<6〜8面>
本年度の法華講夏期講習会が、5月28日(土)よりよいよ始まる。平成15年度より新たな御命題「『立正安国論』正義顕揚750年」の地涌倍増に向かってスタートして、はや3年目である。この時に当たって第3回夏期講習登山に登山し、第1日目には[1]『四条金御殿御返事』(別名・比経難持書)、[2]佐渡の法華講衆とその信仰、[3]信心の歓喜について学ぶ。2日目には御法主上人猊下より甚深なる御講義を戴ける。
既に毎年恒例行事となった夏期講習であるが、これは単なる教学を勉強するために登山するのではない。御法主上人猊下は、かつて夏期講習会について「お互いの修行ということを中心に考えるべきであると存じます。講習会といいますと、つい、知識を得るための集まり、講習というように考えがちであります。しかしよく考えみますと、仏道は『行』があって『学』がある。言い換えれば『行』と『学』とは全く内容的に同じ意味があるのであります。・・・皆さん方が、一年に一遍であっても、遠い所をわざわざこの講習会に参加なさるということが、実に『行』の上において尊いことであり、その修業をやり抜いていくというこうこそ大切であると思うのであります」(大白法444号)と仰せられ、「『行』が主体で、この行のところに自ずから学が具わる」ことを御指南くだされている。
日本国に十宗(じっしゅう)あり。所謂(いわゆる)倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律・法相(ほっそう)・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり。此の宗は皆本尊まちまちなり。所謂倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり。法相・三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす。華厳宗は台上の盧遮那報身(るしゃなほうしん)の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用ひたり。何ぞ天台宗に法華経を本尊とするや。答ふ、彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす、其の義あるべし。
問ふ、其の義如何(いかん)。仏と経と何れか勝れたるや。答へて云はく、本尊とは勝れたるを用ふべし。例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く、仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
問うて云はく、然らば汝云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。
問ふ、其の証拠如何。答ふ、普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり」等云云。又云はく「此の方等経は是(これ)諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまへり。仏の三種の身は方等より生ず。是大法印(ほういん)にして涅槃海(ねはんかい)を印す。此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田、応供(おうぐ)の中の最なり」等云云。此等の経文、仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神(たましい)なり。然れば則ち木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。而るに今木画の二像を設けて、大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすは、尤も逆なり。
今日は、この『報恩抄』の御文の講義をするのではないので詳しくは述べませんが、とにかく『本尊問答抄』には、前回講義をした1274ページの冒頭に、「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答えて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」というように、最初に法の本尊としての大断定があります。この御文のところから当抄の問答が鴇説き出されておるのでわけであり、つまりこの最初のところの標文として「法華経の題目を以て本尊とすべし」ということが、この抄の基本であります。
