<4〜8面>
3日の御逮夜法要は、午後4時から客殿において御法主上人猊下による懇(ねんご)ろな献膳の儀に続き、読経・唱題と進められた。途中、御法主上人猊下の御焼香に続いて、参列者全員が焼香に立ち、日時上人の御高徳を偲びつつ御報恩謝徳申し上げた。その後、大村教学部長より、参列の各位に対して丁重な謝辞が述べられた。
翌4日は、午前10時より客殿において御正当会が奉修された。御法主上人猊下の大導師のもと、献膳の儀・読経・焼香・唱題と厳粛に修された後、大村教学部長より参列の各位に対して謝辞が述べられた。引き続き、御法主上人猊下大導師のもと、日時上人の御墓前において墓参の儀が執り行われ、午前11時半、法要の一切がとどこおりなく終了した。
元中5(1388)年10月13日に、総本山の御影堂に日蓮大聖人の御影様を造立御安置され、応永4(1397)年には、『三大秘法抄』『薬王品得意抄』等の大聖人の甚深の御法門を御書写あそばされている。また、翌応永5(1398)年7月に、福島県いわき市黒須野に妙法寺を建立され、さらに応永9(1402)年10月には、同市の深山田に蓮浄寺を建立あそばされている。
皆さん、こんばんは。広布唱題行は例月、第1日曜日の午前9時から行うということになっておりますが、総本山においては法華講連合会の夏期講習会第2期の私の講義を明日の午前9時から行うことになっておりますので、今晩、行った次第であります。
実に大勢の方がこの唱題行に参加をしてくださいまして、ただいまは僧俗共に心を合わせ、1時間の唱題行をさせていただきました。私は、この広い客殿を圧するような皆様の真剣なお題目の唱和の声を身にひしひしと感じまして、本当に心から喜び、うれしく存じた次第であります。宗祖大聖人様、日興上人様、御歴代御上人様が皆様方の信心の姿を御覧あそばされて、心からお喜びあそばされておることと存ずるのであります。
ごく簡単に申しますと、日時上人の残された御事績のなかで、二つのことが思い出されます。一つは常に僧俗に対し、特に門下僧侶に対して非常に厳格な叱喧激励と言いますか、勤行の姿勢、態度等について実に厳重なる教えを立てられまして、いい加減なことをしておるような者に対してはその態度を正しくすべきを、また真剣になすべきを本当に厳しく教えられたことが今日、文献に残っております。
そして、色々な面で僧俗に対して様々な教えを垂れられたことと思われますが、当時は今のような文明の利器と言いますか、そういう意味でのお話の内容が直ちに残るようなものもございませんので、あまり詳しくはありませんけれども、そのように常に門下を激励し、教導されたということが残っております。特に御本尊様の御書写についても、今日残っておる御本尊の体数は、上代の御歴代上人のなかで日興上人様に次いで多いと拝せられるのであります。
もう一つは、天子魔という意味におきまして、天台大師も『摩詞止観』に、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」(御書986ページ)と厳しく御指南であり、さらに大聖人様も、「報障と申すは国主・父母等によりて障碍(しょうげ)出来すべし。又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し」(同)と仰せであります。
この天子魔というのは第六天の魔王が正法を妬み嫉(そね)んで、正法を根本的に覆そうとするところの魔の用きであり、今日の創価学会の存在はまさにそのとおりであります。しかしまた、その当時において、総本山第4世日道上人、第5世日行上人、そしてその次の日時上人の3代にわたりまして、この総本山大石寺に対して、色々な面で正法を妨げる魔の用きによる姿が現れてきたのであります。その悩み、苦しみ、それに対する排除の行業が72年にわたって続きました。その最後の締め括りをされたのが日時上人であります。日時上人は応永12年、御遷化の1年前にそのすべての問題の締め括りをなさいました。つまり魔のすべての用きをことごとく取り押さえられて、その轟動を封じられたのであります。
また、日時上人の御当職の期間は正平24(1369)年から応永13年まで、実に38年にわたっております。38年もの長い間、第6世日時上人がこの総本山を董(とう)されていたのでありますが、その間の様々な魔の跳梁に対しての対処は実に大変なものだったと思います。しかしながら、また日時上人はこのような魔に対して「随ふべからず、畏るべからず」という御制誡に基づいてこれに対処されまして、そして苦心の結果、御遷化の1年前にそのすべての問題を完全に処理されたように拝せられます。したがって、ことごとくの行うべきことの締め括りをあそばされて、その翌年に安祥(あんじょう)として御遷化になられたというように拝せられるのであります。
