大白法

平成18年7月1日号


主な記事

<1〜5面>

<4〜8面>


back      index      next



布教講演 『小事つもりて大事となる』
全国布教師・丸岡雄道御尊師


本日は、日蓮正宗法華講連合会・甲信地方部第13回総会が、甲信布教区宗務支院長の恵光寺御住職・瀬戸義恭御尊師はじめ当布教区全指導教師、並びに法華講連合会・篠田編集部長、甲信地方部・佐野地方部長はじめ、多数の御信徒の御出席のもと、かくも盛大に挙行されまして、まことにおめでたく、まずもって衷心よりお慶び申し上げるものでございます。おめでとうございます。

御案内の通り、4月6日・7日、第67世日顕上人猊下より第68世日如上人猊下への御代替奉告法要が厳修され、さらに8日から16日にわたって御代替慶祝登山が盛大裡に奉修されまして、この栄えある世紀の大法要が恙なく終了した直後とも言うべき本日、ここに第68世日如上人猊下を手続の総師と仰ぎ奉り、宗門が新たなる前進を開始するに当たっての本地方部総会が全国法華講に先駆けて開催されますことは、まことに意義深いことと存ずる次第でございます。

不肖、ただ今御紹介にあずかりました神奈川県川崎市・持経寺の丸岡雄道でございます。このたび、この記念すべき地方部総会に当たり、宗務院よりの命を受けて参上いたしました。お役目柄、本席、少々のお時間を拝借いたしまして、「小事のつもりて大事となる」と題しまして法施を務めさせていただきたく存じます。御一同様には今しばらくの御辛抱、御聴聞のほど、よろしくお願い申し上げます。

御当地と言えば、「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ・・・」あの有名な島崎藤村の千曲川旅情を歌った詩がすぐ浮かんでまいりますが、御当地信濃の生んだ俳人・小林一茶は、「信濃では月と仏とおらがそば」と吟じております。「月」と「おそば」は御当地に軍配が上がるかも知れませんが、仏様は何と言っても我が総本山、駿河・富士大石寺のほうが第一でございます。

第26世日寛上人は、「問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すとせんや。答う、応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て本門の戒壇之れを建立すべきなり・・・日本第一の名山なるが故に」(六巻抄61ページ)と御教示あそばされ、さらに富士山をもって本山と仰ぐべき文理を明かされて、「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり・・・須く根源を訪ぬべし、若し根源に迷う則(とき)んば増上して真証を濫(みだ)さん」(同68ページ)と仰せであります。その根源に迷って成仏の直道から大きく外れて無間地獄への道を進み出したのが第六天の魔王・池田大作率いる創価学会であります。


あきらめず飽くなき精進を

話は変わりますが、先般のワールド・べースボール・クラシック(WBC)で世界の頂点に立った王ジャパンが、世界の野球ファンのみならず多くの人々に感動を与えました。近頃の暗い世相の中に大きい明るい一灯を灯しました。野球が国技で、五輪でも金メダルを3つも獲得している強豪キューバを相手の決勝戦で、日本チームは見事に勝利を収め、WBC初代世界一の栄冠に輝きました。

対アメリカ戦では、飛球のタッチアップでアメリカの審判が疑問の残る判定を下し、日本は敗れました。すでに対韓国戦でも2敗を喫して絶望感が漂う中、アメリカがメキシコに敗れるという、まさに「漁夫の利」を得て、想定外の幸運に、やっと九死に一生を得て甦った日本。目の前が暗くなるようなことがあっても、いつかは光が差し込んでくることがある。逆境にあっても決してあきらめずにいれば、最後には勝利を掴むことができるのだということを、日本チームは身をもって示してくれました。

私共正信の徒は、たとえ如何なる障魔が立ちはだかろうとも、現状に一喜一憂することなく、敢然と破邪顕正の駒を進めていくことが急務であります。

法華経『法師品』に、高原穿鑿(こうげんせんじゃく)の譬えがございます。「譬えば人有って、渇乏して水を須(もと)めんとして、彼の高原に於て、穿鑿して之を求むるに、猶乾ける土を見ては、水尚遠しと知る。功(く)を施すこと已(や)まずして、転(うたた)湿(うるお)える土を見、遂に漸く泥に至りぬれば、其の心決定して、水必ず近しと知らんが如く、菩薩も亦復是の如し」(法華経328ページ)と。

高原を行く人が喉の渇きを癒そうとして砂漠の土を掘っても掘っても乾いた土しか出てこなくて水脈までまだ遠いのだろうかと絶望的な思いに駆られながらも、掘る手を休めずなお一心に掘り下げていくことによって、漸く水分を少し含んだ泥に至り、ああもう水は近いと知って一層掘り下げていく。信心もこれと同じで、現状に迷うことなく飽くなき精進を重ね、実践していくことに伴い、結果が出れば一層弾みがつくのであるとの御教示であります。

