大白法

平成17年5月16日号


主な記事

<1〜6面>


<6〜8面>


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総本山ニュース


☆宗旨建立753年の立宗会を奉修

4月28日、総本山の御影堂において、宗旨建立753年の佳日を寿ぐ立宗会が厳粛に奉修された。これは、塔中・山内の教師をはじめ、前日に新説の免許を受けたばかりの教師18名が出仕され、多数の檀信徒も参列した。法要は午前7時より、御法主日顕上人猊下大導師のもと、献膳の儀・読経・引き題目と執り行われ、7時半過ぎに終了した。

宗旨建立753年の立宗会

宗祖日蓮大聖人が建長5年(1253年)に宗旨を御建立あそばされるに当たっては、3月と4月の2度における御振る舞いがおわされた。すなわち3月28日の御振る舞いとは、顕正に即する破邪の説法を面(おもて)とされ、少機のために大法を示される、いわゆる法界の対する内証の題目の開宣である。これに対して4月28日の御振る舞いは、破邪に即する顕正の説法が面(おもて)となり、万機のために題目を弘通せられる、いわゆる外用弘通の題目の開示なのである。

大聖人が建長5年に初めて唱え出された御題目は、法華経の行者としての御振る舞い、御化導の進展において、竜の口の発迹顕本以降、本迹相対、種脱相対して本因下種の要法たる妙法として弘宣せられてたのである。そして文永11(1274)年には、初めて三大秘法の名目を挙げて末法弘通の法体を示されるとともに、さらにその御本尊の当体・当相が弘安以降、下種本仏日蓮大聖人の人法一箇の当体として究竟せられ、これより三大秘法の整足をもって末法万年の一切衆生を化導すべき大法が本門戒壇の大御本尊として現れ給うたのである。そして、この大法は、唯授一人の御相伝により、大聖人より日興上人に伝えられ、以後、各御歴代上人により厳然と御相承されて、今日、第67世御法主日顕上人猊下の御内証に存するのである。

我々法華講員は、宗祖日蓮大聖人の宗旨建立以来の大法を御相承あそばされる御法主上人猊下の御指南に信伏随従し奉り、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の御命題たる「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集」の完遂に向け、まずは今月より開始される法華講夏期講習会に、支部を挙げて取り組み、もって本年「僧俗前進の年」を、異体同心の団結を一層堅固に折伏・育成に精進し、各支部の誓願目標を必ずや達成してまいろうではないか。


☆新説免許18名教師補任式

4月27日、総本山の客殿において、平成17年度の教師補任式が厳粛に執り行われた。教師補任式は、新説免許の儀式とも呼ばれ、僧侶が出家得度以来、仏祖三宝尊への御奉公と共に、たゆまぬ仏道修行と教学研鑚に精進されてきた成果を、御法主上人猊下の御慈悲のもとに披露するものである。また、新説者はこの日より正法正義に基づいた説法を行うことを許され、僧侶としての新たな出発となる重要な儀式であることから、古来「三世の大願」とされている。

教師補任式

新説者は23日に着山し、24日から26日までの間、指導役の秋元意道御尊師・桑野道栄御尊師のもとに厳格な所作の練習を重ね、宗務院教学部より説法の講本指導を受けた。27日午前8時半、まず前座として秋元指導役が登高座して説法を行い、続いて第一説者より順次説法が始まった。

説者は、会行事の先導によって柄香炉を携え、唱題の中をゆっくりと内陣に歩を進めた。中央内陣、三宝尊の御前に至り、五体を仰ぎ折ること三度、御本尊を拝して三礼し、向きを変えて高座へ進む。登高座すると説法の準備を整え、焼香・散華と所作を行った後に鈴三打。唱題が止み、厳かに法華経の要文を拝読し、説法が始められた。こうして、18師全員の高座説法が午後3時半に終了し、この後、後座として御法主日顕上人猊下が登高座あそばされた。

方便品・自我偈の読経、唱題の後、御法主上人猊下より甚深の御説法、並びに御講評を賜った。この後、御法主上人猊下より高座説法を免許する旨の補任状が各説法者に授与され、最後に大村教学部長より挨拶がなされた後、客殿前にて記念撮影が行われ、教師補任式はとどこおりなく終了した。また、新説者一同により、翌28日、杉山の有明寺への参詣が行われた。



御法主上人猊下御言葉 5月度広布唱題会の砌


5月度広布唱題会


皆さん、おはようございます。青葉薫る5月になりました。今月は、本日・1日が第一日曜日に当たっておりますので、総本山ならびに日蓮正宗の全国各末寺が一斉に5月度の広布唱題行を執り行った次第であります。今日は、各寺院の支部総登山の方もある程度見えておるかと思われます。また韓国・台湾等、海外信徒の方や地元の方々の参詣にもよりまして、かなり大勢の方々が本朝の唱題行に参加されておるようであります。

