11月17日 埼玉県寄居町の広大山法生寺において、同寺の本堂・庫裡移転新築落慶入仏法要並びに御親教が、御法主日顕上人猊下大導師のもと、厳粛かつ盛大に奉修された。同寺は、住職・高木法賢御尊師の師匠である、当時、川崎市の持経寺住職であった故阿部法胤御尊師によって埼玉県長瀞町へ建立寄進されたものであり、昭和51年12月21日、総本山第66世日達上人の大導師のもと落慶入仏法要が奉修され、初代住職として高木御尊師が赴任された。高木住職は、赴任3年目の54年に長瀞聖地霊園を開設し、59年には創立10周年の記念事業として児玉町に本泰寺を建立寄進された。その後、将来の発展を見据えて、創立20周年に当たる平成8年には、法生寺の移転新築を発願され、以来、着々と準備を進められてきた。
◎法生寺新築落慶法要より 御法主日顕上人御言葉
本日は、当広大山法生寺の創立30周年記念による移転新築落慶入仏法要が奉修いたされまして、まことにおめでとうございます。このように立派に本堂・庫裡が出来上がりましたが、また敷地が非常に広く、これからの当地における正法興隆のため、広布へ向かっての大前進の法城として実にふさわしい建物が、また寺域が完成されまして、弘法のためにもまことに有り難く存ずる次第であります。
これは当山住職・高木法賢房の長年にわたる孜々営々の精進・功徳によるものであり、また、これを扶けた当寺の檀信徒の方々の強盛な信心による外護の賜物であると存じます。このような立派な法城が完成され、心からお祝いを申し上げるものであります。
見回したところ、この本堂にはまことに立派な太い欅(けやき)の柱が立ち並んでおり、欅によってこの本堂が造られております。これについて伺いましたところ、全部、無垢の材木だそうであります。私はこのような立派な材木・材料を、どのようにして得ることができたのかと不思議に思って、住職に尋ねましたところ、二十数年も前から本日のために、つまり、この移転新築建立をこのような立派な無垢の欅の材料をもって建立したいという志をもって行ってきたということであります。私はこのことを伺って、たいへん心を打たれたのであります。
自我偶にも、「久修業所得」(法華経442ページ)と説かれております。仏様の御功徳、仏様の衆生を導かんとするお心は実に広大でありますが、それはまた、時間の上からも「久しく業を修して得る所なり」といにしいう経文の如く、久遠の古えよりの、仏徳をもって衆生を導かれてこられたところの大きな行業がおありであります。
その仏徳を拝する如く、高木住職が二十数年も前から志を立てて、このような立派な資材によるところの本堂が出来たということは、長い間の志の成果であると思います。大聖人様も、「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(御書1544ページ)ということを御指南であります。
そしてまた、このたびの移転新築を機に、住職が新たに御本尊の下付を願い出られ、さらに新しく山号も願い出られましたので、山号を「広大山」と命名した次第であります。これは、非常に土地も広く、建物も立派であり、さらに仏法の深い意義において広大なる法が久遠の昔に生じたというところの意義を込めた考えからであります。
御承知のように、『当体義抄』には、「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思これ議の一法之有り。之を名づけて妙法な蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」(同659ページ)と示されてあります。この「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足」するということは、法界の全部をこの妙法の上の功徳のなかに込められておるという所以であります。これほど広大な仏法の内容はないのであります。
阿弥陀仏といい、大日如来といい、色々なことを言いますけれども、その法体が現に末法において御本仏宗祖日蓮大聖人として御出生されたことによって、初めてこの日本国に久遠元初の法界三千をことごとく込められたところの大功徳の妙法が出現されたのであります。したがって、この「法が生ずる」という意味は、まず第一に久遠元初即末法に本仏日蓮大聖人の御出現によって、真の事の一念三千、即身成仏の大法が出現し、生じたという意義があると拝するのであります。
さらにはまた、我々凡夫の生活は自分自身の業によって常に様々な有為転変があります。そのなかには、小さな欲望の命のなかに執われて本当の正しい仏法の道を忘れてしまうのであります。そこで常にこの寺院に参詣をして、しっかり信心・唱題をするところに、御本仏大聖人様の大慈大悲による妙法の即身成仏の大法とその功徳が、皆様方一人ひとりの命に顕れて、生ずるのであります。ここに、さらに第二に衆生に約しての「法生」という意味も存すると考える次第であります。
本日は住職の本当に尊い、また常に持って忘れないところの供養の志により、このような立派な寺院が建立されました。御信徒の皆様には常にここに参詣をされて、御自身の煩悩罪障消滅、さらに平成21年の「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって正法をいよいよ興隆し、この日本国土を少しずつでも幸せな国土に築いていくというところの志をもって御精進されることを心からお祈りいたしまして、本日のお祝いの言葉といたします。おめでとうございました。
本日は、総本山第67世御法主日顕上人猊下の大導師を仰ぎ奉り、広大山法生寺の移転新築落慶入仏法要が、かくも厳粛かつ盛大に奉修され、まことにおめでとうございます。御住職・高木法賢御尊師の日頃の御丹誠と御信徒各位の外護によって、長年の念願であった法生寺の移転新築が叶い、本日、このように晴れやかに落慶入仏法要を迎えられましたことは、御住職をはじめ御信徒御一同にとって、この上ないお喜びであろうと、心からお慶ぴ申し上げます。
ただ今の経過報告にもございましたように、当法生寺の建立は昭和51年、高木御住職の御師範である、当時、川崎市・持経寺の住職であった阿部法胤御尊師によって建立御供養された寺院であります。以来、高木法賢御尊師には、当寺の初代住職として今日まで勤められてきましたが、その間、墓園造成をはじめ児玉町に本泰寺を建立して御供養するなど、常に為宗為法御奉公に励まれてきたことは、等しく私共の範とするところであります。加えて今回、あらゆる角度から検討され、長瀞町から当地へ移転新築されたことは、まことにもって慶賀に堪えないところであります。
