御法主上人猊下御言葉
11月度広布唱題会の砌
皆さん、おはようございます。本日は第一日曜日に当たっており、総本山をはじめ全国の末寺において、広布唱題会を執り行っておる次第であります。大正法をもって自らも救われ、また他をも幸せにする、そして国土を安穏に成就する願業をもちまして、我々は広布のために精進しておるのであります。その在り方の一つとして、毎月の第一日曜日に行われておる、この広布唱題会はまことに重大な意義を持っておると思うのであります。
口業の功徳について
大聖人様は「南無妙法蓮華経を唱えよ」ということを、常に仰せあそばされました。法華経を説かれたのは釈尊で、法華経のなかにその修行として受持・読・誦・解説・書写という五種の修行は説かれております。しかし、釈尊は「南無妙法蓮華経を唱えよ」ということを、法華経の一部八巻のなかのどこにもおっしゃってはおりません。また、その後、天台、伝教その他、ありとあらゆる聖者が現れて、法華経の深い意義を述べましたけれども、やはり「常に南無妙法蓮華経を唱えよ」ということを、はっきり言われた方はいないのであります。
しかるに大聖人様は御出現あそばされて、宗旨建立の初めから「南無妙法蓮華経と唱えることが最も大切である」ということを常に御指南であります。そこには身口意の三業という意義が当然、あります。我々の生活のことごとくが、身体と口と意(こころ)の三つで成り立っております。これ以外に我々の生活の内容はないのです。常になんらかのことを考えておるのは意であります。なんらかの行動を起こすのは身体であります。また、実際にそれを表すのが口であります。したがって、口で正しい仏法の内容をはっきり顕していくということが最も大切であり、大聖人様も、「口業(くごう)の功徳を成就せり」(御書115ページ)ということを仰せであります。
口業、すなわち口で唱えるということです。このなかには御信心の深い方が多いと思いますから、ただいまの唱題行においても「南無妙法蓮華経」とはっきり唱えられておると思います。また、毎日の勤行等においてもしっかり口を開けて「爾時仏告。諸菩薩。及一切大衆…」とお経を読み、あるいはまた「南無妙法蓮華経」と唱えておられることと思いますが、それが肝要なのです。しかし「信心しているし、信心の気持ちだけはあるから、今日は勤行をやめておこう」とか、あるいは勤行をしても、口がさほど動いていないということは、我々の身体のなかに仏の命がはっきり顕れず、真の功徳を受けていくことが難しい、また少ないのであります。ですから、口をはっきり開けてお経を読み、また、お題目をしっかり唱えるということこそ大切なのです。よって、まず口業の功徳が成就することによって、さらに身体への功徳、また意への功徳がはっきりしてくるという意味が当然、存するのであります。ですから、特にこの唱題行は我々自身の信心修行の上からも、鍛錬の上からも非常に大切であるとともに、自行化他にわたっての道であるということをよくお考えいただきたいと思います。
また、それを実際に行っていくというところに本因妙の姿があるのです。本因妙の内容は境妙・智妙・行妙・位妙という四つでありまして、境智ということは我々の凡眼凡智をもってしては到底、考えられないような深い御仏智の境界であります。すなわち、「境能(よ)く智を発し、智亦(また)行を導く」(六巻抄42ページ)ということで、この境智冥合の境界が、正しい仏法を信じ行ずるところから顕れてくるのです。この行のところに、おのずと即身成仏という、末法の凡夫がこの身をもってそのまま成仏するところの位ということが顕れます。我々凡夫が迷いの姿でありながら直ちに仏の功徳を成就するということが、妙法の不思議な内容でありまして、それがまた自らを救い、他をも救っていく根本の道でありますから、唱題修行ということを決して疎かに考えてはならないのであります。
今日、あらゆる宗教があります。そこには色々な行を説いておりますが、最も内容が広く深く、また具体的にだれでも実践できるというところの教えこそ、大聖人様の三大秘法のいわゆる本門の題目でありますから、そのところをしっかりお考えいただいて、さらに信行倍増せられることをお祈りする次第であります。
御大会と「御会式始め」の期日の由来
さて、本日は7日で日興上人の御命日の日でありまして、御影堂において御講を奉修いたしました。そして、この日興上人の御命日の御講をもって「御会式始め」という行事を行った次第であります。すなわち、11月は総本山の御会式奉修の月なのであります。