本日の午前10時からこの客殿において、日時上人の第600回遠忌の御正当会が奉修いたされましたが、この日に皆様方がここにお集まりになって唱題行を行うということは、実に大きな意義があると思うのであります。
皆様方には、本日の意義ある日にここに御参詣され、共に唱題行を行うことができたという、この功徳をもって今後ともますます御精進されることを心からお祈りをいたしまして、ひとこと御挨拶に代えます。御苦労さまでした。
問うて云はく、然らば汝云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。
問ふ、其の証拠如何。答ふ、普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり」等云云。又云はく「此の方等経は是(これ)諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまへり。
皆さん方も、朝夕の勤行の觀念分で御祈念しているでしょう。その三座の觀念文の中に「一身即三身・三身即一身」という語が、大聖人様の御観念文に出てきますね。これが法華経の上からの、特に下種の仏身においては、一身即三身・三身即一身であるということなのです。
ただし、法華経の迹門において一往、円融の上からいくと、空諦・仮諦・中諦が一即三、三即一になりますから、空諦は報身如来、仮諦は応身如来、中諦は法身如来という意味において、空・仮・中の円融三諦がそのまま三身相即というかたちになるわけです。しかしながら、まだ『方便品』乃至『安楽行品』までの迹門においては、その仏が始成正覚の仏でありますから、本当の意味での報身が現れていないことから、結局、三身相即にはならないのです。ですから『方便品』に「諸法実相。所謂諸法。如是相等云々」(法華経89ページ)等の深い法門を述べられた釈尊であるけれども、まだこの仏様の資格は、応身に即する法身の境界なのです。つまり法身はそのまま空・仮・中の円融三諦の法の姿を現しますから、一往は三身相即で円融するけれども、再往は始成正覚の上において応身即法身となるわけです。ですから、法華経においても迹門は、まだ、三身相即にならないのです。
しかるに、ここに「三種の身」と示されるのは、すなわち、本門の『寿量品』から見た内容なのです。ですから普賢経は、たしかに法華経の後に説かれているから、法華経の意義をそのまま受けておるわけです。したがって「仏の三種の身は方等より生ず」という内容は、そのまま『寿量品』の法・報・応の三身相即という意義において存在するのであります。
そこで『方便品』の「無量の衆に尊まれて 為に実相の印を説く」(同111ページ)という経文のように、この諸法実相ということが、仏の悟られた変わることのない悟りの印なのです。ですから、この「大法印」とは、真実に定まった絶対の法を言うわけです。
此の三種の身は人天の福田、
さらに一般的には、声聞・縁覚・菩薩や、あるいは世間一般の人に対しても、いろいろな意味で供える意味があります。例えば、気の毒な人がいて「この人は食物を与えないと、もうじき死んでしまう」ということであれば、慈悲の上から、それがどんな人であったとしても、食物やその他いろいろなものを施す。そしてそれによって、その人が命を長らえることができれば、やはりそれだけの功徳を積んだことになるのです。ですから、人には物を与えてあげる、困っている人がいれば助け合っていくことは大事であります。
しかるに仏様に対しては、与えるということではなくして、供えるという意味になるわけです。したがって、いろいろな人に物を与え供えるということにおいて徳を積む意味があるけれども、その中の最も優れた方が三身如来であります。そして、この三身如来が出生されるのは、さらに法が根本として存在するという意義が存するのです。
この抄の初めに「法華経の題目を以て本尊とすべし」とありますが、妙法蓮華経の題目は『妙法蓮華経方便品第二』とか『妙法蓮華経如来寿量品第十六』というように、法華経二十八品のすべての初めの題のところに述べられおるわけです。そういう点における妙法蓮華経の意味は、法華経以前に説かれた華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経典に対して、法華経の妙法として示されておるのです。