そして、2行目の「問うて云はく」からは、1行目の断定についての解釈として「問うて云はく」「答えて云はく」という問答のかちで解説が進んでおります。その中において、この抄の顕正と破邪の意義と内容が存するのであります。すなわち、「 尤も逆なり。」といところの次の行の「問うて云はく」以下は、さらに問答の内容が示されてありますけれども、これから後は破邪という意義が示されているのであります。したがって、この抄の前回講義をした部分から今日拝読したところまでは、顕正、つまり、正を顕すという内容が述べられるのであります。では、これより文々について拝読してまいります。
所謂、倶舎・成実・律・法相・三論・律・
小乗というのは、その中の修行者として声聞・縁覚・菩薩がありますが、特に声聞・縁覚にその特殊性があります。これを二乗と言い、要するに自分自身の煩惱を自分で退治する、滅していく考え方で、他の人を導こうという気持ちがないわけです。そういうところから、仏法の法理の上からも非常に狭く小さいわけで、これには苦・集・滅・道の四諦という法門があります。
小乗の三宗のうち倶舎宗は、世親の述べた『倶舍論』30巻を所依とする宗派であります。成実宗は、倶舍宗の純小乗のところから一歩大乗に入った教でありまして訶梨跋摩という人が作った『成実論』が所依になっております。律宗は、釈尊が説かれたいろいろな戒めの内容が、だんだんと伝わっていく中において20に分派しましたけれども、その中の南山の道宣という人が宗旨を開いたのが律宗になっております。要するに大小の戒律があるわけです。
これらが南都の六宗であります。この小乗三宗・大乗三宗の経典は、何れも釈尊の真実の大法たる法華経よりみれば、方便の経々であります。
真言・浄土・禅・法華なり
浄土宗は、南無阿弥陀仏と唱える宗旨です。これは阿弥陀仏が法蔵比丘として修業していた時に、自分が仏に成ったら、あらゆる衆生を自分の荘厳した浄土に迎え取ろうということを誓願したということが、阿弥陀経、あるいは無量寿経等に説いてあります。ただし、これらの内容は、すべて釈尊が説いたのであって、阿弥陀如来が実際にこの世の中に出現して説いたのではないのです。釈尊が方便の教えとして「西方に阿弥陀如来がおられる」ということを言われて、頻婆舎羅王の妻で韋陀希(いだいけ)夫人という、夫が実子の阿闍世太子に幽閉され殺されるというたいへん苦しい境界の人を助けようとしたということであります。ですから、釈尊の真実の教えではなく、釈尊が方便として説いたものであります。阿弥陀仏を信じる人は、西方極楽十万億浄土に阿弥陀仏の誓願によって必ず救い取られると言うのであり、要するに西方浄土信仰の教えであります。
禅宗は、最近、坐禅というようなことでテレビなどにも時々出ておるようなかたちもありますが、今はもう多くの人が仏教というものの本質、根本に戒・定・慧の三があり、これは正しい了義経によって示されるものであることを全く忘れて、仏教というものを何でも同じようなものだというように考えておるように思われます。特に禅宗では、本来的には経典を否定するのであります。つまり「教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏」ということを主張するのです。それは何故かと言うと本来、自分自身の心の中に仏があり、その仏を禅によって、つまり、精神統一をして悟れば、もうそれで仏教の根本に達するのであると言うのです。これは、仏の語によってこそ顕れる真実の理を否定し、迷いの中の一分の定を仏と錯覚する大きな誤りです。
それから、法華宗は、天台大師が中国において立てられた天台法華宗のことです。これが日本の国では、最澄という人が天台法華宗を受けて、比叡山にこれを建立下のであります。しかし、迹門中心の叡山法華宗は、去年の暦、昨日の食事のごとく、末法の役には立ちません。
以上のように、ごく簡単に言いましたけれども、このうちの真言宗と天台法華宗は平安時代に始まり、さらに鎌倉時代に入って浄土宗と禅宗という宗旨が出てくるのであります。
所謂倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり
天台大師は、一代仏教の教理の内容として4つの教えを挙げています。すなわち、蔵・通・別・円の四教で、蔵教は但空を、通教は体空を、別教は但中を、円教は不但中の理です。このほかに仏教の教理はないのです。そして小乗の蔵教の但空の理を説く仏が、この「劣応身の小釈迦」なのです。
法相・三論・の二宗は大釈迦仏を本尊とす。
これは、蔵・通・別・円の上からいくと通教の仏なのです。ですから、小乗から大乗へ移る意味での天冠他受用、あるいは先ほど劣応身ということがありましたが、それに対して勝応身ということであり、大釈迦仏であるのです。
