大白法

平成18年10月16日号


主な記事

<1〜5面>

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富士山法明寺(富士宮市)本堂・庫裡新築落慶法要
静岡県富士宮市


10月7日、静岡県富士宮市の富士山法明寺において、本堂・庫裡新築落慶法要並びに御親教が、御法主日如上人猊下大導師のもと厳粛かつ盛大に奉修された。

同寺は、昭和40年12月29日、それまで富士宮市内にあった宮士宮教会(明治34年7月設立)と、同市内にあった奨信閣(昭和15年3月設立)とが合併し、総本山66世日達上人の御親修のもと新築落慶法要が奉修され、初代住職として能勢順道御尊師が赴任された。その後、同50年9月1日、松尾圭剛御尊師が第3代住職として赴任され、以来31年にわたり、地域広布の推進、信徒の教化育成、寺域・境内の整備拡充に尽力してこられた。また同62年には、寺院南側の隣接地約750坪を取得し、平成10年に境内地の中を市道が開通したのを機に、長年の懸案であった建物の老朽化や耐震性の問題なども含めて平成16年に新築の許可を総本山よりいただき、その後、本年1月に起工式を行い、4月の上棟式を経て、このたびの慶事を迎えたものである。

この法要には、随行の総監・八木日照御尊能化、大石寺理事補・小林道剛御尊師、さらには重役・藤本日潤御尊能化、高野日海御尊能化、光久日康御尊能化、菅野日龍御尊能化、宗会議長・細井珪道御尊師、庶務部長・阿部信彰御尊師、海外部長・漆畑行雄御尊師、庶務部副部長・斎藤栄順御尊師、そして中部大布教区大支院長・有川岳道御尊師、静岡北布教区副支院長・磯村如道御尊師をはじめ、布教区内外から多数の御僧侶方が出席された。また、法華講連合会からは法華講総講頭の柳沢委員長、大講頭の石毛副委員長、土橋富士地方部長、さらには新井静岡北地方部長をはじめ布教区内各支部講頭並びに信徒代表、法明寺信徒など約350名が参列した。

法明寺外観

午前11時15分、僧俗一同がお出迎え申し上げる中、御法主上人猊下が法明寺に御到着あそばされ、直ちに御僧侶、信徒代表、寺族、施工業者の順に親しく御目通りを許された。


法要の部は午後0時書開始され・御法主上人猊下大導師のもと、松尾住職による御本尊御開扉、八木総監による献膳の義、読経、焼香、唱題と如法に奉修された。

引き続き式の部に移りはじめに木内久仁彦総代より経過報告、続いて八木総監(宗務院代表)、磯村副支院長(布教区代表)、柳沢委員長(信徒代表)より祝辞が述べられた後、施工業者代表に感謝状と記念品が贈呈された。次いで松尾住職より、御法主上人猊下及び参列の各位に対して、丁重な謝辞と今後の決意が述べられた。この後、本堂玄関左側にて御法主上人猊下による「槙(まき)」の御手植えがなされた。

午後2時15分、再び本堂に御出仕あそばされた御法主上人猊下より、『立正安国論』(御書235ページ1行目〜237ページ16行目)の御文について、約1時間余にわたり甚深の御説法を賜った。御説法の中で御法主上人猊下は、住職はじめ信徒一同が心を合わせて本堂・庫裡を立派に新築したことを喜ばれた。特に、3年後に迫った「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節を迎える先駆けとして、総本山の地元から寺院建設の槌音が聞こえ、そして信徒の信心決定の姿がこのように目の当たりに拝せることを喜ばれると共に、今までの住職の御苦労と信徒各位の赤誠を労(ねぎら)われた。また、私たちは力のすべてを結集して平成21年に向けての大折伏戦をしていかなければならないのであり、その役目を果たしていくのが我ら法華講衆であると述べられ、一人ひとりが熱原三烈士の心を心として「一心欲見仏不自惜身命」、悔いを万代に残すことがないように闘いきっていただきたいと願われた。

最後に、本堂において記念撮影が行われ、午後4時半、御法主上人猊下には僧俗一同がお見送り申し上げる中、法明寺をお発ちになられ、法要の一切がとどこおりなく終了した。




御法主日如上人猊下御講義
折伏要文(第6期)


皆さん、おはようこざいます。法華講夏期講習会の第6期に当たり、皆様方には多数御参加をいただきまして、まことに御苦労様でございます。 私の本年度の講義は『折伏要文』についてお話をさせていただいております。これはすでに御承知の通り、今、宗門は平成21年の御命題達成に向けて前進をしております。この御命題の中の「地涌倍増」と「大結集」は、まことに大事でございまして、就中、この地涌倍増ということが極めて大事であると、このように思います。

つまり、大結集を果たしていく上においても、地涌倍増の伴わない大結集ですと、それは単なる数集めになってしまうということです。そこで地涌倍増は何をもって達成するのかと言えば、これは折伏以外にないわけであります。ですから、平成21年を名実共に達成してお迎え甲し上げるためには、折伏をして地涌倍増を図り、そして大結集を果たしていくということになるのです。そこで、折伏についての要文を挙げてお話をさせていただいているのであります。

特に、この『折伏要文』を挙げてお話を申し上げておりますのは、皆さん方も各支部にお帰りになりますと、指導教師の方や幹部の方々から「折伏をしなければいけない」と、このようにきつく言われているのではないかと思います。しかるに、これは指導教師や幹部の方々が勝手に言っているわけではなくして、全部これは大聖人様の御意、つまり大聖人様の御書、あるいは法華経の文の中に、「折伏をしなければならない」「もし折伏をしないのであれば、絶対に幸せにはなれない」ということを明言しておられるわけです。そのことをまず知っていただきたいと思います。

