<6〜8面>
この大法要には新総監・早瀬日如師、教学部長・大村日統師、新庶務部長・八木日照師(兼大石寺主任理事)、海外部長・尾林日至師、藤本日潤・高野日海・光久日康・菅野日龍の各御尊能化、細井珪道宗会議長、宗務院各部長・副部長をはじめとする御尊師方が多数御列席。また、法華講総講頭の柳沢委員長、大講頭の石毛副委員長・永井藤蔵氏・渡辺定元氏(兼総本山総代)・石渡秀男氏・河原昭太郎氏・大草一男氏、総本山総代の吉野範里氏・井出光彦氏、法華講連合会役員、寺族をはじめ、国内信徒3千130余名及び海外21カ国信徒650余名の代表が参列した。
御書講 午後6時15分、御書講の準備が整ったことを知らせる喚鐘が打ち鳴らされると、全山に荘厳な緊張した空気が満ちわたる。そして御法主上人猊下が柄香炉を手にされて大書院の玄関からお出ましになられた。多数の御僧侶方を従えられた御法主上人猊下の行列は、錫杖(しゃくじょう)の音を響かせながら、客殿正面・二天門前を通り、篝火(かかりび)が灯され、大勢の信徒がお待ち申し上げる御影堂正面の参道を厳かに進まれた。
御影堂正面から西側を回って裏向拝(うらごはい)から入堂あそばされた御法主上人猊下は、御宝前に三礼された後、内陣中央の高座に登られた。読経・唱題と進められた後、『上野殿御返事(別名:龍門御書)』の御文について甚深の御説法をなされた。
布教講演会 御書講を終えられた御法主上人猊下が御退出されると、小憩の後、布教講演会が開催された。はじめに大村教学部長より挨拶と講演者の紹介が述べられ
たあと、全国布教師・夏井育道御尊師(江戸川区・白蓮院主管)が「災難興起の元凶を断つべし」と題して、次いで全国布教師の高野日海御尊能化(墨田区・本行寺住職)が「即身成仏−一人の身・一人の心の信心」と題して講演された。この後、題目三唱して布教講演会は9時に終了した。なお、御書講および布教講演会は、客殿・大講堂にもモニターによる放映が行われ、多くの参列者が拝聴した。
勤行衆会・御開山御講 2日目は、午前2時半から勤行衆会(丑寅勤行)が客殿で行われた。また、明けて午前7時からは御開山御講が御影堂で奉修された。御開山御講に御出仕される御法主上人猊下の行列は錫杖の音を響かせ、しずしずと歩みを運ばれ、御影堂の裏向拝から入堂された。御法主上人猊下は献膳の儀を懇ろに執り行われたあと、読経・引き題目と厳粛に進められ、御開山日興上人に御報恩謝徳申し上げた。
御霊宝虫払 午前9時からは、客殿で御霊宝虫払の儀が厳修された。御法主上人猊下が御宝蔵にお出ましになり、総本山に厳護されてきた宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人、第三祖日目上人以来、御歴代上人の御霊宝・重宝の数々が納められている輪宝・鶴丸・亀甲の御紋がそれぞれ入った3つの長持が、御法主上人猊下及び総本山総代の先導で、御宝蔵から客殿に運び入れられた。
客殿で御法主上人猊下をお待ちする参列者の唱題の中、総本山総代の立ち会いのもと、内陣に据えられた長持を開封。そして輪宝長持から日蓮大聖人の「御生骨」と大聖人が御所持されていた「雨の祈りの三具足」が取り出され、正面の御前机に供えられた。
ここで、御法主上人猊下と早瀬総監の読み上げに従い、内陣に特設された御本尊奉掲柱に、「師資伝授の御本尊」「建治元年十一月の御本尊」「建治二年・病即消滅不老不死の御本尊」「弘安三年二月の御本尊」「弘安三年十一月・本門寺重宝の御本尊」をはじめとする8幅の日蓮大聖人御真筆御本尊、並びに「鏡の御影(みえい)」と称される大聖人の御画像及び日興上人の御影画像等が、白手袋をはめ、樒の葉を口にした御僧侶の手によって順次、奉掲された。
さらに外陣の特設柱には、第二祖日興上人から第9世日有上人までの御歴代上人が御書写あそばされた御本尊が奉掲された。最後に大石寺開創の砌、日興上人から第三祖日目上人に授与された大幅の「御座替わり御本尊」が、外陣中央に奉掲され、御法主上人猊下の大導師で読経・唱題が行われた。続いて大村教学部長から、奉掲の御本尊等についての説明があった。参列者が唱題する中、御本尊等が再び元の長持に納められ、御霊宝虫払の儀は終了した。
