大白法

平成18年2月16日号


主な記事

<1〜5面>

<4〜8面>


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御代替奉告法要並びに慶祝登山について


このたび、総本山第68世日如上人猊下の御代替奉告法要が、4月6・7日の2日間にわたり、御霊宝虫払大法会と共に奉修されることとなった。また、引き続き御代替慶祝登山が、翌8日から14日までの7日間にわたって執り行われる。


御代替奉告法要

御代替奉告法要は、御法主上人猊下の御代替に当たって、御隠尊猊下より御当代御法主上人猊下に、大石寺の重宝(宗祖大聖人御真筆御本尊・御生骨・御灰骨・最初仏・御書・御消息・二祖日興上人以下御歴代御本尊・各種法宝等)を引き渡されるため、改めてその一切を点検し相違ないことを確かめるという、授与の儀式を兼ねて行われるために、古来のしきたりにより御霊宝虫払大法会の佳節に合わせて奉修されている。

4月6日午後1時半からの御代替奉告法要は、古来の伝統に則り、生身の御仏がおわします御影堂において厳粛に執り行われる。このため、御影堂に入場できる信徒数は制限されるが、今回、客殿において大型スクリーンで同時放映を行ってくださり、御霊宝虫払大法会の参列者全員が御代替奉告法要の様子をつぶさに拝することができる。また、本年の御霊宝虫払大法会の登山者数は、例年よりも多く受け入れられるように計画している。

御代替奉告法要は、宗祖日蓮大聖人以来、正しく流れ伝えられてきた御歴代御法主上人猊下の血脈相承の上に執り行われる重大行事であり、私たちがこの御法要並びに慶祝登山に参列できるのは、得難い果報である。

また、第2日目には御生骨内拝が特別に許される。これは御代替の砌と50年に1度の宗祖日蓮大聖人御遠忌法要以外には開封されることはない。この法要に参列した者のみ内拝を許された秘宝である。御開扉に引き続いて奉安堂で行われる内拝は、奉安堂内の正面中央に御生骨が安置され、読経・唱題に続いて御生骨説法を賜る。その後、唱題の中、全参列者が順に席を立ち御生骨の前まで進み、歩きながら拝することとなる。


御代替慶祝登山

大勢の信徒がこの盛儀に臨めるようにとの御宗門の御計らいによって、御代替奉告法要のほかに、御代替慶祝登山として8日から14日までの7日間(9回)にわたってその機会を設けていただいた。この御内拝に臨む我らは、清浄なる心持ちで、信心の上から謹んで拝すべきである。

私たちは、3月に行われる春季総登山会の3万名結集を成し遂げ、続く4月に迎える御代替の盛儀に巡り合える因縁を自らが自覚し、また縁ある人に伝え、支部を挙げて大勢で慶祝の御登山に臨もう。




御法主日如上人猊下御言葉


◎唱題行(1月31日満行)の砌

皆さん、おはようございます。元朝から始まりました1月度の唱題行も、今日をもって最終日となります。第67世日顕上人は、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮・平成11年1月号5ページ)と御指南くだされております。1月の唱題行は本日をもって終了いたしますが、皆様方におかれましては、それぞれの所属寺院あるいは自宅におきまして、唱題をしっかり行っていただきたいと思う次第であります。

さて、法華経の方便品のなかに、「諸仏は五濁の悪世に出(い)でたもう。所謂(いわゆる)刧濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり」(法華経105ページ)と説かれております。

刧濁の「刧」とは、仏法で言いますと時であります。つまり時代ということでありまして、刧濁とは時代が濁るということであり、また今日の如き世相を言うのであります。その次ぎの煩悩濁の「煩悩」というのは色々ありますが、ここではいわゆる貪・瞋・癡・慢・疑、つまり五鈍使と言われる本能的な煩悩の濁りであります。次の衆生濁という「衆生」は我々のことであります。つまり、人間社会が濁ることであります。その次の見濁の「見」と申しますのは、これは見解や思想ということであります。仏法的に言いますと、いわゆる五利使、すなわち身見・辺見・邪見・見取見・戒禁(かいごん)取見の五利使のことで、考え方、思想、見解が濁ってくるということであります。それから命濁の「命」は命でありますから、命が濁ってくる、つまり命が衰えてくる、生命力が衰えてくるということであります。