本日5月1日は、総本山大石寺の開基檀那である南条時光殿、法号・大行尊霊の祥月命日でありまして、先程、午前7時から当客殿においてその法要を執り行った次第であります。ここにおいでの方々のなかでも、かなりの方がこの法要に参加されたかとも思うのであります。

南条時光殿は、今を去る674年前の元弘2(1332)年の5月1日に逝去せられたのであります。『法華初心成仏抄』に、「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御書1314ページ)という御指南があります。私は、再度にわたる蒙古襲来の大国難も、『立正安国論』以来の日本国に対する侵略の事実について予言をあそばされた大聖人様の大慈大悲の本仏の御境界、その御功徳をもって日本国が安泰に護られたと思っております。

その根本としての、大聖人様の仏法を正しく仰ぎまいらせて、万代にわたってこの正法の護持を志された唯一の檀那である南条時光殿・大行尊霊の大きな功徳をつくづくと感ずるものであります。建治からあの熱原法難が惹起しまして、弘安2(1279)年9月21日の「稲刈り事件」に基づいて、20人の熱原の法華信徒が故なく鎌倉へ送られました。そして、強圧に対していささかも法華の信心を破ることなく護り通したために、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の方が、おそらく弘安2年10月15日に頸を刎ねられたというように考えられます。はっきりした処刑の日は文献として残っておりませんが、色々な面から考え、特に『聖人等御返事』等の御文や、11月6日に大聖人様から南条時光殿に与えられた『竜門御書』の内容からしても、おそらくこの時に既に頸を刎ねられていたということが感ぜられますし、宗門のあらゆる史実等の研究の上から発刊された『富士年表』という年表にもそのようにきちんと示してある次第であります。

この当時、すなわち弘安2年に、上野の郷主として大聖人の仏法を護り、信仰せられた時光殿は年歯(ねんし)わずか20歳であります。しかしながら、上野の郷主としての立場から、熱原方面の法華信徒に対する長期にわたるあらゆる迫害から、陰に陽に擁護されたのであります。また、信仰の上からやむを得ず、居ることができなくなった(※入信した)神主等をも一時、匿(かくま)われたこともあり、これら陰に陽にわたるあらゆる面からの正法護持の振る舞いによって当然、鎌倉方の謗法の官憲、あるいはこの地方の謗法の人達から大きな迫害を受けたのであります。しかし、そのなかを貫いて、この法華経の信仰とともに正法護持に挺身されたのが当時の南条時光殿でありました。

先般の虫払大法会においても少し申し述べましたが、『竜門御書』には宛名が「南条時光殿」ではなく「上野賢人殿」となっております。この「賢」という字は「かしこい」という字であります。世間一般的に賢いという言葉は使いますけれども、仏法の上からの境界においてこの「賢」という字を使うということはたいへん意義が深いのであります。「賢」に対する「聖」という語もありますが、これはさらに一段上になりますけれども、「賢聖」と熟語することもあります。この「賢人」・「聖人」ということは仏法の上から、本当に事理を弁え、さらに仏法の真実の意義を深く体したところの尊い功徳を成就しておる方という意味でありまして、それをわずか20歳の、たとえ上野の郷主ではあっても、大聖人様が「賢人」とお示しになっておるところに、当時の状況を鑑みつつ、大聖人様の御信頼が深くあらせられたということを拝するのであります。その意味からも、時光殿はこの大聖人様のお手紙に奮い立ったことと思われるのであります。

その後、大聖人様が弘安5(1282)年に御入滅になるまでの間に、実に40数通と思われますが、時光殿は大聖人様からお手紙を頂戴しております。時光殿は、「わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかヽるべき衣なし」(同1529ページ)というように、官憲の強圧によって一時、経済的に不如意の状態のなかにもかかわらず、身を振り絞ってお金の御供養、あるいは時にとっての色々な作物等の御供養を身延の大聖人様に送られました。今は交通の便もよいのですが、当時は上野から身延まで使いを出すにも、交通の在り方もたいへん不充分な、完全なものではなかったのであります。そのなかを常に大聖人様に対して御供養申し上げたというところに、時光殿の深い志が拝せられるのであります。

大聖人様の御入滅ののち、日興上人が7カ年、身延山にお住まいあそばされましたけれども、種々の事情があり、特に地頭であった波木井実長と、日向という謗法を容認する誤った信仰を持つ僧侶の誑惑によって、身延の山が大謗法の地と化したのであります。これには四箇の謗法がありますが、それらのことのなかにおいて日興上人が血涙(けつるい)の御境界においての諌暁をあそばされましたが、波木井実長等は一向に改まりません。そこでやむを得ず、「いずくにても聖人の御義を相(あい)継ぎ進(まい)らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え」(日蓮正宗聖典560ページ)というお志をもって、断腸の思いで身延を離山され、この富士の地においでになったのであります。

