大白法

平成18年8月16日号


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宗務院より「折伏と育成について」通達



  院第132号
   平成18年7月27日

                         日蓮正宗宗務院[印]

   全 国 教 師 各 位
   法華講支部役員各位
支部における折伏と育成について
   現在、宗門は「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の   大佳節における、地涌倍増と大結集の達成を目指し、記念局を設置して、   総裁・御法主日如上人猊下のもと、僧俗一致して大前進致しております。    御法主上人猊下はこの重大時に当り、    「『地涌倍増』と『大結集』を総力を結集して達成していくことこそ、    今最も大事であると存じます。」(大日蓮723号)   と、僧俗一同に対して御指南遊ばされました。    この御指南を体し、全国の日蓮正宗僧俗は、日夜唱題行に励み、様々に   工夫を凝らして懸命に折伏と育成に取り組んでおります。    しかして、この御命題を名実ともに達成するためには、折伏・育成の活   動を一段と充実強化し、支部の総力を結集して実践推進することが必須で   あります。    そこでこのたび宗務院において、別紙の通り「折伏と育成の心得」を作   成いたしました。    全国教師各位、法華講支部役員各位には、今後の折伏・育成の活動に充   分にご活用願います。                                  以上

折伏と育成の心得
一、折伏の心得
@折伏のあり方  折伏は、相手を不幸から救う慈悲の行為です。  『曽谷殿御返事』に「謗法を責めずして成仏を願はヾ、火の中に水を求め、水の中に火を 尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地 獄にをつべし。」と仰せのように、相手の邪義謗法を破折しなければ相手を救うことはでき ません。ゆえに折伏する時は、相手の仏性と入格を尊重する精神に立つとともに、その謗法 は徹底して折伏しなければなりません。  すなわち折伏においては、相手の心から謗法への執着を取り除くことが大切であり、きち んとした謗法破折をせずに、安易に御本尊を下付したり、御授戒・勧誡することは、折伏の 功徳を成ぜず、本人も信仰の功徳を得ることができません。むしろ逆に、退転につながる謗 法容認や、御本尊返納の不敬につながる恐れもあるので、充分にご注意ください。 A謗法払い  折伏が成就したならば、直ちに謗法払いを行ってください。謗法払いをしないで御授戒、 御本尊下付を受けることは原則としてできません。特別な事情がある場合は、入仏式の前ま でには、必ず謗法払いを行って下さい。但し、謗法物の処理については、従来の宗務院の通 達および教師必携にしたがって取り扱ってください。 B御授戒、勧誡、御本尊下付  御授戒や勧誡、及び御本尊下付の儀式には、紹介者の他に、新入信者が所属する組織の担 当幹部が、少なくとも1名は参加することを原則とします。なお、御本尊下付を申請する際 の基本条件は、本人が謗法払いに同意していることと、御本尊の御安置ができることです。 C御本尊安置と入仏式  御本尊下付の当日か、翌日には、入仏式を行って御本尊を御安置して下さい。入仏式の導 師は住職か僧侶が行うことを原則とします。ただし事情によっては、住職の指示または了解 を得た上で、支部の幹部等が僧侶の代理として行っても結構です。また入仏式には、紹介者 の他に、新入信者が所属する組織の担当幹部が、少なくとも1名は参加することを原則とし ます。  何らかの事情がある場合でも、御本尊御下付後、1週間以内には御本尊入仏式を行うよう にしてください。1週間以内に御本尊入仏式の予定が立たない場合には、御本尊下付の申請 の受理を延期してください。 D折伏の方法  折伏推進の要点は、あらゆる縁故や伝をもとめて下種先を拡大することです。新入信者や 信仰歴の長短を問わず、全講員が1人でも多くの下種先を提出するように督励し、支部一丸 となって折伏推進を行ってください。  また折伏は僧俗一体の尊い行業です。ゆえに講中においては、指導教師、講頭、副講頭、 幹事はもとより、信心活動に積極的に参加する支部役員、講員が一致団結して、様々に工夫 を凝らし、日常的に折伏を実行することが肝要です。  更に支部一丸の折伏を実践するため、折伏の場には、新入信者や、これまで折伏を実践し たことのない講員をも積極的に参加せしめ、実際に折伏を体験させて、全講員が自らの親族・ 友人・知人等を入信へ導く折伏ができる活動家となるように育成してください。
二、育成の心得
1.具体的な活動 @勤行の実行  信仰の基本である朝夕の勤行を欠かさず実行できるように、勤行のできない講員に対して、 自宅や寺院等において五座三座の勤行を共に行い、お経の読み方、勤行の仕方と大切さを体 得させ、更には、勤行・唱題の功徳による信仰生活の歓喜を体験できるよう育成してくださ い。 A化儀の指導  仏壇の清掃やお水、仏飯、樒(しきみ)等、御本尊へのお給仕は仏道修行の基本です。よっ て、その仕方と意義の認識が充分でない講員宅を訪問し、これらを教え、仏様にお仕えする 信心の大切さを自覚できるよう指導育成してください。 B御講への参詣  御報恩御講に参詣しない講員に対しては、家庭訪問などにより、御講参詣による仏祖三宝 尊への御報恩の信心の大切さを教えるとともに、事前の連絡や、御講当日は参詣に同行する などして、御講参詣の功徳を積むことができるよう育成してください。 C広布唱題会への参加  広布唱題会に参加していない講員に対しては、家庭訪問などにより、広布唱題会は、毎月 第一日曜日午前9時より、御法主上人猊下と共に、全国の僧俗が広宣流布を御祈念する重大 な意義をもつ大切な行事であることを教え、事前の連絡や、当日は参加に同行するなどして、 広布推進の使命を自覚できるように指導育成してください。 D折伏活動への参加  折伏活動を支部一丸の組織戦として行い、折伏を実行していない講員を折伏座談会や折伏 実践の現場に参加せしめ、自らの親族・友人・知人等に信心の歓びを語り、折伏ができるよ うになるまで育成してください。 Eその他の信心活動への参加  寺院行事や支部活動には、右の他に、御会式をはじめとする年中行事、支部総登山、各種 登山(初登山、春季総登山、夏期講習会登山等)、唱題会、勉強会、折伏座談会、壮年・婦 人・青年・少年等の各部の活動や、鼓笛隊等の様々な活動があります。講員をこれらの活動 にも進んで参加させるため、家庭訪問や事前の連絡を綿密にして、信行の増進を計ってくだ さい。 2.育成の方法  法華講員の指導育成は、指導教師を中心とする支部講中全体の責務です。右に掲げた全項 目は、いずれも法華講員の信行の成長を計るための重要な育成のポイントです。ゆえに講中 においては、指導教師、講頭、副講頭、幹事、そして信心活動に積極的に参加する支部役員、 講員が一致協力して、これらのすべてにわたり、継続して育成の活動を行ってください。  具体的には育成が必要な全講員宅を、支部組織活動として、月に一度以上訪問し、信心の 激励を行うとともに、右の全項目について、育成を行ってください。  特に新入信者については、入信時から6ヵ月間は、新入信者宅を1週間に一度以上訪問し、 その育成に当ってください。これは折伏紹介者が責任をもって行うことが原則です。ただし、 指導教師、及び講頭以下講中の活動者も進んでこれに協力し、支部においても、新入信者の 育成は責任をもって遂行してください。                                        以上



御法主日如上人猊下御言葉
8月度広布唱題会の砌


皆さんおはようございます。本年度「決起の年」も既に半ばを過ぎまして8月に入りましたが、皆様には「地涌倍増」と「大結集」の御命題達成へ向けて日夜、御精進のことと存じます。

毎回申し上げておりますように、本年「決起の年」は極めて大事な年であります。御命題達成を確実にするためには、時間的な上からも、また、あらゆる面から考えて、なんとしてでも本年は勝利をしなければなりません。そのためには、各講中ともこれからの闘いに総力を結集して取り組んでいただきたいと思います。

さて、大聖人様は『崇峻天皇御書』に、「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(御書1174ページ)と仰せであります。

