大白法

平成18年12月1日号


主な記事

<1〜6面>

<7〜8面>


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総本山で御大会式奉修


宗門の二大法要の一つである宗祖日蓮大聖人御大会が、11月20日・21日の両日にわたり総本山大石寺で、御法主日如上人猊下大導師のもと厳粛かつ盛大に奉修された。

この大法要には、御隠尊日顕上人猊下が御出仕あそばされ、八木日照総監・藤本日潤重役・高野日海・秋山日浄・大村日統・光久日康・菅野日龍・尾林日至の各御尊能化、細井珪道宗会議長、宗務院各部長・副部長をはじめとする御尊師方が多数御列席。また、法華講総講頭の柳沢委員長、石毛副委員長・永井藤蔵・渡辺定元(兼総本山総代)・石渡秀男・河原昭太郎・大草一男の各大講頭、井出光彦・土橋昌訓総本山総代、寺族をはじめ法華講連合会役員、各地方部長を含む国内信徒2千730余名、及び海外19カ国より信徒570名が代表として参列した。

お練り

御大会は、20日午後1時半よりの奉安堂での御開扉から始まった。御法主上人猊下の大導師のもと読経・唱題が行われた後、本門戒壇の大御本尊、最初仏、御灰骨について甚深の御説法を賜った。

夕闇迫る午後6時15分、出仕太鼓が打ち鳴らされ、御影堂前の参道にかがり火が点(とも)された。海外、国内の信徒がお待ちする中を、御法主上人猊下の行列が、大書院の玄関から客殿前を通り、杉木立の出仕道を二天門横へ錫杖(しやくじよう)の音を響かせて粛然と進まれる、お練りの儀式が始まった。御影堂正面の参道にかかると、いったん歩みを止められ、ここで仏の説法を請う方便品の「三止三請」にならい、御法主上人猊下が御説法のために御影堂に入堂されるよう請い願う儀式が開始された。御影堂の表向拝(おもてごはい)にお待ちしていた6人の助番僧が、一人ずつ御法主上人猊下の御前に走り寄り、一礼して戻る儀式が7回行われると、行列は少し歩みを進め、再び止められた。続いて5人の一礼があり、歩みを進め、最後に3人の一礼があって、参列者の唱題の響きわたる中、行列は御影堂西側を回って進み、御法主上人猊下は入堂あそばされた。

御影堂の御宝前には、大きな桜の造花や果物、彩色された餅などによる一対の飾りが立てられている。これは、大聖人様御入滅のときに大地が振動し、初冬にもかかわらず桜花が咲き聞いて法界が御本仏日蓮大聖人の広大なる御徳を称え奉ったことを表している。

御法主上人猊下は、まず高座南側下手の「上行座」に北側を向かれて御着座された。続いて行事を司る会行事(えぎょうじ)が、仏を恭敬讃歎して仏の周囲を右に三度巡るという涌出品の「右繞三□(うにようさんそう)」の法式、寿量品の「三誡三請・重誡重請」の格式をもって、仏の登高座を願い奉る儀式が厳かに行われると、御法主上人猊下は御宝前に進み御本尊に深く三礼された後、高座に登られた。御焼香の後、御法主上人猊下の大導師のもと方便品、自我偶の読経・唱題と進められ、寿量品のはじめ「妙法蓮華経如来寿量品第十六 爾の時に仏、諸の菩薩、及び一切の大衆に告げたまわく」から「唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語(みこと)を信受したてまつるべし」までの御文の甚深の御説法を賜った。

小憩の後、御大会並びに諸儀式について説明があり、三々九度儀式に移った。これは日本古来の祝いの儀式にのっとり、御本仏の末法御出現と師弟の本有常住、並びに下種仏法の一層の興隆をお祝いして御盃を交(か)わす儀式である。


翌2日目は、午前2時半からの勤行衆会(丑寅勤行)が、大きな桜花で荘厳された客殿で、御法主上人猊下の大導師のもと執り行われた。

午前9時、御法主上人猊下は、多数の御僧侶方の行列を随従されて御影堂に御出仕になり、「献膳・読経・申状」の儀が厳粛に奉修された。御法主上人猊下による懇(ねんご)ろな献膳の儀が修され、方便品・寿量品の読経に移ると、「而説偈言」で磬(けい)が入り「申状」捧読の儀へと進められた。これは宗祖日蓮大聖人をはじめ歴代御法主上人が国主諌暁された「申状」を捧読し、忍難弘通を誓い、また広宣流布が成就されることを表す儀式である。八木総監による「日有上人申状」の捧読に続き、御法主上人猊下が「立正安国論」を捧読あそばされ、次いで日蓮大聖人、日興上人、日目上人、日道上人、日行上人の「申状」が各御僧侶方により捧読された。そして自我偶の読経、最後に引き題目が唱えられ、終了した。

午後1時からは「お花くずし並びに布教講演会」が修された。はじめに、多数の御僧侶方を従えられて御影堂に御到着された八木総監の御導師により、お花くずしの読経・唱題が執り行われた。次いで布教講演会に移り、全国布教師の庶務部長・阿部信彰御尊師(東京都板橋区・妙国寺住職)が「地涌倍増と大結集を名実ともに必ず成就せん」と題して、同じく全国布教師の高野法雄御尊師(大阪市・妙栄寺住職)が「一波はやがて万波に及ぶ」と題して講演された。

こうして平成18年度の総本山宗祖日蓮大聖人御大会は、とどこおりなく終了した。




第2回立正安国論正義顕揚750年記念局委員会開かれる
総裁猊下より御指南 平成21年に総本山で7万5千名の大集会を


11月28日、総本山御影堂大改修着工法要並びに御遷座式の奉修された佳き日の午後3時より、宗務院大会議室において第2回・立正安国論正義顕揚750年記念局委員会が開催された。

委員会では、はじめに記念局総裁の御法主日如上人猊下より御言葉を賜った。御法主上人猊下は御言葉のなかで、「地涌倍増」について、明年「行動の年」を元旦から全力で折伏行動を起こせるようにすること。また、地涌倍増は必ずできると確信した折伏の行動を起こすこと。そしてこれからは組織戦であることを理解し、布教区別広布推進会を機軸とし、折伏を展開することが肝要であると仰せられた。

次いで「大結集」の内容について、平成21年7月15日・16日の2日間にわたって記念大法要を奉修する。また、日程を今後検討し、7万5千名をもって記念大総会を開催するとされ、さらに平成21年の1年間を通じて記念総登山を行うことを打ち出された。

記念局委員長の総監・八木日照御尊能化の御挨拶の後、地涌倍増大結集推進委員会主任委員の阿部信彰御尊師より、「地涌倍増の御命題達成に向かって」として、明年の年間方針・年間実践テーマについて、布教区別広布推進会について、大布教区別地涌倍増推進僧俗指導会についての説明がなされた。また、記念大法要並びに大結集総登山・記念出版委員会主任委員の水島公正御尊師より、「広布推進の文書布教について」として説明がなされた。

