大白法

平成16年12月1日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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総監一行、新潟中越地震に義援金を寄贈・被災地視察



お見舞い
 このたびの新潟県中越地震をはじめとする台風等の 一連の災害によって尊い命を亡くされた方々に対し、 悲しみの念を深くするとともに、衷心より深く御冥福 をお祈り申し上げます。  また、被災された方々に対しましては、このたびの 苦痛を一日も早く癒されて力強く立ち上がられるとと もに、平穏な日常生活を回復せられますようお祈り申 し上げます。  さらに、被災された本宗法華講員の方々には、あく までも信心を根本として、一日も早く立ち上がられま すよう念願いたします。   平成十六年十一月一日                 日蓮正宗宗務院


11月11日、日蓮正宗総監・藤本日潤御尊能化、庶務部長・早瀬日如御尊能化、庶務部副部長・阿部信彰御尊師、新潟布教区宗務支院長・佐藤一応御尊師らが、新潟市内の新潟県庁を訪問され、今回、新潟県中越地震において被災された方々に対する日蓮正宗からの義援金を寄贈された。

新潟県庁

藤本総監一行は、午前10時に新潟県庁へ到着され、出納長室において、藤本総監より関根洋祐新潟県出納長に対して義援金が手渡された。その際、藤本総監は、多くの被災者の方々に対するお見舞いを述べられるとともに、犠牲者の御冥福と一日も早い被災地の復興を心より念願する旨を伝えられた。

これに対して関根出納長より新潟県を代表して謝辞があり、その中で昭和39年の新潟県地震の折にも日蓮正宗からお見舞いを受けたことに言及され、重ねての厚意に丁重な御礼が述べられた。また、被災地の被害状況や復旧工事の進捗について詳細な説明がなされた。

また、藤本総監一行は県庁訪問の後、被災地である長岡市の法秀寺、十日町市の教光寺を訪問され、両寺の御住職方や関係者より被害状況の説明を受けられるとともに、復興に向けての力強い激励をなされた。




お見舞い
 去る十月二十三日夕に始まる新潟県中越地震、並び に日本列島を直撃した台風などによって亡くなられた 多くの方々の御冥福をお祈りいたします。  また、被災された本宗寺院、法華講の方、そして被 害に遭われ、現在も困難な中を御苦労されている大勢 の方々にも衷心よりお見舞い申し上げます。  これから、寒さに向かって困難と不安が増すことと 存じますが、お体を大切に、御本尊様の御加護のもと、 奮迅の信力を以て復旧に立ち上がっていただきたいこ とを念願いたします。   平成十六年十一月一日                 法華講連合会





激励 法華講連合会委員長・柳沢喜惣次総講頭
於10月度登山会


今日の私の話は、今年はあと2ヵ月あります。この2ヵ月間に今年の誓願を全部やってしまおうという話です。折伏は1年なければできないのかというと、そうではないですね。しかし、今までかかってもできていない。また、誓願は支部全体の誓願ですから、みんなでやればと考える。ところが、この「みんなで」という言葉が、耳障りよく何でも実現できるように聞こえますが、本当は一番だめなんです。結局は、一人ひとりがやることなんですよ。一人ひとりが一生懸命にやれば、1年なくてもいいんですね。

では、どうすればできるかということを、これからお話していきます。とにかく、今年を一人ひとりが振り返って見ていただきたい。実に慌ただしかったような感じですね。ようやくここにきて、「あとふた月あるよ」と。これを「まだふた月ある。ちゃんと折伏に使えるんだ、考えろ」と自問自答して考えていきますと、私ばかりでなく皆さん方にもふた月あるわけです。


その前に話しておきたいのは、先日の台風23号。これは巨大な台風でしたね。中心が徳島辺りにあるときに兵庫県の日本海側の豊岡市にあのような被害が出る。今までは日本海側は台風に対して結構、無防備ですね。そういうところから、死亡者・行方不明者が合計で80名以上、しかも年配の方が多い。そこで、災害をお互いに自分の身に当てはめて見て、何を観ずるか。他の人に話す必要はないけれど、一遍、自問自答していただきたいと思います。

