大白法

平成18年3月1日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


back      index      next



御代替奉告法要並びに慶祝登山について
宗門秘宝・御生骨の内拝も許される


昨年12月12日早暁、総本山第67世御法主日顕上人猊下は、日如上人に唯授一人・金口嫡々の血脈を御相承あそばされた。日如上人は、同15日の管長推戴会議を経て日蓮正宗管長に御就任し、同16日の御座替り式をもって、正式に総本山第68世嗣法(しほう)の御法主上人猊下として御登座あそばされた。

来たる4月6日午後1時半から執り行われる奉告法要は、日蓮大聖人・日興上人以来、連綿と伝承されてきた唯授一人の血脈が、日顕上人より日如上人へと御相承された上から、第68世御法主日如上人猊下が一宗を統理される旨を、御影堂の御宝前において仏祖三宝尊に御奉告申し上げる重要な法要であるとともに、宗門内外に公表宣言される儀式である。

この法要は古来、総本山の化儀に基づき、御霊宝虫払大法会の佳節に合わせて奉修されてきた。それは、本門戒壇の大御本尊をはじめ、一切の重宝(宗祖大聖人御真筆御本尊・御生骨・御灰骨・最初仏・御書・御消息・二祖日興上人以下御歴代御本尊・各宝物什器等)が、唯授一人の血脈相承により、日顕上人猊下より日如上人猊下へ引き継がれることを、厳粛な法要儀式の上に表すものである。

また午後6時半からは初転法輪(てんぽうりん)が奉修される。転法輪とは仏の説法の意で、唯授一人の血脈を継承された御法主上人猊下が御影堂の高座に登り、初めて御説法されることを、特に初転法輪と申し上げる。また、初転法輪の後、御影堂で執り行われる御代替慶祝講演会では、総監・八木日照御尊能化の挨拶に続き、教学部長・水島公正御尊師と富士学林長・大村日統御尊能化(前教学部長)の2名の全国布教師が講演される。

翌7日の勤行衆会(丑寅勤行)、御開山御講、御霊宝虫払並びに御真翰巻返しは例年どおり奉修される。

午後2時からは御開扉並びに御生骨内拝が執り行われる。御開扉では大法要恒例の最初仏・御灰骨の御開扉も行われ、最後に御戒壇説法を戴く。また唱題中には、御法主上人猊下が八木総監の介添えで、本門戒壇の大御本尊の御煤払(すすはら)いを厳修される。

御開扉終了後、座を改めてから、御隠尊日顕上人猊下の御唱導により御生骨内拝の儀に入る。御生骨は唱題裡に開封され、御隠尊上人猊下より御法主上人猊下へと御引き継ぎがなされる。読経・唱題に続いて、御隠尊上人猊下より御生骨の御説法を戴き、次いで僧侶・信徒の順に御生骨の内拝が許される。

御法主日如上人猊下の御法要・御霊宝虫払大法会は以上であるが、翌8日から14日までの7日間、国内4万5千名の代表信徒により、御代替慶祝登山が執り行われる。今回の大慶事に際し、法華講員一同、篤い信心に住して登山参詣し、御法主日如上人猊下の御代替を慶祝申し上げるとともに、謹んで御開扉並びに御生骨の内拝に臨みたい。


◎50年に一度の宗祖御遠忌と御代替の砌にのみ許される御生骨内拝

このたびの御代替を慶讃申し上げる一連の法要では、御開扉に引き続き、宗祖日蓮大聖人の御生骨(御肉牙、おにくげ)の内拝が特別に許される。

御生骨は歴代の御法主上人猊下によって厳護されてきた秘宝で、御代替法要の砌と50年に一度奉修される宗祖御遠忌法要以外に開封されることはない。今回の御代替慶讃法要に当たって、御生骨内拝を許されるのは、まさに千載一遇である。私たちは、清浄な信心をもって登山参詣し、謹んで内拝に臨むべきである。




御法主日如上人猊下御言葉
宗祖御誕生会・五重塔のお塔開きの砌


本日は、総本山における宗祖大聖人様の御誕生会に当たりまして、海外信徒を含む多くの方々が御参集・御参詣いたされまして、まことにおめでとうございます。

御承知のとおり、宗祖大聖人様は貞応元(1222)年2月の16日に御誕生あそばされました。

『御義口伝』のなかには、「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」(御書1779ページ)と、このように仰せであります。これは、末法の本未有善・三毒強盛の衆生を教化するには、いわゆる色相荘厳の仏では力及ばず、示同凡夫の仏でなければならないからであります。

実は、大聖人様の末法御出現につきましては、既に釈尊が予言しておられるところでありまして、御承知のとおり、法華経の神力品のなかには、「日月の光明の能(よ)く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」(法華経516ページ)と、このように仰せであります。

この御文につきまして大聖人様御自身、『寂日房御書』のなかにおきまして、「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と此の文の心よくよく案じさせ給へ。『斯人行世間』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり」(御書1393ページ)と、このように仰せになっております。つまり、この法華経の神力品の御文こそ、末法に上行菩薩、すなわち宗祖大聖人様が出現されることを予証せられた御文であります。

もともと、釈尊は末法の弘通について、涌出品で、他土の菩薩が弘教を申し出られたのに対しまして、これを制止せられました。そしてその直後に上行等の地涌の菩薩を召し出だし、そして寿量品を説いたのちに、この神力品において上行等の地涌の菩薩に末法の肝要たる妙法蓮華経を付嘱せられたのであります。つまり「四句の要法」と言われるものがありますが、この妙法蓮華経を四句の要法に括って付嘱をせられたのであります。

このようにして、上行菩薩の再誕として御出現をせられたのでありますが、先程申し上げましたとおり、その御内証のところから拝しますれば、大聖人様は久遠元初の仏様であります。