ですから「自分の支部の勢力を伸ばすために折伏をする」などというような小さな考え方ではなくして、広宣流布をめざしていく法華講衆としては、一切衆生救済の慈悲の心にしたがって、より多くの人を幸せにしていくという、その大事な使命と責任を果たしていくために皆が声を出して「折伏をしよう」ということを申し上げているわけであります。このへんのところを皆様方には、よくこ存じになってお話を聞いていただきたいと、このように思う次第であります。それでは、テキストの21ページを聞いてください。



◆顕仏未来記◆

【願はくは我を損ずる国主等をぱ最初に之を導かん。我を扶(たす)くる弟子等をぱ釈尊之れを申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進(まい)らせん】(御書678ページ18行目)

ここに、「願はくは我を損ずる国主等」とありますが、大聖人様は宗旨建立以来、日々月々年々に様々な大難や小難を被ってきたわけです。特に、この『顕仏未来記』が著される2年前の文永8年(1271年)9月には、竜の口の法難があり、さらにその後、佐渡への配流というように、この数年の間において非常に大きな難が襲ってきたのです。こうした状況の中で大聖人様は「様々な難を受けることによって、一生のうちに無始以来の罪障を消滅することができた」と、このようにおっしゃっているのです。

すなわち『種々御振舞御言』の中に、「相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ」(御言1063ページ)と仰せのように、竜の口の法難での平左衛門尉頼綱をはじめ、松葉ケ谷の法難での北条重時、小松原の法難での東条景信など、様々な者たちが難を加えてきたからこそ、このような大功徳を受けることができたということです。そこで「願はくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」と、このようにおっしゃっているのであります。

それから次に「我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん」。この「我を扶くる弟子」というのは、大聖人様のお側で仕えた方々のことです。すなわち小松原の法難では、鏡忍房や工藤吉隆といった人たちが命を張って大聖人様をお助けしたのです。また、竜の口の法難では四条金吾が大聖人様のもとへ駆けつけ、伊豆への配流では船守弥三郎夫妻が大聖人様をお守りし、この他にもいろいろな方が大聖人様をお守りしたのです。こういった方々を仏様に申し上げると仰せられているのです。

要するに、我々が折伏を行じていけば、必ず、様々な人から難を受けるのです。しかし、その難を乗り越えて、追害の張本人であるその人たちに対して、大慈大悲の心をもって折伏をしていくということをおっしゃって、同時に併(あわ)せて自分を助けてくれて人たち、この方々は仏様に申し上げるということを、おっしゃっているわけです。


次に大聖人様は「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進(まい)らせん」と仰せです。今日、ここに大勢の方が来ていらっしゃるけれども、自分のご両親をきちんと折伏していますか。この御文を拝読しますと、最善の親孝行というのは、この妙法蓮華経を受持信行せしめることなのです。折伏することです。ですから、それをしていないというのは、本当の親孝行をしていないということになるのてす。

人間として親孝行が出来ないのはだめですよ。もし、この中にまだご両親を導いていない方がいるならば、父母の恩を報ぜんがためにも、きちんと折伏をすべきです。大聖人様が、ここにはっきりと「未だ死せざる已前に此の大言を進らせん」と仰せのように、我々は親孝行ということを忘れてはならないのです。この妙法蓮華経をこ両親にしっかりと伝えて、そして共々にこの信仰の道に励んていくことが大事なのです。

無論、ここにお集りのほとんどの方がご両親をすでに折伏している、否、むしろこ両親から信心を勧められて入信をたという方が多いと言うけれども、もし仮にご両親が未だこの妙法を受持していないという方がいたとするならば、その方はお帰りになったら直ちにこ両親を折伏してください。これが本当の親孝行なんです。こ両親を救う最高の親孝行であるということを絶対に忘れないていただきたいと、このように思う次第であります。



◆呵責謗法減罪抄◆

次が『呵責謗法滅罪抄』です。

【五逆と論法とを病に対すれば、五逆は霍乱(かくらん)の如くして急に事を切る。論法は白癩病の如し、始めは緩やかに後漸々に大事なり】(御書711ページ14行目)

この「五逆」というのは「五逆罪」のとで、すなわち父を殺し、母を殺し、羅漢を殺し、仏様の身から血を出だし、和合僧を破るという5つの罪てあります。それから「謗法」とあるのは、これ誹謗正法のことです。

これを「病に対すれば」、つまり病と比べてみると、五逆罪のほうは「霍乱の如くして急に事を切る」。この「霍乱」というのは、日射病をはじめ激しい吐き気や下痢を起こす急性の病気のことです。したがって、五逆罪はそういった病に似ているということです。それから「謗法」のほうは「白癩病の如し」とおっしゃっています。つまり「始めは緩やか後漸々に大事なり」とあるように、初は軽い症状であるけれども、後になって大事になるということであります。

このことについて『顕謗法抄』の中に、「問うて云はく、五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕ちんことあるべしや。答えて云はく、誹謗正法の重罪なり」(御書279ページ)という御文があります。つまり、五逆罪を犯すと必ず地獄に堕ちるとおっしゃっているわけです。しかるに、この五逆罪、他ににも無間地獄に墜ちるようなものがあるのかということに対して、それは、「謗法」、つまり誹謗正法の重罪によって無間地獄に墜ちると、このようにおっしゃっているのであります。

そして、この御文の後には、次のように仰せられております。その要旨を述べますと、まず、「五逆罪と謗法とでは、どちらの罪が重いのですか」と問うわけです。それに対して、「大品般若経には、舎利弗が仏に対して、五逆罪とは破法罪とではその罪は似ているのですかと尋ねたところ、仏が舎利弗に告げられるには、それは同じてはない」と答えられるわけです。つまり、五逆罪とでは、その罪は、違うとおっしゃっているのです。それは、「なぜならば、謗法は般若波羅密を破ることになるからである」とおっしゃってるわけです。