その一つとして、すぐに『安国論』の御文が出てきますね。そして自分なりに「うん、納得だ」と感じる人もあるでしょう。あるいは、「これは一体どういうことなんだ。何も悪いことをしていないのに、何の罰だ」と。我々はそういう問題を我が身に当てはめて考えなければなりません。信心していて他人事のように捉えていたら、慈悲の命は成長していきません。信仰はあくまでも生活の上に現れてくる諸々の現証をよく捉えて、常に我が身の信心を反省していくことが大事なんですよ。具体的には、過去にまで遡って、謗法をしてきた自分の罪業を反省する。

朝の勤行で四座の御観念文に「無始以来の謗法罪障」とありますが、自分は無始以来の罪障なんてないと思う人は、罪障を知らないからです。よく罪障消滅とか宿業転換と言いますが、安直に考えているんですね。毎朝毎朝、安直に考えて、やがて30年そんなことをやっているうちに、自分を取り巻く環境も、年齢と共に変わってくる。そのことを、「境よく智を開き、智また境に合する。境智合するところ、自ずから慈悲あり」と私は若い頃から聞いてきております。

40代は40代のときの環境、50代は50代、60代は60代のと、変わってきます。私は前からこういう話をしていますね。20代、30代と浪費癖があってお金を持てば使う、少し貯まると使いたくなっていた者が、40代になって周囲がびっくりするほど締まり屋になる。これは、子供の教育費がぶつかってくるのが40代だから、お金の大事なことが判ってくるんです。また概ね50代のときには、嫁が入ってきたり婿が入ってきて、言うなれば自分の家庭とは違う環境の者が入ってくる。もっと判るように言えば、他人が入ってくるということです。それをうまくやり得なければ、嫁いびりになったりする。題目を唱えていて、そういう結果になるのは恥ずかしいことなんですよ。さらに60代にいくと孫が出てくる。この孫がまた可愛いくて仕方がないんだけれど、小学生、それから中学生くらいになると、もうおじいちゃん、おばあちゃんには関心がない。さらにもっと大きくなってくると、孫の場合は自分の子の時と違った悩みが出てくる。

それを、今生の苦は未来を思えば何でもない、今生の楽しみは夢のなかの楽しみだと知って一生を通じて余念なく題目を唱え、折伏していくことなのですが、そこに我々の世界観・人生観・生活観のなかに未来がないとだめなんです。それがないと、現世利益を願うようになって快楽のほうへ行ってしまう。未来があるから、未来のために努力し、勉強をする。そういうところから行学の二道を励むようになるんですよ。


そこで、今の皆さん方の一番の悩みは何かと聞かれたら、私は折伏だと思います。折伏が苦にはなるけれども、いつの間にやら、本気になって考えられない。どうしてそのことを真剣に考えないのか、どこがどう違って今日まで来てしまったのだろうということをみていきますと、年を取っていくと、それにつれて生活も苦しみもだんだん変わっていくということ、これは皆に共通して言えるんですね。こういう発想は大事なんですよ。

年を取ると、若いときと違って境界が高くなってくる。境界が高くなってくるから苦しみが出てくる。しかしまた、その苦しみを乗り越えていくと楽しみが出てくる。また、若いときは生きていくことが元気一杯で楽しかった。年を取ると身体が言うことを聞かなくなるけれども、煩悩もなくなってくるから、面倒くさいことは「どうでもいいか」でみんな片づけてしまう。これでは折伏する気がなくなってしまう。

だから、生活に対する考え方をもう一遍、見直していただきたい。それには、今の自分の年齢から40歳引けばいいんです。そうすると70代の人は30代、60代の人は20代でしょう。もう一遍そこへ考え方を置くと、今のままではだめだよということですね。そこに、自分自身が蘇ってきますよ。しかしまた、20代、30代のときのような低い境界とは違います。経験もあり、人の栄枯盛衰をいやというほど見ていますからね。これをやらない限りは、私は今の皆さん方の一番の悩みであり、心配している折伏の問題に火はつかないと思う。


折伏における因と縁縁をどうとらえるか

そこで、縁ということが出てくるんですね。折伏が前進していかない原因の一つに「縁がない」と言うでしょう。確かに縁がなければ折伏ばできませんから、一理あります。また、「折伏は、やらなきゃできない」。これも道理ですね。やる、やらないは自分のほうの因です。それで因と縁。だから折伏のできない因縁というのは、分ければこれだけです。

では、縁とはどういうことか。そこで、まず自分の家族、親戚、一族一門というように、一番縁の深い、身近なところから折伏を始めるんです。縁があるとかないと言う前に、縁とは一体何だと考えていくと、これが第一番に上がってくる。