不軽品とは法華経の常不軽菩薩品のことでありますが、この不軽品には、釈尊の過去世における常不軽菩薩としての但行(たんぎょう)礼拝による折伏逆化の修行が説かれて、その修行の功徳によって不軽菩薩が六根清浄の果報を得られたことが説かれております。すなわち、不軽菩薩は威音王仏(いおんのうぶつ)の滅後像法時代に出現し、一切衆生には皆、仏性があるとして、「我深く汝達(なんだち)を敬う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道(どう)を行じて、当(まさ)に作仏することを得べし(我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏)」(法華経500ページ)これを二十四字の法華経と申しますが、この文を唱えて、出会う人ごとに二十四字の法華経を説き、礼拝行を行ったのであります。

しかし、上慢の四衆、四衆というのは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷(い)、つまり出家の男女、在家の男女でありますが、この上慢の四衆は不軽菩薩に対して瞋恚(しんに)を生じて、「我等、是(かく)の如き虚妄の受記を用いず」(同ページ)と悪口罵詈し、杖木瓦石(じょうもくがりゃく)をもって打擲(ちょうちゃく)し、不軽菩薩に迫害を加えたのであります。だが、不軽菩薩は悪口罵詈・杖木瓦石の難にも屈せず、なおも「我敢(あ)えて汝等を軽しめず。汝等皆当に作仏ずべし」(同501ぺーじ)と、礼拝行をやめようとうはしなかったのであります。

こうして礼拝行を続けた不軽菩薩は、まさに命が終わろうとした時に、虚空より威音王仏の説く法華経の偈(げ)を聞いて六根清浄の功徳を得、さらに命を延ばして法華経を説き続けたのであります。また、不軽菩薩を迫害した人達は、一度は阿鼻地獄に墜ちて大苦悩を受けたのでありますが、その罪を畢(お)え已(おわ)って〔其罪畢已(ございひっち)・法華経506ページ〕、再び不軽菩薩の教化により法華経を信じ、救われたのであります。この不軽菩薩の振る舞いは、今日の我ら本宗僧俗が折伏を行ずるに当たって心得るべきまことに大事なことが示されていると思います。

一つには、不軽菩薩はどれほどの悪口罵詈、非難中傷、杖木瓦石の難に値っても礼拝行をやめようとせず堪え忍び、礼拝行を続け、六根清浄の大果報を受けたことであります。折伏も同様でありまして、相手からいかに悪口罵詈・非難中傷されようが、根気よく、あきらめず、続くけていくことが肝要であります。そのなかで、特に銘記すべきことは、折伏は相手を救う尊い慈悲行であるとともに、自らも過去遠々劫からの罪障を消滅し、仏道を成就することができる最高の仏道修行であるといううことであります。

すなわち、大聖人様は『佐渡御書』に、「不軽品に云はく『其罪畢已(ございひっち)』等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲(めりちょうちゃく)せられしも、先業の所感なるべし」(御書580ぺーじ)と仰せであります。また、『開目抄』にも、「心地観経に云はく「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」等云云。不軽品に云はく「其罪畢已」等云云。不軽菩薩は、過去に法華経を謗じ給ふ罪、身に有るゆへに、瓦石(がしゃく)をかほるとみへたり」(同571ページ)と仰せであります。

「其罪畢已(ございひっち)」というのは、「其の罪畢(お)え已(おわ)って」と読みますが、これは不軽菩薩が上慢から四衆から受けた様々な迫害は過去世からの罪障によるものであり、この迫害を堪え忍んで礼拝行を続けることによって「其の罪畢(お)え已(おわ)って」すなわち、過去世の罪障を消滅して仏道を成ずることができたということであります。まさしく折伏も同様であり、折伏することによって、我々は過去世からの様々な罪障を消滅することができるのであります。折伏が一生成仏のための最高の仏道修行である所以(ゆえん)も、実にここにあるのです。

二つには、不軽菩薩を迫害した上慢の四衆は、その罪によって一度は地獄に堕ちましたが、最後は逆縁によって救われたことであります。折伏は順逆二縁ともに救っていく偉大なる力を存しており、たとえ相手が耳をふさごうが、反対しようが、我々に対して悪口罵詈しようが、時には杖木瓦石をもって迫害しようが、我々の折伏の声は必ず相手の心に届き、やがてそれが縁となって救われるのであります。つまり、謗法の衆生に妙法を説き聞かせることは、それによって妙法に縁する故に成仏の因となるのであります。すなわち、「毒鼓の縁」と同じであります。毒鼓とは毒薬を塗った太鼓のことで、涅槃経に「毒薬を太鼓に塗り、大衆のなかにおいてこれを打てば、大衆は太鼓の音を聞こうととする心はなくとも、その毒薬を塗った太鼓の音を聞いて皆、死す」(取意)とあります。折伏こそ順逆二縁ともに救っていく一切衆生救済の最善の慈悲行なのであります。

三つには、不軽菩薩は一切衆生には必ず仏性があるとして、すべての人に対して軽んぜず、心から相手を敬い礼拝行を行ったことであります。折伏は相手の人格を攻撃するのではなくして、間違った考えを指摘して救うことであります。したがって、「一切衆生悉有(しつう)仏性」の経文を心肝に染めて、相手を軽んずることなく、心から相手の幸せを願い、心を込めて折伏をすれば、やがてその心は相手に通じて折伏成就に至るのであります。ただし、仏性は、仏性があるということだけではその用(はたら)きを示せません。末法においては人法一箇の大御本尊の縁に触れてこそ、仏性が仏性としての用きを示すのであります。したがって私達の折伏は、順縁、逆縁ともに選ばず、いかなる人にも下種結縁してゆくことが大事であります。まさに不軽菩薩が会う人ごとに二十四字の法華経を説き、礼拝行を行ったようにであります。したがって私達は、いかなる人も仏性を持っていることを忘れず、懇切丁寧に折伏をしていく、それがやがてその人の仏性が喚(よ)び起こされて、その人を必ず救うことができるという確信を持っていただきたいのであります。

今日、池田創価学会をはじめ、邪義邪宗の害毒によって苦しんでいる人がたくさんいます。こうした人達を救済するためにも、また自らが罪障を消滅して一生成仏を果たしていくためにも、折伏こそ最高の仏道修行であることを改めて確認し、師子奮迅力をもって地涌倍増と大結集を目指して大折伏戦を展開していただきたいと思います。

先程も申し上げましたが、御命題達成まであと3年、残された時間は瞬く間に過ぎて行きます。一時も無駄にすることなく、先程拝読の御文を心肝に染め、今こそ一人ひとりが真剣に折伏に取り組んでいくことが肝要であります。そうぞ皆様には、残りあと5ヶ月、御命題達成の鍵を握る大事な本年「決起の年」を悔いなく闘いきり、もって広大なる仏恩に報い奉るよう心から念じ、本日の挨拶といたします。




御法主日如上人猊下御講義
折伏要文(第二期)


皆さん、おはようございます。本日は、本年度の法華講夏期講習会の第2期に当たりまして、全国から大勢の方が御参集いただき、まことに御苦労様でございます。この夏期講習会におきまして、御戒壇様のもとで修行せられるその功徳と歓喜、これをもって皆様方には、これからの闘いの糧(かて)としていただき、そして御命題達成の道を進んでいただきたいと思う次第であります。

私は、登座いたしまして、この夏期講習会を初めて迎えるわけでありますが、種々考えまして、今、一番大切なことは何か、今、宗門がなすべきことは何かと考えましたときに、やはりこれは「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」におけるところの御命題、つまり「地涌倍増」と「大結集」へ向けて前進していくことが一番大切ではないかと思った次第であります。この「地涌倍増」と「大結集」という2つの御命題をよくよく考えてみますと、結局、これは「折伏をしていきなさい」という日顕上人猊下の御命(ぎょめい)であったと思うのであります。

つまり「地涌倍増」というのは、これは文字通り折伏をしなければ達成できないわけでありますから、絶対条件が折伏であります。また同時に「大結集」ということも、名実共に大結集していくためには、地涌倍増をしていかなければならないのです。地涌倍増の上に大結集が成立していくわけでありまして、その地涌倍増こそ、まさに折伏をもって達成していくということになるわけであります。