現在の下之坊が当時の南条家に関わりのある建物であったと思われますが、日興上人は最初、そこに一時、お入りになったようであります。そののち南条時光殿の正法護持の志をもって、現在の大石寺の地、すなわち大石ガ原の地を種々に切り開き、整地して、大坊・六壼等が建ったのであります。六壼に関しましては先般、改めて造らせていただきましたが、当時はこの六壼と大聖人様の御本尊を安置まいらせる御影堂の2つが建ったものと思われるのであります。

そのようなところからだんだんと発展してまいりましたが、当時、既に日目上人は蓮蔵坊を建てて御戒壇様を守護あそばされ、さらに理境坊日秀、あるいは寂日坊日華等の方々も、それぞれ坊を構えられて総本山の外護に当たったのであります。その後さらに整備されて、今日のような、御影堂から下ってきて塔中12カ坊が表坊として存するという在り方になったのであります。

そして、今日、大聖人様の仏法が日蓮正宗の存立により、さらにその根本である総本山大石寺があることによって正しく伝えられておるのであります。これはまさに大聖人の仏法が本門戒壇の大御本尊様を根本とする三大秘法の正法の弘通であり、それをまた、いささかも誤りなく正しく受けられた日興上人様の唯我与我の御境界における仏法の護持があって、初めてここに存立の基が築かれたのでありますけれども、さらにそれに加えて、その土地を御供養申し上げ、また建物を御供養申し上げて、根本の大法の基(もとい)を開かれるところの外護をされた開基檀那・南条時光殿の志によるのであります。南条時光殿の信心がなかったならば、今日に至るまでの大石寺が存立していないと言っても過言ではないと思います。これは不思議な因縁だと思います。

父親の南条兵衛七郎殿が伊豆の南条郷からこちらのほうへ移封され、地頭としてこの上野におられ、時光殿がその跡を受けられたわけでありますが、南条兵衛七郎殿は文永2(1265)年に逝去されまして、大聖人様も当時の色々な面、すなわち交通の事情、あるいは音信等の問題についても今日のようなわけにはまいりませんので、「一時は法華の信者になられたけれども、その後はどうなったか」ということを非常にお気遣いあそばされておったのであります。

しかるにその後、10年ほどを経て、大聖人様も色々な法難が落ち着かれて身延にお入りになり、日興上人に南条兵衛七郎殿のお墓詣りを命じられたのであります。そして、建治の初めの頃から南条時光殿がこの大聖人様の仏法に直接値(あ)って、種々の御指南を賜るとともに色々な御供養を申し上げ、仏法外護の働きをされたということが拝せられるのであります。そのような面から、今日、総本山を中心として、唯一の大聖人様の正しい仏法として日蓮正宗の教えが世界に向かって広宣流布しつつあります。その根本が南条殿の仏法外護の信心にあるということを我々は深く感じなければならないと思います。

その意味において、本日は南条時光殿の祥月命日忌の法要を修して、その追善と報恩に資した次第であります。時光殿は「わが身はのるべき馬なし」という状況のなかでも、我が身を振り絞った御供養を大聖人様に常になされましたが、この志によって、初めて仏法が正しく伝わっていくのであるということであります。皆様も本日の5月1日に総本山にお詣りされたという因縁の上からも、是非、時光殿の信心を鑑として、これからもいよいよ御精進されることを心からお祈り申し上げる次第であります。本日は御苦労さまでした。




布教講演 『災難興起の元凶を断つべし』
全国布教師・夏井育道御尊師


平成17年度、総本山御虫払大法会が諸天も寿ぐ好天に恵まれ、御法主日顕上人猊下大導師のもとに厳粛かつ盛大に奉修せられまして、まことにおめでとうございます。全国の御信徒ならびに海外信徒を代表して御登山になられた皆様には、本日、本門戒壇の大御本尊の御開扉を許された、ただ今は御法主日顕上人猊下の甚深の御書講を賜り、宗門700年の正義を正しく伝える尊い法筵に連なることができた身の福徳を深く感じておられていることと存じます。

私は、ただ今ご紹介をいただきました白蓮院主管・夏井育道でございます。宗務院の御下命を賜り、布教講演をさせていただく機会をいただきましたことは、まことに身に余る光栄であります。本席は「災難興起の元凶を断つべし」と題しましてお話しさせていただきますので、最後まで御静聴賜りますようお願い申し上げます。


虫払法会は正法伝持の証

さて、この御霊宝虫払大法会は、700年にわたり、総本山に厳護されてきております大聖人様はじめ御歴代上人の御本尊、御真蹟御書など数多くの重宝を、御宝蔵から一年に一度お出しし、傷み具合を精査し、湿気を払い、害虫を除くなど数々の手入れを行いますとともに、参詣の御信徒にも披露して信行に資することを目的とした法会であります。この法会に参詣すれば日蓮正宗の信仰が、大聖人以来の唯授一人の血脈に基ずく御本尊根本の宗旨であることが一目して領解できるのであります。これが、法会の持つ重大な意義の一つであります。

