大白法

平成17年5月1日号


主な記事

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4月より「日蓮正宗護持弘宣資金」特別御供養の受付中


本年4月1日より、「日蓮正宗護持弘宣資金」特別御供養への受付が開始された。この特別御供養は、昨年3月27日に開催された平成16年第1回法華講講頭会、9月27日の第2回法華講講頭会を経て、「宗規第174条2号の規定に基づき、正法の護持弘宣に資するため、全国法華講員より御宗門に対し、恒常的に毎年、真心からの御供養をさせていただく」ことが会議で議決され、法華講の本部役員並びに支部講頭全員の署名捺印された賛同者名簿を添えた「建議書」が、宗務院に建議された。

これを受けて御宗門は、その具体的な納入方法を検討され、日蓮正宗責任役員会並びに宗会を経て「日蓮正宗護持弘宣資金」を設定され、その具体的な納入方法等が検討され、平成17年4月1日から御供養の受付が開始されることになったものである。


    『日蓮正宗護持弘宣資金』特別御供養の納入について

                       日蓮正宗宗務院

1、日蓮正宗護持弘宣資金特別御供養は平成17年4月1日から
 受付けます。金額や納入回数は自由です。
 ※この御供養は日蓮正宗信徒に限ります。

2、特別御供養の納入方法
 イ、必ず同封の宗務院所定「払込取扱票」(赤色)をお使いく
  ださい。
 ロ、この「払込取扱票」(赤色)に、御供養の金額、氏名・所属寺
  院・電話番号・住所を記入し、郵便局の払込窓口ヘ御供養金を添
  えて差し出してください。(手数料は、かかりません。)
 ハ、納入は、個人別となります。家族でも一名につき一枚、一人ひ
  とりが宗務院所定の「払込取扱票」(赤色)を使用し納入してく
  ださい。
 二、現金納入は一切できません。また支部を通しての納入もできま
  せん。
 ホ、予備の「払込取扱票」(赤色)は、寺院に用意してあります。
 へ、特別御供養の「受書」は、郵便局の「払込金受領証」をもっ
  て代えさせていただきますので御了承ください。

3、特別御供養について、特にお知らせの必要なときは、「大日
 蓮」・「大白法」紙上に掲載し、寺院の受付に掲示します。電話
 や口頭による連絡等は、一切いたしませんので、他者からの呼び掛
 けや勧誘などには、応じないでください。

                             以 上
※枠内の記事は大白法666号のものです。

その主旨の徹底と推進が図られた本年3月26日の平成17年第1回法華講講頭会の砌、御法主日顕上人猊下よりは、

 先程から申し上げております『宗門の維持経営に関する事項』でありますが、これに関しましては先般、護持弘宣に関する建議がありまして、それについて宗門といたしましてはこれを『護持弘宣資金』と命名いたしました。これは宗門の今後の様々な問題、そしてまた、総本山として御信徒の方々を受け入れる意味からの様々な設備その他、広布への、また信行倍増の上から必要な諸種の案件を、皆様方の御供養によって充当していくことになります。それと同時に、さらにまたこれを蓄積して、未来の広布へ向かって、足腰の強い宗門の財政に関する形を作り上げたいということも当然、存する次第であります。

 しかしながら、これは既にお聞き及びのとおり、皆様方の信心を根本としたお考えの上に、無理のない形で行っていかれることが大切と思うのであります。

と御指南を賜った(大白法666号)。さらに御法主上人狼下は、4月12日の全国正副宗務支院長会議の砌において、

 第二番目の『宗門の維持経営に関する事項』ということに関しましては、これは昨年の第2回目の講頭会の時でしたが、総講頭、大講頭乃至全講頭の一致の決議によって『護持弘宣資金』という特別御供養を行う、すなわち、宗門のあらゆる面における護持と弘宣という意味の資金を御供養したいという決議がされたのであります。このことは、宗門としては実に画期的なことであります。

 私は、この御供養をなさる御信徒の方々は、その信心の志と功徳によって、仏法の上からの大きな貢献をするための徳というものをますます具えていかれると思うのであります。また、今まではそれぞれの所属寺院に月に一回しか参詣しなかった方でも、この特別御供養を行うことによって「もっとお寺へも参詣し、常にお寺に御供養し、とにかくこの仏法のために自分は真剣に御奉公していこう」というような気持ちになっていくと思うのです。