その次には、幼椎園に行っていた子供も、次第に小・中・高・大学と友達ができてきます。さらに先輩や後輩、知人も出てくる。そういうところから縁も広がっていくんです。さらに細かく見ていきますと、自分の性分・性格の上に縁は開いていきます。俗に「馬が合う」と言うでしょう。これは上手い言葉ですね。物の考え方、そして人間性の上から、先輩、知人と繋がりが出来て、助け合い、アドバイスをもらいながら、さらに縁は深くなっていきます。

人間生活をよく見ていきますと、国土の違い、社会の違いによって様々であって、一人ひとりが自分の将来を考えて努力していくわけですが、そこに基準となる教えに欠点があると、生活上に矛盾が現れてきます。これが邪教によって罰が当たったということです。そういう大きな矛盾がどんどん現れていけば、その家は自然に滅びていきます。

また、国土・社会も同じです。かつて念仏王国と言われた北陸地方のように、その国土に展開してきた社会が滅びていく。真言を主体としたところの国土社会もだんだん滅びていく。そこで、生活と教えは密接な関係があるということを、しつかりと肚に入れなければだめです。滅びるには滅びるようなことをやってあるんです。たとえば、平気で約束事を破る。これでは誰にも信用されるわけがない。それから、上手くやってバレなければいい、見つかったら運が悪いんだという人間性の人と、付き合っていけますか。それが何宗であろうと、そういう人間性ではとてもだめです。ましてや、そういう人間性が平気で許されるような教えのなかにいたのでは幸せになるわけがない。

大聖人様は何と言われてるかというと、『開目抄』の冒頭に、「夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり。儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。三皇己前は父をしらず、人皆禽獣に同ず」(御書523ページ)と仰せです。

この御指南は厳しいですね。三皇以前というのは教えが設けられる以前です。そして、 「五帝己後は父母を弁へて孝をいたす」(同)と。親の恩を報ずるか報じないかという、ここが大切なんです。不知恩は人間として扱われない、禽獣と同じだと言われているんですね。

ところが今の世間を見て御覧なさい。親に大恩があったにもかかわらず、親の面倒は行政に見させようとしている。まさか、この御本尊を一生懸命拝んでいる我々の仲間が、「生活が忙しくてしょうがないんだ、親の面倒は行政で見てもらえ」なんて思ったら、これは畜生ですよ。そう思うでしょう。これが謗法なんです。不知恩の者はいくら努力しても、世間で損得利害で引き上げてくれようとしても、天がこれを守らない。そしてお金が貯まったかと思うと、災難が次々と現れてきたり病気をしてお金が出ていくようになっている。そういう人に対して、皆さんは可哀想だと思って、理屈を言って折伏しているんじゃないですか。理屈は必要ないですよ。「親不孝はだめだ、拝みなさい」とひと言で言わなければだめです。

ただし、自分のほうに親を面倒に思う気持ちがあったのでは、これは言えません。一生かかっても、その根性を直さない限りは幸せになれない。また、そのことをはっきりと言い切れなければ、だめなんです。もし言い切れないとしたら、悲しいかな、まだ自分もそういう習気が残っているんです。


「折伏の成果」とは「救われた人」の数

そこで次に、折伏の成果ということについて触れていきます。誓願の目標はちゃんと立て、数字で表現しないとだめなんです。もし言葉で表すとしたら、「誓願貫徹」とか「完遂」とか、そういうことでしょう。やはり数字で言わなければ判らない。だけど本質は入信の数ではありませんよ。では何かというと、「どれだけの人が救われたか」ということです。だから救われなければだめです。救われていないから、どんどん増えないんです。救われて黙っている人はいません。嬉しくてどんどん話していくでしょう。また救われるから話す。

さあ、なんとなく2ヵ月でできそうな話に近づいてきたでしょう。ところが、凡夫は逆立ちしたって人を救えません。御本尊様が救ってくださるんですよ。だから御本尊様を自分も信ずると同時に、その苦しんでいる人に「この御本尊様を拝みなさい」と言い、怠けていれば「どこを向いているんだ」と叱りながら励ませていくということ。自分も一生懸命に拝む姿を見せ、人を折伏して育成していく姿を見せながら、どんどん弘めていく。そうすれば、みんな判で押したみたいに利益を戴けますよ。

