御法主日如上人猊下御講義 『折伏要文(8)』
法華講夏期講習会第8期
皆さん、おはようございます。本年度の法華講夏期講習会も第8期を迎えまして、皆様方にはいろいろとお忙しい中をたくさん参加いたされまして、まことに御苦労様でございます。
毎回申し上げておりますが、今、宗門は僧俗挙げて平成21年の「地涌倍増」「大結集」の御命題達成に向けて前進をしております。この「地涌倍増」と「大結集」は、御承知の通り御隠尊日顕上人猊下より賜った御命題であります。今日の様々な国内外の状況を見たときに、私たちは何としてでもこの「地涌倍増」と「大結集」を果たしていかなければならないと、このように強く感ずる次第であります。
この「地涌倍増」というのは、簡単に言えば折伏をして地涌の友を倍増することでありますから、折伏のない「地涌倍増」というのはあり得ないわけです。また「大結集」についても、「地涌倍増」のない「大結集」というのは、言うなれば単なる数集めのようなものになってしまいますので、全く意味がありません。そうしますと結局、この3年間の闘いの焦点はどこへ絞(しぼ)っていくのかというと、宗門の僧俗を挙げて大折伏戦を展開していくということになるのです。
この大折伏戦をもってまず「地涌倍増」を果たし、「地涌倍増」をもって「大結集」を果たしていくのです。そして仏祖三宝尊に対する御報恩謝徳、さらには御隠尊日顕上人猊下に対する御報恩を尽くしていくことが大事なのです。よって、我々は改めて折伏ということをしっかりと考え直し、そしてそれを実践に移していかなければならないと、このように思う次第であります。
そこで私といたしましては、本年度の夏期講習会の講義において『折伏要文』について申し上げることにいたしました。もう一度、法華経や大聖人様の御書から折伏について学び、それを是非とも実践に移していただいて御命題を達成していきたいと、このように考えている次第でございます。そういうことでございますので、皆様方には是非とも折伏について勉強していただきたいと思います。
◆聖人御難事◆
それでは、今日はテキストの27ページの『聖人御難事』の御文から拝読をしてまいります。この『聖人御難事』というのは、大聖人様は御一代において「大難四カ度、小難数知れず」といった、命に及ぶ大難をはじめとする様々な御難に値われてきたわけでありまして、そうした中でこの御難についてお述べになられている御書であります。
我等現(げん)には此の大難に値(あ)ふとも後生は仏になりなん。設(たと)へば灸治(やいと)のごとし。当時はいた(痛)けれども、後の薬なればいたくていたからず。(御書1397ページ17行目)
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「我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん」とあるのは、つまり大難に値うのは後生には仏に成るからであると、このようにおっしゃっているのです。
この大難や迫害に対する覚悟というものは、私たちにとっても大事であります。信心が強盛になれば折伏もします。折伏を行じていけば、当然、様々な難が襲って来るのです。しかし、その難を乗り切っていくところに、我々は大功徳を得ることができるわけです。それはちょうど「灸治のごとし」、つまりお灸のごとくであるということです。
ですから、折伏をしなければ難には遭わないけれども、罪障も消滅することができないわけです。つまり、様々な難に遭うということは、過去世の罪障をそれだけ我々は消滅していることになるのです。ですから、難を恐れてしまってはだめなんです。過去世の様々な罪障を消滅して一生成仏に至るわけですから、むしろ我々は大難が来てもそれをバネとして変毒為薬していく強い信心を培(つちか)っていくことが大事であります。なぜならば、それは「当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず」とあるように、今は痛いけれども、それが後の薬になることを考えれば、それは痛くないと、このようにおっしゃっているわけであります。
折伏をせずに、世間の人たちと表面上のお付き合いをしているうちは、相手もニコニコして「あの人はいい人だ」と言ってくれます。だが、折伏をした途端に相手の態度は変わります。それこそ怒り心頭に発するといった形相(ぎょうそう)で非難中傷されることもあると思います。
いつも言いますけれども、たしかに何もしなければ、今は平穏無事であるかもしれない。しかし、それでは後生はよくないのです。寝ていれば怪我はしません。立ち上がって走ったり動き回るから転んだりして怪我をするのです。だからといって、ずっと寝ていたのでは、いつまで経っても目的地には着かないのです。我々は一生成仏という目的を持っているわけですから、その目的のためには立ち上がって歩いたり走ったりもするわけで、そうするとつまずいたり、転んだりもするのです。しかし、それをさらに乗り越えていくところに我々の一生成仏の道が果たされていくわけでありますから、このことをよく心得てもらいたいと思います。
