大白法

平成18年9月16日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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宗内全僧俗が一致して御命題成就の御祈念を

御祈念(四座):

来るべき平成二十一年・立正安国論正義顕揚七百五十年に当たり、
地涌倍増と大結集を名実ともに必ず成就なさしめ給え。

※趣旨に関しては、下記の御法主上人猊下御言葉「9月度広布唱題会の砌」を御参照下さい。





御法主日如上人猊下御言葉


◎9月度広布唱題会の砌

皆さん、おはようございます。本日は支部総登山で御参詣の各支部指導教師の方々、また講員各位をはじめ、大勢の方々が唱題行に参加せられまして、まことに御苦労さまでございます。本年「決起の年」も、いよいよ残り4カ月となりましたが、皆様には日夜、誓願達成に向けて御精進のことと存じます。

常々申し上げておりますように、本年「決起の年」は御命題達成の鍵を握る、まことに大事な年であります。極論すれば、本年「決起の年」の成果いかんによって、御命題達成の成否が決まると言っても、けっして過言ではありません。一丈の堀を越えられぬ者が、十丈、二十丈の堀を越えられぬように、御命題を達成するためには、まずは本年「決起の年」を必ず勝利することが肝要であります。

大聖人様は『持妙法華問答抄』に、「未来永々の楽しみはかつがつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪(むさぼ)るべからず。『三界は安きごと無し、猶火宅の如し』とは如来の教へ『所以(ゆえ)に諸法は幻の如く化の如し』とは菩薩の詞なり。寂光の都ならずば、何(いず)くも皆苦なるべし。本覚の栖(しみか)を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは『現世安穏・後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞・後世の弄引(ろういん)なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(御書300ページ)と仰せであります。

人はとかく目先の欲に執われて、稲妻や朝の露のように瞬く間に消え去るはかない夢を追いかけ、空しい名声や利欲を貪りがちであります。こうした名聞利養は凡夫の抜き難い欲望であり、煩悩を増大させる最大のものでありますが、しかし、このままでは六道の世界から脱しきれず、永遠の幸せを得ることはできせん。三世にわたる真の幸せを願うならば、たとえ今は苦しくとも、妙法信受の一念を強く起こし、いかなる困難、障害が眼前に起きようが、確固たる信念力をもって信心根本に乗りきっていくことが大事であります。

もちろん、ただいまの御文に「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」と仰せのように、たしかにこの世界はけっして安住の地とは言えません。また、菩薩の言葉に「諸法は幻の如く化の如し」とあるように、世間の事象は幻のようでありますが、しかし、この娑婆世界にこそ、実に仏様が常住しましますのあります。したがって、娑婆即寂光の原理によって、今世、この娑婆世界において、仏様の御意のままに強盛なる信心に励むとき、その境界はまさしく「寂光の都」「本覚の栖」となり、これを離れては真の喜びも、幸せもかなえることはできないのであります。

すなわち、「現世安穏・後生善処」の妙法を持つことこそ、今生人界における真の名聞、後世の弄引、すなわち後生善処への手引きとなるのであります。その上で最も大事なことは、「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」と仰せのように、地涌の菩薩の眷属としての自覚と一切衆生救済の誓願に立ち、大御本尊への絶対の確信のもと、不退転の決意をもって折伏を行じ、もって自行化他の信心に励むことが肝要となるのであります。

そこで、初めにも申し上げましたが、本年「決起の年」もいよいよ残り4カ月、約120日間となりましたが、我々はこの120日間をいかに闘いきっていくか。一見、120日間は短いようでありますが、しかし、我々が闘うには十分な時間であります。身軽法重、死身弘法の精神に立って本気になって闘えば、120日間はけっして短くはありません。そもそも、時間の価値は単に長短だけで決まるものではありません。時間の価値は、その内容によって大きく変わるのであります。120日間を有効かつ価値ある時間とするためには、まず講中全体が志を一つにして、折伏に次ぐ折伏を重ねていくことであります。

もちろん、我々が立ち上がれば、三宝破壊の池田創価学会をはじめ、あらゆる魔が妨害に出ることは間違いありません。しかし、その妨害を恐れてはなりません。大聖人様は、「法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点も深く信ずれば我が身即ち仏となる。譬へば白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆に白き物を入るれば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる、故に妙法と申す」(同1365ページ)と仰せであります。

大御本尊様への絶対の確信をもって「毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる」との御金言を信じ、己心の魔をはじめ、行く手を阻む一切の障害を打ち砕き、ただ一心に一天広布を目指し、一切衆生救済の折伏に励むとき、必ず大御本尊様の御照覧と諸天善神の用(はたら)きによって我らの願いは達成され、何物にも代え難い広大なる功徳を我らにもたらせ給うのであります。

また、この120日間の不惜身命の闘いをとおして、自らの信心のなかにすばらしい歴史を刻み、今生人界の思い出を作ることができるのであります。そのためには、強い祈りと実践が必要であります。よって、先般、「院達」にて全国教師各位ならびに全国法華講員各位に御通知をしたように、このたび、御命題達成を期して全国の僧俗が一体となって、勤行、唱題会等々の折々に、「来たるべき平成21年・立正安国論正義顕揚750年に当たり、地涌倍増と大結集を名実ともに必ず成就なさしめ給え」との御祈念を統一して行っていくことになりました

大聖人は『経王殿御返事』に、「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(同685ページ)と仰せであります。我らの祈りは必ずかなう、とのお言葉であります。ただし、この祈りも「御いのりの叶ひ候はざらんは、弓の強くして弦よはく、太刀つるぎにて使う人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とがにては候べからず」(同975ページ)と仰せのように、我々の信心が臆病であっては祈りもかないません。臆病な信心とは、難を恐れて、優柔不断で実践を伴わない信心であります。祈りは、実践を伴って初めて、祈りが祈りとしての験(しるし)を顕すのであります。

