大白法

平成17年2月16日号


主な記事

<1〜5面>


<6〜8面>


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スマトラ沖大地震・インド洋大津波犠牲者追悼法要を奉修
ジャカルタで御法主上人猊下大導師


1月28日、インドネシア共和国ジャカルタ市のジャカルタ・インターナショナル・エキスポ・ホールにおいて、御法主日顕上人猊下大導師のもと、「スマトラ沖大地震・インド洋大津波犠牲者追悼法要並びに義援金贈呈式」が厳粛に奉修された。

御宗門では当初1月末に新寺院となる妙願寺と法清寺の2カ寺における落慶入仏法要が予定されていた。しかし、昨年12月26日、スマトラ沖で起きたM9の大地震と、その地震により発生した大津波により犠牲者は30万人にも及んだことにより、慶祝行事にあたる落慶法要を奉修するには適当な時期ではないとの御法主上人猊下の御判断により延期され、このたびは、現地のパンディタ法人(信徒法人組織)の要請により犠牲者追悼法要を奉修することとなり、併せて義援金贈呈式を行うために御渡航されることとなった。

法要会場に御到着

1月27日午前11時半、成田空港をお発ちになられた御法主上人猊下には、総監・藤本日潤御尊能化、庶務部長・早瀬日如御尊能化、海外部長・尾林日至御尊能化、庶務部副部長・阿部信彰御尊師、大石寺理事・小川只道御尊師をはじめ十数名の随行を従えられ、同日午後7時20分(現地時間)無事インドネシア・ジャカルタ空港に御到着あそばされた。

インドネシアはこの時期は雨期にもかかわらず、快晴に恵まれた翌28日、午前9時10分に御宿泊のホテルを出発され、9時半にジャカルタ市北部クマヨラン地区に位置する法要会場に御到着。引き続き現地信徒代表者の御目通りが行われ、午前10時、司会者により開式が告げられた。

インドネシア全国各地から、また、マレーシアやシンガポールの近隣国からの代表信徒を含む5千名の参加信徒が唱題でお迎えする中を出仕鈴が鳴り響き、御法主上人猊下が御出仕あそばされた。会場内に特設された祭壇に向かって、御法主上人猊下大導師による読経・唱題には僧俗一致しての大唱和となり、追悼法要は厳粛裡に進行された。

参加の御僧侶と代表信徒による焼香、唱題に続いて、犠牲者諸精霊の冥福を祈る追善の御回向が懇(ねんご)ろに修せられ、参列者一同も犠牲者の冥福と被災地の一日も早い復興を祈念した。引き続き、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。その後、宗務院を代表して藤本総監、インドネシア日蓮正宗僧侶法人を代表して尾林海外部長から挨拶があり、次に、パンディタ法人を代表してアイコ・セノスノトさんより御法主上人猊下並びに参加の御僧侶や信徒に対して丁重な謝辞が述べられた。題目三唱をもって犠牲者追悼法要はとどこおりなく終了し、引き続いて義援金贈呈式が行われた。

義援金贈呈式には、アチェ州津波国家被害救援監視責任者でアチェ州選出国会議員のアフマド・ファルハン・ハミッド氏と、公共福祉担当調整省大臣補佐で特別委員のドディ・ブディアトマン氏がインドネシア政府代表者として出席。壇上にて、御法主上人猊下並びに政府代表者による目録と受領証への署名交換が行われ、御法主上人猊下より30万米$の義援金目録が贈呈され、インドネシア政府からは受領証が手渡された。

引き続きハミッド氏とブディアトマン氏より丁重な謝辞があり、正午前、犠牲者追悼法要並びに義援金贈呈式の一切がとどこおりなく終了し、御法主上人猊下は会場を後にされた。御法主上人猊下御一行は、この法要が行われた28日午後8時15分(インドネシア時間)にジャカルタを発たれ、29日午前7時12分(日本時間)、無事成田空港に御帰国あそばされた。犠牲者追悼法要に参列した多くの信徒が、御法主上人猊下の大慈大悲の御指南に、国土の復興を誓った。


信徒代表焼香


○御法主上人猊下御言葉 犠牲者追悼法要の砌

このたびの大災害追悼法要に当たり、当国にお伺いいたした日本国の日蓮正宗管長・阿部日顕であります。本日は、インドネシア共和国日蓮正宗パンディタ法人の幹部および信徒の方々と初めてお会いいたし、皆様のお元気な姿に接し、まことにうれしく存じます。

このたびのインドネシア共和国アチェ州沖海中を震源とする大地震および大津波で、当国をはじめインド洋沿岸諸国・諸地方の方々が、筆舌に尽くすこともできない大災害を受けられ、多くの尊い人命が失われたことは、まことに痛恨の極みであります。心よりお悔やみいたします。

インドネシアをはじめ、関係各国の指導者の方々、国民皆様のこの大災害における国土復興・被災者救済に関する御苦労は、まことに多大であると思われます。関係の皆様には、その難事を克服され、希望と光明に満ちあふれた国土の建設に邁進されますことを衷心よりお祈りいたします。

この災害に当たり、私ども日蓮正宗関係者の志として、心からの義援金を関係各国に贈呈させていただきましたが、当国へも、こののちこの場にて、インドネシア共和国政府代表の方々にお越しいただき、贈呈させていただくことを御報告いたします。

御法主上人猊下御言葉

さて、このたび、アイコ・セノスノト氏ほか、現在のパンディタ法人の皆様の厚い志により、盛大にこの追悼法要を行い、不幸にも亡くなった方々の魂をお慰めすることのできますことは、まことに有り難いことであります。

私もお招きにより当地へ初めて参上いたし、この追悼法要を修することができ、妙法の功徳をもって亡き方々への追善供養を行うことができました。これもインドネシア共和国大統領閣下をはじめ、政府要路の方々、さらには宗教界をはじめとする関係各位の御理解と御協力、および当国日蓮正宗の信徒皆様の強盛な信心と、同朋の不幸を悼む熱烈な博愛心の賜物であり、心より感謝いたす次第でございます。