お伺いしたところによりますと、移転新築に当たっては、御住職のかねてからの念願により、構造は木造建築とし、本堂内は欅で造ることを決意され、十有余年の歳月をかけて関東・東北・中部と歩いて欅の立木を集め、乾燥のために木を寝かせ、都合25年を費やして、このたびの移転新築を迎えるに至ったとのことであります。
また、移転新築に当たっては様々な妨害があったとのことでありますが、御住職の固い信念と御信徒の外護により万難を排し、このような立派な寺院を建立されたことは、御住職にとってまことに感無量のものがあろうと存じます。これもひとえに御住職・高木法賢御尊師の愛宗護法の精神と寺運興隆に思いを尽くされる道念の賜であり、私共としましても心からの敬意を表するものであります。
さて、今宗門は、御法主日顕上人猊下の御指南のもと挙宗一致して、来たるべき「『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節を迎えんとしております。今日、国の内外を問わず、混迷を極める惨憺(さんたん)たる現状を見るとき、私共は一人ひとりが立正安国の原理に基づき、力強く、御命題の「地涌倍増」の闘いを推進していくことが、今最も大事であろうと存じます。
大聖人は『立正安国論』に、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞ば此の言信ずべく崇むべし」 (御書250ページ)と仰せであります。
どうぞ、法生寺の皆様方には、御法主日顕上人猊下をお迎えしての今日の記念すべき慶事を機に、高木法賢御尊師の御指導のもと、新装なった法生寺の外観に相応しい強盛なる信心をもって、平成21年へ向けて、一致団結・異体同心して、いよいよ御精進くださるよう心からお祈り申し上げるものであります。
法生寺の移転新築落慶入仏法要に当たり、御住職をはじめ皆々様の御隆昌と法生寺のいよいよの御発展を心からお祈り申し上げ、甚だ粗略ながら本日のお祝いといたします。
本日ここに、総本山第67世日顕上人猊下の御親修を仰ぎ奉り、広大山法生寺本堂・庫裡移転新築落慶入仏法要が厳粛かつ盛大に奉修せられまして、まことにおめでとうございます。御法主日顕上人猊下におかれましては、連日、御法務御多繁のところ、特に総本山御大会を目前に控えた本日、唯授一人血脈寸法の御尊体を、ここ寄居の地まで御下向賜り、御親修、さらにこの後、御親教を賜りますことは、当寺御住職をはじめ檀信徒一同、並びに布教区の僧俗にとりましても無上の喜びであり、恐懼(きょうく)に堪えない次第でございます。御信徒御一同様には、御法主上人猊下直々の御指南を真剣に御拝聴くださいますようお願い申し上げますと共に、布教区一同、衷心より厚く御礼を申し上げます。
さて、当法生寺は先ほどの経過報告にもございましたように、昭和51年12月21日、秩父群長瀞町に御住職の御師範・阿部法胤御尊師によって発願建立され、総本山第66世日達上人猊下御親修のもと、落慶入仏法要が奉修され、初代住職として高木法賢御尊師が就任されました。爾来、御住職には29年間にわたり、御信徒の教化育成に力を注がれると共に、本堂内外の整備、墓地の新設、さらに昭和54年には法華講を結成され、そして同59年6月には児玉町に本泰寺を発願建立される等々、常に宗門発展のため精進御奉公に尽くされてまいられました。
そしてこのたび、長年にわたる念願でありましたここ寄居町常木の地に約970坪の土地を求められ、特に欅(けやき)材を主としての木の香漂う木造建築による、まことに見事なすばらしい法城が完成され、本日このように御法主上人猊下より「広大山」と山号の御命名を賜り、新たに板御本尊が御入仏あそばされましての大慶事を迎えられましたことに、布教区一同、重ねてお祝いを申し上げる次第であります。この大事業はひとえに御住職の令法久住、広宣流布への護惜建立の御尽力と、檀信徒御一同の外護の信心とが1つになってのこのたびの大慶事であり、布教区一同、心より敬服するところあり、これおをお手本としてさらなる御奉公を心に誓うものであります。
法生寺様には、大御本尊の御威光と御法主上人猊下の御慈悲のもとに、今後ますます異体同心・僧俗一致の絆を固められ、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節における「地涌倍増」の御命題達成をめざし、御奉公の誠を尽くされもって本日賜りました御法主上人猊下の御慈悲にお応えくださいますようお願い申し上げますと共に、私たち布教区僧俗一同も御法主上人猊下の御指南を拝し奉り、異体同心の団結のもと、御命題達成成就をめざして精進してまいりますことをお誓い申し上げるものであります。
御法主上人猊下におかせられましては、いよいよ御壮健にわたらせられ、御慈悲を賜りますよう、謹みてお願い申し上げる次第でございます。終わりに、法生寺様のさらなる寺檀和合、寺運興隆と、講中皆々様の御健勝をお祈り申し上げまして、甚だ粗辞ではございますが、御祝辞に代えさていただきます。
表面上は妙法を受持しつつも、そこに八識の中の迷いが現れてくることによって仏法の根本を見失い、そこに「創価仏法」などという本末転倒の己義を構えて、厳然と在します大聖人様の仏法を蔑ろにして否定する意味が存するのです。それが「法爾の道理」に背く、創価学会の無明の不道理の姿であるということを申し述べておきます。このようなとこから出てくるのが、「教義上の我見・邪見の非道理と矛盾」であります。これは道理に関連しますので、このところへ入れた次第であります。
これは皆さん方も聞いたことがあると思いますが、創価学会では「大聖人直結」ということ言うのです。結局、これも池田大作の思い上がりによる、我見・邪見の考え方から、あのような標語みたいなものを作り出しておるわけです。やはり彼らには、三宝に対して南無するという、本当の帰命の心がないのです。仏法の本来の在り方は、三宝に帰命するということであって、大聖人様の下種仏法においては最も然るべきことです。その三宝を否定して仏法は存在しません。しかるに、創価学会では「大聖人直結」などということを言っておる。本来、大聖人様に対してすべての者は帰命すべきことであって、直結などということではないのです。