この『法師品』の譬えと同じようなことが現実にありました。アメリカの西部で金鉱脈ブームで沸いていたとき、ある人が自分の山を掘っても掘ってもただの土ばかりで、鉱脈はどうもダメらしいとあきらめて、廃品回収業者にただ同然の安値で自分の鉱山を売り払って引き上げていってしまいました。廃品回収業者は、ひょっとするとと思って、買ったその土地をわずか1尺ばかり掘り下げたら、金の鉱脈にぶつかって、大量の金を手にすることができたという話を読んだことがあります。

4月は、企業が新入社員を迎える月ですが、自動車会社でも保険会社でも、新入社員はまず現場を知って一人前というわけで、事務系の者でもセールスの最前線で新規開拓の仕事に取り組んでその適性を試され、腕を磨かされると聞いています。一流大学を出たエリートも販売の現場は教室の中とは違って厳しい戦場です。セールスに訪問してもなかなか思うようにはいかず、途中であきらめて帰って来る人が多いそうです。

通常、第1回の訪問であきらめる人が48%、第2回の訪問であきらめる人が20%、第3回の訪問であきらめる人が7%、第4回の訪問であきらめる人が5%と、4回までの訪問で80%の人があきらめてしまう。それではセールスの新規開拓で成功するには、どれくらい訪問すればよいかと言うと、4〜7回という数字がある。もう1回訪問すればよいのに、先ほどの金脈の話と同じように、そのもう1回がなかなかできないで成果に結びつかないのであるという話であります。

折伏も同じです。あともう1回、これが大切ではないでしょうか。


慈悲を施す仏道修行

しかして、折伏は慈悲を施す仏道修行ですから、相手のことをどこまで真剣に思っているか、これが折伏成就のキーワードであります。

私共は、色心二法一如の存在である。すなわち身と心の両面を具えた私共が、同じく身と心を具有する相手を折伏するのである。したがって、折伏は口先だけ、教学力だけで相手を説得するものではありません。言うなれば、折伏は全人格をもって相手の心の琴線(きんせん)に触れるまで相手のことを憶(おも)い続ける慈悲行でございます。

法華経『寿量品』に、「常懐悲感。心遂醒悟」(同438ページ)とございます。すなわち、「常に悲感を懐いて、心遂に醒悟しぬ」(同)と訓読いたしますが、ここに「悲感」とは、慈・悲・喜・捨の四無量心の一つ、「悲心」につながると考えてもいいでしょう。悲心とは、自分の存在によって周囲の人の苦を除くことでございます。

大聖人様は、一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是日蓮一人の苦なるべし」(御書1771ページ)と仰せでありますから、大聖人様の流類といたしましては、常に相手の異の苦を自分の苦として相手を思いやることが大切であります。法華経『法師品』に説かれる「弘経の三軌」の、「如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是なり」(法華経329ページ)とあるのは、そういうことでございます。

しかして、一切衆生の苦を救ってくださるのは、末法の御本仏日蓮大聖人様だけでございますから、この御本仏様の御仏意に叶う折伏の修行を行ずるところ、必ず御仏意が一切衆生には慈悲となって現れてくるのであります。すなわち、折伏は己が力量でするものではありません。すべて仏様の計らいによって叶うのでございます。仏様の衆生済度のお手伝いをさせていただく仏道修行ですから、どこまでも慈悲の精神に徹して行ずることが大切です。

折伏は、正法の敵・謗法を責めるわけですから、勇猛果敢な振る舞いももちろん、時としては大切ですが、だからと言ってあたかも敵前上陸するような悲壮感を漂わせ、目を吊り上げ、相手を睨みつけ、憎々しげな殺気立った如是相で徒に教学力を披露しても、相手は決して心の扉を開いてはくれません。六識陰妄の凡夫が、六識陰妄の相手を折伏するのです。

『崇峻天皇御書』には、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書1174ページ)と仰せでございます。謗法を憎んでも人を憎むのではなく、互いに心の琴線に触れ合うような振る舞いから、最後は第一義悉檀で破折することが肝要です。大聖人様は、「和らかに又強く、両眼を細めに見、顔貌(かんばせ)に色を調へて閑かに言上すべし」(同1107ページ)と仰せであります。

