大白法

平成18年7月16日号


主な記事

<1〜2面>

<3〜8面>


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第2回総本山総合整備事業実行委員会
御影堂大改修工事等について


立正安国論正義顕揚750年記念局の第2回総本山総合整備事業実行委員会が、7月8日午後1時から宗務院大会議室で開催された。これには、同委員会主任委員の佐藤慈暢御尊師、同副主任委員の小川只道御尊師をはじめ委員である各御尊師方、また同副主任委員の柳沢連合会委員長ほか委員の信徒が出席した。

はじめに佐藤主任委員より挨拶があり、記念局の規約に準拠し、総裁狼下の御指南のもとに各事業を進めてまいりたいと述べられた後、事業の概要を紹介された。続いて小川副主任委員より事業計画の説明があり、その中で、@御影堂大改修工事について、A塔中10ヵ坊の建替え工事について、B木造8ヵ坊の耐震補強について、C鉄筋コンクリート造建物の耐震補強について、Dその他(耐震対策のための境内塀・石垣改修工事)、について述べられた。

特に御影堂改修については、事前調査報告書に基づき現状が報告され、抜本的な解体修理が必要との見解が示された。なお、御影堂は静岡県の有形文化財に指定されているため、宮士宮市への説明及び調査報告書提出、静岡県との打ち合わせを経て修理届を提出し、改修工事に入ることとなる旨、説明された。

ここで質疑応答が行われ、委員一同が了承し、最後に柳沢副主任委員より挨拶があり、第2回総本山総合整備事業実行委員会は終了した。




御法主日如上人猊下御言葉
7月度広布唱題会の砌


皆さん、こんばんは。毎月行われております広布唱題行は、本来であれば第1日曜日の午前9時から全国一斉に行うことになっておりますが、総本山におきましては今、法華講夏期講習会の最中でありますので、一日繰り上げて今夕、唱題会を行った次第であります。

既に皆様方も御承知のとおり、今、宗門の僧俗は、すべての活動の焦点を来る平成21年の御命題達成に絞り、「地涌倍増」と「大結集」へ向けて闘っております。この御命題の達成が、今日、いかに大事であるかは既に御承知のことと思いますが、特に昨今の悲惨で残酷な事件が繰り返されている現状を見るとき、我々は1日も早く折伏によって地涌倍増の御命題を達成し、混迷を極める世の中を救っていかなければならないと痛感いたします。

大聖人様は『法華初心成仏抄』に、「法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給ふべき鎮護国家の大白法なり」(御書1313ページ)と仰せであります。混沌とした末法今日の世の中を救えるのはただ一つ、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様の仏法以外にないことは、法華講員であればだれでも知っているはずであります。しかし、知っているだけは、自行化他の信心の上からは片寄った信心となり、大聖人の御意に反する信心になってしまうのであります。つまり、化他の行を忘れた信心は、折伏の伴わない信心は、大聖人様が褒め給う信心ではありません。そして、その折伏を行ずるのは、あくまでも我々であります。

『持妙法華問答抄』には、「一切の仏法も又人によ(依)りて弘まるべし」(同298ページ)と仰せであります。また、『百六箇抄』には、「法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し」(同1687ページ)と仰せであります。いかに勝れた偉大な仏法であっても、それを世の中の人々に勧め、弘めていくのは我々であります。まさしく「法自から弘まらず」であります。

我々は、謗法の害毒に侵された多くの人々に謗法の恐ろしさ教え、大聖人の仏法に依らなければ本当の幸せは掴めないことを伝えていかなければならない、大事な使命があることを忘れてはなりません。幸せな生活も世界平和の実現も仏国土の建設も、それはあくまでも人が築き上げていくものなのであります。我々の努力なしには、何事も成就しないのであります。

今、私は夏期講習会において「折伏要文」について講義をしておりますが、それはひとえに、法華講員は役員や老若男女を問わず、すべての人が折伏に起ち上がっていただきたいと思うからであります。