直結とは「間を隔てないで、二つのものが結びつくこと」という意味ですから、これでは大聖人様と池田大作、さらに創価学会の者どもが対等の立場にあることでありませんか。そこに彼らのどうしようもない思い上がりがるのです。ですから、「大聖人直結」という言葉からして、信心の道において狂っているのです。ましてや、その「大聖人直結」ということは、第二祖日興上人をはじめとする御歴代上人をも不必要とすることになるのです。つまり、自分たちは、大聖人様にさえ直結すればいいわけですから、日興上人や日目上人などいたかもしれないけれども、それらは全く必要ないということなるわけで、したがって、これは、三宝を否定しておることになるのです。すなわち、仏・法・僧の三宝には一体の意味がありますから、その僧宝たる日興上人をはじめとする御歴代上人を否定することは、また翻(ひるがえ)って仏宝たる大聖人様を否定することにもなるのです。
そこでまた彼らは「大聖人直結」ということで、日興上人以来の化儀・化法をも否定するから、勝手なことをやり出すんですね。「『大聖人直結』で大聖人即我々の立場が正しいのだから、僧宝たる日興(上人)以下の法規に必ずしも従う必要はない。自分たちの考えるように行うんだ」ということで、五座三座の勤行をやめて『方便品』と『自我偈』だけに改悪したり、勤行の観念文を改変したり、塔婆供養を不要だと言ったり、その他にも様々なことを勝手に行っておるわけです。したがって、この「大聖人直結」というところにそもそもの矛盾があるわけで、その元は、いわゆる彼らの驕慢によるのであります。
これは、やはり彼らは本当の意味での帰命の心をもって御書を拝していないのです。ただ文字だけを見て「ここに、こう書いてあるから我々がやっていることは正しいんだ」というようなことで、そこには三宝などということも考える必要はないというような意味から「御書根本」という考え方があるわけです。
けれども日興上人は、「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(御書1884ページ)と、おっしゃっているのです。この「極理を師伝」しておるのは、一体どなたなのかということが大事なのです。しかるに、池田大作はそれを自分だと思っているのです。自分が師匠であるから、私の言っていることさえ聞いていればよく、その上で御書を解釈してますから、そうすると池田大作がまるで大聖人と同じというようなことに自然になってしまうし、事実、創価学会はそのような構図になっているんですね。したがって、「御抄を心肝に染め極理を師伝して」という意義のところに、彼らはそもそも我見を持っておりますから、よって「御抄を心肝に染め」ということも、口先だけになっておるのです。
また、孟子の言葉に、「悉(ことごと)く書を信ずれば則ち書無きに如かず」というのがありますが、これは批判的な視点を持たずに書物を読んで、そこに書かれていることのすべてを盲信するならば、むしろ書物などは読まないほうがよいという意味です。ですから、大聖人様の御書について、彼らはただ文字面だけを見て「ここに、こうある」「あそこに、こう書いてある」と言うけれども、大聖人様の御書には「文」に対して「義」ということがあるのです。そして、その義には高低浅深というけじめがあるわけです。
それもこれもすべて知ったように奢(おご)り誇って、驕慢な心で歴代血脈の僧宝を蔑(あなず)り、誹謗を繰り返しています。しかし、仏法の文と義には、さらに「意」という重大な帰結があるのです。この意は仏意であり、法門の理論や理屈だけで成仏の大事を遂(と)げることはできません。
すなわち仏法においては、お釈迦様の化導においても同様ですが、大聖人様の御一期の御化導にも段階があるのです。つまり、お釈迦様の場合は、方便の教えである華厳・阿含・方等・般若等先の四十余年に説いて、最後に真実の教えである法華経を説かれたのです。そして、大聖人様の場合は、方便はないけれども、三大秘法の中において、まず初めに本門の題目を御自らお唱えになったのです。それが佐渡以前の化導です。それから佐渡へ行かれて、上行菩薩の意義の上から本門の法をお示しになる。その後、身延に入られて一宗の究境である三大秘法の弘通と整足をきちんと行われて、そして最後に、そのすべてを括られて日興上人に付嘱されたのです。そこまでが大聖人様の御一期の御化導なんですね。
その日興上人への付嘱は、いわゆる、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり云云」(御書1675ページ)という『日蓮一期弘法付嘱書』と、もう一つは「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべき云云」(同)という『身延山付嘱書』の二箇相承です。これは、大聖人様の御一期の御化導の意義を全部括った上での御相伝なのです。この上から日興上人、日目上人、歴代各上人への相伝が厳として存し、その御相伝の上から拝して、初めての御書の一文一文の意義を正しく理解することができる、また正しく受けることができるわけです。
すなわち『法華文句』に、「信」と「順」の2字が最も大切であることを釈して、「信ずれば即ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず」(法華文句記会本(上)48ページ)という文があります。正しい信心によって初めて法華甚深の文義を知り、身に当ててその意を会得することができる。また、三宝に我意・我見を捨てて随順するところに初めて仏法の正意に適う師弟の道を成ずることができるのです。そして、信は順によって正しい信が生じ、順は信を得て確固たる正法流布の源となる。故に、順のない信は邪信・盲信となり、信のない順は正しい師弟の道を破って邪義・邪教の団体となる。三宝背反の者たちは、いくら法門を知っても、随順のないところ、自らその意に背く故に文義の一切の解決が誤るのです。
しかるに、創価学会では「そんな相伝など、どうでもいい」「我々はこれだけやったから我々の考えが正しい」と我見を逞(たくま)しくして、勝手に御書を解釈しているわけです。そこに、あの孟子が言った「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」の言葉にすら破折されるような、中心から外れ、成仏はおろか、即到三悪道なる池田創価学会の「御書根本」の邪義が存するということを申し述べておくものであります。
