<6〜8面>
11月度唱題行の砌
寿量品に、「是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差(是の好き良薬を、今留めて此に在(お)く。汝、取って服すべし。差(い)えじと憂うること勿(なか)れ)」(法華経437ページ)という文があります。この「良薬」を寿量品の御文としてお示しになったその根本は、久遠元初の御本仏の証得された久遠元初の名字の妙法蓮華経、人法一箇の御本尊様に存するのであります。その良薬を我々は700年、今日まで正しく受け継いで、ここに日蓮正宗の正法を確立しつつ、広宣流布に向かって進んでおるのであります。
さて、我々一人ひとりの心には病があります。心の病、これは謗法の病であり、そこから生ずるところの様々な悩み、苦しみはことごとく自分の心のなかの我意・我見・邪見等によって起こってきておるのであります。したがって、その心の病を良薬によって治癒する、治していくということが最も大切であります。
また、身体の病についても、多くの人々が様々な病を抱えております。ここにおいでになる皆様方も、一人ひとりにおいてなんらかの身体の不調、例えば腰が痛いとか、そのほか様々な病気を抱えておる方もあると思います。これも過去からの因縁によるのであります。ある人はどこそこ、ある人はどこが悪いと、五臓六腑、様々ななかにおいての病気もたくさんありますが、これは過去からの因縁によってそのような病が今日、我々の身体をむしばんでおるのであります。しかし、この南無妙法蓮華経の御本尊様の、三大秘法の唱題の功徳はこの心と身体・心身を治すということをはっきりと仰せになっておるのであります。
今日、「呼吸法」などというものが健康法の一つとして言われておるようであります。例えば「何回、吸ったり吐いたりする」「下腹部の丹田に力を込める」など、色々なことが言われております。しかし、私はそのようなことは必要ないと思います。南無妙法蓮華経の教えは「無作」ということで「作ること無し」と書きます。
ただいまは、信心の一念をもって御本尊様に向かい奉り、息を一杯に吸い込んで一時間の唱題をいたしました。皆様方もこの唱題行のなかで、自分の心と身体が素直な姿に、また完全な喜びと健康な姿になっていくことを、本当に心から感じた方が多いと思います。いかがでしょう。あまり感じなかったというのでしたら、それはまだ本当の信心が足りないと思います。信の一念をもって行うところ、必ずその功徳が成就していかれるのであります。過去遠々劫以来の我々の謗法罪障は、今日の我々一人ひとりの命に具わっております。これを浄化していくためにも「是好良薬」を正しく拝し、受けて、これを行っていくこと、すなわち唱題行が大切であります。
皆様も御承知のとおり、この御会式を毎年奉修するということは当然、主師親三徳の仏様である日蓮大聖人様への御報恩のためであります。大聖人様は「是好良薬。今留在此」の正法を、身命を捨てて700年以前において顕しあそばされ、いわゆる、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(御書1036ページ)ということを仰せになりました。この確信のお言葉のとおり、我々が御本仏を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱えるときに、自らが無間地獄に至るのを救うのみならず、折伏行によって無間地獄に至らんとする人々をも救っていくことができるのであります。すなわち、唱題行によってその罪をことごとく浄化していくことができるのであります。その上からの御本仏の主師親三徳の大慈大悲を拝し奉り、その御報恩のために行われるのが御会式であります。
全国の各末寺における御会式は、それぞれ10月と11月に奉修されます。既に終わった寺院も多いと思いますが、ここにいらっしゃる皆様方はおそらく一人残らずの方が、各末寺の御会式に参詣されたと思います。もし、今年、参詣されなかったという方がこのなかにいらっしゃるならば、その御自分のうっかりした考え、御報恩の心をはっきりと表さなかった御自分の信心の足りなさを深く反省されて、来年からは、どのようなことがあってもそれぞれの所属寺院の御会式に必ずお詣りをするという覚悟を持っていただきたいと思います。
それはさておき、ともかく主師親三徳の仏様を常に拝しつつ御報恩申し上げていくというところに、我々の過去からの因縁による様々な謗法罪障の浄化があるのであります。浄化、すなわち謗法罪障を浄(きよ)くして、無作三身の末法下種の御本仏と同じく、我々凡夫が無作三身の功徳を成就することができるのであります。
私はこの大学に行ったことがなく、聞いたことなのですけれども、あちらこちらの部屋に額があるのだそうです。なんと書いてあるのかと申しますと「主師親」と書いてあるそうです。つまり、この学校の教育のための目標と言いますか、そのような形として「主師親」という言葉がこの学校の教育の基本になっておるのであります。