そのようなところから、私は本年度の講義といたしまして「折伏要文」、これをテキストにした次第であります。


皆様方も、指導教師や講頭さんを含めたいろいろな方々から、「折伏しなければだめだ」というように指導や激励を受けているのではないかと思います。しかるに、この折伏ということは、私見で勝手に言っているわけではなく、このテキストに載せてありますが、仏様である大聖人様が我々に対して、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(御書1040ページ)と、こうおっしゃっているのです。

折伏ということは、私たちにとって最も大切なことであります。そういう意味から本年度は「折伏要文」を挙げて、私が勝手に言っているのではない、指導教師や講頭さん、その他の方々が勝手に言っているのではなく、「仏様である大聖人様が私たちに命じてくださっていることなんだ」ということを、ぜひとも知っていただきたいと思いまして、テキストに挙げた次第であります。

テキストの5ページに『唱法華題目抄』の御文がありますが、ここまでを前回の第1期で拝読いたしましたので、本日はその次の『立正安国論』から拝読をしていきたいと思います。


◆立正安国論◆

この『立正安国論』は、今を去る746年前、文応元(1260)年7月16日、大聖人様が御年39歳のときに、宿屋左衛門入道を介して時の最高権力者である北条時頼に提出をせられた国主諫暁(かんぎょう)の書であります。

大聖人様は『撰時抄』の中で、「余に三度の高名あり」(同867ページ)とおっしゃっていますように、3度、国主を諫暁あそばされましたが、その最初の国主諫暁として提出されたのが、この『立正安国論』であります。因(ちな)みに「三度」と申しますのは、『立正安国論』の提出が1度目です。それから2度目は、文永8(1271)年9月12日の竜の口の法難の直前に平左衛門を諌(いさ)められたことです。そして、3度目は、佐渡配流(はいる)から鎌倉にお帰りになられた文永11(1274)年年4月8日に、再び平左衛門に対して殿中で諫暁せられたわけです。このように3回、大聖人様は国主諫暁をせられておるのでありますが、その第1回目の時に提出せられたのが『立正安国論』であるということであります。

この『立正安国論』というのは、大聖人様が、日本国の天下万民が謗法の失(とが)によって、今生には天変・地夭(ちよう)・飢饉・疫癘(えきれい)、あるいは自界叛逆(ほんぎゃく)・他国侵逼(しんぴつ)の難に遭い、未来には無間大城に堕ちて永劫にわたって阿鼻(あび)の炎にむせぶ、このような有り様を悲嘆せられて、一往は和光同塵(わこうどうじん)して仏様の弟子として、再往は末法の御本仏として、大慈大悲をもって身命を賭(と)して北条時頼をはじめとする万民を諌めあそばされたところの、いわゆる折伏諫暁の書なのです。

『立正安国論』は、全体が客と主人の問答形式になっており、十問九答の問答から組み立てられております。ですから、問いが10で答えは9つなのです。けれども、最後の10番目の客の問いは、そのまま主人の答えになっているのであります。

簡単にその内容を申しますと、まず初めに正嘉(しょうか)元(1257)年8月23日の大地震をはじめ、近年より近日に至るまで頻発(ひんぱつ)する天変・地夭・飢饉・疫癘の惨状を見て、その原因は何か。それは世の中の人たちが正法に背(そむ)き悪法を信じていることによって国土万民を守護すべきところの諸天善神が去って、悪鬼魔神が便りを得て棲(す)み着いているためであるとされ、そこで金光明経(こんこうみょうきょう)や大集経(だいしっきょう)等を引かれて、正法を信ぜず謗法を犯すことによって三災七難が起こるのであると理由を述べられるのです。そして、これら不幸と混乱と苦悩を招いている一凶は、ひとえに法然の『選択集(せんちゃくしゅう)』、すなわち念仏にあると断ぜられるのであります。そして、この大謗法である一凶を退治して、正善の妙法を立てるとき、国中(こくちゅう)に並び起こるところの三災七難等の災難は消え失(う)せ、度重なる国家の危機も消滅して、安寧(あんねい)にして、磐石(ばんじゃく)なる仏国土が出現すると仰せられるのです。

しかし、もしも正法に帰依しなければ、七難のうち未だ起きていないところの自界叛逆・他国侵逼の二難が必ず起こると、このように予言せられて、そして速やかに実乗の一善に帰するようにおっしゃっておられるのであります。『立正安国論』の予言の大要というのは、自界叛逆難と他国侵逼難の2つであり、また対告衆(たいごうしゅう)は一往、北条時頼でありますが、これは北条時頼だけに提出したものではなくして、一切衆生に対して与えられたところの諫暁書であると拝せられるのであります。

また、本抄の中に、「如(し)かず彼(か)の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同241ページ)とあり、一往は専(もっぱ)ら法然の謗法を破折されていますが、再往(さいおう)元意の辺は、広く諸宗を破折しておられるのであります。

次に『立正安国論』の「立正」とは何かと言えば、まさしく末法万年の闇を照らして弘通するところの本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法を、王法治国、国土安穏のために立てることであります。そして「安国」とは、一往は日本国を指しますが、再往は全世界、一閻浮提(いちえんぶだい)を安んずるという意味であります。

先ほど「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」の御文を挙げましたが、この御文を日顕上人猊下は現代に約せられまして、「『此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには』というところの一凶こそ、まさに創価学会であります」(大白法637号)と仰せられ、三宝破壊の大謗法に対しては、断固として破邪顕正の折伏を行じていかなければならないことを御指南あそばされておるのであります。その上からも我々は、折伏をもって正を立て、そして国を安んずるということが大切であるということになるのであります。


【倩(つらつら)微管(びかん)を傾け聊(いささか)経文を披きたるに、世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。言(い)はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず】(御書234ページ13行目)

ここに「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す」とありますが、この「微管」というのは、細い管ということでありまして、つまり細い管の穴から空を見ても一部分しか見えないように、狭い見解という意味であります。しかるに、このところは謙遜の意味から、このように述べられているわけです。そもそも仏様は微管ではないのですけれども、一往、謙遜の意味を込めてこのようにおっしゃっているわけです。

つまり、少しばかり経文を開いてみると、皆が「正」に背いて、多くの人たちが「悪」に帰しておるということです。この「正」というのは、正しい法ということでありますから、これは大聖人様の三大秘法の仏法以外にはないわけです。それから「悪」とは何かと言えば、これはそれ以外の邪義邪法の教えです。結局、いろいろと考えてみると、世の中が乱れてくる原因というのは、皆が正しい法に背いて、多くの人たちが邪義邪法、その間違った教えを信じ込んでしまっているところにあるということです。

「故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず」。この「善神」というのは、梵天や帝釈というような、正法を行ずる者を守護する用(はたら)きとなる神々のことであります。つまり、自然の力が衆生を守る用きを指して善神と言っているのであります。しかるに、この御文の意味は、人がことごとく悪に帰することによって、衆生を守る用きをする善神や聖人といった方々が全部その所を去ってしまい、それらの用きがなくなってしまうということです。

したがって、その後には「是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」、今度は魔や鬼が来るということです。「魔」とは、煩悩をはじめとする、衆生の心を悩乱させる用きをするもののことです。これは奪命者とか、破壊(はえ)などとも言います。有名なところでは、三障四魔というのがありますが、この四魔というのは、陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔の4つです。こういう魔が起きてくるわけです。

次に「鬼」が来るというのです。この鬼というのは、夜叉や羅刹(らせつ)、餓鬼といった餓鬼界に住する者たちであります。これらも人々の功徳や命を奪い、思想の混乱や天変地夭を起こす原因となる、そういう用きをするのであります。よって、このようなことから災難が起きるのであるということです。

次に「言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」とあります。これはどういうことかと申しますと、今、述べたように、世間の多くの人たちが正に背き、そして悪に帰するから様々な災難が起こるという、この大事なことを言わなければならない、それを恐れなければならないということです。つまり、言って罪のまぬかるべきを黙っていてはならない、折伏しなければならないということです。