これは御存じの方もかなり多いと思いますが、なぜ、11月の20日、21日に御会式を行うのかということは、これは約40年前の御先師日達上人の時に変わったのであります。それまでは昔から、徳川時代を通じて明治5年に至るまで、日本の国は太陰暦、すなわち月を中心とする暦を使っておりました。よって、大聖人様の10月13日の御遷化も、この太陰暦によるものでありました。そのなかにも色々な内容がたくさんあるようですが、ともかくそういった形から毎年、旧暦の10月13日に御会式を行ってきたのであります。
しかし明治5年以降、日本もほとんど世界共通の太陽暦になりましたので、これによって日がずれることになりました。私も記憶がありますが、その年によって太陰暦と太陽暦のずれがありますから、ある年は10月の終わり、11月の初めに御会式が奉修されたり、ある年は12月の初めのころに奉修されたりと、毎年、移動していたのであります。それがずっと続いておりましたが、行事の日程等を作る上から、また色々な面から不便であるということで、御先師日達上人の時に、弘安5年の10月13日を新暦で表すと11月の21日に当たるということが明らかになり、それ以降、毎年、総本山においては11月の20日に御逮夜法要、21日に御正当会という意味において御会式を執り行っておるのであります。
この御会式に当たり、陰暦の時代は10月1日に御会式始めを行い、13日に御正当会が奉修されました。現在は、11月7日の日興上人の御命日の御講をもち
まして、御会式始めを行っておる次第であります。特に、この時は献膳にお赤飯をお供え申し上げます。これは御本仏様の本有常住をお祝い申し上げるという意味があります。大聖人様の末法における発迹顕本という大事な、寿量品の本義の上から大聖人様の御遷化はそのまま末法万年常住の、常に変わらざる御化導・御慈悲が一切衆生に向かって垂示されておるのであり、また、それを正しく信行するところに真の成仏得道があるということの上から、御本仏の常住を讃え奉り、お赤飯を炊いてお祝いするという、それが本日の御会式始めの行事であります。そして本日から御会式に向かっての色々な準備が行われるという次第であります。
したがって、大聖人様のお振る舞いも、衆生の誤り、特に邪宗の誤りをはっきり正すことによって、あの竜の口の発迹顕本という、宇宙法界がそのまま法華経の行者のお振る舞い、その功徳にはっきりと感応して、あらゆる邪義を打ち破るという姿が顕れたわけであります。その上からも、我々もまた大聖人様のお心を拝しつつ、一分(いちぶん)でもしっかりお題目を唱え、そして、また縁のあるところに折伏を行ずるということが、実際の自行の上において大事なことであるということを考えなければならないと思います。
本日は支部総登山で御登山の方々が大勢、ここに御参詣になり、共に唱題行を奉修することができました。この功徳をもって、これからもしっかり御精進あらんことをお祈りいたします。本日はまことに御苦労さまでございました。
『折伏誓願達成の条件は創価学会の折伏にあり』
清涼寺住職・野村慈尊御尊師
皆さん、こんばんは。ただ今紹介いただきました千葉市・清涼寺住職の野村慈尊と申します。これより少々の間、皆様のお耳を拝借して「折伏誓願達成の条件は創価学会の折伏にあり」と題し、お話させていただきますので、よろしくお願い申し上げます。
本日は、法華講連合会10月度の月例登山会に当たり、参詣者の皆様の前で法話をさせていただく機会を得ましたことは、指導教師として喜びに堪えません。本席には、柳沢総講頭をはじめ、法華講連合会の役員の方々も出席なされ、このように盛大なる登山会が開催されましたことは、法華講がいよいよ真の広布に向かって大前進している姿と信じたいものであります。
信念を持って下種先の拡大を
御案内のとおり、本年は「破邪顕正の年」と銘打たれ、早10カ月が過ぎようとしております。「破邪顕正の年」も残り2カ月となってしまいましたが、「2カ月しかない」とあきらめず、「まだ2カ月あるのだ。それ故、自分に課せられた折伏は必ず成就できるのだ」と決意も新たにがんばっていただきたいと思います。
申すまでもなく、大聖人様の御一生は「『立正安国論』に始まって『立正安国論』に終わる」と言われるごとく、破邪顕正の御生涯であられました。それ故、弟子檀那たる私共も生涯、破邪顕正の信心を忘れてはなりません。言い換えると、広宣流布達成のその日まで「破邪顕正の年」が続くのですから、破邪顕正という意義深い御命題の本年こそ、折伏成就できずして、いったいいつになったら折伏ができるのかと、真剣に考える必要があると思います。この上からも、本年は何を置いても折伏の実践行をもって、自らの折伏目標と支部の折伏誓願達成に向かって邁進すべきであります。