されば、大御本尊様への絶対信の上に立った強盛な祈りと断固たる折伏実践をもって、残り4カ月、120日間を各支部が全力を挙げて闘いきっていけば、本年度の誓願は必ず達成され、来たるべき平成21年の大佳節を名実ともにお迎えすることができると固く信じます。

どうぞ皆様方には、御命題達成の最も重要な鍵となる、これからの120日間の闘いを、最後の最後まであきらめず闘いきっていただきたいと思います。以上、各講中ならびに講員各位の一層の御精進を心からお祈り申し上げ、本日の挨拶とさせていただきます。


9月度広布唱題会


◎第11回海外信徒夏期研修会の砌

世界各国からお集まりの皆様方には、今回の夏期研修会、まことにおめでとうございます。御承知のとおり、今、宗門は来たるべき「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」を目指して、日顕上人から頂いた「地涌倍増」と「大結集」へ向けて精進をしております。この二つの御命題は、私達がなんとしてでも達成しなければならない大事な御命題であります。

今日の混沌とした世の中の姿を見ると、誰もがなんとか幸せになっていこう、世界が平和であってほしい、一人ひとりが本当に幸せで楽しい生活を送りたいと思っております。そして、それぞれがみんな一生懸命に努力はしておりますけれども、真の解決には至っておりません。真の解決を図るためには、実は一番根本のところが大事でありまして、その根本のところは何かと言うと、大聖人様の正しい法に基づいて豊かな心を持ち、そしてその心をもって本当の幸せと真の世界平和を築いていくということであります。

皆様方も御承知と思いますけれども、『立正安国論』の精神はそういうことであります。「正を立てて国を安んずる」というなかの「正」というのは、正しいということであります。その正しいということは何かと言えば、日蓮大聖人様の仏法であります。この日蓮大聖人様の仏法を立てて国を安んずるのであります。

「国」というのは日本国だけとか、一つの国を指しているわけではありません。この国という語のなかには全世界が含まれるのであります。ですから大聖人様の正しい仏法をもって真に世界平和を願っていく、つまり国を安んじていくということを今、我々一人ひとりが行っているのであります。したがって、皆様方がお題目を唱えて折伏することはまことに尊いことなのであります。この功徳が必ずや実って、皆様方が一生成仏を果たしていくことは問違いありません。

また、本日、皆様方は総本山にお参りになりましたけれども、この総本山には戒壇の御本尊様がまします。この戒壇の御本尊様がまします所こそ、まことにもって世界唯一の清浄な地域であります。大聖人様のお言葉のなかに、「此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(御書1569ページ)というお言葉があります。つまり、御戒壇様ましますこの総本山に集うことは、それこそ想像を絶するような、すばらしい功徳があるということであります。

「三業の悪転じて三徳を成ぜん」という三業というのは、身口意の三業ということであります。「身」というのは身体であります。「口」というのは言葉のことであります。「意」というのは心であります。つまり、どういうことかと言いますと、まず私達には心があります。この心が悪い方向へ行くと悪い行いをします。また悪いことを言います。正しい心を持っていれば、正しいことを行います。そしでまた正しいことを言います。よって、この身口意の三業ということが非常に大事でありまして、この身口意の三業が悪いほうへ傾いていきますと、その人の人生は苦しみの世界に入っていきます。正しいほうに向いていますと、私達の生活は本当に正しい、成仏の境界に至ることができるのであります。

大聖人様はこの総本山に集う、すなわち本門戒壇の大御本尊様のおわしますこの総本山に集うことは、まさに三業の悪を法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳に転ずることができると仰せなのであります。法身・般若・解脱というのは、難しい話でありますが、「法身」の徳というのは永遠不変の法であります。私達が不変の真理を悟って泰然とした境界に立つことが、法身の徳を得ることになります。「般若」というのは智慧であります。どんなに苦しいときでも無尽蔵に智慧が湧いてきて、それを乗りきることができます。そして「解脱」というのは束縛を脱することであります。つまり法身の徳と般若の徳、この二つによって私達は苦しみの束縛から逃れることができるのであります。つまり、ここ総本山に集うことは、それほどすばらしい功徳があるということであります。

したがいまして、皆様方は今日、ここ総本山に集われまして、そしてすばらしく尊い功徳を身につけました。残りは、この功徳を自分だけのものにしないで、多くの人に分け与えていくことが大事であります。それはどういうことかと言いますと、折伏を行うということであります。一人だけの幸せではなくして多くの人達の幸せを願って、日蓮大聖人様の正しい法が唯一、私達を幸せにする一番尊い法であることを心を込めて伝えていくということであります。そして、その輪が広がっていったときに、本当に世界平和が実現できる、全人類の幸せは必ず実現できると、このように思う次第であります。

皆様方には、本日、この総本山に集って身につけた功徳を、またさらに多くの方々に伝え、共に幸せな、そして本当に明るい世界を築いていっていただきたい、このことを心からお祈りいたしまして、挨拶といたします。皆様方、本日は本当におめでとうございました。




御法主日如上人猊下御講義
折伏要文(第4期)


皆さん、おはようございます。毎回、講義の始まる前に少しお話をしているわけでありますが、私が日顕上人猊下の後をお承けして総本山に入りましたのが昨年の12月16日でございまして、今日は6月18日ですから、それから半年と2日が経ったということで、とりあえず半年を過ごすことができました。その間、私といたしましては、日顕上人猊下から御下命賜った平成21年の御命題である「地涌倍増」と「大結集」は、何としても達成していかなければならないと、このように考えている次第であります。