華厳宗は台上の盧遮那報身の釈迦如来、
真言宗は大日如来、
浄土宗は阿弥陀仏、
禅宗にも釈迦を用ひたり。
ここのところで少々詳しく申し上げておきたいことは、以上の各宗の本尊は、それぞれ三身が別々であるということです。すなわち、「此の宗は皆本尊まちまちなり。所謂倶舍・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり」とあるように、やはり劣応身ではあっても、これは単に応身だけで法身・報身を欠くのです。それから「法相・三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす」とあるのも、これも勝応身ですから応身だけなのです。それから、「華厳宗は台上の盧遮那報身の釈迦如来」とあるのは、これは報身だけなのです。さらに「真言宗は大日如来」というのは法身だけというように、それぞれ三身の皆各別なのであります。そこが法華経の空・仮・中の円融三諦の上から現れる真実の仏様と異なっておるということが断ぜられるのであります。
しかし、実際に皆さんが比叡山へ行ってみれば判りますが、法華経だけが本尊になっているかと言うと、そのようなことはないのです。あちらこちらの堂宇には、それぞれいろいろな仏像や菩薩像などが祀られておるのです。では、何故にこのところでは、このように仰っているかと言うと、前回拝読した御文のところに、天台大師の四種三昧の中では、阿弥陀仏を本尊としておるけれども、法華三昧においては法華経を本尊としておる、法華経が中心であるが故に法華経をもって本尊とするのである趣旨から、このことを言われておるのであります。ですから、ここで「法華経を本尊とするや」という質問を構えられるわけです。
それが、次の第五問答になります。今のところでは「其の義知るべし」とだけおっしゃっていて、未だはっきりとした解釈がありません。つまり何らかの深い意義があろうとまず言われるのです。そこで、次にその質問が出てくるわけです。
答えて云はく、本尊とは優れたるを用ふべし。
例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く、
それから次の「五帝」とは、少昊・センギョク・テイコク・尭王・舜王のことです。こういう意味において、儒家すなわち儒道のうほうの孔子・孟子等の教えの上からいくならば、根本の道徳の一切の元を教えたところの、この三皇五帝をもって本尊とするということをまず挙げられます。このように、主・師・親の徳を持つ人格、すなわち人と法を対比して、人(にん)をもって本尊とすることの道理を示されます。
仏家にもまた釈迦を以て本尊とすべし。
これは、次のところにおいて法華経をもって本尊とするという深い再往の意義を顕していく上から、一往のこととして、ここに阿弥陀仏を本尊とするよりも、釈迦を本尊とするのが本当であるということから、これは権実相対の法門であり、御書の中にもたくさん出てきます。つまり、阿弥陀仏は、我々に縁のない仏であり、たとえ縁があるとしても他土の仏であります。ましてや、この土に出現して修行し、本当の仏法、宇宙の大真理を悟って具体的に我々衆生を正しく導かれた方は釈尊なのです。ですから先ほど言ったとおり、阿弥陀仏自体も釈尊が説いた仏であって、阿弥陀仏が実際に我々衆生の前に現れ来たのではないのであります。真言の大日如来もそうです。そういう意味から論ずるならば、やはり釈尊を本尊とすることが、一往、仏法においての基準であることが、ここに述べられておるわけです。
答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給え、私の義にあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。
また、天台も『法華三昧懺儀』という文献の中においては、法華経をもって本尊とすることを示しておるのです。ですから、釈尊と天台は共に法華経をもって本尊とされておるわけです。よって仏像本尊に対し、法華経を本尊とする釈尊と天台の指南に基づく再往の意義を示されるのであります。これは法門から言うと、権実相対の意味があります。したがって爾前経においてはいろいろな仏様が出ておるけれども、その中には釈尊もおるし、大日如来もおるし、阿弥陀仏もいるが、これはすべて法華経から出たのであるという意義の含みから、法華経が本尊であると決し給うのであります。