この「般若波羅密」というのは智慧のことです。つまり、昔は智慧によって仏に成るとされていましたから、謗法はその智慧を破ることに当たるということです。そこで、「もし、その智慧を破れば、それは十方諸仏の智慧を破ることになる。そうなると今度は、それは三宝のうちの仏宝を破ることになり、仏宝を破るが故にそれは法宝を破ることにもつながり、法宝を破るが故に、さらにそれは僧宝を破ることにもなる」と仰せです。かくして、「三宝を破るが故に世間の正見(しょうけん)を破ることになる」とお示しであります。この「正見」というのは、正しく真理を見極めるということですから、つまり世間の正しい見解を破ることになるということです。

そうすると結局は、「無量無辺阿僧祗(あそぎ)の罪を得るのてあり、その罪を得終わったならば、再び無量無辺阿僧祗の苦しみを受けるのである」と説かれております。ですから、無量無辺阿僧祗の苦しみを一度受けても、また同じように苦しみを受けていかなければならないということです。そこで、「それは破法の業の因縁が集まる故に無量百千万億歳の間、大地獄に中に堕ちるのであり、この破法の人たちは、一大地獄から一大地獄へと展転(てんでん)する」とあります。つまり、謗法を犯すと地獄を渡り歩くことになるということです。

それから、「もし、その間に刧火が起きて、この裟婆世界がなくなったとしても、今度は他方の世界の大地獄の中で苦しむのである」と仰せです。したがって、「彼の地で死んでも、法を破った業因が未だに尽きない故に、またこの世界の大地獄に帰ってきて苦しむのである」とおっしゃております。さらに、「不軽菩薩を迫害したように、法華経の行者に対して悪口を言ったり、杖で打ったりした者は、その後に懺悔をしたとしても、その罪は未だに消滅せずに、千刧の間、阿鼻地獄に堕ちるとあり、「懺悔した謗法の罪ですら、五逆罪に千倍する重さてある」とお示しであります。「まして懺悔しない謗法においては、阿鼻地獄から出る時期は永遠に来ないであろう」と仰せられるのです。

「故に法華経の『譬喩品』には、法華経を読誦し、書写し、受持する者を見て軽んじ、賎(いや)しめ、憎み、恨み、嫉んで恨みを抱くならば、その人は命終わって阿鼻地獄に堕ち、一刧が尽きてまた阿鼻地獄に生まれ、このように繰り返して無数却に至るであろう」と御放示あそばされております。

私が言っているのてはなく、大聖人様の御書の中に、このように書いてあるあるのです。ですから、いかに謗法を恐れなければならないのか、ということをよく知っていただきたいわけです。

大聖人様は『曽谷殿御返事』の中にも、「何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄に堕つべし。漆千杯に蟹の一つ入れたらんが如し。『毒気深入、失本心故』とは是なり」(御書1040ページ)と仰せになっております。まさに蟹の足を一本入れることによって、すべての漆がだめになってしまうように、我々は少しも謗法を犯さないように気を付けなければならないわけです。

ですから、謗法を破折していくという強い信心が大切なのです。その最もたるものが折伏であると、こういうことになるわけです。謗法を破析しなければ天下の泰平、国土の安穏は絶対に来ない。自分自身の謗法を破折しなければ、自らも一生成仏を遂げることがてきないということであります。



◆曽谷入道殿許御書◆

次が『曽谷入道殿許(もと)御書』です。

【今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり。】(御書778ページ16行目)

この「今は既に末法に入って、在世の者は漸々に衰微して」というのは、末法という時代に入って、釈尊在世に縁のあった者たちは次第に少なくなってきたということです。そこで権教と実教で成仏する機根の者たちは、ことごとく尽きてしまったのであるということです。このことは釈尊自身が大集経の中でおっしゃっているわけです。

すなわち、「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、已上一千年。次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造堪寺堅固、己上一千年。次の五百年は我が法力中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」(御書788ページ)というように、5つの五百歳を挙けられて、正法・像法時代の2千年を過ぎた次の500年間において、釈尊が説いた教えというものは隠没してしまうとおっしゃっているわけです。

このように「権実の二機」もことごとく尽きてしまったということであります。そこで「彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」。結論から言うと、末法においては折伏をして、新たに大聖人様の仏法に下種結縁をしていかなければならないとおっしゃっているわけです。これは、実際に不軽菩薩が末法に出現するのではなくして、折伏を正機とする本末有善の衆生のために末法の御本仏が御出現あそばされて、あらゆる人々に法を下種し、順・逆共に縁を結ぶ時であると、このようにおっしゃっているわけです。

「毒鼓を撃たしむるの時なり」というのは、大衆の中で毒を塗った太鼓を打てば、その響きが耳に触れた者たちは、皆その毒に当たって死んてしまうという譬(たと)えがありますが、大聖人様は、それを折伏に例していらっしゃるのです。これと同様に、我々が妙法蓮華経の功徳を遍(あまねく)く多くの人たちに知らしめていかなければならないということであります。これを「毒鼓の縁」と言います。

この「毒鼓の縁」には、逆縁という意味があるのです。ですから、相手が聞こうが聞くまいが、我々は法を説いていかなければだめなんてす。この逆縁ということは非常に大事なのです。今日は、順縁の人ばかりではありませんから、我々が折伏をしても、なかなか言ことを聞いてくれません。時には悪口を言われたり、大変な難に遭うことちあるわけです。けれども、皆さん方が「この大聖人様の仏法でなければ幸せにはなれませんよ」と言った言葉が、相手の耳に残り、そして命に浸透していくのです。