就中(なかんずく)、地涌倍増と大結集の2つの中でも、特に地涌倍増ということが大事ではないかと思います。つまり大結集と言いましても、地涌倍増の伴わない大結集は、これは結局、単なる数集めだけの、実のない大結集になってしまいます。実の伴った地涌倍増の大結集を果たすためには何が必要かと言えば、これはもう折伏以外にないわけです。

そこで今回、私の教材といたしまして『折伏要文』を挙げて、平成21年までの残り3年間を、皆で折伏に打って出て、何としてでも地涌倍増を果たしていく。地涌倍増が立派に果たせれば、あとは大結集は簡単であります。そして御命題にお応えしていきたいと考えている次第であります。

皆さん方も各支部において指導教師や講頭さん、さらには幹部の方々などから、常々「折伏をしなさい」と言われているでしょう。しかし、この折伏ということは、私たちが勝手に「しなさい」と言っているのではないのです。私たちは、折伏の意義をもう少しよく知らなければならないのです。その上からまず原点に立ち返って、そこで御本仏大聖人様は、折伏について何とおっしゃておられるのか。このことを是非とも知っていただきたいと思います。ただ単に私たちが声高に「折伏をしなさい」と叫んでいるのではない。御本仏大聖人様が、私たちに対して「折伏をしなければ幸せになれないぞ」と、このようにおっしゃっているということをお伝えしたいと思いまして、今回、このように『折伏要文』を挙げた次第であります。

それでは、テキストの12ページをお開きください。今日は、そこにある『南部六郎殿御書』からになります。それでは拝読いたします。


◆『南部六郎殿御書』◆

【眠れる師子に手を付けざれば瞋(いか)らず、流れにさを(竿)ゝ立てざれば浪(なみ)立たず、謗法を呵責(かしゃく)せざれば留難なし。「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責せずんば」の置の字を畏れずんば今は吉し、後を御らんぜよ、無間地獄は疑ひ無し】(御書463ページ1行目)

これは非常に厳しい御言葉でございましてここで大聖人様は「折伏をしなければ無間地獄は疑いなし」と、ここまでおっしゃっておられるわけです。この「眠れる師子に手を付けざれば瞋(いか)らず、流れにさを(竿)ゝ立てざれば浪(なみ)立たず」というのは当然の理でありまして、やはり折伏は、私たちが「動く」といことが大事なのです。私たちは、座していたのでは絶対に幸せを掴むことはできない、折伏も達成することはできないわけです。

そもそも仏法、すなわち信仰というのは実践であり、体験なんです。行動なんですね。極端なことを言うと、信仰から実践とういうものを取ってしまったら、それは信仰ではないのです。それでは、信仰とは何か。信仰とは観念ではないんです。まず一番基本になるのは、御本尊様の前に端座して、きちっと正座をして、そして手を合わせて御本尊様を見つめ、南無妙法蓮華経と唱える実践なんです。ですから「寝ながら勤行をした」なんていう話しは聞いたことがないでしょう。それだったら誰でもできてしまいます。けれども、そうではない。まさに、実践、体験なんですね。ですから、動かなければだめなんです。

自行化他という上からも、まさに私から打って出ていかなければ折伏はできません。大体、末法の衆生というのは、本未有善(ほんみうぜん)の衆生ですから、相手のほうから法を求めて来ることはないのです。ここにも大勢の方がいらっしゃるけれども、自ら法を求めて入信したという方がいたとすれば、それは本当にごく稀(まれ)な方のです。やはり、私たちがきちんと折伏に打って出て、そして「あなたの行っている信仰は間違いですよ」「あなたの信仰に対する考え方は間違いですよ」ということを私たちが積極的に言っていかなければ、折伏にならないのです。やはり、実践ということが大事なのです。

ですから、この御文にあるように、ただ座しているだけでは絶対に幸せは掴めないのであります。もちろん、寝ていれば怪我はしません。立ち上がって動き出せば、怪我はするかも知れない。つまずいて転んだりすることもあるかも知れない。けれども、ずっと寝ていたのであれば、その人は目的地に着かないのであります。やはり、私たちは勇気を振り絞って立ち上がり、目的地に向かって歩いて行かなければだめなのです。

その中では、いろいろなことが起きて来る。だからといって、それを怖がって寝ていたら、その人は一生だめになってしまうのです。まさに「眠れる師子に手を付けざれば瞋(いか)らず、流れにさを(竿)ゝ立てざれば浪(なみ)立たず」、何にもないかも知れないけれども、その人はそれで終わり。一生成仏は絶対に果たすことができないのです。そういう意味で、謗法呵責をしなければ留難がない、いろいろな問題、様々な難も起きてこないと、こういうことです。


そこで大聖人様は「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責せずんば」の文を引かれた上で、この「置の字を畏れずんば今は吉し」、つまり、そのまま知らん顔をしているならば、今はいいだろうと。けれども「後を御らんぜよ、無間地獄は疑ひ無し」と仰せなのです。ですから、魔を恐れていたのでは絶対に幸せは掴めず、無間地獄は疑いないということであります。

私たちは、信仰に自信をもっていないとだめなのです。仏が魔に負けることはない、絶対に魔は仏には勝てないのです。ですから、我々は信仰に対してももっと自信を持ち、この大御本尊様を信仰しているんだとという確信を持って、それで魔に立ち向かって行けば、魔は怯えてしまうのです。我々は、そういうことをよく知らなければならないということであります。ですから、我々一人ひとりが本当に勇気を持って立ち上がって折伏に打って出なければ、今はよくても後はたいへんですよ、無間地獄という恐ろしい結果が待っていますよ、このように大聖人様がおっしゃっているということを、よく認識していただきたいと、このように思います。



◆善無畏抄◆

【設(たと)ひ八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て、大小乗の戒行を尽くし、十方世界の衆生を一字の如くに為すとも、法華経謗法の罪は消ゆべからず。我等過去現在未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは、偏に法華経誹謗の罪なるべし】(御書509ページ4行目)