御真翰(しんかん)巻返し 小憩の後、日蓮大聖人がお認(したた)めになられた御書の真筆をはじめ、日興上人以降の御歴、代上人がお認めになられた文書やお手紙等にお風入れをする、御真翰巻返しの儀に移った。
内陣中央の高座に登られた御法主上人猊下の大導師のもと読経・唱題を行ったのち、長持から取り出された「日蓮一期弘法付嘱書」(写本)「身延山付嘱書」(写本)と、日興上人が日目上人に譲状として与えられた「日興跡条々事」(真蹟)を御法主上人猊下が奉読され、またその譲状の草案(真蹟)などが参列者に披露された。
さらに「上野殿御返事」「春之祝御書」「三三蔵祈雨事」「減劫御書」「白米一俵御書」「宝軽法重事」「諌暁八幡抄」「衆生身心御書」などの大聖人の御真筆をはじめ、日興上人の御書写による「立正安国論」や「四信五品抄」の写本、さらに第6世日時上人の文書や御書の写本等が次々に紹介・披露された。
これら参列者に披露された御真翰は、白手袋をはめ、樒の葉を口にした御僧侶により丁重にお風入れがなされ、再び長持に納められた。最後に唱題の中、「御生骨」「雨の祈りの三具足」が長持に納められると、三つの長持は御宝蔵へ運ばれ、厳重に収納された。
こうして2日間にわたって奉修された御霊宝虫払大法会の一切の盛儀は、正午過ぎにとどこおりなく終了した。
大聖人様の御一期(いちご)の御化導は、ことごとく本門戒壇の大御本尊様をお顕しあそばすためのお振る舞いであらせられました。そこには、なんぴとも読むことのできない法華経の文々句々の重大な修行のお振る舞いが示されてあります。釈尊が二千余年の当初(そのかみ)、法華経を説き置かせられたのち、その文々句々をことごとく正しく読まれた方は一人もいなかったのであります。特に、法華経の弘通のために「数数見擯出(さくさっけんひんずい)」「流罪・死罪」等の経文を身に当ててお読みあそばされ、その妙法の実証体験をあそばされて、いかなることがあろうとも妙法を受持するところに真の成仏の道があるということをはっきりと示されたのであります。その究極が本門の三大秘法の随一たる本門戒壇の大御本尊様であります。
客殿の御本尊について
その大聖人様から唯授一人の血脈をもって正法を受けられた日興上人様が、この大石寺を建立あそばされた時に書写なされたところの譲座御本尊、その御彫刻がこの客殿に安置まします御本尊であります。
この御本尊様は通常の日興上人の御本尊様と違っておるところがあります。それは御書写あそばされた日興上人の御名と御花押が、中央の「日蓮」という御名の右側に書かれてあることです。それと同時に中央の「日蓮」の御名の左に「日目授与之」ということが示されてあります。すなわち、大石寺の建立の時には、日目上人は既に日興上人から次の御法主として血脈相承の大法を受けられた、その印としてここに示されておるのであります。
したがって、日目上人以来の代々の上人は必ず「日蓮在御判」の左に御名をお書きあそばされるという、御本尊の上からの相伝が拝せられます。その意味からも、一番根本の大石寺が世界広布の根本の大道場であるとともに、その根本をなすところの日興上人から日目上人への御付嘱の法体を顕し給うのがこの譲座御本尊、つまり座を譲るという意味での譲座御本尊と、古来、称されておるのであります。
このように、大聖人様の御魂たる御本尊様を正しく拝し奉ることが、この日蓮正宗の相伝の仏法であり、それがないところが身延派その他の日蓮宗であります。そこでは御本尊が色々なのです。あるときは仏像を、あるときは鬼子母神を、あるときは清正公その他、様々な大漫荼羅を安置するところもあります。けれども、その大漫荼羅は相伝のない御本尊ですからまことに狂っております。
南無妙法蓮華経の下の「日蓮」の御名をなくしてしまって、書写者が自分の名前を書いておる例がほとんどであります。そのような面からも、また、あらゆる面で御本尊が間違っておるが故にお題目の功徳がありませんし、その功徳自体が解りません。これが、今日、我が日蓮正宗のみが正法広宣流布の上からの尊い信心をもって、毎月の第1日曜日に広宣流布のための唱題行を執り行っておる所以(ゆえん)であります。我々が迷いの命のなかから本当の正しい凡夫即極の功徳を成就するところに、妙法を受持信行する唱題行の功徳が存するのであります。