もちろん、この大学の内容には様々な学科、課程があって、色々な面で一般大学とほとんど変わりませんけれども、ただ「主師親」とあるところに、この学校が日蓮大聖人様の教えを根本的に受けておる学校であるということが判るのであります。それもそのはずであり、いわゆる過去において日蓮正宗のある御僧侶とある御信徒、特に三谷素啓という人もその当時の学校の設立ならびに薫陶に関係があったと聞いております。また、藤本秀之助という弾正教会を作られた方がいらっしゃいます。今日、千葉県に弾正寺というお寺がありますが、その基を作られた方であり、また三谷素啓という人は創価学会の牧口常三郎氏、戸田城聖氏の信心の上の先達でもありました。そのようなことで、この人達によって建てられた商業学校が今日、目白大学となり、その学校の訓辞がいわゆる「主師親」なのであります。
このような意味からも、我々は常に主師親ということを深く信じ奉り、仰ぎ奉るとともに、その報恩の心を忘れず、お題目を唱えつつ行っていくところに、おのずから自行化他の成就と心身の浄化が図られるということを確信するものであります。皆様方には、本日、総本山に御参詣せられた功徳をさらに心身に感納されて、明日からの御精進によって正法広布の大きな功徳を成就せられていくことを心からお祈りいたす次第であります。本日はまことに御苦労さまでした。
私は、これにも一つの深い意義があると感ずるのであります。今、宗門は僧俗一致して、あらゆる邪義・魔義・悪義の迫害を打ち破りつつ、大聖人様の正法をどこまでも正しく弘通しておりますが、その姿が講習会最後の本朝の天気に表れており、諸天善神がこのように配慮されたことと感ずるのであります。したがって、私もその点から、すっきりした気持ちでここに参上した次第であります。
本年度における私の講義内容は『諸法実相抄』の、「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書668ページ)という、あの有名な信・行・学の御指南について申し上げてまいりました。その中でも、第1期と第3期は、「信」という内容に関してのお話しをさせていただきました。それから第2期と第4期は、「行」の内容について。また第5期と第6期は、実際の修行のかたちとしての「正行」「助行」、さらに「方便品読誦」「寿量品読誦」の意義について申し述べた次第であります。そして、次の第7期の時は、私はブラジルへ参りましたので講義はできませんでした。それから、その後の第8期では信・行・学の全体を通じての上から簡略に申し述べた次第であります。
それから、第9期と第10期においては、講習会の最後でもありますので、今回は「現代の一凶 創価学会」と題して、彼らの邪義・魔義・悪義、乃至いろいろな誤りを、ある程度申し述べました。これは、これからの破邪顕正の上に、創価学会の在り方を指弾しておくことも必要と思いまして、そのような内容を選んだ次第であります。
これは「創価学会」という集団が、あらゆる面から日蓮正宗を誹謗しておるのみならず、邪義・魔義・悪義を露わにして、日本乃至世界の多くの人々をわがまま勝手な思想において乱してゆく、紊乱(びんらん)していくところの「現代の一凶」であることを感ずるのであります。その上から、このような題号を「現代の一凶 創価学会」といたしました。
次の御書の御文は、有名な三証の文であります。「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三蔵祈雨事 御書841ページ1行目)、皆さんもずいぶん聞かれたことがあるでしょう。あるいはこの御文をもって、いろいろな理に対する事柄の論証において、この御文の精神にしたがって折伏をされておることもあると思います。要は、「道理」「証文」「現証」ということです。
この「証文」というのは、「文証」ととも言いますが、これは文献上の証拠のことであります。次ぎに「道理」とは、正しい道筋のこと。さらに「現証」とは、実際の現れ方ということです。それが幸せな姿であるか不幸な姿であるか、また善い姿であるか悪い姿であるかなど、それがはっきり出て来るという意味において、いずれであるかを検するのが現証でであります。この後は、その順序にしたがって申し述べたいと思います。
この「道理」という語は、皆さん方もずいぶん使っておると思うのです。日常の生活でも「道理に合う」とか、「道理に合わない」とか「それも道理である」などというように使ってらっしゃるでしょう。けれども「道理」とは何かと聞かれると、はっきり説明することはなかなか難しい意味もあるのではないでしょうか。そこで、ある仏教経典から引いてきましたが、道理には一往、4つの意味があると思われます。すなわち「観待(かんたい)の道理」「作用の道理」「証成の道理」「法爾の道理」という4つであります。この文字面を見て難しく感じて、いきなり心の中で拒否反応を起こしている人がいるかもしれませんが、これからなるべくやさしく説明してまいりますので、この文字の意味をよく見ていただきたいと思います。