日蓮大聖人の教えは、南無妙法蓮華経の御本尊を信じて唱題し、その功徳を自らも受け、また他に及ぼすことであります。この妙法の教えは、命の尊さを最高の意義より説かれております。すなわち一切衆生に尊極の命が具わり、また、その実証として永遠の生命が説かれているからであります。故に、この妙法を他に回向するところ、横には十方に通じ、縦には過去・現在・未来の三世にわたってその功徳が存在いたします。故に亡くなった方々の鎮魂にも、また国土の荒廃の復興に必要な国民の生命力の自覚と発揚にも、この妙法の信心と唱題の功徳が大切であると思われます。

日蓮正宗の信仰を持たれる皆様方、このような国土社会の危急の時こそ、一層、妙法の信心を強く持ち、唱題をもって死亡された方々の霊を慰められるとともに、この大災害の様々な困難極まる事後の復興処理に当たられる同朋に貢献し、また、その方々と共に一刻も早い国土の再建設に当たられますようお祈りいたします。

以上、本日の法要に当たり、一言、御挨拶といたします。



○追悼法要より 宗務院代表挨拶・藤本日潤総監

このたびスマトラ沖大地震・インド洋大津波の災害により、インドネシア共和国をはじめ各国々において亡くなられた多くの方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

この災害で肉親や家族を失われた各国の多くの方々、そして家や職、生活の基盤を失ったたくさんの方々に心からお見舞い申し上げると共に、これらの打撃からも身も心も、一日も早く立ち直り、再建・復興をめざして前進の一歩を踏み出していただきたいことを心から念願して止みません。

なお、かねて予定されていた妙願寺布教所の寺号公称・板本尊入仏法要、そしてジャカルタの新寺・法清寺の落慶入仏法要が延期やむなきに至りましたことは、まことに残念でありますが、御法主上人猊下には、必ず再びインドネシアに御来臨くださることを仰せられておりますので、どうか皆様には次の機会をお待ちいただきたいと思います。

皆様方のいよいよの御健勝と御精進をお祈り申し上げまして、簡単ではありますが一言もって御挨拶とさせていただきます。


○追悼法要より 現地僧侶法人代表挨拶・尾林日至海外部長

このたび、総本山第67世御法主日顕上人猊下には、はるばるこのインドネシア共和国へ御下向あそばされ、ここジャカルタ市のインターナショナル・エキスポ・ホールにおいて、スマトラ沖大地震・インド洋大津波の各国における多くの犠牲者の追悼法要を御親修賜りまして、まことにありがとうございます。インドネシア共和国に新しく生まれた僧侶法人を代表して、謹んで御礼を申しお上げます。御法主上人猊下、まことにありがとうございました。

このたびの大災害によって尊い人命を失われた一切の諸精霊の方々は、本日の追悼法要を通じて奉修された御法主上人猊下の御回向と、僧俗各位によって供えられた妙法の法味を満身に受けられて法界に安住せられるものと拝察申し上げるものでございます。

しかしながら、大災害によってご家族や友人、家屋や職場を失われた方々の、堪え難い悲しみとご苦労は筆舌に尽くせぬものがおありかと存じますが、どうぞ一日も早く苦難の中に光明を見出され、立派に立ち上がれると共に、国土の再生復興に尽力されますよう衷心よりお祈り申し上げます。

最後に、インドネシア共和国の安寧と一切の人々が災いを克服され築かれる平安を心からお祈り申し上げます。一言もって挨拶とさせていただきます。


○追悼法要より 現地信徒法人代表挨拶・アイコ=セノスノト

御法主日顕上人猊下、御僧侶の皆様方、パンディタの皆様方、全国の信徒の皆様方、こんにちは、本日、御法主日顕上人猊下の大導師を賜り、アチェ津波災害の被災者への追悼法要を行うことができました。私は、このたび御法主上人猊下の大慈悲がなければ、今回このような盛大な法要を執り行うことはできなかったとつくづく感じております。

当初、私たちはインドネシアで妙願寺及び法清寺の2カ寺の落慶入仏法要を予定していました。すでに落慶入仏法要の準備が最終段階に入っていた昨年末、アジアの諸国と北スマトラのアチェを襲う大津波が起き、それまで繁栄していたアチェの町が一瞬のうちに破壊され、跡形もなくなりました。そしてこの時に、十数万という尊い命を一度に失ったのであります。

アチェ州

私たちの祖国から何千キロも離れているところにおられる御法主上人猊下も、このアチェ並びにアジアの国々の国民を襲った苦しみを感じ取られ、当初予定していた落慶入仏法要を延期し、アチェの大津波犠牲者の追悼法要と義援金贈呈の儀式に切り替えられました。このことによって、私たちは、パンディタ法人日蓮正宗の信徒として、真の仏様の一人の弟子として、自身の幸せと目の前の必要なことを考える前に、他の人々の幸せとそれに必要なことを大事にすることが当たり前であると、目を開かせていただくことができました。

また、このたび私たちに、このように盛大な追悼法要の儀式を行えるように最大の御尽力をしてくださったインドネシア政府に対し、心から感謝申し上げます。と言うのは、御法主上人猊下をはじめ随行の方々のために、入国の許可並びに完壁な警備体制をもって協力していただけたからであります。これは政府が常に民衆のことを思っているということの具体的な一つの表れであると思います。

追悼法要

それとともに、この追悼法要に参列してくださった藤本日潤総監様、並びに各御尊能化・御尊師の皆様方におかれましても、私は心から感謝申し上げます。また、私たちの再三にわたる不手際のために起きた数々の問題に対しても深くご理解をいただき、まことにありがとうございました。なお、尾林日至海外部長様をはじめ、インドネシア担当教師の御尊師方、海外部の御尊師方におかれましても、最後の最後まで私たちをご支援くださり、まことにありがとうございました。このことは、僧俗和合の表れであることを実感いたします。

また、今回の法要が無事に行えるよう最大のご協力をくださったインドネシア仏教連盟指導者のハルタティ・ムルダヤ夫人、さらにはご協力くださいました各方面の方々にも心よりお礼申し上げます。そして、これこそがインドネシア社会における差別なき協栄協和の精神の表れであると思います。

最後に、全国のパンディタメンバーの皆様方の信心の志による真剣な御本尊様への異体同心の祈りによって、今日ここに私たちは追悼法要を成功させ、皆で一堂に結集することができたことに感謝させていただきます。