我々の心は非常に定めないものであります。ですから、その日、その時によって色々な心が起こって、いったい、どれが本当の自分の心か判らない人もあります。そのようななかで非常に迷いに迷って、生活のなかで不幸な形を表していく姿が実に多いのであります。
昔の歌で、「心にも/及ばぬものは/何かあると/心に問えば/心なりけり」という歌があります。我々の心というものは、実に不可思議であります。しかもその不可思議なことは、いつも迷いから迷いへと転じておるような、すなわち、どれが本当の自分か判らないような姿があり、これは世間の謗法の人達のなかには特に多いのであります。その心を正しく見るというところに、我々の仏道修行の真実の目的があります。心を正しく見るならば、おのずとその振る舞い・行業・生活のなかの功徳ははっきりと顕れてまいります。
我々の心とはいったいなんでしょう。その実体はすなわち「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」と仰せあそばされた南無妙法蓮華経であります。我々は南無妙法蓮華経を仏様の御当体として、法として拝しておりますけれども、それはそのまま我々の心の実体なのです。ですから、我々の心の本質・本体・実体がそのまま南無妙法蓮華経であるということをはっきり知るならば、毎日の修行において、お題目を唱えることは絶対に必要なのであります。そうでなければ、我々の心は次から次へととめどなく狂いだして、不幸な状態を醸し出していくということが存するからであります。
皆様には、毎日の生活自体が妙法であり、そのなかに不思議な功徳が存するということをしっかりと肝(はら)に入れていただきたいと思います。
妙楽大師という方が「十不二門」という法門において、法華経の妙法と妙という内容について述べておられますが、そのなかに「内外(ないげ)不二門」ということがあります。内は「うち」外は「そと」です。我々の命のなかの主観的な心、これが内とするならば、その外(そと)において認識するあらゆるものは皆、外(げ)であります。あるいはまた、皆さん方の一軒の家を単位といたしますと、皆さん方の家を内とするならば、そのほかのあらゆる家庭その他はすべて外であります。このように、あらゆるところに内と外はありますけれども、日蓮正宗の信仰において正しく信心修行するところに、内の功徳がそのまま外にはっきりと顕れるのです。私は、皆さん方の一人ひとりの生活のなかに、このことが顕れてくるということを確信するものであります。
さて、これは何回も言うことですけれども、総本山には桜がたくさんあり、特にソメイヨシノが非常に多く植えられております。しかし、本年はまだほとんどの桜がつぼみの状態であります。今年は例年よりわずかに遅れておる意味もあると思いますので、4月の9日か10日ごろが満開になると思うのであります。
毎年、総本山の桜の満開の時期は、だいたい4月の6日・7日〜10日ごろまでの間なのです。このことは判子で押したように、だいたい決まっておることなのです。ところが不思議なことに、宗旨建立750年の年、いわゆる平成14年の3月28日に、大聖人様の御内証の上からの宗旨建立の意義あるによって、この日、「開宣大法要」を執り行いました。その日がまさしく全山の桜の完全な満開日だったのです。
このようなことはありえないのです。その前年はおろか、そのずっと前の年もそのあとの年も、つまり平成15・16年と全部、4月に入ってから満開になったのですが、とにかく、あの年だけが3月28日に満開となったのです。これは不思議といえば不思議であり、不思議でないといえば「そんなことは偶然だ」と思う人もあるかも知れませんが、私は、ここに日蓮正宗が打って一丸となって大聖人様の内証宗旨建立の意義に対して御報恩申し上げるための3月28日の開宣大法要が行われたことにおいて、天地がこれに感応して、総本山全体の桜が満開となったのであるということを信ずるものであります。
これは1つの例でありますが、皆様方一人ひとりの生活のなかで、皆様方が正しい信心をもって「我が心すなわち妙法なり」という確信のもとに唱題行を続けられるところに、内と外との不思議な関連のなかでの生活、あるいは会社のなかなどで不思議の意義を体験しつつ、その功徳が必ず成就されていくということを確信していただきたいのであります。