この後、議案審議に移り、「第1号案 総本山総合整備事業計画一部変更の件」について総本山総合整備事業委員会主任委員の佐藤慈暢御尊師より説明があり、さらに同副主任委員の小川只道御尊からスライドを用いて御影堂検査、塔中坊等の耐震検査の詳しい報告説明があった。説明終了後、八木委員長より裁決が求められ、全員の賛成により可決された。

最後に記念局副委員長の総講頭・柳沢委員長より挨拶があり、午後5時前、記念局委員会は終了した、引き続き、宗務院大会議室において第2回・地涌倍増大結集推進委員会が行われた。




総本山御影堂大改修着工法要並びに御遷座式を厳粛に奉修
御法主日如上人猊下大導師 7年間の予定で大改修工事


11月28日、前日の雨で清々しく浄められた総本山において御法主日如上人猊下大導師のもと、総本山御影堂大改修着工法要並びに御遷座式が厳粛に奉修された。

この法要には、御隠尊日顕上人猊下が御出仕あそばされ、記念局委員長の八木日照総監・同副委員長の藤本日潤重役・高野日海・秋山日浄・大村日統・光久日康・菅野日龍・尾林日至の各御尊能化、細井珪道宗会議長、宗務院各部長・副部長、総本山総合整備事業委員会主任委員の佐藤慈暢大石寺主任理事、同副主任委員の小川只道大石寺理事をはじめとする御尊師方が多数御列席。また、法華講総講頭の柳沢委員長、石毛副委員長・永井藤蔵・渡辺定元(兼総本山総代)・石渡秀男・河原昭太郎・大草一男の各大講頭、井出光彦・土橋昌訓総本山総代、寺族をはじめ法華講連合会役員、各地方部長、総本山塔中の信徒代表が参列した。

さらに静岡県、富士宮市の文化財関係者並びに工事関係者、学識経験者も来賓として出席した。

御遷座式

御影堂大改修着工法要は午前9時より開始され、出仕太鼓、続いて大鈴が鳴り、御影堂正面の表向拝より御法主上人猊下、御隠尊上人猊下が入堂あそばされた。御法主上人猊下の大導師により、読経・引き題目と如法に進められた。ここで、佐藤主任委員より挨拶があり、総本山の歴史を伝える中心伽藍(がらん)である御影堂の370年余にわたる概略が説明され、今回の大改修によって、重要法要が営まれる堂宇としてのみならず建築文化財として後世に残し伝えることができる旨が述べられ、着工法要は終了した。

この後、参列者は退出し、御僧侶方により御本尊並びに宗祖日蓮大聖人御影をお包みして蓮台にお移し申し上げた。水島教学部長の先導に総代3名が続き、御法主上人猊下、守護役に守られ負担役の御僧侶により担われた御本尊をお乗せした蓮台と続き、その後に御隠尊猊下、続いて宗祖御影をお乗せし守護役に守られ負担役に担われた蓮台をもって行列が調えられた。御遷座御練りの行列は10時10分に御影堂正面から出発し、同20分、御尊能化方がお出迎えする仮御影堂(旧奉安殿)に到着された。

仮御影堂ではただちに御本尊、宗祖御影が御安置され、御前机などの什器が設えられて、御遷座式は11時15分より修された。御法主上人猊下が御出仕あそばされ、読経・引き題目と如法に進められた。最後に、八木記念局委員長より挨拶があり、11時50分、式の一切がとどこおりなく終了した。



○挨拶 総本山総合整備事業委員会主任委員・佐藤慈暢御尊師

総本山といたしまして、一言、御挨拶を申し上げます。

初冬の穏やかな本日、総本山第68世御法主日如上人猊下の大導師のもと、御隠尊日顕上人猊下の御臨席を賜り、多宝富士大日蓮華山大石寺の御影堂大改修着工法要を奉修いたしましたるところ、立正安国論正義顕揚750年記念局委員長の総監・八木日照御尊能化、同副委員長の重役・藤本日潤御尊能化をはじめ、御尊能化各位、宗会議長・細井珪道御尊師、宗務院の部長・副部長各位、僧侶委員各位、全国僧侶代表各位。また、記念局副委員長の総講頭・柳沢喜惣次様をはじめ、大講頭各位、総本山総代各位、御信徒委員各位、近末御信徒代表各位、寺族代表の皆様。さらには、静岡県及び富土宮市の文化財保護担当の富士宮市教育委員会教育長・大森衛様、建築設計監修の株式会社建築研究所アーキヴィジョン代表取締役・戸尾任宏様、建築施工の株式会社奥村組代表取締役社長・奥村太加典様、株式会社川俣組社長・佐野孝様をはじめとする関係者各位には、大変お忙しい中を御列席いただき、厳粛に奉修できましたこと、まことに有り難く、厚く御礼申し上げます。

このたび、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様が、この世の平安と救済を願い、『立正安国論』を時の鎌倉幕府に建白奉られて以来、750年目の佳節を3年後の平成21年に迎えるに当たり、御報恩申し上げるべく、本年4月に立正安国論正義顕揚750年記念局が設けられました。この記念局が行う事業の一つとして、総本山総合整備事業が計画され、御影堂の大改修と山内塔中坊等の整備を行うこととなった次第であります。

当御影堂は、通称「御堂(みどう)」とも呼ばれ、総本山の歴史を伝える中心伽藍であり、なおかつ370余年にわたり重要な法要が執り行われてきた堂宇でもあります。まさに大石寺の歴史を刻んできた建造物であり、その上、静岡県の指定を受けた有形文化財でもあります。江戸時代を代表する寺社建築技術の粋が結集されており、ゆくゆくは国の重要文化財となりうる貴重な建造物であると存じます。御影堂が、我々僧俗の大事な宝であることはもちろんのこと、静岡県民、富士宮市民のかけがえのない重要な文化財でもあります。

堂内の須弥壇には、第17世日精上人が延宝7(1679)年に模刻された日蓮大聖人の大漫荼羅本尊と、嘉慶2(1388)年、第6世日時上人の代に、越前法橋快恵の謹作により造立された日蓮大聖人等身の御影が安置されております。御影堂は、第12世日鎮上人によって大永2(1522)年に小御堂が建立されたのが始まりで、第17世日精上人の代である寛永9(1632)年、日興上人・日目上人第300遠忌の年の11月15日、阿波徳島の藩主・蜂須賀至鎮公の御令室である敬台院の寄進によって再建造営されたのであります。

以来、御影堂は370余星霜を重ねております。その間、第24世日永上人の代である元禄12(1699)年、および第56世日応上人の代である明治35年、第65世日淳上人の代である昭和34年に修復がなされ、さらに第66世日達上人の代である昭和46年に大がかりな改修がなされ、堂内の御宮殿、金箔の丸柱、彫刻なども修復されたのであります。