やはり大聖人様が仰せのように「顔貌に色を調へて閑かに言上す」る、「言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ」(法華経89ページ)の心懸けが大切であります。そのためには、時としては相手の欲するところに従って、「質直にして意柔軟に」(同439ページ)破折を進めていくことも大切です。それは一見、遠回りのような、これが信心と何の関係があるのか、といった世界悉檀から入っていくことも折伏の方途としては極めて心すべきことではないでしょうか。

大聖人様は、「予が法門は四悉檀を心に懸(か)けて申すなれば、強(あなが)ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(御書1222ページ)と、四悉檀の法門を御教示くださっています。


根気よくねばり強く

ここで折伏について私自身、たいへん勉強させていただいた柿沼日明贈上入の御説法を紹介させていただきます。

贈上人は、私が所化時代在勤しました東京都品川・妙光寺の御住職で、日蓮正宗総監を務められ、また全国布教師として多くの名説法を遺された、私の最も尊敬する先達の一人でございますが、贈上人の数多い御法話の中で、今でも座右に置いて、忘れられないものの一つです。以下、本文のまま紹介させていただきます。

ここでひとつ解怠(けたい)謗法ということを打ち破らなければいけないので、折伏を保険の勧誘に例えては失礼でございますが、正法に勧誘するのでございますから、これも一種の勧誘みたいなものでございます。保険と聞いただけで誰でもニコニコする人はおりません。これを絶対に入れるという人がおるんだそうです。保険に入れる日本一の名人がおるという。で誰が行っても入らないと、その人が出かけて行くと必ず入るという。

どういう方法で入れるかと申しますと、先ず第一にその人は、目的の家に参りましても保険の話は最初はしない。一度は何処だって断わります。『今日は主人がおりません』ぐらいのことは何処だって云います。

ひょっと玄関を見ると金魚鉢がおいてある。『ああ立派な金魚ですね、が最近金魚の鉢が掃除してありませんね』『主人が忙しいものですから、掃除してありません』『ああそうでしょ、私も金魚が好きなもんですから、ちょっと掃除させてもらいましょう』で、金魚鉢を掃除する。そうすると、まあなかなか親切な人だということになる。

それを縁としてその後通ってまいりますが、一向に保険の話をしない。なんの話をしているかというと、金魚の話をして、これはこういうふうにやったらいい、ああいうふうにやったらいい、どの餌がいい、いろいろなことを云って、あそこにいいのがあるから今度私が持ってきましょうと一向に保険の勧誘の話をしない。

ところがある日のこと『明日はちょっと用があって参れません』という。『明日はどうして来ないのですか』『やあ実はどうも私も御覧の通り保険の勧誘員になっておりますが、明日から保険の強調週問になりまして、私でもやはり一人や二人ぐらい入れなきゃ困るんで、お宅は嫌いなことはわかっておりますから、まあ他へ参ります。それで明日は来られません』こういったら、主人が『一軒ぐらいなら私が入ってあげようじゃないですか。おい家内、お前も入れ』というようなもので、全部入ってしまった。

これはどういうことかと申しますと、折伏をいたします場合に、俺はなんでも知っておるから、奴をひとつ折伏してやろうというような考え方で参りますというと、失敗するものでございます。やはり慈折と申し、慈悲の心を持って折伏するところに、本当の折伏があるのでございます。云云(大東院全集第1巻)

この話は多くの示唆を含んでいると思います。まず根気よく、ねばり強く行じ続けるということです。それから喋(しゃべ)り上手より聞き上手になって、話の糸口が見つかったら相手の話を存分に聞いてあげる。3日も4日も相手に言うだけ喋らせる。4日くらい喋っていれば、もう大概喋ることがなくなってくる。

さて、それから始める。4日も喋ってもう喋ることがなくなった、そこまでが普通の宗教、これから私が話すところからが本当の宗教、本当の正しい宗旨、その証拠に「正宗」と呼ぶ宗旨は「日蓮正宗」だけです。したがって、正しい宗旨は「日蓮正宗」だけですよと、この話を始めます。相手も3日も4日も聞いてくれたんだから、聞かないとは申しません。義理でも聞いてくれます。さらにまた、一見、信心と関係ない話、信心の大綱から見たら些細なこと、脇道のようであっても決して無駄ではないということです。


誓願貫徹に向け不断の努力・精進を

第68世御法主日如上人猊下は、本年初頭「新年の辞」において、「つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事のつもりて大事となる」(御書1216ページ)との大聖人様の御文を御引用あそばされて、「大事を成すには小事を疎かにしてはなりません」(大日蓮719号)と御指南くださいました。

