大白法

平成18年11月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


back      index      next



総本山第64世日昇上人第50回遠忌法要


10月13日・14日の両日、総本山において総本山第64世日昇上人の第50回遠忌法要が、御法主日如上人猊下大導師のもと、厳粛に奉修された。この法要には、御隠尊日顕上人猊下が御出仕あそばされ、さらには八木日照総監・藤本日潤重役・高野日海・大村日統・光久日康・菅野日龍・尾林日至の各御尊能化、細井珪道宗会議長、宗務院各部長・副部長、佐藤慈暢大石寺主任理事をはじめとする御尊師方が多数御列席された。また、法華講総講頭の柳沢委員長、石毛副委員長・永井藤蔵・渡辺定元(総本山総代)・石渡秀男・大草一男の各大講頭、土橋昌訓総本山総代、寺族、信徒代表970余名が参列した。


13日の御逮夜法要は、午後4時から客殿において御法主上人猊下による懇(ねんご)ろな献膳の儀に続き、読経・唱題と進められた。途中、御法主上人猊下の御焼香に続いて、参列者全員が焼香に立ち、日昇上人の御高徳を偲(しの)びつつ御報恩謝徳申し上げた。その後、水島公正教学部長より、日昇上人の御事績の紹介と参列の各位に対する丁重な謝辞が述べられた。

翌14日は、午前10時より客殿において御正当会が奉修された。御法主上人猊下の大導師のもと、献膳の儀・読経・焼香・唱題と厳粛に修された後、水島教学部長より参列の各位に対して丁重な謝辞が述べられると共に、日昇上人の御指南の一端が紹介された。引き続き、御法主上人猊下大導師のもと、日昇上人の御墓前において墓参の儀が執り行われ、午前11時半過ぎ、法要の一切がとどこおりなく終了した。


総本山第64世日昇上人は、明治12(1879)年9月24日、宮城県栗原郡柳ノ目(現在の栗原市一迫柳目)において、妙教寺住職であった摂津阿闇梨秀円坊日喜贈上人を御尊父として御誕生になられた。同24年4月7日、日昇上人は御尊父について出家得度され、出家後まもなくして総本山第56世日応上人の徒弟となられ、宗乗を学ばれるかたわら、国文学、漢学、英学等を修められた。

その後、浄円寺(栃木県小山市)、本広寺(静岡県沼津市)、常泉寺(東京部墨田区)の住職を務められながら、宗会議員、評議員、宗務総監、日蓮正宗教学護法財団理事長等の重職を歴任されたのち、第44代大学頭となられた。そして昭和21年12月26日には日蓮正宗管長に就任され、同22年1月15日に御座替り式が挙行されて、大石寺に晋山された。

そして同年7月18日に日満上人より金口嫡々の血脈相承をお受けになられた。御在職中は、同23年11月に大石寺客殿・六壼を再建し、同27年4月には宗旨建立700年慶祝記念大法要が盛大に奉修され、その記念として『日蓮正宗聖典』『日蓮大聖人御書全集』が刊行されたほか、大石寺の本尊書写室・管長居室が建立され、さらに日昇上人は御自ら富士山経ケ岳に登られ、正法広布平和祈念塔を建立して法要が営まれた。また戦争中に金属供出されてなくなっていた梵鐘(ぼんしょう)が再鋳された。さらにその後も、総本山の五重塔や総門を修築され、宝物館や奉安殿を建立されるなど、敗戦と混乱の時代にあって、宗門発展のために多大な御功績を遺された。

そして、同31年3月30日、法を第65世日淳上人に付嘱せられ、同32年10月14日、御年79歳をもって日昇上人は安祥として御遷化あそばされた。




折伏誓願完遂へ僧俗一丸


○寧楽寺住職 渡辺雄布御尊師(奈良市)

