<6〜8面>
御宗門では当初1月末に新寺院となる妙願寺と法清寺の2カ寺における落慶入仏法要が予定されていた。しかし、昨年12月26日、スマトラ沖で起きたM9の大地震と、その地震により発生した大津波により犠牲者は30万人にも及んだことにより、慶祝行事にあたる落慶法要を奉修するには適当な時期ではないとの御法主上人猊下の御判断により延期され、このたびは、現地のパンディタ法人(信徒法人組織)の要請により犠牲者追悼法要を奉修することとなり、併せて義援金贈呈式を行うために御渡航されることとなった。
1月27日午前11時半、成田空港をお発ちになられた御法主上人猊下には、総監・藤本日潤御尊能化、庶務部長・早瀬日如御尊能化、海外部長・尾林日至御尊能化、庶務部副部長・阿部信彰御尊師、大石寺理事・小川只道御尊師をはじめ十数名の随行を従えられ、同日午後7時20分(現地時間)無事インドネシア・ジャカルタ空港に御到着あそばされた。
インドネシアはこの時期は雨期にもかかわらず、快晴に恵まれた翌28日、午前9時10分に御宿泊のホテルを出発され、9時半にジャカルタ市北部クマヨラン地区に位置する法要会場に御到着。引き続き現地信徒代表者の御目通りが行われ、午前10時、司会者により開式が告げられた。
インドネシア全国各地から、また、マレーシアやシンガポールの近隣国からの代表信徒を含む5千名の参加信徒が唱題でお迎えする中を出仕鈴が鳴り響き、御法主上人猊下が御出仕あそばされた。会場内に特設された祭壇に向かって、御法主上人猊下大導師による読経・唱題には僧俗一致しての大唱和となり、追悼法要は厳粛裡に進行された。
参加の御僧侶と代表信徒による焼香、唱題に続いて、犠牲者諸精霊の冥福を祈る追善の御回向が懇(ねんご)ろに修せられ、参列者一同も犠牲者の冥福と被災地の一日も早い復興を祈念した。引き続き、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。その後、宗務院を代表して藤本総監、インドネシア日蓮正宗僧侶法人を代表して尾林海外部長から挨拶があり、次に、パンディタ法人を代表してアイコ・セノスノトさんより御法主上人猊下並びに参加の御僧侶や信徒に対して丁重な謝辞が述べられた。題目三唱をもって犠牲者追悼法要はとどこおりなく終了し、引き続いて義援金贈呈式が行われた。
義援金贈呈式には、アチェ州津波国家被害救援監視責任者でアチェ州選出国会議員のアフマド・ファルハン・ハミッド氏と、公共福祉担当調整省大臣補佐で特別委員のドディ・ブディアトマン氏がインドネシア政府代表者として出席。壇上にて、御法主上人猊下並びに政府代表者による目録と受領証への署名交換が行われ、御法主上人猊下より30万米$の義援金目録が贈呈され、インドネシア政府からは受領証が手渡された。
引き続きハミッド氏とブディアトマン氏より丁重な謝辞があり、正午前、犠牲者追悼法要並びに義援金贈呈式の一切がとどこおりなく終了し、御法主上人猊下は会場を後にされた。御法主上人猊下御一行は、この法要が行われた28日午後8時15分(インドネシア時間)にジャカルタを発たれ、29日午前7時12分(日本時間)、無事成田空港に御帰国あそばされた。犠牲者追悼法要に参列した多くの信徒が、御法主上人猊下の大慈大悲の御指南に、国土の復興を誓った。
このたびの大災害追悼法要に当たり、当国にお伺いいたした日本国の日蓮正宗管長・阿部日顕であります。本日は、インドネシア共和国日蓮正宗パンディタ法人の幹部および信徒の方々と初めてお会いいたし、皆様のお元気な姿に接し、まことにうれしく存じます。
このたびのインドネシア共和国アチェ州沖海中を震源とする大地震および大津波で、当国をはじめインド洋沿岸諸国・諸地方の方々が、筆舌に尽くすこともできない大災害を受けられ、多くの尊い人命が失われたことは、まことに痛恨の極みであります。心よりお悔やみいたします。
インドネシアをはじめ、関係各国の指導者の方々、国民皆様のこの大災害における国土復興・被災者救済に関する御苦労は、まことに多大であると思われます。関係の皆様には、その難事を克服され、希望と光明に満ちあふれた国土の建設に邁進されますことを衷心よりお祈りいたします。
この災害に当たり、私ども日蓮正宗関係者の志として、心からの義援金を関係各国に贈呈させていただきましたが、当国へも、こののちこの場にて、インドネシア共和国政府代表の方々にお越しいただき、贈呈させていただくことを御報告いたします。