今日の社会情勢を見てみますと、様々な悲惨な事件が起きています。新聞を見ても、その中に殺人事件などの悲惨な事件が報道されない日はないくらいです。よって、これを見た私たちは、安閑(あんかん)としていてはいけないのです。まさに大聖人様が「言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」とおっしゃる通り、多くの人たちに折伏をしていく、このことが今、私たちにとって最も大事なことであると、こういうことになるわけです。


【嗟呼(ああ)悲しいかな如来誠諦(じょうたい)の禁言(きんげん)に背くこと。哀れなるかな愚侶(ぐりょ)迷惑の麁語(そご)に随ふこと。早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須(すべから)く国中の謗法を断(た)つべし】(御書247ページ11行目)

ここに「嗟呼悲しいかな如来誠諦の禁言に背くこと」とある「誠諦」というのは、真実で誤りがなく、永遠に変わらないということで、これは仏様の言葉を指すのです。それから「禁言」というのは、仏様の誡(いまし)めの言葉です。ですから、これは仏様の真実の言葉や誡めに背くことという意味であります。

「哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと」。この「愚侶」とは、正法を信ぜずに邪法を修行しておるような愚かな僧侶のことです。また「麁語」というのは、粗雑で荒っぽい言葉ということで、これは大乗の教えを「妙」というのに対して、小乗の教えなどは「麁」と言います。つまり粗末なという意味で、そのように譬えられているのであります。ですから、正しい真理、真実というものを解き明かしていないことを麁語というのであります。ここでは特に法然の『選択集』によって、法華経の正しい道を忘れて仏様の禁言に背き、法然の邪義邪宗に誑(たぶら)かされている姿、これを言っているわけです。

当時、日本の国では邪義邪宗の中でも特に念仏が非常に盛んだったのです。この念仏の間違った教えによって、例えば、法然の姿を木に彫刻して仏様のように拝んだり、あるいは画像に描いてそれを崇(あが)めてみたりしていたのです。さらに法然の『選択集』を、今で言う印刷ですが、版木(はんぎ)で刷ってそれをばらまいたりして邪義を弘めているような状況があったのです。

また、あるいは印相(いんそう)を変えてしまうようなこともしたわけです。この印相というのは、仏像を見ると判りますが、釈迦如来や大日如来などの仏像は皆、手で印を結んでいますね。あれは、その仏菩薩の内証(ないしょう)・本誓(ほんせい)を表しているわけです。それを印相と言うのです。そこで、本師であるお釈迦様の印相を阿弥陀仏の印相にすり替えてしまうようなこともしたわけです。つまり、念仏の邪義というのも、そこまできてしまうということです。こういうことが実際にあったのであります。

さらには、薬師如来の堂を阿弥陀如来の堂に変えてしまうとか、法華経の写経をやめてしまって、それを阿弥陀経の写経に変えてしまう。また、天台大師の講というものを行っていたのを、念仏の善導の講に変えてしまうなど、そういったものが、どんどん念仏によって廃(すた)れ、踏みにじられていく状況が存することを、ここで述べられているのです。

皆が仏様の真実の言葉や誡めの言葉に背き、そして法然のような愚侶迷惑の麁語に惑わされ、従っていることが何と悲しいことであろうかと仰せられているのであります。ですから、次のところに「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」と、このようにおっしゃっているのです。

大聖人様は、先ほどの念仏の者たちの行う様々な悪事に対して『立正安国論』の中で、「是破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。此の邪義は即ち選択(せんちゃく)に依るなり」(御書247ページ) と、そのようなことはすべて仏・法・僧の三宝破壊の姿であると御教示あそばされております。

この三宝破壊の姿は、まさに今の池田創価学会と同じなのです。その三宝破壊の姿が、当時の念仏の者共にあったのです。ですから、大聖人様は「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」と、このようにおっしゃっているわけなのです。まさに正を立てて国を安んずるという精神が、ここにもあるわけです。

これを現代に約して言うならば、私たち一人ひとりに対して「折伏をしなければだめですよ」と、このようにおっしゃっているのであります。


【汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無くんば身は是(これ)安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし】(御書250ページ4行目)

この「信仰の寸心」の「寸心」とは、いささかの志、小さな志という意味でありまして、偏った小さく狭い信仰ということになるわけです。その寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰しなさいと仰せであります。

日寛上人は、「当(まさ)に知るべし、『寸心を改めて』とは即ち是れ破邪なり」(日寛上人御書文段49ページ)と、邪を破することであるとおっしゃっています。それから、「『実乗に帰せよ』とは即ち是れ立正なり」(同)と、実乗の一善に帰するということは、正を立てることであると仰せです。さらに、「『然れば即ち三界』の下は安国なり」(同)と仰せであります。

この「実乗の一善に帰せよ」の「実乗」とは、文字通り権大乗に対しての実大乗ということになります。それから「一善」とは、一つの善、唯一の善ですから、これは最高の善という意味で、一往は法華経のことを指すのでありますけれども、再往、大聖人様の御正意は、すなわち文上の法華経ではなくして、法華経文底独一本門の妙法蓮華経にして三大秘法の随一である、大御本尊様に帰命(きみょう)することが「実乗の一善に帰する」ということになるわけです。

ですから、一刻も早く信仰の寸心を改めて実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依するならば「然れば即ち三界は皆仏国なり」と仰せられているのです。この「三界」というのは欲界・色界・無色界のことで、これは生死の迷いを流転する六道の凡夫の境界・住処を3つに分けて三界と言っているのであります。そして「仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや」。この三界が皆仏国となるならば、どうして衰微することがあろうか。十方の国土は、ことごとく宝土である。宝土であるならば、どうして壊れることがあろうかと仰せです。

それから「国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん」。つまり、国に衰微がなくなり、国土が破壊されることがなくなれば、その身は安全になり、心も動揺することがなくなって、落ち着いて日々の生活が送れるようになるということです。

「此の詞此の言信ずべく崇むべし」。つまり、この言葉は心から信ずべきであり、崇むべきであると、このように仰せになっているわけであります。ですから、大聖人様はここに「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」と、このようにおっしゃっているのであります。

我々は今、大聖人様の御言葉を折伏実践の上に示して、御理想とせられる立正安国の実現を図っていかなければならないということなのです。「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」ということを、我々は折伏という実践行動をもって示していく、これが大事なのであります。

折伏というのは、仏様のなされることを、仏様の使いとして我々がそれを行じていくわけです。ですから、これは尊いことなのです。法華経の中にも、「当(まさ)に知るべし、是の人は則(すなわ)ち如来の使(つかい)なり。如来の所遣(しょけん)として、如来の事(じ)を行ずるなり」(法華経321ページ)と示されております。仏様がなされることを、我々が仏様に代わって行じていくということですから、折伏というのは、どれほど尊いことかということです。まさに、「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書668ページ)ということで、その一言一言が全部、相手を救う慈悲の言葉になってくるのです。ですから、折伏は尊いのです。尊いから折伏を行じている人には功徳があるのです。

それは当然のことなのです。仏様のなされることを、仏様に代わって、仏様の使いとして行ずるわけですから、それは仏様にお褒(ほ)めいただくところなのです。御本尊様の照覧(しょうらん)が必ずそこにあるのです。ですから我々は、この御言葉をよく拝して折伏に励んでいかなければならないということになるのであります。



◆教機時国抄◆

【謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し】(御書270ページ11行目)

大聖人様は、このように「一向に法華経を説くべし」とおっしゃっているのです。「一向」というのは、真っ直ぐということです。我々は何しろ、苦しんでいる人、悩んでいる人、不幸な人を見たら必ず折伏しなければいけないのです。一向に法華経を説くのです。

よく折伏ができない理由の中に、「なかなか下種先がなくて」と言う人がおりますが、そんな暢気(のんき)なことを言っていてはだめなのです。隣のおじさんやおばさんを折伏していますか。親戚や会社の同僚をはじめ友人や知人など、折伏すべき方々はたくさんいます。今、日本の人口はおよそ1億2千万人です。日蓮正宗の信徒数は、まだ1億2千万人もいっていないのですから、周りを見れば下種すべき人はたくさんいるのです。ですから「折伏をする相手がいなくなってしまった」なんていうのは、自分が勝手に思っているだけなんですね。それが違うのです。