 ですから、このようなことの一つひとつを行っていくことが、そのまま宗門全体にとっても大きなプラスになっていくと、私は確信するのであります。

と御指南(趣意)あそばされた後、この御供養に僧俗共に実践していくべきであると仰せられて、御法主上人猊下御自ら、個人の立場として毎月、御供養なされていくことを仰せられている。

御供養の行を教えて下さったのは御仏である。私たちは御供養を軽く考えることなく、御法主上人猊下の驥尾に附して、宗祖日蓮大聖人が、「仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん」(御書1528ページ)「まことの人に供養すればこう大なり・・・福田によきたねを下させ給ふか」(同1217ページ)とお示しくださった御供養を奉っていこう。

この功徳はまことに不思議である。御供養を念頭に置いた時から、「さあ、生活をどう変えていこうか」と気力が涌き出て、自分や自分を取り巻く人々の将来を考えるようになる。そして御供養を振り込んだ時から、どんな時代が来ようとも生活を真剣に考え生きていこうと、勇気が涌いてくる。そこに、一層、唱題にも力が入り、信心が蘇っていくのである。また、未来が明るくなってくれば、講中も活発になってくる。

そこに御供養の真の功徳は、我々のこの微弱な信心の生活が、そのまま二祖日興上人様の御化導である広宣流布に連なる法華講の信仰生活になっていくと確信するものである。


参考資料
御法主上人猊下御言葉
全国正副宗務支院長会議の砌(抜粋)

 第2番目の「宗門の維持経営に関する事項」ということに関しましては、これは昨年の第2回目の講頭会の時でしたが、総講頭、大講頭乃至全講頭の一致の決議によって「護持弘宣資金」という特別御供養を行う、すなわち、宗門のあらゆる面における護持と弘宣という意味の資金を御供養したいという決議がされたのであります。このことは、宗門としては実に画期的なことであります。

 私は、この御供養をなさる御信徒の方々は、その信心の志と功徳によって、仏法の上からの大きな貢献をするための徳というものをますます具えていかれると思うのであります。また、今まではそれぞれの所属寺院に月に1回しか参詣しなかった方でも、この特別御供養を行うことによって「もつとお寺へも参詣し、常にお寺に御供養し、とにかくこの仏法のために自分は真剣に御奉公していこう」というような気持ちになっていくと思うのです。ですから、このようなことの一つひとつを行っていくことが、そのまま宗門全体にとつても大きなプラスになっていくと、私は確信するのであります。

 さて、目下のところ、信徒の方々がこの「護持弘宣資金」の御供養を行うという形になっています。そして宗務院においても、そのしかるべき振り込みの口座その他、御供養を受け付ける事務上の様々な形はことごとく整備されておりまして、4月1日から開始され、既に何人かの方々の御供養が振り込まれておるということも聞いておるのであります。

そこで、これは信徒だけがこのことを行っていくということではなく、宗門の現在、将来のための護持と弘宣のために、この意義をもって僧俗が共に実践していくべきではないかと、私は思うのです。

 講頭会の時に御信徒の方々に言いましたように、けっして背伸びをしたり無理なことをしたりする必要はありません。また、どなたがどれだけの御供養をされたかということは判らないようになっております。その人その人が個人的に宗務院に送金されるわけですから・話をしないかぎり、だれにも判りません。それがむしろ一番純粋な、素直な御供養の在り方だと思います。

 ですから、それについては私どももその一分を担って、宗門の僧侶全員が無理のない形で御供養を行っていくことが大切だと思うのです。本当に志だけの意味でよいのです。例えて言うならば、月給の1/100でもよいでしょう。もしできる人は、1/50にしようと思えばそれもよいかも知れない。とにかく全く背伸びのない、無理のない形で、自らの収入のなかからの護持弘宣のための尊い御供養を僧侶も行っていくということが一番大事なことではないかと思うのです。また、寺族の方々にもこの点についてよく考えていただきたいと思います。

 「僧侶と寺族は特別だから、このことは信者だけが行えばよいのだ」というように思ってしまうと、これは特権階級のような形になってしまうのではないかと思うのです。けれども私は、宗門に特権階級を置きたくないと思います。僧侶は特権階級だから上にいて威張って、御供養するのは信徒だけだというような在り方になってしまっては、むしろ宗門の僧俗一致の本当の前進というところに欠けてくるのではないかと、私は思います。

 私の月給については、大石寺内事部の管財室が管理してくれておりますが、そのなかから私の応分の意味においての御供養を、私の名前で護持弘宣資金として御供養申し上げるように指示をしました。これは私個人として行います。