ですから、難を恐れてはならないのです。この信心は「難を乗り越えていく信心だ」ということをよく知っていただきたいのです。したがって、折伏をしなければ大難も来ないけれども、同時に様々な過去世からの罪障も消滅することができないということになるわけであります。
◆三世諸仏総勘文教相廃立◆
「今の法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼(によく)を以て飛ぶに障(さわ)り無きが如く成仏滞(とどこお)り無し」(御書1422ページ18行目)
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この「自行・化他」の解釈には、「法体(ほったい)」に約す場合と「修行」に約す場合の2通りがあるのです。
そこで、この法体に約す場合の自行とは何かと言いますと、仏様の境智をそのまま説いたところの教えでありまして、判りやすく言うならば随自意(ずいじい)の教えであります。それから化他というのは、様々な九界の衆生の機根に応じて説いたところの教えでありますから、言うなれば随他意の教えであります。ですから、法体に約しますと、法華経は随自意になり、それ以前の40余年の経々というのは相手の機根に応じて説いてきたところの教えですから随他意(ずいたい)ということになるわけであります。
もう一方で修行に約す場合の自行というのは、自分が功徳を受けるためにする修行のことであります。それから化他というのは、他人にその功徳を得せしめるために化導、育成していくということであります。
この『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文は、本来は法体に約しておっしゃっているのですが、ここでは敢(あ)えて修行、行体に約して申し上げます。この御文を修行に約せば、自行と化他になりますが、一見、自行と化他は相い対するように見受けられますけれども、法華経においては共に重大なる仏道修行として捉えているわけです。それはあたかも「鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し」とあるがごとくであります。
これは大聖人様が『三大秘法抄』に、
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594ページ)
と仰せの有名な御文がありますが、この御文と合わせて解釈をしてくださればよろしいのではないかと思います。
要するに、我々の信心修行においては自行と化他の2つが大切であるということです。この『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文は、直接、行体に約してはおられないけれども、このように解釈をしていくべきであるという次第であります。
◆秋元御書◆
次は『秋元御書』であります。
悲しいかな、我等誹謗(ひぼう)正法の国に生まれて大苦に値はん事よ。設(たと)ひ謗身(ぼうしん)は脱ると云ふとも、謗家謗国(ぼうけぼうこく)の失(とが)如何(いかん)せん。謗家の失を脱れんと思はゞ、父母兄弟等に此の事を語り申せ。或は悪(にく)まるゝか、或は信ぜさせまいらするか。謗国の失を脱れんと思はゞ、国主を諌暁(かんぎょう)し奉りて死罪か流罪かに行なはらるべきなり。『我不愛身命(がふあいしんみょう)、但惜無上道(たんじゃくむじょうどう)』と説かれ、『身軽法重(しんきょうほうじゅう)、死身弘法(ししんぐほう)』と釈せらりしは是なり。過去遠々劫(おんのんごう)より今に仏に成らざりける事は、加様の事に恐れて云ひ出ださゞりける故なり。未来も亦復(またまた)是くの如くなるべし。
今日蓮が身に当たりてつみ知られて候。設(たと)ひ此の事を知る弟子等の中にも、当世の責めのおそろしさと申し、露の身の消え難きに依りて、或は落ち、或は心計(ばか)りは信じ、或はとかう(左右)す。御経の文に『難信難解(なんしんなんげ)』と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ。「謗ずる人は大地微塵(みじん)の如し。信ずる人は爪上(そうじょう)の土の如し。謗ずる人は大海、進む人は一H(てい)なり。(御書1452ページ11行目)」
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この誹謗正法の国に生まれますと、結果として総罰ということを受けるわけです。そうしますと飢饉(ききん)や疫癘(えきれい)、あるいは戦争などに巻き込まれてしまうことがあるわけです。そのように大きな苦しみに遭わなければならないということは、何と悲しいことであろうかということなんです。
今日のいろいろな社会情勢を見ていますと、我々だけが信心しているようではだめなんです。我々の力で本当に一国正法流布をしていく、世界に広宣流布をしていくということが大事なのです。その役目が我々にはあるのです。
「設ひ謗身は脱ると云ふとも、謗家謗国の失如何せん」