折伏は、やはり実践しようと思えばできるのです。結局、己心の魔に負けてしまって「あの人は無理だ」と、自分で決めつけてしまっているだけなのです。そのような意識であってはなりません。ですから、やはり一向に法華経を説くということが大事なのです。

折伏をすると、相手は耳を塞(ふさ)ぎます。なかには、それこそ非難中傷、時には本当に迫害を受けるようなことがあります。しかし、それは全部、「毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し」と、このようにおっしゃっております。

この「毒鼓の縁」ということは、第1期の講義の時に説明をしましたが、これは毒薬を太鼓に塗(ぬ)り、それを大衆の中で打つことによって毒が蔓延(まんえん)し、その毒に当てられて皆、死んでしまうということを、正法を聞こうが聞くまいが、その法を聞いたことが縁となって得道することができるということに譬(たと)えているわけで、これは逆縁成仏のことを言っているのです。

それと同じように「毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し」とは、妙法蓮華経の尊さを聞くと、自分では耳を塞ごうが何をしようが、その音を聞くことによって、今度は逆に成仏をしていくということを言っているのです。これが逆縁成仏ということで「例せば不軽菩薩の如し」と、こうおっしゃっているわけです。

この「不軽菩薩」は威音王仏の滅後、像法時代に出現をしまして、一切衆生に仏性があるとして二十四字の法華経というのを説いて衆生を礼拝(らいはい)し、軽んじなかったので不軽菩薩というのであります。その二十四字の法華経とは、「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏【我深く汝等(なんだち)を敬う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし】」(法華経500ページ)という『常不軽菩薩品第二十』に説かれる文であります。

この不軽菩薩に礼拝をされた人たちは、皆、不軽菩薩を軽んじて杖木瓦石(じょうもくがしゃく)の難を加えるわけです。しかし、不軽菩薩は最後まで屈服することなく礼拝を全うして、その功徳によって成仏することができたのであります。そして、このとき不軽菩薩に迫害を加えた衆生も、一度は地獄に堕(お)ちたけれども、逆縁の功徳によって後に成仏をすることができたということです。これが『常不軽菩薩品第二十』の、毒鼓の縁について説かれる不軽菩薩の話であります。

もう一つ毒鼓の縁についての話を紹介いたしますと、大聖人様が『上野殿御返事』の中に逆縁成仏の譬え話を説いておられるのです。では、御書を読みますと、「天竺(てんじく)に嫉妬(しっと)の女人あり。男をにくむ故に、家内の物をことごとく打ちやぶり、其の上にあまりの腹立にや、すがた(姿)けしき(気色)かわり、眼は日月の光のごとくかがやき、くちは炎をはくがごとし。すがたは青鬼・赤鬼のごとくにて、年来(としごろ)男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり、両の足にて散々にふみける」(御書1358ページ)とあります。

これは天竺の女の人の話ですが、あまりに嫉妬心が強いこの女の人は、亭主が憎いあまりに、亭主が日頃読んでいる法華経を散々に足蹴にしてしまったのです。ここに「すがたは青鬼・赤鬼のごとくにて」とありますから、おそらくすごい形相(ぎょうそう)で踏みつけたのでしょう。

そしてその後に、「其の後命つきて地獄に堕つ。両の足ばかり地獄に入らず。獄卒鉄杖をもってうてどもいらず」(同)と。つまり、死んでしまった後に、その罪によって地獄に堕ちることになったのです。けれども、獄卒が女の人を地獄に突き堕とすために鉄杖で打つのですが、身体のほうは入っていくけれども、足のほうはなかなか地獄に入っていかないのです。このことについて大聖人様は、「是は法華経をふみし逆縁の功徳による」(同1359ページ)と。つまり、法華経を足蹴にしたその足だけが、逆縁の功徳によって地獄に入っていかなかったと仰せであります。

これが逆縁成仏ということなのです。ですから、我々が折伏をするときには、相手は耳を塞ぎ、非難中傷をする。時には、それこそいろいろな迫害に遭うこともあるわけです。それでも逆縁成仏を結ぶことが大切なのです。順縁と逆縁というのがありまして、素直に入信する方もいるけれども、強く反対をされてひどい目に遭うこともあるかも知れない。けれども、御書に説かれるように、御本尊に縁をさせていくことが尊いのです。

「一切衆生 悉有仏性」ですから我々は皆、仏性を持っているのです。けれども大聖人様が、「縁とは三因仏性は有りと雖(いえど)も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり」(同1426ページ)と仰せのように、たとえ仏性を持っていても「善知識の縁」、つまりすばらしい縁に値わなければ成仏をしないのです。仏性が仏性としての用きをしない。ですから、縁に触れるということが大事なのです。そこで、その縁に触れる場合には、順縁もあるし、このように逆縁もあるということです。

ですから、不軽菩薩は「あなたは必ず仏様に成れますから敬います」と言って但行礼拝(たんぎょうらいはい)をするわけです。けれども、それを聞いた人々は不軽菩薩を軽蔑し、杖木瓦石をもって迫害をするのです。それでも不軽菩薩は何回も何回も飽(あ)くことなく二十四字の法華経を説くのです。そして、その功徳によって不軽菩薩は仏と成り、同時に不軽菩薩を迫害した逆縁の人たちも、その罪によって千劫という長い間、地獄に堕ちるけれども、その後において再びその縁によって救われていくのです。

ですから我々は、相手が耳を塞ごうが何をしようが、この妙法蓮華経が尊いということを語っていく。つまり「この御本尊様以外に幸せになる道はありませんよ」ということを、きちっと言わなければだめなのです。自分で勝手に「あの人は言ったってだめよ」などと決めつけてはいけないのです。それでは「だめなのは、あなた方ですよ」となってしまいます。ですから、自分勝手な解釈をしないことです。大聖人様の御妙判をよく拝すれば、いかにこの逆縁ということが、大切な一つの縁であるかということが、よく判ると思います。

仏法では、因果の理法ということを説きますが、それはただ因と果を説くだけではないのです。その間に縁があるのです。因果だけであったならば、機械的に、悪いことをした者は悪い結果だけというようになってしまいます。そうすると末代の衆生は皆、過去世にいろいろな因縁を作ってきた荒凡夫ですから、成仏をすることができなくなってしまいます。けれども、その因果の間に縁があるわけです。その最高の縁が御本尊様であるということです。

この御本尊様という最高の縁に触れることによって全部が転迷開悟してくるのです。「煩悩即菩提・生死即涅槃」と開かれてくるのです。提婆達多や竜女の成仏なども同様でしょう。ですから、折伏というのは、相手が聞こうが聞くまいが、きちんと下種結縁していかなければだめなのです。

したがって皆様方には、大聖人様の「謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し」との御妙判を心肝(しんかん)に染(そ)めていただきたいと、このように思うのであります。



◆持妙法華問答抄◆

【一念信解(しんげ)の功徳は五波羅蜜の行に越へ、五十展転(てんでん)の随喜(ずいき)は八十年の布施に勝れたり】(御書297ページ9行目)

この「一念信解」とは、『寿量品』に説かれた仏寿長遠を一念に信解して仏様に帰命するということであります。法華経の『分別功徳品第十七』の中には「四信五品」ということが説かれておりまして、これは「現在の四信」と「滅後の五品」ということでありますが、その「現在の四信」の第一番目に説かれているのが一念信解であります。これは法華経の信心修行の位の中で、初信の位になるわけであります。

「一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ」。この「五波羅蜜」とは、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)・智慧という六波羅蜜のうちの最後の智慧波羅蜜を除いた5つのことであります。すなわち、初信の位である一念信解の功徳は、その五波羅蜜を修行する功徳に百千万倍も勝れているということです。つまり、妙法の功徳というものは、これほど深く広大無辺であるということを、ここでおっしゃっているのです。

そこで、この後が大事なんですね。「五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり」と、このようにおっしゃっているのであります。この「五十展転」ということは、法華経の『随喜功徳品第十八』の中に説かれております。これは、仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、その人もまた聞き終わって随喜をして次の人に伝えるというように、順次に伝えられて、そして50番目に伝え聞いて随喜した人の功徳というのは、四百万億阿僧祗(あそうぎ)の世界の衆生に、80年にわたって金・銀・瑠璃(るり)などの珍宝を供養して阿羅漢果を得させる功徳よりもはるかに勝れていると、このように説いているわけです。