天台大師はこれにつきまして『文句』という書き物のなかで、五濁の次第は「煩悩」と「見」から始まるとおしゃっているのです。つまり先程も言いましたが、煩悩というのは貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使、見というのは身見・辺見・邪見・見取見・戒禁(かいごん)取見の五利使、つまり思想の誤り、見解の誤り、考え方が狂ってくるということですが、五濁はこの煩悩濁と見濁から始まってくるとおしゃっているのです。そして、この二濁から衆生社会が濁り、さらに命が濁ってきて、時代が濁ってくるのであると、このようにおしゃっておるのであります。

『大智度論』という書き物のなかには、「三毒は一切煩悩の根本たり」という言葉がありますけれども、ずっと考えてきますと結局、五濁の元はこの煩悩濁と見濁、なかんずく根本煩悩と言われる貪・瞋・癡になるのであります。この貪・瞋・癡の三毒というのは、これはただ単に個人を不幸せにするだけでなくして、一国をも、そして世界をも不幸せにしてしまうのであります。

つまり「貪」というのは貪(むさぼ)りであります。「瞋」というのは瞋(いか)りであります。「癡」というのは愚癡(ぐち)、つまり愚(おろ)かなことであり、仏法の正しい道理に狂ってしまうことであります。その結果が今、申し上げましたとおり、個人を滅ぼし、国を滅ぼし、世界を滅ぼす、そういう結果になっていってしまうのであります。

また、この貪・瞋・癡が盛んになりますと、いわゆる「小の三災」が起きると言われております。大聖人様は『曽谷殿御返事』のなかで、「小の三災をこる、ゆはゆる(所謂)飢渇(けかち)・疫病・合戦なり。飢渇は大貪(だいとん)よりをこり、やくびゃう(疫病)はぐち(愚癡)よりをこり、合戦は瞋恚(しんに)よりをこる」(御書1386ページ)と仰せであります。つまり、減刧の時は小の三災が起こる。いわゆる飢渇・疫病・合戦である。飢渇は大貪より起こる、つまり、飢えというものは大きな貪欲から起きる。疫病は愚癡、愚かなことから、また仏法の正しい道理に暗いところから起きる。戦争は瞋恚、瞋りから起こると、このように明確におしゃっておられるのであります。


この貪・瞋・癡の三毒を、私達は妙法の功徳によって三徳に変えていくということが大切であります。それにはただ一つ、大聖人様の仏法による以外にないのであります。煩悩即菩提ということが言われますけれども、まさにそれと同じことになるのであります。つまり煩悩がそのまま菩提になり、一体不二であるいうこと、それは同一真如の顕れであると説くのであります。またさらにこれは法華経の法門の至極であります。

大聖人様は『上野殿尼御前御返事』のなかで、「一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説く。かゝる故に不定(ふじょう)なり。法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。譬へば天月の東の山の端(は)に出づれば、其の時即ち水に影の浮かぶが如く、音とひゞきとの同時なるが如し。故に経に云はく「若し法を聞くこと有らん者は一(ひとり)として成仏せずといふこと無けん」云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。」(御書1574ページ)と、このようにおしゃっておられるのであります。

大聖人様の独一本門の大法たる下種の妙法蓮華経こそ、まさに煩悩即菩提の不思議の妙用(みょうゆう)が具わっているのであります。そこに、我々は至心に妙法を唱えきっていくところの信心の大切さを知らなければならないのであります。

そもそも爾前経や法華経の迹門においては、始成正覚の仏様を前提とします。つまり、まず煩悩を断じて菩提を顕すということを説きます。しかし、大聖人様の仏法はそうではなくして、煩悩即菩提、つまり煩悩の全体を改めずして、まさに二にして即一であるという御法門をお説きあそばされるのであります。これはまさに久遠元初の妙法蓮華経によって初めてかなえられる秘伝であります。そこに我々は、大御本尊様に対し奉り、至心に妙法蓮華経と唱えていく、つまり妙法蓮華経の不思議な境地に私達一人ひとりがしっかりと帰依しきっていくということが大事であります。

皆様方には、この唱題行をしっかりと続けられ、なおかつ、それを単に自分一人だけにとどめずに化他行、つまり折伏を行じて、自行化他にわたる信心をしっかりと行じていっていただきたいと思います。そして、それぞれが3年後の平成21年の「地涌倍増」「大結集」という御命題へ向けてなお一層、前進せられますことを心からお祈りいたしまして、本日の挨拶といたします。


◎2月度広布唱題会の砌

皆さん、おはようございます。2月度の広布唱題会に当たり、皆様方にはこのように多数、参加せられまして、まことに御苦労さまでございます。

再三、申し上げておりますが、本年は「決起の年」であります。「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節まで残り、あと3年となりました。この3年間の闘いというのは、極めて大事な闘いになると思います。