『法華初心成仏抄』には、「無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但(ただ)強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり」(同1315ページ)と仰せであります。折伏は、相手の機根がいかなるかによらず、強いて妙法五字を説くことが大事であるととの仰せであります。つまり、相手の社会的地位などに左右されず、恐れず、また相手を見下しもせず、また、いかなる反対に出会うとも、一切の障魔を恐れず、慈悲と忍辱と不自借身命の強盛な信念力をもって堂々と、臆せず、根気よく折伏していくことが肝要なのであります。それには、我々自身が折伏に対してもっと自信を持つことであります。自分自身に確信を持つことであります。

大聖人様は『持妙法華問答抄』に、「持つ処の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり。爰(ここ)を以て経に云はく『能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり』と説き給へり。大聖の金言疑ひなし」(同297ページ)と仰せであります。また、さらに、「されば持(たも)たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(同298ページ)と仰せであります。

一閻浮題の大御本尊を持ち我らこそ、一切衆生のなかにおいて第一の者であります。一切衆生のなかにおいて第一の者であれば、折伏に当たっても我らはもっと自信を持ち、確信を持って、正々堂々の折伏を行ずべきであります。

自信に満ちた、確信あるひとことひとことが、相手の心を動かすのであります。我々には一閻浮題第一の本門戒壇の大御本尊がましますことを銘記し、いかなる障魔を恐れることなく、一意専心、折伏に励むところに必ず大御本尊の御照覧があることを確信して、いよいよ折伏に励んでいただきたいと思います。

どうぞ、皆様方には残り半年、御命題達成の鍵を握る大事な本年「決起の年」を悔いなく闘いきり、もって広大なる仏恩に報い奉るよう心から念じ、簡単でありますが本日の挨拶といたします。




総本山を歩く
第6歩 三門(さんもん)


三門は、総本山第25世日宥(にちゆう)上人の御発願(ほつがん)により、正徳2(1712)年5月30日、徳川幕府第6代将軍の家宣公から富士山の巨木70本、その婦人の天英院(てんえいいいん)から黄金1,200粒(りゅう)の寄進を受け、さらに第24世日永上人と日宥上人の寄進、並びに宗内僧俗からの多くの御供養を基に、6年の歳月をかけて、享保2(1717)年8月22日に建立されました。

その後、第52世日露(にちでん)上人の代である文久2(1862)年、第57世日正上人の代である大正元(1912)年にそれぞれ修理が加えられ、第60世日開上人の代である昭和6(1931)年から昭和10(1935)年にかけて、大聖人の第650御遠忌の報恩記念事業として大改修がなされ、現在に至ります。

間口は約24m、奥行は約11m、高さは約22mで、堂宇内部には、第25世日宥上人が享保2(1717)年に認(したた)められた常住御本尊が奉安されています。三門は、全国でも稀に見る木造朱塗りの大楼門で、その規模は東海道随一であり、富士山を背に荘厳美麗を究めています。また、昭和41年には静岡県の有形文化財に指定されました。

総本山の建物は古来、王城の宮殿に因んで建てられています。王城には東・西・南・北の四門(しもん)があり、東門は発心、西門は修行、南門は菩提、北門は涅槃を表します。総本山の三門には、このうち北門を除いた東・西・南の三つの門を総括して一門とするという意義があるのです。

さらに、第66世日達上人は、「王城の東・西・南の三門を一門としたので、敢て名称をいうならば、信門とつけるべきでありましょう」(大日蓮304号)と説かれ、三門は信心の門であると御指南されています。それは大聖人様の『御義口伝』に、「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり」(御書1373ページ)と御教示のように、大聖人様の仏法は、信の一字によって即身成仏という揺るぎない幸福境涯を確立することができるからです。

私たちは、この三門の意義である「信の一字」をもって自行化他にわたる仏道修行に励むことが大切であり、それがまた一切衆生を幸せに導く大きな道となっていくのです。




海外リポート
インドネシア法清寺


インドネシアにも、日蓮正宗の信仰を根本に平和を祈り、広布を願って純粋な信心に励み、懸命に御供養を続ける信徒が大勢いる。今回は、法清寺建立に際し、真心のこもった御供養をされたリム・ユンニオさんにお話を伺った。