まず、「法華経より出生給へり」ということは「所生」であり、「生ずる所」という意味です。つまり十方の諸仏は法華経より出生したということですから所生に当たるのです。法華経を拝読してみますと、『宝塔品』の時に、地より虚空に宝塔が涌出し、その宝塔を開くために、三変土田の変革を経て、十方分身の諸仏が集められのです。それから釈迦・多宝が並座して三箇の鳳詔があるわけですが、この分身の来集ということに、十方の諸仏が釈尊の分身であり、その釈尊が法華経から出生された以上、諸仏も然りであるという意味が拝せられるのであります。したがって、これらの道理をもって大聖人様がここにはっきりと、あらゆる仏は法華経から出生しておると仰せあります。
それに対して「能生」とは「能く生ずる」という意味ですから、これは法華経が諸仏を能く生ずることなのです。したがって、法華経が能生である故に本尊とすることが正しいと仰せであります。
「この大乗経典は諸仏の宝蔵也、
十法三世の諸仏の眼目なり、
三世の諸の如来を出生する種なり」等云々。
この根本の道理について、大聖人様は、『秋元御書』の中で、「種・熟・脱の法門、法華経の肝要なり。三世十法の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(御書1447ページ)と仰せられ、明らかに大乗経典ということの本意は妙法蓮華経であることを述べられております。これが、『本尊問答抄』の冒頭の「問ふて云はく、末代の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊抄とすべし」という意義に当たります。すなわち、種・熟・脱の中でも、下種の法華経において御本尊が建立されるということの内容を明らかにする意味で、ここに普賢経の文を挙げられておると拝せられるのであります。
また云はく「此の方等経は是諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまへり。」
創価学会は、いまだに「C作戦」に執着している。執念深く、10年以上も吹聴する姿は、もはや怨念と言うほかはない。最近の創価新報(平成17年4月20日付)でも、「『C作戦』は広布破壊の暴挙」という大層な見出しのもと、「歴史を正しく認識するために、研さんの糧(かて)として『C作戦』についてまとめてみた」と、被害妄想たくましく、長々と勝手なことを書き連ねる。
彼らは、どうしても、創価学会破門などの原因が「C作戦」にあると仕立て上げたいらしい。間違っても、自らの大謗法がその元凶との真実を明かすわけにはいかないから、なんとしても、宗門に責任転嫁したいのだろう。その悲痛なまでの焦燥が「C作戦」という幻影のすり込みに顕れている。
彼らは、この幻影を元にして、「C作戦で信徒数は2%に激減」(前同)と、バカげた報道を繰り返す。未だに公称8百万とも嘯(うそぶ)く創価学会員は、平成9年末に、日蓮正宗の信徒資格を喪失した。信徒数が大幅に減ることなど承知の上で、宗門自らが、あえて謗法厳誡の精神を「日蓮正宗宗規」に反映せしめたのである。
故に、宗門の「大敗北」などと報ずるのは、明らかな虚構である。しかも、「宗門を離れる脱講者も相次ぎ、その凋落ぶりは、いや増して大きくなっている」(前同)と、全国で「脱講者」が相次いでいるような猿芝居まで言い繕うとは、全くお粗末な新聞だ。
宗門は、清浄な法華講信徒と共に、平成6年に6万大総会を敢行し、平成10年には10万総登山、そして平成14年には30万総登山を滞りなく完遂した。この事実は、創価学会破門以降も、倦(う)まず弛(たゆ)まず、僧俗が一致和合して大前進を重ねている証左であり、創価新報が言う「凋落」を否定して余りある。
所詮、創価学会が、宗門「凋落」の証拠として挙げる内容は、この程度のゴマカシに過ぎない。幻影と虚構を何度もすり込む−−これを洗脳と言わずして、なんと表現すべきだろうか。この洗脳の事実に、むしろ創価学会こそ「凋落」に怯える姿が窺われる。
例えば、聖教新聞の発行部数は、550万部といわれる。この数字自体が眉唾物だが、これを前提に考えても、1人で何部も購読している会員はざらである現実を思えば、創価学会の実動数は、公称よりかなり少ないと察しがつこう。なんのことはない。創価学会こそ、口では「大発展、大発展」と言いながら、実際は「その凋落ぶりは、いや増して大きくなっている」のである。
創価学会は、世間の人に蛇蝎(だかつ)の如く忌(い)み嫌われている。それは、しつこいからである。その世界一級の執念深さは、10年以上にわたって、性懲りもなく繰り返される「C作戦」報道に顕著である。
しかし、これは司法の場でも、「一方的な陳述の類であり、その内容も客観的根拠に乏しく、また、これらを補強し得る的確な証拠もない」(長野地裁松本支部平成11年4月21日の判決)と否定されている。つまり、根拠に乏しく証拠も無いと言われ、身も蓋もないまま、あえなく撃沈されているのである。そんな、根も葉もないことを10年以上も言い続けるとは…。やはり、主導する大作が、尋常ならざる執念深さの持ち主だから、その「病気」が組織に伝染ってしまったのであろうか。