私は今日、御法主上人猊下の大導師のもとに追悼法要が奉修できたことは、私たちの間の生命尊重の確立につながっていくものと確信します。私は深い生命尊重によってこそ、インドネシア民族が最近断続的に被っているあらゆる困難から立ち上がることができると確信しております。ありがとうございました。



○義援金贈呈式より 政府代表挨拶・アチェ州選出国会議員・アフマド=ファルハン=ハミッド

日蓮正宗第67世御法主日顕上人猊下御一行の皆様、パンディタ・サバ・ブッダ・ダルマ・インドネシア法人(BDI)の幹部の皆様、御参会の皆様、本日インドネシア大地震、及び大津波犠牲者のために追悼法要が行われたことに深い敬意を表する次第であります。

私たちは、ナンロ・アチェ・ダルサラムの人々、さらにはインドネシア国民を代表して2004年12月26日に起きた大地震・大津波自然災害犠牲の復興・援助のお見舞いに対して深く感謝申し上げます。

目録贈呈

我々は、このたいへんな事件の犠牲者たちの受けた苦しみを深く思うとき、残された人々をどんな方法によってでも助けなければならないと決意をいたしており、彼らの将来の生活の向上のために、お見舞いを有効に使用させていただきます。

私たちは、日蓮正宗の御法主日顕上人猊下に対し、このたびのお見舞いを厚く御礼申し上げます。アチェの人々からも、御法主上人猊下並びに日本及び世界におられる日蓮正宗僧俗の方々に宜しくお伝えくださいと伝言されました。我々は、このたびのご厚意を、永遠の人間的な親愛・友情の思い出といたします。

我々は、御法主日顕上人猊下が、再度インドネシアを訪問されることを希望し、またいつか、ナンロ・アチェ・ダルサラムにお越しくださるようご招待を申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。

現地の新聞


○義援金贈呈式より 政府代表挨拶・インドネシア共和国公共福祉調整大臣補佐・ドディ=ブディアトマン

日蓮正宗僧侶の皆様、並びにインドネシア日蓮正宗信徒の皆様に深い敬意をもってご挨拶申し上げます。このたび、ナンロ・アチェ・ダルサラムの災害犠牲者を慰めるための法要の執行、及び義援金贈呈のため、遠路はるばるまいられた崇高な日蓮正宗の僧侶方に対し、心からの感謝を申し上げます。また、ナンロ・アチェ・ダルサラムの負担軽減のため、義援金を贈呈してくださったインドネシア日蓮正宗信徒の皆様に感謝申し上げます。

先ほどファルハン氏の挨拶のように、人道主義とは、宗教、民族を越えた普遍的なものであり、相互に敬意を払い、希望に向かって前進することが、インドネシア国民統一の原動力になることに思いをはせています。我々は政府の代表として、日蓮正宗僧侶の皆様が御健康にて、世界の人々を導かれることを心よりお祈りしております。そしてまた各宗教間の友好の輪が、将来もずっと続くことを希望し、ご挨拶とします(※)。


※管理者註:インドネシアの一部の地域では、イスラム教とキリスト教など宗教間の争いによる惨事が絶えない。




御法主上人猊下御言葉


○1月14日唱題行の砌

おはようございます。本日は何も話しをしないで退座しようと思っておりましたが、下種仏法の上から大聖人様が御出現あそばされ、13日に御入滅されました。それから、14日を挟んだ15日の、一閻浮題の御座主と拝せられる日目上人の御遷化という上からも、この14日ということが仏法の上からも非常に意義があると思うのでありまして、渡辺定元法華講大講頭以下、いつも出席されている方々がいらっしゃいますので、ひとことお話を申し上げたいと思います。

仏法の功徳は行ずることによるのであります。よって行うことがなければ仏法の功徳は全くないのであります。ですから、「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法あるべからず」(御書668ページ)という大聖人様の御指南のとおり、行ということが大事なのであります。境妙・智妙というのは、非常に尊い御本尊様の御当体と拝せられますが、それに対する行妙・位妙の行妙は、すなわち行うということであります。

それでは何を行うことが大切なのでしょうか。世間では色々な人が色々なことを行っております。社会のなかでは善いことを行ったり悪いことを行ったりしておりますが、この善いことについても、どの程度の善いことなのかということが問題であります。善いことにも色々段階がありますから、小さな善いことをしても、それが本当の意味の徳が生ずるとも言えないわけであって、一切を包括してすべてに通じておるところの絶対的な意味での善の行は、南無妙法蓮華経と唱える唱題行であります。ですから、1月において毎朝、この唱題行を行っておるのです。

「一期一会」という言葉がありますが、平成17年の1月14日という日は、今日の他にないのです。明日も明後日もあるには違いありませんし、また、あると思っていらっしゃるでしょうけれども、平成17年1月14日は今日しかないのです。この日に皆さんが集まって、本因下種の唱題行を行うということが実に尊いのであります。これは、皆さん方1人ひとりが、未来永劫への成仏の道を我が心のなかにしっかり植えておるということであります。


さて、14日についてでありますが、「徳」という字が14日の意義を示しているのであります。徳という字は行人偏に「十」を書いてその下に「四」を書きます。今の字は略字になっていますから、四のすぐ下が「心」という字になっております。これでもよいのですが、昔は四と心の間に「一」を書く「コ」という字があったのです。これは一があってもなくてもよいのですが、あればあったで「一心」と読みます。これは、「一身一心法界遍し」(同653ページ)という上からも、この心という意義は非常に大事なのであります。妙法の深い意義からするならば、我々の心はそのまま法界に遍満しておると言われておるのです。ただ、そのことは我々の迷いの心のなかでは、とても自覚できません。

また、私はこの十については十界と拝します。十は満数でありまして、一から数えて十で区切りになるのであって、それは全体を包括する意味があります。この十界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十の境界です。仏様は法界全体を御覧になって、十の意味においてこれを照らされ、そして説かれたのであります。法界の個性はそれぞれにたくさんありますけれども、その因果の上からの存在、そしてその境界を10に分けられて、地獄乃至仏界までの十界とされたのであります。ですから、法界全体を言う意味において、世界全体の意味において十という字があるということであります。