その所以からいくならば「法華経の題目を以て本尊とすべし」というこの妙法蓮華経は、権実相対して、実教の上で釈尊の説かれた法華経の各品の妙法蓮華経であるということが一往、拝されるのであります。とこらが、さらに言うならば「三種の身」ということもあり、これは法華経の迹門と本門とを相対するとき、迹門の妙法蓮華経に対して本門の妙法蓮華経連が一重優れておるのであります。
先ほども言いましたように、法華経の『方便品』は尊い法門であるけれども、結局、その仏が三身相即にならず、応身即法身というかたちになるのは始成正覚の仏だからであり、三身相即はあくまで本門『寿量品』の仏様なのであります。故に、初めの文の妙法蓮華経を本尊とするという意義は、本迹相対すれば本門の妙法蓮華経となるのです。
ただし、これにはさらに一重の深い意義があるのです。そのことは大聖人様の御書をあらゆる面から拝していくと、その趣意がはっきり拝せられます。すなわち、『開目抄』『観心本尊抄』『法華取要抄』等においては、本門にさらに二つの意義が存することが明らかに示されております。すなわち、まず一つは釈尊の本門で、これは脱益の化導の上からの本門であります。それに対して末法に出現する本門は、下種の法体を示されるところの本門であるということです。その種脱の教義、内容の違いは、あらゆる御書の中に示されると共に、またこれが大聖人様から日興上人様への御相伝の法門として、きちっと示されておるわけであります。そこに、下種の法華経の上からの妙法蓮華経の法体が末法において出現する、また大聖人様が特に三大秘法の上の本門の本尊として顕し給う所以が存するのであります。
そこのとろのけじめが、なかなか判らないのが他宗他門の日蓮宗の人たちであります。やはりこのところは、本当の正しい御相伝かの仏法の上から、我が日蓮正宗のおいて、大聖人様の真の御本意の御法門がここに伝承されておるということを信ずべきであります。その上からするならば、この「法華経の題目を以て本尊とすべし」ということは、一往は権実相対と本迹相対の上から拝すべきであり、すなわち本因の元初のところに存し給う下種の妙法蓮華経であります。そこのところの法門の所対においてこそ、根本の意義の上から「仏は所生」であり「法華経は能生」である。また「仏は身なり、法華経は神なり」ということを御指南あそばされておるのであります。
大聖人様の御書は『開目抄』『本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』等の長い御書もありますが、必ず一番最初にその御書の中心となる内容が標題として揚げられておるのです。その後に解釈がずっと述べられて、そして最後のところに結論がきっと示されておるわけです。ですから、本抄の最初のところに「法華経の題目を本尊とすべし」とお示しになっておるのは、まさに最後の大漫荼羅御本尊の意義であることは毛頭も疑う余地はありません。にもかかわらず、本尊は久遠実成の釈尊だなんてことを言っておる他門の人たちは、全く大聖人様の仏法の本義を知らずに背いているわけです。
さらに、同じく最後のところに、「願はくは此の功徳を以て、父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕(つかまつ)り候。其の旨を知らせまい(進)らせむがために、御本尊を書きをく(送)りまいらせ候に、他事をすてヽ此の御本尊の御前にして一向に後世をも祈らせ給ひ候へ」(同)ということを仰せになっておられます。
これは妙法蓮華経の題目が単なる法華経の文上の題目ではなく、久遠元初・人法一箇の法体たる下種の妙法蓮華経、すなわち久遠元初の三大秘法の随一たる本門の本尊であり、これはまた大聖人様が末法に御出現あそばされ、この御本尊を顕し給うということであります。そして、ここでは縁のある浄顕房に対して御本尊を与えられ、その信心修行によってこそ後世を祈るべきこと、すなわち即身成仏の要諦であることが、ここにはっきりと示されておる次第であります。
以上、本日はこれをもって講義を終了します。(御題目三唱)
末法の妙法弘通を委ねられた地涌の菩薩の「僧俗前進の年」も、いよいよ後半、仕上げの時期に入りますが、夏期講習会で御法主日顕上人猊下の甚深の御講義を拝聴し奉り、この御指南を心肝に染め、「『立正安国論』正義顕揚750年」の御命題達成に自行化他にわたり御報恩申し上げましょう。
◇『涌出品』の自行化他◇
『従地涌出品第十五』に、釈尊は、迹化・他土の菩薩衆からの末法濁悪の時の妙法を弘通する旨の請いを「止善男子」と制止したのであります。この制止と同時に上行等の四菩薩を上首とした六万恒河沙の地涌の菩薩が涌出し、これによって本門『寿量品』の久遠実成の開顕となるのです。