本席は言うまでもなく、来るべき「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の「地涌倍増」に向け、年ごとに必ず折伏目標が達成するよう、僧俗が自覚を新たにし合う大事な集いでありますから、参列者一同は、折伏実践の大事を聴聞し、各講中に帰り、本年最後の大折伏戦を展開していただきたく存じます。
世間の人の話に「良い話を聞いても、その場では感激するが、本当に自分のものとして実践することは難しい。それは自分に信念がないからである」という話がありますが、この話は、本日出席の私共法華講員にも当てはまることだと思います。私たちは、すばらしい折伏の話を聞いて大きな感動を抱いたとしても、折伏実践ができないということは、折伏しなければいけないという「信念」の二文字が欠けているからであります。もう少し厳しく言わせていただくならば、折伏をしなければという「信心」の二文字が未熟であるからかもしれません。
私共は凡夫の儚(はかな)さか、常に楽なほうへ楽なほうへと流されやすいのですが、仏法で教える十四誹謗の中の懈怠謗法を恐れなければなりません。なぜ折伏ができないかというと、それは折伏をやらないから折伏ができないのです。折伏をやっている人も、下種先が少ないから折伏が実らないのです。
では、どうすれば折伏が実っていくかというと、折伏は下種行ですから、たくさんの種を蒔くことが大切なのです。たくさんの種を蒔いたならば発芽数も増える道理のごとく、折伏は自然に実るのであって、下種先拡大こそが折伏成果につながる大事と知っていただきたいのです。
そして、折伏は難しく考えてはいけません。御出席の皆さんは、妙法を持つ人でありますから、成仏に欠かせない折伏は誰にもできる行と知るべきです。相手に信心の話をしたならば、その時は理解されなくても、下種した、すなわち種を蒔いたのですから必ず芽を出すことは間違いないのです。皆さんの中に、折伏はすれども空振りに終わり、無駄だったと考える人はいませんか。折伏には無駄はないのです。相手を折伏・下種したのだから、相手は、その場は聞けなくても、今世中、否、来世には必ず芽となって実るのです。
それ故、相手に謗法の恐ろしさと、正法の功徳を話せたならば、もう立派に折伏ができたことになるのです。折伏ができないとお嘆きの方は、まず折伏行という行動を起こすことが大切なのです。唱題行という静から、折伏行という動に進むべきであります。このように行動を起こしたならば、折伏は必ず成就するものと知っていただきたいのです。そして自行の信心に比べ、化他の折伏行は、時間的に見ても極端に少ないのでありますが、自行化他の信心は我ら衆生の欠かすことのできない大切な行ですから、自行に追いつくよう、誰人も化他行の時間を増やすべく努力することが大切なのです。故に御出席の皆さん、折伏時間を増やし、下種先を増やす、これこそが折伏成就の最も大事と知るべきです。
唱題を根本に折伏を実践
この中には、あまりいらっしゃらないと思いますが、自分は話すことに自信がなく、ひどい照れ屋で、相手の前に立ったなら、身がすくんでしまい、とても折伏する自信がありませんという方がもしいたならば、少し考え方が違うと思います。折伏をするのに、理屈や口のうまさでしようとしたり、自分の力でしようとしたら駄目なのです。そうではなく、あくまでも御本尊様の絶対のお力を心から深く確信して、その確信を相手に堂々と話していけばよいのです。
では、このような折伏をするにはどうしたらよいかというと、まず自分自身が御本尊様の有り難さを確信するまでしっかり唱題することが大切なのです。唱題に唱題を重ねていく中に、今まで忘れていた数多くの功徳体験や、仏罰の恐ろしさを思い出すことにより、御本尊様に対する絶対信がさらに育まれ、勇気と慈悲の心を持ち合わせることになるのです。これこそが折伏精神なのです。
このことを御法主日顕上人猊下は、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮635号)と仰せられ、さらにまた唱題に唱題を重ねていくことを、コップに水を注いでいくことに譬えられ、さらに注ぐと水は必ず溢れ出すように、唱題の功徳は必ず折伏に進んでいくのであると御指南くだされ、私共に唱題を根本とした折伏の大事を御教示くだされているのです。