「愚公、山を移す」という中国の話がございます。

昔、中国に愚公という老人がいました。この人の家の前に大きな山が2つあったので、どこへ出掛けるにも、この山の麓をグルリと遠回りしなければならない。直線距離の何倍にもなる。『実に不便だ。何とかならぬものか…』そこで、90歳になろうとする愚公が、ついに一大決心をしました。家族を集め、『お前たちと力を合わせて、この山を削り取って平らにして、まっすぐな道を造ろうと思うが、どうだ?』と相談を持ちかけました。

最初に口を開いたのは妻である。怪訝(けげん)な顔をして、愚公に不満をぶつけました。『あなた、自分の年を考えてみてください。そんな無茶なことできるわけがないでしょう。第一、山を崩した土や石の捨て場がないじゃないの』妻の猛反対ぐらいで、ぐらつく愚公ではない。父親の凛とした姿に打たれた子供たちが、立ち上がりました。『お母さん、大丈夫だよ。僕たちが精一杯お父さんを助けるから、土や石は海まで運んで捨てればいいさ』かくて愚公は、子供たちを引き連れて作業を開始しました。

山には岩石が多いので、打ち砕くだけでも一苦労だった。土や砕いた石をもっこに載せて、二人一組で担いで遠い海辺まで往復する。片道、何日も歩いてやっと海にたどり着く有様であった。

この余りにも壮大過ぎる計画を聞いて、智叟という長老が見学にやって来て、あざ笑うかのように言いました。『愚公よ、君は何て莫迦なんだ。あんな大きな山の土や石を崩して、もっこ一杯ずつ遠い海に捨てに行って、いつ山を平らにできるというんだ。無駄なことは止めたほうがいいよ』

すると愚公は、深くため息をついて言いました。『あなたの考えは浅はかというもの。たとえ私が死んでも子供が残っている。子供は孫を生む。孫はまた子供を生む。その子はまた子供を持つ…子々孫々と続いて絶えることがない。ところが山は、これ以上高くはならないからね。とすれば、いつの日か必ず平らにできるはずだ』智者を自認する智叟も、さすがにこれには返答のしようがなかったという。

この寓話は、大きな目標に向かう者の心構えを示していると申せましょう(趣意)。(木村耕一著『こころの道』より)

如何なる魔の妨げがあろうとも、悪口・非難があろうとも、甘美な誘惑があろうとも「ここ一番、必ずやり抜くぞ」の固い信念と決意と、そして弛まぬ不断の努力・精進があれば、貫徹する日は必ずやってくるという訓戒であります。

イギリスの歴史家、トーマス・力ーライルは、「すべての大偉業は、最初は不可能事だと言われた」と言っています。目的の大きさに比例して努力・精進しなければならないということは、因果の鉄則であります。目前の小を軽視しては大は得られません。

されば大聖人様は、「一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか」(御書1058ページ)と仰せられ、また、「夫須弥山の始めを尋ぬれば一塵なり。大海の初めは一露なり。一を重ぬれば二となり、二を重ぬれば三、乃至十百千万億阿僧祇の母は唯(ただ)一なるべし」(同965ページ)と仰せでございます。

ここに須弥山という山は、とてつもなく高い山です。ある日、太閤秀吉の御前で大きな歌を詠む競争が行われました。そこで家臣の一人が、「須弥山に腰打ち掛けて眺むれば・雲の海原眼の下にあり」と詠みました。すると他の家臣の一人が「私のほうはもっと大きい歌です」と、「須弥山に掛けたる人を手に取りて・口にすれども喉に触らず」と詠みました。太閤秀吉は大きく頷きながら、我が意を得たりとばかり居並ぶ家臣を見回しました。

すると秀吉の知恵袋である曽呂利新左衛門が、つと手を挙げて「私がもっと大きい歌を進ぜましょう」と、「須弥山に掛けたる人を呑む人を・鼻毛の先で吹き飛ばしけり」と歌いました。これで勝負あり、これより大きい歌を詠む者はなく、新左衛門の勝利が決まったということです。事程左様に仏教宇宙観の中心にそびえる想像を絶する高山も、元を質せば一塵であるということです。

折伏も現在、目前の成果が出ないからといってあきらめてしまっては、地涌倍増は望むべくもない夢物語になってしまいます。一瞬一瞬の命を燃やし、たとえ一言半句なりとも、あるいは一見、無駄足のような小さな一歩でも、信心の歩みを止めることがなければ、それがやがては梵天・帝釈の計らいにより、御仏意を授かって大輪の白蓮華を咲かせるのであります。

日蓮正宗には一人の傍観者もあってはなりません。皆様方一人ひとりが広布という名の、広大にして壮絶なるドラマの主役なのです。そう、この感動のドラマはあなたも主役、君も主役、お宅も私もみんな主役、脇役のいないドラマです。そして、このドラマを成功させるもさせないも、皆様方一人ひとりの主役としての自覚と行動にかかっているのです。