そんな謗法の害毒による病を治す「是好良薬」は、我が日蓮正宗の正しい信仰以外には無い。洗脳されきってしまった、まさに「失本心故」の哀れな者に対し、勇猛果敢に慈悲の折伏を展開していこうではないか。
その頃、奉安堂の御供養が始まっておりました。御供養の大切さについて伺い、家族全員で参加させていただきました。宗旨建立750年慶祝記念法華講30万総登山にも、全員で参加させていただけました。この頃から我が家で折伏座談会をするようになり、新来者が来はじめ、その中から1人、2人と勧誡を受ける方が出てきました。最初の勧誡式を約束した時などは、約束の時間が近づいて電話が鳴ると、断りの話ではないかと思いハラハラドキドキの思いでした。折伏の難しさを感じたのもこの頃です。
また、御供養の大切さについて、御法主上人猊下は、「寺院が立派になるということは取りも直さず末法下種の御本仏・宗祖日蓮大聖人の御威光がますます倍増することでございまして、けっしてこれは住職の住んでおるところの住居がただ立派になるということではないのでございます。やはりお寺が立派になるということによってその法威が増し、さらに信徒の数も増え、その信徒の方々がその寺院に参詣することによって御本尊の御威光をさらに感じて信行倍増していくということであります」(大日蓮454号)と御指南されておられます。
その後、家族で話し合い、お寺の看板と倉庫を御供養させていただきました。なお、このとき看板を依頼した業者が学会員で、これがきっかけで、その方は半年後に勧誡を受けられました。
いろいろの書物の中に、真心の御供養をしていくと衣食住に困らないとありますが、私自身、つくづくそのことを痛感しております。以前の我が家は邪宗の宝庫で、念仏宗の上、神棚にはあらゆる神札があり、庭にお堂を作って蛇の神を祀り、その結果、貧乏、家庭不和、家庭内暴力という有り様で、あの頃のことを思うと、謗法は恐ろしいと感じます。不幸の原因は間違った宗教にあることを、身をもって体験してきました。
ここで少し内容を変え、信善寺支部の折伏活動の話をさせていただきます。信善寺支部では、昨年より、創価学会員の名簿と住宅地図を頼りに、毎月1回「折伏の日」を設け、学会破折の資料を持って学会員宅へ訪問しています。午前9時より1時間唱題し、グループを組んで出かけます。しかし、多くの学会員は話を聞きません。資料を破る人、暴力を振るおうとする人がいたりと、すっかりマインドコントロールされてしまっている様子です。
折伏の成果が思うように上がらないことも事実です。しかし、そんななか、昨年の12月の「折伏の日」に、私のグループ3人で1軒2軒と回り、その帰りに以前下種した方のことを思い出し、寄らせてもらいました。この日、そこでは健康セミナーをやっていてたくさんの方がおられましたが、私は社長に、再び日蓮正宗についてお話をしておりました。すると、同席していた全く知らない方から「今、総本山大石寺はどんなのらね(どんなふうかね)」と聞かれ、私は、1年に7回ほど参詣しているけれども、たいへん立派になっていると話しました。「貴方はどちらさんですか」と聞くと、その方は「僕は学会の幹部をやっていた者ですが、学会の間違いを知り、今はやめている」とのこと。明日、私の家に来ませんかと約束し、来てもらいました。いろいろの資料や写真集などを見てもらったところ、入信を決意されましたので、12月23日にお寺で支部座談会をやりますのでおいでくださいと約束。当日、無事に勧誡を受けることができました。
また話が変わりますが、一昨年の暮れ、それまで2年間かけて折伏していた神奈川にいる兄と、その友人の折伏がやっとの思いで成就し、2人共、御授戒を受けることができました。
年が明けて、御報恩御講の時に御本尊様を御下付いただき、1月15日に御住職・安孫子信洋御尊師と家内と3人で、入仏式に厚木市の兄の自宅まで行きました。そこで感じたことは、学会では御本尊をいただけば、その後はほったらかしでしたが、日蓮正宗では違うということです。御僧侶からきちんと、御本尊様へのお給仕の仕方など、ていねいに指導していただけるのです。正しい信心を身につけることの大切さを教えていただきました。その後も住職様には、年2回ほど、お盆経などで厚木の兄とその友人の所を訪問してくださり、兄たちもたいへん喜んでおります。
話はいろいろになりましたが、折伏は簡単には成果が出ないことも事実ですが、こういった活動は決して無駄にはならないと確信できました。また、家内も近所の方々を家に誘い、日蓮正宗の話をしています。