寧楽寺住職として平成16年7月に赴任した私は、当時100世帯ほどであった世帯数を200に倍増するにはどうすればよいかと、ただ漠然とした思いだけで何も具体的な考えや計画などはありませんでした。まずは家庭訪問からと始めたのですが、前住職がご病気で入院されたりしておられた関係からでしょうか、支部としての折伏活動はほとんど出来ておりませんでした。家庭訪問をしながら、悩みは深まるばかりでした。

そのせいでしょうか、私も体調を崩し、とうとうその年は折伏は出来ませんでした。これではいけないと、まず折伏をする人材を作ることからと思い立ったのが理境坊妙観講支部との合同折伏でした。平成17年の2月から始めたのですが、内容ははじめに1時間唱題し、唱題後、妙観講の人に体験発表をしてもらい、その後打ち合わせをして一緒に折伏に出かけるというものです。これは我が支部に大きな衝撃を与えました。特に生で聞く体験発表は、彼らの折伏の体験とその強烈な功徳の実証を語るもので、我が支部の目を覚まさせるには十分過ぎるものでした。

その後、数回合同折伏を行い、お陰をもちまして、平成17年は14世帯の折伏が出来ました。平成18年も妙観講との合同折伏を続けております。9月までに16世帯の折伏が成就しております。支部として平成17年が10世帯、18年が20世帯、19年が30世帯、20年が40世帯の目標を立てて、平成21年までに100世帯の折伏を成就して、地涌倍増を完遂する計画であります。そのためにも、今年度あと4世帯の折伏を何としても成就しなければと思っております。

支部の具体的な活動としては、第1日曜日の広布唱題会の後、下種折伏・家庭訪問等の実践、これは布教区として行っているものです。あとの第3もしくは第4日曜日に折伏実践の日として、ここに妙観講との合同折伏を入れたりしています。この折伏実践で大切なことは、終了時間を決めて、必ず『報告会』を行うことです。報告会では、いろいろな報告が出ます。留守であった、インターホン越しに断られた、門前払いであった等々ですが、中には身の危険を感じるような報告もあります。私は皆の無事を祈って、帰ってくるまで唱題をしていますが、そんな報告を聞いたときには肝を冷やします。しかしまた、御本尊様の御加護を感謝し、折伏に手応えを感じています。

活動が進むに連れて、学会の嫌がらせも激しくなってきました。しかし寧楽寺も強くなり折伏する人が増えてきました。また妙観講の協力もあり、前に進んでおります。折伏の進まない支部は、実績のある支部から学ぶべきだと思います。私たちも初めは恥ずかしかった、他支部から応援してもらってよいのだろうかとも思いました。しかし、このままではいけないと思い、妙観講との合同折伏を始めました。今では我々も他支部の応援ができるようになりたいと思っています。これからいろいろなことが起きてくるでしょう、しかし我々は平成21年に向かって明るい希望を持って進んでいます。講中にも功徳の体験が出てきました。あとは住職の一念だと思っています。


○万宝寺住職 北正修御尊師(喜多方市)

当支部では、平成14年来、地涌倍増の闘いの中で、めざましい前進ができない状況でした。元朝勤行で、「決起の年」ということもあり、今までの汚名をそそぎ、名誉を挽回すべく全力を尽くすことを御本尊様にお誓い申し上げました。

今までの反省をする中で、活動にメリハリがないことに気づき、「唱題の月」「折伏の月」と振り分けて計画を立てました。具体的には、1月・4月・7月・10月は唱題月間で、年間100時間以上の唱題行の実践。その他の月は折伏月間とし、唱題の功徳をもって、期間目標5世帯(2・3月/5・6月/8・9月/11・12月)を掲げることにいたしました。この期間目標は高めに設定することで、早期完遂を期待してのものです。