文化財保護の専門家によれば、御影堂のような有形木造文化財は350年ぐらいに一度、大修理を行うことがよいとされているそうです。当御影堂もちょうどその時期に当たっており、このたび文化財の保守管理に携わる専門家に依頼して調査を行った結果、都合4回にわたる修理が行われてきたとはいえ、傷みがひどくなってきていることから、宗門の重要な法要が営まれる堂宇としてのみならず、これだけの歴史ある建築文化財を後世に残し伝えるためにも大改修を行い、さらには、将来、予想される地震に対しても早急に対策を行っておく必要があるとの結論を得ました。今、御影堂の大改修を行って後代に残し伝えることこそが、我々僧俗に課せられた重要な責務であると思います。

ここに我々全僧俗の総意と真心の浄財をもって、未来広布のために御影堂大改修を行い、万全を期して将来に備え、後世に伝えるべく、本日の法要を奉修申し上げた次第であります。堂宇改修に携わる関係各位には、この趣旨を御理解の上、無事故にて期日に完工されますことをお願い申し上げます。なお、御一同と共に御影堂の創建当時の威容を復元申し上げ、一段と荘厳された姿をもって御報恩奉りたいと存じます。本日は、まことにありがとうございました。

※この挨拶は707号に掲載されました。




立正安国論正義顕揚750年特別御供養に当たって
御報恩の大事業を全て遂行



『立正安国論正義顕揚750年』特別御供養の第1回受付が近づいてまいりました。特別御供養の勧募が発表されて以来、あるいは記念局より御供養趣意書並びにポスターを配布いただいて以来、御供養を積み立てて精進してこられた方も少なくないと思います。この御供養はお金にあってお金ではなく、護法の志の積み重ねです。


記念事業をすべて完遂し御報恩謝徳申し上げよう

特別御供養は、平成21年に迎える「『立正安国論』正義顕揚750年」の、@立正安国論正義顕揚750年記念大法要並びに大結集総登山、A地涌倍増大結集推進、B総本山総合整備事業、C記念出版事業の各記念事業のすべてを、平成の御代の日蓮正宗僧俗が、挙宗一致してつつがなく完遂することをもって御報恩謝徳申し上げるために行われます。今、各事業の委員会では、それぞれ活発な活動が行われております。


記念事業の諸活動

地涌倍増大結集推進委員会による地方部別広布推進激励会が5月8日より8月8日にかけて34カ所で行われ、引き続き地涌倍増支部別僧俗指導会も8月27日より10月31日まで2班に分かれ計60カ所で行われました。これを受けて各支部では、御法主日如上人猊下の御指南を戴して折伏活動に精進しております。

記念出版委員会における『御書教学辞典』等も、各担当者によって作業が順次進められております。

そして立正安国論正義顕揚750年記念大法要は、平成21年7月15日(水)・16日(木)の2日間にわたって奉修されることが決まりました。この大法要には、信徒は代表をもっての参加となります。また平成21年の1年間を通じて、記念総登山を行うこととなりましたが、詳細は今後検討が加えられ発表されます。記念大総会は、7万5千名が総本山に大結集して開催すること等を、第2回記念局委員会の席上、御法主上人猊下より御指南賜るものであります。

総本山総台整備事業は、先に塔中4カ坊の起工式が行われ、残る塔中坊も順次建て替えが進められます。さらにその後の調査で、若千の追加変更等もあり承認されております。

そしてこのたびは、総本山御影堂大改修着工法要並びに御遷座式が、御法主上人猊下大導師のもと、御隠尊日顕上人猊下が御出仕あそばされるなか厳粛に奉修されました。御影堂は370年余にわたって重要な法要が執り行われてきた総本山の中心伽藍(がらん)であり、静岡県指定の有形文化財でもあります。さらにゆくゆくは国の重要文化財ともなりうる建造物で、建立当時における寺社建築技術の集積と言っても過言ではありません。その意味でもたいへん貴重な建物です。

これまでも数度の調査が行われ、柱の傾きをはじめ各部分の傷みが把握されておりましたが、今年7月から9月にかけて精査され、今までに4回なされてきた修復時の、具体的な作業も判ってまいりました。最初の修復は元禄12(1699)年で総本山第24世日永上人の代に行われ、その後、明治35年・第56世日応上人の代、昭和34年・第65世日淳上人の代に修理され、さらに昭和46年・第66世日達上人の代に大がかりな改修がなされております。木造の文化財は、建立から350年前後に大修理を行うことがよいとは専門家の見解で、まさに建立されて370余年の御影堂は、それにふさわしい時期に当たっております。

大改修には7年くらいが費やされますが、その間、参詣信徒が見学をできるよう、見学スペースを設けることを予定してくださっていると伺っております。


御供養に当たり生活の心構え

御供養の大功徳を知らない人々は、自分の心中に「渋る」という心があります。御供養の功徳を教わって利益を知っている人は、御供養によって自分自身が慳貪(けんどん)の病から抜けられたことや、浪費癖がなくなり、何が必要で何が無駄なのかが判ってきたこと、生活のリズムをはじめいろいろな巡り合わせ等が好転した等の体験がありますから、御供養のチャンスを聞くと、「よし、またがんばろう」と毎日が嬉しくなって、家族ぐるみで御供養の生活態勢に切り替えます。そして子供にも御供養を躾(しつけ)けていくのです。

御本仏の御教えを次の代へと伝えていくことの上に、年々歳々に荘厳に整備され興隆していく総本山の姿、御法主上人猊下の驥尾に付し、私たちも御仏を賛嘆し供養する御報恩の御供養を申し上げることで、大きな功徳を積ませていただける時が今です。


御供養受付のあらまし

御供養の受付は平成18年、平成19年、平成20年のそれぞれ12月と、計3回ありますが、一回一回を大事に取り組んでまいりましょう。

なお、各支部で取り決めた12月の受付日に納め、その場で支部からの仮受書が発行されます。その後、各回ごとに記念局からの受書が、支部を通じて本人名で戴けます。そして、御供養者全員の名簿が、御影堂須弥壇の下に納めらわることとなっております。



御法主日如上人猊下御講義 『折伏要文(8)』
法華講夏期講習会第8期


皆さん、おはようございます。本年度の法華講夏期講習会も第8期を迎えまして、皆様方にはいろいろとお忙しい中をたくさん参加いたされまして、まことに御苦労様でございます。

毎回申し上げておりますが、今、宗門は僧俗挙げて平成21年の「地涌倍増」「大結集」の御命題達成に向けて前進をしております。この「地涌倍増」と「大結集」は、御承知の通り御隠尊日顕上人猊下より賜った御命題であります。今日の様々な国内外の状況を見たときに、私たちは何としてでもこの「地涌倍増」と「大結集」を果たしていかなければならないと、このように強く感ずる次第であります。

