大白法

平成16年8月1日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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体験発表


○ 『慈悲の仏法に巡り合い堅気の生活に』 仏見寺支部・黒川竜一

 私は日蓮正宗に入信して、今年で12年目になります。今から25〜6年前に母が創価学会の方の縁で入信し、その頃、私も何度となく折伏されていたのですが、その都度反発して口論になり、入信しませんでした。しかし、家には御本尊様が御安置されておりましたので、母が留守の時、題目三唱だけすることが何度もありました。

 暴走族のリーダーをしていた17歳の時にバイクで事故を起こし、後ろに乗せていた女性が亡くなりました。私自身も空中を7〜8メートル飛ばされましたが、腰の骨が2カ所折れた程度で済みました。その後は、亡くなった女性のことを思って御題目だけは何度も唱えておりましたが、やはり信心することはできませんでした。

 そのうちに自然と、俗に言う極道の道に進んでその世界に染まっていき、早くその世界で上に登って出世してやろうと一生懸命、命を張ってがんばっておりました。23歳で家内と知り合って結婚いたしました。知り合った直後に、家内は日蓮正宗に入信して法華講員になりましたが、それでもまだ、私は入信できませんでした。

 結婚から3年が過ぎた頃、可愛い娘が誕生しました。生まれて間もない娘に御授戒を受けさせて家内が熱心に信心しているのに、私はというと、身体に彫り物まで入れ、若頭という立場になって一つの組を名乗るようになりました。あとはこのまま登っていくだけというとき、1歳の誕生日を過ぎた娘がウイルス性脳炎という病気になり、意識不明の重体になりました。無菌室に入っての治療となり、家内と交代で心電図を見ながらの入院生活が続きました。

 そんなある日、娘の腕を見ると、なんと3倍くらいに腫れあがっていたのです。点滴の針がずれて、小さな腕に液が漏れていたのでした。あんなに腫れあがっていたのに、泣くことも声を出すこともできない程に重体である現実を知り、私も家内も涙が止まりませんでした。そして容態が急変して北海道大学病院に移されました。

 その翌日、上山芳子さんが家内の代理で仏見寺まで御秘符をいただきに行ってくださいました。御秘符を戴いてからの娘はどんどん調子がよくなり、ウイルス性脳炎では異例の早さで退院できました。退院後も痙攣(けいれん)止めの薬を、3年間毎日欠かさず飲ませ続け、その後のことについて「薬は一応終わったけれど、20歳になるまでは100%大丈夫ではありません。学校の入学時等、節目ごとに、知恵遅れになる可能性もある」と医師に言われました。

 我が子の病気を縁に入信する機会は何度もあったのに出来ずにいた私ですが、娘の病気が縁で平成5年、御授戒を受けさせていただきました。しかし、私のような者がお寺に出入りして迷惑をかけてはいけないと思い、お寺へは家内と娘の送り迎えと、御講参詣程度にしておりました。

 私は融資の商売をしていたのですが、信心をして3年目に、大きく貸し付けをしていた3社に次々と逃げられ、回収不可能という事態になりました。生活を立て直そうと1年くらいがんばりましたが、妙に極道の世界に嫌気がさして、足を洗うことにいたしました。

 後になって家内から、御尊師の御指導を受けながら唱題を重ね、「主人の今の生き方を改めて堅気にならせてください」と御祈念申し上げていたと聞かされました。それからはお寺へ参詣させていただく回数も多くなりましたが、何も判らない状態で、自分が信じていればそれでよいだろうと思っておりました。しかし、御法話を拝聴し、御指導をいただき、諸先輩方の話を聞いているうちに、どうして折伏をしなくてはならないのか、折伏をすると何がどうなるのかということが少しずつ判るようになってきたのです。

 自分には折伏などできるわけがないと思っておりましたが、法華経の『法師品第十』に、「一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知る可し、是の人は則ち如来の使(つかい)なり。如来の所遣として、如来の事を行ずるなり」(法華経321ページ)とあるように、折伏は仏様の使いとしての貴い行為で、その功徳も広大であると言えます。大聖人様の教えはすべて慈悲の仏法です。そのことを判らせていただけたことが何よりの功徳です。

 私の母は、私が二十歳を過ぎた頃に行方が判らなくなってしまいました。母から15年遅れて私も信心することができ、いろいろ体験して確信を持つようになった頃、家内の協力もあって、母を捜そうという気持ちになりました。