50番目のその人は自解(じげ)のみ、つまり聞いただけで次の人に説かない、化他の行をしないわけです。それでも五十展転して伝えられてきたところの法の功徳というものは、それほど大きく勝れているということです。ましてや自行化他の修行をしている1番目の人の功徳は、どれほど絶大であるかということで、これはつまり折伏の功徳を説いているわけです。すなわち、化他の功徳を欠く50番目の人の功徳を説いて、第1番目の自行化他を具する者の功徳の絶大なることをおっしゃっているのです。

この折伏というのは、最高の慈悲行であり報恩行であり、仏道修行なのです。私たちは、折伏をすることによって過去遠々劫以来の様々な罪障というものを全部消滅していけるのです。ですから、折伏をする人の功徳というのは、それほど絶大であるということであります。

逆に、折伏をしないというのは、功徳がないということになるのです。否、むしろ大聖人様は、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(御書1040ページ)と、折伏をしなければ師である僧侶も檀那も共に無間地獄は疑いないとおっしゃっているのです。ですから、我々の修行というのは自行化他でなければならないということをよく知っていただきたいと思います。


【願はくは『現世安穏・後生善処(げんぜあんのん・ごしょうぜんしょ)』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引(ろういん)なるべけれ。須(すべから)く心を一(いつ)にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき】(御書300ページ8行目)

この「願はくは『現世安穏後生善処』」というのは、法華経の『薬草喩品第五』の文でありまして、仏様の法力を説いたものであります。すなわち、南無妙法蓮華経を信受する衆生の三世にわたる功徳を述べておりまして、現世では安穏なる境界となり、未来世にも必ず善処に生まれ、妙法を受持することができる、これが「現世安穏後生善処」の意味であります。

そこで「願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ」とあるのは、その功徳のある妙法を持つことこそ、ただ今生における真の名聞であり、後世の弄引であるということです。「弄引」とは、手引きという意味です。つまり後世には成仏の手引きとなる、すなわち妙法信受の因が後世における成仏の結果を決定するのであると、このようにおっしゃっているのです。したがって「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」と仰せであります。

我々は人間に生まれてきて、そして何をすべきなのか。これには、いろいろな考え方があるけれども、やはり世のため人のために尽くしていくということが大切なのであり、自分のためだけに生きていくというのは、これは小乗の考え方なのです。小乗にこだわった人々は、仏様から「二乗根性」といって嫌われるのです。二乗の人たちは、仏道修行において自分のためには一生懸命に血の滲(にじ)むような努力をするけれども、他の人のためには何も行わないのです。したがって、仏様から「お前たちは絶対に成仏をしないぞ」と言われるわけです。

我々が折伏をするのは、やはり一切衆生救済という慈悲行に徹するからであり、世のため、人のためなのです。そこに尽くしていくところにまた、己に尽くす因が篭(こ)められてくるのです。自分のことばかりを考えて行動していると「お前は、それでは永遠に成仏しないぞ」と、お叱りを受けることになってしまうわけです。

今、世間がこんなに殺伐(さつばつ)としているのは、皆が自分のことしか考えないからです。自分の欲望のためだったら他人(ひと)をも殺してしまうような、そんな慈悲の心のかけらもなくなってしまった人が大勢いるわけです。これは、みんな貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒のなせる業です。

この貪・瞋・癡の三毒の煩悩を菩提に換えていくのが妙法なのです。まさに「現世安穏後生善処」の妙法です。この妙法を自らが率先垂範(そっせんすいはん)して多くの人たちに下種結縁し、自分が折伏した人には、また折伏することを教えて次の人に展転していくということが大切なのです。それをやらなければ、我々自身の成仏もおぼつかないのです。自分自身のためだけに、いくら題目を唱えてもだめなのです。やはり私たちは、世のため、人のために尽くしていくことが大事なんですね。

世の中には、極悪非道な人ばかりでなく、本当に立派な人たちもいます。時々テレビなんかを見ると、子供たちに対して「大きくなったら何になりたいですか」と質問をしたりしていますね。すると、立派なことを言っている子供たちがたくさんいますね。そういう子供たちが、いつの間にか世の中に狂わされて、おかしくなってしまうのです。これは教育の欠如と言えば、そうかも知れませんが、根本的には、この妙法信受の功徳、妙法蓮華経の尊さを教えていくということを我々が怠(おこた)っていると、そういうことになってしまうのです。我々にはまた、そういう大事な役目があるということを、ひとつよく知っていただきたいと思います。

まさに、御妙判に「妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」とお示しの通り、今生人界の思い出を立派に作っていくということが大事ではないかと思います。



◆南条兵衛七郎殿御書◆

【いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の敵をだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝に仕ふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵を知りながら奏(そう)しもせず、私にも怨まずば、奉公皆失せて還って咎に行なはれんが如し。当世の人々は謗法の者と知ろしめすべし】(御書 322ページ 18行目)

ここに「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」とあるのは、先ほども申し上げたように、自分のためだけに一生懸命やってもだめだということを、ここでもおっしゃっているのです。どんなに善いことを行っても得道することがないというのは、これは本当の大善ではないからです。同じ善でも小善から大善までいろいろな善があるわけです。ですから、自分では大善だと思ってみても、妙法という本当の大善から見れば、それは小善でしかないのです。

大聖人様が、「善なれども大善をやぶ(破)る小善は悪道に堕つるなるべし」(御書323ページ)と仰せのように、法華経の大善を敵に回すような小善は悪なのです。それと同じように「いかなる大善」といっても、法華経の敵も責めない大善は、それは本当の大善ではないのです。本当の大善というのは、この妙法を信受し、自行化他の修行に励む、これが大善中の大善なのであります。したがって、法華経を千万部書写したとしても、あるいは一念三千の観道を得たとしても、法華経の敵を見て折伏をしなければ、その人は成仏をしないということを、大聖人様がはっきりとおっしゃっているのです。

最初にも申し上げましたが、皆さん方も「折伏をしなければだめですよ」と、よく言われるでしょう。なぜ、そのようなことを言われるのかと思うかも知れないけれども、それは誰かが勝手に言っているのではなく、御本仏大聖人様がおっしゃっているのです。本当の意味で自分自身が幸せになりたければ、折伏をすることです。世のため、人のために尽くしていく、そうすれば必ず幸せになれるのです。皆さん方には、このことをよく知っていただきたいと思います。

次のところに、その譬えといたしまして「たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し。当世の人々は謗法の者としろしめすべし」とあります。これは朝廷に仕える者が、朝廷の敵である者を見ながら、知りながら放って置いては、それまでの奉公が皆失せて、かえってそれは失となるということをおっしゃっているのであります。



それでは、時間がまいりましたので、本日の講義は、このところまでといたします。

大聖人様の御書というのは、我々に警告を与え、忠告を与え、そして我々に成仏の道を示してくださっているわけです。ですから、テキストの残りの部分は、自宅に帰ってから読んでください。1項目でも1ページでも構いませんから、毎日、読んでください。そうすれば「ああ、折伏をしていかなければいけないな」「折伏することが末法の修行なんだ」「我々の仏道修行というのは折伏すること」「自行化他にわたる信心が大切なんだ」ということが、よくお判りになると思いますので、皆様方には、どうぞお帰りになりましたら、これを読んでいただきたいと思います。

取り留めのない話になってしまいましたが、以上をもちまして私の話を終了いたします。





第15回法華講連合会少年部大会より
平成18年7月30日 於総本山広布坊


◎御法主日如上人猊下御言葉

本日は、法華講連合会第15回少年部大会が、ここ総本山において盛大に開催され、まことにおめでとうございます。

また、昨日は全国から30地方部、計31隊の鼓笛隊が参加して、恒例の法華講連合会全国鼓笛隊コンクールが盛大に執り行われ、まことにおめでとうございました。コンクールの結果は結果として、各地方部の鼓笛隊の皆様が皆、真剣に、実に見事な演奏を披露されましたことを心からうれしく思います。全国の鼓笛隊のこれからの健全な発展を心から願うものであります。