今、申し上げたように、付嘱によって仏法の血脈伝承が存するわけです。これを、否定する池田大作は「日蓮大聖人の正しい血脈は創価学会にある」と、いつも高言していますね。ですから「日蓮正宗に血脈はないんだ」と。何を言っているのか、あきれてものが言えません。少しばかり折伏をしたからといっても、みんなが狂ったほうへいってしまったら、何にもなんらないのです。それでは仏法の弘通にならないわけですが、それでも彼らは「我々は、これだけ折伏したんだ」ということを言うのです。これもやはり、みんな我見から来ておるわけです。
そこで、「超高が民の身として横(よこしま)に帝位につきし」簒奪(さんだつ)の言ということを、大聖人様がおっしゃっておるのです。
この「簒奪」とは、帝王の位を奪い取ること言うのです。昔、中国の秦の始皇帝に仕えていた超高という人がおりました。この人は始皇帝が亡くなった後、李斯(りし)という丞相(じょうそう)に命じて、自分に都合の悪い始皇帝の長子である扶蘇(ふそ)を殺させたのです。そして、自分がうまく利用できそうな始皇帝の末子である胡亥(こがい)を二世の皇帝として、実質の権力を握ったのです。その後も、帝の胡亥に讒言(ざんげん)をして、自らの悪事を知る李斯や、始皇帝時代の有能な旧臣を殺させ、そして終いには帝の胡亥をも殺してしまうのです。このように、超高というのは非常に悪逆な人物であったのです。しかるに、この超高も、後に即位した英明な子嬰(しえい)によって殺されてしまうのであります。
このようなことを「簒奪」ということでありますが、それ以上に悪いのが、大聖人の仏法をそのまま簒奪し、日蓮正宗のおける宗祖以来に血脈相承を否定して、あたかも自分たちに血脈があるかのように嘯(うそぶ)く創価学会であります。この創価学会の業は、超高の業以上の悪業であるということを、ここに申し述べておきます。
次に、日有上人の御文であります。「手続きの師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く
一仏なり、是れを即身成仏と云うなり」(化儀抄 聖典974ページ4行目)。
この御文において拝せられることは、必ず師匠より弟子として仏法を受けられていくところに仏法の本義が存するということです。ですから「我に信を取るべし」というところに血脈が伝わっていくのであります。先ほどの「信ずれば即ち所聞の理会し、順すれば則ち師資の道成ず」の文は、まさにこのところを道破しております。そこで、「此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり」と。つまり、師・弟子が一体となって妙法を唱えるところに本因本果が一体となるのであり、よって「是れを即身成仏と云うなり」と仰せになっています。
次に、日寛上人云わく「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄な法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり」(文底秘沈抄 六巻抄66ページ1行目)と、「一器の水を一器に移すが如く」に血脈法水が伝わっておる故に、大聖人様のお心は断絶していないということをおっしゃておるのです。日寛上人が「蓮師の心月豈此に移らざらんや」と仰せられるのは、大聖人様のお心が、まさしく今日に到るまで血脈法水として日蓮正宗に伝わっておるということではありませんか。そしてこの血脈法水は、私も第66世日達上人より、はっきりと承っておるのであります。したがって、このように血脈法水が厳然と伝わっておるということを、ここに申し上げるものであります。
創価学会は、そもそも「大聖人直結」と言うのであれば、本当は池田大作が御本尊を書かなければならないことです。けれどもそこまでは簡単にはできない。やはり多くの創価学会員もこれまで組織の中でずいぶん誑(たぶら)かせてきいるけれども、そこまでやってしまうと、あまりにも化けの皮が剥がれ過ぎてしまうから、そこまではしないのです。では、どうするのかということで、日寛上人の御本尊をコピーしようということになったのです。
しかるに、この御本尊は日寛上人が享保5(1720)年6月13日に御書写あそばされたものであり、これらを彼らは正しい筋道から入手したわけでもなく、さらにはこの御本尊に認められている「下野国小薬邑本如山浄圓寺 大行阿闍梨本證坊日證 授与之」という「授与書き」を抹消し、勝手にコピーをして造り上げたのが、あの創価学会の『ニセ本尊』であります。
この絶対に許されざる創価学会の大謗法について、私も以前(平成9年8月)に講義をしたことがありまして、それをまとめたのが『創価学会の偽造本尊義を破す』という本であります。それには、種々の面から彼らの邪義に対して破折を加えております(当該書170ぺージ)。
要するに、創価学会では『ニセ本尊』を勝手に造って会員に配布しておりますが、その『ニセ本尊』に向かっていくら手を合わせても、全く功徳はないということであります。したがって、ここではまず「本尊迷乱の邪義」がるということを申し上げておきます。
これは、池田創価学会が仏法の化儀を否定しておるところの邪義であります。
初めに「授戒不要」とありますが、この「授戒」ということは、仏法の上から絶対に大事なことなのです。これは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」とある三大秘法の中の「戒壇」の「戒」なのです。「戒」は「防非止悪」ということからも、正法を正しく受持する上においては、その意味の正しい戒めがなければならないのです。その戒めをせず「授戒不要」などと言うこと自体が、創価学会が三大秘法に無知であり、いい加減に考えている証拠であります。
まあ、創価学会も一種の株式会社のようなもので、そのような考え方で多くの会員を組織内に取り込んでいこうというような考え方ですから、いい加減になってくるのでしょう。けれども、授戒をしないということは、仏法の本義を知らない邪義の姿であるということをはっきり申しておきます。
それから、次が「塔婆不要」ということです。皆さん方は、御先祖を深く敬って正しい意義において追善供養をしますね。これは先ほども言いましたが、我々の先祖は遡(さかのぼ)っていけば非常にたくさんいるわけです。その中において、近い先祖と遠い先祖の区別はありますが、戒名にしても俗名にしても、判っている方は塔婆にその名を書いて供養するということが大切なのです。