この「地涌倍増」というのは、簡単に言えば折伏をして地涌の友を倍増することでありますから、折伏のない「地涌倍増」というのはあり得ないわけです。また「大結集」についても、「地涌倍増」のない「大結集」というのは、言うなれば単なる数集めのようなものになってしまいますので、全く意味がありません。そうしますと結局、この3年間の闘いの焦点はどこへ絞(しぼ)っていくのかというと、宗門の僧俗を挙げて大折伏戦を展開していくということになるのです。

この大折伏戦をもってまず「地涌倍増」を果たし、「地涌倍増」をもって「大結集」を果たしていくのです。そして仏祖三宝尊に対する御報恩謝徳、さらには御隠尊日顕上人猊下に対する御報恩を尽くしていくことが大事なのです。よって、我々は改めて折伏ということをしっかりと考え直し、そしてそれを実践に移していかなければならないと、このように思う次第であります。

そこで私といたしましては、本年度の夏期講習会の講義において『折伏要文』について申し上げることにいたしました。もう一度、法華経や大聖人様の御書から折伏について学び、それを是非とも実践に移していただいて御命題を達成していきたいと、このように考えている次第でございます。そういうことでございますので、皆様方には是非とも折伏について勉強していただきたいと思います。



◆聖人御難事◆

それでは、今日はテキストの27ページの『聖人御難事』の御文から拝読をしてまいります。この『聖人御難事』というのは、大聖人様は御一代において「大難四カ度、小難数知れず」といった、命に及ぶ大難をはじめとする様々な御難に値われてきたわけでありまして、そうした中でこの御難についてお述べになられている御書であります。

我等現(げん)には此の大難に値(あ)ふとも後生は仏になりなん。設(たと)へば灸治(やいと)のごとし。当時はいた(痛)けれども、後の薬なればいたくていたからず。(御書1397ページ17行目)

「我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん」とあるのは、つまり大難に値うのは後生には仏に成るからであると、このようにおっしゃっているのです。

この大難や迫害に対する覚悟というものは、私たちにとっても大事であります。信心が強盛になれば折伏もします。折伏を行じていけば、当然、様々な難が襲って来るのです。しかし、その難を乗り切っていくところに、我々は大功徳を得ることができるわけです。それはちょうど「灸治のごとし」、つまりお灸のごとくであるということです。

ですから、折伏をしなければ難には遭わないけれども、罪障も消滅することができないわけです。つまり、様々な難に遭うということは、過去世の罪障をそれだけ我々は消滅していることになるのです。ですから、難を恐れてしまってはだめなんです。過去世の様々な罪障を消滅して一生成仏に至るわけですから、むしろ我々は大難が来てもそれをバネとして変毒為薬していく強い信心を培(つちか)っていくことが大事であります。なぜならば、それは「当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず」とあるように、今は痛いけれども、それが後の薬になることを考えれば、それは痛くないと、このようにおっしゃっているわけであります。

折伏をせずに、世間の人たちと表面上のお付き合いをしているうちは、相手もニコニコして「あの人はいい人だ」と言ってくれます。だが、折伏をした途端に相手の態度は変わります。それこそ怒り心頭に発するといった形相(ぎょうそう)で非難中傷されることもあると思います。

いつも言いますけれども、たしかに何もしなければ、今は平穏無事であるかもしれない。しかし、それでは後生はよくないのです。寝ていれば怪我はしません。立ち上がって走ったり動き回るから転んだりして怪我をするのです。だからといって、ずっと寝ていたのでは、いつまで経っても目的地には着かないのです。我々は一生成仏という目的を持っているわけですから、その目的のためには立ち上がって歩いたり走ったりもするわけで、そうするとつまずいたり、転んだりもするのです。しかし、それをさらに乗り越えていくところに我々の一生成仏の道が果たされていくわけでありますから、このことをよく心得てもらいたいと思います。

ですから、難を恐れてはならないのです。この信心は「難を乗り越えていく信心だ」ということをよく知っていただきたいのです。したがって、折伏をしなければ大難も来ないけれども、同時に様々な過去世からの罪障も消滅することができないということになるわけであります。


◆三世諸仏総勘文教相廃立◆

「今の法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼(によく)を以て飛ぶに障(さわ)り無きが如く成仏滞(とどこお)り無し」(御書1422ページ18行目)

この「自行・化他」の解釈には、「法体(ほったい)」に約す場合と「修行」に約す場合の2通りがあるのです。

そこで、この法体に約す場合の自行とは何かと言いますと、仏様の境智をそのまま説いたところの教えでありまして、判りやすく言うならば随自意(ずいじい)の教えであります。それから化他というのは、様々な九界の衆生の機根に応じて説いたところの教えでありますから、言うなれば随他意の教えであります。ですから、法体に約しますと、法華経は随自意になり、それ以前の40余年の経々というのは相手の機根に応じて説いてきたところの教えですから随他意(ずいたい)ということになるわけであります。

もう一方で修行に約す場合の自行というのは、自分が功徳を受けるためにする修行のことであります。それから化他というのは、他人にその功徳を得せしめるために化導、育成していくということであります。

この『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文は、本来は法体に約しておっしゃっているのですが、ここでは敢(あ)えて修行、行体に約して申し上げます。この御文を修行に約せば、自行と化他になりますが、一見、自行と化他は相い対するように見受けられますけれども、法華経においては共に重大なる仏道修行として捉えているわけです。それはあたかも「鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し」とあるがごとくであります。

これは大聖人様が『三大秘法抄』に、

「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594ページ)
と仰せの有名な御文がありますが、この御文と合わせて解釈をしてくださればよろしいのではないかと思います。

要するに、我々の信心修行においては自行と化他の2つが大切であるということです。この『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文は、直接、行体に約してはおられないけれども、このように解釈をしていくべきであるという次第であります。


◆秋元御書◆

次は『秋元御書』であります。

悲しいかな、我等誹謗(ひぼう)正法の国に生まれて大苦に値はん事よ。設(たと)ひ謗身(ぼうしん)は脱ると云ふとも、謗家謗国(ぼうけぼうこく)の失(とが)如何(いかん)せん。謗家の失を脱れんと思はゞ、父母兄弟等に此の事を語り申せ。或は悪(にく)まるゝか、或は信ぜさせまいらするか。謗国の失を脱れんと思はゞ、国主を諌暁(かんぎょう)し奉りて死罪か流罪かに行なはらるべきなり。『我不愛身命(がふあいしんみょう)、但惜無上道(たんじゃくむじょうどう)』と説かれ、『身軽法重(しんきょうほうじゅう)、死身弘法(ししんぐほう)』と釈せらりしは是なり。過去遠々劫(おんのんごう)より今に仏に成らざりける事は、加様の事に恐れて云ひ出ださゞりける故なり。未来も亦復(またまた)是くの如くなるべし。