 私一人が、まず先陣を切りましたが、できれば、皆様方にもこの意味に賛同していただきたいと思います。けっしてたくさんの御供養をしなければならないということはありません。気持ちだけの、できるだけの御供養ということで、護持弘宣資金に参加していただければと思う次第であります。

※枠内の記事は大日蓮711号のものです。




体験発表 『常に真剣に正直に信心・仕事の実践を誓う』
妙證寺支部・春田学

皆様、こんにちは。本日は、私自身の入信の経緯から、現在に至るまでの体験をできる限りありのままにお話いたします。

私は平成12年6月、大学1年の時に、高校の同級生である藤沢敏也君の縁により、日蓮正宗に入信しました。当時の私は、常に大きな得体の知れない葛藤や戸惑いを抱いていました。父親のいない複雑な環境の母子家庭で育った私の生活は、精神的にも経済的にも厳しい状況でした。「我が家はきれいな家庭ではない。だから自分の心もきれいではないのだ」といった卑屈な考え方が根底にあり、常に暗い気持ちに沈む日々を送っていました。そんな私を藤沢君は、事ある毎に励まして、幾度となくお寺や座談会に連れていってくれました。正直に言いますと、半信半疑な気持ちのままの入信でした。

もちろん確信はなく、入信当初は、疑い探るような状態でした。しかし、妙證寺に参詣してお寺の先輩方と何気なく交わす会話のなかで、あるいは受付や場内整理といったお手伝いをさせていただくうちに、次第に青年部の人たちの中に打ち解けていきました。当時の私にとっての寺院参詣は、大聖人様の仏法を求めるということとは程遠く、青年部の人たちとの人間関係が楽しみで足を運んでいたのです。御住職・石井信量御尊師の御指導は、私にとっては難解そのもので、何か反発したい気持ちが起こるのですが、やがて、力強くも温かい御住職様の御振る舞いに接するうちに、判らなくても従っていこうと思うようになり、御指導の通りに実践するようになりました。今思えば、私の「負けず嫌いなハングリー精神」が幸いしたのかもしれません。


素直に母を折伏

そのような右も左も判らぬ状態でしたが、御住職様の「折伏を行じなさい」との御指導に、とにかくやらなければならないという思いだけで、真っ先に母親に話をしました。母はお寺に行くことを了解してくれて、すぐにお寺に案内をして御住職様に折伏していただきました。御住職様の心温まる折伏に涙を流した母は、その日のうちに御授戒をいただくことができました。

やがて、青年部員との交流を通した信行のなかで、私の生活環境は変わっていきました。御住職様の御指導のままに生活していくと、苦しさや不安はことごとく消え去り、毎日を揚々(ようよう)と過ごすことができました。大学やアルバイト先など、どんな場面においてもお寺の話がしたくなり、縁ある人には下種いたしました。ふと振り返ったとき、「苦しみにぶつかった時こそ、この信心は体験できる」と気づき、御本尊様の功徳を少しずつ感じていけるようになりました。

そのようななか、法華講30万総登山の総本山任務・輸送班や、妙證寺伝統行事の「夏期修養会」の運営要員等、いろいろな御奉公の機会をいただくなかで、「御本尊様を自宅に御安置したい」と思うようになりました。お寺から気持ちが遠のいていた母に私の決意を話し、御本尊様をお迎えする準備を進めました。


自宅に御入仏 姉の入信も叶う

御住職様から、「ここからが闘いですよ。すべて一筋縄にはいきませんからね。必ず難が起きます。その時こそ、投げ出さずに信心を貫き通しなさい」と御指導をいただきました。身の引き締まる思いと共に「御住職様のおっしゃる難とは何だろう」と気になりました。

御入仏の当日は、未入信の姉も手伝ってくれることとなりました。家族3人で準備をしていたところ、私は、些細なことで母と口論となってしまいました。母はそのまま家を出ていってしまったのです。姉もつられるように出ていきました。このとき初めて御住職様の御指導の意味を噛み締めました。自身の母に対する無慈悲な行動を反省しつつ、御本尊様をお迎えする直前に独りになってしまった私は、ただただ唱題させていただくしかありませんでした。

