大白法

平成16年11月1日号


主な記事

<1〜3面>

<5〜8面>


back      index      next



御書解説 『安国論御勘由来』
(新編367ページ)


<御述作の由来>

本抄は、文永5(1268)年4月5日、日蓮大聖人様が47歳の御時、鎌倉で認(したため)められ、法鑑房に与えられたものです。御真蹟は漢文体で、中山法華経寺に現存しています。

対告衆の法鑑房の詳細は不明です。一説には、平左衛門尉頼綱の父・盛時であると言われますが、また一説には「房」の名称が付されていることから、在俗の入道・禅門ではなく、元来、出家僧であったとも言われます。ただ本抄に、「復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし」とあり、「禅門」すなわち宿屋左衛門入道光則との対面について触れられていることから、宿屋光則と近い間柄であり、また幕府に対しても相応の影響力を持った人物であったことがうかがわれます。

大聖人様は、文応元(1260)年7月16日、『立正安国論』を前執権・北条時頼に奏呈し、三災七難が競い起こる原因は、邪教の蔓延にあること、そして謗法を対治して法華一仏乗の正法を立てなければ、さらに自界叛逆・他国侵逼の二難が起こると予証されました。それから足かけ9年後の文永5年閏(うるう)1月18日、蒙古国より牒状が鎌倉に到来し、『立正安国論』で予証された他国侵逼難が現実のものとなったのです。

本抄は、こうした背景のもと、『立正安国論』御著述の縁由と予証の的中、そして蒙古調伏の方途を知るのは、ただ大聖人様のみであることを明かされたものです。


<本抄の大意>

はじめに、正嘉元(1257)年より正元2(1260)年に至る数々の災難により、万民の大半が死に至った事実を挙げられ、次いで幕府が既成の寺社に命じた種々の祈祷には一分の効験もなく、かえって飢饉・疫病を増長させたことが示されます。そして大聖人様が、一切の経証に照らして勘案したところ、その道理・文証を得て『立正安国論』を著(あらわ)してこれを奏呈し、国土の恩を報ぜんとされたことが述べられます。

次に「勘文の意」が明かされます。欽明天皇の代に百済(くだら)より仏法が伝来してから260余年、伝教大師が、比叡山に延暦寺を建立すると、桓武天皇は天子本命の道場と定め、都を平安京(現京都市)に遷したこと、さらに高雄寺における伝教大師と南都六宗の碩学との公場対決で正邪が決してより、代々の天皇は比叡山に帰依するに至ったことが示されます。次いで、建仁年中に法然・大日の誑惑により万民が念仏・禅に堕ち、比叡山への帰依が希薄となったこと、そのため諸大善神は法味を得られず天上界へ去ってしまい、悪鬼が盛んに災難を起こしていると示されます。そして、これら濁乱の様相は他国侵逼難の先相であると、『立正安国論』で予証したことが明かされます。

そして『立正安国論』の奏呈以後も、大彗星の凶瑞があり、9カ年を経て蒙古より牒状が到来したことは、まさに予証の的中であると示されます。こうして、予証の的中を述ベることは自讃のようであるが、国土が破れたら仏法も滅びることになるため、あえて諌言すると述べられます。

さらに、当世の謗法の高僧たちが、勅宣・御教書を下されて祈請に当たれば、仏神は重ねて嗔恚(しんに)をなし、国土を破壊することは疑いないと示されると共に、蒙古を対治し調伏すべき方途を知るのは、大聖人様ただ一人であると宣言されます。最後に、宿屋入道には対面して告げたので、法鑑房にも書面で告げることを示し、この諌言を用いなければ、定めて国家に後悔があると念告して結ばれます。


<『立正安国論』御述作の縁由>

『立正安国論』の冒頭に、「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」(御書234ページ)との有名な御文が拝されます。この「近年より近日に至る」とは、正嘉元年から正元2年に至る期間であり、その間に競い起こった災難の数々と、苦渋に喘ぐ万民の姿が、本抄からも知られます。特に正嘉元年8月の鎌倉大地震は、鎌倉の寺社・家屋が一宇(いちう)も残らず倒壊したという、まさに前代に類を見ないものでした。また同2年8月の大風雨は、諸国の田園を損亡し、同3年早々からの大飢謹は、翌年まで続く大疫病を伴いました。これらの災難は、万民を塗炭(とたん)の苦に追いやり、その大半を死に至らせるものだったのです。こうした状況に、幕府は、諸宗の寺社に命じ、種々の祈祷をさせました。しかし、一分の効験もないどころか、かえって飢饉・疫病を増長させる結果となったのです。