大聖人様も『中興入道御消息』に、「丈六の卒塔婆をたてゝ、其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海の魚族(いろくづ)、其の風にあたりて大海の苦を離れ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身に触れて 畜生道を免かれて都率(とそつ)の内院に生まれん。況んやかの卒塔婆に随喜をなし、手を触れ眼に見まいらせ候人類をや」(御書1434ページ)と仰せのように、塔婆を建てることによって、その建てた本人が功徳を受けるのみならず、その周りにいる畜生のようなものまでが、その風に触れて成仏をしていくという、法界全体の意義の上からの功徳をも御指南あそばされておるのです。ですから、塔婆供養ということは、常に、また時に応じて必要なのであります。
そのような大事な意義が塔婆供養には存するにもかかわらず、創価学会の連中は「そのようなものは必要ない」として「御書根本」と言いつつ、その御書に違背するようなことを平気で言うわけです。さらに、創価学会では昔から「なるべく寺へは行くな」と言っていたようです。つまり「寺などには行かずに、創価学会の会館に来て供養するように」と常に言っていました。
それから最後に「觀念文改変等各邪義」とありますが、この觀念文の改変については、三宝破壊、なかんずく僧宝破壊の邪義が明らかでありますが、細論は省略します。
この「学会主宗門従」ということは、創価学会の内部文章に、はっきりと書いてあります。つまり創価学会が「主」で、宗門が「従」とうことは、一切は創価学会全体の外郭団体であると言っているのです。全くの思い上がりであり、自分らの発生の元を忘れて我見・邪見にほかなりません。
そもそも創価学会は、昭和5年に牧口常三郎という人が「創価教育学会」を創立したことに始まるのです。しかも、明治の頃に「直達講」という講中を作って活躍していた法華講の三谷素啓という人がおりましたが、その人が講頭を務める「直達講」に、牧口常三郎氏とか戸田城聖氏、さらには藤本秀之助氏というような人たちが入講して信心を始めた姿があるのです。そして、「直達講」の三谷素啓氏が亡くなった後に、藤本秀之助氏は、現在の千葉県の弾正寺の元となった「弾正会」という信徒の集まりを作り、さらに牧口常三郎氏は「創価教育学会」を作って、現在の「創価学会」になったのです。
ですから、本来、創価学会は日蓮正宗の一つの信徒団体だったわけです。それがいつの間にか増長・増慢して、創価学会が中心で宗門はそ一つの外郭団体であると言い出したのです。つまり、創価学会の外郭団体には民音や公明党など様々な団体がありますが、これはみんな創価学会を護るために存在しておる。そこで宗門もくるめて、これらと同様に創価学会を護るための一つの団体であると言うのです。このような本末顛倒の悪見を「学会主宗門従」と言っておるわけであります。よって、創価学会は過去においてここまで免脱したわけでありますが、現在はこれにも増して、その変節無恥の暴慢が、なおひどくなっておる意味があります。
創価学会が仏法の道理に違背していることについての文証は、大聖人様の御書にもいろいろな御教示があり、また現在では創価学会がこれまでに行ってきた悪事・悪行を破折した本などもたくさん出ていますね。
大聖人様の仏法を多少聞きかじった池田大作の「御書根本」などという文献偏重のような考え方は、根本的にその本人の考え方が間違っているわけですから、正しい意味において取り上げたのが、大聖人様の御書における4つの文証であります。しかし、もとよりその他にも彼らの誤りを示す御書の文証は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほど多いのです。
つまり、法門を一生懸命に勉強して自らの領解を喜んで人に伝えるのはよいことです。けれども、それがいつしか「私が偉いんだ」というように勘違いをしてしまって、それで「寺などに行かなくてもいい」「御講に行く必要がない」などと慢心を起こして信徒の分斉を超過してくると、正法の化儀・化法を乱すことになってしまうのです。そこに「法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」と、つまりそのような者は悪いということをおっしゃっておるのです。
これは「善星比丘」と「提婆達多」のことを挙げられております。この「善星比丘」という人は、釈尊が出家する以前の太子であったときの子供なんです。この人も初めは釈尊に従って仏教を学んだのですが、そのうちに外道に縁したことによって、その外道の教えである四禅道という禅定を得た結果、これこそが本当の正しい教えであり、悟りである勘違いをして、ついには釈尊に敵対するようになってしまったのです。
釈尊の足の裏には「千輻輪(せんぷくりん)」という三十二相の一つがあって、釈尊が砂の上をお歩きになると、その足跡に仏様でなければ付かない千輻輪の模様が地面に付くわけです。それを見た人は「ああ、有り難い」と手を合わせるわけですが、それを善星比丘は後ろからどんどん消して歩くのです。そのように、妄信によって怨嫉を生じ、本当に無恥忘恩の行為がありました。したがって、因果發無の邪見を起こし、仏様に対して悪心を起こして誹謗した結果、最後は生きながらにして地獄に堕ちたということです。
それから、「提婆達多」という人のことは、皆さん方も聞かれたことがあると思いますが、提婆達多は「六万八万の法蔵」を覚えたと言われれております。普通、一代仏教においては「八万四千の法蔵」ということを言うのですが、ではなぜ八万四千なのかと言うと、これは我々の命の中に8万4千の迷いがあるから、それを導くためと言われておるのです。たしかに我々の生活の中では、様々な迷いがたくさん出てくるわけですが、その種類を数え上げていくと8万4千の煩悩があると言われておるのです。その8万4千の煩悩に対して一つ一つ説かれておるのが「八万四千の法蔵」であるということです。お釈迦様の一代仏教の法蔵、経蔵は、非常にたくさんありまして、それらが日本に渡ってきたわけであります。現在では、それが『大正新脩大蔵経』などになっておりますが、その分厚い本が正篇・続篇を合わせると85巻、さらには図像部・総目録も合わせると100巻にもなるのです。その本を開くと、中は全部漢文で書いてあり、内容も非常に難しいことから1ページを読むだけでも非常に時間がかかるのです。そういうことで、とにかく提婆達多は八万四千の法蔵に通じていたということです。
