<4〜8面>
御案内の通り、4月6日・7日、第67世日顕上人猊下より第68世日如上人猊下への御代替奉告法要が厳修され、さらに8日から16日にわたって御代替慶祝登山が盛大裡に奉修されまして、この栄えある世紀の大法要が恙なく終了した直後とも言うべき本日、ここに第68世日如上人猊下を手続の総師と仰ぎ奉り、宗門が新たなる前進を開始するに当たっての本地方部総会が全国法華講に先駆けて開催されますことは、まことに意義深いことと存ずる次第でございます。
不肖、ただ今御紹介にあずかりました神奈川県川崎市・持経寺の丸岡雄道でございます。このたび、この記念すべき地方部総会に当たり、宗務院よりの命を受けて参上いたしました。お役目柄、本席、少々のお時間を拝借いたしまして、「小事のつもりて大事となる」と題しまして法施を務めさせていただきたく存じます。御一同様には今しばらくの御辛抱、御聴聞のほど、よろしくお願い申し上げます。
御当地と言えば、「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ・・・」あの有名な島崎藤村の千曲川旅情を歌った詩がすぐ浮かんでまいりますが、御当地信濃の生んだ俳人・小林一茶は、「信濃では月と仏とおらがそば」と吟じております。「月」と「おそば」は御当地に軍配が上がるかも知れませんが、仏様は何と言っても我が総本山、駿河・富士大石寺のほうが第一でございます。
第26世日寛上人は、「問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すとせんや。答う、応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て本門の戒壇之れを建立すべきなり・・・日本第一の名山なるが故に」(六巻抄61ページ)と御教示あそばされ、さらに富士山をもって本山と仰ぐべき文理を明かされて、「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり・・・須く根源を訪ぬべし、若し根源に迷う則(とき)んば増上して真証を濫(みだ)さん」(同68ページ)と仰せであります。その根源に迷って成仏の直道から大きく外れて無間地獄への道を進み出したのが第六天の魔王・池田大作率いる創価学会であります。
話は変わりますが、先般のワールド・べースボール・クラシック(WBC)で世界の頂点に立った王ジャパンが、世界の野球ファンのみならず多くの人々に感動を与えました。近頃の暗い世相の中に大きい明るい一灯を灯しました。野球が国技で、五輪でも金メダルを3つも獲得している強豪キューバを相手の決勝戦で、日本チームは見事に勝利を収め、WBC初代世界一の栄冠に輝きました。
対アメリカ戦では、飛球のタッチアップでアメリカの審判が疑問の残る判定を下し、日本は敗れました。すでに対韓国戦でも2敗を喫して絶望感が漂う中、アメリカがメキシコに敗れるという、まさに「漁夫の利」を得て、想定外の幸運に、やっと九死に一生を得て甦った日本。目の前が暗くなるようなことがあっても、いつかは光が差し込んでくることがある。逆境にあっても決してあきらめずにいれば、最後には勝利を掴むことができるのだということを、日本チームは身をもって示してくれました。
私共正信の徒は、たとえ如何なる障魔が立ちはだかろうとも、現状に一喜一憂することなく、敢然と破邪顕正の駒を進めていくことが急務であります。
法華経『法師品』に、高原穿鑿(こうげんせんじゃく)の譬えがございます。「譬えば人有って、渇乏して水を須(もと)めんとして、彼の高原に於て、穿鑿して之を求むるに、猶乾ける土を見ては、水尚遠しと知る。功(く)を施すこと已(や)まずして、転(うたた)湿(うるお)える土を見、遂に漸く泥に至りぬれば、其の心決定して、水必ず近しと知らんが如く、菩薩も亦復是の如し」(法華経328ページ)と。
高原を行く人が喉の渇きを癒そうとして砂漠の土を掘っても掘っても乾いた土しか出てこなくて水脈までまだ遠いのだろうかと絶望的な思いに駆られながらも、掘る手を休めずなお一心に掘り下げていくことによって、漸く水分を少し含んだ泥に至り、ああもう水は近いと知って一層掘り下げていく。信心もこれと同じで、現状に迷うことなく飽くなき精進を重ね、実践していくことに伴い、結果が出れば一層弾みがつくのであるとの御教示であります。
この『法師品』の譬えと同じようなことが現実にありました。アメリカの西部で金鉱脈ブームで沸いていたとき、ある人が自分の山を掘っても掘ってもただの土ばかりで、鉱脈はどうもダメらしいとあきらめて、廃品回収業者にただ同然の安値で自分の鉱山を売り払って引き上げていってしまいました。廃品回収業者は、ひょっとするとと思って、買ったその土地をわずか1尺ばかり掘り下げたら、金の鉱脈にぶつかって、大量の金を手にすることができたという話を読んだことがあります。