大聖人様は『上野殿御返事』(御書1358ぺージ)の中で、この逆縁成仏についての譬えを説かれております。これは、インドの話しでありますが、ある夫婦がおりまして、その奥さんはとても嫉妬深く、夫のことが憎くてしょうがなかったわけです。そこである時、その奥さんは、夫がいつも読んでいる法華経を足蹴にしてしまうのです。

その後、奥さんは命が尽きて、当然の報いで地獄に行くことになるわけです。そこで獄卒が、この奥さんを地獄に突き落とそうと、てつの杖をもって打つわけですが、どうしても両足だけが入っていかないのです。それはなぜかと言うと、生前、夫の法華経を足蹴にした逆縁にによって、両足だけが地獄に入って行かなかったわけです。これが、まさに逆縁の証拠なんです。

ですから、我々は相手が話しを聞こうが聞くまいが、きちんと折伏をしなければいけないのです。「大聖人様の仏法でなければ幸せになれませんよ」「あなたの今なさっている信仰は間違いですよ」ということを、きちんと話していくことが大事なんですね。これが折伏なのです。

折伏いうのは「こっちの水は甘いよ」というように言っているだけではだめなんです。「あなたの考え方は間違いですよ」ということを、きちんと言わなければだめなんてす。こちらがどんなに勝れていることを言っても、本末有美の衆生はそれだけでは納得しないのです。我々が相手の命の中に本当に入り込んていってあげないとだめなんてすね。そうすると、たいていの人は怒ります。それが逆縁なんです。けれども、我々が本当に慈悲の心、忍辱の心、不惜身命の心を持って話をしていけば、相手は徐々に納得してくるのです。ですから、最初から「あの人は話を間いてくれない」などと言って諦めないて、どんな人にでも下種結縁をしていくということが大事なんてすね。したがって、この「毒鼓の縁」ということは、折伏においては非常に大事なことであるということです。



◆撰時抄◆

次が『撰詩抄』です。

【彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳、当世なる事は疑ひなし。但し彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内に八万の国あり、其の国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり】(御書837ページ2行目)

これはまた有名な御文てあります。初めに「彼の大集経強の白法隠没の時は第五の五百歳、当世なる事は疑ひなし」とあるのは、これは先ほど言いました5つの五百歳のことですね。すなわち、解説堅固・禅定堅固・読誦多聞堅固・多塔寺堅固の4つの500年で2千年になりますから、これて正法千年と像法千年が過ぎ、そしてその2千年が過ぎて末法に入ると第5の五百歳、つまり闘諍堅固・白法隠没の時になるわけです。「当世なる事は疑ひなし」とあるのは、まさに今日はその闘諍堅固・白法隠没の時であることは疑いないということであります。

「但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の」。つまり、大白法が広宣流布する時であると仰せです。

そこで、「一閻浮提の内に八万の国あり」。この「一閻浮題」とは、全世界の国々ということでありあます。それから、「八万」というのは、たくさんという意味です。そして「其の国々に八万の王あり」。つまり、たくさんの王様がいることですね。さらに「王々ごとに臣下並びに万民までも」。これはその王様ごとにそれぞれ家来や万民がいるということです。「今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり」。これは、大聖人様の御在世当時においては、念仏が非常に盛んだったのです。日本中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆が、皆、口々に阿弥陀の名を唱えていたわけです。そのような中にあって大聖人様は、それらを覆(くつがえ)して、初めは妙法を唱えるのは一人であるけれども、そこから下種結縁をして、やがて日本乃至世界の人々がこの妙法を唱える、そのような世の中にしていく、広宣流布をしていかなければだめなんだと、このようにおっしゃっておられるのです。ですから、広宣流布は必ず我々の手で行っていくということなんてす。それは我々の役目なのです。

法華経の『薬王品』には、「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経539ページ)と、広宣流布は必ず達成すると説かれています。しかし、我々の努力なくしては、広宣流布は絶対に達成できないのです。大聖人様が「広宣流布せさせ結ふべきなり」と仰せられているのは、我々の役目のことを指しているのです。

今日、ここにお集まりの皆さん方が、その広宣流布を担う法華講衆なんです。大聖人様の弟子檀那として、仏様のなさることを仏様の使いとして行うことが折伏なのです。このことを私たちは自覚しなければだめなんですね。「広宣流布させ給ふべきなり」という御文、単に空事のように拝読してしまってはだめなんです。広宣流布をする役目を任されたのが我々法華講衆であり、広宣流布こそが我々の大事な任務であり使命であると、このように自覚をしていくことが大事であります。



  ◆阿仏房尼御前御返事◆

【いふといはざるとの重罪免(まぬか)れ難し。云ひて罪の免かるべきを、見ながら聞きながら置いていま(禁)しめざる事、眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく『慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是彼が怨なり』等云云。重罪消滅しがたし】(御書906ページ2行目)

「阿仏房尼」というのは、ご承知の通り、これは千日尼のことです。本抄は、その千日尼に差し上げた御手紙です。これは非常に大事な御文ですね。「いふといはざるとの重罪免れ難し」。折伏をするのとしないとの境ですね。やはり我々は折伏をしなければならないということです。「云ひて罪のまぬかるべきを」これは、折伏をすることによって過去遠々刧(かこおんのんごう)の罪障を消滅することができるものを、という意味です。

「見ながら聞きながら置いていましめざる事」。つまり、そうでありながらも、謗法の者を見たり聞いたりしているにもかかわらず誡(いまし)めないのは、ということです。「眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり」。それは大無慈悲であるとおっしゃっているのです。すなわち、相手が納得して入信をするかも知れないにもかかわらず、自分の勝手な判断で「あの人は話を聞かないから」といって諦めて折伏をしないのは、大無慈悲であるということです。見ていながら、聞いていながら、何もずに放っておくような者は、むしろそれは折伏をしないという意味においては重罪であるということです。結局、それは自分自身の眼耳の二徳も破れ、また相手に対しても大無慈悲となると、このようにおっしゃっておられるのです。