その十の内容は、一つひとつのところに執われておれば解らないけれども、その十の内容がきちんと解れば、それは4つの徳をもって示されておると拝することができるのであります。ですから、十の下に四という字が存するのです。では、その四は何かと言いますと、これは妙法蓮華経の上からの常・楽・我・浄の4つの徳であります。またた、楽・我・浄・常という形が、お題目の上から拝せられます。すなわち「南無」は楽波羅密、「妙法」は我波羅密、「蓮華」は浄波羅密、これは浄いという意味であり、非常に清浄で自他を浄くする蓮華、浄波羅密であります。「経」は常波羅密で、常住にして変化がないということであります。この経という字は横に対する縦の筋という意味です。このことから、時間的な上からの常住ということも言えるのです。

したがって南無妙法蓮華経は常・楽・我・浄の四波羅密でありまして、本当に南無しきったところに安楽があるのです。皆さん方がお題目を唱える際に、南無の字をしっかり拝してお題目を唱えていると、肩の力がだんだんと抜けてくると思います。そして本当に身体が安楽な境界を得るのです。どのような安楽があるといっても、これが最高の安楽なのです。ですから南無妙法蓮華経を唱えるなかに真の安楽な境界が存するのであります。そして、南無妙法蓮華経の南無の安楽の境界をそのまま具えられておるのが安立行菩薩様なのであります。

それから、妙法である我波羅密は、妙法蓮華経は個々の法がそのまま一切に通ずるところの法界全体の妙という意味が開かれてくるのでありますから、小さな我ではなく大きな我として、すなわち自我即法界の上から妙法の境界が示されておるわけで、そこの我波羅密という、意味の小さい我を大きな我に開いていくという徳が存します。この徳によって、自分自身の小さな個性が、そのまま大きな境界を基本として行くことができる意味があります。そして、これは全体に向かって進むわけですから、上へ行くと書きまして上行菩薩様の徳になります。 

蓮華は当然、「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや(中略)日蓮又日月と蓮華との如くなり」(同 464ページ)という御文のとおり、非常に清浄であります。したがって浄波羅密は清浄、すなわちこれは浄行菩薩様を顕します。御本尊様の左右に釈迦、多宝が示されてありますが、さらに右に上行、無辺行、左に浄行、安立行とお示しであります。この客殿の御本尊様も、日興上人様が御相伝の上から御本尊の当体をお示しあそばされておるのであります。

そして、最後は経についてでありますが、これは常という意味を持つのであります。先程も申し上げましたけれども、常波羅密、すなわち変化することのない常住の法界の命を顕すのであります。よって我々の命もまた、常住なのです。この常住の徳を具えておられるのが無辺行菩薩様であります。また、これらの徳は地・水・火・風・空のなかでも万物を運載するところの地大に当たります。

それから妙法である我波羅密は上行菩薩様、すなわち上へ行くという意味で火大にあたり、限りない向上心を表します。この客殿にはたくさんのお年寄りもいらっしゃるし、若い方もいらっしゃいます。若い方は若い方なりの未来があるでしょう。しかし年寄りは「もう、私は間もなく棺桶に入るから、それはどうしようもない」と思われるかもしれませんが、妙法を唱えることによって、我々が永遠の生命の上に生きておるということを感ずるならば、また自覚するならば、我々の向上は無限であります。死んだあとも、妙法の無限の功徳をもって永遠に生きていき、さらに立派に功徳を成就していうところに、上行としての我波羅密の徳が存するのであります。

また、蓮華である常波羅密は浄行菩薩様です。蓮華は水によって生じます。水のない所に蓮華は全くありません。これはあらゆる汚れを洗う清浄な用きがあり、水大の徳、すなわち浄波羅密です。最後に、経の字の常波羅密はいかなる所にも至る風大の徳であります。そして、あらゆるものの魂となって法界無辺の存在となるので、風大、すなわち無辺行菩薩様の常波羅密の徳であります。そして、この四大を束ね、包括するのが、空大であり、四徳四菩薩の尊い用きをすべて具え、また一切をよく生ずるのであり、この五大がすなわち妙法蓮華経であります。

そのような意味からも楽・我・常・浄・常という4つの徳が、我々の一切の徳の根本であります。たしかに、目先のちょっとしたもうけなども徳には違いありません。また、生活をする上においては、それはそれで大切かも知れませんが、一番根本のところで南無妙法蓮華経と唱えて、そこから永遠に向かっての真の生命の浄化と充実を図っていくということが大切であります。よって、すべての功徳の元は南無妙法蓮華経妙の唱題行に存するのであります。

先程も申し上げましたけれども、この徳という字には行人偏があります。これは行ずるということでありますから、南無妙法蓮華経妙と唱えることが徳の本当の意味なのです。そして、行ずることによって十界の四徳が一心の信心に具わる次第であります。我々の一心はどこにあるのかといえば、妙法蓮華経の御本尊様を信じ奉るところに存するのであります。いわゆる、「『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり」(同669ページ)という有名な『義浄房御書』の御文のとおり、我々が信心の一念をもって唱える題目こそ、自他を救っていくところの本当の道に当たるのであります。

そのような意味において、14日が「徳」という意義を持っておるということがありますので、本日はその意味において話をした次第です。なお一層、唱題行を行っていくところに、我々の本当の功徳の成就があるということをお互いに確信しつつ、精進してまいることが大切だと思います。御苦労様でした。


○1月22日唱題行の砌

おはようございます。明日の23日をもちまして客殿における1月度の唱題行を終了いたしますが、最後の日でもありますので、大勢の方々に御参詣いただければと思います。明日は、9時から行うことになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

この唱題の行には、必ず証しという意味があります。何についても、行えば行った結果が必ずその人の命のなかに、色々な形となって表れてくるのであります。迷いの気持ちからすれば、それがそのまま迷いの形の結果として表れてまいります。ですから、南無妙法蓮華経の唱題行を常に行うことによって、その人の生活、命のなかに、その妙法の証しが、証りの結果として種々の形となって顕れてくるのであります。これはその人その人の境遇によって色々ありますけれども、その人の生活のなかにはっきりと妙法の功徳が顕れてくるのであります。ですから、我々の毎日の生活の中に即身成仏の意義をもって本当の功徳が生ずるということを信ずることにおいて、必ずそれが実証されると思うのであります。