その開顕の因となる弥勒菩薩の動執生疑について、「久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経425ページ)と経本に説かれています。すなわち地涌の菩薩の仏道修業の相も、菩薩道の習学の姿も、一切が実に妙法五字の法門の上に則り、全く世間の法に染まっていない、それは泥水の中に在って清浄な華を咲かせる蓮華のようである。
釈尊が菩提樹下で開悟されてから40余年という短い間であるのに、この尊い地涌の菩薩の姿を目前にして、このような大菩薩をどのように教化して、発心せしめたのか、との疑問であります。この『涌出品』の文にしたがって「自行化他」の菩薩行を考えてみます。
◇化他も自行なり◇
去る春季総登山の砌、御法主日顕上人猊下は、「親が本当に子供の幸福を思うならば、大聖人様の仏法の信心を、命を懸けて教えていくということが一番大切だと思うのであります。」(大白法666号)と、法統相続を通して自行化他の菩薩行の上から重要な意義があることを御指南くださいました。
殊更に強調するわけではありませんが、自行化他という修行は、一定の期間を設定して行うことではなく、常日頃、朝夕心に案じ、常の生活の中に時間を設けて自発的に行ずることでありまして、化他を行ずるということは「信心」していること、自行の上の真実の証でもあります。御本尊様の偉大な仏力・法力を信じているから、子供の将来の幸福を念じ、教化することができるのであります。御本尊様の仏力・法力を信ずることは『涌出品』の「神通智力に住す」との相であり、子供の幸福を念じ教化する唱題行は「善く菩薩の道を学する」ことであり、この幸福を念ずる心こそが信心の発露の姿であり、「世間の法」に染まらざる自行化他の真実の相であります。
このように自行化他は、我々凡夫が成仏するための最も尊い菩薩行なのであります。また、この自行化他は、あらゆる機会に遭遇することでもあります。しかし菩薩行は、自らを利益せしむる心がなければならないのであります。それは『摩訶止観』に、「上は仏道を求め下は衆生を化する発菩提心と名づく」とあり、仏道を行じようと求める自行と衆生を教化する化他行とが共に具わる発意が菩提心、成仏を願う心なのであります。したがって、自行も化他も菩薩行として一体であり、別々の行ではありません。すなわち菩薩行の化他行も自行なのです。
例えば、六波羅密という菩薩行がありますが、末法において御本尊を信行受持し、苦悩の衆生を折伏教化しようと菩提心を発す、この善根の心を起こした人は、「未だ六波羅密を修行することを得ずと雖も、六波羅密自然に在前し」(法華経43ページ)と無量義経にあり、法華経の功徳力は六波羅密を自然に修行することになると説かれています。信行受持する自行と、化他の折伏教化の心を起こすことは、六波羅密を行じていなくとも、自然に自行化他の六波羅密を修行していることになるのであります。
◇不染世間法の信心◇
御報恩御講へ毎月参詣する中で、自分だけで参詣している人、あるいは必ず誰かを連れて参詣している人とおります。なかでも、自分なりに御報恩の重要な意義を理解して他人に話し、その人を教化して共に参詣をするということは実に難しいことであり、またこれは最も大切なことでもあります。この他人に話すということは、その人を思いやる慈悲の心であり、また尊い化他の菩薩行なのであります。
大聖人様は「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす」(御書1457ページ)と仰せられていますが、教化される人も教化する人も「自慢」の心でいないか、「悪見」の心でいないか、恭敬もしない、供養もしない、自慢する心、悪見をなす生命、これらすべての「心」が「世間の法」にしたがっていることであると認識しなければなりません。 我々人間は「有情世間」にありまして、見たり聞いたりして、その経験がから物事の是非を判断するものですが、この判断が世間の法に染まった考え方なのであります。御本尊様の使える、御奉公する心に立っての考え方が大切なのであります。
「法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし」(御書1461ページ)と仰せの「法をこゝろえたる」との信仰の心が『涌出品』の「善く菩薩の道を学して世間の法に染まざる」と御文意なのではないでしょうか。御報恩の篤い心で他人を教化し、広布大願のために唱題会に参加し、世間の法に染まらない破邪顕正の一念を発揮し、折伏を行じ、講中の人の一人でも教化して参加を呼びかけることも、化他の菩薩行なのであります。
