大白法

平成16年5月1日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜10面>


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布教講演 『久遠本地の御開顕と広布の大光明』
全国布教師・尾林日至御尊能化


 平成16年度の総本山における御霊宝虫払大法会が、第67世御法主日顕上人猊下の大導師のもとに厳粛かつ盛大裡に奉修され、まことにおめでとうございます。本日午後の御開扉に引き続いて、先刻は御法主日顕上人猊下の御書講を賜り、参詣の日蓮正宗の僧俗一同、御本尊義に関する甚深の御説法を頂戴いたしまして、皆様方にはいまだに感激冷めやらぬものがおありのことと存じます。

 特に、本年のこの大法要には国内の法華講の代表信徒と共に、海外21カ国より660余名の海外信徒も、はるばると世界の各地から参詣させていただいております。従来、海外信徒が御霊宝虫払大法会に参詣させていただける枠は600名でありましたが、今年からは何とか650名に増やしていただけるようお願いをいたしまして、お許しをいただいた次第でありますが、それでも制限せざるを得ないほどに希望者が多いのです。どうか、国内の法華講の皆様も海外の御信徒も、その代表として登山されているのですから、今回の御霊宝虫払大法会を通して実感した日蓮正宗の正しさと、宗旨建立以来750年の伝統に基づく荘厳な儀式と信仰の一切を、家族や国の内外の人々に伝えていただき、さらなる各国の広宣流布の進展と、一切衆生救済の活動につなげていっていただきたいと存じます。

 今日の池田創価学会が、どんなに大きな組織を誇り、数を誇り、財力を誇っても、三大秘法の実体実義も歴史もない創価学会やSGIにおいては、御霊宝虫払大法会を奉修することはできません。末法下種の三宝のない創価学会にあっては、その御報恩の御会式を奉修する資格もありません。三宝に背反し、血脈付法の御法主上人猊下に誹謗悪口の限りを尽くし、日蓮正宗の信仰を失った退転者の堕ちていくところは、既に阿鼻地獄と決定いたしております。法華経『譬喩品』に、「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん(中略)其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経175ページ)と説かれる通りであります。

桜

久遠元初の本地の開顕と人法一箇の御本尊の確立

 さて、本席の布教講演に当たり、私は「久遠本地の御開顕と広布の大光明」と題しまして少々お話をさせていただきたいと存じます。

 日蓮大聖人の建長5(1253)年4月の宗旨の御建立より弘安5(1282)年10月の御入滅に至る御一代の御化導の中にあって、弘教上の最も大事な特筆すべき御事は何と申しましても『立正安国論』による北条時頼への諌暁(かんぎょう)であり、平左衛門尉頼綱に対する重ねての諌言であります。日蓮大聖人は『顕仏未来記』に、「幸ひなるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことよ、悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍(つか)へ奉らんことよ。願はくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(御書678ページ)等々と仰せあそばされています。何という雄渾(ゆうこん)な気魂(きはく)に満ちた御言葉ではありませんか。末法万年にわたる広宣流布の先頭に立って、先駆けあそばされる閻浮提第一の法華経の行者にして、初めて説き出される壮大な死身弘法の大宣言であります。

 この、たとえ国主たりとも人を恐れず世を憚(はばか)らず、謗国を救われんとされて国主を諌暁あそばされ、しかも三類の強敵をことごとく打ち破られたことにより、鎌倉松葉ケ谷の草庵の夜襲、伊豆の伊東への御配流、さらには小松原の襲撃、竜の口の頸の座、そしてそれに続く佐渡への御配流などの大難が日蓮大聖人の御身の上に次々と振りかかり、襲いかかってきたことは、皆様には既に御存知のことと存じます。しかし、日蓮大聖人はそうした大難に次ぐ大難の御生涯の中にあって、末法の主師親三徳兼備の御本仏に在(ましま)すことを開顕あそばされると共に、かねてからの御本懐である三大秘法の大法と末法下種の三宝を、末法の一切衆生救済のために厳然と確立あそばされたのであります。同時に、日蓮大聖人は御自身の御身の上における久遠元初の仏の御本地を明かされ、三世十方の一切の仏と一切衆生の即身成仏の大道と、一切の功徳の源泉を明らかに説き示されたのであります。

 日蓮大聖人は『三世諸仏総勘文抄』に、「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同1419ページ)と御教示され、御自身の名字凡身の御身の上における即座開悟、凡夫即極の御本仏の御境界をお示しになっておられます。また『百六箇抄』には、「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞ひに介爾(けに)計(ばか)りも違はざるなり」(同1695ページ)「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり」(同1696ページ)等々と御教示なされています。

 このことは何を意味しているかと申しますと、三大秘法の大法も末法下種の三宝も、共に末法の御本仏たる日蓮大聖人によって、末法万年の衆生の成仏と救済のために建立せられたものではありますが、その源を尋ぬれば、久遠元初の御本仏の即座開悟、直達正観の本源を極められた大法であり、久遠元初の本地より末法万年の尽未来際に至る本有常住にして永劫に尽きない永遠の如来の本寿命を持った大法であるということを、明らかにせられているのであります。

 したがって、日蓮大聖人の建立せられた三大秘法も末法下種の三宝も、実は久遠元初の三大秘法であり、久遠元初の三宝に他なりません。総本山第26世日寛上人が『当流行事抄』に、「運(うん)末法に居すと雖も宗は久遠に立つ」(六巻抄199ページ)と仰せられる所以であります。このように、日蓮大聖人によって久遠元初の本地の御開顕がなされ、久遠元初の人法一箇の御本尊が確立されて、初めて真の三世十方の仏と一切の人々の即身成仏の大道が明示され、確立され、久遠以来の一切の罪障を消滅させることもできるに至ったのであります。浮き草のごとき儚(はかな)い無常の仏や、実際の出現もなく教導もない諸宗諸教の権仏が、久遠元初以来の一切の人々を成仏させる等ということはできようはずもありません。


