは法でありまして、いわゆる三大秘法であり、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目という3つが存するのであります。

すなわち、南無妙法蓮華経の五字・七字が本門の本尊の当体であり、その本門の本尊を信じて唱えるところの南無妙法蓮華経が本門の題目であります。この題目のなかにありとあらゆる教法の意義が含まれ、それによるところの功徳が含まれておるのであります。したがって、我々が御本尊様に対し奉り無心に南無妙法蓮華経と唱え奉るなかにおいて、この身にあらゆる功徳を積んでおるのであります。そして成仏させていただくことができるのであります。


その法の内容は、敢えて申し上げるならば、それは言葉ということになりますから、逆に法の功徳を教え乃至言葉によって顕していくという意味になります。

南無妙法蓮華経の「南無」は、本当の「楽」を示しております。つまり安楽、苦しみに対する楽しみと言いますか、楽ということが南無妙法蓮華経の南無の意義であります。したがって、真剣に南無妙法蓮華経、特に南無の御文字を拝してお題目を唱えるところに、我々の命が本当の安楽な境界を成就するのであります。この意義をもって拝んでおりますと、そのことが本当にひしひしと皆様方の命のなかに感ずることができると思います。

また「妙法」とは「我(が)」ということであります。あなた方一人ひとりが自己というものを持っておりますが、そのなかには我見・我欲ということもありまして、本当に多くの人々が自分自身の我を捨てきれずに、貧り、瞋(いか)り、愚癡等によって不幸になっておるのです。この我をどのように処理していくかということは、世界中の宗教のなかの重大問題であります。しかるに、それをそのまま、我即妙法と開く、この妙法というところに自分自身の命が十界互具して、自由自在な境界として存することができるのであります。すなわち、法体の「妙法」を拝しつつお題目を唱えるところに、あなた方の命が妙法の命となるのであり、そこに我波羅蜜という、小我(しょうが)から大我(だいが)に転じていくところの大きな功徳が顕れるのであります。

また「蓮華」の御文字は「浄」を示しており、我々の命がそのまま清浄であるということを、自己の命のなかに感じ、また、その功徳を顕していくことが必ずできると拝察いたします。たしかに我々の命は汚いものであります。また身体の九孔、すなわち九つの孔(あな)からあらゆる不浄が流れ出ます。そういう面から見れば我々の心身は不浄ですが、その命そのものに、実は妙法不思議の「蓮華」の功徳において因と果がそのまま具わるのであり、さらに迷いと悟りがそのまま具わるところの命として、不浄即浄という意義の功徳が存するのであります。

次の「経」とは「常」の徳を具えております。我々の命は常に変わっていき、そしてついには死に至ります。我々も皆さん方も必ずある時期に死を迎えるのであります。いわゆる生死ということです。死ぬ前にはもちろん生があり、生があって必ず死があるのです。しかし、死がさらに次の生を生んでいくということは、正しい因縁因果の、三世の道理を説くところの仏法において初めて示されておるところであります。

ほかの宗教ではそこが解らないのです。色々な意味の西洋哲学とか、あるいは大学等において偉そうなことを言いつつ人生の哲理を説いておるけれども、結局、人間の命がどうなっていくかということははっきりしておりません。もっとも、冥土(めいど)から帰ってきた人はほとんどいないのですから、結局、どうだったかということは言えないけれども、しかし過去から現在、現在から未来という因果の連鎖は存するのであります。

それを仏法では「業(ごう)」と言います。その業のなかにおいて、我々がこの世に生まれたということは過去にその因があって生まれてきたということであり、その我々が死んでいくときには、その死によって次の生を生じていくのであります。今生の生死乃至、死の一念が因となって、さらに因縁の上から次の生を生じていく、これが三世常恒(じょうごう)の生死であります。

その生死のなかにおいて常に妙法を受持するところに、その生死がそのまま仏の尊い功徳を成就した命として、さらに生まれ変わっていくということが存するのであります。したがって、我々は三世常住の仏法を深く信じ、常に退転なく妙法を受持しつつ、自行化他にわたって行ずるところに真の即身成仏があることを深く信ずべきであります。

その根本として、本日の12日において、大聖人様が発迹顕本あそばされたことを我々は深く体し、その御徳に報いるべく、信心修行に邁進することが肝要と存じます。たいへん長くお話をいたしましたが、12日の意義をもちましてお話しした次第であります。御苦労さまでした。


教学試験会場

◎1月13日唱題行の砌

おはようございます。ただいまは、皆さんと共に御本尊様に唱題をさせていただきました。毎朝のことなので今日はマイクを持つつもりもありませんでしたが、本日は大聖人様の御命日でありますから、その意味の御報恩も含めてただいま1時間の唱題行を行い、その上から感じたことを少々申し上げたいと思います。

本朝は7時から御影堂におきまして、恒例の如く、大聖人様の例月御命日としての御報恩の御講が執り行われたのであります。皆さんのなかには御講にも参詣された方もあると思います。13日は申すまでもなく、大聖人様が弘安5年10月13日、武州・池上右衛門太夫宗仲の館において御入滅あそばされた日であります。