今日蓮が身に当たりてつみ知られて候。設(たと)ひ此の事を知る弟子等の中にも、当世の責めのおそろしさと申し、露の身の消え難きに依りて、或は落ち、或は心計(ばか)りは信じ、或はとかう(左右)す。御経の文に『難信難解(なんしんなんげ)』と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ。「謗ずる人は大地微塵(みじん)の如し。信ずる人は爪上(そうじょう)の土の如し。謗ずる人は大海、進む人は一H(てい)なり。(御書1452ページ11行目)」

この誹謗正法の国に生まれますと、結果として総罰ということを受けるわけです。そうしますと飢饉(ききん)や疫癘(えきれい)、あるいは戦争などに巻き込まれてしまうことがあるわけです。そのように大きな苦しみに遭わなければならないということは、何と悲しいことであろうかということなんです。

今日のいろいろな社会情勢を見ていますと、我々だけが信心しているようではだめなんです。我々の力で本当に一国正法流布をしていく、世界に広宣流布をしていくということが大事なのです。その役目が我々にはあるのです。

「設ひ謗身は脱ると云ふとも、謗家謗国の失如何せん」
この「謗身」とは、謗法を犯した我が身のことです。すなわち「設ひ謗身は脱ると云ふとも」とは、たとえ謗法を犯した我が身ではあっても、邪法を捨てて正法に帰依したことにより、謗法の身は脱れることができてもということです。そしてその後に「謗家謗国の失如何せん」とあるのは、我が身が生を受けた我が家の謗法や我が国の謗法の失はいったいどうしたものかと、このようにおっしゃっているのです。

「謗家の失を脱れんと思はゞ、父母兄弟等に此の事を語り申せ」
自分の生家が謗法であったということはよくありますね。自分一人だけが信心をしていて、両親が信心をしていないというようなケースもたくさんあると思います。そこで、謗法の家の失を脱れようと思うならば「此の事を語り申せ」とおっしゃっています。「此の事を語り申せ」というのは「南無妙法蓮華経が最も尊い」「南無妙法蓮華経でなければ本当に幸せにはなれない」ということをはっきりと言いなさい、つまり折伏しなさいということです。

「或は悪(にく)まるゝか、或は信ぜさせまいらするか」
そうすることによって、つまり、今まで仲のよかった兄弟やご両親から疎(うと)まれ、悪口を言われたり、争いになったりするか、もしくは信じさせることができるかということです。それでも、やはり自分が一番の恩を被っているご両親などは、何としても折伏をしなければだめなんです。これこそがご両親に対する一番の恩返しになるからです。

恩返しには、いろいろな事柄があるけれども、ご両親に対する恩返しの中で一番尊いのは、やはりご両親に南無妙法蓮華経を信じてもらうことなのです。それが親に対する最高の恩返しなんですね。それをしなければ真実の恩返しにはならないのです。ですから、親の恩を報ずるためにも、まずは親を折伏することです。そして兄弟にも折伏をしていく。それによって謗法の家に生を受けた失を脱れることができるのであると、このようにおっしゃっておられます。

次に、

「謗国の失を脱れんと思はゞ、国主を諌暁(かんぎょう)し奉りて死罪か流罪かに行なはらるべきなり」
これは国の謗法を脱れようと思うならば、どうしたらよいかということです。そのためには国主を諌暁しなければならないと仰せです。しかし、その国主を諌暁すれば、必ず死罪・流罪等の大難が起きることを覚悟しなければならないとおっしゃっています。このことは大聖人様御自身も国主を諌暁されて、竜の口の法難をはじめ佐渡への配流(はいる)等の大難に遭われたわけであります。

しかるに、我々も一国の謗法をきちっと破折して、そして一日も早くこの謗家謗国の失を脱れるようにしていかなければならないのです。これが我々法華講衆の務めなのですから、我々の力では何もできないなどと思わないで、一人ひとりが地涌の菩薩の自覚を持って、謗家謗国の失をしっかりと破折していかなければならないのであります。

『我不愛身命(がふあいしんみょう)、但惜無上道(たんじゃくむじょうどう)』。
これは法華経の『勧持品第十三』の文で、「我身命を愛せず、但(ただ)無上道を惜(おし)む」(法華経377ページ)ということです。これは『如来寿量品第十六』の、「一心欲見仏 不自惜身命」(同439ページ)の文と同じような意味でよく使われています。

『身軽法重(しんきょうほうじゅう)、死身弘法(ししんぐほう)』
この文は、章安大師の『涅槃経疏』の中にありまして、「身は軽く法は重し、身を死(ころ)して法を弘む」ということです。

「過去遠々劫(おんのんごう)より今に仏に成らざりける事は、加様の事に恐れて云ひ出ださゞりける故なり」
つまり、過去遠々劫より今日まで我々が仏に成れないのは、折伏することを恐れてしまって、言い出さないからであるということです。これでは一生、仏には成れませんよということであります。さらにその後に、「未来も亦復(またまた)是くの如くなるべし」と、このようにおっしゃっておられます。

ですから、大聖人様が身命を賭して国主を諌暁せられたそのことを思うとき、私たちは力の及ぶ限り、我が家に謗法があればそれを破折し、そして国に謗法があれば、国の謗法を責めていくべきなのです。

そこで、今日において国の謗法を責める、国主を諌暁するには、どのようにしたらよいのかということが問題になります。しかるに、今日の日本のような主権在民の世の中にあっては、我々民衆が中心でありますから、我々が一人ひとりを折伏していくことが、この国主への折伏に通じていくわけです。御隠尊日顕上人猊下が常々御指南あそばされていたように「1人が1人以上の折伏」を行っていくことが大事なのです。したがって、我々一人ひとりが平成21年に向かって一文一句なりとも語って折伏を行じていかなければならないということであります。

要するに、謗国の失を脱れようと思うならば様々な難に遭う。しかし、それを覚悟して精進していかなければ仏には成れないわけです。これまで仏に成れなかった、幸せになれなかったというのは、結局、難に遭うことを恐れてしまって折伏をしてこなかったからであるということであります。

「今日蓮が身に当たりてつみ知られて候。設(たと)ひ此の事を知る弟子等の中にも、当世の責めのおそろしさと申し、露の身の消え難きに依りて、或は落ち、或は心計(ばか)りは信じ、或はとかう(左右)す」
つまり、このことは今、大聖人様御自身が身をもって法難をお受けになったことから知ることができるのであるということです。

そして、このことを知る弟子たちの中にも、当世の責めの恐ろしさから「露の身の消え難きに依りて」、つまり露のようにはかない身でありながらも、なかなか消えてしまいそうにない現実の姿に、「或は落ち」、つまり退転し、「或は心計りは信じ」、心の中では信じているけれども実際には折伏をしない、「或はとかうす」、これは物事を恐れて右往左往するということで、このようになってしまうということです。