 なかなかみつからずにおりましたが、平成12年12月に再度捜したとき、千葉県に居たことが判りました。しかし、「平成11年8月9日死亡」と役所の書類に記載されておりました。にわかには信じられませんでした。

 その家に電話をかけると、母と暮らしていた人が出て、母が亡くなっていたことを知らされました。率直に、葬儀は学会葬だったのかと尋ねますと、平成2年に脱会し、日蓮正宗信徒として葬儀を執り行ったとのことでした。亡くなったことは残念でしたが、それを聞いて安心いたしました。

 その後、母の菩提寺だった千葉県富津市の本乗寺に参詣し、お墓参りをして、分骨もしていただき、お骨は仏見寺の納骨堂に納骨をお願いいたしました。父も母の死を知ってとても悲しみました。この父はなかなか入信しなかったのですが、母のこともあってか平成13年の元旦に御授戒を受け、11月に御本尊様を御下付いただきました。父の入信は、母の最後の折伏だったのだろうと思います。

 その父が熱心に折伏を始め、私たち夫婦と妹も応援して、ついに父は折伏を成就いたしました。母の亡くなったことで、たくさんの体験をさせていただきました。また、宮城県にいる家内の母を折伏し、母は平成14年1月に御本尊様を御下付いただきました。昨年の冬には2世帯の折伏をさせていただき、春には一番下の弟が結婚をして、夫婦そろって御本尊様をお迎えしました。

 入信以前は、他人の幸せを考えることなどなく、自分と家族のことしか考えられなかったのに、御尊師の御指導のお陰で、当たり前のことがきちんと判るようになってきました。その人のために「折伏をしたい」と強く願うことで、折伏ができたのです。

 私はかつて、特別に仕事を持たなくても生活には十分事足りました。殺人・強盗・強姦以外のほ上んど、普通の人の何十倍もの悪事をしてきたのです。そこはいつも地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の世界でした。その私が信心できたのは、家内と娘のおかげです。命を懸けて信心を教えてくれた娘は、今でも何年かに一度脳波検査に行かなければなりませんが、普通に中学校に通っております。生活も守られ、建築関係の仕事も順調にいっております。信心をしてお寺に参詣させていただき、手続の師匠である御尊師のお姿や御指導により、人や物に対する見方・考え方、価値観がすっかり変わったことを実感できます。

 これからも大聖人様の、「今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをも(思)へども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」(御書1206ページ)との御金言のまま、懈怠なく魔に負けない強盛な信心を貫き通し、縁ある人に正法を正しく伝え、一人でも多くの人が御本尊様に帰依できますよう、御尊師の御指導を忠実に守り、下種・折伏に精進することをお誓いいたします。


○ 『正信会僧侶の愚挙に目覚める』 深妙寺支部・塚田国雄

 私は昭和36年3月、26歳の時に御授戒を受け、日蓮正宗信徒として、また創価学会員として夫婦共々まじめに信心に励んでまいりました。そして昭和40年3月、独立起業が叶い、小さいながらも鉄鋼関連の会社を経営するようになりました。高度成長と重なって順調に業績を伸ばし、会社の規模を拡大するなかで、昭和50年4月、40歳のときに公明党より室蘭市議会議員に初当選をいたしました。

 表面は華やかなバラ色に包まれた議員生活を送り、夢中で活動をしておりました。そうしたなか創価学会の52年路線問題が表面化し始め、御本尊模刻をはじめとする数々の謗法が明らかとなり、私は深刻に悩みました。そのような時に、突然親会社が倒産し、千数百万円の不渡り手形を抱えて極端な経営不振に苦しむようになり、頼りにしていた従業員も次々と辞めていきました。

 「夫、運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従もしたがはず」(御書1407ページ)との御金言のとおりどん底に堕ちて、呆然とするなかで、初めて謗法の恐ろしさを身をもって知ることになりました。

 昭和62年の春、私は日蓮大聖人の仏法を純粋に信心するべく脱会し、市会議員も3期で辞めました。友人の勧めで、正信覚醒運動を展開していた、長万部にある正信会寺院・説道寺の講中に入りました。