唱題会は、必ず寺院に参詣して、僧俗一体で行うことを原則とし、少なくとも役員は参加するよう実践しております。折伏に関しては、葬儀・法事などに役員が極力同行し、顔見知りになることから折伏へのきっかけにしたり、お寺に突然訪問してくる非活動の学会員や、学会破門当時の宗務院作成のお手紙を見て電話してくる方など、ありとあらゆる機会を逃さず、丁寧にお話をしております。結果として上半期で折伏目標10世帯を完遂し、現在成果の上乗せをしているところです。

平成21年に向けての3年間の活動としては、当支部の最大のウィークポイントである活動家の少なさを克服することに当てております。これには「新入講者を活動の最前線に」をモットーに力を注いでおります。具体的な活動としては、折伏目標を成就した6月の初旬に「新入講者の集い」を開催し、寺院行事や講活動の説明、さらには総本山DVDや『法華講員の心得』などのメディアも活用し、信仰の在り方を訴えたところ、その後の寺院行事に参加できた人もあり、参加できないまでも、欠席の電話連絡が来るようになり、少しずつ寺院への意識が芽生えていると感じます。

いずれにいたしましても、折々の御法主日如上人猊下の御指南をもとに、平成21年を勝利で飾るべく、全力を尽くすことをお誓いし、活動状況の報告とさせていただきます。


◇要言寺支部 宮本孝司講頭(行橋市)

我が要言寺支部が所属する福岡地方部では、秋山支院長様の御指導により、特に2月・4月・7月を『大折伏戦の月』と定め、各支部が折伏誓願目標の達成を競い合っています。

2月戦では、御住職・花野充道御尊師が各地区の座談会で、「闘いは勢いが大事だ。とにかく祈ったら、動くこと。行動の伴わない祈りは、真の祈りではない。強い祈りに基づいた実践によって、はじめて折伏は成就できる」と御指導されました。この御指導を実践し、各地区の拠点を中心とした唱題会と、下種名簿の絞り込みによる闘いで、折伏目標を達成することができました。

4月戦は当初、苦戦を強いられましたが、御住職の入られる地区の座談会を折伏座談会に切り換え、一人でも多く未入信者を連れてくる闘いを展開しました。その結果、折伏の息吹きが各地区に漲(みなぎ)り、思わぬ人が思わぬ人を折伏したりして、見事に大勝利を収めることができました。

7月戦は、7月13日に要言寺創立20周年の法要を奉修するため、それまでに何としても年間の折伏誓願目標を達成しようと、背水の陣を敷いて、6月1日から折伏戦に突入しました。「ただ水の流れるような信心をしているだけでは駄目だ。絶対に折伏目標を達成するんだという、燃えるような熱い信心を生涯、水の流れるように貫いていくことが大事だ」という御住職の情熱溢れる御指導に、講中が熱く燃え一丸となって、7月半ばには早々と折伏誓願目標を達成することができました。

これで3年連続して年間折伏目標の早期達成を果たすことができました。「折伏戦に勝利した後は、育成に力を注ごう」ということで、去年から各部の大会を開催しています。9月は婦人部大会、10月は青年部大会、11月は壮年部大会です。各大会の成功に向けて、各部の部長を中心に人材の発掘と育成に取り組み、活動家のすそ野を広げて、翌年の折伏達成に弾みをつけるためです。

今後とも、要言寺支部は花野御住職のもと異体同心し、平成21年に向けて折伏誓願目標の連続達成記録をさらに伸ばし続けていこうと決意しています。


◇正伝寺支部(高松市))

昨年春、御住職・渡辺寧道御尊師の御指導のもと、正伝寺より地元創価学会員宅へ、『折伏教本』を貸し出すので読むようにとの手紙を出した。学会はその対策として寺院へ男子部に本を借りに来させ、男子部幹部が法論しようと言ってきた。当支部講頭は創価学会の問題の資料を収集し、青年部の協力で整理し準備を整えて7月、学会側壮年部・男子部の幹部と当方講頭・壮年部・青年部長とで対論し、学会の邪義謗法を破折した。学会問題を知らない青年部も多く、謗法破折についての意識が高まり、たいへん勉強になった。