この無慈悲ということは、我々法華講衆にあってはならないことなのです。やはり慈悲ということは、大聖人様の仏法を信奉する者にとっては極めて大事なことであります。折伏を行ずれば「毒鼓の縁」、つまり逆縁の者もいるけれども、下種結縁をすれば、いずれその人は救われるのです。ですから、それをしないということは、まさに、「慈悲無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」ということになりますから、どんな人に対しても私たちは折伏をしていかなければならないのであります。


【弥(いよいよ)信心をはげみ給ふべし。仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ず憎むべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是なり】(御書906ページ9行目)

これは折伏に当たって、我々にこの決意があるかどうかです。折伏することに恐れおののいていたのてはだめなんです。この御文に「弥信心をはげみ結ふべし。仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし」とある通り、折伏をすれば、邪義邪宗の者たちは必ず私たちを憎むのです。しかるに大聖人様は、そこで「よし、にくまばにくめ」とおっしゃっているのです。折伏の際、穏やかに話をして入信してくだされば苦労はいりません。それならば、とっくに広宣流布をしています。けれども、折伏はそうではない。特に、末法の五濁乱漫の中に生きる衆生は本未有善です。本より善根がない人たちなのです。その人たちが、わざわざ自分のほうから法を求めて来ないのです。

このような事を言っては失礼かも知れませんが、皆さん方の中にも入信するときに、初めは反対した方もおられるのではないでしょうか。いずれにしても、実際は皆さん方が折伏をする中において「はい、判りました。そんないい宗教なら、すぐに入れてください」などと言う人はなかなかいないと思います。ですから、言えば必ず相手から憎まれるのです。そこで大事なことは、「よし、にくまばにくめ」と、この御文のごとくに覚悟を決めて折伏に臨むことです。そして「法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし」と仰せのように、すべては仏様が裁いてくがさるのだと、仏様に身を委(ゆだ)ねて、そして決意をもって折伏をしていくことが大切なのです。そして、このような人を「如説修行の人とは是なり」と、このようにおっしゃっているのです。

無論、この「如説修行の人」というのは、厳密に言えば、法華経の説相に対してこれを完全に身でお読みあそばされた方を指しますから、これは日蓮大聖人様以外にはおりません。しかるに、これを我々の信心に約して言えば、まさに自行化他にわたる強盛なる信心を貫き通している方々のことであります。ですから、いかなる災難・中傷・迫害にも屈せず、「難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書763ぺージ)との御金言を確信して折伏を行じ、妙法広布に生きることこそ肝要であります。このことか一人ひとりがしっかりと自覚していただきたいと思いいます。


では、次にまいります。

【此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが(失)候はゞ、無間大城疑ひながるべし。譬へば海上を船にのるに、船をろそかにあらざれども、あか(水)入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて(畷)堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛(たた)へたる水のたまざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてを固むべきなり】(御書906ページ13行目)

これは、謗法ががいかに恐ろしいかということを、譬えを挙げて述べられております。すなわち、船が粗末でなかったとしても、船の中に水が入ってしまえば、船は沈んで多くの人々が亡くなってしまうと仰せです。それから、「なはて(畷)」というのは、田圃のあぜ道のことです。つまり、田圃のあぜ道に蟻が小さな穴を開ければ、やがてその穴大きくなって、結局、畷も崩れてしまうということです。したがって、「謗法不信のあか(水)をとり、信心のなはて(畷)を固むべきなり」と、このようにおっしゃっているわけです。

謗法がどうして恐ろしいのかと言うと、謗法は破折しなければ絶対になくならないのです。大聖人様が、「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄に堕つべし。漆千杯に蟹かにの足一つ入れたらんが如し」と仰せのように、やはり謗法ということを恐れなければならないのです。

大聖人様の御書の中には「十四誹謗」ということが説かれておりますけれども、とかく信心をしている中において「どうも幸せになれない」、「思うようにいかない」というような時は、一度、自分自身に謗法があるかどうかをよく調べるべきです。そこで、もし謗法の行いがあったとしたならば、御題目を唱えてその謗法を破折していくのです。そうしませんと、いつまで経っても幸せになれないというようなことになってしまいます。これは非常に大事なことであります。ですから、自らの謗法を破折すると共に、他の謗法も破折していくことがまことに大事であります。


次もまた『阿仏房尼御返事』の御文であります。

【相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし】(御書907ページ1行目)

皆さん方の中にはおられないと思いますが、「もう歳だから折伏は若い人に任せて、私は悠々と…」などと考えている方がいたとしたら、それはとんでもない話です。

阿仏房は、弘安2(1279)年3月に91歳で亡くなられていますから、この御書を認められた建治元(1275)年には、阿仏房は87歳です。そこから推定すると、妻である阿仏尼は80代の前半くらいてはなかったかと思われるのです。そのような高齢の方に対しても大聖人様は「力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし」と、つまり折伏をしなければいけないと厳しくおっしゃっているのです。

ご承知の通り、阿仏房夫妻は佐渡で大聖人様から折伏を受けたのです。そして、文永8(1271年)に80余歳の高齢をもって帰伏して以来、大聖人様が佐渡におられる2年余りにわたって、役人や念仏者等の目を逃れて大聖人様にお仕えしたのです。また阿仏房は、大聖人様が身延にお入りになられてからは、90歳という高齢にもかかわらず、佐渡の地より海を渡って身延の大聖人様のもとに数度も足を運ばれているように、まことにもって信心強盛な方であったのです。その妻である阿仏房尼でありますから、非常に信心強盛な方であったと思われます。また、この阿仏房夫妻は大聖人様よりたくさんの御書を賜っておるのです。さればこそ大聖人様も、このように、厳しく阿仏房尼に対して御指南をせられたものと拝されます。