そして、成仏のための折伏を怠ったならば、どのような結果を招くのかというと、大聖人様は『南部六郎殿御書』に、「眠れる師子に手を付けざれば嗔(いか)らず、流れにさを(竿)を立てざれば浪立たず。謗法を呵責せざれば流難なし。『若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責せずんば』の置の字ををそ(畏)れずんば今は吉し、後を御らんぜよ、無間地獄は疑ひ無し」(御書463ページ)と仰せられ、末法の衆生が折伏を怠ったならば、今は幸せでよいかもしれないが、後には必ず無間地獄に堕ちて苦しまなくてはならないと御指南くだされております。
このように、成仏に欠かせない折伏を行わなかったならば、やがて来る臨終に必ず後悔するはめになってしまうのです。それ故、今席の皆さんは、今日より残された2カ月間を「破邪顕正の年」の最後の折伏月間と考え、講中一丸となって折伏戦を展開していっていただきたく存じます。
創価学会員への折伏こそ「地涌倍増」の条件
私共の周りには謗法が充満し、折伏相手には事欠かないのでありますが、御法主日顕上人猊下が現在の「一凶」と仰せられた創価学会を徹底的に折伏することが「地涌倍増」に欠かせない条件であって、これこそが『立正安国論』の御精神に適(かな)うものと信じます。
今や創価学会は三宝を破壊し、『ニセ本尊』を作り、勤行様式をも変えてしまうという暴挙を犯し、謗法に謗法を重ねた姿は、これがかつて正しい信心をしていたあの創価学会かと、耳を疑いたくなる者は、私一人ではないでしょう。彼らは総本山が謗法だから登山しないと平気で言っておりますが、この言葉ほど恐ろしい謗法はないのです。
大聖人様は『南条殿御返事』に、「かヽる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。神力品に云はく『若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至般涅槃したまふ』云云。此の砌に望まん輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん(乃至)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり。参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企(くわだ)つべし」(同1569ページ)と仰せられ、末法の法華経の行者、すなわち末法の御本仏の住まわれる地は、たとえどこであっても霊山浄土であると仰せられ、そして法が貴ければ、また仏も貴く、その住まわれる所も尊いのであると重ねて御指南くだされ、身延の地を月氏の霊鷲山に譬えられているのです。すなわち末法の御本仏の御座します所は、たどえどこであっても、そこがそのまま霊山浄土であり、一切衆生の成仏の根源の地であると御指南くだされているのです。
大石寺こそ霊山浄土
では、日蓮大聖人の御法魂は今、どこに在(ましま)すかと言うならば、本門戒壇の大御本尊様として総本山大石寺の奉安堂に厳然と在すのであります。それを創価学会は、総本山大石寺を謗法の地と呼んでいるのですから、これ以上の恐ろしい謗法はないのです。
さらに創価学会は、大聖人様の、「地頭不法ならん時は我が魂此の山に住すまじ」(富士宗学要集第5巻379ページ)の御遺言を悪用し、謗法となった大石寺には大聖人様の御魂は住まわれていないのだと言っていますが、今申し上げたとおり、総本山大石寺には大聖人様の御魂である本門戒壇の大御本尊様が厳然と在すのであって、大聖人様の「地頭不法ならん時は我が魂此の山に住すまじ」の御言葉どおり、大聖人様の御魂は謗法の所にお住まいにならないのですから、お住まいになられている総本山大石寺が謗法であるはずはないのです。それでも大石寺を謗法と言うならば、大御本尊様が大聖人様の御魂でないと言っていることですから、大謗法と知るべきです。
このように、創価学会の論理がいかにデタラメか、呆れかえるばかりです。総本山大石寺は大御本尊様在す故、世界広しといえども、ただ一カ所しかない根本の道場であり、一切の功徳の根本なのであります。
かつて、大聖人様が身延にお住まいになられていた時と、本門戒壇の大御本尊様が身延にお住まいになられていた時は、その身延が霊山浄土であったのですが、第二祖日興上人が波木井実長と民部日向の謗法で染まった身延を去って、総本山大石寺に本門戒壇の大御本尊様をお移しになられた後は、総本山大石寺が霊山浄土であることは疑いのないことであります。
謗法の極みは創価学会