大聖人様の御肉身は、61歳を一期(いちご)として御入滅されました。しかしながら、我々は唱題をさせていただく上において、大聖人様が常住であらせられ、我々一人ひとりの信心の姿、修行の姿を常にお見守りくださり、大きな慈悲を垂れさせ給うと拝するのであります。

人間はそれぞれ、一人ひとりが尊い個性を持っております。皆さん方一人ひとりも生きていく上において様々な事柄を行い、その善の徳や悪の果報というものが、そののちにおいて多くの人々、あるいは一部の人々のなかに残っていくのであります。例えば「あの人はあんな悪人だった」とか「あの人は本当に立派な人であった」というようなこと、特に世間の法とは違って、信心の上から妙法の功徳を顕した、その人の徳というものが色々と語り継がれる意味もあります。

大聖人様の肉身は御入滅になりましたが、その広大なお徳が仏法の根本の大法をそのまま顕された上において、これはその法自体が常住不滅であります。その常住不滅の御当体は南無妙法蓮華経の御本尊として、いわゆる本門の本尊として顕れ給うのであります。そのなかには法界の一切が含まれております。

また、我々個々の生活のなかにはあらゆる念慮、いわゆる悪いほうでは貪瞋癡、つまり貪りと瞋りと愚癡というような自他を傷つけるような心もあれば、菩薩乃至仏の命というものもありますが、これが妙法の本理であります。これは冥伏(みょうぶく)しておりますから、普段は十界のなかの一つしか出ておりません。あるいは睡眠の如く、十界のすべてが冥伏して、草木の如く無心の状態でいるときも当然あるのです。ともかく我々の命の当体、そしてまた宇宙法界全体の在り方が、妙法蓮華経の当体なのであります。その意味では、地水火風空の融合と離反による色々な活動等があるのですけれども、要するにそのことごとくが妙法の当体なのであります。

皆さん方が方便品を読誦する時に、最後の十如是を3回にわたって読むと思います。これには「如是相(にょぜそう)」という意味と「是相如(ぜそうにょ)」という意味、そして「相如是(そうにょぜ)」という意味の3つの読み方があるのです。もちろん、これはわざわざそういうふうに読まなくてもよいのです。そのように読もうとすると、かえって口が回らなくなって、どこを読んでいるのか判らなくなりますから、今のとおり「如是相。如是性…」のままで読み方はよいのですけれども、意義においては「如是相」「是相如」「相如是」と読んでいるのであります。

「如是相(※是の如き相)」というのは、歴々として表れた形であります。地獄は地獄、餓鬼は餓鬼、畜生は畜生とはっきり表れることであります。我々の心においても、怒っておるときは地獄の心が表れておるのであります。当然、顔も地獄のような顔になっているときが多いのです。ともかく、そういう意味で「如是相」というのは、相の形においてそのどれかが表れておるということで、仮諦を意味します。これは因縁の上から仮りに表れることで、「有(う)」とも言います。このように、仮りの姿ではあるけれども、実際に色々な形として表れておる姿が「如是相」であります。

それが「是相如(※是の相も如なり)」となりますと、「如」の意味はいわゆる平等一味ということでありますから空諦を意味します。そして、すべてが冥伏されておりながら、そのすべてを含んでおるというところに空諦という在り方があります。

さらに、空という在り方においては仮を否定し、仮という立場においては空を否定しますから「非有非空」となり、さらに空が仮を具え、また仮が空のなかに入っておる上から「亦有亦空(やくうやっくう)」という意味がありますが、この「非有非空」「亦有亦空」の当体が中道であります。その中道の意味するところが「相如是」です。つまり「相是くの如し」と読むのが中道からの読み方であります。

この十如是を、我々が無心に3回読むなかに、法界全体の、また一人ひとりの命のなかの深い真理のことごとくが篭もっておるということであります。

そして、大聖人様は大慈大悲の上から大曼荼羅をお示しあそばされました。その中央の「南無妙法蓮華経」は、いわゆる空仮中の法門から拝すれば空諦を表しております。すなわち左右の十界をことごとく含むところの当体であります。

その空諦に対して左右の十界、釈迦牟尼仏から本化の菩薩乃至迹化の菩薩、さらに諸天善神をはじめとする六道等が示されておるのは、いわゆる久遠元初の自受用身の一身に具し給うところの十界を表しており、さらに垂迹として顕れた、釈尊仏教の上からも示されてくる様々な十界の姿がありますが、それらのことごとくを含めて全部が仮諦の形であります。

その仮諦即空諦、空諦即仮諦が中道であるという意味においての空仮中三諦が御本尊様の御当体として示されております。しかしながら最も大切なことは、この全体がことごとく人に即する法、法に即する人という上の具体的な仏の在り方として一切が含まれるということにおいて、御本尊様の御当体がどこにお示しあそばされておるかと言えば、「南無妙法蓮華経」の直下に示された「日蓮」の御文字であります。ですから、この「日蓮」の御文字がたいヘん大切であります。