他の日蓮門下の代表格である身延日蓮宗は、同じ700年の歴史があると言いましても、このような法要を営むことはできません。何故ならば、身延日蓮宗には定まった本尊がないからであります。『日蓮宗宗制』第二条の「宗旨」の項には「本門の本尊を帰依の正境」とすることを謳っております。しかし、「本門の本尊」と申しましても、その実態は一つでなく、実際には大慢陀羅であったり一尊四士であったり、二尊四士であったりと、三種類もあるのです。そのため三種類の本尊のどの本尊を中心にすべきか700年の間論諍が絶えず、未だに結論が出ておりません。ですから「本門の本尊」という表現に止めざるを得ないのであります。

また、本尊の祀り方自体も寺院と信徒では異なっております。寺院では釈尊像を中心に据え、その後ろに曼陀羅を掛け、左右に四菩薩や普賢・文殊、愛染明王に不動明王を祀り、信徒宅では曼陀羅か、もしくは一尊四士を中央に祀り、左右に鬼子母神と大黒天を祀るとなっています。まさに本尊雑乱の様相を呈しているのであります。今日の身延の本尊雑乱は「源濁れば流れ清からず」でありまして、大聖人様の正しい本尊相伝がなかったことを如実に物語っていると言えます。

ともあれ、皆様にはこの法会を通じ、大聖人様の正法正義は、唯授一人の血脈によって大石寺のみ正しく伝えられていることを深く確信いただきたいと存じます。


『立正安国論』と大聖人様

さて、古来宗門におきましては、大聖人様の御一生は「『立正安国論』に始まり『立正安国論』に終わる」と申しております。

それは、文応元年(1260年)7月16日に『立正安国論』を鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に奉呈し、これを起因として、その後、大聖人様の御身に「大難四箇度、小難数知れず」と言われる数々の法難が起こったのであります。『立正安国論』は、大聖人様が法華経の行者として一番最初に示された折伏の書でありますから、大聖人様の御化導はまさに「『立正安国論』に始まる」のであります。

また「『立正安国論』に終わる」と申しますのは、身延を離れて武州池上の館に入られた大聖人様は、集まった弟子檀越に対し、病の身押して、弘安5(1282年)年9月25日より『立正安国論』の御講義をあそばされました。この講義を通して大聖人様は、御自らの一生を貫く化導の精神「正法を立てて国を安ずる」『立正安国論』に存することを改めて弟子檀那に教え、この精神を万代にわたり信行の規範とせよと遺誡せられ、弘安5年10月13日御入滅あそばされたのであります。このことから「『立正安国論』に終わる」と申し上げるのであります。

この御遺誡は、六老僧のただ日興上人御一人のみ正しく受け継がれたのであり、また御歴代上人が身軽法重・死身弘法の国家諫暁を行って範を示されたことにより、この立正安国論の精神は、本宗信仰の不変の規範となっているのであります。


災難興起の由来

大聖人様が『立正安国論』を御述作あそばされた由来について一言申し上げますと、大聖人様が鎌倉の松が谷に草庵を構え、折伏弘教を開始さられた建長の頃より、毎年のように地震や水害、天然痘などの疫病が起こり、人々は塗炭の苦しみに喘いでおりました。そうしたなか、正嘉元年(1257年)8月23日に、鎌倉一帯を前代に異なる大地震が襲ったのであります。

この地震について『吾妻鏡』には、「戌の刻(午後9時)大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳頽崩し、人屋顛倒す。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。」とあり、また大地から青い炎が吹き出したとも記されております。また、『富木入道殿御返事』には、「去ぬる正嘉(しょうか)の大地震は前代未聞の大瑞なり。神世十二、人王九十代、仏滅後二千二百余年未曽有(みぞう)の大瑞なり」(御書488ページ)とあり、これまでに類を見ない尋常ならざる大地震であったことが判るのであります。

このただならぬ天変地夭をご覧になられた大聖人様は、岩本の実相寺に入蔵されて一切経を繙かれ、競い起こる災難の原因を究明せられ『立正安国論』一巻を認められたのであります。すなわち三災七難の根本原因について「世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」(同234ページ)と示され、人々が正法に背いて悪法に帰依することにより諸天善神は社を捨てて天に昇り、替わって悪鬼魔神が入り込んで様々な災難を引き起こすと示され、その悪法こそ日本国中に蔓延している念仏宗であり、この一凶を急いで退治すべきであると説き示されたのであります。