さて、このたび、アイコ・セノスノト氏ほか、現在のパンディタ法人の皆様の厚い志により、盛大にこの追悼法要を行い、不幸にも亡くなった方々の魂をお慰めすることのできますことは、まことに有り難いことであります。
私もお招きにより当地へ初めて参上いたし、この追悼法要を修することができ、妙法の功徳をもって亡き方々への追善供養を行うことができました。これもインドネシア共和国大統領閣下をはじめ、政府要路の方々、さらには宗教界をはじめとする関係各位の御理解と御協力、および当国日蓮正宗の信徒皆様の強盛な信心と、同朋の不幸を悼む熱烈な博愛心の賜物であり、心より感謝いたす次第でございます。
日蓮大聖人の教えは、南無妙法蓮華経の御本尊を信じて唱題し、その功徳を自らも受け、また他に及ぼすことであります。この妙法の教えは、命の尊さを最高の意義より説かれております。すなわち一切衆生に尊極の命が具わり、また、その実証として永遠の生命が説かれているからであります。故に、この妙法を他に回向するところ、横には十方に通じ、縦には過去・現在・未来の三世にわたってその功徳が存在いたします。故に亡くなった方々の鎮魂にも、また国土の荒廃の復興に必要な国民の生命力の自覚と発揚にも、この妙法の信心と唱題の功徳が大切であると思われます。
日蓮正宗の信仰を持たれる皆様方、このような国土社会の危急の時こそ、一層、妙法の信心を強く持ち、唱題をもって死亡された方々の霊を慰められるとともに、この大災害の様々な困難極まる事後の復興処理に当たられる同朋に貢献し、また、その方々と共に一刻も早い国土の再建設に当たられますようお祈りいたします。
以上、本日の法要に当たり、一言、御挨拶といたします。
このたびスマトラ沖大地震・インド洋大津波の災害により、インドネシア共和国をはじめ各国々において亡くなられた多くの方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
この災害で肉親や家族を失われた各国の多くの方々、そして家や職、生活の基盤を失ったたくさんの方々に心からお見舞い申し上げると共に、これらの打撃からも身も心も、一日も早く立ち直り、再建・復興をめざして前進の一歩を踏み出していただきたいことを心から念願して止みません。
なお、かねて予定されていた妙願寺布教所の寺号公称・板本尊入仏法要、そしてジャカルタの新寺・法清寺の落慶入仏法要が延期やむなきに至りましたことは、まことに残念でありますが、御法主上人猊下には、必ず再びインドネシアに御来臨くださることを仰せられておりますので、どうか皆様には次の機会をお待ちいただきたいと思います。
皆様方のいよいよの御健勝と御精進をお祈り申し上げまして、簡単ではありますが一言もって御挨拶とさせていただきます。
このたび、総本山第67世御法主日顕上人猊下には、はるばるこのインドネシア共和国へ御下向あそばされ、ここジャカルタ市のインターナショナル・エキスポ・ホールにおいて、スマトラ沖大地震・インド洋大津波の各国における多くの犠牲者の追悼法要を御親修賜りまして、まことにありがとうございます。インドネシア共和国に新しく生まれた僧侶法人を代表して、謹んで御礼を申しお上げます。御法主上人猊下、まことにありがとうございました。
このたびの大災害によって尊い人命を失われた一切の諸精霊の方々は、本日の追悼法要を通じて奉修された御法主上人猊下の御回向と、僧俗各位によって供えられた妙法の法味を満身に受けられて法界に安住せられるものと拝察申し上げるものでございます。
しかしながら、大災害によってご家族や友人、家屋や職場を失われた方々の、堪え難い悲しみとご苦労は筆舌に尽くせぬものがおありかと存じますが、どうぞ一日も早く苦難の中に光明を見出され、立派に立ち上がれると共に、国土の再生復興に尽力されますよう衷心よりお祈り申し上げます。
最後に、インドネシア共和国の安寧と一切の人々が災いを克服され築かれる平安を心からお祈り申し上げます。一言もって挨拶とさせていただきます。
おはようございます。本日は何も話しをしないで退座しようと思っておりましたが、下種仏法の上から大聖人様が御出現あそばされ、13日に御入滅されました。それから、14日を挟んだ15日の、一閻浮題の御座主と拝せられる日目上人の御遷化という上からも、この14日ということが仏法の上からも非常に意義があると思うのでありまして、渡辺定元法華講大講頭以下、いつも出席されている方々がいらっしゃいますので、ひとことお話を申し上げたいと思います。