ちょうどその頃、我が家に向かっていた藤沢君のお父様が、なんと、出て行った姉を見つけて家に連れ戻してくださったのです。程なく御住職様が到着され、御入仏式が執り行われました。読経の最中、御住職様の慈悲のお気持ちと、私の固い決意が通じたのか、母も戻ってきてくれました。そして姉は、その場で御住職様の御指導を頂戴し、御授戒をいただくことができました。御住職様は、「御本尊様の縁によって戻ってくることができましたね。この御本尊様の縁は絶対破壊されないのですよ」と教えてくださいました。私は本当に信心していてよかったと、初めて心の底から思うことができました。


真剣に自身と向き合う 生活を改める決意

その後間もなく、私に大きな転機が訪れました。それは大学生活を続けるか、辞めて仕事に就くかという悩みでした。私は、学費を自力で稼がねばなりません。そのため、学校が終わればすぐアルバイト先へ行って深夜まで働き、帰宅したらヘトヘトになりながら勤行、少し仮眠したらまた学校という毎日でした。そして何とか時間を作って、お寺に参詣するという状況でした。大学生としての充実感を得ることがなかなかできずにいた私は、目的もなく周囲の目だけを気にして大学進学を決めてしまった自身の醜い虚栄心を痛感させられました。やがて、たとえお寺では立派な態度に見えるようであっても、世間においては何ともお粗末な私の姿勢自体が、急に不正直に思えてきたのです。

そのようななかで私は、アルバイト先の仕事を通じて、ワインの輸入関係の仕事をしてみたいと思い始めました。信心と仕事をしっかりと両立して生活を改めようと固く決意し、当時青年部長であった西岡さんに相談しました。ところが西岡さんは、私の決意とは裏腹に、「大学は続けたほうがよい。御住職様にも御相談しなさい」と言うのです。そして御住職様からは、「大学を疎かにしてはいけない。卒業しておきなさい」との御指導でした。

正直なところ、愕然(がくぜん)としました。御住職様に対する反発心ではなくて、今までとは何かが違う、何かができそうな気がしたのに、という気持ちです。根拠のないこの気持ちと葛藤していました。今にして思えばこの気持ちは、信心している証を生活に顕していきたいという、私の「負けず嫌いなハングリー精神」であった気がします。

妙證寺の執事様は、「どちらにしてもがんばるしかないですね。最終的に気持ちが固まったら御住職様にご報告しなさい」とおっしゃいました。私の気持ちは変わらず、怒られるのを覚悟で、退学して仕事に就きたい旨、もう一度御住職様に御相談申し上げました。すると御住職様は笑いながら「そうか、ならば信心・仕事で結果を出しなさい。住職は待ってるよ」とおっしゃってくださいました。そのとき私は、御住職様が笑っていらっしゃったことに何かを感じました。

御指導の翌日、私は退学届を提出しました。晴れやかな気分になると共に、これからは逃げも隠れもできない、御住職様仰せの「常に自分の前は戦場である」ということを覚悟せねばならないと思いました。以来、現在に至るまでの期間というものは、本当に充実した生活です。何事にも堂々と、また楽しさを持って、周りの友人や職場の同僚を、自然な形で信心に縁させていただくことができたのもこの時期でした。

2年半経った現在、私は、アルバイト先であった会社に就職して、ワインの仕事に従事しています。将来に向けてソムリエ・ワインアドバイザーの資格を取得すべく、努力の毎日です。

平成15年の夏よりは、妙證寺支部鼓笛隊責任者のお役をいただき、大切な少年部・学生部の育成にも携(たずさ)わらせていただいています。子供たちの中に入ることで判る、この仏法の大切さに改めて気づく、そんな思いです。「御本尊様は自身の持てる力をすべてよい方向へと引き出してくださる」と、体験を通して強く感じると共に、このすばらしさを楽しさに変えて少年部員に教えることの難しさを思いますが、入信した時の気持ちを忘れず、精一杯伝えたいと思います。

「信心とは何か」と問われたら、今ははっきりと答えを出すことはできません。しかし、私が70、80歳になった時、大聖人様の仏法を心の底から味わうことができるよう、今この時を大切にしたいと思います。


全力で精進を

信心を始めて4年半足らずの未熟な私ではありますが、本年1月1日より、御住職様の命により妙證寺支部副青年部長の大役を頂戴しました。御住職様の御慈悲に対して恩返しができる人材にならなければなりません。今後も御住職様、執事様の御指導のもと「報恩感謝」を常に忘れず、深沢講頭を中心に「真の僧俗一体」をめざして、全力で折伏と寺院外護に努めてまいります。


※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で掲載致しました。



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