この「設ひ八万聖教」というのは、釈尊一代の経々のすべて、仏法全部という意味です。よく「八万四千の法門」と言うように、この「八万」というのは、仏法では「無数」という意味に解釈しております。ですから、「設ひ八万聖教を読み」とは、釈尊一代の経々のすべてを読んだとしてもという意味です。

あるいは「大地微塵の塔婆を立て」、これはほど塔婆を建てる人はいないと思いますが、例えばそのように多くの塔婆を立てたとしてもということです。あるいは「大小乗の戒行を尽くし」、この「戒行」とは、戒律を守って修行するということです。ですから、これは大乗や小乗のいろいろな戒律を守って修行するということです。あるいは、「十方世界の衆生を一字の如くに為すとも」、これは自分の子供のように慈しんだとしてもという意味です。そのようにしたとしても「法華経謗法の罪は消えない」とおっしゃっているのです。ですから、謗法の罪、正法を誹謗するということの恐ろしさといのを、我々はよく知らなければなりません。

そこで、「我等過去現在未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くる」とは何かと言えば、これは「偏に法華経誹謗(ひぼう)の罪なるべし」とおっしゃているわけです。我々は、本当に謗法を恐れなければならないということであります。我々は、本未有善、三毒強盛の荒凡夫ですから、過去世を振り返ってみると、様々な因縁を持っているわけです。そういう者は、法華経を一度誹謗したら絶対に救われないのかというと、そうではないのです。そこに法華経誹謗の様々な罪を含めて、いろいろな罪障消滅をしていくのが御本尊の力なんです。題目の力なんですね。その力を引き出すのは何かと言えば、それは自行化他の修業なのです。大聖人様の仏法は「自行」と「化他」というように昔から決まっているわけです。しかるに、これが「自行」だけであったならば、つまり自分だけに御題目を唱えるならば、それでは幸せになれないのです。小乗の声聞・縁覚と同じになってしまうのです。

声聞・縁覚の二乗が仏様から「お前たち、永遠に成仏しないぞ」と言われたのは、それは自分のことしか考えていなかったからです。つまり、あの二乗の人たちは、釈尊が初めに小乗の教えを説かれたことによって、そこに固執してしまったわけです。けれども、釈尊はその後、権大乗の教えや実大乗の教えをきちんと説いているわけです。ですから、仏様の教えの通りに、小乗を卒業して次に大乗の教えに入っていかなければならないものを、一度聞いた話しを金科玉条(きんかぎょくじょう)のような頑(かたく)なに守って自分のことしか行わない。いわゆる化他の行に欠けてしまったわけです。ですから、仏様より「お前たち自分のためにしか修行をしていないから、幸せになれないぞ、永遠に成仏しないぞ」と言われたわけです。これが法華経に来て初めて十界互具が説かれ、そういった二乗の人たちも、この題目を唱えることによって幸せになれるということになるのです。つまり、末法は自行化他ですから折伏をしなければ謗法の罪は消えないのです。したがって、二乗と同じように自行のみをしていたのではだめなんです。

そもそも折伏というのは、仏様から与えられた尊い使命です。一切衆生救済の慈悲行なのです。御本尊様に対する最高の報恩行なのです。こういうすばらしい修行を行わないということは、自ら幸せを放棄するのと同じなんです。ですから、この法華経誹謗の罪を消滅するためには「折伏をしていく」ということが大事なんですね。これは不軽菩薩の例などもありますが、この次の『開目抄』の御文がそれに近いことをおっしゃております。



◆『開目抄』◆◆

【今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし。鉄は火に値はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。睡(ねむ)れる師子に手をつくれば大いに吼(ほ)ゆ」(御書573ページ6行目)

ここに、「今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」とおっしゃっている意味は、法華経の行者が現世にに大難を受けるのは過去世の罪障を今生に招き寄せているからであるということです。

我々は、大難を受けても強い信心によってそれを乗り越えることにより、過去世の罪障を消滅することができるのです。折伏することによって己自信の過去世の罪障をみんな消滅することができるのです。折伏することによって非難や中傷、時には様々な難に遇うこともあるわけです。それはまさに、この御文の通りなのです。今生にそういった過去世の罪障を全部招き寄せて、強い信心によってそれを消滅していく。過去世の罪障を全部消滅していくことになるのです。

いくら信心しても、どうもうまくいかないというのは、たいていその人たちは折伏していないのです。「自分のためには一生懸命やるけれども」というのでは、これはまさに二乗の声聞・縁覚と同じなのです。声聞・縁覚の人たちが小乗の教えに執われてしまって、次の大乗の教えについていけなかったような、そんな信心をしていたのでは、本当の幸せは絶対に掴めません。この後の御文にも出て来ますが、末法の修行というのは、摂受(しょうじゅ)ではなく折伏なんです。これを忘れてしまってはだめなんです。

今、言った通り、折伏をすれば必ず悪口罵詈(めり)・非難中傷などいろいろなことがあります。しかし、それは我々がそうやって難を受けることによって過去世の罪障を招き寄せ、そしてこの信心によって消滅させていただくということになるわけですから、我々は、むしろ喜んで難を受けるという決意をもって折伏に臨んでいけばよいということです。

「鉄は火に値はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し」。鉄は火に値えば真っ赤になります。やはり鍛えるということが大事なんですね。鉄は熱い火に入れて、打って打ってまた打って、そして日本刀のような強い鋼に仕立て上げられていくのです。ところが、その鉄も途中の鍛え方が足りないと、立派な日本刀ににはならないのです。鍛え方が足らないと、どこかで傷が出て来るのです。そうすると、その刀は、いざという真剣勝負の時に折れてしまうのです。