寺院参詣、総本山参詣や信心活動をするなか、目に見えないところで、いかに御本尊様に守られ、徳を積ませていただいているかが判る今日この頃であります。世間では、確かな目標を持たず行楽に浮かれる人が多いなかで、私たちは「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって進んでおります。目標完遂をめざして下種した人たちをなんとしても救うとの思いで、一生懸命にがんばってまいりましょう。
○平成17年度夏期講習会いよいよ始まる
春季総登山の砌 本尊問答抄(上)
皆様、こんばんは。春季総登山に当たり、例年とおり何か話しをするようにということでございますので、本日は、昨年の続きである『本尊問答抄』の1275ページの一行目から拝読いたしたいと思います。御書をお持ちの方は、どうぞご覧ください。
この『本尊問答抄』は、弘安元(1278年)の御書であります。特に内容においては、他の日蓮宗関係の人たちが、とても迷う御書であります。というのは、身延派の他門日蓮宗においては、本門の本尊としての釈尊を立てます。たしかに、『報恩抄』には「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書1036ページ)という御文があります。皆さん方もご承知と思いますが、これは三大秘法を示される中で説かれてあります。ところが、その標文の後には釈文として、「所謂宝塔の内の釈迦・多宝、その外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」(同)とあり、標文と釈文の釈迦との関係において二重の本門の釈尊が示され、そういうことからも、この文は解釈がたいへん難しいのであります。しかるに、この御文の正しい解釈は、実は大聖人様が御出現になって顕された大慢陀羅を示されておる御文なのです。
問うて云はく、日本国に十宗あり。
これは大聖人様が御出現の時にすでに、十宗があったわけです。
ここまで、6つありますが、これを南都六宗と言います。南都というのは奈良のことで、日本に仏教が渡ってきて以来、奈良時代において宗旨として出てきたものであります。奈良が仏教の最初ですから、そこで六宗がまず出来たということであります。 その中で「倶舎・成実・律」 というのは、小乗の宗旨になります。「法相・三論・華厳」は、大乗の経典による宗旨になります。
法相・三論・華厳
大乗の三宗のうち法相宗は、玄奘三藏という人がインドを17年間にわたって回遊し、新しい経典をインドから持ってきて翻訳し、その大乗の経典の中から唯識の内容を宣揚して宗旨を開いたのであります。三論宗は、3つの内容から成り、これは竜樹の『中論』『十二門論』『百論』を拠り所として立てられた宗派で、般若経の大乗空実相論を内容としております。華厳宗は、大方広仏華厳経という経典に依って宗旨を立てておるわけです。その中でも特に有名なのは、大毘廬遮那仏という仏で、これを造ったのが有名な奈良の大仏であります。あのような大きな仏の形で広大な華厳の大乗法を示しておるのです。
真言宗は、インドより中国における密教の思想を、さらに弘法大師が日本に招来して開いた宗派です。元は南天竺の鉄塔の中に真言の経典があったと言われ何かたいへん神秘的な、元のはっきりしない伝承の姿があるのであります。しかし、そこから金剛智三蔵・不空三蔵・善無畏三蔵等が、中国にこの真言の教えを渡してきて、真言宗が弘まったのであります。ですから、宗旨としては中国にあるわけですけれども、さらに日本の国には弘法大師が真言の教えを受けて弘めたという次第です。
この宗は皆本尊まちまちなり。
前回のところでは、仏を本尊とするということは間違いであって、本来、法華経からするならば、これは、法をもって本尊とすることが元であることを経釈の上から述べられております。そこで、ここではさらに、まず各宗の本尊と天台宗の本尊との相違を示されるのであります。
この「劣応身」 という語には「劣る」という字ついております。およそ大乗の仏身には、仏身・報身・応身という三身が示されるのですが、小乗の仏は、その中で単独の応身、しかも応身に勝劣がある中で、劣った応身と言われているのです。それは「倶舎・成実・律」の小乗の三宗では但なる空という真理の一片のみを修行する、その一番低い内容を説く仏だからです。つまり我々の煩悩の中には、空の真理を知ることができない見惑と思惑という2つの煩悩があるわけですが、それを断尽したところの仏様が、すなわち「劣応身の小釈迦」ということであり、それを仏として本尊を立てるのが、この三宗であります。