それから、「十八変を現ぜしかども」とある「十八変」とは、これは仏菩薩が衆生を教化するために神通力をもって行う18種類の術であります。すなわち、左右の脇から水や火を出す、また身体の上下から水や火を出す、また地面を歩くように水上を歩く、逆に水上を歩くように地面を歩く、さらには空中から没して地に現れ、また地から没して空中に現れるとか、それから空中からを行く、空中に住する、空中に坐す、空中に臥す、さらに大身を現じて虚空に満つとか、逆に大身から小身に変化するなどの様々な術のことを「十八変」と言い、このようなことを提婆達多が行ったということです。
しかし「此等は有解無信の者なり」。つまり、これは解は有るけれども信が無いのであって、そのような者は「今に阿鼻大城にあり」、すなわち今でも地獄に堕ちているということです。ですから、池田のように法門を多少勉強して、その上「御書に、このようにあるではないか」「『御書根本』である」などと偉そうに語っても、三宝に対する本当に信がなければ、必ず地獄に堕ちるという意義があるのです。それが、この御書の御文において拝せられるのであります。
大聖人様は、「行学の二道をはげみ候べし」(御書668ページ)というように、仏教を学びなさいとおっしゃているけれども、しかしここでは「智者・学匠の身」となっても、「私が一番偉いのだ」という我見に入ってしまうと、結局「地獄に堕ちて」しまうということことです。
これはつまり、入信したばかりで仏教のことを何も知らない人が唱える御題目も、すでに3年とか5年、信心をしている人が唱える御題目も、御題目の功徳においては全く違いがないと仰せられているのです。私も御題目を唱えてから、70年以上にもなりますが、その私の唱える御題目も、昨日入信したような人の唱える御題目も変わらないのです。ですから、有り難いんですね。
ところが、それが変わる場合もあるのです。それはどういうことかと言えば、「但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」。すなわち「此の経の心」に背いて唱えるところの御題目には、違いがあるというのです。ですから「此の経の心」に背いてはならないのです。「此の経の心」の根本は、信心であるけれども、そこに十四誹謗というものを犯すことによって、「此の経の心」に背くことになるのです。
この「重々の差(しな)あり」という内容においては、摂受・折伏・受持・読・誦・解説・書写、その他いろいろな内容について様々な区別がたくさんあるわけです。その中において、特に法華経の『譬喩品』に、「驕慢・懈怠・我見を計する者には此の経を説くこと莫(なか)れ云云)」(法華経175ページ)と、十四誹謗の元となる内容が説かれているのです。
摂受・折伏ということについて言えば、法華経を説いた釈尊は、熟益・脱益の化導ですから、大聖人様の下種の化導とは違うのです。ですから、釈尊の化導においては「本当に素直な心で聞きたいと欲している者には、この経を説きなさい」とあり、またその代わりにに「暴悪な者に対しては、この経を説いてはならない」というような修行の姿も示されておるのです。
ところが、末法の大聖人様御化導は、そうでないのです。すべて下種の修行ですから、どのような者に対してでも説き聞かせる意味があるのです。その修行の中において、法華経の心に背く内容として14のものがあるということが、この後に述べられておるのです。このことを詳しく説いておるのが、法相宗の慈恩大師窺基(きき)という人が著(あらわ)した『法華玄賛』であります。その中の教理においては「三乗真実・一乗方便」という根本的な間違いを犯しているけれども、『譬喩品』の内容においては、きちんと立て分けて説いてあるのです。その慈恩大師のことを妙楽大師は「有る人」と言っております。
我々の命の中には濁っている面がありますから、信心をして御題目を唱えていても、「悪の因」を犯してしまうことがあるのです。これは皆が気をつけなければならないのです。けれども、純粋な「一心欲見仏」の信心により、しっかり御題目を唱えて、その上で皆を救っていこうという気持ちになると、この十四誹謗は自然に消えていくのです。しかし、後に述べますが、創価学会の在り方は、このすべてを徹底して犯しているのです。これをはっきり知るべきであります。このすべてが創価学会の思想と行為に当たっておることは恐ろしいほどであります。
つまり、我見・我欲において毀ることが一番悪いのです。創価学会は、自分たちの組織を守るために日蓮正宗を徹底して誹謗しておりますが、これはまさしく「法華経を持つ者」を毀ることになります。私が「現代の一凶 創価学会」と題して、今、皆さん方に話をしているのは、これは毀っているということではないんです。邪悪な創価学会に皆が誑かされていくところを救う意味において破折をしているのです。ですから、これは決して毀ることにはならないということを申し上げておきます。
大聖人様は『妙法比丘尼御返事』の中で、「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間(むけん)地獄に堕つる事あり」(御書258ページ)と仰せであります。これは「仏法を信心しているからいいんだ」ということで謗法を犯していると、無間地獄に墜ちることがあるという意味です。
この御文も、今の創価学会にぴったりと当てはまりますね。すなわち、多くの学会員が「但仏法をならえば貴し」思っていて、それで「此の人も又此の人にしたがふ」というように、皆が池田大作や秋谷栄之助等に従っておるのです。しかるに、これら謗法を犯している池田大作をはじめとする多くの創価学会員は、大聖人様が「弟子檀那等も無間(むけん)地獄に堕つる事あり」と仰せのように、無間地獄に墜ちることがあるということであります。
今、世間においては様々な災難・災害がテレビや新聞などに報道されておりますが、そのような中で宗門の人たちは、不思議なことに、ほとんどがその難から守られているのです。平成7年1月17日未明の阪神・淡路大震災においても、法華講員の方は、ほとんど亡くなっていないんですね。しかるに、あの大震災が起こった前日、前々日には、創価学会があの地域において『ニセ本尊』を配布しておったのであります。そして、その直後にあの大地震が起こり、言うに言えないような悲惨な結果となったのであります。