観待の「観」という字は「みる」という意味で「待」は「たいする」で、すなわち相対、対峙(たいじ)、対立というように、2つのものが相対することです。1つのものから観た場合に、相手があればそれは対立しているという意味があります。したがって、これは相対することを観ずるということですから、1つのものを1つのものだけで考えないで、相対するものを観ずるということです。それが「観待」という意味です。
我々の生活から言えば、自分のことだけを考えている人がいますね。他人のことはどうでもよく、何より自分の利益、自分が苦しいとか楽しいとか、そこだけを考えて生活している人がおりますが、これは非常に世界が狭いということが言えるのです。つまり、自分の周りには、実際はいろいろなものが厳然と存在しているのです。どうのような存在にも、相対するもの乃至周りのものが存在して、初めてそのもの自体が存するということが言えるわけであります。そういう点からするならば、これは仏法の中でも特に法華経の上からいきますと、「如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究境等。」(法華経 89ページ)の十如是の因果に当たるのです。
この十如是の因果は、実に深く広く、またそこに我々自身の生活、命、乃至法界全体の姿が、その法理法則に括られて完全に示されてあるのです。その十如是の中の「如是因。如是縁」が、「因」と「縁」ということなのです。この「因」というものを主体的に考えてみると、その因は決して因だけで存在するものではなく、必ず縁があるのです。縁があって初めて因が存在するわけです。
我々が、今ここにこうして安定しているのも、一往、客殿という建物があるからであって、客殿あるから我々はその中に座っていることができるのです。さらに、この客殿自体も、地球の地盤の上に乗っかっているわけですから、地球があるから客殿もここに存在できるわけであります。したがって、一つの存在は、それだけが空中に浮いているのではなくして、必ず何らかの縁によって保たれておるわけです。
これは、皆さん方の家庭も同様です。いかにご主人が毎月給料を取ってくるからと言っても、それは裏には奥さんの支えがあったり、あるいはその他様々な人の支えがあるからこそ、一つの家庭も成り立つことができるわけです。さらに、毎日の食生活にしても同様です。我々が一人で全部の食材を1から10まで調達することはとてもできません。あらゆる人の因と縁のかたちがあって、その力によって我々の生活自体も成り立っておるのです。このように、因に対する縁というものが必ず存するわけです。
また、この因と縁は、何も日常生活の内容ばかりではありません。善悪という問題から考えていきますと、悪には悪の縁、善には善の縁があり、この善悪の縁によって、その人自身が善いほうにも、悪いほうにも進んで行くわけです。初めから悪い人ではないけれども、悪い縁に誑(たぶら)かされ、引っ張られて、その人自身が悪い方向へ進んでいったり、悪い姿になったりするのです。そして、不幸になっていくという人が、新聞紙上でも報道されておりますように、世間にはたくさんいるわけです。しかるに、その元は何かということを考えれみれば、それはその人自身をそのような状態に引き込んだところの悪縁が必ず存在するのです。ですから、縁というものは怖いのです。
けれども、この縁は怖いだけでなく、また大切なものでもあるのです。善縁という善い縁は大事なんですね。人は善い縁によっていろいろな面で幸せになったり、あるいは向上していくということが言えるのです。故に、その善い縁の中で最も大切なのが教えであります。正しい教え、勝れた教えであるほど、その人を幸せにしていく、立派な正しい人にしていくということが言えるのです。ですから、善縁においても段階があるのです。すなわち、低次元な善縁もあれば、それより高い善縁もあり、さらには最高の善縁もあるわけです。
しかるに、最高の善縁とは何かと言えば、これは皆さん方も聞かれておるように、法華経が最高の善縁なのです。釈尊の教えの中で、出世の本懐として最後に説かれたのが法華経であります。その法華経に「一大事因縁」ということが言われておるのです。すなわち、法華経の『方便品』に、「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に世に出現したもう」(法華経101ページ)とあります。これは、因と縁において、幸せになるか不幸になるか判らない衆生の命を、そのまま最高の善縁である仏縁をもって、衆生を本当に救っていくというのが一大事因縁であります。よって、この因と縁ということを正しく知ることが大事であり、それを知ることが本当の仏子たる日蓮正宗の僧俗であることを、ここで皆様方にはっきり申し上げるものであります。