今、ここにおられる柳沢総講頭さんや石毛大講頭さんも、皆、80歳以上です。けれども、まだまだ矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃいます。そういうことを考えると、80歳や90歳でも、それこそ折伏はしていかなければだめなのです。折伏は一生なんてすね。皆さん方には、このことをよくお考えいただきたいと言います。



◆妙密上人御消息◆

次が『妙密上人御消息』であります。

【一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む。麻の中の蓬(よもぎ)、墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然に直(す)ぐなるが如し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし】(御書967ページ12行目)

「一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む」、これは自行化他の信心に励むということです。自分が唱えるだけてはなく、入にも勧めていく、折伏をしていくということであり、そこに自行化他の信心があるわけてあります。

「麻の中の蓬(よもぎ)」というのは、これは、「麻畝の性」(御書248ページ)ということです。蓬という植物はもともと曲がって伸びていくらしいのですが、それを真っ直ぐに伸びる麻の中に植えると、蓬も自然に麻に添って真っ直ぐに伸びていくということです。

「墨うてる木」というのは、大工が製材をするために墨壷を使って直線を引いた木材のことです。今では、機械を使って真っ直ぐ正確に製材しますが、昔は鋸(のこぎり)でギコギコ引いて切ったわけです。その際に大工が、墨壷の中に巻き込んである墨糸を、墨池を通して引き出し、墨糸を本村に張り渡して弾いて直線を引いて、それに添って木を切ったのです。そうすることによって、曲がった木を真っ直ぐに製材できるのです。木それ自体は、だいたい曲がっているわけです。本当に真っ直ぐに伸びている木というのはないわけで、いろいろな曲がり方をしているのです。しかし、木が曲がっていたとしても、墨を打って切れば、きちんと真っ直ぐに製材することができるということです。これもやはり「麻畝の性」と同じような意味なのです。麻の中の蓬と同じように、曲がった木でも、きちんと墨を打ってその通りに木を切っていけば、真っ直ぐに製材することができるということであります。故に「自然に直ぐなるが如し」と仰せてあります。

「経のまゝに唱ふればまがれる心なし」。「経のまゝ」に、すなわち仏様の教えの通りに題目を唱えるということは、これは自行化他の題目を唱えるということです。つまり、題目を唱えるだけてはなくして、唱題をしたらその功徳と歓喜をもって打って出ていかなければ、これは自行化他にはならないのです。題目を唱えることによって、皆さん方には、すばらしい力が湧いてくるのです。その功徳、歓喜をもって折伏に打って出ることが「経のまゝに唱ふれば」ということなのです。

大聖人様の言葉の通り、自行化他の信心に励むことが大事なのです。これを自分で勝手に解釈して「御題目を唱えていれば、それでいい」などと思っていたのではだめなのです。本来は「今日は御題目を一生懸命にあげたから、これから折伏にいこう」とならなければいけないんですね。題目を唱えるだけで終わってしまっては、これは「経のまゝ」の題目とは言わないのです。そういう意味ですから、自分勝手に解釈してはだめなんです。自分勝手に解釈せずに、自行化他の題目をしっかり唱えていけば、まさに「ばがれる心なし」、素直で正直な命になってくると、このようにおっしゃているのです。



◆曾谷殿御返事◆

では、次の『曽谷殿御返事』にまいります。

【涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者(けんねほうしゃ)の見と、置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく『諸の悪人と倶地獄に堕ちん』云云】(御書1039ページ16行目)

このように涅槃経の中に説かれているわけです。つまり、法を壊る者を見たならば「呵責し駈遣し挙処せずんば」とあるように、放って置くのではなく、謗法を厳しく破折しなければいけないという意味です。この「呵責」とは、厳しく責めるということです。それから「駈遣」とは、追い払うということですから、これは正法誹謗の者を退治して追い払うということです。「挙処」とは、罪過をはっきり挙げてそれを糾明し、処断することてあります。

ですから、折伏というのは「こっちの水は甘いよ」というような意味で、ただ「大聖人様の仏法はすばらしいのです」と言っているだけでは、実際、破折にはならないのです。ここにある通り、呵責し、駈遣し、挙処する。つまり、もし今でも『ニセ本尊』を拝んでいたとするならば、「それでは本当にあなたは幸せになれませんよ」と、はっきりと言わなければだめなんです。このようにしなければ、折伏にはならないということです。

「当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」。そのようにしない者は、仏法の中の怨であるとおっしゃっているのです。「若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」。しっかりと折伏をする者こそが、大聖人様の弟子檀那であるということであります。そして「見壊法者の見」と「置不呵責の置」を、心腑に染めなければいけないということです。つまり、法を壊る者を見ていながら、知らん顔をしてしまうようであってはならない。本当に気の毒だとおもっていても、怖がって折伏をせずに素通りしてしまうようではだめだとおっしゃているのです。

「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」。これは仏様がおっしゃているのです。つまり、折伏をしないということは師檀共に無間地獄である、「折伏をしなさい」と言わない人も、同様に無間地獄に墜ちると仰せられているのです。この侮(あなど)りは、我々は絶対に受けてはならないのです。大聖人様が「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書668ページ)と仰せのように、各々の力に応じて折伏をしていかなければだめなんですね。これが五濁乱漫の末法の修行なのです。本未有善の衆生に対しては、こういう強い折伏の姿勢をもって臨まなければだめのです。ですから、私たちは「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀共に無間地獄は疑ひなかるべし」の御文を、よくよく拝読していかなければなないのであります。