編集 まず自己紹介していただけますか。

ユンニオ 私は、1940(昭和15)年に首都ジャカルタの隣のタンゲランで、3人姉妹の次女として産まれました。ウェイターをしていた父の仕事の関係で、1945年に家族と共にジャカルタヘ引っ越してきました。この年はインドネシアが日本から独立した年であり、経済状況がとても悪く、私は学校に通えませんでした。このため、私は読み書きができません。


編 入信の動機を教えてください。

ユ 17歳の時に、見合いで主人と結婚し、その後7人の子供を授かりました。主人は、シューマイを売って生計を立てでいました。私が49歳の時、主人は病気で亡くなりました。とても悲しくて、毎日泣いていました。どうやって暮らしていけばよいのか、とても困惑しました。その後、段ボール箱を作る工場で働きましたが、収入は微々たるものでした。ある日、私と同じ未亡人の女性が、落ち込んでいる私を見て、「あなたも御本尊様に帰依したほうがよい、幸せになれるから」と話してくれました。私は何も判りませんでしたが、彼女の言葉を信じて、南無妙法蓮華経と唱えたいと思いました。これが私の日蓮正宗との出会いでした。


編 入信してどのような功徳がありましたか。

ユ 最初は、御本尊様を御安置している近所のお宅に、毎日勤行に通いました。そして、様々な活動にも参加するようになりました。信心を始めてから、自分自身が強くなり、幸せを感じているのを自覚しました。お金にも困らなくなり、食べ物にも不自由しなくなりました。その頃、私は工場での仕事から、サラック(インドネシアの果物)の皮を剥く仕事に転職しました。私の子供たちは、高校科程まで終了し、文字の読み書きができます。今は子供たちも働いて所帯を侍ち、孫も18人います。子供たちは全員御授戒を受けていますし、孫も8人が毎月お寺で開かれる少年部会に出ています。私の折伏で私の姉妹も御授戒を受けましたが、残念ながら既に亡くなりました。姉は生前「家の血筋で60歳まで生きた人はいない」と言っていましたが、私は既に66歳です。これまで常に、「いつも健康で信心活動に参加できますように」と御祈念してきましたが、その願いが叶ったのだと思います。


編 サラックの皮を剥く仕事で得られる収入は、いくら位ですか。

ユ 1箱分のサラックで3,500ルピア(約45円)です。私は1日に6箱分の仕事ができるので、21,000ルピア稼ぐことができます。私は稼いだお金を御仏壇にお供えし、「御本尊様のお金」と呼んでいます。このお金を使うときには御本尊様にお許しを請います。「使ってもいいですか」と伺いますと、御本尊様は「いいよ」と言ってくださいます。


編 法清寺建立のためにたくさんの御供養をされたと伺いました。

ユ 私は、「御法主上人猊下に来ていただきたい」、「板御本尊の前で勤行がしたい」、「お寺という良い環境で、子供や孫たちが勤行・唱題できるようにしていただきたい」、これらの思いから一生懸命御供養に励みました。そして600万ルピア(ユンニオさんの年収に相当する金額)の御供養を申し上げることができました。私たちが御供養しなければ、お寺を建てることはできないでしょ。でも、私たちは貧しいから、少しの御供養しかできません。お金持ちの人は、もっと御供養してくださいね。


編 御供養を通じて、どのような功徳を戴きましたか。

ユ 私は今度、自宅に2階を増築することができました。1階建てだったときは、洪水があると家の中にまで浸水したので、御本尊様が濡れないよう、御仏壇を担いで移動しなければなりませんでした。でも、御本尊様を2階に御安置できるようになり、洪水の時も心配ありません。とても有り難いことだと感謝しています。


編 今後の夢や目標を教えてください。

ユ 私の少ない所得では夢のような話ですが、一度でいいから御登山したいです。そのためにこれからも、信心を根本に一生懸命に働いて「御本尊様のお金」を貯めいです。




体験発表 『もって学会員を折伏しよう』
妙蓮寺蓮行講支部・信沢幸男


今回は、折伏のご報告をさせていただきます。私は創価学会が大嫌いです。それは、次のような経験があるからです。


哀れな学会員

数年前、学会員である家内の妹夫婦を折伏したときのことです。彼らは、御書を持ち出して宗門の批判をするのですが、御書の解釈はいい加減で、さらには御書の御文自体まで否定する始末です。それまで私は、きちんと話をすれば判ってくれるのではないかと考えていましたので、とても驚き、開いた口が塞がらなくなりました。話している最中、「学会員ってこうだったっけ」と、何度も何度も自問しました。これでは、学会員とはとても普通に話はできないと感じました。これが、私の学会嫌いの始まりでした。