それには10年も20年もかかりません。3年経ってもぐずぐずしているのは、きちんと教え、やらせていない証拠です。本人も悪いけれど教えるほうも悪い。恥ずかしいことですよ、3年も経って利益の姿が現れないというのは。どんどんと利益を戴いていけるのが、前進していく源なんです。ところが凡夫というのは、どこかでしゃがみこんじゃう。先を行く者がだいたい4〜5年くらい経つと、もう得たり賢しと思って自分で前へ進まなくなる。これは運転台で居眠りしているようなもので、自動車の欠陥でなく自分のほうの欠陥です。

我々は功徳を積む生活をしていくんですが、よく、利益と功徳を一緒にしがちです。これは別個の意味があるんです。功徳は因の修行ですから、果報を積み上げていくことです。久遠元初の仏様の功徳をそのまま、妙法蓮華経を受持するところに我々は戴くことができるんです。その仏様が築き上げた功徳をもって、大勢の人を救っていかなければなりません。その振る舞いが「功徳を積む」ということなんですよ。

次に、仏様から利益を戴く。仏様が下さる利益のもとはどこにあるかというと、法界です。だから謗法の念慮が多くなって正法にたてつくようになってくると、今回のように中国のほうへ行くような形をしていた巨大な台風が向きを変えてこちらへ来る。これを『安国論』に当てはめて考えれば、ゆゆしき事態です。

さらにまた無始の罪障ということは、年数も経ってるから時効にでもなったかと思ってるかも知れませんけれども、因果の理法には時効はありません。そういったことを我々はよく身に付けていかなければならないと思います。


恒常的御供養の心がけ新しい時代乗り越える生活の切り替え

次に御供養の話をいたします。『大白法』で皆様方に周知のごとくですが、9月に講頭会で、恒常的な真心からの御供養をさせていただくということを宗務院に建議して、支部の役員である講頭さんと、本部役員の総講頭・大講頭が連判で御法主上人猊下に提出いたしました。この「恒常的に」ということは、たいへん大きな意味を具えているんです。どのように行うかは宗務院で決めてくださいますが、我々は無理なくずっと続けて功徳を積んでいけるということです。

4つに分けて申し上げますと、一つは時ということです。「『立正安国論』正義顕揚750年」ということは、凡夫の智慧才覚では判りません。2年前、奉安堂落慶大法要が終わった直後の、御法主上人猊下より僧俗我ら一同への御命題は、「倍増乃至それ以上」ということです。この御命題は、すばらしい果報になっていける、その数年前に戴けた御指南だと思います。それは、日本中が今の生活に対する考え方を一変しなければならなくなる。そうでないと新しい時代、国際社会を元気一杯生き抜いていくことができなくなるんです。そこに経済も政治も変わります。

新しい時代はどう変わってくるかといいますと、例えば、道州制が話題に上がっていますね。徳川時代までは60余州だったのが廃藩置県で現在のような制度になりましたが、これじゃあ、やっていけないから道州制にしようということです。経済も変わっていきます。皆さんは、経済が先で政治が後ということ、判りますか。政治が変わって経済が変わるのではないですよ。経済が先に変わって、その経済の上からトラブルがいろいろと出てくるから、政治はそれを調整するということなんです。政治が先で経済が後という考え方はだめなんです。また、経済と政治と同時というのはうまくいきません。やはり経済は一歩先に出なければだめです。今、政治も経済もどうやっていっていいか判らないでいるんです。では我々は、何もしないで待っているのかといったら、そんなことだめです。どんどんやっていけばいいんです。

そうすると次に、来年一月一日から予定されている、一布教区一地方部になっていくことですね。これは、スムーズに移行できる所はいいけれども、そうでない所もやはり一布教区一地方部になるんですかと心配な人もいるようです。私は「心配することはないよ。みんな拝んでいるんだから、みんなで考えればいい」と申し上げたい。隣の地方部を見て、あそこと同じようにならなければだめだと思うから苦しんでしまうんです。一番大事なことは、自分のことばかりで、みんなのことを考えないのはだめです。自分も真剣に生活していくけれど、みんなにも「がんばろうね」と言っていくところに異体同心があるんですから。これだけきちっとしていれば、みんなで考えれば答えは出ます。また、連合会もいくらでもノウハウを持っています。


そのなかで誰もが心配しているのは、人材がいないと言うんですね。本当にそうだろうか。みんな拝んでいるんだから、みんな人材じゃないかと思うんですがね。ただ、自分好みの人材なんて、いるわけがないですよ。そこに、大聖人様が「拝みなさい」と言われている。困難なことは、一生懸命御祈念して拝めば答えは戴けるんです。