「南岳大師の云はく『諸の悪人と倶地獄に堕ちん』云云」。これは南岳大師が『法華経安楽行義』という書の中で、このように言っていということです。この御文は本当に厳しいですね。折伏をしない者は師檀共に無間地獄に堕ちるとおっしゃっているわけです。しかるに、これは裏を返せば、まさに折伏をする者の功徳がいかに甚大であるかというこてす。要するに、折伏をしない者は無間地獄に堕ちるとまでおっしゃっているその裏には、折伏をする者の功徳は実にばらしいんだということをおっしゃっいるのです。

大聖人様は『曽谷入道殿許御書』の中で、「既に之を謗る者に大罪有り。之を信ずる者何ぞ大福無からん」(御書791ページ)と、この法を謗る者には大罰があり、逆にこれを信ずる者には大きな福が必ずあるとおっしゃっているのです。あるいは『四信五品抄』の中に、「罰を以て徳を惟ふに我が門人等は福過十号疑ひ無き者なり」(同1115ページ)と、折伏をしない者は無間地獄に堕ちるけれども、罰をもって徳を思うに、自行化他に励んでいる者は「福過十号」は疑いないとおっしゃっているのです。この「十号」というのは、仏様が持つ十種の尊称でありまして、それらの功徳に優れているということですから、それほどすばらしい功徳が具わるということであります。

ですから、大聖人様がこれほど厳しくおっしゃる折伏をしていけば、過去世のあらゆる罪障を消滅し、一生成仏を果たしていくことができ、そしてまた相手をも幸せににすることができるのです。仏様のなされることを行っていくわけですから、大きな功徳が存するということであります。したがって、この御文を見て怖気づくのではなくして、自行化他の信心に励んでいけば、すべての悩みは全部そこに解決していくわけですから、勇気を持って折伏に励んでいただきたいと思う次第であります。

先ほどの『阿仏房尼御前御返事』の御文にもありました通り、それこそ老若男女のことごとくが、平成21年の「地涌倍増」の御命題の達成をめざして折伏に立ち上がっていただきたいと、このように心からお祈りいたしまして、本日の講義を終了します。





御法主日如上人猊下御言葉
10月度広布唱題会の砌


皆様、おはようございます。本日の総本山における広布唱題会には、支部総登山のために御登山をせられました指導教師の方々、また御信徒の方々も多数、参加いたされまして、まことに御苦労さまでございます。

本年「決起の年」もいよいよ10月に入り、残り3カ月間となりましたが、皆様方には誓願達成に向けて御精進のことと存じます。先月の広布唱題会の時にも申し上げましたが、本年「決起の年」は、御命題達成の鍵を握るまことに大事な年であります。したがって、これからの3カ月間は、一日一日を無駄なく闘いきっていただきたいと思います。

さて、法華経の法師功徳品を拝読いたしますと、「若し善男子、善女人、是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説(げせつ)し、若しは書写せん。是の人は、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意(こころ)の功徳を得べし。是の功徳を以て、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん」(法華経474ページ)とあります。

また、次の常不軽品におきましては、不軽菩薩の但行礼拝を通じて弘教の行軌が示されまして、六根清浄を得るためにはあらゆる難を忍び、弘教すべきであることが明かされております。この両品に示された意を結論的に申し上げるならば、我ら衆生がまさしく自行化他の信心に励んでいくところ、必ず六根清浄の果報を受けることができるということであります。

その六根清浄とは、眼・耳(に)・鼻・舌・身・意の六根が、色・声(しよう)・香・味・触(そく)・法の六塵と縁して煩悩を起こし汚れるところ、その汚れを払って清らかになること、すなわち人間の身心が種々の功徳に満ちて清浄となることを言うのであります。

すなわち『御義口伝』には、「功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり」(御書1775ページ)と仰せられておりますように、六根清浄というのは即身成仏と同義であります。つまり、日蓮大聖人様の仏法におきましては煩悩即菩提、生死即涅槃の原理によって「不断煩悩・不離五欲」(御書1798ページ)と仰せのように、正しい御本尊様のもとに、法華経の説の如く正直に妙法五字を信仰していけば、妙法経力によって、敢(あ)えて煩悩を断ずることもなく、五欲を離れることもなく、六根清浄の功徳を得て、その身そのままに凡身が仏身に転じていくことができるのであります。


今日、世間では毎日のように不幸で悲惨な事件や事故が頻発しております。こうした惨憺(さんたん)たる世の中を救っていくためには、たしかに法律や制度の整備も大事な要素ではありますが、もっと抜本的な解決を図っていくことが大事であります。その抜本的な解決とは視点を人間自身においた解決策、つまり人々の身心を浄化することが根本的解決の鍵となるのであります。逆に、その場限りの皮相的な解決では、真の解決とは言えないのであります。

要は、政治も経済も教育も文化も、あらゆる世間法は、結局はそれに携わり、そしてそれを用いる人によって善ともなり悪ともなるのであります。したがって、基本的にはその人の六根、すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意が清浄であれば、何事もおのずと良い方向に向かいます。しかし、反対に煩悩に汚染されたままでは正しい結果を得ることができないのであります。

つまり、大聖人様の仏法によって人々が六根清浄の果報を得て浄化されれば、必然的に世の中も浄化されてくるわけであります。『御義口伝』には、「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳(さいわい)有るなり。功(く)も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり」(同1775ページ)と、このように仰せであります。一人でも多くの人が、この御金言の如く六根清浄の果報を得ていくことが、平和で幸せな世の中を構築していくことになるのであります。