大聖人様は、世の災害や混乱を目の当たりにし、経証に照らしてその原因を究明されました。そして、邪教の跋扈(ばっこ)、謗法の蔓延こそ諸悪の元凶であり、ために諸天善神を天上に去らせ、悪鬼魔神に便りを与えて様々な天災・人災を引き起こしたのであり、このまま邪教謗法の蔓延を許せば、必ず自界叛逆・他国侵逼の二難を招く、との結論に至ったのです。

大聖人様のこの確信は、さらに破邪顕正・国恩報謝の念と相まって、競い起こる災難の由来を知らずに邪教を容認する、国主への諌暁書『立正安国論』として著されたのです。「終(つい)に止むこと無く勘文一通を造り作し、其の名を立正安国論と号す」との一節は、まさにその意を示すものです。


<予証の的中は聖人としての証>

『立正安国論』の奏呈から足かけ9年を経た文永5年、蒙古の牒状が到来したことにより、他国侵逼難は現実の問題となりました。当時の蒙古は向かうところ敵なく、洋の東西に君臨する史上最大の強大国であったので、朝廷も幕府も茫然とし、色を失いました。大聖人様は、蒙古の侵攻が現実に迫ることを推知し、同年4月5日、本抄を著して法鑑房へ送られたのです。

当抄における、「而るに勘文を捧げて已後九箇年を経て、今年後正月大蒙古国の国書を見る。日蓮が勘文に相叶ふこと宛(あたか)も符契(ふけい)の如し」との一文は、まさに『立正安国論』の予証が的中したことを物語っています。

大聖人様は、予証の的中について本抄で、「自讃に似たりと雖(いえど)も」と仰せですが、半年後の『北条時宗への御状』では、「日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌(みぼう)を知るが故なり」(御書371ページ)と仰せられ、後年の『種々御振舞御書』では、「此の書(『立正安国論』)は白楽天が楽府(がふ)にも越へ、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議なに事かこれにすぎん」(同1055ページ)と仰せです。すなわち予証の的中は、末法の凡夫僧として御出現された大聖人様が兼知未萌の聖人であり、その諸説は「仏の未来記」にも相当することの開示となったのです。このことは、未だ佐渡以前の鎌倉期の御化導にあっても、外用上行の再誕として、また内証は久遠元初の御本仏として、その御境界を発露されたものと、尊く拝すべきです。


<破邪顕正と一国救済のお振る舞い>

大聖人様は本抄において、『立正安国論』の奏呈以後も大彗星の凶瑞が現れたこと、そして蒙古の牒状が到来したことは、まさに予証の的中であると述べられると共に、権教邪宗の高僧による祈祷は、かえって仏神の嗔恚を買い、必ず国土崩壊に至ると断じられました。そして、直面する蒙古の侵攻を前に、「日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり」と、蒙古を対治調伏する方途を知るのは大聖人様お一人であると宣言し、これを用いなければ国家に後悔があろうと、一国救済の上から力強く破邪顕正の諌言をされたのです。

なお、文中に「叡山を除きて」と天台宗を擁護されるのは、未だ弘通の初めであり、権実相対の上から、念仏・禅ヘの破折を表面に立てられたためです。ともあれ、こうした破邪顕正の御精神は、大聖人様の御化導に一貫して拝されるところであり、それは立宗以来750余年を経た今日も、何ら変わることのない、本宗僧俗の信条となっているのです。


<結び>

本抄に示された様々な災難は、決して過去のものではありません。平成2年の雲仙の噴火以降、阪神大震災、奥尻島、三宅島等、災難が連続し、本年の台風や集中豪雨、今回の新潟県中越地震による被害を振り返るだけでも、『立正安国論』に引かれた仁王経の、「沙・礫・石を雨らす・・・大風万姓を吹き殺し、国土山河樹木一時に滅没し・・・炎火洞燃として百草亢旱し、五穀登(みの)らず、土地赫燃して万姓滅尽せん」(御書1237ページ)との御文が、今、現実にあることが判ります。

『立正安国論』の鏡に照らすとき、これら災難の原因は、現代の一凶・池田創価学会をはじめ、邪宗教の謗法にあることは明白です。これらを看過したならば、再び自界叛逆・他国侵逼の二難を招く結果となるでしょう。私たちがなすべきことは、「立正安国」の精神を高く掲げ、自行化他にわたる本門の題目を高らかに唱え、正法広宣流布に邁進する以外にないことを再確認いたしましょう。