それから、少し前の新潟中越地震においても、日蓮正宗の檀信徒は、家がだめになった方は多少いらしたようですが、身体に被害を受けた方は一人もいなかったのです。さらには、台湾においても大地震がありましたね。あれもかなりひどい被害が出たそうです。あの辺りには何千という日蓮正宗の信徒がいるのですが、一人も被害がなかったのです。それから、さらに被害がひどかったのが、先般のスマトラ沖地震・インド洋大津波です。あの災害はでは、インドネシアだけでも十数万もの人々が亡くなっているんですよね。その他にも、タイやスリランカなどの国々においてもかなりの人が亡くなっているのです。その中で、特にインドネシアにおいては、日蓮正宗の信徒は数十万人もいるのです。しかも、そのインドネシアでは十数万もの人が亡くなっているのにもかかわらず、本宗の信徒は一人も亡くなったという連絡がないんですね。これは私も2回確認をしんたんですが、やはり亡くなった方はいないそうです。
大聖人は『新尼御前御返事』に、「此の五字の大慢陀羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ」(御書764ページ)と仰せのように、今生において守られ、さらに亡くなってからも地獄に堕ちるのを免れる、つまり現当二世にわたって災難を免れるということを、はっきりとお示しであります。そして、それがそのまま今日の日蓮正宗の信仰の中において、大功徳の現証としてはっきりと現れておるのであります。
したがって、皆さん方には、この姿をはっきりと知っていただいた上で、創価学会の邪義を破折し、一人でも多くの人たちを救ってあげることが大事であると思うのであります。
まず最初の「驕慢」とは「自ら驕り高ぶる」ということで、慢心の意であります。この驕慢ということについて言えば、これは先ほどから話しておれば判る通り、池田大作ほど驕慢な人間はいないのです。彼の言動は、他の本にたくさん出ているけれども、その言動の内容が実に驕慢至極なのです。それもそうでしょう。自分は大聖人様と一緒で、日興上人や御歴代上人などは必要ないというような考えの者ですからね。ですから、いくら大聖人の仏法を信仰しているからと言ったって、根本のところが驕慢で、法華経の心に背いて信仰しているわけですから、それでは絶対に功徳はないわけです。
次の「懈怠」とは、「なまけ、おこたる」という意味です。これについて言えば、正しいことについて懈怠しているのが今の創価学会です。方向の間違った名聞冥利の執われや嘘の宣伝・悪口誹謗・捏造等の悪いことばかりは行っているけれども、正しい信仰の姿には懈怠しておりますから、これもやはり十四誹謗の懈怠に、はっきりと当たっておるのです。
三つ目の「計我」とは、自分自身の執着による我見をもって仏法を計るということです。これもまた創価学会にぴったりであります。四つ目の「浅識」とは、「浅く識る」ということであります。つまり、仏法ほど深い内容はないのですが、それをいとも簡単に「私は判った」思うことです。これがまた今の創価学会の姿において、実にそっくりであります。五つ目の「著欲」とは「欲に著(つ)く」ということで、つまり欲に絡んでありとあらゆること行うことです。池田大作などは、宗門を支配するところではなく、もう日本を、世界を支配しようという考えなんですね。これは池田が明言していましたからね。それも邪悪な考えでの支配欲、権勢欲などありとあらゆる欲望が、この創価学会に存するのであります。
その他にも「不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善」とありますが、時間がありませんので一つ一つの説明は省略いたしますが、これらもすべて今の創価学会に当てはまるのです。つまり一つ一つ解明していくと、この十四誹謗の全部が創価学会に当たっているということであります。ですから、いかに創価学会が『松野殿御返事』の御文のごとく、法華経の心に背いておるかということであり、したがって彼らに正しい仏法の功徳はないということが明らかなのであります。
創価学会では、一往は大聖人の教えを揚げているように言うのです。すなわち「大聖人直結」とか「御書根本」などと、素人騙しの言を吐くけれども、その実際は大聖人の正しい教えとは内容が違っておるのです。つまり似て非なるもの創価学会であるということです。
ここまで言うと、たしかに悪口のように聞こえますが、真実でないことあえて作って言うことは悪口になりますが、彼らは衆生を欺瞞(ぎまん)し、社会に悪い考え方を敷衍(ふえん)させていますから、やはりその実際の姿から、このように挙げたわけであります。
「カメレオン的変化」ということについて言えば、彼らは自分たちの都合のいいように、ぐるぐると言うことが変わるのです。今までも、どれほどいろいろなことが変わってきたことか。皆さん方も学会員と話していると判るでしょう。問い詰めてゆくと、詰まってところですぐにすぐ別の話にもっていくんですね。あれも「カメレオン的変化」ですよ。とにかく、都合が悪いとどんどん変わるですね。ですから、そういうときは「元の話しに戻しましょう」ときちんと、言えばいいと思います。
創価学会では、目的を達成するためには手段を選ばす、たとえ嘘であっても100遍言えば本当になると言うごとく、勝つことがすべてと言うのです。けれども、そんな莫迦なことを言ってはいけませんよ。勝つか負けるかなどということ以上に、さらにその一切を含めた高い次元のところに大聖人様の仏法はあるのです。
「夫仏法と申すは勝負をさきとし云云」(御書1175ページ)という御書の御文もありますが、その「勝負」という意味は、ただ何でも勝てばいいということではないのです。これは正しい仏法は自然に法理法則においてあらゆる邪義を打ち破っていく姿があるということをおっしゃっておるわけです。ですから「なんでも勝てばいい」とか「どんなことをしても勝て」などということに執着した考え方は、大聖人様が仰せられる「勝負」の意ではないのです。したがって、何をやってもよいという考え方に大きな誤りがあるということであります。