我々が成仏をするためには、必ず難関があるのです。この難関をしっかりと乗り越えていかなければだめなんです。よく「人生の壁」などということを言うけれども、我々が成長していく過程には、いろいろな壁があるわけです。その壁を一つひとつしっかりと乗り越えていくことが大事であり、同様に信心においても、やはり謗法を責めるということをして壁を乗り越えていかなければ、我々は成仏をしないのです。過去に成仏をしなかったのは、そういった壁となる難を恐れ、臆病風に吹かれて途中で退転をしてしまったり、あるいは形ばかりの信心に終わってしまったから成仏をすることができなかったということであります。

「御経の文に『難信難解(なんしんなんげ)』と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ」
この「難信難解」というのは『法師品第十』の文で「信じ難く解し難し」ということであります。天台大師の『法華文句』に、
「今の法華は法を論ずれば、一切の差別融通して一法に帰す。人を論ずれば、即ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し」(法華文句記会本中643ページ)
という文があり、また大聖人様の『諸経と法華経と難易の事』には、
「易信易解は随他意の故なり。難信難解は随自意の故なり」(御書1468ページ)
と、このようにあるのです。要するに、相手の機根に合わせて説くところの爾前権経と異なって、法華経は仏様の随自意の教えであるが故に難信難解であるということであります。

我々が折伏をするということは、相手の間違いを正していくことです。例えば、学会員に対して「『ニセ本尊』なんかを拝んでいたら絶対に幸せにはなれませんよ」ということをはっきり言うのが折伏なのです。それに対して、相手の機根に合わせて「まあ、それもいいでしょう」とか、「そんな考え方もあるでしょう」などと言って、どんどん自分の考えを後退させてしまうような、随他意のやり方もありますが、これではだめなんです。

法華経はあくまでも随自意の教え、幸せになる方程式が説かれた教えですから、「南無妙法蓮華経しか幸せになる道はありませんよ」ということを説いていくわけです。随他意になると相手の言い分も多少は聞きながらやるわけですから、そういうことではだめなのです。あくまでもこの法華経は「『難信難解』と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ」ということであります。そして、

「謗ずる人は大地微塵(みじん)の如し。信ずる人は爪上(そうじょう)の土の如し」
謗ずる人は大地微塵のように多く、信ずる人は爪の上に乗る土のように少ないと仰せです。さらに、
「謗ずる人は大海、進む人は一H(てい)なり」
つまり、謗ずる人は大海の水のように多く、信仰を持っている人は、僅(わず)か一滴の水のように少ないということであります。しかし、その中で題目を唱え、折伏をすることが、いかに貴いかということを知らなければならないということであります。ですから、この御文をよく拝していきますと、我々は臆病であってはならない、勇気を持って折伏をしていかなければならないということが、よくお判りになると思います。

今はたしかに僅かな人数ではありますけれども、一人ひとりの折伏によって1人から2人、3人、100人と、次第に題目を唱える人が増えていくわけであります。それによって我が家も、そして我が国も、さらには世界をも広宣流布していくのです。「塵も積もれば山となる」で、始まりはみんな1つからなのです。したがって、皆様方のご家族にも未だ信心をしていないご両親やご兄弟、そういった方がおられるならば、あなた方がまず折伏をしていくことが大事なのです。それが次第に大きく広がっていくのです。ですから、恐れることなく堂々と折伏をしていっていただきたいと思います。


◆諸経と法華経と難易の事◆

次が『諸経と法華経と難易の事』です。

生死の長夜を照らす大灯、元品(がんぽん)の無明(むみょう)を切る利剣(りけん)は此の法門には過ぎざるか(御書1468ページ10行目)

この「生死の長夜」というのは、衆生が三界六道の世界において生死を繰り返す様を、このように言っているわけです。その生死の長夜につきまとう暗黒のごとき迷いや苦しみを照らす大灯こそが妙法蓮華経であるということです。

「元品の無明を切る利剣は此の法門には過ぎざるか」
この「元品の無明」というのは、衆生に本来具わっている根本的な迷いのことです。「元品」とは根本という意味で、「無明」とは迷いのことです。物事に明らかでなく暗いということですね。それで無明というわけです。妙法蓮華経という絶対の真理に対して、一切の煩悩の根本となるのが元品の無明であります。

そこで、この元品の無明を断ずれば成仏の境地を得られるということで、その元品の無明を切る利剣が「此の法門」、つまり妙法蓮華経であるわけです。このことは『御義口伝』の中にも、

「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御書1764ページ)
と、信心に約して御教示あそばされております。

そういう意味からすると「此の法門には過ぎざるか」というのは、法に約しておっしゃっていることになるわけであります。要するに、生死の長夜の中で皆が迷い苦しんでいるのは、まさに元品の無明によるわけです。そこで、この元品の無明を切る利剣が妙法蓮華経であるわけです。ですから、折伏に当たっても、我々は妙法蓮華経の利剣を持って、それらを断ち切っていくことが大事であるということです。そういう確信の上に折伏をしていかなければならないのであります。


◆椎地四郎殿御書◆

次が『椎地四郎殿御書』です。

法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁(しゅくえん)ふかしとおぼしめすべし。経に云く『亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し』云々。・・・法師品には『若是(にゃくぜ)善男子(ぜんなんし)善女子(ぜんにょにん)乃至即如来使(そくにょらいし)』と説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり。(御書1555ページ6行目)

この「過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」というのは、私たちは今日、値い難き大聖人様の仏法に巡り値うことができたわけでありますから、その宿縁の深きことと折伏を行ずることの尊さを心肝に染めて、なお一層、信心に奮起をしていかなければならないということを、ここでおっしゃっているわけです。

つまり、「過去の宿縁」ということは、遡(さかのぼ)っていきますと、我々は皆、御本仏大聖人様の弟子檀那であるということです。ですから大聖人様は「地涌の菩薩」、あるいは「地涌の流類」「地涌の菩薩の眷属」等とおっしゃっているわけです。

御隠尊日顕上人猊下も過日の御指南の中で、

「お題目を唱えてる方は地涌の菩薩」(大日蓮619号) 
と仰せられております。つまり、我々は御本仏大聖人様の弟子檀那なのです。そうしますと、大聖人様は久遠元初の仏様でありますから、遡っていくと我々には久遠の縁、つまり久遠元初以来の様々な因縁、宿縁があるということです。それを感じ取っていかなければだめなんですね。

ですから、この宿縁ということは、まことに尊いのです。一人ひとりの命の中に尊い因縁というものを持っているわけです。この信心をすることによって、久遠元初の御本仏の弟子檀那となったわけですから、そこに我々は久遠元初以来の様々な深い因縁の存することを自覚して、しっかりと御題目を唱え、折伏をしていかなければならないのであります。

「一文一句なりとも人にかたらんは」というのは折伏です。まさにそういうことができるのは、過去の宿縁が深いからであります。折伏をする人は皆、同様です。ですから我々は、もっとこの宿縁の深きことを感じて自信と自覚を持ち、確信を持って折伏をしていくことが大事なんですね。

『亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し』。
これは法華経の『方便品』に、このように説かれているということであります。この御文を額面通りに取ると、大聖人様の正法を聞かない人は度し難い、つまり南無妙法蓮華経を聞かない人は救えないということでありますが、これは我々が正法を説かなければ人々を救うことはできないということを述べられたものと拝すべきなのです。ですから、我々が聞かせればいいのです。耳根(にこん)得道ということがありますが、末法の娑婆世界の衆生は、正法を聞くことによって成仏得道するわけです。

また、逆縁成仏ということもあります。相手が聞こうが聞くまいが、耳を塞(ふさ)ごうが塞ぐまいが、我々が法を説いて折伏することによって、その人はそれを縁として後に必ず成仏するのです。我々が縁を結んであげなければ、その人は成仏をしていかないのです。我々が折伏をすることによって、その人は妙法を聞くことになるわけです。その縁によって後に必ず妙法を信受することになるわけです。下種というのは、そういう意味でまことに大切なのです。ですから、この正法を聞かない人は度し難い、だからこそ我々が折伏によって縁を結ばせていくことが大切なのであります。

『若是(にゃくぜ)善男子(ぜんなんし)善女子(ぜんにょにん)乃至即如来使(そくにょらいし)』。
これは『法師品』の中に、
「若(も)し是(こ)の善男子、善女人、我が滅度の後、能(よく)竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当(まさ)に知るべし、是の人は即(すなわ)ち如来の使なり」(法華経321ページ)
と、つまり折伏する人は如来の使い、仏様の使いであると、このように説かれているということで、その文を大聖人様が挙げておられるわけです。

「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり」。
折伏を行ずるということは、如来の使いとしての尊い実践を行っていることなんですね。ですから、たとえ一文一句なりとも他人に語らん人は、皆、仏様の使いなのです。「如来の使ひ」ということは、仏様のなされることを仏様に代わって行っているということなのです。

よく子供がお父さんやお母さんの言いつけでお使いに出されることがあるでしょう。それはお父さんやお母さんに代わって用事を済ませてくるわけです。同様に、我々が折伏を行ずるということは、仏様の言いつけを守って仏様のなされることを代わりに行うということですから折伏は尊いわけです。故に、折伏することの功徳というものは計り知れないのです。ですから、一人ひとりが本当にその自覚を持っていただきたいと、このように思う次第であります。


◆三大秘法抄◆

次に『三大秘法抄』にまいります。

題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止(や)みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。(御書1594ページ16行目)

ここで大聖人様は「題目とは二意有り」と、つまり題目には二つの意があることを御教示であります。その一つは、正法時代、像法時代において唱えた題目は、自行ばかりにして広く化他のためには説かなかったのです。そこでこれを「理行の題目」というわけです。これでは末法の衆生は成仏しないんですね。それからもう一つは「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と、こうおっしゃっています。

ここで「理」というのは、真理を説明した理論のことでありまして、これに対して「事」というのは、その具体的な実践であります。つまり、末法の我々の修行というのは、事を事に行じていくというところに大事な意味があるわけです。

末法の修行というのは実践なんですね。ですから、毎日、朝夕に勤行をし、御題目を唱えるということが大事なのです。寝床に入ったまま頭の中だけで勤行しているというのは、それは勤行とは言わないんです。やはり、御本尊様の御前にきちっと端座して手を合わせ、そして心から御題目を唱えていくという、この実践が大事なのです。

ですから、理屈だけではだめなんですね。それでは全く爾前迹門と同じことになってしまうのです。やはり、本門の修行というのは実践であり、このことを大聖人様がおっしゃっているわけであります。

事理という語には、いろいろな意味があるけれども、あくまでも理行の題目、自行だけでは我々は成仏をしないのです。やはり自行化他にわたるところの題目、つまり折伏をしなければ成仏はしないということであります。これは私が勝手に言っているのではなく、仏様がこのようにおっしゃっておられるわけです。

したがって、一人ひとりが一文一句なりとも語って折伏をしていくことが大事なのです。皆様方が今日ここにあるのは、元をたどって行けば、他の人から折伏をされたからこそ、この尊い御法に帰依して信心修行することができたわけです。ですから、今度は私たちがその人たちに代わって多くの人々に折伏をし、正しい信心に帰依していただくということです。これが本当の意味での恩返しということになるわけです。こういったことをしっかりとしていくということが、自行化他にわたるところの信心になるわけであります。

いつも言うことでありますけれども、声聞・縁覚の二乗の者たちが、仏様から「お前たちは絶対に成仏をしないぞ」と言われたわけですが、それはなぜかというと、二乗の者たちは、仏様が説かれた小乗の教えに固執して、そこに留まってしまったのです。そこで自分が悟りを得ることばかりを考えて、自分のためだけに血の滲(にじ)むような努力をして修行をしたわけです。ところが仏様は、その後に小乗の教えよりも勝れた権大乗を説き、さらに勝れた実大乗の教えを説いておられるわけです。けれども、二乗の者たちはその教えを理解しようとせずに小乗に固執していたので、そこで仏様から「それではお前たちは絶対に成仏をしないぞ。炒(い)れる種と同じである」と、種を炒ってしまったら芽が出ないのと同じように、成仏をしないぞと厳しくお叱りを受けたわけです。

大乗の精神というのは、まさに「上求(じょうぐ)菩提、下化(げけ)衆生」でありまして、自分も幸せになるけれども、他の人にも幸せになってもらいたいということであります。天台大師が『法華玄義』の中で、

「法華は折伏して権門(ごんもん)の理(り)を破(は)す」(法華玄義釈籖会本 下502ページ)
と述べたように、法華の命、法華の思想は折伏であるということです。このことを忘れてしまうと、結局、我々は成仏ができなくなってしまうのです。

したがって、大聖人様が「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せのように、末法の我々の修行は自行化他にわたるところの南無妙法蓮華経であるということをよく知って、是非とも折伏に励んでいただきたいと思います。これは自分自身のため、また他の多くの人のため、さらには全世界の人々のために折伏を行じていかなければならないということであります。


◆百六箇抄◆

次は『百六箇抄』(具謄本種正法実義本迹勝劣正伝)であります。

法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。(御書1687ページ15行目)

この御文については『崇峻天皇御書』の中に、

「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書1174ページ)
とあります。この「人の振る舞ひ」、つまり法というのは結局、我々が弘めていくわけなんです。ですから、法がただ存在するというだけでは、いつまで経っても広宣流布は進んでいかないのです。我々が弘めていくというところに本当の仏道修行の姿があり、そこに大きな功徳が存するのです。

法華経の『薬王品』に、

「我が滅度(めつど)の後、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経539ページ)
とあります。必ず広宣流布するとありますけれども、我々の努力なしには絶対に広宣流布はしないのです。我々の努力があって、はじめて広宣流布するわけです。いかに方程式が説かれていても、その方程式を実行しなければ、いつまで経っても広宣流布はせず、我々も成仏をしないのです。ですから、経典に説かれていることを頭で理解するだけではなく、それを実践するということが大事なのです。