仏法の功徳は行ずることによるのであります。よって行うことがなければ仏法の功徳は全くないのであります。ですから、「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法あるべからず」(御書668ページ)という大聖人様の御指南のとおり、行ということが大事なのであります。境妙・智妙というのは、非常に尊い御本尊様の御当体と拝せられますが、それに対する行妙・位妙の行妙は、すなわち行うということであります。
それでは何を行うことが大切なのでしょうか。世間では色々な人が色々なことを行っております。社会のなかでは善いことを行ったり悪いことを行ったりしておりますが、この善いことについても、どの程度の善いことなのかということが問題であります。善いことにも色々段階がありますから、小さな善いことをしても、それが本当の意味の徳が生ずるとも言えないわけであって、一切を包括してすべてに通じておるところの絶対的な意味での善の行は、南無妙法蓮華経と唱える唱題行であります。ですから、1月において毎朝、この唱題行を行っておるのです。
「一期一会」という言葉がありますが、平成17年の1月14日という日は、今日の他にないのです。明日も明後日もあるには違いありませんし、また、あると思っていらっしゃるでしょうけれども、平成17年1月14日は今日しかないのです。この日に皆さんが集まって、本因下種の唱題行を行うということが実に尊いのであります。これは、皆さん方1人ひとりが、未来永劫への成仏の道を我が心のなかにしっかり植えておるということであります。
また、私はこの十については十界と拝します。十は満数でありまして、一から数えて十で区切りになるのであって、それは全体を包括する意味があります。この十界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十の境界です。仏様は法界全体を御覧になって、十の意味においてこれを照らされ、そして説かれたのであります。法界の個性はそれぞれにたくさんありますけれども、その因果の上からの存在、そしてその境界を10に分けられて、地獄乃至仏界までの十界とされたのであります。ですから、法界全体を言う意味において、世界全体の意味において十という字があるということであります。
その十の内容は、一つひとつのところに執われておれば解らないけれども、その十の内容がきちんと解れば、それは4つの徳をもって示されておると拝することができるのであります。ですから、十の下に四という字が存するのです。では、その四は何かと言いますと、これは妙法蓮華経の上からの常・楽・我・浄の4つの徳であります。またた、楽・我・浄・常という形が、お題目の上から拝せられます。すなわち「南無」は楽波羅密、「妙法」は我波羅密、「蓮華」は浄波羅密、これは浄いという意味であり、非常に清浄で自他を浄くする蓮華、浄波羅密であります。「経」は常波羅密で、常住にして変化がないということであります。この経という字は横に対する縦の筋という意味です。このことから、時間的な上からの常住ということも言えるのです。
したがって南無妙法蓮華経は常・楽・我・浄の四波羅密でありまして、本当に南無しきったところに安楽があるのです。皆さん方がお題目を唱える際に、南無の字をしっかり拝してお題目を唱えていると、肩の力がだんだんと抜けてくると思います。そして本当に身体が安楽な境界を得るのです。どのような安楽があるといっても、これが最高の安楽なのです。ですから南無妙法蓮華経を唱えるなかに真の安楽な境界が存するのであります。そして、南無妙法蓮華経の南無の安楽の境界をそのまま具えられておるのが安立行菩薩様なのであります。
それから、妙法である我波羅密は、妙法蓮華経は個々の法がそのまま一切に通ずるところの法界全体の妙という意味が開かれてくるのでありますから、小さな我ではなく大きな我として、すなわち自我即法界の上から妙法の境界が示されておるわけで、そこの我波羅密という、意味の小さい我を大きな我に開いていくという徳が存します。この徳によって、自分自身の小さな個性が、そのまま大きな境界を基本として行くことができる意味があります。そして、これは全体に向かって進むわけですから、上へ行くと書きまして上行菩薩様の徳になります。
蓮華は当然、「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや(中略)日蓮又日月と蓮華との如くなり」(同 464ページ)という御文のとおり、非常に清浄であります。したがって浄波羅密は清浄、すなわちこれは浄行菩薩様を顕します。御本尊様の左右に釈迦、多宝が示されてありますが、さらに右に上行、無辺行、左に浄行、安立行とお示しであります。この客殿の御本尊様も、日興上人様が御相伝の上から御本尊の当体をお示しあそばされておるのであります。