第26世日寛上人は『立正安国論愚記』において、この災難興起に三種の由来があると仰せられております。

その第一は、「万民の業感に由るが故に」(御書文段50ページ)であります。この業感とは、貪・瞋・癡の三毒強盛の衆生の悪心が災難を招き寄せることを言います。『瑞相御書』に、「人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚(しんに)の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。今日本国、上(かみ)一人より下(しも)万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起これるところなり」(御書920ページ)とありますように、悪心の大小によって天変地夭にも大小の違いがありますが、特に大聖人様の仏法を破壊しようとする大悪心を持つ輩が国中に充満すれば、それによって大天変地夭が起こるのであります。

第二には、「国王の理に背くに由る故に」(御書文段 50ページ)であります。これは国の長である国王、または政を執る権力者が仏法の邪正を弁えず、正法が失われようとしているのに護ろうとしない。そればかりか正法破壊に手を貸す。そのために王としての徳が失われ、内憂外患の様々な問題が起きてくるということであります。 災難興起の第三は、「誹謗正法の由るが故」(同)であります。誹謗正法とは、正法である法華経を誹ることであります。この正法につて日寛上人は、日我の文を引かれ、「四味三教は邪法なり。法華の一実は是れ正法なり。是れ権実相対なり。又天台過時の迹は邪法なり。末法弘通の本門は正法なり。是れ本迹相対なり。凡そ三大秘法は要中の要、正中の正なり。久遠下種の正法とは、末法弘通の三大秘法の事なり。」(同5ページ)と仰せられております。すなわち、大聖人様の法華経弘通には、権実相対、本迹相対、種脱相対の深儀が存するのであり、五重の相対の次第を踏まえ、種脱相対から拝さねばならないと注意を促されております。

種脱相対における正法の意味について、御法主上人猊下は、「下種の本尊とその三大秘法こそが真の『立正』の『正』という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります。そこに種脱相対しての『立正』とは、三大秘法の妙法大曼荼羅、本門戒壇の本尊であります。」(大白法624号)と御指南あそばされ、誹謗正法とは大聖人御化導の究竟中の究竟である「本門戒壇の大御本尊」を誹謗することにあると仰せられています。

 日寛上人は、これらの三種の災難興起の由来について、「当に知るべし、初めの義の如きも、遠くの其の本を論ずれば、則ち焉(いずく)んぞ知らん。是れ無始の誹謗正法の業感に非らざることを。亦第二の義も、世法の理に背くは則ち仏法に背くなり。仏法の理に背くは則ち是れ謗法なり。」(御書文段50ページ)と仰せられ、第一の「万民の業感に由るが故に」ことも、第二の「国王の理に背くに由る故に」ことも、その根本は第三の「誹謗正法」すなわち本門戒壇の大御本尊に対する誹謗に存すると仰せられているのであります。


災難興起の一凶とは創価学会

御法主日顕上人猊下は、昨年の元旦勤行の砌に、国土人心の荒廃が進む今日の世相の背後には、仏法破壊の邪悪な存在が潜んでいることを御指南あそばされ、さらに唱題行の砌に、「今日、我々がはっきり見定めなければならないのは、『立正安国論』に『如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)と御指南あそばされたところの一凶とは何であるかというこであります。

今日の日本の社会のなかで色々な邪義邪宗も多いし、これらに対する折伏ももちろん大切でありますが、私はここにはっきりと、その最も邪悪の甚だしきものは創価学会であるということと、池田大作、秋谷栄之助等の率いるあの邪義の存在であると申し上げるものであります。」(大白法639号)と御指南あそばされました。

日本の経済が狂い初めた平成2年末から今日に至る15年の間の様々な悪現証は、そのまま創価学会による仏法破壊の歴史でもあります。池田大作が宗門批判を行った平成2年11月16日の翌日、突如、雲仙普賢岳が噴火を開始したのをはじめ、学会が『ニセ本尊』作製の謀略を廻らした平成5年には北海道南西地震が起こり、また学会が「兵庫の年」と銘打った平成7年には『ニセ本尊』を大量に配布した後に阪神・淡路大震災が発生し、勤行形式を改変した昨年は、鳥インフルエンザ問題や台風による風水害や中越地方の大地震が起こりました。さらに創価学会が平成17年を「インドネシアの年」と発表とした直後に、インドネシア・スマトラ沖大地震が起こり、地震の大津波による死者30万人以上にも及ぶと報じられております。

まさに大聖人仰せの、「仏法やうやくH倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書1469ページ)と示される現証そのものであり、池田創価学会の三宝破壊の大謗法が元となって起きていることを深く認識しなければならないと思うのであります。


池田大作の三宝誹謗

では、創価学会の大誹謗は、どこに起因するものでしょうか。このことについて御法主日顕上人猊下は、「池田大作という人間の、大きな慢心を根底とする我見・我心の仏法破壊の考え方から今日のような状態になったのである」(大日蓮553号)と御指南あそばされております。この慢心とは、他人と比較し、自分の方が優れていると傲る心の病でありますが、池田大作の場合は、下種三宝に対するものですから極めて重症と言うべきであります。