邪宗の身延派の祖先である五老僧のなかの日昭・日朗その他の門流においては、今日に至るまでほとんどが、南無妙法蓮華経の下に自分の名前を書いております。「南無妙法蓮華経 日昭」とか「南無妙法蓮華経 日朗」というように書いているのでありますが、これは本当に大聖人様の御本尊の意味が解っていないのです。つまり南無妙法蓮華経の文底下種の大法がどこにおわしますかという、その在り場所が解らないのです。これをはっきりと拝されて、能所一如、唯我与我の上から大聖人様の御弘通の法体をはっきりと拝された方が日興上人様であります。そこに唯授一人の御相伝が存するのであります。

この客殿の御本尊様は、この大石寺が創建された時に、日興上人が日目上人に法を内付された意義を持つところの大事な御本尊様であります。日興上人の御一代において書写された御本尊が今日もたくさん残っておりますが、南無妙法蓮華経の真下に必ず「日蓮」とお示しあそばされております。この「日蓮」というところに、南無妙法蓮華経と法界の一切が日蓮大聖人様の御当体として具わるという意義があり、これがいわゆる人法一箇の御本尊の深義であります。よって、我々はこの御本尊を拝し奉る時に、常に大聖人様が我々の信行を御覧あそばされ、その信心の上からの大きな仏法の功徳を必ず頂戴できるということを確信すべきであると存じます。

本日は大聖人様の御命日ではありますが、さらにそこに、本有常住の上からの下種の御本仏としての大聖人様が、御本尊様の御当体として我々を常にお導きくださっておるということをよく拝しつつ、これからの信行に邁進すべきであると存じます。以上、一言、13日の月の御命日に当たり、感ずるところを申し述べた次第であります。



◎1月15日唱題行の砌

今日はマイクを持つつもりはありませんでしたが、折角ですから、一言、申し上げます。

本日は1月15日で、この唱題行もだいたい半分が経過し、今月の総本山の行事も、7日の御開山会、13日の大聖人様の御報恩御講、そして本日の日目上人の御報恩御講等を奉修し、月の前半が終了すると同時に、総本山の1月に予定される行事も大半が終わったのであります。もちろん、これから月末までの唱題行はありますし、25日には初級教学試験も行われますが、それ以外に特別な行事は予定されておりません。

そういう点で、遠方から見えている方もあるかと思いますが、おそらく今日の唱題行のあと、それぞれの所へ帰られる方もあると思います。もちろん地元の方は時間の許す限り、1月の最後まで、唱題行に参加される方もあると思います。

そういうことで、今日は何もお話しする気持ちはなかったのですけれども、唱題をしておりまして、私の境界の上から皆さんにひとことお話を申し上げたいと思った次第であります。


それは、この間もお話ししましたが、南無妙法蓮華経にはあらゆる面からの無量の功徳があり、それについては大聖人様が御書の各所において御教示あそばされております。そのなかで、「南無」とは楽波羅蜜、「妙法」は我波羅蜜、「蓮華」は浄波羅蜜、「経」は常波羅蜜でありますが、この4つの波羅蜜で顕される仏の徳というものが、そのまま南無妙法蓮華経の七字に顕されておるということを、前に申し上げました。

そのうちの妙法は中心であり、我波羅蜜とはいっても、その内容において、まず仏様の法界の大我ということが拝されるのであります。そういう点で、妙の御文字には、「妙とは具足」(御書548ページ)と仰せられ、あるいは、「妙とは蘇生の義なり」(同360ページ)とも仰せられるように、様々な意義があるのですが、私は本日、妙法の妙について、「相対妙」と「絶対妙」という法門の上から、我々の信心修行の境界においてどのように拝すべきであるかということを感じさせていただいたのであります。

それは要するに、ひとくちで言えは絶対妙ということは独一法界の仏の境界であります。「法界即日蓮、日蓮即法界なり」(日蓮正宗聖典379ページ)という『御本尊七箇之相承』のなかの御文がありますが、この御文を皆さんが読んでも「『日蓮即法界』とはいったい何だろう」と、わけの解らない人もいるかも知れません。しかし、大聖人様の妙法の境界がそのまま宇宙全体に及び、包容されておるという意義が拝されるのであります。ですから、そこに絶対の境界、妙法の意義があり、我々がお題目を唱えるなかに、知らずとも法界絶対の妙をそのまま我が身において体現しておるのであります。法界のすべて、すなわち地球も太陽も、宇宙法界の全部という意味からするならば、そこに妙の上の境界としての、独一法界の仏の境界をそのまま拝する。したがって十界が全部具わり、また、それをそのまま包容するのであります。