このなかで私達がよく気をつけなければならないことは、御命題である「地涌倍増」と「大結集」。これは何をもって達成するのかということであります。これは言うまでもなく折伏以外にないということであります。

前回、宗旨建立750年の「30万総登山」の時は、言わば結集を中心とした闘いでありました。しかし今回は「地涌倍増」と「大結集」であります。言うならば、折伏と結集の闘いであります。つまり、折伏をしなければ「地涌倍増」は達成できません。したがって、また「大結集」も果たすことができないのであります。この辺のところを我々がしっかりと認識して、これからの3年間を闘いきっていくということが大事であります。この辺を考え違いしてしまいますと、御命題を達成することができなくなってしまいます。

思うに、平成21年の「地涌倍増」と「大結集」を果たすことによって世界は大きく変わると、このように強く確信するものであります。御命題を達成することによって、まず私達自身が変わっていく、私達自身が変われば世間も変わります。そして、それが大きな波動となって必ず世界広布へつながっていくと、このように確信する次第であります。


さて、今日は折伏に関する御書を少し拝読いたしまして、皆様方のこれからの大折伏戦のお役に立てればよろしいかと思いまして、少々拝読いたします。

まず『如説修行抄』のなかには、「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、豈(あに)法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや」(御書673ページ)と、このように仰せであります。

また『曽谷殿御返事』のなかには、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(同1040ページ)と、このように仰せであります。同じく『曽谷殿御返事』には、「謗法を責めずして成仏を願はヾ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(同)と仰せであります。

さらに『十法界明因果抄』のなかには、「樫貪(けんどん)・偸盗(ちゅうとう)等の罪に依って餓鬼道に堕することは世人知り易し。慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能く能く恐るべきか」(同208ページ)と、このように謗法を強く誠められております。

また『妙法比丘尼御返事』には、「仏法の中には仏いましめて云はく、法華経のかたきを見て世をはヾかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(同1262ページ)さらに『南条兵衛七郎殿御書』のなかには、「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(同322ページ)と、このように仰せであります。

さらに『法華初心成仏抄』のなかには、「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同1316ページ)と、このように仰せであります。

さらに『御講聞書』のなかには、「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益有るべき時なり」(同1818ページ)と仰せであります。

私達はこれらの御金言をしっかりと拝し奉り、しかもそれを身口意三業にわたって拝し奉り、この3年間をしっかりと闘いきっていくことが大事ではないかと思います。要は、理屈ではなく行動、つまり「決起の年」でありますから、決意をして行動を起こすことであります。つまり実践であります。ただ考えているだけではなく、各自が折伏を体験することであります。

大聖人様は『一念三千法門』のなかで、「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈(い)えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐(ふところ)に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(同110ページ)と、このように強く誡められております。皆様方には、本年、思う存分に大折伏戦を展開せられ、もって広大無辺なる仏恩に報恩謝徳せられますことを心からお祈りいたしまして、本日の挨拶といたします。




教学用語解説
金剛宝器戒(こんごうほうきかい)


戒とは防非止悪・勧善止悪の義で、戒を持つことによって、身と口と心の非を防いで悪を止め、仏道のあらゆる功徳の元となる最善の戒徳を成就するのです。

こうした仏教中の戒法には、小乗の戒と大乗の戒があり、また大乗の戒には、権大乗の諸経の戒と実大乗の法華経の戒があります。

金剛宝器戒とは、寿量文底本因下種仏法における妙法の御本尊を受持する戒法をいいます。金剛宝器とは、土で作った瓦器(ごき、小乗の戒)や、金銀で作った金銀器(権大乗の戒)に対し、金剛(ダイヤモンド)を磨いて作られた不壊の器のことをいうのです。


小乗の戒は瓦器戒

小乗の戒には、在家の守るべき五戒、八斎(はっさい)戒、沙弥の十戒、比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒などがあります。しかし、それらの小乗の戒は尽形寿(じんぎょうじゅ)といって、その戒の功徳が続くのは今世の身体と寿命のあるうちだけなのです。

これについて伝教大師は『一心金剛戒体秘決』に、「二乗の戒・・・譬へば、瓦器の若(も)し完(まつた)けれども則ち用卑く、若し破れば則ち永く失うが如し」(伝教大師全集1巻486ページ)と述べ、小乗の戒を瓦器、つまり土で作った器が壊れて形を失ったならば永久に用をなさないことに譬えています。