御法主日顕上人猊下は、4月の広布唱題会において、妙楽大師の「十不二門」の「内外不二門」を引かれ、「日蓮正宗の信仰において正しく信心修行するところに、内の功徳がそのまま外にはっきりと顕れるのです」(大白法667号)と御指南されました。常に有為転変の世間ではありますが、世間の法に紛動することなく「神通智力の住する」正しい信心修業を心がける自行の「内の功徳」が、そのまま外に「化他積功累徳」と顕れることを確信し、この後半期の御奉公に精進し、もって御報恩申し上げましょう。
6月3日・4日の両日、総本山において総本山第6世日時上人の第600回遠忌法要が、御法主日顕上人猊
下大導師のもと、厳粛に奉修された。この法要には、早瀬日如・藤本日潤・高野日海・秋山日浄・大村日統・八木日照・光久日康・菅野日龍の各御尊能化、細井珪道宗会議長、宗務院各部長・副部長をはじめとする御尊師方が多数御列席された。また、法華講総講頭の柳沢委員長、石毛副委員長・永井藤蔵・渡辺定元(総本山総代)・石渡秀男・河原昭太郎・大草一男の各大講頭、寺族、信徒代表1千400余名が参列した。
【総本山第六世日時上人】(にちじしょうにん)駿河国富士上野郷の南条家の出身で、総本山第5世日行上人のもとで当家の諸学を学ばれ、武州(埼玉県川越市)の仙波檀林にも遊学なされた。その後、正平20(1365)年2月15日に、日行上人より御相承を受けられ、さらに正平24(1369)年8月13日、日行上人の御遷化にともなって大坊に入られ、総本山第6世の御法主上人として御登座あそばされた。
◎御法主上人猊下御言葉 6月度広布唱題会の砌 (障魔の蠢動を封じられた日時上人)
今日は6月4日で、昨日と本日の2日間にわたり、総本山第6世日時上人の第600回遠忌の法要を奉修いたしました。昨日が御逮夜法要で、今日の午前10時からこの客殿で600回遠忌の御正当会を奉修いたしました。すなわち600年前に日時上人が御遷化あそばされたのが、この6月4日でありまして、応永13(1406)年であります。
今日、色々な面で正法に対する魔が起こっております。しかし、正しい仏法を正しく信じ、行じていくところに必ずや広大なる御仏意の御利益が存するのであります。正法から離れては、我々の持っておる罪障としての貪嗔痴を正しく処理することはけっしてできません。したがって、世間の人々のなかには正法に背き、あるいは邪法を信ずることによって、その貪嗔痴が様々な不幸な姿として現れております。我々が正法正義を信じてお題目をしっかり唱えていくところに、我々の持っておる煩悩、罪障、貪嗔痴のことごとくが煩悩即菩提の功徳として顕れることを、大聖人様の御書のなかにおいても御指南であります。我々も、また皆様方もその尊い体験をされておることと信じます。
春季総登山の砌 本尊問答抄(下)
仏の三種の身は方等より生ず。
ここで初めて「仏の三種の身」ということがでてきました。先ほどは十宗が挙げられ、その中の天台宗を除く九宗のそれぞれに「倶舍・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦」また「法相・三論の二宗は大釈迦仏」、それから「華厳宗は台上の盧遮那報身」というように、これら九宗は皆、法身・報身・応身の三種が全部揃うのが方等経、すなわちこの文では法華経であり、この法華経より生じる仏のみなのです。したがって法華経の円融の理に叶うが故に三身が揃うと共に、それが別々でなく、三身即一身ということになるのです。
是大法印(だいほういん)にして
皆さん方も、実印や認め印などを持っているでしょう。この印というのは大事なものなんですね。これは余計なことかもしれませんが、他人から「頼むからここに印を押してください」なんて頼まれて、ついうっかり実印などを押してしまうと、後で自分のほうに連帯責任なんかが来たりして、自分の財産を全部失ってしまったなんていう人も世の中におるようで、皆様も注意が肝心です。そして、この印は、何回押しても同じように押せます。その印をもって仏の悟りの法に譬えるのであります。印ということは結局、偽りがないところの証明・証拠となるわけです。つまり表示を、常に定まったかたちで表すことが印であります。したがって、仏様の悟りは、どこの世の中で、どのような状態になったとしても、変わることがないというのが「大法印」なのです。
涅槃海(ねはんかい)を印す。