妙教162号2頁

この件については、総本山第26世日寛上人様が『文底秘沈抄』のなかにおきまして、「若し外用(げゆう)の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄49ページ)と、このように仰せあそばされておるのであります。つまり大聖人様は久遠元初自受用報身如来の再誕にましまして、したがって法華経に現れた上行菩薩は仮りの姿であり、久遠本仏大聖人様が仏法の付嘱の上から、過去に上行菩薩として御出現あそばされたということになるのであります。

したがいまして、大聖人様の所持あそばすところの御法は、いわゆる久遠の本法であります。つまり釈尊より付嘱を受けて大聖人が所持あそばされているところの妙法は、いわゆる法華経の題号としての妙法蓮華経ではありませんで、久遠の本法たる妙法蓮華経の五字にして、三大秘法の随一・本門の御本尊のことであります。故にこの妙法蓮華経の五字は、釈尊をはじめ三世諸仏の成仏得道の根本の法でありまして、三世にわたって一切衆生を救済する根源の法であります。

大聖人様は『高橋入道殿御返事』のなかで、「末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(御書887ページ)と、このように仰せであります。

また『上野殿御返事』のなかには、「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但、南無妙法蓮華経なるべし」(同229ページ)と、このように仰せあそばされております。つまり、今、末法は、釈尊の説かれた文上の法華経では一切衆生の良薬とはならず、まさに久遠元初の御本仏の御出現と、その御本仏がお説きあそばされるところの妙法蓮華経の教法によって、本未有善の衆生の成仏得道は初めてかなえられるということであります。

したがいまして、今日、私達はこの大聖人様の仏法を奉持信行する一員として、大聖人様の御意のままに広宣流布への道を進むべきであります。

特に、今、宗門は3年後に迫った「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節における「地涌倍増」と「大結集」という御命題達成へ向けて、僧俗一致して前進すべき、まことに大事な時を迎えております。それぞれが「地涌倍増」と「大結集」を目指して精進していくことが今、最も肝要であります。< P> 皆様方におかれましては、このことをよく御承知いただきまして、ますます信心強盛に、この御命題達成のためにいよいよ御精進くだされますことを心からお祈りいたしまして、本日の挨拶といたします。




正信会破折
未練がましい世迷い言で仏法を乱す張本人


本年正月号の『正信会報』に、自称正信会の丸岡文乗が「貫首交替に思う」と題する巻頭言を載せた。そのなかで丸岡は、「ついに阿部日顕師は退座し、早瀬日如師が後任貫首となった。社交儀礼上からも先ずは『おめでとうございます』と申し上げておく」などと言っている。

新たに包括法人を設立しようとしている正信会など、所詮は邪教団に過ぎない。その頭目に、たとえ社交儀礼にせよ、「おめでとうございます」と言われる筋合いはない。しかも、身のほど知らずにも、これからの御法主日如上人猊下の動向を、「正信会もじっくりと見定めてかからねばならない」とまで言っている。

いったい何を「見定め」ようというのか…。さては御代替りに乗じて、日蓮正宗に戻れる日が来るとでも思っているのだろうか?そういえば、創価学会でも、日顕上人猊下が退座されれば、総本山大石寺への参詣がかなうと指導していたやにも聞く。同様に正信会も、未練がましい夢を見ているのなら、よほどおめでたい輩どもである。


本末転倒の邪義

さて、丸岡はその巻頭言で、「法義をよく護られ、貫首としての分と役目をよく弁えられて宗・開両祖の御教えと御精神をきっちりと体現し、垂範して下さるお方が出現されれば、そこにこそ宗祖の法灯血脈は連綿と流れ通う」と、勝手な謬義を並べて血脈を定義づける。なんのことはない。自分達の非を棚上げし、自称正信会を肯定する御法主がおられれば、「そこにこそ宗祖の法灯血脈は連綿と流れ通う」と言いたいのである。

結局、彼らは結論ありきで、自分がすべての中心である。仏法によって正邪を判断せず、唯授一人血脈相承も拝信しない。自分達の考えを認めるなら正しい、認めないなら御法主ではないと、勝手な御都合主義で御法主上人を見ているのである。そこには、敬虔な信仰心の片鱗もうかがうことはできない。それはまさに、池田大作を認めないから宗門は間違っているなどと、稚拙な基準を構える創価学会員と瓜二つである。

仏法はそっちのけにして、自分を中心に正邪を計るとは…。これを本末転倒と言わずして、なんと形容すべきであろう。


仏法を乱す張本人

さらに丸岡は、「正信会が阿部師を用いなかったのは・・・私権を恣(ほしいまま)にして宗内を私物化し、信仰を乱し、挙句、貫首本仏論とも言うべき異流儀(※ママ)を立て」たからだと、日顕上人猊下が法主本仏論を説いたと言い張る。この邪推も為やはり創価学会そっくりではないか。

もとより、宗門に法主本仏義は全く無い。しかし、御法主上人が御所持あそばす血脈とは、「日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢(おわ)んぬ」(御書1702ページ)と示されるように、日蓮大聖人御所持の一切の正義である。

この元意の上から、総本山第59世日亨上人は、法華経に示される「仏菩薩」の「仏」について、一往釈尊との文意を示されつつ、「再往末法に於いて義釈を為さば、此仏と云ふも此菩薩と云ふも、共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり」(富要1−117ページ)と明かされる。そしてさらに、「猶一層端的に之を云へば、宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり」(同)と明確に御教示である。

この血脈の元意に気付かず、そこにおのずと具(そな)わる内体と外用等の重々の義を敢えて混同し、宗門に対して「貫首本仏論」などとあらぬ讒言(ざんげん)を加える自称正信会こそ、仏法を乱す張本人である。



back      index      next