これは小乗の戒を受けるとき、受戒者は一往、戒の功徳を得るのですが、それが及ぶのは今世一生に限るので、一生が尽きれば戒の功徳もそのまま失われるということです。


権大乗の戒は金銀器戒

次に、権大乗の戒とは大乗の菩薩が持つ戒で、梵網(ぼんもう)経に説かれる十重禁(じゅうじゅうきん)戒や四十八軽(きょう)戒等があります。

これについて伝教大師は『一心金剛戒体秘決』に、「菩薩の戒・・・譬へば、金銀を以て器を為るが如し。用ふれば則ち貴く、器を破りて之を用ひざるも而も猶尊きがごとし」(同)と、権大乗の戒を金銀の器に譬えています。つまり、金銀をもって作った器は貴く、たとえ壊れて器の用をなさなくなったとしても、なお金銀としての価値が残るように、菩薩は死んでその身を失っても、その大乗の戒の功徳は失われることがないということです。

しかし、梵網経は権りの大乗経であり、円教という真実の教理の他に方便の諸教が混ざっているために即身成仏の戒の功徳が成就できず、結局、成仏に至らないのです。


法華経の戒は金剛宝器戒

以上の小乗・権大乗に対し、実大乗の法華経には、九界即仏界・仏界即九界の十界互具の成仏が説かれています。したがって、この法華経を信じ持つ者は、いかなる衆生も十界具足の戒の大功徳を成就して即身成仏することができるのです。

この法華経の戒について伝教大師は『一心金剛戒体秘決』に、「如来の宝戒。一(ひとた)び之を受くれば、則ち永劫に失せず。而も大用を十界に施す。譬へば、金剛の利宝と成れば更に破壊せざる」(同)と示されています。

これは金剛すなわちダイヤモンドを磨いて宝器とすれば、何ものにも破壊されることがないように、法華経の戒を受けたならば、将来的にいかなることがあっても、妙法の戒体は失われることがないということです。故に、法華経の戒を「金剛宝器戒」というのです。

釈尊在世、正法、像法の衆生は、久遠において妙法下種の戒体の大功徳を受けていたのです。そこで仏は、熟益・脱益の諸法、つまり方便の爾前権教を四十余年間説いて機根を調え、最後に法華経を説いて真実の戒定慧を開き、過去の戒の功徳を引き出して成仏得脱なさしめたのです。


末法における真実の金剛宝器戒

大聖人は、末法における戒について『教行証御書』に、「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為り。此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし」(御書1109ページ)と仰せられています。

過去に妙法の下種を受けていない末法の衆生にとっては、小乗や権大乗、文上の法華経など、熟益・脱益の諸戒は正しい仏道修行の戒法とはなりません。末法においては、三世諸仏の万行万善万戒の功徳を収めた法華経本門寿量品の肝心、文底下種の妙法蓮華経の戒を持つことによってのみ、即身成仏の本懐を成就できるのです。

すなわち、本門の本尊を信じて唱題に励む受持即持戒の一行こそが末法唯一の戒行となるのです。しかも、一度この文底下種の妙戒を受持すれば、どのようなことがあっても妙法の戒体は破られることがありません。故に、この下種の妙戒こそ、真実の「金剛宝器戒」というのです。

なお、今日の創価学会のように、たとえ文底下種の妙戒を受けたとしても、そこから退転し、また正法を誹謗したならば、その大罪によって必ず地獄に堕ち、無量の時を苦しまなければなりません。しかし、それでも一度受けた下種本因妙の戒体は失われないので、遠い未来、熟脱の化導によってその戒徳を顕し、必ず成仏を遂げることができるのです。

とはいえ、成仏の根幹は下種仏法にあるのですから、堕獄必定の創価学会員をも今生において救済していくことが我々の使命であることを再確認し、近くは「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の御命題達成に向け、いよいよ破邪顕正の大折伏を行じていくことが大切です。



総本山総代 吉野範理氏逝去される
真正院慈範日浄居士、享年78歳


総本山大石寺総代で、塔中・観行坊支部講頭の吉野範里氏には、1月21日午後1時22分、逝去された。享年78歳。

故吉野氏は、昭和3年11月、総本山への功績大なる家に生まれた。観行坊の総代、支部講頭を務めるとともに、平成6年4月より同14年3月までの間、法華講連合会理事及び、富士地方部長を歴任し、平成13年7月に総本山大石寺の総代に就任された。また、宗旨建立750年慶祝記念局委員、同法華講30万総登山推進委員会実行委員なども務められた。

通夜は、1月24日午後6時から、葬儀は25日午前10時半から、富士宮市内の葬祭場で、御法主日如上人猊下の大導師のもと厳粛に奉修された。故人のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。



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