論苑 『可畏謗罪(かいぼうざい)』
昭倫寺住職・野村淳信御尊師


宗祖大聖人は『立正安国論』の冒頭に、「近年より近日に至るまで、天変・地夭(ちよう)・飢饉・疫癘(えきれい)遍(あまね)く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る」(御書234ページ)と末法の姿を示されている。今、日本国中を見ると、自公連立政権は民衆を無視し、天変地夭、殺人、放火等の犯罪、疫病が蔓延(まんえん)し、世の乱れは『立正安国論』に説かれている通り悲惨な状態にある。これひとえに国中の謗法によるところである。

世間の人々は、天変地夭は自然災害なるが故に、どうすることもできないとあきらめている。しかるに宗祖大聖人は、「倩(つらつら)微管(びかん)を傾け聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(同)と、明らかに人災であると仰せられている。この謗法より起こる災難は、正法を信じているからといって難を逃れることはできない。それは与同罪を蒙(こうむ)るからである。与同罪を蒙らないためには折伏を行じ、広宣流布を達成する以外にはない。

『如説修行抄』には、「万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだ(砕)かず、代はぎのう(義農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕はれん時を各々御らん(覧)ぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり」(同671ページ)と説かれ、広宣流布の暁(あかつき)には国家安穏なることをはっきりと仰せられている。広宣流布への道は、一人が一人の折伏以外にはない。


平成6年に改訂版として宗務院より発行された『祖文纂要(そもんさんよう)』という本がある。この中に「可畏謗罪章」という項目がある。「可畏謗罪」とは「謗法の罪を畏(おそ)るべき」ということで、日蓮正宗においては宗祖大聖人、御開山上人以来、謗法を固く誡(いまし)められているのは周知の通りである。

謗法と言えば、とかく正法を誹毀懺謗(ひきざんぼう)する創価学会をはじめ、他宗の本尊を拝むことや神社の祭りに参加する、または神札を貰う、他宗他門の行事法要等に参加する等が謗法であると思っている人がいるが、そればかりではない。『秋元御書』に、「常に仏禁(いまし)めて言はく、何なる持戒智慧高く御坐(おわ)して、一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵を見て、責め罵(の)り国主にも申さず、人を恐れて黙止(もだ)するならば、必ず無間大城に堕つべし」(同1453ページ)と仰せられ、自分自身の信心に満足して他を折伏せず、邪宗と妥協するならば、自分自身は謗法を犯していなくても、必ず謗法に与同する罪によって無間地獄に堕ちることは明白である。

また『諌暁八幡抄』には、「設ひ法華経を破せざれども、爾前の経々をほむるは法華経をそしるに当たれり」(同1541ページ)と仰せられている。すなわち邪宗で出す書籍やテレビ・ラジオ放送などを見聞して、これを讃めることは謗法になるのである。とかく邪宗の人たちは、仏法の正邪よりも判りやすい世間的な道徳談が多く、言葉巧みに「悪いことをしないで善いことをしましょう、世の中のためになることをしましょう」と言う。宗祖大聖人の仏法は、難信難解・難解難入であるから判りにくい。世間の人たちは、やさしい邪宗のほうへ行きやすい。しかし、邪宗の教えは仏様の真実の教えではなく、爾前の経であり、外道の教えである。

「自分はしっかり信心しているから大丈夫」と思っているが、果たして謗法を容認していることはないか。なかには、朝夕の勤行・御講・唱題会・勉強会・支部総登山・座談会等には欠かさず参加していることが、信心強盛であると思っている人がいる。しかし年間実践テーマの、下種・折伏、家庭訪問、教学研鑽で邪義破折、法統相続となると、「嫌われたらどうしよう」「恥ずかしい」等と言って嫌がる。これでは本当の信心の姿であるとはとても言えない。

私たちの信心は、自行化他にわたる実践が肝要であり、目的は広宣流布進展に尽きる。そこに即身成仏の要道があり、広宣流布への絶えざる修行なくして即身成仏はあり得ない。特に今日の「一凶」である池田創価学会の謗法を破折して、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって御奉公に精進していただきたい。