ですから、信心においてきっちりと鍛えていくことが大事なんですね。信心を鍛えるというのは、まず朝夕の勤行をしっかりして、その上に折伏を実践していくことです。このような基本的な信心というものをしっかり行っていけば、我々は必ず一生成仏を果たすことができるということであります。

「木をもって急流をかけば、波、山のごとし。睡(ねむ)れる師子に手をつくれば大いに吼(ほ)ゆ」。ですから、様々な大難を受けるけれども、それを強い信心で乗り切っていく、そこに我々の過去世の罪障消滅をしていくことができるということです。むしろ、折伏をして難を呼び起こし、その難を強い信心で乗り切っていくことが大事であるということであります。


次に、

【夫、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。譬へば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし】(御書575ページ15行目)

ここでは、摂受と折伏についておっしゃているわけです。

この摂受と折伏については、日寛上人が『開目抄文段』の中の五義に約して御教示されていますので、少々お話ししたいと思います。日寛上人は、「問う、若し爾(しか)らば、末法も亦(また)、摂受を行ずべきや。答う、摂折二門に就いては古来の義蘭菊(らんぎく)なり。今、且(しばら)く五義に約す云云」(御書文段183ページ)と仰せです。これは「摂折二門」については古来、様々な見解があるので、「五義」つまり教・機・時・国・教法流布の前後に約してこれを示すとおっしゃっているのです。

初めに、「教」の上から摂折二門を判断すると、まず法華経そのものが折伏であるということです。天台大師が「法華折伏・破権門理(法華は折伏にして、権門の理を破す)」と述べているように、これが法華の思想、法華の命であるということです。つまり、法華の教え、思想そのものが折伏であるということです。ですから、教の上から言えば、法華の信仰をしている者は折伏をすべきであるということをお示しあそばされているわけです。

それから次に「機」の上から言えば、本巳有善と本未有善とに分けられるのです。本巳有善の衆生、つまり本に善根のある人たちに対しては摂受でもよいけれども、末法の本未有善の衆生に対しては折伏をもって当たらなければならないと、このようにおっしゃているのです。先ほども言いましたけれども、本未有善の衆生は、自ら法を求めて来ることはないのです。ですから、よく占い師など街中の歩道などで座っている姿を見かけるけれども、あのように相手を待っていたのでは、折伏はできないのです。そこに私たちは、折伏に打って出なければならないのです。つまり、本未有善の衆生のためには、摂受ではなくして折伏であると、こうおっしゃているのです。

それから次が「時」ということです。つまり、末法は折伏をする時であると、このようにおっしゃているのです。そこで大聖人様は「末法に於ては大小・権実・顕密・共に有って得道無し。一閻浮題皆謗法と為(な)り了(おわ)んぬ」(御書736ページ)と。つまり、末法においては大小・権実・顕密は、共に教えは存在しているけれども、そのようなものは全く役に立たない、一閻浮題がすべて謗法となってしまっていると仰せです。さらに、「逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る。例えせば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり」(同)と。つまり、その謗法である逆縁の衆生のためには、ただ妙法蓮華経の五字に限る、それはちょうど不軽品のごとくであると仰せです。不軽菩薩が但行礼拝(たんぎょうらいはい)をしたように、誰彼構わず下種結縁をして折伏していかなけけばならない、末法はそういう時であるとおっしゃているのです。

次が「国」ということです。大聖人様は『開目抄』の「末法に摂受・折伏あるべし。所謂、悪国・破国の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし」(同 576ページ)と、国にも「悪国」と「破法の国」があると仰せです。この悪国の時は摂受でいいけれども、末法今日の日本国は、謗法の者が充満している誹謗正法の「破法の国」なのです。そのような国においては、摂受ではなく、折伏をしていかなければならないとおっしゃているのです。

最後が、「教法流布の前後」についての御教示です。これは、竜樹・天親・天台・伝教等も前々に流布したところの教えを破折して、そして正法を立ててきているわけです。お釈迦様も、初めの42年間に爾前権経を説いて、その後、法華経を説いてそれを破折したわけでしょう。それと同じなんです。末法の今日においても、まさに前代流布の爾前迹門を破折して、そして末法適時の大白法、本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経を弘められたのです。これは単に弘めるのではなくして、それ以前の間違った教えを破折していくのです。例えば『立正安国論』の「立正」というのは破邪顕正なんです。単に「立正」という2字が存在するのではないんです。つまり、破邪顕正ということが大事なんですね。そういうふうに、「教法流布の前後」から言っても、摂折二門を立て分けていらっしゃるのです。このことを、まず申し上げておきます。


そこで御書に、まず「夫、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし」とありますが、これはまさに水と火のようであるということです。

「火は水をいという、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし」。無知の者や悪人が充満する時は摂受を前とすると仰せです。これは『安楽行品』ごとくであるとということです。法華経の『安楽行品』には、身・口・意・誓願の四安楽行が説かれておりますが、これらは摂受の部類に属するわけです。

それから「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし」。つまり末法今日の邪智・謗法の者の多い時は折伏を前とすると仰せです。そしてこれは『常不経品』のごとくであるということです。『常不軽品』には、不軽菩薩が二十四字の法華経を唱えて但行礼拝行を行った結果、上慢の四衆から様々な迫害を受けたけれども、それでもなお但行礼拝行を行ったその功徳によって、不軽菩薩は六根清浄の功徳を得て成仏し、またその不軽菩薩を迫害した上慢の四衆も、ひとたびは地獄に堕ちたけれども、再びこの不軽菩薩の教化を受けて成仏したということが説かれているのです。