この「謗身」とは、謗法を犯した我が身のことです。すなわち「設ひ謗身は脱ると云ふとも」とは、たとえ謗法を犯した我が身ではあっても、邪法を捨てて正法に帰依したことにより、謗法の身は脱れることができてもということです。そしてその後に「謗家謗国の失如何せん」とあるのは、我が身が生を受けた我が家の謗法や我が国の謗法の失はいったいどうしたものかと、このようにおっしゃっているのです。
「謗家の失を脱れんと思はゞ、父母兄弟等に此の事を語り申せ」
自分の生家が謗法であったということはよくありますね。自分一人だけが信心をしていて、両親が信心をしていないというようなケースもたくさんあると思います。そこで、謗法の家の失を脱れようと思うならば「此の事を語り申せ」とおっしゃっています。「此の事を語り申せ」というのは「南無妙法蓮華経が最も尊い」「南無妙法蓮華経でなければ本当に幸せにはなれない」ということをはっきりと言いなさい、つまり折伏しなさいということです。
「或は悪(にく)まるゝか、或は信ぜさせまいらするか」
そうすることによって、つまり、今まで仲のよかった兄弟やご両親から疎(うと)まれ、悪口を言われたり、争いになったりするか、もしくは信じさせることができるかということです。それでも、やはり自分が一番の恩を被っているご両親などは、何としても折伏をしなければだめなんです。これこそがご両親に対する一番の恩返しになるからです。
恩返しには、いろいろな事柄があるけれども、ご両親に対する恩返しの中で一番尊いのは、やはりご両親に南無妙法蓮華経を信じてもらうことなのです。それが親に対する最高の恩返しなんですね。それをしなければ真実の恩返しにはならないのです。ですから、親の恩を報ずるためにも、まずは親を折伏することです。そして兄弟にも折伏をしていく。それによって謗法の家に生を受けた失を脱れることができるのであると、このようにおっしゃっておられます。
次に、
「謗国の失を脱れんと思はゞ、国主を諌暁(かんぎょう)し奉りて死罪か流罪かに行なはらるべきなり」
これは国の謗法を脱れようと思うならば、どうしたらよいかということです。そのためには国主を諌暁しなければならないと仰せです。しかし、その国主を諌暁すれば、必ず死罪・流罪等の大難が起きることを覚悟しなければならないとおっしゃっています。このことは大聖人様御自身も国主を諌暁されて、竜の口の法難をはじめ佐渡への配流(はいる)等の大難に遭われたわけであります。
しかるに、我々も一国の謗法をきちっと破折して、そして一日も早くこの謗家謗国の失を脱れるようにしていかなければならないのです。これが我々法華講衆の務めなのですから、我々の力では何もできないなどと思わないで、一人ひとりが地涌の菩薩の自覚を持って、謗家謗国の失をしっかりと破折していかなければならないのであります。
『我不愛身命(がふあいしんみょう)、但惜無上道(たんじゃくむじょうどう)』。
これは法華経の『勧持品第十三』の文で、「我身命を愛せず、但(ただ)無上道を惜(おし)む」(法華経377ページ)ということです。これは『如来寿量品第十六』の、「一心欲見仏 不自惜身命」(同439ページ)の文と同じような意味でよく使われています。
『身軽法重(しんきょうほうじゅう)、死身弘法(ししんぐほう)』
この文は、章安大師の『涅槃経疏』の中にありまして、「身は軽く法は重し、身を死(ころ)して法を弘む」ということです。
「過去遠々劫(おんのんごう)より今に仏に成らざりける事は、加様の事に恐れて云ひ出ださゞりける故なり」
つまり、過去遠々劫より今日まで我々が仏に成れないのは、折伏することを恐れてしまって、言い出さないからであるということです。これでは一生、仏には成れませんよということであります。さらにその後に、「未来も亦復(またまた)是くの如くなるべし」と、このようにおっしゃっておられます。
ですから、大聖人様が身命を賭して国主を諌暁せられたそのことを思うとき、私たちは力の及ぶ限り、我が家に謗法があればそれを破折し、そして国に謗法があれば、国の謗法を責めていくべきなのです。
そこで、今日において国の謗法を責める、国主を諌暁するには、どのようにしたらよいのかということが問題になります。しかるに、今日の日本のような主権在民の世の中にあっては、我々民衆が中心でありますから、我々が一人ひとりを折伏していくことが、この国主への折伏に通じていくわけです。御隠尊日顕上人猊下が常々御指南あそばされていたように「1人が1人以上の折伏」を行っていくことが大事なのです。したがって、我々一人ひとりが平成21年に向かって一文一句なりとも語って折伏を行じていかなければならないということであります。
要するに、謗国の失を脱れようと思うならば様々な難に遭う。しかし、それを覚悟して精進していかなければ仏には成れないわけです。これまで仏に成れなかった、幸せになれなかったというのは、結局、難に遭うことを恐れてしまって折伏をしてこなかったからであるということであります。
「今日蓮が身に当たりてつみ知られて候。設(たと)ひ此の事を知る弟子等の中にも、当世の責めのおそろしさと申し、露の身の消え難きに依りて、或は落ち、或は心計(ばか)りは信じ、或はとかう(左右)す」