この一大事因縁は、末法において下種三宝として出現されており、それが三大秘法であります。すなわち、三大秘法を弘宣していく姿において、法宝は、事の一念三千、本有の妙法蓮華経の大御本尊であり、法宝は、末法下種の本仏として御出現あそばされた日蓮大聖人であり、僧宝は、その教えを正しく受けて末法万年、尽未来際にこれを伝えてゆくところの、唯我与我の日興上人をはじめとする御歴代上人であります。すなわち、第二祖日興上人からさらに第三祖日目上人、そして第四世日道上人というように正法が正しく伝えられており、そこに下種三宝の姿が存するのであります。これが、因と縁における本当の仏縁なんですね。
しかるに、その仏縁を無視し、仏縁を我が物であるとして全く踏みにじっておるところの姿が創価学会であります。よって、テキストに「創価学会の非道理」として、一つ目のところに「仏縁重恩の日蓮正宗の三宝を凌(しの)ぎ、我勝を計る因縁の不道理」と書いた次第であります。
創価学会は、「観待(かんたい)の道理」「作用の道理」「証成の道理」「法爾の道理」という4つの筋目から見て、これらすべての道理から外れておるのです。この道理ということは正しいことを言うわけですから、その道理に順じておれば正しいのですが、道理から外れておれば、これは不道理となるわけです。その不道理のところは悪業・悪事の姿が存するのであります。
そこで、第1番目の「観待の道理」、つまり因縁という上からいきますと、一大事因縁たる末法の下種三宝に背き、またこれを誹謗しておるところの池田大作をはじめとする創価学会は、いわゆる仏の縁として最高に大事な重い恩である日蓮正宗の三宝を凌(しの)いで、自分たちこそ本当の三宝であるというような我勝を計っておるのです。つまり、自分たちが劣っておるのにもかかわらず、優れているように言うことであります。よって、これらが「観待の道理」、すなわち因縁の上から見たところの創価学会の不道理であります。
「作用」とは「はたらき」とか「活動」という意味ですから、これはあるものを実際に行ったかたちがどうであるかということです。我々の日常生活において何を行うにしても、一つのことをやれば、その結果がすぐに出てきますね。
卑近な譬えではありますが、奥さん方は朝起きたら何をやりますか。最初に勤行をなさるでしょうが、その後は自分の主人や子供たちのために朝食を作らなけらばなりませんね。その朝食を作ろうと思って作り出すのが因であり、その結果として、美味しい朝食が出来上がる。それが、果ということになります。ですから、どのようなことでも作用によるわけで、つまり原因を作るところにその結果が現れるのです。それが因と果ということであります。
先ほどは、「因縁」ということを言いましたが、今度は直接的な事物の在り方においては「因果」ということになります。その因果には様々な内容がありますが、なかでも我々の生活上の大事な問題としては、先ほどお話したように善と悪ということであります。すなわち、悪の因を作れば悪の結果、善の因を作れば善の結果が来るわけです。この因というものは無量無数にあるわけですが、やはり善因は善果を呼び、悪因は悪果を呼ぶことになります。その意味において「作用の道理」というものがあるわけです。道理においては、先ほどは因縁の道理があるということを言いましたが、ここではさらに因果の上からの道理というものが存在するのです。それが、つまり悪因は悪果、善因は善果であるということであります。
まず、口における悪について言えば、これには悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)・妄語・綺語(きご)という4つの悪があるのです。皆さん方もご承知のように、「口は禍(わざわい)のもと」という諺(ことわざ)がるでしょう。これは皆さん方にも経験があると思いますが、ついうっかりしたことを言ってしまって、それが元で災いが起きるということは世の中によくありますね。そういう意味で、口の上からの善の言葉、悪の言葉、これに大事な意味があります。やはり正しいことを言えば、正しい結果が来るし、逆に禍の起こるような悪いことを言えば、悪い結果が来るのです。したがって、他人の悪口を言うのが「悪口」という、十悪のうちの一つであります。
次が「両舌」で、これは二枚舌ということです。例えば、Bさんに向かって「Aさんはあなたのことをこんなふうに悪く言っていましたよ」というように、Aさんが言ってもいないことをBさんに吹き込むわけです。さらに今度は、Aさんに向かって「Bさんはこのようにあなたの悪口を言っていましたよ」などと言って、2人を反目させるのです。このように二枚舌を使って、人と人との関係をもませるようなことをするわけです。
三つめが「妄語」ということです。これは皆さん方もご承知のとおり、いわゆる嘘であります。嘘を言うには、やはり何らかの意味で目的がるわけです。結局は、自分自身を擁護するため、あるいは自分自身を利得するためなどに嘘を言うのです。人を騙すことによって、自分自身が利益を得るということにあるわけですから、当然、悪の行為となるわけです。