そして、最後は経についてでありますが、これは常という意味を持つのであります。先程も申し上げましたけれども、常波羅密、すなわち変化することのない常住の法界の命を顕すのであります。よって我々の命もまた、常住なのです。この常住の徳を具えておられるのが無辺行菩薩様であります。また、これらの徳は地・水・火・風・空のなかでも万物を運載するところの地大に当たります。
それから妙法である我波羅密は上行菩薩様、すなわち上へ行くという意味で火大にあたり、限りない向上心を表します。この客殿にはたくさんのお年寄りもいらっしゃるし、若い方もいらっしゃいます。若い方は若い方なりの未来があるでしょう。しかし年寄りは「もう、私は間もなく棺桶に入るから、それはどうしようもない」と思われるかもしれませんが、妙法を唱えることによって、我々が永遠の生命の上に生きておるということを感ずるならば、また自覚するならば、我々の向上は無限であります。死んだあとも、妙法の無限の功徳をもって永遠に生きていき、さらに立派に功徳を成就していうところに、上行としての我波羅密の徳が存するのであります。
また、蓮華である常波羅密は浄行菩薩様です。蓮華は水によって生じます。水のない所に蓮華は全くありません。これはあらゆる汚れを洗う清浄な用きがあり、水大の徳、すなわち浄波羅密です。最後に、経の字の常波羅密はいかなる所にも至る風大の徳であります。そして、あらゆるものの魂となって法界無辺の存在となるので、風大、すなわち無辺行菩薩様の常波羅密の徳であります。そして、この四大を束ね、包括するのが、空大であり、四徳四菩薩の尊い用きをすべて具え、また一切をよく生ずるのであり、この五大がすなわち妙法蓮華経であります。
そのような意味からも楽・我・常・浄・常という4つの徳が、我々の一切の徳の根本であります。たしかに、目先のちょっとしたもうけなども徳には違いありません。また、生活をする上においては、それはそれで大切かも知れませんが、一番根本のところで南無妙法蓮華経と唱えて、そこから永遠に向かっての真の生命の浄化と充実を図っていくということが大切であります。よって、すべての功徳の元は南無妙法蓮華経妙の唱題行に存するのであります。
先程も申し上げましたけれども、この徳という字には行人偏があります。これは行ずるということでありますから、南無妙法蓮華経妙と唱えることが徳の本当の意味なのです。そして、行ずることによって十界の四徳が一心の信心に具わる次第であります。我々の一心はどこにあるのかといえば、妙法蓮華経の御本尊様を信じ奉るところに存するのであります。いわゆる、「『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり」(同669ページ)という有名な『義浄房御書』の御文のとおり、我々が信心の一念をもって唱える題目こそ、自他を救っていくところの本当の道に当たるのであります。
そのような意味において、14日が「徳」という意義を持っておるということがありますので、本日はその意味において話をした次第です。なお一層、唱題行を行っていくところに、我々の本当の功徳の成就があるということをお互いに確信しつつ、精進してまいることが大切だと思います。御苦労様でした。
私たち正信に集う平成広布の僧俗は、日蓮大聖人の御誕生により、その御魂魄たる御本尊を拝することができ、金口嫡々・唯授一人の血脈を備えられた御法主日顕上人猊下の御指南により、日蓮大聖人の仏法を正しく信行することができるのであります。
法華経『方便品』に、「諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう」(法華経101ページ)とありますごとく、末法の一切衆生救済のために、御本仏たる日蓮大聖人は貞応元(1222)年2月16日、御誕生あそばされました。まさに末法の始めに五濁の闇を照らし、濁悪の世に一実の光明を放つ一大事の因縁を備えたるものでありました。
『日女御前御返事』には、「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはた(籏)じるしとして顕はし奉るなり・・・妙法五字の光明にてらされ本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」(御書1387〜8ページ)と、御本尊の御図顕の因縁を証されております。