さて、世の中のすべての人々は、だれもが幸せを求め、楽しい入生を送ろうと思っています。しかし、現実にはなかなか思うようにはいかないで苦しんでいる人が大勢おります。


貪瞋癡の三毒でみんなが不幸になる

では、なぜそうなるのか。それは、人の心のなかには、幸せになろう、善いことをしていこう、みんなと仲良くしていこう、正しい生活をしていこう、人に迷惑をかけないようにしていこうと思う心と、その反対に、人が幸せになろうとするとそれを邪魔する用きがあるからであります。それを仏法では、貪瞋癡の三毒と言っています。

貪瞋癡の三毒の「貪」というのは「貪欲(とんよく)」と言って、むさぼり求めることであります。世間一般では「どんよく」と読んでおりますが、意味は同じです。つまり、お金やそのほかの財産や地位や名誉などを際限なくむさぼり求め、飽くことがない姿を言います。この貪欲に取り憑(つ)かれると、お金でも名誉でもなんでも、自分では持ちきれないほどたくさん持っていても、その欲張りぶりは度を超え、時には手段を選ばず争ってまでも人のものを奪い取って、自分のものにしようとします。また、人が少しでも自分より良いものを持っているとそれを欲しがり、そのくせ自分のものは物惜しみして、一切、人に与えようとせず、欲しいものを欲望の赴くままにむさぼり求めるその姿は、まさに餓鬼道そのものであります。したがって、この貪欲は餓鬼道(がきどう)に堕ちる第一の原因とされています。

次に、貪瞋癡の「瞋」とは「瞋恚」と言って、瞋(いか)り憎むことで、わずかのことでも感情を抑えきれず、自分の感情のままに振る舞い、自分の思うようにならないと瞋り狂い、辺り構わずどなり散らして相手を非難するようになるのであります。また、自分に非があってもそれを改めようともせず、瞋りを相手にぶつけて、徹底的に相手を攻撃するようになります。まさにその姿は修羅界(しゅらかい)そのものであります。したがって、一見、温厚そうで人格者のような人であっても、この瞋恚に取り憑かれますと、わずかなことでも、突如として人格が変わって瞋り狂ってしまうのであります。これは三毒のなかでも最も厳しく人間の心を害し、仏道修行の障害となるもので、「瞋恚の炎」というように火に譬えられていることが多く、個人的な争いをはじめ民族間の紛争や国同士の戦争などは、すべてこの瞋恚、すなわち瞋りから起きるのであります。

次に、貪瞋癡の「癡」とは「愚癡」ということで、「おろか」ということであります。世間一般では「愚痴をこぼす」と言うように、言っても仕方のないことを言って嘆くことを愚痴と言いますが、仏法では、愚癡とは愚かで、ものの道理が解らないことを言います。ものの道理が解らないということは、善因善果・悪因悪果というように、善いことをしたら善い結果が得られ、悪いことをすれば悪い結果を招くという因果の道理が解らずに、あとで大変な苦しみを味わうことになるにもかかわらず、平気で悪いことをするようになってしまうのであります。また、悪いことをしても、悪いとは思わなくなってしまいます。したがって、この愚癡というのは仏法的には「無明」と同じ意味に解釈しています。無明というのは「明るくない」「暗い」という意味で、仏様の教えを知らず、善いことと悪いことの区別がつかない、愚かなことを言います。愚かでものの道理に暗いことを闇に譬えて無明、明るくないと言うのであります。こうした道理に暗く愚かな行いが繰り返されてくると、悪いことも平気で繰り返されてくるので、悪が悪を生み、ますます悪の道に染まっていくのであります。

このように、貪瞋癡の三毒によってむしばまれた心の結果は、悪業の因縁を積み、その悪業の因縁によって苦しみを生じ、結局、多くの人がこの貪瞋癡の三毒によって、自らの身を滅ぼしていくのであります。したがって、この貪瞋癡の三毒が人の善根を害する、すなわち人が善いことをしようとすると、それを妨害する最も根本的なものであるところから、毒と言われているのであります。また、多くの人々を不幸に陥れ、人を害するその姿はあたかも毒蛇の如く、また毒竜の如きである故に、毒と名づけるとも言われております。

このように、三毒が充満した時には、個人だけではなく周りの人達をはじめ、社会全般にわたって不幸をもたらし、一国をも、また世界をも不幸に陥れてしまいます。最近の新聞紙上やテレビなどで毎日のように報道されている、例えば秋田の連続児童殺人事件のような、悲惨で残酷な事件はなぜ起きるのか。それは皆、心の荒廃によるのであります。その心の荒廃は、詮ずれば貪瞋癡の三毒のなせる業(わざ)であります。


御本尊様に縁して三毒を克服しよう

このように考えてくると、人々が幸せになるためには、一番の妨げとなる貪瞋癡の三毒を、その三毒とは反対の良い方向、正しい方向への欲望に変えていかなければなりません。では、どうしたらこの貪瞋癡の三毒を変えることができるのか。

人はもともと、様々な縁に触れて生きております。世間でも「朱に交われば赤くなる」と言われておりますように、人間は善い縁に触れれば自然と善い方向に向かいますが、悪い縁に触れますと、いつの間にか悪い方向に行ってしまいます。つまり幸せと不幸の分かれ目は、正しい縁、勝れた善い縁に触れるか、間違った悪い縁に触れるかによって大きく変わってきます。もちろん、縁といっても色々な縁があります。すばらしい先生や先輩や友達に巡り値うことも、善い縁の一つでありましょう。しかし、様々な縁のなかで、我々の人生に最大の影響を及ぼす縁とは何か。それは、宗教であります。

正しい、勝れた宗教は入間の心を浄化します。間違った考えや行動を、正しい考えや行動へと変えます。正しい宗教に触れれば、人は自然のうちに正しい人生観を身につけ、命を大切にし、相手を思いやる優しい心が生まれ、平和を愛し、正しい価値観を持って、楽しく間違いのない人生を進んでいくことができます。反対に、間違った宗教は、その害毒によって貪瞋癡の三毒がますます強盛となり、常に自分本位の考えしか浮かばず、支配欲が昂(こう)じて人と争い、人を平気で傷つけ、正邪の分別も判断できず、結局はその人自身も、また周りの人も苦しまなければならなくなってしまいます。

同じ人間の心でも、正しい教え、すなわち正しい宗教に縁するか、間違った宗教に縁するかによって、全く正反対の結果を招くわけであります。幸せな人生を送ろうとするならば、正しい大聖人様の教えに縁していくことが一番大切なのであります。なぜならば、大聖人様の教えは末法のすべての人々を救うことができるただ一つの正しい偉大なる教え、すなわち一閻浮提第一の教えであるからであります。日蓮大聖人様は、正直に間違った教え、謗法を捨てて、ただ大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、貪瞋癡の三毒に支配された命が、妙法蓮華経の用きによって仏様と同様のすばらしい命に転ずることができると仰せであります。


しっかり勤行をして、お友達と一緒にお寺へ参詣しよう

故に、大聖人様の教えを信じ、題目を唱え、自行化他の信心に励んでいくことが、幸せになる、最善にして最高の方途となるのであります。そのためには、私達はまず第一に、朝夕の勤行をしっかりと行うことが大事です。朝夕の勤行をしっかりと行うことは、信心の原点とも言うべき最も大事なことであります。

そもそも、宗教から拝むという行為を取ってしまえば、それは宗教でもなく、単なる理論に過ぎません。単なる理論では入々は幸せにはなれません。信仰とは理論ではなく、実践であり、体験であります。したがって、朝夕の勤行をしっかりしていけば、そこから様々な問題が正しい形で必ず解決をしていくのであります。それが御本尊様の偉大なる功徳であります。

どうぞ、少年部の皆様方はしっかりと朝夕の勤行をしてください。そして、その朝夕の勤行の時は背筋をきちんと伸ばし、正しい姿勢で勤行するよう心掛けてください、また、お寺での御講をはじめ少年部会、唱題会などの諸行事にも積極的に参加しましょう。また、お友達もお寺にお誘いしましょう。仲の良いお友達がいたら是非、お誘いしてください。