本年度1月度の唱題行は明日で終わりますが、皆さん、本年は本当に御苦労様でした。

※インドネシアで2ヶ寺の新寺院落慶入仏法要の予定であっため。

○1月23日唱題行の砌

皆様、本日はようこそ御参詣になられました。本年度も1月1日から唱題行を行っておりましたが、事情がありまして、本日23日をもって本年度の唱題行は終了いたす次第であります。しかるところ、法華講総講頭・柳沢喜惣次殿、また大講頭・渡辺定元殿ほか、大勢の方々の参詣によりまして、ただいま皆様と共に本年度の客殿における最後の唱題行を勤めさせていただきました。

考えてみますると、1月における唱題行は平成7年から始まったのであります。皆さん方のなかで参加された方も多いと思いますが、平成6年に「六万大総会」という行事がありまして、その時に私が打ち出させていただいたのが、平成14年の「宗旨建立750年」という佳節に向かっての宗門の正法興隆の大前進についてでありました。そして、そのためにも平成7年から、1月を通して唱題行を始めた次第であります。今年はそれから数えて11年目になります。

考えてみますと、この間において非常に不思議なことがたくさんありました。平成6年の「六万大総会」についても、ある人に「絶対に不可能である」ということを言われたのあります。6万人が一度に集まるということについて考えてみますと、輸送、宿泊、その他の問題も含めまして、過去において総本山でこのようなことを行ったことは、無論、ありませんし「これは絶対に失敗する」というように言った人がいます。そして「1日に1万人ずつ、6回にわたってはどうでしょうか」というような話しも出たのであります。しかし、私は御本尊様にお誓いしてこのことを打ち出した以上、必ず加護あると思っておりました。ところがこの時、あらゆる面から魔が現れてきたのであります。特に「六万大総会」と時を同じくするように、大きな台風が静岡県に向かって進んで来たのであります。しかしながら不思議なことに、その台風が上陸間近に直角に西へ向かって進路を変更いたしまして、そのまま九州へ向かったのであります。当時、九州、特に福岡県ではたいへんな日照りが続いておりまして、雨の欲しい時期でありました。そして、僅かですけれども雨を降らし、その水によって潤ったということも聞きました。そのような面からも魔がたくさん現れてきましたけれども、諸天善神の加護があり「六万大総会」は滞りなく成就したのであります。

そして、その時に打ち出したのが平成14年の「30万総登山」でありました。よって、平成6年から14年までの8年間は、特別な行事は組まれておりませんでした。ところが、災害を受けられた方は大変にお気の毒ではありますけれども、平成7年に阪神・淡路大震災が起こったのであります。大地震が起こるということも、一つの大きな天地法界のなかの様々な因縁が存するのであります。大聖人様も、あの正嘉元年丁巳8月23日の戌亥の刻の大地震が謗法の故であることをはっきりと仰せありますが、そのような意味が、今日においても当然、存するのであります。

そして、不思議にも平成7年に起こった阪神・淡路大震災か鑑みて、前の大客殿が大地震等に対する耐震安全性の面から憂慮すべき危険な状態にあることが判りまして、思いきってこれを建て替えるということになったのであります。そして、平成10年に現在の客殿が建立され、図らずもその時において、信徒の方々の「10万総登山」が行われる次第となり、これも見事に成就させていただきました。そして、平成14年の「30万総登山」も僧俗一致の協力によって滞りなく奉修でき、正本堂が色々な故において解体され奉安堂が建立されました。

このような経過からいたしましても、私は唱題行によって正法を護り奉る功徳というものがはっきりと顕れるということを確信し、また皆様と共にこの正法を正しく護持できたことを本当に有り難く思っておる次第であります。


唱題ということは、けっして最近、始まったわけではありません。既に大聖人様の時代、日興上人の時代においても、色々な形でこの唱題が行われたと思うのであります。また、徳川時代においても、総本山第26世日寛上人が唱題を志されて、今日では石之坊の本堂になっておりますが、常唱堂が造られました。この常唱堂は、当時の地図によりますと、現在の雪山坊と法祥園の間に奉安堂へ向かう道が南北に延びておりますが、その道が奉安堂に突き当たったすぐ右側の角、すなわち、突き当たりを右へ曲がると五重塔へ行く道がありますが、その角に建てられたようであります。そして、大正14(1925)年に総本山第58世日柱上人が、日寛上人とゆかりある石之坊に移されたのであります。その時の常唱堂は、今まであった庫裡とその東側の説法石との間の所に建てられたのです。

それがさらに、御先師日達上人によりまして、今日のような立派な堂に造り替えられました。そして、石之坊の庫裡は大変古かったので、私が先般、法祥園を造る際の境内整備のなかにおいて、これを全部、解体いたしまして、本堂の西に、つまり道に近いほうへ寄せて、その東側に庫裡を建てた次第であります。そのような形で、今の石之坊の本堂の形がありますが、今日でも常唱堂という名称を使っております。

皆様も御承知と思いますが、日寛上人が、「ふじのねに 常にとなふる堂たてて 雲井にたへぬ法(のり)の声かな」(日寛上人伝14ページ)という有名なお歌を作られましたが、これが常唱堂を造られた時のお歌であります。天地法界に向かっても、この題目を唱えるところの意義が非常に深いのであり、また一人ひとりの即身成仏の道もそこに存すると言う意味が含まれておると思うのであります。

御承知のように、日寛上人は『六巻抄』あるいは『観心本尊抄』『開目抄』その他、重大な御書に関する深義をことごとく正しく指南された『文段』を作られました。特に他宗他門においてあらゆる御書の会通、解釈が間違っており、したがって根本的に本尊にも迷っておりますが、それらのことごとくを指摘されつつ、本当に正しい大聖人様の仏法の教学を樹立された方であります。しかし、それはけっして日寛上人が創作されたのではなく、大聖人様から日興上人、御歴代上人に伝わったところの信条・化儀、正しい三大秘法の筋道、深義をさらに教学的な形で体系づけられたということであります。