大聖人様も折伏の行体行儀については、不軽菩薩のことを挙げられております。不軽菩薩は、今、言ったように二十四字の法華経を唱えて但行礼拝行を行ったのです。言うなれば、「すべての人に仏性があるのですから、あなたは必ず仏に成れます。ですから私はあなたを敬うのです」と言って但行礼拝をするわけです。ところが、それを聞いた者たちは、不軽菩薩に対して迫害を加えるわけです。しかるに、不軽菩薩は決して相手に対して非難中傷をしたり悪口を言ったのではないのです。「必ずあなたは幸せになれる、仏様になれます」と言っただけにもかかわらず、迫害を受けるのです。

我々の折伏もそうではありませんか。相手のことを真剣に救いたいと思って「大聖人様の仏法以外では幸せになれませんよ」ということを一生懸命に言うのだけれども、文字通り慈悲の心を持って伝えようとするのだけれども、相手は非難中傷、様々な難を受けるわけです。この難を受けるということは、先ほども『開目抄』の御文にあった通り、過去の罪障がそこに招き寄せられて難を受けるのです。つまり、折伏をすることによって難を受けるけれども、それを強い信心で乗り越えることによって、我々は過去世の罪障を全部消滅できるのです。そのように折伏は尊いことなのです。

先ほども言いましたように、折伏していかないと、過去世の罪障も消滅できなくなってしまうのです。「眠れる師子に手を付けざれば瞋らず」で、放って置けばよいかも知れないけれども、それでは今はよくても、後は必ず無間地獄に墜ちると、大聖人様がおっしゃっているくらい厳しいのです。ですから、我々は勇気を持って立ち上がり、それを乗り越えて過去世の罪障を消滅していくという、そういう闘いをしていくことが大事であるということになるわけです。 したがって、「常不軽品のごとし」ということは、こういうことをおっしゃっているわけです。

この摂受と折伏ということは「譬えば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし」とあるように、間違ってはいけないとおっしゃっているのです。ですから、教・機・時・国・教法流布の前後の上からいって、今こそ私たちは折伏をしていかなければならないとうことであります。無智・悪人が多い時は摂受が前であるけれども、邪智・謗法の者が多い時は折伏が前である、それは常不軽品のごとくであると、このようにおっしゃっているのであります。


次に、

【末法に摂受・折伏あるべし。所謂、悪国・破法の両国あるべき故なり。日本国の当世は悪国か、破法の国かと識るべし。問うて云はく、摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると、利益あるべしや。答へて云はく、涅槃経に云はく「迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もうさ)く・・・中略・・・如来の法身は金剛不壊なり。而るに未だ所因を知ること能はず、云何(いかん)。仏の言(もう)さく、迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持する者は、五戒を受けず、威儀を修せず。応に刀剣、弓箭(きゅうせん)を持つべし。是くの如く種々に法を説くも、然も故(なお)、師子吼(く)を作(な)すこと能わず・・・中略・・・非法の悪人を降伏すること能わず。是くの如き比丘、自利し及び衆生を利すること能はず。当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持ち浄行を守護すと雖も、当に知るべし是の人は能く為す所無からん。乃至、時に破戒の者有って是の語を聞き已はって、咸共に瞋恚して是の法師を害せん。是の説法の者、設ひ復命終すとも、故持戒、自利利他と名づく」等云云。】(御書576ページ1行目)

先ほどは、教・機・時・国・教法流布の前後の五義の上から申し上げましたけれども、これは日本国は「悪国」なのか「破法の国」であるのかということです。これによって摂受・折伏が大いに異なるということです。そこで、今はまさに折伏が前であるということであります。

次に、摂受をすべき時に折伏を行ずる、また逆に折伏をすべき時に摂受を行ずる、つまり時期を間違えたら利益はあるのかという問いに対して、涅槃経の文を引かれて、その答えを出していらっしゃるわけです。最初に迦葉菩薩が仏様に言うには「仏様の御身体は仏身であられるから金剛不壊であります」と。つまり、金剛石のように強固で何物にも壊れることがないということです。「而るに未だ所因を知ること能はず」とは、「どうしてそのような金剛不壊の仏身を成就することができたのですか、未だその原因を知ることができません。それは何でしょうか。」と、このように質問をするわけです。仏様が答えられるには、「迦葉よ、それは正法を護る因縁をもっての故に、この金剛身を成就することができたのである」と、このように述べられるのです。

ここが大事なこところなのですが、そして「五戒を受けず、威儀を修せず」というのは、これは正法を護持する者は不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の5つの戒や四威儀や三千威儀などと言うような戒律を修しないということです。これは、「正法を護るためには、五戒を受けたり威儀を修するのでなくして、まさに刀や弓を持って正法を護らなければならない」と、非常に厳しいことをおっしゃているのです。

また、「師子吼」というのは正法を説くことですから、その反対にいろいろと立派なことを言って法を説いたとしても、「しかもなお、正法を説くことができない」、またあるいは「非法の悪人を降伏することができない」ということです。そして、「そのような僧侶は、自ら利益を受けることができず、また他の衆生をも利益することができない」ということです。つまり、その時や機根に応じて、折伏をしなければならない時に折伏をせず、ただ座して五戒を受けたり、あるいは四威儀や三千威儀などを修しいたのではだめですよ。とおっしゃっているのです。要するに、折伏をしなければ本当の幸せは掴めないということです。

「当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり」とは、刀剣や弓箭を持たなければならない大事な時に、何もしないでただ座しているだけでは怠け者になってしまういうことことです。つまり、清らかな行いをしていても、正法を破る者が出てきたときに、それを破折しなければ、正法を護ったことにはならないぞと、このように御教示であります。

そして「時に破戒の者有って是の語を聞き已はって、咸共に瞋恚して是の法師を害せん。是の説法の者、設ひ復命終すとも、故持戒、自利利他と名づく」とは、破戒の者共がいて、この破折の言葉を聞き終わって皆共に瞋(いかり)の心を抱き、その法を説いた法師を殺害したということです。しかし、この説法をした者は命が終わったとしても、この者こそ真の持戒者であり、自らも利益を受けて、そして他人をも利益せしめる者であると言うべきであると、このようにおっしゃっております。


