<5〜8面>
理事会に先立ち柳沢委員長と共に題目三唱した後、柳沢委員長より、今日の時局を鑑み、御宗門の大路線に対し言い訳の通用しない時を自覚し、共々に責務を果たしてまいりたいと挨拶があった。
ここで、連合会規約に基づき、委員長が議長となって理事会が開会となった。議案の審議に入る前に、明年の年間方針及び年間実践テーマについて11月1日付院達を石毛副委員長が読み上げ、来たる平成19年の年間方針は「行動の年」、また、年間実践テーマが3項目であることなどが通知された。
これらの議案を順次審議し、すべての議案が可決決定した。この後、その他の項目として、@平成18年第4回法華講夏期講習会テキスト代収支計算報告書、A「総本山任務運営統括班」の設置について、B「立正安国論正義顕揚750年」特別御供養について、説明があった。
以上で理事会は終了し、最後に柳沢委員長より挨拶があり、午後3時前、解散となった。
それぞれの起工式には、小川只道・関快道の各大石寺執事をはじめ内事部の役職員、総本山総代(10月30日は渡辺定元氏、11月1日は土橋昌訓氏)、各坊の総代・役員、工事関係者など約30名が出席した。10月30日の午前10時から遠信坊、11時から浄蓮坊、11月1日の午前10時から久成坊、引き続き蓮東坊の順で、それぞれ本堂建設予定地に設置された式場において執り行われた。
式は、御本尊奉掲、読経、焼香、唱題と進められ、鍬(くわ)入れの後、各坊の住職より出席者各位に丁重な謝辞が述べられ、最後に総本山総代の発声による乾杯で終了した。なお、これらの4ヵ坊は、耐震性にすぐれ、バリアフリーにも配慮し、登山者にとって機能的な設備を整えた宿坊として、1年余の工期で竣工する予定である。
また今月末には第2回記念局委員会が行われ、12月には「立正安国論正義顕揚750年特別御供養」第1回目の受付が行われる。進んでこの浄業に参加し、一人残らず大きな功徳を積ませていただこう。
さて、今月は第三祖日目上人が御遷化あそばされた月であります。御承知のとおり、日目上人は元弘3(1333)年、建武の中興を期に天奏を決意され、既に御高齢であったにもかかわらず、日尊師・日郷師のお二人を供にして京都に向われましたが、途中、美濃の垂井宿において病床に伏され、11月15日、御遷化あそばされたのであります。まさに、日目上人の御一生は、最後の最後まで「身軽法重・死身弘法」の御精神のもとに、御一身を賭して広布へ尽くされた尊い御生涯であったのであります。
しかも、日目上人はこのほかにも朝廷や幕府に対しての諌暁が、その数、実に42度にも及んだと伝えられております。よって、日興上人は『日興跡条々事』に、「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり」(御書1883ページ)と記されています。また、元亨4(1324)年12月29日、日目上人授与の御本尊の脇書には、「最前上奏の仁卿阿闇梨日目」と認(したた)められております。さらに正慶元(1332)年11月3日の御本尊の脇書には、「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す 一が中の一弟子なり」と認められております。
「奏聞の功、他に異なる」と仰せられ、また「最前上奏の仁」と仰せられ、さらに「一が中の一弟子なり」と仰せられておりますように、日目上人の一天広布へ尽くされた御功績は、まことに大きく、その御一生をとおして身をもってお示しくだされた不自惜身命の数々の御指南は、今日、我々が決して忘れてはならないことであります。
常に申し上げていることではありますが、本年「決起の年」は、御命題達成の鍵を握るまことに大事な年であります。したがって、これからの2ヶ月間は、一日一日が極めて貴重な時間であり、この貴重な時間を一日たりとも、無駄なく闘いきっていかなければなりません。
2ヶ月間という時間は、実はすべての人に平等に与えられた時間であります。老若男女を問わず、その人の様々な境界・環境、あるいは役職や信心歴や地位を問わず、全く同じ時間がだれにでも平等に与えられているのであります。この平等に与えられた尊い時間をいかに生きるか、いかにしたら価値ある時間とすることができるのか、いかにしたら広布のために役立つすばらしい時間とすることができるのか。それとも、愚かにも、またとない貴重な時間を無為に過ごして悔いを万代に残すのか。それを決めるのは、我々自身であります。我々自身の信心であります。
大聖人は『宮木殿御書』に、「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止(とど)めて之を案ぜよ。一生空(むな)しく過ごして万歳悔ゆること勿(なか)れ」(御書1169ページ)と仰せであります。また『聖愚問答抄』には、「夫、生を受けしより死を免れざる理は、賢き御門(みかど)より卑しき民に至るまで、人ごとに是を知るといへども、実に是を大事とし是を歎く者、千万人に一人も有りがたし(中略)徒(いたず)らに世間の五欲にほだされて、白駒のかげ過ぎやすく、羊の歩み近づく事をしらずして、空しく衣食の獄につながれ、徒らに名利の穴にをち、三途の旧里に帰り、六道のちまたに輪回せん事、心有らん人誰か歎かざらん、誰か悲しまざら」(同381ページ)と仰せであります。