そんなことがあって、しばらくして、今度は自宅近くの公園で子供たちを遊ばせていたとき、私が学会の男子部員だった頃に一緒に活動した地元の学会員がやってきました。彼は私に会うなり「元気か。お寺でやってるんだって」と、横柄な態度で言ってきたのです。私は、学会員とはまともに話はできないと思っていましたので、挨拶もそこそこに帰ろうとしましたが、彼が一気に御法主上人猊下や宗門の御僧侶の悪口を言い出したので、「何を根拠にそんなことを言っているのか」と尋ねました。すると「聖教新聞に出ているぞ」と言うのです。私は「そんな新聞に出ていることを、本当に信じているのか」と質問し、続けて「今まで、学会に対して一番理解をしてきたのが御宗門であり、どのくらい宗門が学会を善導してきたのかが、判らないのか」と言いました。さらに、「宗門を護るのが学会ではなかったのか。戸田先生はきちんとそう言っていただろう。いつから学会は変わったんだ。池田大作が変えたんだろう」と言ってやりました。すると「先生(池田)のことは、君なんかには判らない」と言い、狂ったように根拠のない話を続けました。私はその後、学会員が周辺を 回るかもしれないと思ったので、同じ支部で同じ地域に住んでいる講員さんに、その学会員のことを話しておきました。

それから半年ほどして、その講員さんから電話があり、「さっき火災があったけど、以前に信沢くんが話していた学会員の家ではないのかな」と教えてくれました。翌日の新聞を見ると、地方版に写真入りで火災の記事が出ていました。写真には、自宅が燃えている前で呆然としている本人まで写っていました。私はその学会員の家が火事になったことにも驚きましたが、その姿を私に示さねばならなくなったことにも、たいへん驚きました。

このことがあり、訳も判らず宗門の悪口を繰り返し、それによって不幸に落ちていく学会員をたいへん哀れに感ずるようになりました。また、御法主上人猊下や宗門に対する悪口を、平気で会員に言わせている学会の幹部、就中(なかんずく)池田大作はとんでもない輩と思いました。それからは、もっと積極的に学会員を折伏していかなければと強く感じ、勤行・唱題に励みました。


正しい信仰を求めていた友人

そんなとき、私がまだ学会員だった約20年前に折伏した関口君のことが頭に浮かびました。関口君は当時、母親の病気のことで悩んでいましたので、この信心でしか解決しないと話をしました。彼はすがるように入信し、母親のことを願って御題目を唱えていました。このときの彼は、御本尊様のすごさを体験し、喜んでいました。しかし時が経って、やがてお母さんが亡くなり、群馬県在住の彼とは会うことがなくなってしまいました。

関口君を再折伏しようと決意して、まず私は、彼に会うために友人たちと関口君を誘って温泉に行くことにしました。しかし、友人4人で出掛けたので、なかなか関口君と2人きりになれませんでした。そこで、夕食後、彼を誘って2人で風呂に入ることにしました。幸い風呂場では2人きりになれたので、単刀直入に「御本尊様はどうしているの」と聞きました。15、6年前からの彼の状態が判らなかったからです。彼も話がしたかったようで、「実はあれからいろいろなことで行き詰まり、学会と宗門のことがあったりで迷って、結局、学会を止めて御本尊様は学会の人にお返しした」と言いました。そして、宗門と学会のことをいろいろ質問してきたので、私は、何かあるなと感じました。