ここの「涅槃」というのは仏様の悟りのことで、この場合は、法華経の絶対究竟の実義を指しております。また「海」というのは、広大深遠の広さ深さを持っており、その中に一切の宝を蔵しておりますから、これはつまり仏様が、慈悲、智慧、常楽我浄の四徳等の大人格の総徳を具え給うことを、海に譬えておるわけであります。したがって、その広大な仏の悟りの一切は、法によって具わっておるということが「涅槃海を印す」ということであります。
此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。
これは、涅槃海のような無限絶対の法の中より、三種の仏の清浄の身を生じるのであるという文です。これは法・報・応の三身でありますから『寿量品』の意義が存するのであります。
ですから、「人天」、すなわち我々や天人もまた迷いの衆生ですから、その衆生が本当に永遠の幸せを得るためには、真の仏様の徳に対して御供養する。つまり立派な田圃の少しの種を蒔くことによって大きな収穫を得ることができるように、人天の衆生にとって最上の福田である法身・報身・応身の三身常住の仏様に御供養申し上げることにより、大きな利益を頂く所以です。
応供(おうぐ)の中の最なり」等云云。
この「応供」というのは仏様の十号の一つで、すなわち、如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊の中にあります。さて、この「応供」は「応(まさ)に供(そな)うべし」と読むのです。ですから仏様に対しては、まさに供養すべきであるということが、仏法上の筋道の上からの規定として示されておるわけです。
此等の経文、仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、
結局、この三種の仏に供養することが優れておるけれども、しかしさらに全体から見るならば、この経文において、仏は法によって生ずる所であり、そして法華経は能く三世の諸仏、あるいは三種の身を生ずるということです。この三種の身まで生ずるという文をお引きになっておるところに、やはり大聖人様の御本懐の御法門における下種仏法の深い意義が存するのであります。
法華経は神(たましひ)なり。
この「法華経は神なり」という意味は、『経王殿御書』に、「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書685ページ)とあります。このところに種脱の上からの本尊の違いがはっきりと示されております。これは御本尊に関して示されておる御文ですから、そこに「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経」であるということと、この御文の「法華経は神(たましひ)なり」ということにおいて、末法出現の妙法蓮華経、久遠元初の人法一箇の本尊のところに、真の妙法蓮華経の下種の法体が存することが明かなのであります。
然れば則ち木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。
而るに今木画の二像をまう(設)けて、大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすは、尤(もっと)も逆なり。
このところは、次の第八問答以下において内容が破邪のほうへ移る一つの道程として、ここに顕正の上から、大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養をするとは最も逆しまであり、誤りであるということを仰せになるのであります。この「大日仏眼の印」とか「真言」等は、仏の種がきちんと具わっていませんから、したがって、そこから開眼供養をしても、何ら本当の開眼供養の意味を成ずることがないという義をもって、ここに破折をされておるのであります。しかるに、正式な破折の内容は、次の第八問答の「問うて云はく」以下になるのです。
以上、粗々申し述べましたが、要するに『本尊問答抄』は、法華経迹門の「法師品」や天台の法華三昧等の内容が示されておる点からするならば、一往、権実相対の内容であるように取られるけれども、その本意は、大聖人様の御本意の御本尊の法体が、釈尊にあらずして大慢陀羅であるということを顕し給うことに存するのであります。その証拠に、本抄の最後のところに、「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提(えんぶだい)の内にいまだひろめたる人候はず。」(同1283ページ)と、大漫荼羅御本尊のことをお示しになっておられます。
※この原稿は大護寺支部の菊地さんの御協力で掲載致しました。
北近畿布教区支院長・菅原信了御尊師