「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」を3年後に控えての本年「決起の年」としての意義の重かつ大なることに今一度思いをいたし、各支部が年初に立てた誓願目標の完徹に向かって決意の臍(ほぞ)を固め、直ちに行動を起こしていただきたく存じます。

最後に、当地方部僧俗御一同様のいよいよの御健勝と御発展をお祈り申し上げまして、本席、私の務めに代えさせていただきます。長時間の御静聴、まことにありがとうございました。



布教講演 『本年の信行の在り方』
全国布教師・村上節道御尊師 


皆さん、こんにちは。本日は北近畿地方部第14回総会が、大勢の方々の参加を得て盛大に開催せられまして、まことにおめでとうございます。私は、ただ今御紹介にあずかりました、埼玉県草加市・宣行寺で御奉公させていただいております村上と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。

「決起の年」も3カ月が瞬く間に過ぎ、春本番の4月を迎えておりますが、皆さん方には、御法主上人猊下の御指南のまま元気一杯、御精進のことと御同慶申し上げます。

そこで、皆さんにお伺いしたいのですが、御命題の「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集」は必ずできると思っている人、手を挙げてみてください。私共の支部でも皆さん方同様、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節における御命題の実現のために、毎月毎月、御報恩御講を中心として唱題に折伏にと元気一杯、楽しく信行させていただいております。そして、本年の信行が3年後を決する大事な年と心得て、精進してまいりたいと決意しております。


「今まで以上の唱題」に決起

年頭には、御法主日如上人猊下より、「決起とは、要は決意して行動を起こすことである」(大白法684号)と御指南を賜っております。それでは何を決起するのか。率直に申し上げれば、折伏と唱題の決起であると思います。折伏は唱題をしなければできません。また、唱題で自行を磨いていかなければ、とても折伏する気力は起こらないと思います。

よって、今まで以上の唱題の決起をしていただきたいのです。「今年は15分やるぞ」「自分は去年まで1時間できたから、今年は1時間30分に増やそう」「いやいや2時間に増やそう」と決意することです。このように唱題の決起をされている人は、具体的に実践されている人だと思います。

これは折伏も同様であります。家族の中に未入信の方がいるならば、まずは内得信仰をさせましょう。また、創価学会や正信会などの邪教団に縁のある方がいるならば、その人をお寺に連れて来て御住職に折伏していただこうと、決起していただきたいと思います。

そこで大切なことは、御法主上人猊下の御指南に信伏随従する信行であります。これこそ本門戒壇の大御本尊様を根本に、時の御法主上人猊下の御指南を心肝に染め、それぞれが罪障消滅して功徳の花を咲かせ、成仏の境界を表す姿ではないでしょうか。

まさに唱題と折伏の決起をした人は、どこから見ても身体全体に喜びが溢れ、行動も機敏になり、そして言うことも重厚となって、品位が備わってまいります。


生涯にわたる信心しっかりと決意

まず大前提として、基本的・恒常的な信心の在り方が大切となってまいります。それは正しい信心を生涯貫いていくことです。そのことを、しっかり肝に銘じていかなくてはなりません。そこから外れると、いろいろと疑いや迷いを生じ、誤っていってしまうのであります。やはり、仏様を信じ法を信ずると同時に、自分自身を信ずることが大切です。中には、仏法を信じていても自分自身のことが判らなくなってしまう人がいますが、これは障魔による迷いでありまして、そこからさらに疑いの心を生じ、法に背いて、結果として道を踏み外すことになるのです。

私共は、縁あって信心をさせていただいています。それも深い因縁があって、大聖人様の尊い弟子檀那の立場にあるのです。ですから、決して一時の気の迷いによって信心の道から外れてはならないのです。生涯にわたって、しっかりと信心を全うしていく。この気持ちをはっきりしていくことで、自ずと人を導く徳が生まれ、大聖人様より賞賛されるのです。

しかして今、折伏を進める中においては、世間には、様々な角度から狂った考えを持ち、修羅の形相(ぎょうそう)を露呈している人がいます。これは正しい団結をもっての広布が着実に進んでいることの証左であり、そのような時に、ますます盛んになってくるのです。講中においても、本当の活力を持った講中であればあるほど、内在していた誤った考えを持つ人が、自ら飛び出していくものです。ですから、何があろうといささかも慌(あわ)てることなく、恐れることなく、着実に前進していくことが大切です。

そして、常に王道を進んでいくことです。今、必要なことは、生涯にわたって信心を貫いていくと同時に、一人ひとりが立派な人材になっていくことです。この一念こそが、すべての解決の糸口となっていくのです。