つまり、このことは今、大聖人様御自身が身をもって法難をお受けになったことから知ることができるのであるということです。
そして、このことを知る弟子たちの中にも、当世の責めの恐ろしさから「露の身の消え難きに依りて」、つまり露のようにはかない身でありながらも、なかなか消えてしまいそうにない現実の姿に、「或は落ち」、つまり退転し、「或は心計りは信じ」、心の中では信じているけれども実際には折伏をしない、「或はとかうす」、これは物事を恐れて右往左往するということで、このようになってしまうということです。
我々が成仏をするためには、必ず難関があるのです。この難関をしっかりと乗り越えていかなければだめなんです。よく「人生の壁」などということを言うけれども、我々が成長していく過程には、いろいろな壁があるわけです。その壁を一つひとつしっかりと乗り越えていくことが大事であり、同様に信心においても、やはり謗法を責めるということをして壁を乗り越えていかなければ、我々は成仏をしないのです。過去に成仏をしなかったのは、そういった壁となる難を恐れ、臆病風に吹かれて途中で退転をしてしまったり、あるいは形ばかりの信心に終わってしまったから成仏をすることができなかったということであります。
「御経の文に『難信難解(なんしんなんげ)』と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ」
この「難信難解」というのは『法師品第十』の文で「信じ難く解し難し」ということであります。天台大師の『法華文句』に、
「今の法華は法を論ずれば、一切の差別融通して一法に帰す。人を論ずれば、即ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し」(法華文句記会本中643ページ)
という文があり、また大聖人様の『諸経と法華経と難易の事』には、
「易信易解は随他意の故なり。難信難解は随自意の故なり」(御書1468ページ)
と、このようにあるのです。要するに、相手の機根に合わせて説くところの爾前権経と異なって、法華経は仏様の随自意の教えであるが故に難信難解であるということであります。
我々が折伏をするということは、相手の間違いを正していくことです。例えば、学会員に対して「『ニセ本尊』なんかを拝んでいたら絶対に幸せにはなれませんよ」ということをはっきり言うのが折伏なのです。それに対して、相手の機根に合わせて「まあ、それもいいでしょう」とか、「そんな考え方もあるでしょう」などと言って、どんどん自分の考えを後退させてしまうような、随他意のやり方もありますが、これではだめなんです。
法華経はあくまでも随自意の教え、幸せになる方程式が説かれた教えですから、「南無妙法蓮華経しか幸せになる道はありませんよ」ということを説いていくわけです。随他意になると相手の言い分も多少は聞きながらやるわけですから、そういうことではだめなのです。あくまでもこの法華経は「『難信難解』と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ」ということであります。そして、
「謗ずる人は大地微塵(みじん)の如し。信ずる人は爪上(そうじょう)の土の如し」
謗ずる人は大地微塵のように多く、信ずる人は爪の上に乗る土のように少ないと仰せです。さらに、
「謗ずる人は大海、進む人は一H(てい)なり」
つまり、謗ずる人は大海の水のように多く、信仰を持っている人は、僅(わず)か一滴の水のように少ないということであります。しかし、その中で題目を唱え、折伏をすることが、いかに貴いかということを知らなければならないということであります。ですから、この御文をよく拝していきますと、我々は臆病であってはならない、勇気を持って折伏をしていかなければならないということが、よくお判りになると思います。
今はたしかに僅かな人数ではありますけれども、一人ひとりの折伏によって1人から2人、3人、100人と、次第に題目を唱える人が増えていくわけであります。それによって我が家も、そして我が国も、さらには世界をも広宣流布していくのです。「塵も積もれば山となる」で、始まりはみんな1つからなのです。したがって、皆様方のご家族にも未だ信心をしていないご両親やご兄弟、そういった方がおられるならば、あなた方がまず折伏をしていくことが大事なのです。それが次第に大きく広がっていくのです。ですから、恐れることなく堂々と折伏をしていっていただきたいと思います。
◆諸経と法華経と難易の事◆
次が『諸経と法華経と難易の事』です。
生死の長夜を照らす大灯、元品(がんぽん)の無明(むみょう)を切る利剣(りけん)は此の法門には過ぎざるか(御書1468ページ10行目)
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この「生死の長夜」というのは、衆生が三界六道の世界において生死を繰り返す様を、このように言っているわけです。その生死の長夜につきまとう暗黒のごとき迷いや苦しみを照らす大灯こそが妙法蓮華経であるということです。