しかしながら、御出現は未曽有の大慢陀羅を御図顕されることだけなく、正法流布の使命を末法の弟子・檀那に託されたものでありました。今の世相は、御在世当時に勝るとも劣らぬ様相を呈(しめ)しており、地球温暖化をはじめ、三災七難はまさに世界規模で甚大(じんだい)な被害を与えています。過日のスマトラ沖大地震では、30万をも超える人々がその犠牲となったことを聞くにつけ、邪教に迷盲する人々を正法へと導く任を強くするものであります。
御命題の「僧俗前進」とは、日蓮大聖人の正法を信行する僧侶と僧侶、僧侶と御信徒、御信徒と御信徒とが異体同心して諸悪の根源たる邪法を喝破すべく、自行化他に邁進することにあります。
仏法では、無間地獄に墜ちることが必定とされる5つの大罪が説かれております。いわゆる殺父(しぶ)・殺母(しも)・殺阿羅漢(しあらかん)・出仏身血(すいぶちしんけつ)・破和合僧(はわごうそう)の五逆罪であります。その中でも「破和合僧」は他の4つの大罪とは異なり、外からも内からも起こり得るものであり、そうとは知らずに犯す場合もある大罪であります。これは三宝の破壊より起因し、和合を分断・断絶せんとする用きから起こるものであり、この5つの中で最も重い大罪であると説かれております。「破和合僧」とは、和合している僧団及び宗団の和を破壊する義であり、宗団とは、正信の集う日蓮正宗の僧俗であります。破とは、その和を破するに止まらず、広布の前進を妨げんとする行いに他なりません。
『華果成就御書』には、「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたく(蓄)はひぬれば師弟地獄にを(堕)つといへり。師弟相違せばなに事も成すべからず。」(同1225ページ)と、良き師と良き弟子が正法の御籏のもとに集い、共に和をなして邁進いたしてこそ、仏果を得、願いを成就することができるとの御金言であります。逆に、もし和合を破る弟子があれば、師も弟子も共に仏果を失い、無間の炎に焼かれることとなるのであります。
二祖日興上人は、弟子・檀那への訓誡として、「このほうもんは、し(師)でし(弟子)をたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじくほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」(歴代法主全集第1巻183ページ)と、日蓮大聖人の正しき法を受持信行する師と弟子が集ってこそ、仏果に至ると仰せられておるのであり、「賢人と申すはよき師より伝えたる人」(御書967ページ)と、正法の伝授と異体同心の師弟関係こそ、賢人の信行に他なりません。
平成21年に向かう我ら和合宗団の前には、三障四魔等の様々な難敵が立ちはだかり、時には信心を脅かすほどのこともあるかと思いますが、何時如何(いついか)なる時にあっても、正法の行者として、賢人としての振る舞いに努めねばなりません。
「信とは無疑曰信(むぎわっしん)とて疑惑を断破する利剣なり。解とは智慧の異名なり。信とは価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり」(同1737ページ)と仰せのごとく、どこまでも正法正義に信を誓い、題目の五字七字によって諸仏の智慧を得て、時に適った信行に邁進いたすならば、平成広布の賢人と称讃されることでありましょう。
さらに諸仏の智慧は、自身の肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を開眼し、物事の事象や真理を見極め、自らを助け、護り、必ず幸福へと導くことになるのであります。御法主日顕上人猊下は、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大白法635号)と仰せられました。唱題によって五眼を開かれ、今、自身がなすべきことも、折伏すべき人も、その方策も、すべて見通すことが必ずできるのであります。
そして、異体同心折伏へと転じていくならば、祈りが叶わぬはずはないのであります。それでも未だ叶わぬ場合は、さらなる不自借身命の精進をいたすべきであります。中国の諺に、「人一たびして之を能くすれば、己之を百たびす」という言葉があります。これは他人がその目的を一度で達成してしまって、自分は一度では達成できない場合、達成するために百度でも挑戦し、必ず達成すると誓い、邁進する意であります。