未来への光明と人類救済の方途

 次に、現世の人々のみならず未来永劫の人々を救う未来の光明に眼を転ずるならば、日蓮大聖人は『法華取要抄』の一番最後に、「上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」(御書738ページ)と予証されています。つまり、遠く久遠元初の本源を見通し究められた御本仏様のみが閻浮提第一の聖人として、一閻浮提第一の智者として遠く万年の未来を見通し、広宣流布を断言宣示あそばすことができると拝するべきであります。

 『報恩抄』には、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」(同1036ページ)と仰せられ、日蓮大聖人の三大秘法の大法は末法万年尽未来際にわたって流れ通い、弘め伝えられ、万年の衆生を無間地獄の大苦から救い続けられることを、御仏智の上から御教示あそばされているのであります。現下の日本から全世界の平和のために、全人類のために発信し、貢献できるものは、もはや日蓮大聖人の大正法以外にはありません。日蓮大聖人は、末法濁世(じょくせ)の今日の実相がどんなに人心を荒廃させ、邪義・悪法・悪知識が人間を狂わせ、社会を混乱させ、環境を破壊し、国土を濁乱させていようとも、我らの持つべき未来への光明と人類救済の方途を厳然とお示しくださっているのであります。

 現にイスラム教圏の国々にも、キリスト教徒やヒンズー教の長い歴史の中で生き、歩み続けてきた国々にも、小乗仏教を国教としているような国々にも、日蓮大聖人の正法に渇仰(かつごう)帰依する人々が増え、心の改革を願い、実践する人々も多くなってまいりました。世界広布の時代が着に来ていることを実感できる事実が現れて来ています。唱題が地球上のあらゆる国土で、島々でこだまする時代ともなってまいりました。御法主上人猊下の御指南をインターネットを通じて、毎月全世界に伝えることのできる時代となりました。この時に当たり、日蓮大聖人は私たちの実践の心がけとして『御義口伝』に、「今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得べきなり」(同1762ページ)と御教示されています。

桜

 世間の人々の考えに基づけば、日蓮大聖人の教えが本当に一閻浮提第一の正法ならば、もっと早く世間の人々に受け入れられ、理解されるはずではないのか。本当に立派な教えならば、勤行や唱題をしなくとも、御本尊を御安置してあるだけでも、眠っていても、怠けていても、どんどんと功徳が顕れ、世の中の不幸がなくなるのではないかと考えます。しかし、よく考えてみてください。日蓮大聖人の教えは、そんな因果の道理を無視した夢物語を信じ、怠け者を作るのが目的ではございません。一人ひとりの人間の発心によって人間を改革向上させ、いかなる障魔にも動じない不退転の広布の人材を育成し、社会を変革し、国土を浄化して、一切の人々を幸せにし、ていくのが私たちの信仰の目的であります。

 そのためには、昔の人の諺に、「艱難汝を玉にす」とありますように、実は多くの艱難が人を立派な人物に成長させ、艱難の中に身を投じて自らを鍛えてこそ完(まった)き人となることができるのであります。日蓮大聖人は『種々御振舞御書』に、「今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうど(方人)よりも強敵が人をばよくなしけるなり。・・・日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(御書1063ページ)とさえ仰せになっておられます。日蓮大聖人が末法の仏と成り得た最大の善知識は東条景信であり、極楽寺良観であり、建長寺の道隆であり、平左衛門尉や北条時宗であったと述懐しておられるのです。世間の人は順境を望み、順境を喜んで迎え、逆境を嫌いますが、私たちは順境はかえって自分を害し、逆境こそが自己を助け、人を作るものだということを知らねばなりません。逆境を順境に変え、災いを転じて幸いとなさんとして発心し、努力し、精進するところに日蓮大聖人の弟子信徒として生きる者の幸せがあり、誇りがあると確信して止みません。

 病に勝ち蘇生の功徳を得るためには、病に立ち向かわねばなりません。不幸や災いを幸いへと転換するためには、不幸や災いと闘わねばなりません。生苦の先に生命の誕生と生命の充実成長の喜びがあり、老いの境涯の中に一生を通して生き抜いた者の幸せがあり、死はまた新しい命への安らぎであり旅立ちであって、日蓮大聖人の信仰を通して迎える生老病死の四苦は、決して辛い苦しみと悲しみの中での四苦ではなく、赤子から幼年、少年、青年、壮年、老年へと成長し、自己の一生の尊い一つの課程を示すものであって、人生の四季にも譬えることができるでしょう。

 先日、元京都大学の総長を6年にわたって勤められ、世界的な運動神経と神経解剖学の権威であった平沢興先生の『生きよう今日も喜んで』という書物を読んでおりましたところ、先生は生老病死の四苦について、「私は生老病死と四苦と考えず、四喜とみているのである。一年に四季がある如く、生があり、老があり、病があり、死があるということは面白くそこに喜びがあると思っている」と結論づけておられるのであります。私たちには、さらに四苦の上に功徳の花が咲き、四苦を乗り越えた命の輝きがあり、仏界の命の感動があるということを知って生老病死の四苦に立ち向かい、四苦に打ち勝っていただきたいと存じます。

 さあ、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」をめざして、御法主日顕上人猊下の御指南の通り、一年一年共々に「一人が一人の折伏」をめざして立ち上がってまいりましょう。破邪顕正の本年は、なおさらのことです。全法華講支部の皆様の折伏弘通の達成はもとより、全世界の正法広布の進展をお祈り申し上げ、私の拙い講話の結びと致します。



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