「元品の無明を切る利剣は此の法門には過ぎざるか」
この「元品の無明」というのは、衆生に本来具わっている根本的な迷いのことです。「元品」とは根本という意味で、「無明」とは迷いのことです。物事に明らかでなく暗いということですね。それで無明というわけです。妙法蓮華経という絶対の真理に対して、一切の煩悩の根本となるのが元品の無明であります。
そこで、この元品の無明を断ずれば成仏の境地を得られるということで、その元品の無明を切る利剣が「此の法門」、つまり妙法蓮華経であるわけです。このことは『御義口伝』の中にも、
「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御書1764ページ)
と、信心に約して御教示あそばされております。
そういう意味からすると「此の法門には過ぎざるか」というのは、法に約しておっしゃっていることになるわけであります。要するに、生死の長夜の中で皆が迷い苦しんでいるのは、まさに元品の無明によるわけです。そこで、この元品の無明を切る利剣が妙法蓮華経であるわけです。ですから、折伏に当たっても、我々は妙法蓮華経の利剣を持って、それらを断ち切っていくことが大事であるということです。そういう確信の上に折伏をしていかなければならないのであります。
◆椎地四郎殿御書◆
次が『椎地四郎殿御書』です。
法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁(しゅくえん)ふかしとおぼしめすべし。経に云く『亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し』云々。・・・法師品には『若是(にゃくぜ)善男子(ぜんなんし)善女子(ぜんにょにん)乃至即如来使(そくにょらいし)』と説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり。(御書1555ページ6行目)
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この「過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」というのは、私たちは今日、値い難き大聖人様の仏法に巡り値うことができたわけでありますから、その宿縁の深きことと折伏を行ずることの尊さを心肝に染めて、なお一層、信心に奮起をしていかなければならないということを、ここでおっしゃっているわけです。
つまり、「過去の宿縁」ということは、遡(さかのぼ)っていきますと、我々は皆、御本仏大聖人様の弟子檀那であるということです。ですから大聖人様は「地涌の菩薩」、あるいは「地涌の流類」「地涌の菩薩の眷属」等とおっしゃっているわけです。
御隠尊日顕上人猊下も過日の御指南の中で、
「お題目を唱えてる方は地涌の菩薩」(大日蓮619号)
と仰せられております。つまり、我々は御本仏大聖人様の弟子檀那なのです。そうしますと、大聖人様は久遠元初の仏様でありますから、遡っていくと我々には久遠の縁、つまり久遠元初以来の様々な因縁、宿縁があるということです。それを感じ取っていかなければだめなんですね。
ですから、この宿縁ということは、まことに尊いのです。一人ひとりの命の中に尊い因縁というものを持っているわけです。この信心をすることによって、久遠元初の御本仏の弟子檀那となったわけですから、そこに我々は久遠元初以来の様々な深い因縁の存することを自覚して、しっかりと御題目を唱え、折伏をしていかなければならないのであります。
「一文一句なりとも人にかたらんは」というのは折伏です。まさにそういうことができるのは、過去の宿縁が深いからであります。折伏をする人は皆、同様です。ですから我々は、もっとこの宿縁の深きことを感じて自信と自覚を持ち、確信を持って折伏をしていくことが大事なんですね。
『亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し』。
これは法華経の『方便品』に、このように説かれているということであります。この御文を額面通りに取ると、大聖人様の正法を聞かない人は度し難い、つまり南無妙法蓮華経を聞かない人は救えないということでありますが、これは我々が正法を説かなければ人々を救うことはできないということを述べられたものと拝すべきなのです。ですから、我々が聞かせればいいのです。耳根(にこん)得道ということがありますが、末法の娑婆世界の衆生は、正法を聞くことによって成仏得道するわけです。
また、逆縁成仏ということもあります。相手が聞こうが聞くまいが、耳を塞(ふさ)ごうが塞ぐまいが、我々が法を説いて折伏することによって、その人はそれを縁として後に必ず成仏するのです。我々が縁を結んであげなければ、その人は成仏をしていかないのです。我々が折伏をすることによって、その人は妙法を聞くことになるわけです。その縁によって後に必ず妙法を信受することになるわけです。下種というのは、そういう意味でまことに大切なのです。ですから、この正法を聞かない人は度し難い、だからこそ我々が折伏によって縁を結ばせていくことが大切なのであります。