また、その確信があるところ「流溢(りゅういつ)」の意義をもって、言わず、語らず、言われなくとも、皆様方が因縁のある人を折伏していくという、仏法の功徳をしっかり説いていくところの行業が表れると思うのであります。その意味において「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって、僧俗一致和合団結してのいよいよの自行化他の増進を図ってまいりたいと存ずる次第であります。皆様方のいよいよの御精進を心からお祈り申し上げます。
現在の世相を見れば、「癒し」が求められているのも頷けるし、一時の安堵も必要ではあるでしょう。しかし、商業的に提供される癒しに乗せられて、現実逃避に陥ったり、意志が弱められたりすることがないかを危惧します。特に若年層には厳しい現実に対応して、それらを克服する、自己の惰弱さに打ち勝つ克巳心が求められます。
『四菩薩造立抄』に、「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書1370ページ)と仰せです。この御文「日蓮が如く」と御教示ですが、何事においても習熟すには真似るところから入ります。何を真似るかというと、まずは、形を真似る。形を真似ることは表面的なようであっても、その実、心を得ていくことにその本意があります。大聖人の御在世当時、人々から生き仏のように崇められいた良観等は、形はいかに高僧のように見せても、その心には悪鬼が住み着いていたのです。大聖人はあくまでも仏の金言、経文によって正邪・浅深を判釈され、妙法蓮華経を即身成仏の唯一の直道と示されました。
では、法華講の信心を受け継ぐ私たち「日蓮の如く」の御文を、どのように拝すべきでしょうか。まずは大聖人の御化導を拝し、その御化導に随順することが肝要であります。『四条金御殿御返事』の「日蓮は少(わか)きより今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり」(同1179ページ)との御教示を拝するとき、御本仏の一切衆生を救済せんとの、まことに有り難い大慈大悲を知ることができます。この大慈大悲の一分なりとも体得し『立正安国論』に示される破邪顕正・折伏に精進することが大聖人の御化導に随順することといえるのです。
また、大聖人の御化導を正しく拝するには、師弟相対の信心が不可欠です。日興上人が大聖人にお仕えした行体行儀、日興上人の御指南を受けて正統流布に励まれた法華講衆の信心にを鑑とすべきです。今、法華講衆として信心に励まれる方々はすべて、僧俗が築いてきた尊い歴史を今日に受け継ぎ、伝えいく使命があるのです。
5月末から始まる法華講夏期講習会は、戒壇の大御本尊在す総本山で、御法主日顕上人猊下から直々に御講義を戴けるのですから、私たちの信心を増進させる最高の機会であります。進んで参加されることを願ってやみません。
と御指南です。勤行・唱題のときに、仏様に相対峙しているとの緊張感をもって正座してますか。唱題中に俯いたり、何かを呟いているような声でしてませんか。決して大声を張り上げる必要はありませんが、はっきりとした口調で清々しく朗々と唱題をしなさいと教えられおります。そのためには姿勢を正し、心を御本尊の一点に留めなければなりません。
口業を正すことは身業を正し、意業を正すことでもあります。世の中には口ばかりが達者で心のない人、言っていることと、なすことが違っている人を多く見かけます。信心の上からは、御題目を唱えていても口先だけで、他の本尊を拝む人や、心を大聖人以外に寄せている人などがいるかもしれません。このような人々は、正しい口業を修することはできません。正法を受持する私たちに対する御法主上人猊下のこの御指南は、唱題の声の中に私たちの信心姿勢がはっきりと現れているとの厳しい御言葉でもあります。
しかし、大聖人の御化導に倣う、日興上人がお仕えしたお姿に倣うことを考えたならば、今日の私たちの環境がどれほど恵まれていることか。ましてや、信心を成就させて「出離の人と成る」ことができるのでありますから、そこには大いなる歓喜が伴うのであります。鍛えることなくして強い体、意志を養うことはできないように、厳しさの経験なくして円満な人格は形成されないといえるのです。