言うまでもなく、六根清浄の果報は、末法の一切衆生救済の御本仏である宗祖大聖人様の法華本門寿量文底の下種仏法によって初めてかなえられるのであります。故に『内房女房御返事』には、「妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉と由す泉は石を玉となす。此の五字は凡夫を仏となす」(同1492ページ)と仰せであります。

我らはこの御意を拝し、真の幸せと平和を実現すべく、近くは来たるべき「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の「地涌倍増」と「大結集」の御命題達成へ向けて大折伏戦を展開していくことが肝要であります。地涌倍増と大結集の御命題を達成するためには、折伏以外はありません。すなわち折伏こそ、今日の混沌とした世の中を救う唯一にして最高至善の方途であります。

どうぞ皆様方には、本年も残り三月(みつき)となりましたが、本年度の誓願を達成すべく、いよいよ御精進くだされますことを心から念じ、本日の挨拶といたします。


三門



教学用語解説 身口意の三業


身口意の三業(さんごう)とは、身業・口業・意業の3つをいい、人間の行為を身・口・意志の三種に分類したものです。業とは行為・造作の義で、善悪にわたる行為そのものだけでなく、その行為の余力としての習慣力が含まれます。人の行為経験は、いかなるものもそのまま消滅することなく必ずその余力を残し、それは知能・性格などの素質として保存・蓄積されるのです。


三業と十悪・十善

三業は諸経論に広く説かれ、そこには多少の異説があります。身業とは動作や振る舞いに現れること、口業とは言葉に表現されること、意業とは心に思う思慮分別のことをいいます。

『大乗義章』7巻には、「三種の中には身は軽く、口は中、意は最重」とあるように、身の一切の行動、一切の言語は、意(心)にしたがって生ずるので意業が最も重要であると説かれています。ある物事に対して、実行しようとする心が生じて行動があり、言語として表現されるからです。

この三業の行為・造作に善・悪・記の三種があります。悪の三業とは、身に殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫、口に妄語・綺語(きご)・悪口・両舌(りょうぜつ)、意に貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)ぐちがあり、これを十悪ともいいます。善の三業は、これらに反して身に不殺生等、口に不妄語等、意に不貪欲等で、これを十善ともいいます。そして善に非ず悪に非ず、すなわち善悪の結果を招かないのもを無記の三業といい、これら善・悪・無記の三業の中に、あらゆる業が含まれます。

『女人成仏抄』に、「然(しか)るに一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて妄想顛倒(てんどう)の里に入りしより已来(このかた)、身口意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し。されば経文には『一人一日の中に八億四千の念あり。念々の中に作(な)す所皆是三途(さんず)の業なり』等云云」(御書344ページ)とあるように、一切衆生は本来、法性真如の清浄なる命より妄想顛倒の悪念を生じて、日々刻々と悪業を積み、三界六道の苦を受けるのです。


定業と不定業

また、業とは身・口・意での行為をを因として受ける果報のことで、これに定業(じょうごう)と不定業があります。定業とは過去の業因によってすでに定まっている業、不定業とは自他の功徳や善業により改められる業をいいます。

大聖人は『可延定業御書』に、「業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能(よ)く能く懺悔すれば必ず消滅す。何(いか)に況(いわ)んや不定業をや」(同760ページ)と仰せです。すなわち、過去からの因縁果報による「定業」でさえも、大聖人の仏法を受持信行し、過去の謗法を懺悔するならば、消滅させることができることを御教示されています。


三業相応の行業こそ肝要

大聖人は、身口意の三業にわたって信仰を受持することが肝要であると、御書の随所に御指南されています。

『本尊問答抄』に、「されば日本国、或(ある)は口には法華最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。或は身口意共に最第二・三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし」(同1279ページ)と仰せのように、大聖人は身口意の三業にわたって法華経の教説を身をもって実践されました。これを色読(しくどく)とも身業読誦ともいいます。大聖人は末法の法華経の行者の逢難(おうなん)を予証した法華経の「勧持品二十行の偈」を身業読誦され、御自身こそが末法の御本仏であることを実証されたのです。

また『土籠御書』には、「法華経を余人の読み候は、口ばかりは読めども心は読まず、心は読めども身に読まず。色心二法共にあそばせたるこそ貴く候へ」(同483ページ)と、身口意の三業相応して法華経を読み、色心共に大難に遭って、それを乗り越えたときにこそ真の即身成仏があることを御教示されています。


身口意の三業に折伏を行ずる

第9世日有上人は『化儀(けぎ)抄』に、「事(じ)の即身成仏の法華宗を建立の時は、信謗(ぼう)を堅(かた)く分かちて身口意の三業に少しも他宗の法に同ずべからず云云・・・中略・・・若(も)し又十徳計(ばか)りにて真俗の差異なき時は、身業が謗法に同ずるにて有るべきなり。念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば、口業が謗法に同ずる姿なり。彼の折伏を心中に油断すれば、心業が謗法に同ずるなり云云」(日蓮正宗聖典)と仰せです。本宗の信仰は、身口意の三業の上において、他宗の謗法与同(よどう)を禁じると共に、破邪顕正の精神を常に忘れず、折伏を行じていくことが肝要であると御指南されています。

また、第26世日寛上人は、「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数(じゅず)を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向かい、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。是れ則ち身口意三業に法華を信ずる人なり」(御書文段608ページ)と、本宗僧俗のあるべき姿を御指南されています。

「身業」とは、御本尊に真剣に向かうこと、「口業」とは、朝夕の五座・三座の勤行と唱題を真剣に行ずること、そして「意業」とは、無疑曰信(むぎわっしん)の信心をもって御本尊に対し奉り勤行・唱題をすることです。末法では、心を対境とする観念観法では成仏の利益を得ることはできません。身口意の三業の上から御本尊を受持信行するところに成仏があるのです。




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