広宣流布は、一人ひとりが「百たび」し、さらには、「所詮臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を『是人命終為千仏授手(ぜにんみょうじゅういせんぶつじゅしゅ)、令不恐怖不堕悪趣(りょうふくふだあくしゅ)』と説かれて候」(御書513ページ)と説かれますごとく、「臨終只今にあり」との心で家族・支部・地方部・一切の僧俗が一丸となって精進してこそ達成する大眼目であります。
さあ、春を迎え、生命が息づき始める今、平成広布の大前進を開始いたしましょう。
私が自分の体が他の人と違うと自覚したのは、幼稚園の頃です。それまでは歩くことができなかったので、2歳から5歳まで東京にある国立小児療育病院に入院していました。この病院には、私と同じ障害を持った多くの子供たちがいます。その世界では周りの子供たちと同じだったわけですから、自身に障害があるという意識は、ほとんどなかったのです。
その後、歩けるようになり、普通の幼稚園に入園しました。そこで初めて、自分と他の子供が違うことに気がつきました。まず、歩き方が違います。みんなはまっすぐ足を出して歩きますが、私は足がまっすぐ出ません。それどころか、足が絡まって転倒します。また、みんなと同じように走れません。体もみんなと同じように動きません。そういう日々の中で、自身の障害を知ることになりました。
小学校に入り、普通学級に進んだ私を待っていたのは、「いじめ」という問題でした。足を引っ掛けられ転ばされる、馬鹿にされる。歩き方の真似をされたりもしました。そのときには、「自分がなぜこんな目に遭わなければならないのか」と、こんな体に産んだ母を本当に恨みました。両親は、私がいじめに遭う理由について、「いじめる子も悪いが、いじめられるお前にも原因がある」と言い、障害があってもそれ以上に光り輝く人間になれと、私を叱咤激励しました。それは子供であった私には理解することが難しく、親に対して憎悪が増していったのでした。
中学生になると自分の障害についてはあきらめるようになりました。どうせみんなと同じようにできないからしょうがないと、自分に甘えるようになり、努力しなくなりました。そんな私の姿勢ゆえに「いじめ」も激しさを増し、いじめた相手と母に対し、ただ恨む日々でした。
お寺に通い、御僧侶から日蓮大聖人様の仏法を教えていただくうちに、自身の障害について、心の中で少しずつ受け入れられるようになりました。そうして「逃げてはならない。甘えてはならない。自分で乗り越えていくのだ!」と覚悟を決めました。その覚悟を決めてから、いじめはなくなっていきました。
高校を卒業して、自分と同じ障害を持った人たちの力になりたいという思いから、福祉の専門学校に進学しました。専門学校の同級生は、最初、私のことを「障害があるのに、なぜ福祉の学校にきたのだろう」と思っていたようです。私が、「だからこそ相手の立場に立って援助ができるんだ」と話しますと、みんな感心して、「石崎君は心が障害者ではないんだね」と言ってくれました。その言葉を聞いて、私は、障害を克服できた自信を持ったのでした。専門学校に入って、それまでの人生で初めて、自信を持って3年間を過ごすことができました。
結局、福祉の仕事に就くことはできませんでしたが、不動産広告の会社にアルバイトとして入社しました。そのとき、私は、他の人と同じ仕事がすべてできるわけではないが、自分にできる仕事は、他の人の3倍がんばろうと心に決めました。広告の仕事は未経験でしたが、幸い、良い上司と先輩に恵まれ、仕事をどんどん覚えて、会社としては異例な早さで社員に昇格となりました。
社員になれて1年目、それまでの通勤の無理がたたったのか、股関節脱臼が悪化して手術をすることになり、半年間、休職しました。足の手術とリハビリを終えて会社に復帰すると、待っていたのは配置転換でした。部署移動に伴い、今までやったことのない仕事をすることになったのです。いわばゼロからのスタートです。しかし、私とすれば、新鮮な気持ちで一から学び直すことに意欲が涌いてきました。
その部署に移って半年くらい過ぎた頃、一つのチームのリーダーとして仕事を任せられました。そのチームは、6人ぐらいのメンバーです。その仕事をするようになって初めて、1人で仕事をするところからチームで仕事をすることの大切さを学びました。それは、チームの仲間のそれぞれの特技を発見して、できること、できないことをみんなで協力して仕事をしていくことです。