体験発表 『最期まで折伏した主人の信心』
了性坊支部・能登方恵


私の入信は、45年前の昭和34年6月、創価学会を通してでございます。結婚2年目のある朝のこと、急に胃と腸がうなるほど痛みだし、どうにも堪えきれず病院に行くと、虫垂炎かも知れないので明日入院を、と医師に言われました。しかし私には虫垂炎の痛みとは思えませんでした。入院をどうしようかと悩んでいる私を心配した主人が義母に相談し、義母が私のもとへやってきました。今までの症状を話すと、「とにかくお寺に行って御本尊様にお願いしましょう。それにはまず御授戒を受けましょう。入院するのはそれからにしなさい」と折伏され、何が何だか判らないまま、池袋の常在寺の本堂に座って、御授戒を受けておりました。後に義母から言われたことですが、このとき私が御授戒を賜ったのは、御先代66世の日達上人様だったそうです。

お寺で御本尊様に手を合わせている間も胃と腸は痛んでおりましたが、御授戒を終えて帰路に着くと痛みを忘れ、急に空腹感を覚えました。義母と立ち寄った食堂で私がカツ丼を注文したのには、義母も驚きました。食事の後、さすがにちょっと心配になりましたが、今までのことが嘘のように不思議と痛みが消えてしまい、前にも増して元気になりました。生まれて初めて唱えた御題目、そして入信したばかりだというのに、「この信心には何かある、不思議だ」とこのとき感じました。これが私の信心の始まりでした。


私の主人は25歳の時にはすでに50人もの人を使うほどの事業家でしたが、金遣いも派手な人でした。やっとの思いで建てた家がすぐに人手に渡り借家住まいをしたかと思うと、以前より大きな家を建てたりと、その浮き沈みの激しさに何度か離婚を考えたこともありました。しかし御書に、「夫(おとこ)盗人たればその妻も盗人たるべし」(御書987ページ)とございます。その御文を拝して「所詮私も同じ境界なのだ。信心で乗り切るしかない」と覚悟を決めました。そして、そのためには折伏させてくださいと御本尊様に真剣に祈りました。まず自分の身内からと心に決め、両親と妹、弟2人それに主人の弟たち2人も折伏し、3年後には6世帯全員を入信させることができました。

その後、主人の事業は順調になっていきましたが、従業員や信頼していた人などに裏切られたり、両家の弟たちにさえ理由も判らず反発をかうなど、悩み多き日々が訪れました。


<「折伏しよう」主人の号令>

そんなある日、主人から「折伏しよう」と号令がかかりました。主人は「宿業を変えるためには、折伏しかないんだ」と、人が変わったように友人知人と駆け回り、年間10世帯以上もの折伏が成就するようになりました。

時が過ぎ、昭和45年夏に、私は3人目の子供の出産を控えておりました。大事を取って出産予定日の10日前に入院し、病院のすぐ近くの法道院に毎日、御題目を唱えに通いました。予定日を10日過ぎても生まれる兆候がなく、点滴で陣痛促進剤を入れて出産することになりました。点滴を始めて30分ほど過ぎた頃、陣痛は始まりましたが、気分が悪くなり、そうしているうちに医者の様子が変わりました。なんと静脈が破裂して大出血をおこしていたのです。それからしばらく意識を失った私は、看護師の「ほら男のお子さんですよ」との声で目を覚ましました。頸動脈から輸血をしていた私は身動きができず、横目で子供と対面しました。そのとき横で血圧を測っていた看護師が「先生、血圧零です」と大声を出しました。私は死を思いましたが、「生まれたばかりの子を置いては死ねない。御本尊様助けてください」と薄れゆく意識の中で叫びました・・・。

それからどれくらい経ったでしょうか。突然耳元に太鼓の音が聞こえてきました。それもまるで本堂にいて聞いているような力強い響きでした。いくら法道院が近くても聞こえるはずはありません。私は必死になって3遍、5遍と音に合わせて御題目を唱え、あとは夢の中でした。産後8時間してやっとベッドに運ばれました。頭髪の一部は抜け、強心剤を何本も打たれた太ももは腫れ上がっていました。九死に一生を得られたのは、御本尊様のお力以外の何ものでもありません。私はこの大恩にお応えするためにと信心活動に励むようになりました。


<財務100万円を要求した学会、そして脱会>

几帳面で綺麗好きな主人に怒られまいと努力をし、3人の男の子を育てながらの毎日です。この頃、夕食の7時には私は学会の会合に出かけ、いつも主人と子供たちで食卓を囲んでいました。主人は、いつもいつも信心の話を子供にしていました。子供たちは、私の代わりと思って我慢して聞いていたようです。しかしこれが子供たちにとっては信心の勉強の場になっていたのだと、後々主人に感謝いたしました。