我々の周りには、ゲジゲジであるとか蛇であるとか、普通の人がいやがるような動物もおります。また、人間同士のなかにおいても、仇敵というような意味で、常に誹謗し悪口し迫害をするような衆生も、それぞれの人々の因縁によって存するのですが、それらのことごとくが法界の存在であり、本来は妙でありますから、そのまま我々の心のなかに、妙法唱題のなかに一切を包容しておるということであると思います。

したがって、創価学会が私に対してありとあらゆる面で嘘を言ったり、誹謗したりしておりますが、これらも全部、妙法の境界からするならば、彼らのあらゆる姿を私のお題目の中に悉く包容しておるのであるということを感じます。あるいは皆さん方の立場の中にも色々な相手がいると思います。善い人もいれば憎いと思う人もいたり、あるいはあなた方の悪口を言う人もいるでしょうが、全てを我々のお題目の中に包容しておるのです。そこに、あなた方の中にも大人格がおのずと生じてくるのであります。そこのところから見ると、何を言われようと、そのようなものはみんな、チッポケな事柄で、ことごとく自分の妙法の境界の中に入っておるとするならば、これは何も問題ないのです。びくびくする必要もなければ恐れる必要もなく、怒る必要もないのです。そこのところに妙法の受持の深さがあると思います。


しかし、法門は絶対妙だけでなく、相対妙という立場もあります。相対妙はそれぞれの因縁の上から個々において存在しておるわけで、そこに十界とも分かれ、皆さん方のそれぞれの生活や命が存するのであって、そのなかにどうしてもこうしても、憎い人にも、嫌な人にも、あるいは色々な人にも会って、その中で皆さん方が生活していかなけれはならないのです。その中で生活していく上においては、色々な面でぶつかって苦しんだり、悩んだりしておる人が多いのであります。しかし、今度は我々が唱えるその妙法がそのまま、相対としての妙の功徳を成ずることになるのであります。

さて、妙に対する概念として「麁」(そ)という意味があります。麁とは粗(あら)いとか、不完全であるというような意味で、要するに仏の境界を妙とするならは、菩薩もまだ麁であり、菩薩より下の声聞・縁覚も、もちろん麁であります。さらに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上までの六道が、不完全な考えによって小さなところに執われたところからの行業によって、拙(つたない)い地獄、餓鬼、畜生、あるいは人間界において、様々に悩み苦しんでおるのであります。ですから、麁であることはどうしようもないけれども、本当に我々の命が救われていくのは妙としての振る舞い、心の上から南無妙法蓮華経を唱えていき、そこの境界においてあらゆるものと対処していくことが大切であると思います。

  その対処の上において、一番基本になるのは折伏であります。間違った人生観あるいは世界観、更にもっと根本の間違った宗教が不完全な状態でありますから、その麁たる小さな宗教、誤った宗教を妙のところに入れるために、縁のあるところ折伏を行じていくことが大切です。さらに我々の生活の中において色々な問題があります。しかし、それはことごとく、大きな境界をもって妙の上から開いて見るならば、あらゆる人がそれ相応に正しく対処していくことができるのであります。

私はだいたい毎月、総本山の婦人部の人達に御書の講義をしておりまして、今は四条金吾殿に宛てられた御書をずっと拝しております。その中で大聖人様は四条殿に対して、ありとあらゆる面から仏法を正しく信じ、行じ、その身を正しく保って、あらゆる迫害や怨敵に対する正しい処置をお示しになっております。

江間光時という方が四条殿の主君でありますが、この人が一時、四条殿の法華経信仰を本当に憎んで、高圧的な態度や言葉をもって四条殿の信仰をやめさせようとしてまいりました。それらに正しく対処していくには、いわゆる上の方に対しても同僚に対しても、また下の者に対しても、妙法蓮華経の相対の上から相(あい)対して妙を行じていくところに、おのずから本当の慈悲が顕れ、正しい振る舞いが顕れてくると私は思います。

私は本当に至らない者ですが、常にその気持ちを持って、下の人にも、あるいは上の人にも対処しておるつもりではあります。しかし、ここにいる僧侶の中には色々と批判している人もいるかも知れません。それは私の徳の至らないところであります。しかし相対妙、絶対妙の功徳の上からの意義をもって常に信心修行に邁進するところに、必ず仏様の大慈大悲の上から、その人の振る舞いが妙法の振る舞いとして顕れてくるのです。


絶対妙の境界の上においては何も言うことがありません。法界全体を我が心とするのですから、これは広いのです。この上からは何も恐れることもなければ、心配することもない。またそれが常恒で、南無妙法蓮華経の経は常波羅蜜と申し上げましたが、これは死んだ後も更に常恒の生命をもって、妙法の上に正しく転々と活動していくことになるのでありますから、本当の安心立命(あんじんりゅうみょう)がこの南無妙法蓮華経の五字・七字の受持信行によって存するということを、我々は深く感ずるべきであると思うのであります。