『若是(にゃくぜ)善男子(ぜんなんし)善女子(ぜんにょにん)乃至即如来使(そくにょらいし)』。
これは『法師品』の中に、
「若(も)し是(こ)の善男子、善女人、我が滅度の後、能(よく)竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当(まさ)に知るべし、是の人は即(すなわ)ち如来の使なり」(法華経321ページ)
と、つまり折伏する人は如来の使い、仏様の使いであると、このように説かれているということで、その文を大聖人様が挙げておられるわけです。
「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり」。
折伏を行ずるということは、如来の使いとしての尊い実践を行っていることなんですね。ですから、たとえ一文一句なりとも他人に語らん人は、皆、仏様の使いなのです。「如来の使ひ」ということは、仏様のなされることを仏様に代わって行っているということなのです。
よく子供がお父さんやお母さんの言いつけでお使いに出されることがあるでしょう。それはお父さんやお母さんに代わって用事を済ませてくるわけです。同様に、我々が折伏を行ずるということは、仏様の言いつけを守って仏様のなされることを代わりに行うということですから折伏は尊いわけです。故に、折伏することの功徳というものは計り知れないのです。ですから、一人ひとりが本当にその自覚を持っていただきたいと、このように思う次第であります。
◆三大秘法抄◆
次に『三大秘法抄』にまいります。
題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止(や)みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。(御書1594ページ16行目)
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ここで大聖人様は「題目とは二意有り」と、つまり題目には二つの意があることを御教示であります。その一つは、正法時代、像法時代において唱えた題目は、自行ばかりにして広く化他のためには説かなかったのです。そこでこれを「理行の題目」というわけです。これでは末法の衆生は成仏しないんですね。それからもう一つは「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と、こうおっしゃっています。
ここで「理」というのは、真理を説明した理論のことでありまして、これに対して「事」というのは、その具体的な実践であります。つまり、末法の我々の修行というのは、事を事に行じていくというところに大事な意味があるわけです。
末法の修行というのは実践なんですね。ですから、毎日、朝夕に勤行をし、御題目を唱えるということが大事なのです。寝床に入ったまま頭の中だけで勤行しているというのは、それは勤行とは言わないんです。やはり、御本尊様の御前にきちっと端座して手を合わせ、そして心から御題目を唱えていくという、この実践が大事なのです。
ですから、理屈だけではだめなんですね。それでは全く爾前迹門と同じことになってしまうのです。やはり、本門の修行というのは実践であり、このことを大聖人様がおっしゃっているわけであります。
事理という語には、いろいろな意味があるけれども、あくまでも理行の題目、自行だけでは我々は成仏をしないのです。やはり自行化他にわたるところの題目、つまり折伏をしなければ成仏はしないということであります。これは私が勝手に言っているのではなく、仏様がこのようにおっしゃっておられるわけです。
したがって、一人ひとりが一文一句なりとも語って折伏をしていくことが大事なのです。皆様方が今日ここにあるのは、元をたどって行けば、他の人から折伏をされたからこそ、この尊い御法に帰依して信心修行することができたわけです。ですから、今度は私たちがその人たちに代わって多くの人々に折伏をし、正しい信心に帰依していただくということです。これが本当の意味での恩返しということになるわけです。こういったことをしっかりとしていくということが、自行化他にわたるところの信心になるわけであります。
いつも言うことでありますけれども、声聞・縁覚の二乗の者たちが、仏様から「お前たちは絶対に成仏をしないぞ」と言われたわけですが、それはなぜかというと、二乗の者たちは、仏様が説かれた小乗の教えに固執して、そこに留まってしまったのです。そこで自分が悟りを得ることばかりを考えて、自分のためだけに血の滲(にじ)むような努力をして修行をしたわけです。ところが仏様は、その後に小乗の教えよりも勝れた権大乗を説き、さらに勝れた実大乗の教えを説いておられるわけです。けれども、二乗の者たちはその教えを理解しようとせずに小乗に固執していたので、そこで仏様から「それではお前たちは絶対に成仏をしないぞ。炒(い)れる種と同じである」と、種を炒ってしまったら芽が出ないのと同じように、成仏をしないぞと厳しくお叱りを受けたわけです。