恐ろしくも、この総本山大石寺を謗法呼ばわりしている創価学会は、戒壇の大御本尊様が在す霊山浄土を謗法と言っているのと同様ですから、大聖人様の、御本仏在す所はどこであっても霊山浄土である、との御指南を完全に無視していることになり、これほど恐ろしい謗法はないのであります。
さらに、彼らは自分は戒壇の大御本尊様を信じているから功徳は得られると言っていますが、この信心は、信じているだけでは功徳は得られません。もし、信じているだけでよいとするならば、自分は家に安置の御本尊様を信じているから、勤行をしなくてもよいと言っているのと同じです。御本尊様の仏力・法力と私たちの信力・行力の四力が冥合して功徳となるのですから、大御本尊様に御開扉をお受けするという行力を欠いている学会員に、功徳があるわけはありません。大聖人様の正しい信心は、戒壇の大御本尊様に御開扉の許される信心でなければならないのです。大御本尊様に御目通りの許される信心をもって、御開扉を受けさせていただくという行力をもって、初めて功徳の通ずる信心ができるのです。創価学会の言う、信じているから功徳があるという論法では、功徳が適うはずはありません。
法華講員のように、御開扉を許され御戒壇様に御目通りのできる信力・行力をもって初めて功徳が適うのであって、御開扉を許されない学会員に功徳があるはずはありません。謗法者は誰人も御開扉は許されないのですから、御開扉の許される信心でなければ正しい信心とは言えないのです。
また学会員は、日蓮正宗から破門されたからと言って、日蓮正宗に近い信心をしているのだから、たとえ謗法があったとしてもその罪は軽いだろうと思っている人がいたとするならば、この考えは全く違うものであると教えていかなければなりません。宗門に近いからよいだろうとの考えは、ニセ札を例に考えれば判ることです。本物に近ければ近いほど罪は重いと知るべきです。彼らの行く末は『佐渡御書』に、「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がか(斯)くなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」(御書583)の御指南どおり、正法誹謗を重ねる彼らは、念仏者よりも重い罪を受けなければならないのです。
学会員への折伏は勇気と根気
この者たちを救うべき人々は、私共法華講員しかいないのです。この哀れな学会員を一日も早く救うべく、『折伏教本』を彼らに読ませていくのが、法華講員の時に適った信心であると思います。
彼らは、幹部の悪しき指導で『折伏教本』をなかなか手にしようとはしませんが、学会員の中には正義感の強い人もいるのです。こういう人は、学会幹部の指導に染まっていて、一見、判らぬ人のように見えますが、こういう人が目覚めたならば、大勢の学会員を引き連れて脱会するものと信ずるべきです。それ故、法華講員は決してあきらめてはいけません。
学会員宅へ折伏にいくと、彼らは決まって「回るな。そんな書物はいらない。持って帰れ」と、ほとんど対話にならないと思います。皆さん方は、これは彼らが困ってそのような態度を示していると知るべきです。彼らは「仏法は勝負だ。勝たなければならない」と口で言いなが「回るな。帰ってくれ。そんなものは読まない」と言うのは、これは完全に負けを認めていて困っているのですから、もっともっと折伏してあげましょう。そうしたならば、彼らの目覚めが早まるのです。これは決して意地悪ではないのです。これこそが慈悲行なのです。
この学会員への折伏を法華講員は勘違いして、学会員の数の多さに腰が引けているというか、勇気がないというか、学会員への折伏を怠ってしまっているのです。これでは学会員を折伏できません。学会員への折伏は、皆さんが一番できるはずです。皆さんは学会の謗法を知って脱会してきたのですから、本来ならば皆さんは学会員の折伏専門家とも言えるのです。
どうか今日から自信をもって学会員への折伏を実践してまいりましょう。この学会員への折伏こそが、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の「地涌倍増」に欠かせない条件であると同時に、破邪顕正の本年、残り2カ月における支部折伏誓願目標達成を勝ち取るための唯一の方法と考え、精進していっていただきたく存じます。
最後になりましたが、我が身は浅学の故、皆さんにご満足いただける法話はできませんでしたが、長時間御聴聞をいただいたことに心より感謝申し上げ、終了させていただきます。ありがとうございました。