本日は1月の15日で、ちょうど月の半分の時期に当たっており、また御参詣の方の中にはお帰りになる方もあるかと思いまして、一言申し上げた次第であります。皆様方には、妙法の受持信行を自行化他に亘って行ずるということを深く心に留められての御精進を、心からお祈りいたします。たいへん御苦労様でした。




激励 柳沢喜惣次総講頭
於 初登山座談会


皆さん、「破邪顕正の年」明けましておめでとうございます。本日の講頭御目通りの砌に御法主上人猊下は、法華講本部の充実の上から、これまで1名であった大講頭を新たに5名増員され計6名に、また本部幹事1名を任命されました。そして本部役員と支部の役員の今後の在り方について御指南下さり、いよいよ御法主上人猊下の御構想が現れてくる体制が出来上がってきたのであります。

そこで、私は昨年の反省の上から、年頭に当たって大事な今年を、お互いに悔いのない年で終わらせるために申し上げたい一点は、折伏のことであります。この折伏について、「今のままでは本当にだめになってしまう」と、お互いに真剣になって考えていかなけれはならないのではないかと思うのであります。そこに折伏行が自分のものになっていないし、また三宝様の御恩を忘れていることでもあります。知恩報恩ということは、恩を知って恩に報ずる、その最高が三宝様の御恩です。今日は、このことをよく頭に入れていただきたいと存じます。


<利益は厳然と続くその実感>

一昨年の論義式(ろんぎしき)で、「本宗仏身論」「本宗本尊論」「本宗三宝論」「本宗成仏論」「本宗題目論」「本宗行儀論」の6項目が10回ずつ、合計60回に亘って行われ、その中の一つひとつを私たちも拝聴してまいりました。その中で大事なことは、仏身である御仏の御当体、これは申すまでもなく日蓮大聖人様です。大聖人様はいつまでも生きている御当体を示せません。滅後の衆生のために常住不滅の御尊体を戒壇の大御本尊様として御出現になる、そこに仏身と本尊は一つなのであります。

そこから第二祖日興上人様、第三祖日目上人様と、御歴代の御法主上人様が血脈を受け継がれて、御当代日顕上人猊下の時に宗旨建立750年の大佳節の大法要が行われました。その大聖人様の御教えが色も形も香りも変わらず750年も続いてくるところには、血脈嗣法の御法主上人様の御恩とその御弟子の僧の恩を忘れてはならないということです。

言葉を換えて言えば、いつの時代も利益は厳然として等しく、罪障も消滅されていくし、また福も来る。さらに因果の道理も判ってくる。このことが実に有り難いことですが、三宝様を敬う生活をしておりませんと、この現証は顕れてきません。これをよく我が身に当てはめて、考えて欲しいのです。利益は厳然としてある。ところが、自分にはその利益が顕れてこない、なぜか。そこなんです!


<三宝尊を敬う生活と「破邪顕正」の信心>

みんな我見を持っていますから、「私は一生懸命拝んでいるんだから謗法じゃない。でも御利益は感じないよ」と。それに対して皆さん方も、「あなたの考えは違うよ」と破折しなけれはだめなんです。放置しておきますと、こういう人はじっとしていないで「な、そうだよな」と必ず同調する人を捜すんです。そうして、「言われてみれはそうだ」なんていうことが、だんだん蔓延していってご覧なさい。信心がどこかへ行ってしまいますよ。

これが家庭の中で発生したらどうなりますか。「お父さんはそう言うけれど、僕はそうは思わないよ。友達の所へ行ったって、みんなお父さんとは考えが違うよ」と言い出した時に、父親がそれに対して「何を言うか」と厳しく破折できなければいけません。母親も「困ったわねえ、因ったわねえ」と言うばかりではだめです。「あなたの考えは間違っているよ」と一緒になって言わなければだめです。これを放置しますと必ず法統相続が破れます。その後になって、孫に期待をかけてやらせようと思ったって、やるわけがないでしょう。「お父さんもお母さんもやらないのに、何言ってるんだ、おじいちゃん」なんて、口に出して言わないかも知れないけれども、そういう声が聞こえなけれはだめですね。

ですから、破邪顕正というと何か遠くのことのように思いますが、足許にあるんです。しかも、厳然として利益が顕れる、すはらしい御本尊様を拝んでいながら、邪を破していないから、そうならない。私の問題提起したいところは、ここです。

次に世間を見ていきますと、みんな三大秘法の大御本尊様に背いた謗法の生活で、下種三宝様を敬う生活をしていませんから、顕れてくる現証にいいことなんかあるわけがありません。それを「罪障なんだよ」「宿業だよ」と言っても、相手にはよく判らない。それは正法誹謗からくる謂われをよく聞かせ、正法の生活を教えていきますと、「そうか、そうなっていく生活をしなけれはだめだな」ということが初めて判ります。

三宝様を敬う生活をしていきますと、生まれた子供も1歳、2歳となり、やがて20年、30年経っていけば、親のやっている姿を見ていますから、題目を唱えて自分の縁の人たちにも「題目を唱えなけれはだめだ」と言っていく。このことは、子供たちにとっては「常識」ですよ。入信した家庭でも、この道理をわきまえて、入信したその時点から、この生活に切り替えなけれはだめなんですね。