「劣応身の小釈迦」は一文六尺の姿でありますが、そこから進んで大乗のほうに入ると「大釈迦仏」というのは造像のとき非常に相好を大きくしてあり、そして天冠形というものを頭に載せて飾っておるというようなかたちで、小釈迦仏と区別をしておるのでございます。これが大乗の大釈迦仏であり、それを大聖人様がここに大きく分けてお示しになっておるのであります。
これは造像の例としては奈良の大仏のことで、あのような大仏の形像をもって「盧遮那報身」という仏の悟りと化導の相を表すのであります。
これは法身如来を言います。大日如来は、この土に肉身をもって出現して衆生を導くお釋迦さまような仏ではありません。法界の真実実相そのものを法身と言うのですが、単なる法身ですから三身が具わっていないのであり、教理の上からの想像した仏であります。
浄土宗は、また特別に阿弥陀仏という仏様があるということを主張するわけでが、前にも言うとおり、釈尊が舌の上で説かれた仏で、この土に出現しておりません。
前述のとおり、禅宗は本来は「教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏」、つまり真の悟りは教の外に伝えるということを主張する関係上、仏は一往の方便として存在するけれども、本来は自分自身が仏であるということを示す上からは、特別に釈尊を立てる必要がないはずですが、やはりそれでは恰好がつかない意味もあって、一往、本尊として釈尊を用いるということであります。
何ぞ天台宗に法華経を本尊とするや。
倶舍・成実・律・法相・華厳・真言・浄土・禅の九宗を挙げて、それが全部、釈尊や大日如来、あるいは阿弥陀如来等の仏をもって本尊としておるにもかかわらず、天台宗おいては「法華経を本尊」とする、つまり法を本尊とするのはどういうわけかと言うので、これは法華経のの本義は法本尊にあることを示される伏線なのです。
答ふ、彼等は仏を本尊とするに是れは経を本尊とす、斯の義あるべし。
この「彼等」というのは、前に挙げた倶舍・成実等の天台を除く九宗のことであります。その九宗においては全部、仏を本尊としておるけれども、天台宗においては経を本尊としておるということには、必ずその義があるべきであるという意義を示されるのであります。
問う、其の義如何。仏と経と何れか優れたるや。
つまり本尊として仏と経を対比して、どちらが優れておるのかということを、さらに質問するのです。
このところは分章的にも微妙な立て分けで、前後の次第を示されております。要は一往と再往の上から、まず本尊とは勝れたるものを用いるこたが大切であるという原則を述べられるのです。「鰯の頭も信心から」という諺もありますが、まあ、鰯の頭を本尊として信じる人はいないと思われますが、稲荷などでは狐を使い神として、狐の通力を信用して、それのよって一時期にたいへん儲かったひとがあるようですが、ある時期になると、たいへん大きな罰を受けるというようなことも実際に聞いたことがあります。要するに、人間以下のものを本尊とするとこはたいへん大きな間違いであり、またそれのみならず、やはり本尊として信仰するためのは、最も優れたものをもって本尊とすることが大切であり、この道理をまず一往、仰せになるわけです。
そして、その例として「三皇」とは、中国の伏羲(ふくき)・神農・黄帝の3人の王のことを言うのです。まず、伏羲という人は、皇帝の業績としては文字を表したことが言われております。次に、神農という人は、これは皆さん方も見かけることがあるかもしれませんが、富山の薬屋などに「神農」と書いたものがありますね。この方は、中国で大昔に草木やいろいろなものを調べて、そして人間の身体に有益であるものを選定し、そして薬を発目したという半面、農業を指導したということから神農と言われております。それから黄帝という人は、賊を討って天下を平定し、さらには衣服や舟・車・家屋・弓矢などを作って文明の発展に寄与したと言われています。
これがおもしろいところで、まず「本尊とは勝れたるを用ふべし」と仰せられ、しかも他宗の釈迦をもって本尊とするということに対し、天台宗で法を本尊とすることを仰せられつつも、基本的には仏家において釈迦をもって本尊とするということを、また仰せになっておるわけです。
問うて云はく、然らば汝何ぞ釈迦を以って本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。
これは、先ほど釈迦を本尊とするということを一往、挙げられたけれども、それに対して、釈迦を本尊としないで、何故法華経の題目を本尊とするのであるかという、いよいよ再往の義に入るための質問であります。