4月は、企業が新入社員を迎える月ですが、自動車会社でも保険会社でも、新入社員はまず現場を知って一人前というわけで、事務系の者でもセールスの最前線で新規開拓の仕事に取り組んでその適性を試され、腕を磨かされると聞いています。一流大学を出たエリートも販売の現場は教室の中とは違って厳しい戦場です。セールスに訪問してもなかなか思うようにはいかず、途中であきらめて帰って来る人が多いそうです。
通常、第1回の訪問であきらめる人が48%、第2回の訪問であきらめる人が20%、第3回の訪問であきらめる人が7%、第4回の訪問であきらめる人が5%と、4回までの訪問で80%の人があきらめてしまう。それではセールスの新規開拓で成功するには、どれくらい訪問すればよいかと言うと、4〜7回という数字がある。もう1回訪問すればよいのに、先ほどの金脈の話と同じように、そのもう1回がなかなかできないで成果に結びつかないのであるという話であります。
折伏も同じです。あともう1回、これが大切ではないでしょうか。
しかして、折伏は慈悲を施す仏道修行ですから、相手のことをどこまで真剣に思っているか、これが折伏成就のキーワードであります。
私共は、色心二法一如の存在である。すなわち身と心の両面を具えた私共が、同じく身と心を具有する相手を折伏するのである。したがって、折伏は口先だけ、教学力だけで相手を説得するものではありません。言うなれば、折伏は全人格をもって相手の心の琴線(きんせん)に触れるまで相手のことを憶(おも)い続ける慈悲行でございます。
法華経『寿量品』に、「常懐悲感。心遂醒悟」(同438ページ)とございます。すなわち、「常に悲感を懐いて、心遂に醒悟しぬ」(同)と訓読いたしますが、ここに「悲感」とは、慈・悲・喜・捨の四無量心の一つ、「悲心」につながると考えてもいいでしょう。悲心とは、自分の存在によって周囲の人の苦を除くことでございます。
大聖人様は、一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是日蓮一人の苦なるべし」(御書1771ページ)と仰せでありますから、大聖人様の流類といたしましては、常に相手の異の苦を自分の苦として相手を思いやることが大切であります。法華経『法師品』に説かれる「弘経の三軌」の、「如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是なり」(法華経329ページ)とあるのは、そういうことでございます。
しかして、一切衆生の苦を救ってくださるのは、末法の御本仏日蓮大聖人様だけでございますから、この御本仏様の御仏意に叶う折伏の修行を行ずるところ、必ず御仏意が一切衆生には慈悲となって現れてくるのであります。すなわち、折伏は己が力量でするものではありません。すべて仏様の計らいによって叶うのでございます。仏様の衆生済度のお手伝いをさせていただく仏道修行ですから、どこまでも慈悲の精神に徹して行ずることが大切です。
折伏は、正法の敵・謗法を責めるわけですから、勇猛果敢な振る舞いももちろん、時としては大切ですが、だからと言ってあたかも敵前上陸するような悲壮感を漂わせ、目を吊り上げ、相手を睨みつけ、憎々しげな殺気立った如是相で徒に教学力を披露しても、相手は決して心の扉を開いてはくれません。六識陰妄の凡夫が、六識陰妄の相手を折伏するのです。
『崇峻天皇御書』には、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書1174ページ)と仰せでございます。謗法を憎んでも人を憎むのではなく、互いに心の琴線に触れ合うような振る舞いから、最後は第一義悉檀で破折することが肝要です。大聖人様は、「和らかに又強く、両眼を細めに見、顔貌(かんばせ)に色を調へて閑かに言上すべし」(同1107ページ)と仰せであります。
やはり大聖人様が仰せのように「顔貌に色を調へて閑かに言上す」る、「言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ」(法華経89ページ)の心懸けが大切であります。そのためには、時としては相手の欲するところに従って、「質直にして意柔軟に」(同439ページ)破折を進めていくことも大切です。それは一見、遠回りのような、これが信心と何の関係があるのか、といった世界悉檀から入っていくことも折伏の方途としては極めて心すべきことではないでしょうか。
大聖人様は、「予が法門は四悉檀を心に懸(か)けて申すなれば、強(あなが)ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(御書1222ページ)と、四悉檀の法門を御教示くださっています。