最後が「綺語」ということで、これは空虚なことやお世辞などの飾ったことを言ったり、または心にもないことを言って人を誑かして、自分の利益を図るというようなことであります。これらが、口における4つの悪であります。
はじめの「殺生」とは、無益にものの命を取るということで、これはたいへん悪いことです。今の時期は、外を歩くときに足元を見ると、よく蟻(アリ)などが歩いていますね。けれども、私は蟻のいるところでは、なるべく踏み潰さないように気を付けているのです。やはり一匹の蟻にも尊い命があるということを思うと、お互いに法界全体の中において生活していく上での尊さが、そこに顕れてくると思います。笑っている人がいるけれども、これは本当なんですね。平気で踏み潰している人もいるし、中には「ああ、蟻がいる」と見れば、わざと踏み潰して通る人もたまにはいるでしょう。まあ、一匹の蟻がどうこうではないと思われるけれども、やはり命の尊さということを蟻一匹において感ずるというところに、慈悲の尊さあると思うのであります。また、それが自ずからその人の命の中に善の姿として顕れてくると思うのです。
次の「偸盗」とは、これは他人のものを盗むということですから、当然、悪いことですね。それから、最後が「邪淫」で、詳しくは説明しませんが、これは身体で邪な行為をすることであります。
「貪欲」とは、必要以上に物を貪るということで、これは将来において必ず不幸な結果が現れてくるのです。皆さん方もよくお判りでしょうが、貪るとかえってだめなんですね。勝負事などもそうですが「勝ちたい、勝ちたい」と、貪る心を持って行うと、かえって結果が悪かったりするのです。ですから、自分自身の能力を錬磨し錬成して真心をもって人事を尽くした上で、しかも勝敗にはこだわらないというところに、むしろ初めて本当の姿が現れると思うのです。
これは、皆さん方のほうがよくご存じだと思いますが、美空ひばりという歌手がおりましたね。その人の歌に『柔』という曲がありまして、その歌詞に、「勝つと思うな、思えばまけよ」という一節がありましたが、勝負にこだわることは貪りの心から出るので、やはりあれも一つの真理を歌っていることでしょう。
ですから、貪りの心はいろいろな意味でよくない結果があるのです。なかには食べ物を貪る人もいれば、酒を貪ってたくさん飲む人もいますが、みんな結果的には不幸に成なっていくのです。大酒飲むにしても、若いうちには平気だと思っても徐々に年を取っていくうちに必ず身体に悪いところが出てくるのです。ですから、たくさんお酒を飲む人が今ここにいたならば、そのような方は早く直してください。そういうことで、貪ることはよくないのです。
次の「瞋恚」とは、瞋(いか)りということで、これも本当によくないのです。瞋りにも「順理」と「非理」というのがあるのです。この順理の瞋りというのは、正しい瞋りであります。例えば、本当にわがままで悪いことばかりしている子供に対して、親がそれを厳しく叱るというような瞋りは、子供のためを思う心からで、順理の瞋りと言えるのです。ところが、慈悲がなく、ただ癪(しゃく)に障るからと言って、理不尽に子供を叩いたりするのは、非理の瞋りになります。ですから、この瞋りには順理と非理の2つがありますが、特に非理の瞋りということにおいては人を不幸にし、自己を不幸にする場合があるということです。
それから、「愚癡」とは、愚(おろ)かという意味であります。これはごく簡略に言えば、因縁の道理と因果の道理、つまり悪因は悪果であり、善因は善果であるということが判らないということです。それが愚癡であり、そこから愚ろかなかたちが全部現れてくる意味があるのです。
「証成の道理」というのは、証を成ずる道理ということで、今の言葉で言えば「論証」とも言えます。この論証とは、与えられた判断の真実性の理由を明らかにするという意味です。そこで、「あることは、こうだ」と言うのは論定なのです。
例えば「人は動物である」という一つの言葉があるとすれば、これは論定なのです。仮に私が「人は動物である」と言ったとします。そこで皆さん方はどう思いますか。これは当然「そうだ」と思うでしょう。人は間違いなく動物ですからね。今度は、これを「動物は人である」というように逆に言ったらどうでしょう。皆さん方は当然「おかしい」と思われるでしょう。つまり実際に動物というのは人間以外にも、ありとあらゆるものがたくさんおりますから、よってこの論定は誤りとなります。したがって、逆には真ではなく、間違いになってくるのです。そういう意味において、逆のこと、道理に外れたことは不道理になるのです。ですから「道理に背くあらゆる発言論理の不道理」ということになります。
このように逆のこと、真理に対する矛盾はいろいろなことが数多くありますが、創価学会の池田大作の発言等において、あちらこちらに見受けられるのです。例えば「嘘も百遍言えば本当になる」などということも言っておるのです。けれども嘘は本来、一遍言っても百遍言っても千遍言っても嘘は嘘なんですよ。それを「嘘が本当になる」と言うのが、これが池田大作の論証の上からの不道理なのですね。