以前より青年部では講頭宅等で早朝勤行を続けており、勤行後、御法主上人猊下の御指南を読み、折伏の進め方を話し合っている。今年は広布唱題会の後と行事のない日曜日を折伏活動の日として、四者の協力体制で数人ずつ、グループを組んで下種先へ出かけている。

壮年部は支部の重鎮として、壮年部長を先頭に活躍している。新入信者の育成、問題を抱え悩んでいる人、信心から遠ざかっている人も励まし続けて、また参詣できるようになった。邪宗の害毒に苦しむ相手には、衣座室の三軌の心構えで、粘り強く不幸の原因と正法による救済を教えて入信に導き、50回を越える訪問でついに慈念が通じた例もある。

婦人部は行事の準備、清掃、新聞・書籍の仕分け整理等、内助の功で支部活動を支えている。毎月婦人部長宅で唱題会を行い、『大白法』の読み合わせ、話し合い等をしている。

広布推進会では壮年部、青年部、婦人部がそれぞれ折伏成就の体験発表をさせていただき、参加者も増えてきている。御法主日如上人猊下の甚深の御指南、夏期講習会の御講義を拝して、講頭を中心に僧俗和合、異体同心して懸命の折伏弘教を実践し、今年20世帯の誓願目標で現在までに16世帯の成果を見ることができた。

まずは「決起の年」を勝利して、平成21年の地涌倍増の御命題成就へ向かっていよいよ勇猛精進していく決意である。



体験発表 『折伏誓願目標への役員の自覚』
善正寺支部・中西重蔵


私は、富田林市の善正寺支部で副講頭を拝命しております。

我が中西家の入信は昭和29年、一家の柱である父が脳溢血(いっけつ)で倒れ、現在92歳の母が親戚の勧めで創価学会に入り御本尊様を受持した時であります。母が40歳、私は5人姉弟の真ん中で、まだ小学校の1年生でした。一家の柱が倒れたため我が家の経済状態は大変化しました。家を売り払い長屋住まいです。一番上の姉は住み込みで勤めに出、4人の男兄弟と母、半身不随の父の6人が四畳半で暮らすという西成区での生活が始まりました。父は6年間の闘病生活の末、私が小学校を卒業した4月に48歳の若さで人生を終えました。


夢中で活動した青年時代

私の入信は10年遅れて中学校3年生のとき、家庭訪問に来られた男子部員に御授戒を受けるようにと誘われ、いやいやお寺に連れて行かれたのが始まりです。その1年後、教学試験を受けるように勧められ、年末から始まった勉強会にも出ました。初めて耳にした大聖人の仏法に感動を覚え、この勉強会がきっかけとなり五座・三座の勤行を真面目に実践し始めました。

私の下に、3歳ずつ歳のあいた弟が2人いますので、家計を助けるため中学を出てすぐに就職をしましたが、信心の目覚めと共に同級生より1年遅れて定時制高校を受験し、勤労学生としての生活が始まりました。夜間高校には4学年で800人の生徒がいました。信心している生徒を掌握しましたら120人いましたので、活発な校内活動や、折伏座談会もやりました。私はクラブ活動として柔道をやっていて帰宅は夜11時。既に家族は寝ていますので、自分の布団に座り、棚の上に御安置した御本尊様に向かって小さな電気1つでの勤行が、卒業までの4年間続きました。

高校を卒業してすぐ男子部の隊長になりました。活動はすべて自転車で、西成区を中心に北は豊中市、南は岸和田市まで家庭訪問に回った記憶があります。この期間の信心と経験は生涯の宝です。勤労学生時代に、大聖人の仏法に燃えて水を得た魚のごとく活動したことが、今日の信心と人生のすべての基盤になっていると、今だから言えます。また、その後の人生を決定づけ、貧乏という罪障を消していただけたのも無心に信心をがんばってきた功徳だったと感じられます。小学校1年からの長屋生活は、私が23歳になるまで続きましたが、信心している先輩の紹介で住吉区の平屋で3部屋ある借家に移りました。