折伏はなかなか個人差がありますから、「ちょっと、あなたは何やってるの。日蓮正宗の信心でなきゃだめよ」と、簡単に言える人はいいですね。ところが、3階から飛び降りるような気になっても、うまく言えない、きっかけが判らないという人もいます。そういう人は、私も若い頃はそうでしたが、やはりその壁を突き破らなけれはだめです。またそういう人に、教えてあげることも大切です。

ところが、いくら言っても我見で信心の話を聞いていますと、自分の態度がいつまでたっても変わらない。それを綺麗な表現で言いますと「自分の価値観を捨てない」ということになるのです。折伏を行ずるということは、下種仏法は大聖人様の御教えですから、自分の価値観ではだめですよ。したがって判っても判らなくても、と言ってあげたいところですが、判らなくても判らなくても、自分の価値観はだめなのですから。そこに仏法は、できるからやる、できないからやらないと、そんな次元ではないのです。

言われた通りにやって10年、20年経って、どういう結果が出てくるのかということです。その現証で証明しなければ、他人は納得しません。その最も大きな例が一昨年、総本山大石寺で奉修した宗旨建立750年の大法要なんですよ。「南無妙法蓮華経」を唱えている日蓮門下の教団は身延をはじめイッパイあります。新興宗教まで真似して題目をやっていますが、そういうものはいつの間にか消えてなくなってしまう。ところが、大石寺は大聖人様からの御教えが、色も香りも形も変わらないまま今日まで続いて、みんな大慈大悲の恩恵を戴いて苦しみから救われているのです。亡くなった先祖も、子供たちや子孫の立てる御塔婆の追善供養によって救われていく。

謗法の故に苦しみから救われていない者は、最も身近な縁の所へ、いろいろな障(さわ)りとなって知らせてくる。それを見て私たちは、「これは死んだ人が救われていないな」と信心の上に感じなけれはだめです。そこに、御塔婆を立てて追善供養していきますと、その障りは止まります。親が、生まれてくる子が肢体不自由で、オムツのあて方が悪かったんだろうくらいに始めは思っていたが、次に生まれてくる子も同じ肢体不自由児。医者にも「何でもいいから信仰しなさい」と言われた。それが縁あって正宗の人に折伏され、信心したところ、次に生まれてきた子は健常者。このように妙法の不可思議な御利益は、凡智では判らないという一つの実例です。

これとは逆に、邪教をやっていて報いが顕れてこないわけがありません。生まれてくる子にいろいろな差別があります。身体は丈夫だけれども知恵の発達が遅れて乱暴で無慈悲な子だとか、身体障害を持って生まれてくる子、これらは三大秘法の御本尊様による以外に救われません。

そのことを大聖人様は、太田金吾さんに遣わされた御妙判の中に、「病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病む(中略)六には業が起こるが故に病む」(御書911ページ)。そして、「この業から起こってくる病は名医の耆婆(ギバ)・扁鵲でも手を拱(こまね)き口を閉ず。ただ妙経の良薬に限ってこれを治す」と仰せです。


今の社会で、程度の差こそあれ損だ得だという相手の根性に応同して、物質的利益観だけで折伏をしていこうとすると、折伏は止まってしまいます。そんな旨い話で入信してくる人は、皆無とは言いませんが、もし入ってきても「得だと言われたから入ったけど、ちっともいいことないじゃないか。もう止めた!」ということになる。それは折伏ではないからです。あくまでも大聖人様の御教えを正しく自らも行じて、他にも教え、題目を唱えさせる。そこに顕れてくる利益、現証が大事なんです。

そこに御書を引いて、「大聖人様はこうおっしゃっているよ」と言わなけれはだめです。それを言っていくと、私たちの境界はたいへん大きな功徳を戴くことができるのです。 ところが、相手の気持ちを思うと、「それはだめなんだ」と言い切れない。そのときには自分の弱い気持ちを棄て、「だめだよ」と言うことです。そうすると相手が、「そんなこと誰が言ったんだ」とか「どこに書いてあるんだ」とか聞いてきますから、「御書のここに、大聖人様がおっしゃっているよ」と。

また、利益の問題も「大聖人様はこう言われているよ」と言うことです。したがって、折伏は自分の才覚でやるものではない。大聖人様の御言葉を信じて、行ずるものです。それを相手のほうが、「これは、俺を入信させようと思っているな」と、こちらの心、我見を見抜いているときには入信は難しいでしょう。


<臆病を打ち破り先達に続け>

次に、不知恩の生活は、これはだめですね。仏祖三宝尊の恩と比べたら親の恩は小さなほうで肩は並びませんが、それでも一生の生活の上に親の恩は大事なことです。その親の恩を報じないと、努力する割に生涯報われないんです