それから「正邪は問題ではない。ただ勝つことである」などということも言っておるのです。これも正しい倫理観からは逆なんですね。このようなことが、彼らの一つの大きな誤りなのです。大聖人様は「悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書1390ページ)と仰せです。これは、どんなに悪が多くても、結局、一つの善にはかなわないのであるという意味ですね。それを彼らは逆のことを言っていますから、これはやはり論理・論証の上からも、創価学会の言うことは不道理であるという意味になるのです。
しかるに、池田大作が話しをすると、全国の会員が皆それを受けて、その内容の理非善悪を考えもせず、その通りに信じて狂ったように盲従しているのですから、そこに社会がどんどん悪くなっていく姿があるのです。ですから、その意味からも皆さん方は、厳密にその点を論証しつつ見極めていかなければならないと思うのであります。
大聖人様は御書に、「時いた(到)らざればひろ(弘)まらざる事法爾の道理なり」(御書764ページ)ということを仰せでありますが、この「法爾」とは「法のままの爾(しか)るところ」、つまり「自然の定まり」という意味です。それが、そのまま一つの道理のかたちをなしておるわけです。また、「水はいつもつめたく、火はいつもあつく」(同1843ページ)という御文もありますね。ですから、自然の在り方、自然の姿が、そのまま道理を形成しているわけであります。山川草木をはじめ、あらゆる生物等は、みんな地・水・火・風・空の在り方、乃至それを取り巻く様々な因縁によって、我々をはじめとするあらゆるものが存在しておるのです。
我々の身体の中にも、火がなかったら死んでしまいす。ですから、身体が冷たくなったということは死んだということになるのです。それから、水がなかったらどうでしょう。これは血液などもそうですが、我々の身体は水で満たされているわけですから、水がなかったらやはり死んでしまうのです。それから、身体の固いところは地の意味であり、また呼吸をするところは風の意味があるのです。さらに、その一切を包含し調和するところが空です。ですから、地・水・火・風・空の存在が我々の命の元になっておるわけです。そのような存在の中における一つのかたち、それが不可思議な妙理としての法の姿として存するわけであります。
そして、、その法全体を素直に受けるところに「法爾の道理」に順応する意味があるわけです。ところが、その「法爾の道理」を自分自身の我見においてわがまま勝手に考えると、そこにどうしても汚れが生じてくるのです。それが我見によって受けるところの濁りであり、非常に微妙なかたちであるのです。
我々は、自分の命の元がどこにあるのかということは判りません。けれども、最近の科学では遺伝子などということも言われておるように、この遺伝子の奧底にもいろいろなものが存在しておるのです。したがって、我々の命の元にはいろいろなものが存在しておるわけですから、我々の命そのものが久遠なのです。つまり目の先だけのものではないのです。
まず我々の両親は2人いるけれども、その2人の両親はまた2人ずつついているわけです。そして、またその両親は2人いるわけですから、そうすると2代前で4人になり、3代前で8人です。さらに4代前では16人、そして5代前は32人、その前は64人というように遡(さかのぼ)っていくと、我々の先祖は本当にたくさんおるわけで、そのような人たちがいなければ、我々一人の命が今ここに存在していないのです。
そのように考えると、我々は善い霊も悪い霊もみんな背負っているわけです。我々一人ひとりには、たくさんの先祖がおるわけですから、その中には人殺し盗人のような悪人もいれば、善人もいるように、ありとあらゆる人がいるのです。それがやはり法界の姿であり、その全体が妙法の姿、法性なのです。ですから、その法全体を正しく受けていくために妙法を受持し、その功徳を発揚し、先祖に追善供養することが大事なのであります。
ここに、迷いも悟りもすべてが「法性真如」の姿であると仰せであります。ただし、「染法」と「浄法」とを区別されております。
「譬へば水精(すいしょう)の玉の日輪(にちりん)に向かへば火を取り、月輪(がつりん)に向かへば水を取る、玉の体一なれども縁に随って其の功(く)同じからざるが如し。真如の妙理も亦復(またまた)是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇(あ)へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明(むみょう)なり。譬へば人(ひと)夢に種々の善悪(ぜんなく)の業を見、夢覚(さ)めて後に之を思へば、我が一心に見る所の夢なるが如し。一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷悟の無明・法性なり。是くの如く意得(こころう)れば、悪迷(あくめい)の無明を捨て、善悟(ぜんご)の法性を本と為すべきなり 」(当体義抄 御書692ページ8行目)