人は、とかく理屈では解っていても、わずかな欲望や魔縁にたぶらかされて、刹那的な快楽や名聞名利を追い求め、大事な時間を無駄にして、挙げ句の果てに、一生をむなしく過ごしてしまうことが多々あります。こうした惰弱なる命を強靱(きょうじん)な命に改変していくことができる唯一の道こそ、大聖人の仏法であります。
正しい御本尊のもとに、確信をもって妙法五字を信仰していけば、広大無辺なる御本尊の大功徳によって、「不断煩悩・不離五欲」(法華経610ページ)と仰せの如く、煩悩を断つこともなく、五欲を離れることもなく、同じ欲望であっても、邪(よこしま)な欲望から正しい欲望に変革していくことができるのであります。あくせくと、泡沫(ほうまつ)の如きはかない快楽と名聞名利を求めていた欲望が、一天広布へ向けて、自らの幸せと多くの人達の幸せを求める欲望に変わっていくのであります。
この心の変化は、ただ正しい御本尊への絶対の確信と身口意三業にわたる強盛な信心によって、初めて顕れてくるのであります。『妙法尼御前御返事』には、「白粉(おしろい)の力は漆を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」(同1483ページ)と仰せであります。
また『聖愚問答抄』には、「誠に生死を恐れ涅槃を欣(ねが)ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。只、南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(同406ページ)と仰せであります。
どうぞ皆様方には、尊い御一生を広布へ捧げられた日目上人の御行蹟を偲び奉り、これからの2ヶ月間、一日一日を大事に、師子奮迅力をもって大折伏戦を展開していただきたいことをお願い申し上げ、本日の挨拶といたします。
とりわけ、「大歓喜の中の大歓喜」(御書1801ページ)を説かれる大聖人様の仏法です。朝夕の勤行で読む『寿量品』に、「皆大歓喜」(法華経435ページ)とあります。歓喜がなければ妙法の信行ではありません。成仏という最高の幸せの境界を築くという歓喜があるかないかは大切なことです。その喜びが成仏の証であり、人に伝わるかどうかの分かれ目になります。私たちは、日蓮正宗の、大聖人様の仏法を持(たも)つ喜びが弘まっていくことを祈り、信じています。この喜びこそ「地涌倍増」のもとになるものです。
今年8月、御法主日如上人猊下より御祈念文についての御指南がありました。「来るべき平成21年・立正安国論正義顕揚750年に当たり、地涌倍増と大結集を名実ともに必ず成就なさしめ給え」と。この御祈念を深く思うにつけて『諸法実相抄』の次の御文は、まことに有り難く感ぜられるのです。
この御文を拝すれば、先の御祈念を深く念じない人はいないでしょう。御祈念は、日々の生活の中での着実な活動の上に、「地涌倍増」と「大結集」を名実ともに必ず成就させてくださいという御指南です。着実な前進は、「絶対に成就させていただく」という祈りと確信にあるのです。つまり、自分自身の歓喜と成長が問われる御祈念文です。
「人の不幸は密の味」と言う人もありますが、本音もその言葉通りの心根の人には、平和な喜びや円満な喜びはありません。まして五十展転の功徳など寄りつかないでしょう。
しかし、人には必ず仏界の命が具わっています。仏界の命には、喜びの命が集まっています。人の仏界の命を中心にしてみた場合、本来、人の命は喜びを求めるようになっているのではないでしょうか。その意味で私たちは、もっともっと信心の喜びを表していいのではないでしょうか。智慧の出し方を強くしていいのではないでしょうか。我が身の喜びを表せば、人の喜びも表れてくるのです。いわば「歓喜の相乗効果」です。ここで大切なことは、この「喜」は大聖人様と「共に」御題目を唱えさせていただいてこそ表せるということです。
現実の世の中で、他人と一緒に心から喜ぶことは難しいことかも知れません。人は感情を他人に共有されると、自然に喜びが生まれます。誰でも自分がよく理解されることに安心と喜びを持つものです。故に未入信の人に、本当の幸せ、成仏の意味、内容を判ってもらうのは、折伏以外にはないのです。この難事を実現することが、唱題と折伏です。私たちの仏性はまことに尊いものですが、よく磨かれていないと事実として現れてこないものです。命を磨けばお互いに感謝して讃(ほ)め合い、仏法を持たせていただいた喜びと感謝を自然に話せるようになるものです。ここに折伏を通じて自身を磨く喜び、つまり信行の楽しみがあります。