大聖人様の御書を拝しますと、釈尊一代の仏教の内容をことごとく整理され、その上に三大秘法が建立されております。したがって、御書のなかには内外相対、大小相対、権実相対、種脱相対等のあらゆる法門が説かれておりまして、この帰結として三大秘法が示されるのであります。大聖人様はこの筋道について「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし」(御書906ページ)ということを仰せになっておりますが、ここに大事な意味があるのです。

末法万年の大法を建立あさばされる上においては、釈尊仏法から派生した様々な方便の形をことごとく整理しなければなりません。その面では大聖人様の御書は、内容的にも非常に広く深いのであります。他宗他門の人達はその辺の筋道に迷ってしまって、ちゅうど山に入って途中で道を見失い、山のなかから山のなかへ迷うよういに、正しい道筋を忘れておるのであります。大聖人様はこれを正しく整理されて、あらゆる御法門を示されておるのでありますが、また、これを正しく解釈することが難しいのです。その面で、これからのことをきちんと整理されて正しい教学を打ち立てられたのが日寛上人であります。しかし結局、あらゆる法門はことごとく釈尊が、また御本仏日蓮大聖人が衆生を正しく導くために説かれた教えであります。その衆生を正しく導く内容は、先程も申したとおり、実に八万四千の法門と言うように、五千・七千の経巻が説かれております。しかしながら、その一つひとつのどこを見ても戒定慧の三つのところに括られておるのであります。

「戒」ということは善悪の道を正しく教えて、正しい善の方法において衆生が本当に救われていくことが示されるのであります。次は、「定」ということでありますが、これは心のあらゆる散乱を防いで、きちんとしたところの正しい道筋が、毎日の生活の上に、命の上に顕れていくべきことを述べられておるのであります。この定も色々あるのです、定とひとくちに言っても、ただ心をなくしてしまうということではなく、不淨観や数息観など、様々な觀念の方法が定の内容として存するのであります。こういうことを述べていくと大変長くなりますから省略いたします。最後に「慧」ということでありますが、これはあらゆるものを分別し、正しい筋道をきちんと明らかにして、智慧によってそのものを照らしていく、すなわち自分自身をも正しく照らし、あらゆるものをまた正しく見極めていくところの智慧であります。この智慧にも世間の智慧、さらに仏教のなかにおいての様々な小乗の智慧、大乗の智慧、さらに法華経の上からの智慧というものがあり、いわゆる即身成仏、境智冥合の智慧も存するのでありますが、仏法の内容はすべてがこの戒定慧の三つに括られるのであります。したがって、大聖人様はこの戒定慧の三つを三大秘法に、すなわち本門の本尊は虚空不動定、本門の題目は虚空不動慧、本門の戒壇は虚空不動戒という、この3つに括られ、末法万年の化導の法体として示されておるのであります。

日寛上人も、これらのあらゆる法門をことごとく仏意に従って示されおります。特に、法華経を中心としてはおりますけれども、非常に深く広い形で仏教の内容を述べられておる天台の法門を自由自在に引かれて教学が作られております。ですから、よく読んでいくと、天台などの教理を勉強することが中心だと思っていまう人が多いのです。「お題目を唱えることよりも、仏教を、あるいは天台を、あるいは日寛上人の『六巻抄』等を勉強していくことが仏教の在り方なんだ」と、このように思っておる僧侶も時々いるのです。しかし、これは大きな間違いなのです。

それらの帰結は結局、日寛上人が常唱堂を造られて、そして、当時、番役の僧侶が毎日、朝から晩まで常唱堂において唱題をされていたのですが、そのような形にはっきり示されておるように、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱え奉るところに真の成仏得道が存するのであります。妙法蓮華経の御本尊の御当体において、南無妙法蓮華経のなかに戒定慧のあらゆる教え、また釈尊一代の仏教の内容がことごとく具備されておるのでありますから、ただ信の一字をもって唱題するところに、現当二世のおける即身成仏の道が必ず開かれ、大きな功徳が生ずるのであります。また、これを自分一人のみならず他にも伝えていくところに、いわゆる自行化他、折伏の修行が当然、現れてくるのであり、この上からの僧俗の真の和合一致の前進によるところの正法広宣流布の姿がはっきり現れてくるのであります。

「30万総登山」も既に3年前のことになりましたが、さらに未来に向かって我々正宗の僧俗がしっかり団結し合い、正法護持興隆のために唱題行を根本として進んでいくことが大切であるということを申し上げまして、本年の1月度における最後の唱題行の言葉とする次第であります。皆様方のいよいよの御精進を心からお祈りいたします。



信行を磨く 『破和合は堕地獄の因なり』 土居崎慈成御尊師


「僧俗前進の年」との御命題を賜りました本年も1ヶ月を過ぎ、全国の各支部が誓願目標完遂に向け、本格的な活動を開始した頃と拝察いたします。季節も春を迎え、信心の始動にも本腰を入れなければならない時期でもあります。


宗祖の御誕生

私たち正信に集う平成広布の僧俗は、日蓮大聖人の御誕生により、その御魂魄たる御本尊を拝することができ、金口嫡々・唯授一人の血脈を備えられた御法主日顕上人猊下の御指南により、日蓮大聖人の仏法を正しく信行することができるのであります。

法華経『方便品』に、「諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう」(法華経101ページ)とありますごとく、末法の一切衆生救済のために、御本仏たる日蓮大聖人は貞応元(1222)年2月16日、御誕生あそばされました。まさに末法の始めに五濁の闇を照らし、濁悪の世に一実の光明を放つ一大事の因縁を備えたるものでありました。

『日女御前御返事』には、「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはた(籏)じるしとして顕はし奉るなり・・・妙法五字の光明にてらされ本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」(御書1387〜8ページ)と、御本尊の御図顕の因縁を証されております。

しかしながら、御出現は未曽有の大慢陀羅を御図顕されることだけなく、正法流布の使命を末法の弟子・檀那に託されたものでありました。今の世相は、御在世当時に勝るとも劣らぬ様相を呈(しめ)しており、地球温暖化をはじめ、三災七難はまさに世界規模で甚大(じんだい)な被害を与えています。過日のスマトラ沖大地震では、30万をも超える人々がその犠牲となったことを聞くにつけ、邪教に迷盲する人々を正法へと導く任を強くするものであります。