先ず第一は、法宝の本尊に対しては、本尊に関する権能が何もないにも関わらず、ありとする思い上がりであり、『ニセ本尊』を造ったことであります。第二は、仏宝に対しては、自らを「大聖人より2人目の法華経の行者」と人に言わしめ、大聖人様と肩を並べる不遜な態度であります。第三は、大聖人様が「血脈の次第 日蓮日興」(御書1675ページ)と示された唯授一人の血脈を「ニセ血脈」と誹謗し、卑しめ、貶めていることであります。

『一代五時図』に、「一度(ひとたび)三宝を破すれば度々悪道に堕するなり」(同494ページ)と仰せられておりますように、三宝を軽んじ、誹謗する罪は、果てしない無間の苦しみを開くこと必定であります。それとは知らず池田大作の三宝破壊に雷同し、自ら無間地獄の道を開く創価学会員は、まことに哀れと言うほかはありません。


社会を毒する池田創価学会

大聖人様は『十章抄』に、「九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり」(同467ページ)と仰せられ、インドに96派もの外道ができた起こりは、仏慧比丘という一人の修業僧の誤れる振る舞いから起こったと言われてます。今の創価学会もまた一人の慢心が組織全体に波及し、三宝破壊に狂奔している姿と極めて類似していると思うのであります。

その仏慧比丘については、妙楽の『摩訶止観輔行伝弘決』に説かれております。それによりますと、昔、仏慧比丘という修行者が山の中の静かな場所で修行しておりました。ある日、そこに篤信の信者が現れ、価数千という高価な袈裟を寄付してくれたのです。仏慧がこの袈裟を身に付けて修行しておりますと、一人の猟師がこれを見て欲心を起こし、「あの袈裟を売ったなら、莫大なお金になるだろう」と考え、袈裟を着けた仏慧をさらったのであります。囚われの身となった仏慧は、体中に傷を負わされ、袈裟を剥ぎ取られ、裸にされて山奥の木に吊されてしまったのあります。

そこに、別の修業者が通りかかり、木に吊されている仏慧を見て「たしかあの比丘は、先ほどまでは綺麗な袈裟を付けて安座していたのに、今は身を木に吊し丸裸でいる。これは袈裟を付けることも安座することも解脱の道ではないと考え直したに違いない。」と早合点し、それなら自分も丸裸で木の枝に身体を吊して修業したら道を得られるに違いないと、これを真似ました。これが「裸形自懸外道」であります。

やがて木に吊されていた仏慧が正気を取り戻し、ようやく縄を解いて地上におりましたが、身体が傷だらけで痛いので、山の赤土を塗りつけて化膿を防ぎ、樹の皮を剥いで身体に巻き付け、草を束にして蚊や虻などを払いながら歩いておりますと、それを見ていた修行者がまた早合点をして、これが本当の解脱の方法だと思ってその姿を真似たのであります。これが「自然衣外道」の起原と言われます。

日没になって仏慧は谷川で傷を洗い、赤土を落とし、近くの村で古着を貰いますが、それを頭にも身体にも着けました。この有様を見て真似たのが「苦行外道」であります。仏慧の身体の傷に瘡ができましたが、この瘡に蝿や蜂が寄ってくるので白い土を塗って防いだところ、これを真似て「塗身外道」できたと言います。さらに仏慧は、塗った土を乾かそうと火を燃やして身体を炙ると、これを真似して「炙身外道」というのができました。火に炙った傷の痛みが酷くなますと、とうとう仏慧は辛抱しきれなくなり、最後は巌の上から身を投げ出して自害してしまったのです。この有様を見て解脱の道は巌の上から身を投げて死ぬしかないと早合点し、真似たのが「投巌外道」であると言います。このように、インドに96もの外道ができたのは、たった一人の仏慧比丘の、常軌を逸した振る舞いを知らずに、それが真の道と誤認し、真似たところにあるのであります。

戦後、創価学会のやり方を模倣した数多くの新興宗教が派生し、世の中を毒していますが、今また池田大作の慢心の言動が、独善的な人間や不知恩極まりない人間を生み出し、社会全体にその毒気が充満しつつあるのです。


災難の元凶を断つのは我らの使命

『宿屋入道許御状』に「若し此を対治無くんば、他国の為にこの国を破らるべきの由」(同370ページ)とありますように、一国に蔓延した念仏の害毒によって、他国侵逼の難が現実のものとなったことは事実であります。それならば、「未来も亦然るべきか」(同420ページ)との仰せもまた同様に事実であります。軽々に考えて遠い未来のように受け止めてはなりません。この「未来」とは現在のことです。

来たる「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の佳節における「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集」を目指し、各支部とも本年の支部誓願達成に向けて精進せられていることと存じますが、この折伏の目的は、池田創価学会を打ち砕き、正法をもって法界を浄化するための、破邪顕正の闘いであることを決して忘れてはなりません。