信心していても、「もっと儲かる話を聞きたいんだ。そんな話は聞きたくないな」という人がいるかも知れませんけれども、それはだめですね。何故かというと、畜生と人間の差別の境は何で決めるのかというと、御仏の教えは恩を知るか知らないか、その恩に報いていくかいかないかで線引きされるんです。そこに、畜生の果報は、天がこれを守りません。

恩を知って恩に報いる人は、必ず有徳の人に引き上げられていきます。不知恩の者は、自分では相手をうまく利用して、うまくいったと思っているかも知れませんけれど、その一回が怨になって、「あの人はだめだ、気をつけろ」と口コミでどんどん広がり、自分が行った悪業のために、大事なときに引き上げてもらえない。そのうちに血気盛んな若い時代が過ぎ、年をとって気力体力ともに衰えて惨(みじ)めになっていく。そのように、わずか30年先に自分がどうなるかということが判らないんです。

人生の先のことが判っている人は、何とかこの人に判らせてあげたいと思って相手に通ずるように話し、世話をやきながら題目を唱えさせていく。そこに折伏の修行は、同時に自分の智慧も開いていくのです。あまり勉強が好きでなかった人が、折伏するようになってから御書を読むようになるということ。周りはびっくりしますよ。これは内面の大変化ですね。

私たちの心の中に折伏を避けて信心していきたいというのは、どの辺に原因があるかということは、判っていただけたかと思います。


頭で判っても、そこに実行できないのは、友達をなくして孤独になったらどうしようとか、そういう臆病風に吹かれるからです。そういう私たちの性根を大聖人様は見抜かれておられる。だから御書の所々で仰せられている御言葉は、欲が深く臆病で、疑い多く、教えても物を覚えないということ。それがために大聖人様の仏法を本気になって一生懸命やれないんだよと言われているのです。

それを打ち破っていくには、信心の上に先に歩いている人を見ることです。先に歩いていく人を見ていくと、自分の臆病や疑いは打ち消されていきます。これをもっと身近なところで申し上げますと、法統相続です。

法統相続は簡単なように思うかも知れませんが、親の庇護を受けている小・中学生の頃までは親の言う通りに信心していても、やがて高校や大学に行く時分になると、親の言うことより社会のはうに目が向いてしまう。

しかし、子供は子供なりに、どちらを取るかということを決めなけれはならない時がきますが、それが20代前半頃です。いよいよ親の所から巣立って、社会に出て一世張っていかなけれはならない岐路に立つとき、一番に感ずるのが不安と怖れです。その中で何が大きな道標(みちしるべ)になるかというと、親の歩いた道です。

子から見ていると、父親は自分と比べたら学問もなく教養もない。しかし、ただ大御本尊様を一途に信じて壮年時代・晩年と、退転の心は微塵もなく励んできた姿をいつも目にしている。それ故、不安にかられて進路を間違ってはいけない、という頃には、親の歩いてきた信心の道が、子供にとって決定的な判断基準になるのです。これがありませんと、子供は世間一般の謗法のほうへ行ってしまいます。その判断を誤らせないというところに、親の信心の功徳があるのです。

ご自分で「自分の考えが間違っていたということが、よく判った」ということになったら、『大白法』新年号の御法主上人猊下の御指南が、さらによく判ってくると思います。

御指南のなかに「我」ということを仰せです。この我は、みんな自分のことを言われているのではないと思っているんです。相手の我はよく判るけれど、自分も相手以上に我を持っている。それを振り返って見るだけの目が開いてくるのは御本尊様を拝んでいる功徳ですが、そうすると、その我の元はどこにあるのかというところに目が向いて、法界の姿がよく判ってきます。それを仏様は諸法の実相、法界の実の姿は十界互具だよと。十界互具、十如実相、そこから一念に三千が具すと仰せられています。そこに、無始の昔から今日まで命が続いていることが判ってきます。

我を貫いて他人と対立し、闘争して他人を傷つけ自分も傷つき、そういうことをくぐってくる中で、今回、人界に生まれてきた時には過去世のことを綺麗さっぱり忘れていたけれども、妙法の光に照らされて、自分自身の我が何となく判るような感じがしてくる。ここまで感じられれば大したものです。この人は、次からは事にぶつかると一歩下がって判断するようになる。

そうでない時には、先手必勝のような考えでガンガンやる。やってしまってから、うまくいかなくて、「あいつが悪いんだ」と。では、そのやったことの決判はどうつくのかと言うと、やがて1年経ち2年経ち、3年経ってくると、因果応報ですから一方はどんどん前進していくが、先手必勝で我を通したはうは芽が出ない。それで一歩踏みとどまり「信心を励め」と言われて素直に励んでいければ蘇生できる道が拓(ひら)けますが、そうでない人は、夜が明けれは常に相手を憎み続けて、そのうち鏡を見るのが嫌になるはど人相が悪くなる。御題目を唱えていれば、それではいけない、忘れようと思いますね。するとまた悪縁が出てきてこれに火をつけ、またカッカッとなる。そして何十年と経ってしまう。