男子部時代の私は、女性に全く関心がなく、学会活動一本槍の幹部でした。25歳の時に、今の家内から女子部の幹部を通じて交際の話がありましたので、先輩に指導を受けて2ヵ月後に結納、その2ヵ月後に結婚と、超スピードで式を挙げました。家内は交際を、私は交際即結婚と、考えの違いがあったようですが、私には恋愛期間が無駄に思えたのでした。結婚して33年。子供4人・孫4人おり、我が家の法統相続は今、孫の信心育成の段階です。

結婚2年後、昭和48年の石油ショック前に、27歳で羽曳野市に新築45坪の家を購入しました。入信11年目にして4畳半の長屋から新築一戸建てとなりました。その後8年間、座談会会場として提供していましたが、地域に事業を拡張するため自宅を売却しました。石油ショックの影響で購入時の倍の価格で売れ、鉄筋4階建ての店舗兼住居を建てることができました。入信18年目のことで、大聖人の仏法に感動し、利益信心ではなく一生懸命働き、夢中で信心活動をしてきたことで、凡夫の私ごときの智慧ではなく、自然のうちに御仏智を戴いて道が開かれ、護られていることを実感しました。

私は、学校制服の販売を仕事としており、羽曳野市、藤井寺市を商域として店舗を拡張して、早22年になります。地域に同業者もいますが、当社が70%のシェアを占め、学会員以外の方からは、信頼できる会社として地域では名前が通るようになりました。これもまた、店舗を拡張した時期と選択した場所が理に適っていたからで、御本尊様から戴いた功徳と感じています。

昭和58年、学会は総本山に二百箇寺建立寄進の御供養を提案しましたが、寺院御供養完了後の幹部会で、今後も基金として名目のはっきりしない金集めを毎年するとの打ち出しがありました。信心だからと金銭的に無理をしている家庭を見てきた私には、受け入れることはできませんでした。大阪第4総合本部の副書記長や、選挙の際には矢野絢也の外部対策男子部委員長等も務めましたが、幹部であるために矛盾を通さなければならないことに葛藤した末、昭和58年末に一切の役職を辞任し、活動を停止しました。

平成元年から創価学会元副会長の福島源次郎さんと、学会の中に残って学会の蘇生を計ろうと全国的な活動をしてきました。創価学会が平成3年11月に宗門より破門されたため蘇生の可能性がなくなり、このままでは私たちも邪宗の一員になりますので平成4年初めに脱会通告書を、それぞれ学会本部に送り、晴れて法華講の一員にならせていただきました。


折伏誓願目標へ役員の自覚

昨年「僧俗前進の年」は、指導教師であられる吉田誠善御尊師と、執事さんの吉田道立御尊師のもと、何としても今年こそは折伏誓願目標30世帯達成を成就しようと役員一同、誓い合いました。

各支部がそれぞれ唱題行に取り組まれているように、我が善正寺支部も数年来、日曜日は朝7時から勤行、8時から9時まで唱題、木曜日は昼1時から2時まで唱題、夜は7時から勤行、8時から9時まで唱題と行っています。行事が定着した分、参加者も定着していますが、唱題のための唱題になっている感があり、結果を出すための一歩前に出ていく信心が不足しているのを感じるようになりました。唱題のとき、私はできるだけ御住職の真後ろ、御本尊の真正面に位置する場所に座るよう心がけています。唱題後、御住職は、必ず折伏をがんばるように御指導されますが、成果の上がっていないときは、真ん前にいる自分に言われているように心が痛み、身に染みるようにして聞いています。唱題行を当たり前に行うこともたいへんなことですが、折伏が結果として出てこないことに対しては、役員である自分から、「当たり前」で甘んじている殻を破らなければと、決意しました。