【章安の云はく「取捨得宜不可一向」等。天台云はく「適時而已」等云云。譬へば秋の終はりに種子を下し、田畠をかえ(耕)さんに稲米をうることかたし。建仁年中に、法然・大日の二人出来して、念仏宗・禅宗を興行す。法然云はく「法華経は末法に入っては、未有一人得者・千中無一」等云云。大日云はく「教外別伝」等云云。此の両義、国土に充満せり。天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらいをそるゝ事、犬の主に尾をふり、ねづみの猫ををそるゝがごとし。国王、将軍にみやつかひ、破仏法の因縁、破国の因縁を能く説き能くかたるなり。天台・真言の学者等、今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻を招くべし】(御書576ページ3行目)

「取捨得宜不可一向」とは、「取捨宜しきを得て一向のすべきではない」とおっしゃっているのです。つまり、摂受と折伏については、きちんと機に適(かな)い、時に適う方法を用いるべきであるということです。また、「適時而已」とは、「折伏を行ずるか摂受を行ずるかは、時によるのである」と、このようにおっしゃているのです。これは当たり前ことですが、秋の稲刈りの時期に種を蒔いて田畠を耕しても、稲米を得ることはできないということです。

「大日」とういのは、大日房能忍という禅宗の者のことです。この大日と法然の2人が出てきて、禅宗や念仏宗を弘めたということです。また、法然は「末法に入ってからは、法華経によって得道した者は未だ一人もいない、千人のうちの一人も得道する者はない」と、このように言ったわけです。さらに大日房能忍は「教外別伝」などと言ったわけです。この「教外別伝」というのは禅宗の教えです。「教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏」といういい加減な教えが禅宗にあるわけです。つまり、これは仏の本意は教説を用いずに伝えられてきたということで、言葉や文字によって明かになるものではないという邪説であります。

そして、天台や真言の学者たちは、犬が主人に尾を振るように、盛んになってきた念仏や禅の檀那へ諂(へつら)っているということです。そして、国王や将軍に仕えて、破仏法の因縁、破国の因縁をよく説いているということです。それで、「仏に仕えるべき天台・真言の学者等がこのようであっては、今生には必ず餓鬼道に堕ち、そして後生には阿鼻を招いてしまう」と、このようにおっしゃっているのです。

ここでは要するに、私たちが折伏をするに当たっては何が大切であるかということをおっしゃっているのです。つまり、一つには時を間違えないということ。それからもう一つは、私たちはあくまでも正法を護持する信仰をしっかりと持って折伏をしていかなければならないということをおっしゃっているわけであります。


【設ひ山林にまじわって、一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき】(御書567ページ16行目)

これも「摂折二門」、すなわち摂受と折伏を間違えてはならないことをおっしゃっているわけです。つまり、たとえ山林に交わって端座をして沈思黙考し、一念三千の観法を修したとしても、あるいは静かな所にあって三密を一心不乱に一生懸命修行したとしても、時機も判らず、摂折の二門も弁えなければ、生死を離れることはできないということです。ちなみに、この「三密」とは、密教におけるところの秘密の三業と言いまして、身密・口(語)密・意密の3つのことであります。

要するに、ここでは「摂折の二門」をしっかりと弁える、つまり末法の今日は折伏の時であるということを仰せなのあります。



◆佐渡御書◆

次に、

【仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時によるべし。譬(たと)へば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。雪山童子(せっせんどうじ)・薩多王子は、身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責めしかば身を捨つ。肉をほしがらざる時、身を捨つべきや。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。破戒無戒を毀(そし)り、持戒正法を用ひん世には、諸戒を堅く持(たも)つべし。儒教・道教を以て釈教を制止せん日には、道安(どうあん)法師・慧遠(えおん)法師・法道三蔵(ほうどうさんぞう)等の如く、王と論じて命を軽うすべし。釈教の中に小乗・大乗・権経・実経雑乱(ぞうらん)して明珠と瓦礫(がりゃく)と牛驢(ごろ)の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛(ごうじょう)に分別すべし】

まず、仏法は時に応じて教えを行じてきたということです。雪山童子や薩多王子は「身を捨てて布施とするならば、法を教えてあげよう」と言われていたわけです。そして、「身を捨てることが菩薩の行となるのだ」と、このように言われたので、身を捨てたということです。しかし、肉を求める者がいない時には、身を捨てる必要はないわけです。また、紙のない時には身の皮を紙として書き残すように、身を削ってでも法に仕えてゆくことが大事であるということであります。

また破戒の者や無戒の者を毀(そし)り、持戒の者や正法を修行する者を大事にして用いる正法・像法というような世であるならば、諸戒を堅く持つべきである、いろいろな戒律を持つべきだと仰せです。一方、中国において、儒教や道教が非常に盛んになってきて、そこで日本の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のように「釈教」が疎(うと)んぜられた時があったのです。この「釈教」とあるのは、お釈迦様の教えということで、つまり仏教のことです。そのような時には、道安法師や慧遠法師、法道三蔵等のように、身命を捨ててでも、それらを諫めなくてはならないということです。

「道安法師」という人は、北周の武帝が儒教と道教と仏教の3つを論争させた際、『二教論』という書物を作って、儒教と道教を論破したのです。これによって一度は武帝も廃仏毀釈をやめようとしたのですが、結局、武帝は仏教を廃してしまってのです。それでも、この道安法師は命を張って法を弘めたということです。