大乗の精神というのは、まさに「上求(じょうぐ)菩提、下化(げけ)衆生」でありまして、自分も幸せになるけれども、他の人にも幸せになってもらいたいということであります。天台大師が『法華玄義』の中で、
「法華は折伏して権門(ごんもん)の理(り)を破(は)す」(法華玄義釈籖会本 下502ページ)
と述べたように、法華の命、法華の思想は折伏であるということです。このことを忘れてしまうと、結局、我々は成仏ができなくなってしまうのです。
したがって、大聖人様が「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せのように、末法の我々の修行は自行化他にわたるところの南無妙法蓮華経であるということをよく知って、是非とも折伏に励んでいただきたいと思います。これは自分自身のため、また他の多くの人のため、さらには全世界の人々のために折伏を行じていかなければならないということであります。
◆百六箇抄◆
次は『百六箇抄』(具謄本種正法実義本迹勝劣正伝)であります。
法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。(御書1687ページ15行目)
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この御文については『崇峻天皇御書』の中に、
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書1174ページ)
とあります。この「人の振る舞ひ」、つまり法というのは結局、我々が弘めていくわけなんです。ですから、法がただ存在するというだけでは、いつまで経っても広宣流布は進んでいかないのです。我々が弘めていくというところに本当の仏道修行の姿があり、そこに大きな功徳が存するのです。
法華経の『薬王品』に、
「我が滅度(めつど)の後、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経539ページ)
とあります。必ず広宣流布するとありますけれども、我々の努力なしには絶対に広宣流布はしないのです。我々の努力があって、はじめて広宣流布するわけです。いかに方程式が説かれていても、その方程式を実行しなければ、いつまで経っても広宣流布はせず、我々も成仏をしないのです。ですから、経典に説かれていることを頭で理解するだけではなく、それを実践するということが大事なのです。
先ほども言いました通り、信仰というのは実践であります。折伏という実践が伴わなければ法は弘まらず、また我々も成仏をしないのです。この御文は、そういう意味では非常に大切であります。善くするも悪くするも全部、我々の行動ひとつにかかっているということになるわけであります。
次も『百六箇抄』の御文であります。
下種の摂折(しょうしゃく)二門の本迹 日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理(はごんもんり)とは是なり。(御書1700ページ3行目)
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大聖人様は、この「下種の摂折二門の本迹」を顕す中で、「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む」と、このようにはっきりとおっしゃっているわけです。この「法華折伏破権門理」というのは、先ほども言いましたように、天台大師が『法華玄義』の中で述べている言葉でありまして、「法華は折伏して権門の理を破す」ということです。つまり、法華の思想は折伏そのものであるということであります。
そもそも仏様は、何のために世に御出現あそばされたかと言えば、それは自分が悟りを開くためばかりではなく、一切衆生を幸せにするために、この世の中に御出現して法をお説きあそばされているのです。これが仏様が御出現になられた目的なのです。『方便品』の中には、四仏知見等が説かれておりますけれども、まさに一切衆生をして成仏せしめるためなのです。
そこで、法を弘めていく方法にはどういったものがあるのかと言えば、それは摂受と折伏の2つの方法があるわけです。その中で末法の今日においては、摂受を用いるのではなくして折伏を用いるということです。
そもそも折伏というのは、一切衆生を救うという意味では最高の慈悲行であります。それから、御本尊様への最高の報恩行であるということも言えます。さらには、自らが即身成仏をしていく、一生成仏をしていくという上からするならば最善の仏道修行であるということです。
折伏というのは、ただ「大聖人様の教えはすばらしい」ということを言っているだけでは折伏にはならないのです。「あなたの考え方は間違いである」ということをはっきりと言ってあげることが大事なんです。