真の異体同心とは

そして、真の異体同心を図っていくことであります。何事をするにも団結していかなければならない、このことは理屈では皆、判っています。ところが、目的の違う者、価値観の違う者、体質の違う者は、決して団結はできません。そこに、一人ひとりが大聖人様が仰せの異体同心を図っていくことです。それは取りも直さず、各支部の講頭はじめ、講員一人ひとりが大聖人様の仰せの信心をしていくということです。

具体的には、勤行・唱題し、折伏を行じていく上から、異体同心が確立してくるのです。それを、勤行はするが折伏はしない、また勤行もしなければ折伏もしない等の人がいたとするならば、決して異体同心はできません。大聖人様が仰せの信心とは、異質のものであるが故です。

大聖人様は、法華経の文を引かれて、「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復(またまた)是(か)くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」(御書601ページ等)と仰せられています。すなわち、大聖人様の信心をしている者が最第一でありますが、このことを信じられない故に、異体同心になっていかないのです。それを忘れて、一人ひとりが社会的な名誉や経済力、はたまた地位等を一番と捉えているところに、一向に進んでいかないのです。信心していても、そのようなことばかり考えているようでは、異体同心にはなれないのです。

また、大聖人様は、「忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀(そし)るべからざるか」(同1047ページ)と仰せです。ですから、たとえ今、思うに任せない人がいたとしても、正宗に籍を置いて信行に励んでいる人は尊敬していくことが大事なのです。

そして、中には、「徐々に信心していく」という人がいます。この「徐々に」は大聖人様の因果倶時の仏法とは違うのです。私共は、仏様の持つ仏力・法力と自分の信力と行力を一緒に考えてしまい、絶えず自分のほうで大御本尊様の功徳を計ってしまうのですが、私共凡夫がいくら頭をひねっても、判るものではないのです。私共は、大御本尊様を固く信じ、折伏をしていくことによって、よくなっていくのです。

大聖人様は、「是にのるべき者は日蓮が弟子檀那等なり。能く能く信じさせ給へ」(同1556ページ)と仰せです。御本尊様のみ信じた人が、初めて体質が改まり、偏見もなくなっていくのです。そして経済力とか地位や名誉等と功徳の違いが判ってくるのです。よって、大聖人様が仰せの信心を進めていくと、現証が伴ってきて、自ずと誓願も完遂していくのです。

大聖人様は、最初から「このことをしていきなさい」と示されています。ですから、『信』が最初から要求されるのです。


信心を鍛える

そこに3年後を見据えて、一人ひとりが強盛な信心になっていくには、鍛えていくことです。大聖人様は、「鍛はぬ金は、さかんなる火に入るれば疾くとけ候。氷を湯に入るヽが如し。剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。是きたへる故なり」(同1179ページ)と仰せられています。すなわち、鍛えていない金属は、高温の火の中に入れたとき、すぐに溶けてしまいます。あたかも氷をお湯の中に入れた時のようです。しかし、刀などは少々の熱さの火の中に入れても、しばらくは溶けないものです。これは鍛えてあるが故です。

これは私共信仰者にも同じことが言えるのです。唯一最高の御本尊様を戴いているからといって、様々な鍛錬を得ていない人々は、簡単に魔に信心を打ち破られてしまいます。この鍛錬とは、まず日々の勤行を根本に教学を研鑽(けんさん)し、支部の活動や寺院の行事に積極的に参加することです。その中において、自分の信心が鍛えられていくのです。

ところが、そのようなことはあれこれ煩わしいと思って、独り信心を決めつけている人、あるいは、自分と御本尊様だけだと言って自由気ままにし、それで信心をしているつもりの人もいます。しかし、そのような迷いの自分自身に打ち勝ってこそ、信心の鍛錬があります。

大聖人様の仏法は、正法であるが故に、「本物の信心」に近づいてきたときに、必ずいろいろな障魔が現れてきます。ですから、大聖人様は、ありとあらゆる機会を捉えて、弟子や信徒に、先々の用心のために、きつく言い含めておられます。しかし、その誡めを心中深く染め抜かぬ人は、いざという時に慌てふためいて、ついには退転してしまうのです。それ故、私共は日々の信心活動を決して疎(おろそ)かにすることなく、真剣に行じていかなくてはなりません。

創価学会から脱会して講中に入ってくる人、また新しく他宗より入信してくる人たちは、ただ入講したり、組織を変えただけでは意味がないのです。大聖人様以来700年の信心を、一から学んでこそ意義があるのです。もし、今までの考えを持ち込んで、それをどうしても通そうとすると、軋轢(あつれき)が生じてきます。やはり大聖人様の信心は一人ひとりの発心(ほっしん)を主体として、我を抑えて、新しい清らかな水に自分から馴れていくよう鍛えていくのです。それによって、真の「異体同心」が築かれていくのです。