先ほども言いました通り、信仰というのは実践であります。折伏という実践が伴わなければ法は弘まらず、また我々も成仏をしないのです。この御文は、そういう意味では非常に大切であります。善くするも悪くするも全部、我々の行動ひとつにかかっているということになるわけであります。

次も『百六箇抄』の御文であります。

下種の摂折(しょうしゃく)二門の本迹 日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理(はごんもんり)とは是なり。(御書1700ページ3行目)

大聖人様は、この「下種の摂折二門の本迹」を顕す中で、「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む」と、このようにはっきりとおっしゃっているわけです。この「法華折伏破権門理」というのは、先ほども言いましたように、天台大師が『法華玄義』の中で述べている言葉でありまして、「法華は折伏して権門の理を破す」ということです。つまり、法華の思想は折伏そのものであるということであります。

そもそも仏様は、何のために世に御出現あそばされたかと言えば、それは自分が悟りを開くためばかりではなく、一切衆生を幸せにするために、この世の中に御出現して法をお説きあそばされているのです。これが仏様が御出現になられた目的なのです。『方便品』の中には、四仏知見等が説かれておりますけれども、まさに一切衆生をして成仏せしめるためなのです。

そこで、法を弘めていく方法にはどういったものがあるのかと言えば、それは摂受と折伏の2つの方法があるわけです。その中で末法の今日においては、摂受を用いるのではなくして折伏を用いるということです。

そもそも折伏というのは、一切衆生を救うという意味では最高の慈悲行であります。それから、御本尊様への最高の報恩行であるということも言えます。さらには、自らが即身成仏をしていく、一生成仏をしていくという上からするならば最善の仏道修行であるということです。

折伏というのは、ただ「大聖人様の教えはすばらしい」ということを言っているだけでは折伏にはならないのです。「あなたの考え方は間違いである」ということをはっきりと言ってあげることが大事なんです。

これは喧嘩腰に言わなくてもいいのです。「相手を破折しなさい」と言うと、なんか目を剥いて言わなければいけないと思うかもしれませんが、そうではないんです。折伏は慈悲行ですから、相手を思う気持ちが大切で、その気持ちは自然に一つひとつの言葉や、顔の表情にも表れてくるのです。この慈悲ということをよく覚えておかないとだめです。

例えば、相手が学会員であるならば、「『ニセ本尊』を拝んでいたら幸せにはなれませんよ」と、はっきり言ってあげることが大事なんです。やたらに言葉を強くして言うのではなく、破折すべき事柄をしっかりと相手に伝えるということが大切なんです。そうすると、たいてい相手の方は驚いたり怒ったりしますよ。けれども、そこでまた私たちは滔々(とうとう)と法を説くことができるのです。

折伏というのは、相手の考え方を折り伏すわけですから、間違いは間違いとして正してあげることが必要なのです。単に「この仏法はいいですよ」ということだけでは、結局、本当の折伏にはならないということであります。

要するに、折伏をするに当たっては、相手を救うという慈悲の気持ちが大事であり、相手を救うためには、相手の間違いをしっかりと正していくことが必要なんです。それが慈悲行であり、また仏祖三宝尊に対する最高の報恩行であり、さらには自らの罪障を消滅して成仏をしていくための最善の仏道修行になるということであります。


◆御義口伝◆

では、次の『御義口伝』の御文にまいります。

智者愚者をしなべて妙法蓮華経の記を説きて而強毒之(にごうどくし)するなり。(御書1748ページ11行目

これは、智者であろうが愚者であろうが妙法蓮華経の記、「記」とは成仏の記別のことですが、それを説いて而強毒之していく。つまり、正法を信じない者に対して、強いて正法を説いて仏縁を結ばせるということであります。ですから、折伏と同じですね。

このことは天台大師の『法華文句』の中にも、

「本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本 下452ページ)
とあります。つまり、本未有善の煩悩多き末法の衆生は、福運が薄いために自ら法を求めようとはしないのであるから、そこで敢えて三毒の心を起こさせて毒鼓の縁を結び、仏道を成就させるということになるわけです。

世間の人たちを折伏する中においては、それこそ自らこの法を求めてくるという人は、ほとんどいないと思います。ですから、私たちが折伏に打って出ていくのです。自分の家の門を開いて「さあ、いらっしゃい」と構えてみても、誰も訪ねてはきません。やはり、折伏に打って出るということが大事なんです。

今、言ったように、末法の衆生は本未有善ですから、自分から法を求めようとはしないのです。ですから、その者に対して強いてこの法を説いていくということなんです。その振る舞いが、まさにあの不軽菩薩の但行礼拝の姿なのです。不軽菩薩は、どんな人に対してでも「あなたは必ず仏に成れます」と言って、24字の法華経を説いて、相手の仏性に対して但行礼拝をしたのです。けれども、それを聞いた人たちは不軽菩薩を迫害するわけです。これは決して不軽菩薩が、相手に対して非難中傷をしたということではないんです。失礼なことは言っていないんですね。それでも迫害されるのです。

我々の折伏もこれと同様です。相手のことを一生懸命に思って説いても、いろいろなことを言われるわけです。しかし、それを乗り越えていくところに、本当の折伏の姿があるのです。我々が折伏をする中においては、そういういろいろなことが起きてくることは事実であります。しかし、その難を乗り切るところに仏道修行の尊さと功徳が存するということを知らなければならないのです。

我々は、この「而強毒之」ということを忘れがちでありますが、折伏するに当たっては是非とも心得ておいていただきたいと思う次第であります。


それでは時間がまいりましたので、今日はここまでといたします。今回、皆さん方にお配りした『折伏要文』のテキストは、自宅に帰ってからも是非、拝読をしていただきたいと思います。

いつも言いますけれども、支部では指導教師の方が「折伏しなければ幸せにはなれませんよ」と、皆さん方によくおっしゃると思いますが、これは私たちが勝手に言っているのではなく、仏様である大聖人様がおっしゃっていることなんです。折伏をするということが、我々の仏道修行の中でいかに大切であるかということは、このテキストの御文を読んでいただければよく判ります。

ですから、この『折伏要文』のテキストをお経机の上に置いて、勤行が終わったら一文ずつでも結構ですから拝読をしてください。あるいは1ページ、2ページでも結構ですから拝読をして、そして折伏に打って出ていただきたいと思います。

今日、宗門の僧俗を挙げて平成21年の「地涌倍増」の御命題達成へ向けて前進をしております。平成21年までの3年間の闘いは全部ここに絞っているわけであります。ですから、皆さん方には、1日に一文でも結構ですから、この『折伏要文』を拝読して、そして折伏に立ち上がられんことを心からお祈りいたしまして、本日の講義を終了いたします。



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