ここで折伏について私自身、たいへん勉強させていただいた柿沼日明贈上入の御説法を紹介させていただきます。
贈上人は、私が所化時代在勤しました東京都品川・妙光寺の御住職で、日蓮正宗総監を務められ、また全国布教師として多くの名説法を遺された、私の最も尊敬する先達の一人でございますが、贈上人の数多い御法話の中で、今でも座右に置いて、忘れられないものの一つです。以下、本文のまま紹介させていただきます。
どういう方法で入れるかと申しますと、先ず第一にその人は、目的の家に参りましても保険の話は最初はしない。一度は何処だって断わります。『今日は主人がおりません』ぐらいのことは何処だって云います。
ひょっと玄関を見ると金魚鉢がおいてある。『ああ立派な金魚ですね、が最近金魚の鉢が掃除してありませんね』『主人が忙しいものですから、掃除してありません』『ああそうでしょ、私も金魚が好きなもんですから、ちょっと掃除させてもらいましょう』で、金魚鉢を掃除する。そうすると、まあなかなか親切な人だということになる。
それを縁としてその後通ってまいりますが、一向に保険の話をしない。なんの話をしているかというと、金魚の話をして、これはこういうふうにやったらいい、ああいうふうにやったらいい、どの餌がいい、いろいろなことを云って、あそこにいいのがあるから今度私が持ってきましょうと一向に保険の勧誘の話をしない。
ところがある日のこと『明日はちょっと用があって参れません』という。『明日はどうして来ないのですか』『やあ実はどうも私も御覧の通り保険の勧誘員になっておりますが、明日から保険の強調週問になりまして、私でもやはり一人や二人ぐらい入れなきゃ困るんで、お宅は嫌いなことはわかっておりますから、まあ他へ参ります。それで明日は来られません』こういったら、主人が『一軒ぐらいなら私が入ってあげようじゃないですか。おい家内、お前も入れ』というようなもので、全部入ってしまった。
これはどういうことかと申しますと、折伏をいたします場合に、俺はなんでも知っておるから、奴をひとつ折伏してやろうというような考え方で参りますというと、失敗するものでございます。やはり慈折と申し、慈悲の心を持って折伏するところに、本当の折伏があるのでございます。云云(大東院全集第1巻)
この話は多くの示唆を含んでいると思います。まず根気よく、ねばり強く行じ続けるということです。それから喋(しゃべ)り上手より聞き上手になって、話の糸口が見つかったら相手の話を存分に聞いてあげる。3日も4日も相手に言うだけ喋らせる。4日くらい喋っていれば、もう大概喋ることがなくなってくる。
さて、それから始める。4日も喋ってもう喋ることがなくなった、そこまでが普通の宗教、これから私が話すところからが本当の宗教、本当の正しい宗旨、その証拠に「正宗」と呼ぶ宗旨は「日蓮正宗」だけです。したがって、正しい宗旨は「日蓮正宗」だけですよと、この話を始めます。相手も3日も4日も聞いてくれたんだから、聞かないとは申しません。義理でも聞いてくれます。さらにまた、一見、信心と関係ない話、信心の大綱から見たら些細なこと、脇道のようであっても決して無駄ではないということです。
第68世御法主日如上人猊下は、本年初頭「新年の辞」において、「つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事のつもりて大事となる」(御書1216ページ)との大聖人様の御文を御引用あそばされて、「大事を成すには小事を疎かにしてはなりません」(大日蓮719号)と御指南くださいました。
「愚公、山を移す」という中国の話がございます。
最初に口を開いたのは妻である。怪訝(けげん)な顔をして、愚公に不満をぶつけました。『あなた、自分の年を考えてみてください。そんな無茶なことできるわけがないでしょう。第一、山を崩した土や石の捨て場がないじゃないの』妻の猛反対ぐらいで、ぐらつく愚公ではない。父親の凛とした姿に打たれた子供たちが、立ち上がりました。『お母さん、大丈夫だよ。僕たちが精一杯お父さんを助けるから、土や石は海まで運んで捨てればいいさ』かくて愚公は、子供たちを引き連れて作業を開始しました。
山には岩石が多いので、打ち砕くだけでも一苦労だった。土や砕いた石をもっこに載せて、二人一組で担いで遠い海辺まで往復する。片道、何日も歩いてやっと海にたどり着く有様であった。
この余りにも壮大過ぎる計画を聞いて、智叟という長老が見学にやって来て、あざ笑うかのように言いました。『愚公よ、君は何て莫迦なんだ。あんな大きな山の土や石を崩して、もっこ一杯ずつ遠い海に捨てに行って、いつ山を平らにできるというんだ。無駄なことは止めたほうがいいよ』