それから「慧遠法師」という人も、やはり仏教を廃したことに対して武帝を諫めたのです。しかし、結局は疎んぜられてしまったわけです。しかるに、後に仏教再興を図る文帝によって、また重んじられるのです。このように、大事な時には、たとえ相手が武帝であろうが命を張って諫め、法を弘めたということであります。

それから「法道三蔵」という人は、北栄の徽宗(きそう)皇帝が廃仏毀釈を行って道教を用いることに対して、これを諫めたわけです。けれども、結局、皇帝の怒りを買って、顔に火印(かなやき)を押され、道州という所に流されてしまったのです。このように、命を張って法を弘めたわけです。要するに、このような時には身命を捨ててでも王を諫めなくてはならないということで、故に「王と論じて命を軽うすべし」と仰せであります。

次に、仏教の中において小乗・大乗・権経・実教が入り乱れて、明珠と瓦礫や、牛と驢馬(ロバ)の乳の見分けがつかないような時には、つまり正邪の見分けがつかないような時には、天台大師や伝教大師のごとくに、大乗と小乗、権経と実教、顕教と密教を強盛に分別して折伏をしなけらばならないという意味です。


【畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる、諛臣(ゆしん)と申すは是なり。強敵を伏して始めて力士をしる】

当世の学者は皆、畜生が弱きを脅し、強きを恐れるように、政治権力などの力のある者んい諂(へつら)って、まさに畜生のごくであると仰せられるのです。これは、智者が力の弱い立場にあることを侮(あなど)って、王法の邪を恐れているということです。要するに、権力のある者の言うことに対しては、誤りであっても正しいと言って、媚び諂う者を「諛臣(ゆしん)」というのであると仰せになっているのです。

「強敵を伏して始めて力士をしる」これが大事なんですね。折伏というのは、やはり恐れを抱いたら絶対にできないのです。何回も言いますけれども、私たちは少なくとも末法の御本仏大聖人様の仏法を護持しているわけですから、私たちには仏様の御加護があるのです。ですから、どんなに強い魔が競ったとしても、魔は絶対に仏には勝てないわけですから、堂々と折伏をしなければいけないのです。ところが、世間の状況に左右されて、権威を恐れてしまったりするのです。例えば、相手が社長や学者なんかだと気後れしてしまって折伏ができなかったりするわけです。そこで、こっちが勝手に折伏をする相手を選んでしまうのです。だからだと言って、話しやすい人に対しては、折伏をしているのかと言えば、そうでもないのです。

ですから「強敵を伏して始めて力士をしる」。つまり、強い敵を倒してこそ、力のあるということが判るのです。皆さん方にも大事な親友がいるでしょう。ところが、その親友に限って折伏をしない人が多いのです。あるいは、親に限って折伏をしない人がいるのです。これは、本来、逆ですよ。けれども、折伏をすると関係が壊れてしまうなど勝手に思って、折伏をしない人がいるわけです。そうではないんですね。本当に相手のことを思うのであれば、これは折伏をしなければだめなのです。それをやらないから、そうしても弱い命になってしまって、それが何から何まですべてに渡ってしまうのです。これでは、本当の折伏はできません。

ここに出てきた道安法師・慧遠法師・法道三蔵といって人たちのように、本当に決死の覚悟を持って行えば、むしろ結果的には相手は喜んでくれるのです。それからもう一つ大事なことは、その時に反対し、非難中傷したとしても、折伏は逆縁成仏であるということを覚えておいていただきたいと思います。


【悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。これおご(驕)れるにはあらず。おご(驕)る者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅(しゅら)のおごり、帝釈(たいしゃく)にせ(攻)められて、無熱池(むねつち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し。正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道な(成)るべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶ふべからず】(御書578ページ15行目)

これは「邪法の僧侶などが、悪玉に味方して智者を滅ぼそうとしている時は」ということです。そのような時にも、あらゆる障魔を乗り切って、悠然として広布へ向かって前進をしていく破邪顕正の信心が「師子王の如くなる心」です。その師子王の心を持てる者は、必ず仏に成ることができるということです。したがって、勇気を持って折伏をしなさいということです。

「例せば日蓮が如し」。これは、おごり高ぶって言っているのではなく、正法を惜しむが故に、このように述べているのである」ということです。そして「おごり高ぶっている者は、強敵に出会って必ず恐れをなす」ということです。ですから、御題目を唱えてなければ、強敵に会って必ず恐れる心が出てしまうのです。これは「例えるならば、阿修羅が帝釈天に責められて、結局、尻尾を卷いて無熱地の蓮の中に入って、身を小さくして隠れてしまったのと同じである」ということです。

我々の信心も同様なのです。しっかりと御本尊様を拝して御題目を唱え、勇気を持って立ち上がれば、我々の身体や心は、相手から何倍も大きく見えるのです。しかるに、信心が足りずに、自分が阿修羅のように小さくなってしまっては、相手を折伏することはできないのであります。


要するに、末法は折伏の時であるということです。ですから、御題目をしっかりと唱えて、そしてその御題目の功徳と歓喜を持って折伏に出ていくことです。末法の時は、まさにこの自行化他の信心なのです。就中、折伏をしなければ、私たちは一生成仏を果たすことはできないということを、よく肝に銘じていただきたいと思う次第であります。

特に今、平成21年の大佳節まで残り3年という大事な時を迎えております。本日の私の講義の後には指導会が開かれますので、それらのお話もよく拝聴して、そして皆さん方には今日から折伏を卒先垂範(そつせんすいはん)して行じていただきたいと思います。

  今日、拝読した御文以外のところも、朝夕の勤行の折りに、たとえ一つでも結構ですから拝読をして、折伏の気持ちをしっかりと御本尊様にお誓いしていただきたいと、このように思う次第であります。皆さん方のいよいよの強盛のなる信心をお祈りいたしまして、今日の話しを終了いたします。




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