世界中で、『安国論』において薬師経、あるいは仁王経を引いておられるように悪鬼・外道が次々と災いを為しているんだ、ということで信心を一生懸命に励ませていくことです。そうすれば、みんな自分自身のなかに慈念を持っていますから、自分たちの環境に合ったように一歩一歩前進していく。子供の未来という上に親がみんなで考えれば、ちゃんと答えは満足していくと、私はこう考えていますから、少しも難しいとは思っておりません。


3番目は、「正法の護持興隆、広布への大前進の実態の姿は講中制度の確立と前進にある(趣意)」(平成16年第2回講頭会の砌)と仰せられて、この講中は大聖人様からの御命によるところの正法広布に向かう講中であり、その中心主体となるのが講頭さんなんです。だから講頭さんのもとに、みんなが一結しなければだめです。ところが、自分好みの講頭さんじゃないと不満を言いたくなっちゃうんですね。それはだめです。「だったらあなたが講頭になればいいじゃないか。だけどたいへんだぞ。講中の冠婚葬祭に、みんな出かけていって、時には仕切ってやったり、いろいろなことをするんだ。そうしたら、仕事だって何日も休まなければならない。そんな簡単にできるものではないよ」と。だけど、それを投げ出す講頭さんは、これもまただめですね。やはり広宣流布に向かっていくところの講中を預かり先頭を歩くんですから、深く自覚しなければ。その功徳は抜群に大きいんです。

私は、この時代を正しく生き抜いていく上に何点か、自分で心に決めていることがあります。一つは、お山の行事に合うように、自分の生活を組み替えていく。また、御講、末寺の行事に対応できるように自分の生活を改める。そうしていないと、仕事とぶつかった時に仕事を取ってしまう。

次に、恒常的に御供養をしていくことですが、私が子供の時分に聞いたことを申し上げますと、九州開拓の妙寿日成貴尼様は、明治15年頃ですが、日掛けの箱を造って毎日貯めておられた。また、我々が子供の時分には、竹筒の口を切って1銭ずつ貯めていた。ああいう考え方が大事なんです。この日掛けということを軽く考えてはだめです。毎日毎日を心がけて1年、2年、3年と継続していくこと。この考え方が仏様に引き上げられていく根本なんです。金額云々ではなく、心がけです。私はそのように決意しています。

それから、世間はどんどんこれから乱れていきます。今年、台風が10回来ました。つい今し方、午後5時56分に新潟で震度6強の地震がありました。前から言っている東海地震の問題も、忘れていたらだめですよ。必ず来ると覚悟して、対策しておくんです。必ず来ます。それは、今の我々は、災難を免れていけるような信心の格好じゃないということ。謗法もまだいっぱいいる。だけど、そういうなかで天の加護を戴けるような信心をしていかなければだめです。


4点目は、来年の4月1日が来るとペイオフ全面解禁になります。これは2年前からやるぞやるぞと言い、これまで延ばしてきたけれど、もう始まります。これで、銀行が不良債権で身動きが取れなくなったときには、1千万円以下の預金とそれに付随した利息は保証するけれども、あとはパアということです。私たちは、わずかな金に命を預けるような考え方は、これからはだめです。

いずれにいたしましても、信心で生活を切り替えなければなりません。大御本尊様を固く信じて、力一杯、元気よく生きていくんです。みんなで助け合って生きていくというのが、法華の生命なんですから。そこに、先ほどの御法話の御指導のごとく創価学会を、みんなで折伏しなければだめです。個人的にあっちでちょこちょこ、こっちでちょこちょこでなく、全体で一挙に組織を組んで折伏する、そういうことをどんどん実現していく者は、どんな地震が来ても天の加護を受ける。私はこのことを声を大にして申し上げる。そうしてみんなで新しい時代をがんばるんです。


さあ、最後に、残った2ヵ月でどうやるかです。これは今までの話をまとめれば判りますけれど、自分の兄弟、親族、それを一つ乃至二つ、みんながやれば今年の誓願は達成です。納得していただけますか。だけどこれは、3階から飛び降りるような気合いですよ、ということを付け加えさせていただきます。そうなってくると、唱題が真剣になってきます。私たちは今日の登山会を契機として、みんなでがんばっていきましょう。以上です。

※この原稿は、本行寺支部の柳沢さんのご協力で掲載致しました。



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