ご承知の方も多いと思いますけが、これがちょうど大石寺開創700年の年なんです。この年は大石寺において大きな意義のある御報恩ができましたが、またその時に池田大作、創価学会が宗門に対してはっきり反旗を翻してきたわけです。その結果、同年12月に池田大作他14名の総講頭・大講頭の資格が喪失したわけであります。とにかく、日蓮正宗の支配を画策したのであります。
「濫訴(らんそ)」というのは、池田大作の汚い根性での命令一下、あらゆることで日蓮正宗を困らせようということで、ありとあらゆる訴訟を起こしたきたわけです。それが例の墓埋法(墓地、埋葬等に関する法律)に反しているなどと言ってきた問題や、さらに全国のあらゆるところで同時に起こしてきた正本堂解体の問題などですが、これらの訴訟については宗門がほとんど勝っています。
まあ、なかにはこちらの多少の不備において負けたものありましたが、そのような例は本当に2割にも満たないのです。これらの訴訟は、ほとんどが彼らが提起してきたものであって、それでいて向こうが負けているわけです。ですから、この濫訴というのは実にめちゃくちゃな、柄のないところに柄をすげるような訴えを起こすわけです。これが悪義非道の創価学会の姿であります。
このように創価学会は、陰では本当に悪義非道な行いをしておきながら、世間の人々に対しては、それをうまく覆い隠して、いかにも日本や世界の人々が幸せになるために活動している立派な団体であるかのように印象づけようと一生懸命になっておるのであります。ですから、むしろ創価学会は、彼らの本当に悪い体質、真実を語られること、またそれに気づかれることを、たいへん恐れているのであります。
したがって、我々は、創価学会員をあらゆる面から正しく導いていく上において、創価学会の真実の姿を、すなわち誤りの姿を、あらゆる人々に知らしめしていくことが大切であると思います。ですから、折伏教化ということにおいては、縁のある創価学会員以外の人たちを折伏し、教化していくことも当然、大事でありますが、縁のある創価学会員に対しても「あなたは根本的に池田大作の邪義に騙されていますよ」「あらゆる道理・文証・現証の上からいっても創価学会は誤りですよ」と言って破折してあげることが大切なのです。
とにかく、間違ったことを正しいようにねじ曲げて言っておるのですから、それに騙されてはいけないということを、相手が判っても判らなくても言ってあげることが大事であると思うのです。そういう意味において皆さん方には、僧俗一致の上に、あくまで正義完遂の志をもって筋道を糾(ただ)し 、邪義・邪法を破折し、創価学会の多くの人々を救っていこうと気持ちを持ってご精進されることを心からお祈りいたしまして、私の話を終わる次第であります。
法生寺新築落慶法要
○法生寺新築落慶法要より 宗務院代表祝辞 早瀬日如御尊能化
○法生寺新築落慶法要より 布教区代表 祝辞 藤本信恭御尊師
平成17年度夏期講習会第10期の砌
二.教義上の我見・邪見の非道理と矛盾
1.大聖人直結の邪義
2.御書根本の邪義
3.血脈否定の邪義
4.本尊迷乱の邪義
5.授戒不要・塔婆不要・寺院不要・観念文改変等各邪義
6.学会主宗門従
三.創価学会が現代の一凶である文証
1.創価学会の三宝不信、悪口言訟への誡めと拝すべき文
「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」(上野殿御返事 御書1219ページ)
「仮ひ悟りなけれども、信心あらん者は鈍根も正見(しょうけん)の者なり。仮ひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘(ぜんしょうびく)は二百五十戒を持ちて四禅定(ぜんじょう)を得、十二部経を諳(そら)にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解(うげ)無信の者なり。今に阿鼻大城にあり云云」(法華題目抄 御書353ページ)
「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄 御書1519ページ)
「御文(ふみ)に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金(こがね)も智者の持ちたる金も、愚者の燃(とも)せる火も智者の燃(とも)せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修業に重々の差(しな)あり。其の大概(おおむね)を申せば、記の五に云はく、「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云うのみ。有る人此を分かって云はく、『先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に驕慢・二に懈怠(けだい)・三に計我・四に浅識(せんしき)・五に著欲(じゃくよく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰蹙(ひんしゅく)・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善(きょうぜん)十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり』と」。この十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし、恐るべし、恐るべし。過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。(乃至) 之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。」(松野殿御返事 御書1046ページ)
四.創価学会が現代の一凶である現証
○十四誹謗と池田創価学会
○大聖人の教えを揚げているようで、似て非なるもの創価学会
○罵声・スリカエ・逸脱・カメレオン的変化・狡猾・排他・怨念・貪瞋痴三毒充満の集団。要するに、目的のためには何をやってもよいという盲信・盲解。
○平成2年には、日蓮正宗支配を画策し、これに失敗したので独立を推進して正宗を徹底攻撃に転じた。すなわち、あくなき宗門攻撃と濫訴。
○学会が最も恐れるもの、それは真実を語られ、それを気づかれること。我等はあらゆる面で真実を語り示すべし。
※日顕上人猊下の御当職として夏期講習会御講義は本稿で最後になりました。