昭和60年代になり、ある日学会の幹部がやってきて、「今度の財務は最低100万円は出してほしい。お宅なら軽いでしょう」と言ったのです。以前、練馬文化会館が出来た折にはかなりの金額を出した主人でしたが、そのときばかりは怒りました。「御供養とはあくまで個人の御供養精神でさせていただくものだ。君らの強制でするものではない」と断りました。それから1ヶ月後、私は役職を外されましたが、学会の役職が少々苦痛になっていたので、かえってせいせいしました。

学会問題が起こって間もなく、平成3年、私たち家族は縁あって当時の了性坊の御住職・長野経道御尊師にお目にかかることができ、いろいろと御指導をいただきました。脱会後、古くからの檀信徒の方々にも仲良くしていただき、私たちも大石寺外護のお役に立たせていただきたい、と決意を新たにいたしました。

長男と次男は、共に未入信の娘さんと結婚しましたが、共に信心するという条件で一緒になりました。また昨年、三男も結婚し、信心強盛な娘さんを迎えることができました。3人の嫁が私の姿を見て信心が嫌になっては困ると、言動にも気をつけ、近くのお寺に連れて行ったり、昼食を共にしたりしながら、信心を教えました。その結果、今では少々信心がたるみがちな私を励まし、活動に連れ出してくれるまでになりました。こんな嬉しいことはありません。

現在、了性坊御住職・原田輝道御尊師は、年に数回、東京班のためにお出でくださり座談会を開いてくださいます。一人ひとりに細やかな御指導を賜り、和気藹々(あいあい)のうちに信心を磨かせていただいております。東京班の全員が座談会を楽しみにしていて、いつも大結集です。その日だけは主人も早く帰宅し、張り切っておりました。


<主人の臨終と御供養・折伏>

平成13年の夏、主人は突然声がかすれてきたと言い、大きな病院で受診したところ、間質性肺炎の悪化と、ガンが進行しているとのことでした。平成14年の奉安堂完成目前にしてなぜと思いました。しかし、3年にわたる奉安堂の御供養をさせていただけたことは何よりだったと思いました。御供養にあたり柳沢委員長が「3年にわたる御供養は1年ずつ真心を込めてしてください。3年分を一度にしようとの考えは間違いです。人の命は判らないものです。3回目にできなくなるかも判りません」というようなお話をされていましたが、本当にその通りでした。その言葉の重みを痛感いたしました。

平成13年11月、主人との別れの時を迎えました。発病以来、何の苦痛もなく、息を引き取る3時間前まで笑って話をしていました。嫁と私と息子3人、私の妹とで代わる代わる主人の耳元に口を寄せて御題目を唱え続け、全員の御題目で送ってあげることができました。悲しむべき夫の死なのに、夫の最期の見事さに感動すら憶えました。

それにしても不思議なことがありました。病気が見つかる半年ほど前の、まだ元気でいた頃、主人は私を2階に呼び、日蓮正宗の書籍にあった『臨終の大事』というところを指差して「俺もこういうふうに死にたいな」と言ったのです。私はこのとき、なぜそんなことを突然言うのだろうと思いましたが、無意識のうちに死を予感していたのでしょう。不思議でなりません。葬儀まで数日ありましたが、成仏の相は何ら変わることなく、まるで生きているようでした。

その通夜でのこと、三男の友達の瀬尾君が訃報を聞いてやってきました。彼は亡くなった主人に、「おじさん、ごめんなさい。あんなに話をしてくれたのに入信しないで、僕は馬鹿でした」と大声で泣き、その場で入信を決意してくれました。主人は、生前に蒔(ま)いておいた仏種を自らの臨終と同時に芽生えさせて逝(い)ったのだと思うと、涙が止まりませんでした。瀬尾君は、その年の12月に了性坊で御授戒を受けることができました。今では座談会にも喜んで出席し、信心の在り方などを学んでおります。

入信以来45年、御本尊様の大利益に感謝し、法統相続の心強さを感じつつ精進している毎日でございます。脱会から現在まで、厳しい現実のなか家族で6世帯の折伏を成就してまいりました。『諸法実相抄』の、「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(同668ページ)の御金言を心肝に染め、新たなる目標に向かって信心修行に励んでまいります。


※656号の掲載には若山祐太郎さんの全面的なご協力をいただきました。


back      index      next