昨年の12月の広布唱題行における御法主上人猊下の、
との御指南を実践することが大事です。
「癒す」という言葉は、癒されることを期待する、自分自身の外に何かを求める姿勢が感じられます。成仏という人生最高の境界を得る方途を知らない世間の人は、一時の安楽を求め、その永続を願うだけしかできません。しかし、妙法を受持する私たちは、唱題によって得られる生き生きとした命において、自ら苦しみを安楽に変えることができるのです。そればかりではなく、折伏をすることによって自身もまた他の人とも、共に大きな喜びの境界が得られるのです。これこそまさに、「大歓喜の中の大歓喜」(御書1801ページ)であります。「僧俗前進の年」の本年の要は、真剣な唱題のもと、現代の一凶たる創価学会をはじめとするあらゆる邪義謗法の破折にあります。
さあ、折伏の実践をもって、共々歓喜の人生を歩んでまいりましょう。
暖かな好天に恵まれた4月6日・7日の両日にわたり、総本山大石寺において恒例の御霊宝虫払大法会が、御法主日顕上人猊下大導師のもと、盛大かつ厳粛に奉修された。この大法会は秋の御大会と並ぶ宗門の二大法要の一つであり、宗祖日蓮大聖人・御開山日興上人以来、七百年にわたって総本山に厳護されてきた数多くの重要な御宝物を後世に末永く伝えていくため、年に一度お風入れをしてその破損を防ぐとともに数多くの参列者に披露する、荘厳にして重要な儀式である。
御開扉 御霊宝虫払大法会は、6日午後1時半より奉安堂における御開扉で始まった。午後1時半、御法主日顕上人猊下の大導師のもと、読経・唱題と厳粛に進められると、僧俗一同が唱題する中、御法主上人猊下が須弥壇に登られ、新総監・早瀬御尊能化の介添えにより、本門戒壇の大御本尊様の御煤(すす)払いの儀が、懇(ねんご)ろに執り行われた。続いて御法主上人猊下より、本門戒壇の大御本尊、最初仏、大聖人御霊骨について甚深の御説法(御戒壇説法)を賜った。
4月度広布唱題会の砌
本朝は、例月の第一日曜日に行われる広布唱題行に当たり、近郷近在の方々も参詣されておるようでありますが、また、全国の各寺院の支部総登山で御登山の方々もお見えになっておるやに見受けられます。まことに大勢の方々がここに御参詣になり、ただいまは相共に、「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 685ページ)と仰せあそばされた大御本尊様に向かい奉り、1時間の唱題行を真剣に執り行った次第であります。
心の実体は妙法
妙法と法界
※この原稿は昭倫寺支部の若山さんの御協力で掲載致しました。
『口業成就で得られる歓喜』 高野法雄御尊師
昨今の大災害や悲惨な事件を見聞するにつけ心を痛め、これらのことがいつ自身に降りかかるかも知れない不安、一向に回復しない景気から、仕事におけるストレス、世代間の断絶から家庭での孤立等々、こうした不安から逃れるためか、「癒し」という言葉がもてはやされているようです。
御法主日顕上人猊下は、常々、身口意の三業にわたる勤行の姿勢を御指南されます。
「大聖人様が、『口業の功徳を成就せり』(同115ページ)ということを御指南のとおり、お題目の広大な功徳がどれほどかは判らないけれども、お題目を口で唱えていくことによって、自分自身の身にきちんとした信心が自然に成就し、いわゆる『出離の人と成るなり』(同ページ)という大聖人様の御指南のとおりになるのであります。ですから、口が一番大事だと思うのです」(大日蓮706号)
また、本年1月3日の唱題行の砌には、私たちの常識とはかけ離れた仏法の深さ広さの上からの、ありとあらゆる功徳が篭もっている大御本尊の御威光を御指南されました折り、健康面でも、
「手をきちんと合わせて、身体の背筋を正して胸を張って、そして顔を上げて御本尊様を拝する。この姿勢で何分でも何十分でも唱題を行っていくことが大切でありますが、これに勝る健康法はないと、私は思うのです」(大白法662号)
「心を定めて御本尊様に向かい、目ははっきりと御本尊の『南無妙法蓮華経』を拝しつつお題目を唱えると、いつの間にか雑念が去って、そこに仏様の大慈悲によるところの大きな境界が、皆様方一人ひとりの命のなかに湧いてくるのであります」(同659号)