五逆罪を恐れよ

御命題の「僧俗前進」とは、日蓮大聖人の正法を信行する僧侶と僧侶、僧侶と御信徒、御信徒と御信徒とが異体同心して諸悪の根源たる邪法を喝破すべく、自行化他に邁進することにあります。

仏法では、無間地獄に墜ちることが必定とされる5つの大罪が説かれております。いわゆる殺父(しぶ)・殺母(しも)・殺阿羅漢(しあらかん)・出仏身血(すいぶちしんけつ)・破和合僧(はわごうそう)の五逆罪であります。その中でも「破和合僧」は他の4つの大罪とは異なり、外からも内からも起こり得るものであり、そうとは知らずに犯す場合もある大罪であります。これは三宝の破壊より起因し、和合を分断・断絶せんとする用きから起こるものであり、この5つの中で最も重い大罪であると説かれております。「破和合僧」とは、和合している僧団及び宗団の和を破壊する義であり、宗団とは、正信の集う日蓮正宗の僧俗であります。破とは、その和を破するに止まらず、広布の前進を妨げんとする行いに他なりません。

『華果成就御書』には、「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたく(蓄)はひぬれば師弟地獄にを(堕)つといへり。師弟相違せばなに事も成すべからず。」(同1225ページ)と、良き師と良き弟子が正法の御籏のもとに集い、共に和をなして邁進いたしてこそ、仏果を得、願いを成就することができるとの御金言であります。逆に、もし和合を破る弟子があれば、師も弟子も共に仏果を失い、無間の炎に焼かれることとなるのであります。

二祖日興上人は、弟子・檀那への訓誡として、「このほうもんは、し(師)でし(弟子)をたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじくほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」(歴代法主全集第1巻183ページ)と、日蓮大聖人の正しき法を受持信行する師と弟子が集ってこそ、仏果に至ると仰せられておるのであり、「賢人と申すはよき師より伝えたる人」(御書967ページ)と、正法の伝授と異体同心の師弟関係こそ、賢人の信行に他なりません。


臨終只今にあり

平成21年に向かう我ら和合宗団の前には、三障四魔等の様々な難敵が立ちはだかり、時には信心を脅かすほどのこともあるかと思いますが、何時如何(いついか)なる時にあっても、正法の行者として、賢人としての振る舞いに努めねばなりません。

「信とは無疑曰信(むぎわっしん)とて疑惑を断破する利剣なり。解とは智慧の異名なり。信とは価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり」(同1737ページ)と仰せのごとく、どこまでも正法正義に信を誓い、題目の五字七字によって諸仏の智慧を得て、時に適った信行に邁進いたすならば、平成広布の賢人と称讃されることでありましょう。

さらに諸仏の智慧は、自身の肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を開眼し、物事の事象や真理を見極め、自らを助け、護り、必ず幸福へと導くことになるのであります。御法主日顕上人猊下は、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大白法635号)と仰せられました。唱題によって五眼を開かれ、今、自身がなすべきことも、折伏すべき人も、その方策も、すべて見通すことが必ずできるのであります。

そして、異体同心折伏へと転じていくならば、祈りが叶わぬはずはないのであります。それでも未だ叶わぬ場合は、さらなる不自借身命の精進をいたすべきであります。中国の諺に、「人一たびして之を能くすれば、己之を百たびす」という言葉があります。これは他人がその目的を一度で達成してしまって、自分は一度では達成できない場合、達成するために百度でも挑戦し、必ず達成すると誓い、邁進する意であります。

広宣流布は、一人ひとりが「百たび」し、さらには、「所詮臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を『是人命終為千仏授手(ぜにんみょうじゅういせんぶつじゅしゅ)、令不恐怖不堕悪趣(りょうふくふだあくしゅ)』と説かれて候」(御書513ページ)と説かれますごとく、「臨終只今にあり」との心で家族・支部・地方部・一切の僧俗が一丸となって精進してこそ達成する大眼目であります。

さあ、春を迎え、生命が息づき始める今、平成広布の大前進を開始いたしましょう。



体験発表 『障害を受け入れ、心から母にありがとう』
妙光寺正道講支部・石崎智胤


みなさん、こんにちは。本日は、月例登山会の座談会において体験発表させていただく機会を与えてくださったことに、感謝申し上げます。私は現在30歳になりますが、2歳の時から「脳性小児麻痺による四肢機能障害」という障害を持っております。本日は、私がどのように障害を考え、それを信仰によってどう受け入れることができたのかを、お話したいと思います。

私が自分の体が他の人と違うと自覚したのは、幼稚園の頃です。それまでは歩くことができなかったので、2歳から5歳まで東京にある国立小児療育病院に入院していました。この病院には、私と同じ障害を持った多くの子供たちがいます。その世界では周りの子供たちと同じだったわけですから、自身に障害があるという意識は、ほとんどなかったのです。

その後、歩けるようになり、普通の幼稚園に入園しました。そこで初めて、自分と他の子供が違うことに気がつきました。まず、歩き方が違います。みんなはまっすぐ足を出して歩きますが、私は足がまっすぐ出ません。それどころか、足が絡まって転倒します。また、みんなと同じように走れません。体もみんなと同じように動きません。そういう日々の中で、自身の障害を知ることになりました。

小学校に入り、普通学級に進んだ私を待っていたのは、「いじめ」という問題でした。足を引っ掛けられ転ばされる、馬鹿にされる。歩き方の真似をされたりもしました。そのときには、「自分がなぜこんな目に遭わなければならないのか」と、こんな体に産んだ母を本当に恨みました。両親は、私がいじめに遭う理由について、「いじめる子も悪いが、いじめられるお前にも原因がある」と言い、障害があってもそれ以上に光り輝く人間になれと、私を叱咤激励しました。それは子供であった私には理解することが難しく、親に対して憎悪が増していったのでした。