これは、『当体義抄』の最初のほうにある御文です。この御文は言葉が難しいですから、判りにくいような感じがあるかも知れませんが、これは法性全体が我々の命の当体、法界全体の姿であるということです。そして、その法性に「染」と「浄」の姿があり、それによって迷いや悟り、あるいは悪となり善となるということを、夢の譬えをもって示されておるわけです。要するに、法性は善悪の全体を含んでおり、それが法性の妙理の中から部分的執われにより、染まって不純なものと、清浄なものの2つが存在するということであります。
次ぎに、テキストの私の言で、「法性の八・九の二識。八識に二義あり。一に妄、二に真。解性の義は真。果報の義は妄なり。自我の浄化と染汚において池田創価の本源は、この染分の無明なり。」と書いてあります。
此の法性自体は、実は「九識」という絶対的な法界体性の妙境妙智でありまして、これを「阿摩羅識」と言います。これは認識の上から見て非常に深く広いもので、先ほど「法爾の道理」とありましたが、法そのものの姿を明白に悟り識(し)るところの根本の意識を言うのです。しかるに、この九識というのは、我々には到底認識できないのです。
そして、この九識のところから八識が出てくるわけで、この八識のことを「阿頼耶識」と言います。このところは先ほど示された「染」と「浄」の二法ということがあるのです。いわゆる染まった不純なものと清浄なものとが分かれるわけです。
そこからさらに次の七識、すなわち「末那識」において、はっきりと悪が悪として現れ、また善が善として現れてきて、次ぎに六識としての我々の生活が現れてくるのです。六識というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの識であります。まず最初の「眼識」とは、眼でものを見るということです。それから「耳識」とは、耳で音を聞くこと。次の「鼻識」とは、鼻で臭いを嗅ぐこと。そして「舌識」とは、舌でものを味わうこと。さらに「身識」とは、身体でものに触れてそのものを感じ取ることであります。それから最後の「意識」とは、、これら眼・鼻・舌・身の5つにおいて、色・声・香・味・触という外界のものをことごとく総合して感ずることであります。ですから、眼・耳・鼻・舌・身を総合する意識を六識と言うのです。
したがって、この六識が我々の生活の上での意識であります。ですから我々は、心というものはその意識というところにしか存在しないと思っているわけです。けれども実際には、その意識の奧に七識があり、八識があり、さらにその元に九識という法界全体を悟るところの深く広い智慧存しておるのです。しかるに、それは我々の日常生活の中においては隠れておりますから、自分自身で認識をすることは全くできないのであります。
仏教では「還滅門」と「流転門」ということを言いますが、下の迷いのところから上の悟りの方向へ行くのを「還滅門」と言い、逆に上から下へ行って我々の生活のなかの迷悟の姿として出てくるほうを「流転門」と言います。このような内容が仏法のおいて存在しておりますが、その上から下へ流転してくるなかの、九識から八識へ出てくるところに「染分」と「浄分」に分かれることがあるわけです。
その「染分」とは何かと言えば、これは自我というものに執われることによって、法の上から正しく物事を見ることができず、それによってそれが一つの無明の煩悩というかたちとして現れてくるということです。そこで、先ほど拝読したところに「是くの如く意得(こころう)れば、悪迷(あくめい)の無明を捨て、善悟(ぜんご)の法性を本と為すべきなり 」という御文がありましたね。つまり「悪迷の無明」を捨てて「善悟の法性」に帰すべきであると言われるのです。自然のかたちのなかでは、どうしても八識の中に「悪迷の無明」が存在しているのです。そこで「悪迷の無明」を捨てて浄化し、「善悟の法性」に帰していくことが大事なのです。
では、どのように浄化していくのかと言えば、それは正しく法性の姿を示すところの教えである妙法蓮華経を受持していくことによって、自然のかたちのなかで「悪迷の無明」を捨てて「善悟の法性」に帰していくことができるのです。しかるに、そこで妙法の御題目を唱えながらも、なおかつ仏法に対する我見を生じることによって無明になってしっまっておるのが池田創価学会の姿であります。
では、正しい仏法を長い間信心していたにもかかわらず、なぜ池田のような邪法邪義の姿が出てきてしまったのかということが、皆さん方も不思議に思うでしょう。その原因は結局、前の「法爾の道理」のところを見ていただくと判りますが、この「法爾の道理」とは「法性・真如」であり、その中において「法性妙法中の我見に執らわれる結果、染法に終始する無明」があるということです。