これは喧嘩腰に言わなくてもいいのです。「相手を破折しなさい」と言うと、なんか目を剥いて言わなければいけないと思うかもしれませんが、そうではないんです。折伏は慈悲行ですから、相手を思う気持ちが大切で、その気持ちは自然に一つひとつの言葉や、顔の表情にも表れてくるのです。この慈悲ということをよく覚えておかないとだめです。
例えば、相手が学会員であるならば、「『ニセ本尊』を拝んでいたら幸せにはなれませんよ」と、はっきり言ってあげることが大事なんです。やたらに言葉を強くして言うのではなく、破折すべき事柄をしっかりと相手に伝えるということが大切なんです。そうすると、たいてい相手の方は驚いたり怒ったりしますよ。けれども、そこでまた私たちは滔々(とうとう)と法を説くことができるのです。
折伏というのは、相手の考え方を折り伏すわけですから、間違いは間違いとして正してあげることが必要なのです。単に「この仏法はいいですよ」ということだけでは、結局、本当の折伏にはならないということであります。
要するに、折伏をするに当たっては、相手を救うという慈悲の気持ちが大事であり、相手を救うためには、相手の間違いをしっかりと正していくことが必要なんです。それが慈悲行であり、また仏祖三宝尊に対する最高の報恩行であり、さらには自らの罪障を消滅して成仏をしていくための最善の仏道修行になるということであります。
◆御義口伝◆
では、次の『御義口伝』の御文にまいります。
智者愚者をしなべて妙法蓮華経の記を説きて而強毒之(にごうどくし)するなり。(御書1748ページ11行目
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これは、智者であろうが愚者であろうが妙法蓮華経の記、「記」とは成仏の記別のことですが、それを説いて而強毒之していく。つまり、正法を信じない者に対して、強いて正法を説いて仏縁を結ばせるということであります。ですから、折伏と同じですね。
このことは天台大師の『法華文句』の中にも、
「本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本 下452ページ)
とあります。つまり、本未有善の煩悩多き末法の衆生は、福運が薄いために自ら法を求めようとはしないのであるから、そこで敢えて三毒の心を起こさせて毒鼓の縁を結び、仏道を成就させるということになるわけです。
世間の人たちを折伏する中においては、それこそ自らこの法を求めてくるという人は、ほとんどいないと思います。ですから、私たちが折伏に打って出ていくのです。自分の家の門を開いて「さあ、いらっしゃい」と構えてみても、誰も訪ねてはきません。やはり、折伏に打って出るということが大事なんです。
今、言ったように、末法の衆生は本未有善ですから、自分から法を求めようとはしないのです。ですから、その者に対して強いてこの法を説いていくということなんです。その振る舞いが、まさにあの不軽菩薩の但行礼拝の姿なのです。不軽菩薩は、どんな人に対してでも「あなたは必ず仏に成れます」と言って、24字の法華経を説いて、相手の仏性に対して但行礼拝をしたのです。けれども、それを聞いた人たちは不軽菩薩を迫害するわけです。これは決して不軽菩薩が、相手に対して非難中傷をしたということではないんです。失礼なことは言っていないんですね。それでも迫害されるのです。
我々の折伏もこれと同様です。相手のことを一生懸命に思って説いても、いろいろなことを言われるわけです。しかし、それを乗り越えていくところに、本当の折伏の姿があるのです。我々が折伏をする中においては、そういういろいろなことが起きてくることは事実であります。しかし、その難を乗り切るところに仏道修行の尊さと功徳が存するということを知らなければならないのです。
我々は、この「而強毒之」ということを忘れがちでありますが、折伏するに当たっては是非とも心得ておいていただきたいと思う次第であります。
それでは時間がまいりましたので、今日はここまでといたします。今回、皆さん方にお配りした『折伏要文』のテキストは、自宅に帰ってからも是非、拝読をしていただきたいと思います。
いつも言いますけれども、支部では指導教師の方が「折伏しなければ幸せにはなれませんよ」と、皆さん方によくおっしゃると思いますが、これは私たちが勝手に言っているのではなく、仏様である大聖人様がおっしゃっていることなんです。折伏をするということが、我々の仏道修行の中でいかに大切であるかということは、このテキストの御文を読んでいただければよく判ります。
ですから、この『折伏要文』のテキストをお経机の上に置いて、勤行が終わったら一文ずつでも結構ですから拝読をしてください。あるいは1ページ、2ページでも結構ですから拝読をして、そして折伏に打って出ていただきたいと思います。
今日、宗門の僧俗を挙げて平成21年の「地涌倍増」の御命題達成へ向けて前進をしております。平成21年までの3年間の闘いは全部ここに絞っているわけであります。ですから、皆さん方には、1日に一文でも結構ですから、この『折伏要文』を拝読して、そして折伏に立ち上がられんことを心からお祈りいたしまして、本日の講義を終了いたします。