今、宗門の僧俗は、日顕上人から頂いた御命題、すなわち平成21年の「地涌倍増」と「大結集」の達成を目指して力強く前進をしております。この時に当たり、少年部の皆さん方も、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さんと共に、自分でできることを見つけ、御命題達成へ向けて頑張っていただきたいと思います。

以上、本日の少年部大会の盛会をお祝いするとともに、少年部の皆様方のいよいよの信心倍増、御健勝を心からお祈りいたしまして、本日の挨拶といたします。


少年部大会


☆少年部大会より 体験発表 宣照寺支部・大塚多喜(小3)

こんにちは。

ぼくがはじめて、友達の寺川かずま君とお寺に行った時、「なんみょうをしたら良いことがおこる」と、教えてもらいました。ある日、かずま君が、家でなんみょうをするのを見て、「家でもできるんや。じゃあ、たくさん、なんみょうできるんや」と思い、ぼくもしんじんしたい気持ちが、どんどん強くなりました。

ある日お寺に行こうとしたら、きゅうにぐあいがわるくなり、ゲェーをはきました。ぼくは、「お寺に行けないかな」と思ったけど、「それはま(魔)っていう、しんじんのじゃまをするわるいやつだよ。お寺に行ったら、なおるよ」と、かずま君のお母さんが教えてくれました。前の日の夜に食べたパンに、『ま』が入っていたんだと思いました。気持ちがわるかったけれど、がんばってお寺に行くと、本当になおったのでびっくりしました。

「お寺に行きたい。家に、ご本ぞんさまに来ていただきたい。なんみょうしたい」と、お母さんにたのんだら、「たいへんだよ。あんたはできないよ、やめとき」と言われました。でも、「ぼくだってできる。ご本ぞんさまが家に来られたら、いつもの生活も楽しくなるのに。でも、いつかできる」と思ったので、あまりたのみませんでした。

平成18年4月16日に、ご本ぞんさまが、ぼくの家に来られました!

はじめは、朝のごんぎょうに2時間近くかかりましたが、朝夕のごんぎょうを毎日していると、おきょうもすぐにおぼえられ、だんだん時間もみじかくなり、ごんぎょうが楽しみになりました。ずっと、ご本ぞんさまとの生活を楽しみにしていたので、足のしびれも平気でした。学校でも、時間があれば心の中でいつもしょうだいしています。

5月5日、北きんき地方ぶの少年ぶ大会で、「ゆうき・しょうじき・せいぎの木」の、話を聞きました。「ぼくは、ゆうきも、しょうじきも、せいぎも、ご本ぞんさまにいただいている。ぼくも、日蓮正宗のことを、お友達に教えたい」と思いました。でも、どうやってお寺のことを話していいのか、わかりませんでした。

そんなある日、チャンスがやってきました。学校で「知ってほしいな自分のこと」という題で、作文を書くことになりました。ぼくは、日蓮正宗のことを、みんなに知ってほしいと思い、「日曜日には、日蓮正宗のお寺に行っています。そこでは、南無妙法蓮華経を言います。ぼくがお寺に入ったのは、かずま君にしゃくぶくされ、それになっとくしたからです」と書きました。そして、その作文を発表したあと、みんなにしつもんされ、お寺の話をできたので、「ご本ぞんさまのおかげだ」と思いました。

ぼくは、かずま君が日蓮正宗のことを、教えてくれなければ、ご本ぞんさまのことを、ずっと知らないままだっ たと思います。だから、ぼくが教えてもらったように、友達が家に遊びにきたら、「ご本ぞんさまは大事なので、おぶつだんの前であばれたり、足やおしりをむけてはいけないよ」と、教えてあげます。そして、「いっしょに、南無妙法蓮華経を、言ってみる?」とさそっています。少しでもたくさんの人に、日蓮正宗のことを知ってもらえるように、がんばります!



☆少年部大会より 体験発表 経王寺支部・鉄本拓哉(小6)

みなさん、こんにちは。ぼくの両親は、ぼくが生まれる前から法華講の信心をしており、ぼくは、生まれてすぐ御授戒を受けました。生後8力月の時、不注意でストーブの上にかけてあったおなべをひっくり返してしまい、体の40%に大やけどをしましたが、その1週間後にお正月の初登山会に参加させていただいたおかげですっかりよくなり、今は、やけどのあとも残っていません。

また、ぼくは小さい時からアレルギーぜんそくで、発作がおこると病院に行っていましたが、一度も入院した事はありません。検査をすると「この数値は、入院をくり返す位ひどいけど君は症状が軽い、不思議だ、めずらしい」とお医者さんに言われ、御本尊様のおかげだなと思いました。発作がおきて苦しい時でもお題目を唱えると体が楽になるのでとてもありがたいのです。

小さい時はお母さんのひざの上で勤行をしていました。毎日少しずつお経を読む練習をして、保育園に行く道でも口ずさんで唱えていると、4才の頃には全部読めるようになりました。5才の頃から御本尊様のお給仕も大好きになり、御宝前のおそうじをしたりおしきみの水を替えたりお仏飯をお供えしたりするようになりました。小学校に入ってからは体調が悪い時でも、朝夕の勤行はほとんどぬかさずしています。

そして、ぼくは3年生の秋、お姉ちゃんが入隊している大阪地方部鼓笛隊に入隊しました。少年部合宿登山や地方部総会の時に演奏をしている姿を見てずっとあこがれていたのでとても感げきしました。

今日は、昨年10月15・16日にあった大阪地方部23ヵ寺合同支部総登山に参加した時のお話をしたいと思います。ぼくのいとこの、6才、4才、2才の3人は、まだ御授戒を受けていなかったので一度も支部総登山に参加した事がありませんでした。いとこの両親は入信していますが、子供達が入信する事について、まだ小さいし、自分から信心したいというまで待って欲しいと言っていました。合同支部総登山の日に、ぼく達鼓笛隊が広布坊で演奏することになったので、ぼくとお姉ちゃんは、いとこに早く信心して一緒に御登山させてもらいたいなと強く思うようになりました。

登山のしめ切りが近づいても、よい返事がなかったので心配していましたが、堀御住職様はお母さんに「最後まであきらめないで御祈念しましょう」と御指導下さったそうです。ぼく達は、家族で一生けん命唱題しました。その後、いとこ3人のうち上の2人が、おばあちゃんの家に来ているときいたので、ぼくとお姉ちゃんとで会いに行きました。子供達で遊んでいる時にぼくが、「くるちゃんとひろくん、今度一緒に本山行けへん?」とさそってみると、「行きたい」と言ってくれたので、勇気を出して「一緒に信心しようや」とたずねると、「うん。信心したい」と言ってくれました。「そしたら、お家に帰って信心したいってたのんでごらん」と言うと、「うん!」と言って、本当に帰ってから両親に信心させて欲しいと言ったみたいです。

そして、支部総登山1週間前の10月9日、町内の運動会にぼく達が参加していた時、お母さんに電話がありました。それは、おばあちゃんからで、「今お寺です。くるちゃんとひろくん、御授戒を受けました」という内容でした。お母さんは、ぼく達の所に走って来てうれしそうに教えてくれました。ぼくは、「ああ、これでやっと一緒に信心ができる。本当に良かったなあ」と思いました。

こうして、いとこと初めて一緒に御開扉を頂戴できたうえに、ぼく達の演奏も聞いてもらう事ができました。堀御住職様がおっしゃった通り、あきらめちゃいけないと思いました。今では、毎月お寺の少年部会にいとこと一緒に参加させていただいています。そしてまた、一番下の子も近いうちに御授戒を受ける事になり、今年はみんなそろって支部総登山に参加できそうです。

今年、ぼくにとって小学校最後の年が、経王寺創立30周年の記念の年にあたっているので、まだ入信していない身内や友達に信心のお話をしていきたいと思います。

最後になりましたが、ぼくの好きな御書をはい読します。『新池御書』にいわく、「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(御書145ページ)

以上でぼくの体験発表を終わります。




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