御法主日顕上人猊下は、本年の元旦勤行の砌に、「邪義を折伏しつつ前進していくとうことに、お互いに大きく一致していくところが、「僧俗前進」の真の姿と私は思うのであります。そういう点からも、本年は昨年に引き続いて「破邪顕正」という意味をより強くしていく内容が、真の僧俗和合し一致しての前進であるということを、皆様はしっかり肚に入れていただきたいと思うのであります。」(大白法661号)と御指南あそばされ、本年「僧俗前進の年」における私ども僧俗の信行は、昨年にも増して徹底した「破邪顕正」の折伏を行ずることにあると仰せられおります。

私たち僧俗一同、この御法主上人猊下の御指南を身に体し、本年の折伏誓願目標の達成に向けて、災難興起の元凶たる創価学会の邪義・邪説を徹底して打ち砕く果敢な折伏を展開しようでありませんか。皆様のいよいよの御精進をお祈り申し上げ、私の話とさせていただきます。御静聴ありがとうございました。


※この原稿は大護寺支部の菊地さんの御協力で掲載致しました。




体験発表 『鬱病の底で感じた御本尊様の有り難さ、そして生きる喜び』
法悦院支部・加藤由美子 (第1回茨城地方部総会より)


第1回茨城地方部総会おめでとうございます。私は中学時代に生徒会副会長を務め、将来は人の役に立ちたいと医者をめざして勉学に励んでいました。しかし、母の交通事故を機に、生活は一変しました。私が中学2年生の時でした。鼓笛隊に所属していた私の発表を見に、母と妹が総本山に向かう途中で事故は起きたのです。高速道路上で車が一回転するという大きな事故でしたが、幸い軽傷で済みました。御本尊様に守られたのだと、家族一同喜んだのです。しかし、後遺症なしと診断されたはずの母は、事故を機に原因不明の寝たきりとなってしまいました。

母のその姿を見て、私は不信を抱くようになりました。「あんなにも一生懸命に信心をしていた母が、なぜ寝たきりにならなければいけないのか。原因不明なんて、事故で大怪我するよりもっとひどいじゃないか。信心なんて、実は力などないんだ」と、罪障を理解できずに、御本尊様を疑うようになったのです。それまでの私の信心は、母の後ろについていくだけの希薄なものでしたので、不信へとつながってしまいました。

そのため、母に心配をかけまいと無理をしてがんばっていた私の精神は限界になりました。中学2年生の11月には、自律神経失調症で学校を休みがちとなり、食欲も減っていきました。そんななか、動けないにも関わらず、御本尊様の前に座って御題目を唱えている母に、私はいらだちを覚えました。神頼みをする弱い母親に見え、決して母と一緒に御題目を唱えませんでした。私の症状は日に日に悪化し、うつ病と診断されました。

子供用の精神科医を探しても思うように見つからず、ようやく見つけた病院では、日に15錠以上の薬を飲むように言われました。発熱・発汗・頭痛に倦怠感といううつ病の症状を緩和するため、抗うつ剤と向精神剤、精神分裂病治療剤を処方された私は、意識を持たない人形のようになりました。過食症と拒食症を繰り返し、対人恐怖から外出できなくなり、お寺にはもちろん、御登山もできなくなったのです。そして、心身共に衰弱し、母と同じく寝たきりとなってしまいました。

私は、薬で自分の意識が離れていく感覚に恐怖し、今までできたことができなくなっていくあせことに焦りを感じました。人としての生活ができなくなるにつれ、希望を失っていきました。ところが、寝たきりだったはずの母は少しずつ回復してきたのです。御本尊様の功徳が目に見えて現れたにも関わらず、不信を抱く私は気づくことができませんでした。ただ、「なぜ?」という疑問符が浮かんだだけでした。


そして、中学3年生の夏の全国鼓笛隊コンクールに、重度のうつ状態となっていた私はやっとの思いで御登山させていただきました。この登山で、それまで体験したことのない感動に包まれました。朝の勤行を、隊員全員で行ったときでした。重度の倦怠感で起きられない私は、布団を敷いて横たわったまま御本尊様に向かいました。いざ勤行が始まったとき、涙が頬を伝ったのです。辛い体を起こして正面に向き直り、御本尊様に向かいました。そして、手を合わせて御題目を唱えたとき、感動で体が震えました。後から後から涙があふれ、私の体と心は御本尊様の前に座れたことを喜んでいたのです。

頑(かたく)なに閉ざしていた心の壁が徐々に剥(は)がれ、内から生きようとする生命力があふれ出し、感激と感謝で涙が止まりませんでした。深い溝の底から這い上がるような、終わりのない暗闇から抜け出せるような気がしたのです。そして、「これが御本尊様の功徳なのだ」と実感しました。ただ御本尊様を信じて手を合わせることが、一番の幸せなのだと気づき、信心への考え方が変わりました。