ですから、表面上は妙法を受持しつつも、そこに八識の中の迷いが現れてくることによって仏法の根本を見失い、そこに「創価仏法」などという本末転倒の己義を構えて、厳然と在します大聖人様の仏法を蔑ろにして否定する意味が存するのです。それが「法爾の道理」に背く、創価学会の無明の不道理の姿であるということを申し述べておきます。
皆様、おはようございます。ただいまは総本山において11月度の広布唱題行を執り行いました。しかるところ、支部総登山で登山の方々が多いと思いますが、本日は大勢の信徒の方が参加をされ、僧俗共に一時間の唱題行を執り行った次第であります。
話は変わりますが、今月は総本山の御大会奉修の月であります。大聖人様は旧暦の弘安5年10月13日に御入滅でありますが、これをその年の新暦に換算しますと11月21日に当たるのであります。したがって、11月20日・21日をもって御逮夜法要と御正当会という意味において行われるのであります。
余談になりますが、今、日本全国にはそれぞれ大学があります。大きい大学、小さい大学と色々ありますが、東京に目白大学という大学があります。これは戦前は目白商業という商業学校でありましたが、戦後において色々と拡大し、大学制の認可を取り、今日はかなり大きな大学として発展しております。
平成17年度夏期講習会第10期の砌
皆さん、おはようございます。本年度の法華講夏期講習会も今回をもっていよいよ第10期となりまして、これで本年度の講習会が終了する次第であります。しかるところ、昨日の台風から本朝は打って変わりまして、まことに晴朗な天気となり、特に富士山がくっきりと見えております。 本年度の講習会においては、雨は降らない時が多かったのですけれども、両日にわたって富士山が顔を現さないような日が割に多かったと思います。ところが最後の第10期において、このような晴朗な天気と共に富士山がくっきりと現れまして、皆さん方も今朝、富士山を仰ぎ見て、たいへん清々しいお気持ちになられたことと思うのであります。
次ぎに、最初の序分として、「創価学会の一切は徹頭徹尾、邪義・魔義・悪義なり。しかる所以は、日蓮大聖人の仏法にその一切が背いているからである。すなわち池田大作の巳見・我見による仏法の悪用にあり」と書いたわけであります。これから後は具体的なかたちで、その「邪義・魔義・悪義」の検証として、それぞれ申し述べてまいりたいと思います。これは、「検(けん)し、証(しょう)していく」という次第であります。
一.創価学会が現代の一凶である道理
1.観待の道理(因縁):(創価学会の非道理)仏縁重恩の日蓮正宗の三宝を凌(しの)ぎ、我勝を計る因縁の不道理。
2.作用の道理(因果):(創価学会の非道理)善因善果悪因悪果の道理に背き唯勝利のみに執着する因果の不道理。
この悪ということは、どういうことかと言うと、これには儒学的な考え方や仏法的な考え方などいろいろな表現がありますが、なかでも仏教で説くところの悪ということについて括ってみると、身・口・意の三つにおいて十の悪が存するわけです。
次ぎに、身体における悪について言えば、これは大きく分けて、殺生・偸盗・邪淫という3つがあるのです。
それから次が、貪欲・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)という、身と口に対する意(こころ)における三つの悪であります。
要するに、これらが十悪ということでありますが、これらは今の創価学会の振る舞いを見ていると、ほとんどが当たっているのです。すなわち、日蓮正宗という正しい教えに対してさんざん悪口を言って罵倒し、それからありとあらゆる捏造をもって誹謗しておるのです。私もずいぶん誹謗されましたが、皆さん方にもそういう経験があるでしょう。
それから、本当は根性が悪いくせに、世間にうまく取り入って、いかにも「創価学会は立派な団体である」というように見せるような言い回しをするのです。ここでは、具体的に一々申し上げませんが、この他にも十悪に相当するようなことが多々あるのです。そういう点において創価学会の在り方は、作用における因果の道理に外れておるということがはっきり言えるわけであります。
3.証成の道理(論証):(創価学会の非道理)道理に背く論理の矛盾。正理に背くあらゆる発言論理の不道理。
4.法爾(ほうに)の道理(法性・真如):(創価学会の非道理)法性妙法中の我見に執らわれる結果、染法に終始する無明の不道理。
それについて、次ぎに『当体義抄』の御文を挙げました。「問ふ、一切衆生の当体即妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因・業果も皆是(これ)妙法の体なるや。答ふ、法性(ほっしょう)の妙理に染浄(ぜんじょう)の二法有り。染法(ぜんぽう)は薫(くん)じて迷ひと成り、浄法(じょうほう)は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟(めいご)の二法、二なりと雖も然も法性真如(しんにょ)の一理なり」