中学生になると自分の障害についてはあきらめるようになりました。どうせみんなと同じようにできないからしょうがないと、自分に甘えるようになり、努力しなくなりました。そんな私の姿勢ゆえに「いじめ」も激しさを増し、いじめた相手と母に対し、ただ恨む日々でした。


そんな私でしたが、高校に入り、転換期を迎えました。それは妙光寺に通うようになったことです。私は5歳のときから日蓮正宗の信徒でした。しかし、それまで全くといっていいほど信心をしていませんでしたが、ある御僧侶との出会いから、お寺に通うようになりました。そのきっかけは、その方に、「私が真剣に信心すれば健常者になれますか」と質問したことでした。その御僧侶は「君の障害が治るかどうかは判らない。けれども御本尊様に真剣に祈っていくとき、君は足が気にならなくなり、乗り越えていけるでしょう」とお話してくださったのです。その言葉を信じて妙光寺に通うようになり、信心するようになりました。

お寺に通い、御僧侶から日蓮大聖人様の仏法を教えていただくうちに、自身の障害について、心の中で少しずつ受け入れられるようになりました。そうして「逃げてはならない。甘えてはならない。自分で乗り越えていくのだ!」と覚悟を決めました。その覚悟を決めてから、いじめはなくなっていきました。

高校を卒業して、自分と同じ障害を持った人たちの力になりたいという思いから、福祉の専門学校に進学しました。専門学校の同級生は、最初、私のことを「障害があるのに、なぜ福祉の学校にきたのだろう」と思っていたようです。私が、「だからこそ相手の立場に立って援助ができるんだ」と話しますと、みんな感心して、「石崎君は心が障害者ではないんだね」と言ってくれました。その言葉を聞いて、私は、障害を克服できた自信を持ったのでした。専門学校に入って、それまでの人生で初めて、自信を持って3年間を過ごすことができました。


その3年もあっという間に過ぎ去り、就職活動になりました。しかし、福祉系の就職は、私の障害がネックとなり、ことごとく就職試験に落ちました。私は、御住職様に相談しました。御住職様は、「必ず君を必要としている職場があるから、御本尊様を信じてがんばりなさい」と、確信に満ちた励ましの御指導をしていただきました。

結局、福祉の仕事に就くことはできませんでしたが、不動産広告の会社にアルバイトとして入社しました。そのとき、私は、他の人と同じ仕事がすべてできるわけではないが、自分にできる仕事は、他の人の3倍がんばろうと心に決めました。広告の仕事は未経験でしたが、幸い、良い上司と先輩に恵まれ、仕事をどんどん覚えて、会社としては異例な早さで社員に昇格となりました。 社員になれて1年目、それまでの通勤の無理がたたったのか、股関節脱臼が悪化して手術をすることになり、半年間、休職しました。足の手術とリハビリを終えて会社に復帰すると、待っていたのは配置転換でした。部署移動に伴い、今までやったことのない仕事をすることになったのです。いわばゼロからのスタートです。しかし、私とすれば、新鮮な気持ちで一から学び直すことに意欲が涌いてきました。

その部署に移って半年くらい過ぎた頃、一つのチームのリーダーとして仕事を任せられました。そのチームは、6人ぐらいのメンバーです。その仕事をするようになって初めて、1人で仕事をするところからチームで仕事をすることの大切さを学びました。それは、チームの仲間のそれぞれの特技を発見して、できること、できないことをみんなで協力して仕事をしていくことです。

私にとっては、障害も同じことが言えると思うのです。今まで私は、自分の心を強くしていくことで、乗り越えられるものだと思っていました。しかし、社会に出て仕事をしていくうちに、自分の障害をそのまま受け入れるというのは、乗り越えたと強がって思い込むことではなく、できること、できないことを真摯に受け止めて、素直に自分のありのままを、自信を持ってさらけ出して生きていくことだと、確信したのです。同時にこれまで悩み苦しんだ歳月が、そっくり心の糧になっていることにも気づきました。

その思いで今までの人生を振り返ってみますと、たくさんの人たちに支えられて生きてこられたことが実感できます。そして、一番支えてくれたのは言うまでもなく両親です。いろいろな心の葛藤を経てきて、今になって初めて母に言えたことがあります。「産んでくれてありがとう」と。

私以上に悲しみ、苦しんだのは母です。その母の思いが判らず、母を恨み親不孝を重ねてきました。これからは、自分の特性を活かして、力強く社会人として生きる姿を見せていくことで、親孝行していきます。また、ここまで自分を育ててくださった御本尊様に御報恩申し上げるためにも、自分の体験を通じて1人でも多くの人々に信心の喜びを語り伝えていくことを、総本山の大御本尊様にお誓い申し上げ、体験発表の結びといたします。


※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で掲載致しました。


正本堂解体関連謀略訴訟で学会を撃退


正本堂解体を口実に、創価学会員らが起こした一連の不当訴訟で、1月27日東京高裁において、静岡地裁(護持御供養)裁判の控訴審判決があり、裁判所は宗門側の全面勝訴を言い渡しました。

1,東京高裁判決の要旨

この裁判は、正本堂関連裁判のうち、静岡地裁に併合された護持御供養裁判6件の控訴審です。原審の静岡地裁は原告ら創価学会員の訴えを棄却しましたが、これを不服とした創価学会員らが東京地裁に控訴したものです。東京高裁は宗門側の主張を全面的に認め、正本堂護持御供養には法的な意味での使途限定はなく、負担ないしも条件も付されていないと明確に認定し、その他宗門には信義則違反も不法行為も認められないとして、これま言い渡された他の同種裁判と同じく、創価学会員らの控訴をすべて斥けました。

2,正本堂裁判の完全勝利間近

正本堂裁判のうち、建設供養裁判は昨年12月8日に地裁・高裁での全件勝訴を達成しましたが、護持御供養裁判についても、この東京高裁判決によって地裁・高裁での全件勝訴を達成したものです。これによって全国各地の創価学会員らを大量動員して39件も提訴してきた正本堂裁判は、すべての地裁・高裁で、創価学会側の不当な訴えを撃退して宗門側が勝訴したことになります。また、正本堂裁判は続々と宗門側勝訴の最高裁決定がなされており、この東京高裁判決によって、すべての裁判の完全勝訴まで間近となりました。


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