御登山後、一時は回復した病状が、また3カ月後には、元に戻るどころか以前よりも悪化して、幻覚・幻聴・対人恐怖症に人格障害まで併発しました。原因不明の発熱と頭痛に悩まされ、記憶が飛ぶほど長い期間眠り続けたりもしました。中学3年生の11月以降は、拒食症と過食症で体重が15kg以上も、減少したり増加したりしたのです。治すのは難しいと診断した小児科の医師から、夜間に緊急で病院に運ばれることの多い私は、養護学校へ編入するよう薦められました。

その頃の私は信心に対する迷いはなく、すでに仕事復帰していた母と、罪障消滅を胸に泣きながら御題目を唱えました。どれだけ悪化しても、絶対に治ると御本尊様を信じ、苦しいなか御題目を唱え続けました。結局、高校受験までには回復できず、通信制の高校へ通うこととなりました。精神科の医師に、4〜5年かかって卒業できればよいほうだと言われ、薬も減ることはありませんでした。しかし、御本尊様の功徳は、少しずつ私の精神も体も治していってくださったのです。高校1〜2年の間もうつ病で苦しみましたが、少しずつ回復したもよくなり、医師が驚くほど回復したのです。高校3年の4月からは、学校へ休み休み行けるようになり、人格障害やパニック症状も発作的に起こる程度になったのです。5月には、中学生の時にも行った、自転車で1時間かけての朝詣りもできました。


朝詣りで少し体力を回復した私は、月に一度の御登山で日常生活ができるまでになりました。そして今年、通信制の高校を普通の人と同じように3年間で卒業でき、しかもその後、大学へも入学できました。思えば、全日制の高校へ入学していたとしても通えずに落第したかもしれません。御本尊様に守られながら生きていることを実感し、その感謝の念が、折伏させていただきたいという願いにつながりました。

私の母は、税理士をしています。その関係で、母の友人の税理士である松浦さんへの折伏を、昨年の朝詣りで御祈念していました。松浦さんは、私が病気で苦しんでいるときに、カウンセリングを兼ねて気分転換にと、旅行へ連れて行ってくれました。その恩を、どうにかして返せないものかと、母と共に下種・折伏させていただいていたのです。そして、昨年の4月21日に、松浦さんは御授戒を受けることができました。6月には、御本尊様を御下付いただき、御安置できました。

当初はあまり信心に興味のなかった松浦さんも、今では御報恩御講や唱題会、広布推進会に熱心に参加され、御主管・渡部信法御尊師の御法話を真剣に聞いてがんばっています。その松浦さんが、「日蓮正宗の信心をさせてもらってよかった」と言ってくれたときには、感激で涙が流れました。そして私は、ますます確信が持てたのです。紹介者としての自覚も芽生え、教学の研鐙に勤めるようになりました。初級教学試験、中級教学試験と受験するなか、これまでより深く信心を学ばせていただくことができました。

次いで、高校の友人で同じ病気で苦しんでいた小山さんを折伏させていただけたのです。同じ病気になったからこそ、相手の立場に立って破折ができました。病気を治すのには、過去の罪障を消すしかないのだと断言し、半信半疑の小山さんをお寺にお連れしたのです。御主管様のお話を聞いた小山さんは、今年1月31日に御授戒を受けることができました。今では、小山さんも回復の兆(きざ)しが見え、信心に対して一生懸命にがんばっています。その姿に私も励まされ、一層、折伏に力が入ります。「信心させてくれて、ありがとう」との言葉をもらい、折伏の喜びも教えてもらいました。その感動で御本尊様の功徳を再確認でき、折伏の大切さを学びました。一人でも多くの友人を折伏させていただけるよう、日々「させていただく信心」でがんばっています。

今は、高校時代の友人で、創価学会に疑問を持っている方を折伏しています。お寺にお連れする約束もできました。さらに、中学時代に私が病気でひどかったときでも、私を見捨てなかった幼馴染みの3人にも、泊りがけで下種・折伏をさせていただきました。信心の話をすると語気を荒げる友人もいますが、ていねいに折伏していくよう心がけています。朝夕の勤行で、「相手の幸せを願って折伏できるようにしてください」と御祈念しています。

本当に人を救うのは、やはり信心しかないと思います。学校へ通えなかった私は、医者になることはできませんでしたが、夢が叶わないわけではありません。折伏という尊い行為によって罪障消滅が叶うのですから、当初の夢より大きな使命を課せられたと思っています。また、折伏させていただくために病気になったように思います。希薄な信心を改め、きちんと行じていきなさいと教えられたのだと感じました。これからも、御主管様の御指導のもと、一層、「一人が一人の折伏を」を胸に、講中の先輩方を見習ってがんばります。



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