私にとっては、障害も同じことが言えると思うのです。今まで私は、自分の心を強くしていくことで、乗り越えられるものだと思っていました。しかし、社会に出て仕事をしていくうちに、自分の障害をそのまま受け入れるというのは、乗り越えたと強がって思い込むことではなく、できること、できないことを真摯に受け止めて、素直に自分のありのままを、自信を持ってさらけ出して生きていくことだと、確信したのです。同時にこれまで悩み苦しんだ歳月が、そっくり心の糧になっていることにも気づきました。
その思いで今までの人生を振り返ってみますと、たくさんの人たちに支えられて生きてこられたことが実感できます。そして、一番支えてくれたのは言うまでもなく両親です。いろいろな心の葛藤を経てきて、今になって初めて母に言えたことがあります。「産んでくれてありがとう」と。
私以上に悲しみ、苦しんだのは母です。その母の思いが判らず、母を恨み親不孝を重ねてきました。これからは、自分の特性を活かして、力強く社会人として生きる姿を見せていくことで、親孝行していきます。また、ここまで自分を育ててくださった御本尊様に御報恩申し上げるためにも、自分の体験を通じて1人でも多くの人々に信心の喜びを語り伝えていくことを、総本山の大御本尊様にお誓い申し上げ、体験発表の結びといたします。
ジャカルタで御法主上人猊下大導師
1月28日、インドネシア共和国ジャカルタ市のジャカルタ・インターナショナル・エキスポ・ホールにおいて、御法主日顕上人猊下大導師のもと、「スマトラ沖大地震・インド洋大津波犠牲者追悼法要並びに義援金贈呈式」が厳粛に奉修された。
○御法主上人猊下御言葉 犠牲者追悼法要の砌
○追悼法要より 宗務院代表挨拶・藤本日潤総監
○追悼法要より 現地僧侶法人代表挨拶・尾林日至海外部長
○1月14日唱題行の砌
さて、14日についてでありますが、「徳」という字が14日の意義を示しているのであります。徳という字は行人偏に「十」を書いてその下に「四」を書きます。今の字は略字になっていますから、四のすぐ下が「心」という字になっております。これでもよいのですが、昔は四と心の間に「一」を書く「コ」という字があったのです。これは一があってもなくてもよいのですが、あればあったで「一心」と読みます。これは、「一身一心法界遍し」(同653ページ)という上からも、この心という意義は非常に大事なのであります。妙法の深い意義からするならば、我々の心はそのまま法界に遍満しておると言われておるのです。ただ、そのことは我々の迷いの心のなかでは、とても自覚できません。
「僧俗前進の年」との御命題を賜りました本年も1ヶ月を過ぎ、全国の各支部が誓願目標完遂に向け、本格的な活動を開始した頃と拝察いたします。季節も春を迎え、信心の始動にも本腰を入れなければならない時期でもあります。
宗祖の御誕生
五逆罪を恐れよ
臨終只今にあり
妙光寺正道講支部・石崎智胤
みなさん、こんにちは。本日は、月例登山会の座談会において体験発表させていただく機会を与えてくださったことに、感謝申し上げます。私は現在30歳になりますが、2歳の時から「脳性小児麻痺による四肢機能障害」という障害を持っております。本日は、私がどのように障害を考え、それを信仰によってどう受け入れることができたのかを、お話したいと思います。
そんな私でしたが、高校に入り、転換期を迎えました。それは妙光寺に通うようになったことです。私は5歳のときから日蓮正宗の信徒でした。しかし、それまで全くといっていいほど信心をしていませんでしたが、ある御僧侶との出会いから、お寺に通うようになりました。そのきっかけは、その方に、「私が真剣に信心すれば健常者になれますか」と質問したことでした。その御僧侶は「君の障害が治るかどうかは判らない。けれども御本尊様に真剣に祈っていくとき、君は足が気にならなくなり、乗り越えていけるでしょう」とお話してくださったのです。その言葉を信じて妙光寺に通うようになり、信心するようになりました。
その3年もあっという間に過ぎ去り、就職活動になりました。しかし、福祉系の就職は、私の障害がネックとなり、ことごとく就職試験に落ちました。私は、御住職様に相談しました。御住職様は、「必ず君を必要としている職場があるから、御本尊様を信じてがんばりなさい」と、確信に満ちた励ましの御指導をしていただきました。
※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で掲載致しました。