私は常に学会員、正信会員、その他の世間の人への下種を怠らず、その方々を意識の中から忘れたことはありません。また、日蓮正宗への理解度順に下種名簿の整理と見直しをしたところ、この1,2年で5世帯は折伏できる確信をつかみました。殻を破る決意をして間もなく、執事さんから、学会の婦人部員が話を聞きたいとお寺に電話してきたので連絡を取ってみてくださいと言われました。早速電話したところ、学会に対して少々の疑問を持っておられたためトントン拍子に話が進み、昨年の春に素直に勧誡を受けられ、御夫婦で入講されました。

夏期講習会の頃には、目標の半分を達成しましたが、後半になると、怠らず唱題行をしているのにパワーが落ち誓願達成できないのが、例年のパターンです。昨年は元正信会員の鈴木さん御夫婦が、地元に1カ寺ある正信会になってしまった寺が講を解散したと聞きつけ、1人、2人と折伏を成就され、秋頃には目標の30に手の届く24世帯まで成果が実ってきました。私も以前から人間関係を温めてきた元正信会の副講頭で、その後邪宗に移った田中政昭さん宅を尋ねました。元副講頭をしていただけに講の解散の事情はよく御存知でした。今年こそ折伏しようと、長年温めてきた友情から謗法破折へと気持ちを切り替えました。すると、田中さんは私に見せたいものがあると言ってタンスから袱紗(ふくさ)を取り出し、ケースに入っていない宗旨建立750年慶祝記念・30万総登山の記念品のメダルを差し出すではありませんか。理由を聞くと、思わぬところからメダル製造の仕事が入ってきて30万個作り、記念に1つ戴いたというのです。退転はしたものの、「静岡方面に行けばお山の三門の前を通り、学会がまともであった当時を思い出す」としみじみ語り出しました。

日蓮正宗に縁があるのだから、もう一度一緒に善正寺で信心をやっていこうと誘いましたが、長年信仰を離れて勤行していない田中さんには、お山に行きたい懐かしさと信仰実践の間で葛藤があり、行動に移すには少し時間が必要なのか、返事が重たく感じられました。「僧俗前進の年」も10月を迎え、私にも焦りはありましたが、田中さんの「いずれは中西さんのところで弟と2軒がお世話になると思います」との言葉を聞きましたので、失礼することにしました。学会当時の私でしたら、なおも粘って帰らなかったと思います。

御宗門より平成18年度の年間方針を「決起の年」とする旨が発表された「大白法」を読み、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」に向けての誓願目標として、長年、自分自身が打ち破れない事柄への大きな挑戦を決意しました。

11月になり、「決起の年」の決意は固まったものの、残る4世帯の誓願目標が達成できずして来年があるものかと自問しました。折伏も気にかかるが、もう一つ気にかかる問題が出てきました。10月頃から便の排出具合が普段と違うのに気づき、11月のはじめに、胃腸専門医院で検査を受けました。すると直腸の1部の直径が5分の1の細さになっているため、手術したほうがよいと言い渡されました。年明けには例年のごとく仕事が忙しくなりますので、12月14日が手術日と決定し、2日前の月曜日から入院と決まりました。

あとは入院日を待つのみですが、どうしても入院までに個人折伏できるよう御祈念してきました。すると私の店に荷物を配達してくる運送会社の川田君が仕事でやってきました。彼はすでに、5月の連休中に総本山の見学に一緒に行っていました。入信しないと御開扉を受けられないことも教えて折伏していましたので、私が入院しなければならないこと、いつまでも迷っていてはいけないことを話し、彼は11月の御報恩御講で御授戒を受け、御本尊様を御下付戴くことができました。