すると愚公は、深くため息をついて言いました。『あなたの考えは浅はかというもの。たとえ私が死んでも子供が残っている。子供は孫を生む。孫はまた子供を生む。その子はまた子供を持つ…子々孫々と続いて絶えることがない。ところが山は、これ以上高くはならないからね。とすれば、いつの日か必ず平らにできるはずだ』智者を自認する智叟も、さすがにこれには返答のしようがなかったという。
この寓話は、大きな目標に向かう者の心構えを示していると申せましょう(趣意)。(木村耕一著『こころの道』より)
如何なる魔の妨げがあろうとも、悪口・非難があろうとも、甘美な誘惑があろうとも「ここ一番、必ずやり抜くぞ」の固い信念と決意と、そして弛まぬ不断の努力・精進があれば、貫徹する日は必ずやってくるという訓戒であります。
イギリスの歴史家、トーマス・力ーライルは、「すべての大偉業は、最初は不可能事だと言われた」と言っています。目的の大きさに比例して努力・精進しなければならないということは、因果の鉄則であります。目前の小を軽視しては大は得られません。
されば大聖人様は、「一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか」(御書1058ページ)と仰せられ、また、「夫須弥山の始めを尋ぬれば一塵なり。大海の初めは一露なり。一を重ぬれば二となり、二を重ぬれば三、乃至十百千万億阿僧祇の母は唯(ただ)一なるべし」(同965ページ)と仰せでございます。
ここに須弥山という山は、とてつもなく高い山です。ある日、太閤秀吉の御前で大きな歌を詠む競争が行われました。そこで家臣の一人が、「須弥山に腰打ち掛けて眺むれば・雲の海原眼の下にあり」と詠みました。すると他の家臣の一人が「私のほうはもっと大きい歌です」と、「須弥山に掛けたる人を手に取りて・口にすれども喉に触らず」と詠みました。太閤秀吉は大きく頷きながら、我が意を得たりとばかり居並ぶ家臣を見回しました。
すると秀吉の知恵袋である曽呂利新左衛門が、つと手を挙げて「私がもっと大きい歌を進ぜましょう」と、「須弥山に掛けたる人を呑む人を・鼻毛の先で吹き飛ばしけり」と歌いました。これで勝負あり、これより大きい歌を詠む者はなく、新左衛門の勝利が決まったということです。事程左様に仏教宇宙観の中心にそびえる想像を絶する高山も、元を質せば一塵であるということです。
折伏も現在、目前の成果が出ないからといってあきらめてしまっては、地涌倍増は望むべくもない夢物語になってしまいます。一瞬一瞬の命を燃やし、たとえ一言半句なりとも、あるいは一見、無駄足のような小さな一歩でも、信心の歩みを止めることがなければ、それがやがては梵天・帝釈の計らいにより、御仏意を授かって大輪の白蓮華を咲かせるのであります。
日蓮正宗には一人の傍観者もあってはなりません。皆様方一人ひとりが広布という名の、広大にして壮絶なるドラマの主役なのです。そう、この感動のドラマはあなたも主役、君も主役、お宅も私もみんな主役、脇役のいないドラマです。そして、このドラマを成功させるもさせないも、皆様方一人ひとりの主役としての自覚と行動にかかっているのです。
「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」を3年後に控えての本年「決起の年」としての意義の重かつ大なることに今一度思いをいたし、各支部が年初に立てた誓願目標の完徹に向かって決意の臍(ほぞ)を固め、直ちに行動を起こしていただきたく存じます。
最後に、当地方部僧俗御一同様のいよいよの御健勝と御発展をお祈り申し上げまして、本席、私の務めに代えさせていただきます。長時間の御静聴、まことにありがとうございました。
全国布教師・丸岡雄道御尊師
あきらめず飽くなき精進を
慈悲を施す仏道修行
根気よくねばり強く
ここでひとつ解怠(けたい)謗法ということを打ち破らなければいけないので、折伏を保険の勧誘に例えては失礼でございますが、正法に勧誘するのでございますから、これも一種の勧誘みたいなものでございます。保険と聞いただけで誰でもニコニコする人はおりません。これを絶対に入れるという人がおるんだそうです。保険に入れる日本一の名人がおるという。で誰が行っても入らないと、その人が出かけて行くと必ず入るという。
誓願貫徹に向け不断の努力・精進を
昔、中国に愚公という老人がいました。この人の家の前に大きな山が2つあったので、どこへ出掛けるにも、この山の麓をグルリと遠回りしなければならない。直線距離の何倍にもなる。『実に不便だ。何とかならぬものか…』そこで、90歳になろうとする愚公が、ついに一大決心をしました。家族を集め、『お前たちと力を合わせて、この山を削り取って平らにして、まっすぐな道を造ろうと思うが、どうだ?』と相談を持ちかけました。