地涌とは「大地より涌き出ること」で、地涌の菩薩を指します。地涌六万というように、地涌の菩薩の数を六万恒河沙(ろくまんごうかしゃ)といいます。恒河(ガンジス河)の砂粒は無量無数ですが、さらにその60000倍という途方もない数の菩薩が涌き出るというのです。地涌という言葉自体が、妙法の功徳の計り知れない広がりをいうのです。私たちが目指したいるのは「地涌倍増」、つまり最低の倍数です。是非とも一人ひとりが、地涌の菩薩の喜びに打ち震えながら倍増を祈り、実践していきましょう。
緇素(しそ)の御健闘を祈り擱筆(かくひつ)いたします。
11月4日午前11時50分より法華講連合会理事会が、東京・吾妻橋の法華講富士会館で行われた。今回の理事会では、「行動の年」と銘打たれた平成19年の年間行事計画等を審議・決定すると共に、来たる12月に行われる特別御供養(第1回)の納入方法に関して発表された。この理事会には、柳沢委員長、石毛副委員長をはじめ理事である37地方部の地方部長(代理2名を含む)が出席。また、幹事の各部長が委員長の招請により出席した。
議案は以下の通り。
塔中4ヶ坊の起工式行われる
立正安国論正義顕揚750年記念局の事業のうち、総本山総合整備事業の一環である塔中坊建て賛え工事がいよいよ開始された。この中で、最初に着工する4ヵ坊の起工式が、10月30日・11月1日の両日にわたり、大石寺執事で総本山総合整備事業実行委員会主任委員の佐藤慈暢御尊師の導師によって執り行われた。
御法主日如上人猊下御言葉
11月度広布唱題会の砌
皆さん、おはようございます。本日の総本山における広布唱題会に当たりましては、全国各地よりの支部総登山で御登山の指導教師の方々、また御信徒の方々、多数の御参加をいただきまして、にぎやかに奉修できました。まことに御苦労さまでございます。本年「決起の年」も、いよいよ残り2ヶ月となりましたが、皆様方には誓願達成に向けて日夜、御精進のことと存じます。
今こそ我々は、大御本尊への絶対の確信をもって、大聖人の仰せのままに、広布のため、世のため、人のため、近くは「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の「地涌倍増」と「大結集」の御命題達成のため、また、自らの即身成仏のため、絶対なる確信と断固たる決意をもって、本年「決起の年」の残り2ヶ月間を悔いなく闘いきっていくことが肝要であります。
信行を磨く 『倍増の祈りと実践を我が身に』
関東大布教区大支院長 光久日康御尊能化
時の流れは早く、決意を起てて行動を開始した「決起の年」である本年も、早霜月となってしまいました。決意誓願の成就した人、これから妙法の喜びを人に伝えて成就しようとする人、思いのほどは人様々でしょう。喜びと言えば、「喜べば 喜びごとが 喜んで 喜びあつめて 喜びにくる」どこかでこんな古歌を聞いたことがあります。人は喜びがないと生きていけません。その喜びが本物であれば必ず人に伝わり、人を喜ばせます。
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩に定まりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より以来(このかた)是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へ伝ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(御書666ページ)
何事も自分が感動するものがあってこそ、はじめて人をも感動させることができます。幕末の思想家の吉田松陰は、「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」と言いました。誠心誠意、人に誠を尽くして話せば、人の心が動かないということはないということです。その門下生の高杉晋作は『獄中日記』に、「心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる」と書いています。人は深く物事に感動すれば、自然とその感慨を口にするものです。一人の喜びは、決して一人のみに限られるものではないということです。この世で最も純粋な喜びは、人の喜びを見て喜ぶことです。
「師子吼とは仏の説法なり。説法とは法華、別しては南無妙法蓮華経なり。師とは師匠授くる処の妙法、子とは弟子受くる処の妙法、吼とは師弟共に唱ふる所の音声なり」(御書1761ページ)−−−このように、仏様に師弟相対しての唱題の姿が示されています。「声仏事を為す」(同108ページ等)という御文があります。師弟相対を心がけていると、自分の発した声であっても、それを仏様の声として唱和させていただけるようになります。師弟相対の信心とは、このように仏様の命を感じさせていただきながら信行ができることです。