この釈尊と天台とが法華経を本尊と定めたということは、前のところに出ましたが、再説すれば、『法師品本』に、「在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。また舎利を安ずることを須いず」(法華経326ページ)と、釈尊自らが仏の舎利を安んずることは必要ない、してはいけないと説かれているわけであります。そして、その上から釈尊の舎利を安ずることよりも、法華経をもって本尊とすべし述べられておる意義を、ここに仏説として挙げられておるのであります。
其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。
この文まさしく法華経を本尊とする意義を示されます。すなわち、この法華経は釈尊の父であり母であるということであり、また諸仏の眼目であるということです。この「眼目」とは、肝要・中心という意味であります。したがって、一切のものは、眼によって正邪を弁別することができるように、諸仏の肝要とするところが法華経であるということを示されておるわけです。これは釈尊もそうであり、大日如来、その他一切の仏が法華経を眼目とするのであります。
釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以って本尊とするなり。
これは「能生」と「所生」という大事な法門です。
問ふ、其の証拠如何。答ふ、普賢経に云はく
この「普賢経」というのは「仏説観普賢菩薩行法経」のことで、法華経の後、すなわち釈尊が80歳で入滅される3ヶ月前に説かれた経典であります。内容的には、法華経の教えを基準として、これを修行することによって成仏してゆくという方法が説かれております。したがって、普賢経は法華経の内容をすべて受けておるわけですから、この普賢経に示されておる「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也」という文は、まさしく法華経を指しておるのです。一口に言うと、一代経中の小乗の経典としては阿含経だけですから、あとの経典はすべて一往、大乗の経典ということになります。したがって単に大乗経典と言うと、たいへん広いことになるけども、この普賢経で言うところの大乗経典は、直ちに法華経を指しておるのであります。
「宝蔵」とは、その中のいろいろな宝が篭もっておる蔵のことです。すまわち、諸仏のあらゆる秘密の境界、深い悟りの境界、そのほか衆生を導くための様々な仏法の尊い内容等のことごとくが「諸仏の宝蔵」の意味です。したがって、大乗経典すなわち法華経が諸仏の宝蔵であるとの意になります。
これは諸々の経典には、たくさんの仏が説かれておりますが、法華経こそ、その諸仏の等しく肝要とするところであるという文であります。
「種」という字は、まことに大切なことを示しております。大聖人様は、末法の一切衆生を導くために、種・熟・脱の法門、特に『観心本尊抄』において下種の本尊をお示しになられるのであり、また、その内容があらゆる御書の根本であります。ですから、この『本尊問答抄』でも、末法下種の本尊を顕し給う上から、特に「三世の諸の如来を出生する種なり」という文を普賢経より引かれておるのです。あらゆるもの、種があって初めて出生してくるのです。種がなかったら何も出てきません。ありとあらゆるもには、すべて種があるのです。仏法もそのとおりです。すなわち三世の諸仏は大乗経典が種となって現れてきておるのであります。
大乗の仏は、空・仮・中の三諦の上から実相を諦観されます。ですから、諸々の仏は五つの眼をすべて具しておる故に、あらゆる一切の事物・事象を正しく見ることができるということが言えるのであります。末法の我々は、下種大仏法の利益として凡夫の姿の上から直ちに成仏をする境界でありますから、その中でこの五眼の内容は分々において必ず見ることができます。
最近、世間では、人を騙して様々な利得を得たり、また騙されて非常に悩み苦しんでおる人も多いようでありますが、 正しい信心をして、しっかり御題目を唱えて妙法の境界を得ると、五眼の用きが表に現れなくとも、心の中に五眼を得るような用きが自ずとからそこに具わるのであります。したがって、変な騙され方をして苦しむような拙い果報を受けることはなく、またもし万一でもあれば、かえってそれが変毒為薬して必ず不幸が幸福に変わるのです。
※以下次号。この原稿は大護寺支部の菊地さんの御協力で掲載致しました。
▼「C作戦」の幻影
▼信徒激減の虚構
▼幻影と虚構のすり込み=洗脳
▼執念深さは世界一
信善寺支部・金山博美
私が法華講に入ったきっかけは、5年前、法華講員だった従兄弟の葬儀に参列し、これが正しい葬儀の姿だと感じたことでした。この後、大久保前御住職や講中の方々の話を伺うことができ、入信させていただきました。その1年後、我が家の3人が勧誡、3人が御授戒を受けさせていただきました。
御供養をしていくと衣食住に困らない
グループを組んで創価学会員を折伏
陰徳あれば陽報あり