大事な今後3年間を、共々に御法主上人猊下の御指南のまま、自行化他の信心に立ち上がっていけると確信するものであります。


愚癡の信心を誡めよ

また次に、日常の活動において注意しなければならないことの一つに、愚癡を言わないということがあります。愚癡の生命にならないことです。そんなことは当たり前であると思っている人がいますが、我が正宗においては、当たり前のことを当たり前に、着実に行っていくことが大切です。また、これは簡単なようで難しいことなのです。

そもそも愚癡の意味は、仏教では愚かで因果に暗いことを指します。では、愚癡はどのような形で現れるのでしょう。自分自身の過大評価も過小評価も、はたまた責任のなさや責任のなすり合い等、これらはすべて愚癡であります。あるいは虚栄や讒言(ざんげん)等も愚癡であります。総じて言えば、仏様不信の言動は、ことごとく愚癡であります。このことは、日常生活における実際の問題であります。

語って益なき不平不満はやめて、朝夕の勤行と折伏に励み、もって人をも動かす信心が大事です。やるせない不平不満を言ったところで、ますます我が命を濁すだけです。そればかりか、家庭も講中も、信心から堕としてしまうことになるのです。私共は、あくまでも地涌の菩薩の一分です。題目を唱え、そして折伏を行じているところ、内なる不平不満も、求めずして解決していくのです。故に「百害あって一利なし」の愚癡をやめて、大いに正しい信心修行に精進していくことであります。


逃げ出さない信心

次に、信心を鍛えていくには、逃げ出さないことが大切であります。中には、自分の思うに任せないと、すぐに逃げ出してしまう人がいます。こういう人は、自分の不信心を棚に上げて、あれこれ批判するのです。やりもしないうちから結論を出してしまうこの命が、最もいけないのです。

いろいろ原因が考えられますが、こういう人たちに共通していることは、仏様を軽く捉え、信心に対して不真面目であるということです。そのため、いつも楽をすることに頭を巡らしています。途中で逃げ出さない人は、闘志が漲(みなぎ)って、どんどん御題目も上がり、真面目に信行に励んでいけます。そこに、どんどん環境も良くなっていき、大聖人様が手を差し延べられ、護られていくのです。仏様を固く信じている人は、最後まで逃げ出さないでやりきっていけるのです。


実現への方途とはやり抜く決意

余談になりますが、至らない自らの体験をお話させていただきます。平成3年に宣行寺支部は、68世帯で結成させていただきました。そして、前御法主日顕上人猊下の御認可をいただいて結成式が行われました。その結成式の時に、柳沢総講頭に祝辞をいただいたのです。その中には、「立ち上がったら3年間で300世帯になっていきなさい」とありました。

私は、すごいことを言う人だなと思いました。やっと68世帯で結成となったのに3年間で300世帯と言われ、初めはとても無理だと思ったのです。しかし、その確信に満ち、慈悲に溢れた話を聞いて、もしかしたらできるかも知れないなと、心境が変化したのです。

平成3年から平成6年の地涌六万大総会まで3年あるが、では、どうしたらできるのかと悩み続けました。そして、悩んでも解決できないのだと判りました。それからは、どうしたらできるのかと考えるようになったのです。「できる」というところから立ち返って、今、何をすればよいのかを工夫しました。「できないのでは」と思うから逃げるのです。立ち上がって3年間で300世帯になっていきなさいとの激励に、「これでできるんだな」と思ったとき、できるというところから、自分は何をすればよいのかと考え、逃げ出さなくなったのです。

それからは、必死の唱題をしていきました。そうしますと、ある月には3世帯、ある月には5世帯と、だんだん折伏ができてくるのです。とても自分には考えられない、今はやりの言葉で言いますと「想定外」です。自分では考えられないことが起きてしまったのです。これぐらいすれば、これぐらいの利益があるなというように、すべて想定内の信心をさせていただいていたのでありますが、そのときは想定外でありました。思いもよらない功徳を戴き、平成3年に50世帯、平成4年に100世帯、平成5年に200世帯と折伏を成就させていただき、気がついてみると400世帯以上になっていました。3年間で、何と結成時の6倍強の増加であります。