あと3世帯を残していることが気にはなりましたが、12月12日に入院し、手術前の検査が始まりました。入院前に手術をする部分の細胞も取ってあり、手術前日にその結果が判るとのことでしたので、看護婦さんに、「私の病名は何と言うのですか」と聞き診断表を見ると、「中西重蔵、病名、直腸ガン」と書いてあったのです。私が「これですか」と指を指しますと、「まだ聞いておられなかったのですか。そうです、直腸ガンです」と返答されました。日頃、他人様がガンになったと聞くと大層に思ってはいましたが、何があっても受け止められる日頃の信心がいかに大事か実感しました。私のために手術の成功を祈り、講員さんが御題目を唱えてくれたことを娘に聞きました。何十年、他人のために動き御題目も唱えてはきましたが、自分のことで御題目を唱えていただくとは夢にも思ってはいませんで、胸に熱いものを感じました。3時間ほどで手術は終わりました。病巣がもう少し下だったら人口肛門を付けなければいけないところでしたが、それは免れました。58年間生きてきて初めて、入院、手術、点滴の3つを経験しました。折伏達成への御題目を唱えられるよう個室をとってもらいました。

入院していても行事が気にかかります。手術をした2日後は、総本山で第68世日如上人猊下の御座替り式の日でしたので、客殿の御本尊様を思い浮かべて唱題しました。翌17日は広布推進会、会場である浄妙寺の御本尊様を思い浮かべながら午後6時から唱題しました。ベッドの上で、身動きもとれず唱題する自分に、自然と涙が流れてきました。自分が動ければ田中さん兄弟を何とか折伏できるのにとの思いからです。

翌日、森田登山部長に、入講間近と思える方の家を2,3教え、回ってもらいましたが、やはり紹介者が入院していて代理の者では無理でした。2,3日してから御住職に術後の状態を報告し、折伏の成果を伺いましたところ、誓願目標は達成し、30世帯を超えることができたと、御住職の声も軽くはずんでいました。電話を通じ、微笑んでいるお顔が目に浮かびました。支部の講員さんを含め、どれだけの人たちが支部の誓願目標に対して、年末のギリギリまであきらめずに取り組んだことでしょう。それは別にして、講の役を託された者の使命と一念がいかに大きいかを教えられました。

ほっとして、やっと自分の病気のために御題目を唱えようとの気持ちが出てきました。退院前日の12月25日の日曜日に、次女の八重が友人の小田君と病院にやってきました。日曜日で見舞い客が多かったため、途切れ途切れの折伏になりましたが、娘が日頃からお寺へ誘っていた努力が実り、小田君は入信を決意し本年の1月1日に御授戒を受け、御本尊様を御下付戴きました。

昨年、「決起の年」に向け決意した春季総登山会は、学校への納品が例年と違って1週間早くなり、御登山させていただけました。法華講に入って初めての春季総登山会でしたが、総会では客殿での整理役員として参加させていただきました。昨年から折伏していました田中さん兄弟も、奥さん共々この3月に入信され、2世帯の折伏ができました。そして田中さんは幸いにも、25年ぶりの総本山が第68世日如上人御代替慶祝登山と重なり、感激の御登山となりました。田中さんとは学会当時から30数年の間柄ですが、昭和52年の正信会問題で学会の不正に対し止むに止まれず脱会して檀徒会に入り、正信会では矛盾を感じてやめてしまいました。本人に信心がなかったと言ってしまえばそれまでですが、今の学会員と同じく池田大作の犠牲者でもあります。68歳の田中さんは、もう二度と本門戒壇の大御本尊様への御内拝を戴けないと思っていたと言っていました。自分に縁のある人には、まず自分が祈り、自分が折伏しなければ、仏縁のある人に対しあまりにも無慈悲であると感じました。

平成21年を前にしたこの貴重な時に巡り合わせている自分を褒(ほ)めてやりたいと思います。また、この貴重な時に折伏のできない自分を叱りたいと思います。以前、先輩に激励いただいた、「広宣流布に折伏の志なければ利生これあるべからず」との感動する言葉が胸に焼き付いています。縁あって支部に籍をおく講員同士が団結し、「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」まで与えられた3年のチャンスを、御住職と共に、年々の誓願目標を達成してまいります。



back      index      next