それを見ている子供は、「ああいうのは嫌だ。信心なんてしないよ」と言い出す。今度は、信心をしない子を見て驚いて、どうしてだろうとなってしまう。こういうことを何年、何十年と積み重ねてきた自分の業因の結果です。

そのことを大聖人様は、「季節の移り変わりの中で、寒熱等が目には見えないけれども人畜草木を苦しめる」との譬えを引いて『松野殿御返事』にお示しくださっているんです。凡夫だから目に見えることはよく判るけれども、目に見えない形のことは判らない。そういう凡夫に判らせてくださるところに、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えなさいと、御仏の大慈大悲があるんです。


<「家族で3世帯」の誓願を決心して励む>

最後に、要するに折伏は、何が原因でできないんでしょうということについて、締め((くく)っていきたいと思います。

これは、やる気がないからです。

何と言ったってやらないぞと決めている人に口角泡を飛ばして話しても、やりません。では、どうしたらやるようになるのかというと「その料簡(りょうけん)は必ず罰が当たる居よ」と一つ釘を打っておけばいい。気負い立って「罰があたるぞっ!」と言うのはだめですよ、これは慈悲ではない。そうでなくて、母親が出来の悪い子供を諭すように何遍も何遍も諭していく間に、さっき言った不知恩の罰が出てくるんです。

下種仏法というのは常に貪瞋癡の三毒強盛な衆生が相手ですから、諭していくんですが、なかなか思うようにいかない。「慈悲で包む」なんて綺麗な言葉だけど、そんなことは、ほとんどの人はできません。それでも慈悲の上に諭していく。これは、時間を未来に預けておくということです。3年の間には、ちゃんと納得するような現象が現れてきます。

そういうことから、この1年間、『大白法』の新年の挨拶で「それぞれの家庭が3世帯を誓願目標にしてがんばっていこう」と書いておきました。すると、「できない」と言う人がいるかもしれないけれども、「そういうことを言う人の宿業は、物を深く考えられない業なんだ」ということも書きました。

「よし、一年かかって三世帯をやろう」と決心しますと、やはり身近な兄弟とか、甥や姪、あるいはおじさん、おばさんという親戚関係が出てきます。ところが「今までそういう人たちに話してきたけれど、信心の話には耳を貸さないからだめなんだ」という人もいるでしょう。それは自分も深く反省しなけれはだめです。身近な人は、こちらの欠点をよく知っているんです。法の立派なのを楯(たて)にとって、自分が偉くなったようなつもりで、目上も目下も見境なく見下して「謗法だ」とけちょんけちょんに言ってきていなかったかということ。これは「私が悪かった」と深く懺悔しなければだめです。そして「おばさん、昔は私も莫迦だったから、法が立派なのを自分が立派なような気になっちゃって、きついことをずけずけと言ってきたけど、間違ってました。今は深く反省しています」と言うことです。向こうはこちらの態度を見ています。何も邪教に義理があるわけじゃないんだから、納得すれは「判ったよ」と、1年の間には答えが出てきます。言葉や態度を変えて言えば、この1年間、自分だけでなくて家族全体の態度が変わる。そのことを来年も、再来年もと5年間やっていって誓願を3世帯ずつしていけば5年で15です。そういう家庭が講中を形成しているんですから、その講中は「倍増乃至それ以上」に必ずなります。

そういうことを申し上げますと、「そんなうまい具合にいきますかね」という人がいるかも知れませんけれど、そのこともちゃんと判っています。

私は若い頃、御講に見える方が、支部の全世帯のどのくらいの割合かということを分析したことがあります。1千世帯の頃には、御講の出席は250人くらい。この250は世帯ではなく人数で、一家には夫婦もいれば子供もいるので、世帯数を出すため250人を3で割ると、約80世帯です。1千世帯に対して8%ですね。

あとの920世帯はどうするのかということですが、この8%が動けばだんだんと動いてきます。8%の人たちが本気になって、この1年、3世帯の誓願を立てて折伏に励んで、2世帯しかできないかも知れないけれど、翌年にはそれが増えていくよということです。

その姿を、隣近所を含めて、みんなが見ていますから、家の中ががらりと変わってきます。そうすると、今、世間は子供の教育の問題でみんなが深刻に考えていますから、折伏が時を得てスムースにいくよということです。

皆さんには、この道理をよくわきまえていただいて、無茶苦茶なことを言っているわけではありませんので、みんなで今年の進路をはっきり決めて進んでください。

ただし、組織が折伏をしてくれると思ってはだめです。自分が「やるぞ」と決断するんです。「やるぞ」ということは、何が来ようとも一歩も引かないぞということです。そこに、大石寺は750年の功徳が集まった所ですから、魔がいかに騒ごうとも、この功徳を奪い取ることはできません。私はそのことを訴えて、今年は皆で頑張ってまいりましょうと申し上げたいわけであります。必ず実現いたしますよ!



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