さて、話を戻します。繰り返しになりますが、信行においても仕事においても、真面目に取り組んでいくことが大切です。途中で逃げ出す人は、大聖人様を信じないで、今までの邪教のままの自分を中心にしているのです。自分の考えで進めているのです。そのために、やりもしないうちから諦(あきら)めてしまい、必ずと言っていいほど途中で逃げ出していくのです。あくまでも不真面目な根性で、一向に努力していない。このようなことをしょっちゅう繰り返していると、人も遠ざかり果報も尽きてしまいます。また、その信心で結構平気でいるけれども、それは絶対に大聖人様の信心ではないのです。

さらに、不真面目な人は他人の話を素直に聞こうとしないのです。耳障(みみざわ)りな話は聞き流し、笑ってごまかす等の人は、今までその人の周りに、信行に対してやかましく言う人がいなかったために、自分からいつも逃げ出していたのです。大聖人様の信心は、そのことをやかましく言っていくのが慈悲であります。

途中で逃げ出す癖で最後まで行ってしまうと、一つも今生の思い出はないのです。このような人は往々にして、行き着く先は、にっちもさっちも行かなくなってしまいます。また、世間体ばかり気にして世間の目を恐れ、仏様の真実の御眼を忘れているのです。これこそ仏様を蔑(ないがし)ろにし、愚弄(ぐろう)していることになるのです。

それを最初、ちょっとやってみて自分の思うようにいかなかったら、途中で逃げ出す。また、何となく信心しているようなことは言うが、一向に進んでいけない。これでは、大聖人様を固く信じているとは言えません。仏様を固く信じ、途中で逃げ出さない信心、体当たりでぶつかっていく気概で進むところに、祈りは叶っていくのです。故に、不真面目な根性を打ち払い、途中で逃げ出さない信行を培っていくことが大切であります。


強い誓願に導かれ誓願は成就する

そして、最も大切なことは、誓願を強く持つことであります。自らの誓願を、仏様に朝夕誓い、持ち続けるのです。強く祈って片時も忘れない人は、明るくどんどん進んでいく人です。逆に、暗く滅入(めい)っている人は、誓願を持っていない人、仏様に御祈念していない人です。何となく勤行したり、気が向いた時だけ題目をあげている人です。そういう人の行動を見ていると、一時はやっているが、決して続けていけないのです。いつも愚癡と批判が渦巻いているのです。何年やっていても変わり映えしないばかりか、後退していくのみです。

その解決は、やはり各講中にあっては、一にも二にも講頭以下幹部の信行にかかっているのです。このことが本当に信解できていくと、全体的にもっと明るくなって、活気のある講中活動となっていくのです。そこに「平成21年までに倍増を果たしていくぞ」との気概と団結でがんばって、どんどん好転していくのです。

私共は、大聖人様の信行をさせていただいている確信と喜びを持って一生懸命、信行に励むと心に決めて、毎日励んでいくのです。そこに、仏様から御覧になられて、「何とかその誓願を叶えさせてあげたい」と、手を差し延べられるのです。誓願に向かっての信行は、実は誓願に導かれて叶っていくのです。したがって、誓願を強く持って祈り、誓願に向かっていく信行が大事であります。

しかし中には、この誓願は自分が立てたのだから自分でやるのだという人がいます。これは実は間違いです。仏様がきちんと導いてくださるのです。ですから、大聖人様が仰せの信心中心の生活をしているのであれば、誓願は達成されていくのです。基盤作りの本年「決起の年」に、今までの考え方や生活をきちんと改めていくことが大事です。


仏に成る信心

私共は結局、誰もがいつか亡くなっていくのでありますが、今生に生まれてきた意味を、ある人は、時間が欲しくて生まれてきたと言い、またある人は、自由に使える金銭を持つために生まれてきたと言う。

しかし、そうではないはずです。私たちは、生死を繰り返す中で、ただ仏に成るために生まれて来ているのです。仏様のお使いをするために、迷わず晴れ晴れと清々しく生きるために、それぞれの一生があるのです。そして仏に成るためには、「一心欲見仏・不自惜身命」の信心以外にはない。その気構え、信心が大事であります。それを、今生における時間を、自分の小さな考えで公私に分けたり、漠然といたずらに過ごしてしまったならば、いつ「仏に成るところの信心をする」のでしょうか。

ならば、充実した歓喜に満ちた信心とは、「誓願を強く持つ」、そして「誓願に向かって信行に精進していく」ことです。本年の大事な意義を深く捉え、一人ひとりが今までの生活を改め、大聖人様が仰せの信心中心の生活にきちんと切り替えていくならば、3年あれば「地涌倍増」と「大結集」の御命題は必ず成就させていただけると確信して、本日の総会を機に、力強く折伏を進めてまいろうではありませんか。

皆様方のいよいよの御精進と御多幸をお祈りいたしまして、布教講演とさせていただきます。長時間、御静聴ありがとうございました。



back      index      next