 その後、正信会の寺院行事、全国大会への参加、本堂の改築修理、庫裡の新築、仏前の改装、トイレの水洗化等、ただひとえに正信覚醒運動を進めるためと、精一杯がんばりました。しかし、宗門を離れ血脈嗣法の御法主上人猊下の御指南を受け付けなくなった正信会ですから、すでに統率力を失いつつありました。

 数年前より、全道十カ寺が檀徒の奪い合いを始めるなど、総本山に弓を引くという信心の根本的狂いからくる結末は、ただ寺の経営と住職の生活安定のみが優先されるような指導が目立つようになり、それがだんだんエスカレートしていったのです。

 忘れもしない平成12年のことです。2月に本堂の畳が傷んでおり、座るとズボンや靴下に藁屑(わらくず)がつくのが忍びなく、40数畳の畳を個人で御供養いたしました。真新しい青畳の上で喜ぶ講の皆さんの姿に、本当によかったと思いました。

 ところが、それからふた月もしない4月初めの支部総会のとき、まだ新しい畳の上に刃物で切ったような傷が所々ついているのに気づきました。皆さんに聞いても原因が判らず、中学生になる住職の息子に聞くと、飼い犬のラブラドールレトリバーという大型犬を、住職が本堂にときどき放して遊ばせているというのです。畳の傷は犬の爪で引っ掻いたものでした。

 私はすぐさま住職に抗議しましたが、「信者に指図される筋合いのものではない」との言葉が返ってきました。その他、たびたび信者の所に寄ってお金を借りたり、目に余る行動が増え、それに抗議する声に耳を貸さず、逆にその信者を排除するような動きをするようになりました。私に対しても、そのような「正信」の名にもとる在り方を抗議したのに対し、逆に恫喝するなど、僧侶にあるまじき振る舞いに、その正体を見た思いがいたし、急激に覚めた気持ちになりました。

 そんなとき、かつて説道寺の講頭をしていた秋元氏のご子息で総本山塔中の本住坊御住職・秋元意道御尊師より、いろいろお話をうかがう機会がありました。それまで正信会側の偏った指導と情報だけを信じてきた根本的な誤りを御指導いただき、平成14年12月23日、秋元氏夫妻共々、家内と正信会説道寺を離檀いたしました。

 明けて昨年1月、深妙寺の新年初御講のとき、私共夫婦・息子夫婦・娘と孫、合わせて8名で勧誡式を受けることができました。深妙寺の御宝前で、御講に参加された皆様を前に、改めて謗法の罪を深く反省懺悔し初心に立ち返って信心修行に励んでいくことを強く誓いました。

 そのとき息子に、「親父、今度こそ間違いないだろうな、大丈夫だろうな」と言われた言葉が今も耳に残っております。それからすぐ、説道寺に残っている方々への折伏を始めました。説道寺住職の強い抵抗に遭いましたが、今までに7世帯の方に勧誡を受けていただくことができました。

 仕事の方ですが、鉄鋼関係の会社は5年前に撤退いたしました。17年前から、室蘭を代表する観光地の地球岬で家内と食堂を兼ねた土産物屋を開いております。7坪の小さな店ですが、冬季の4カ月間を休んで夏を中心とした8力月の営業で約2千万の売り上げがあり、御本尊様に守られて毎日楽しく働いております。

 昨年11月、支部総登山に一家8人で参加させていただきました。感激のうちに三門をくぐり、すばらしい奉安堂で御開扉を受けました。正信会にいた15年間、夢にまで見た大御本尊様への御目通りでは、永年の自分の愚かさを悔い、心の底から込み上げる懐かしさと身の震える感動を覚えました。また、丑寅勤行に親子三代並んで参加して、御法主上人猊下大導師のもと勤行・唱題し、広宣流布の御祈念にお供できた意義を考えたとき、今後の使命を強く自覚できました。

 今年は、正月からお寺の唱題会に毎回参加して、未だに正信会にいる人や創価学会員の所ヘ折伏に行っております。なかなか昔のような成果にはなりませんが、2月18日に創価学会の方を1世帯折伏できました。また3月7日には、2世帯目の折伏ができました。

 今後とも、本当の仏様の使いにふさわしい信心修行をめざし、『一生成仏抄』の、「深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(同46ページ)との御金言を身に体して、御住職の御指導をしっかりと心に刻み、残された人生を力一杯、楽しみながら励んでまいります。



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