みんなが寝た後、再び2人でロビーに行き、いろいろ話をしました。このとき初めて、私が脱会して法華講で信心をしていることを話しました。すると、何と彼は、御書を旅先まで持ってきていました。「まだ信沢が学会だったらいろいろ質問しようと思って、御書を持ってきたんだ。だけど、脱会したんだったら、もう聞くことがなくなった」と言いました。彼も学会の変節を感じていたそうです。彼は、「あのときは、いろいろなことが行き詰まってしまって、さらに学会問題があり、学会の人が来て『どうするのか』と言うので、これ幸いと止めたんだ。でもその後、娘が生まれるときに危険な状態になり、思わず御題目を唱えていた。そうしたら涙が出てしょうがなかった。今では、御本尊様を思い浮かべて勤行と唱題を続けている。また、今回の学会のことがあってから御書を読み始めたんだ。そしてちょうど全部読み終わったところに君から連絡があり、驚いた」と言ってくれました。

私はその話を聞いて、「それならばすぐに勧誡式を受けて、もう一度しっかり信心をしたほうがよい」と言いました。彼もすぐに納得しましたが、「今は家族もいるので、すぐ入信できるか判らない」と言いました。私は彼が納得するのが一番だと思って待つことにしました。「いつでもよいので連絡をしてほしい。でも時間をあけるとあまりよくないので、なるべく早く連絡をくれるように」と言いました。

帰宅後、伊藤講頭に彼のことを報告しました。講頭は、「そんな状態だったら、彼が少しでも早く信心できるようにしてあげたほうかよいな」と言ってくれました。私は、少しでも早く彼が日蓮正宗に戻ってこられるように、1時間の唱題を続けることにしました。

それから2ヵ月くらいして、彼から連絡がありました。私が開口一番、「待ってたよ」と言うと、彼は「家族4人で入信することにしたので、よろしく頼む」と、家族のことを考えて奥さんを折伏したことを話してくれました。すぐに講頭に報告すると、たいへん喜んでくれました。ちょうどその日に宅御講が行われ、御住職・漆畑行雄御尊師に彼のことをご報告いたしました。御住職様も喜んでくださり、「正法を自ら求めている方もいらっしゃるんですね」とおっしゃってくださいました。

平成17年4月10日、本山妙蓮寺での勧誡式、御本尊様を御下付戴いたあと、支部の岡田さんらと共に、彼の住む群馬まで行き、御入仏式をすることができました。彼の子供たちと自分の子供たちが一緒に御題目を唱える姿を見て、感激を新たにしました。


学会に疑問を感じていた後輩

年が明けて、今度は学会時代の後輩の渡部君に会うことができました。通勤の途中で偶然同じ電車に乗っていて、彼から声をかけられたのです。その日は、家を出るときに忘れ物をしてしまって、ふだんよりも少し遅れて電車に乗ったのですが、そのことが久しぶりの再会につながったのです。このときは、彼がまだ学会員かどうかだけを確認し、また連絡をすると約束して別れました。すると、その日のうちに彼からメールで、「今晩にでも話が聞きたい」と連絡がありました。

早速その夜、彼と会い、学会問題のこと等を話しました。私は、蓮行講支部の人たちと出会い、今、日蓮正宗にいられることがたいへんにすばらしいことだと感じていると話しました。また、昭和52年の教義逸脱問題で池田大作が総講頭を辞任した後、54年に彼が再び総講頭に任命されたとき、前御法主日顕上人猊下より「一度間違いを認め謝ったものを責めることはない」旨のお話があったのをお聞きして、仏法の慈悲の深さ大きさを感じたと伝えました。そのくらい御法主上人猊下及び宗門が学会を大きく見守っていてくださったのを、今になって池田大作及び創価学会は、「あのときは仕方なく謝ったんだ」とか「全然悪くなかった」ということまで言っていることに、腹が立ってしょうがないと渡部君に言いました。

このような話をしていると、彼が「やっぱり学会はおかしかったんですね」と言い、「どうも学会は好きになれなかった」とまで言ったのです。そこで私は彼に、信心するならきちんと日蓮正宗に入信しなければだめだと言いました。彼は即座に「よろしくお願いします」と答えてくれました。それから彼の知っている人たちに集まってもらって座談会を開き、彼との再会を喜び、また一緒に信心をやっていく決意を確認しました。

そして、今月の1日、本山妙蓮寺において勧誡式を行っていただき、渡部君は日蓮正宗の信徒として再出発することができました。これからは、彼らと共に折伏して、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」をめざして、少しでも御法主上人猊下の御指南にお応えしていけるよう、がんばっていく決意です。




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