大白法

平成19年2月16日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


back      index      next



総講頭・柳沢委員長に聞く
「行動の年」の信行について


−昨年末に、立正安国論正義顕揚750年特別御供養の第1回を各支部とも無事に終了し「行動の年」を清々しくスタートして、もう50日が経ちました。

本年の初登山会の御目通りの時に、御法主日如上人猊下に対し奉り、第1回の皆さん方の御供養(目録)を御奉呈申し上げることができました。ここに我ら一同法華講の面目を保つことができ、まことにありがとうございました。


−今回は、「行動の年」の本年の誓願を満足できる信行について伺いたいと思います。

それは、一言で言えば、自我を捨てて真の信心をしていくことですね。これは大聖人様が『立正安国論』の中にきちんと教えてくださっているのですが、我々は知らないうちに、それぞれの生い立ちや環境、また見聞し学んだことの経験を経て、考え方も偏り、それぞれに自我を持っています。これは、大聖人様の教えと比べたら当然低いものですが、それを捨てきれず、持ったまま大聖人様の教えの中に入って来るのです。それをどこかで捨てなければだめですね。

では、大聖人様の教えはどうかというと、判っても判らなくても言われた通りに行うのです。ところが、御授戒の時の誓いを忘れ、行から入ることを自我が許さないんですね。「なぜ、そういうことをしなければならないんだ」と言ったり、自分が理解できないことはやらない。したがって自我を捨てないと真の行には入れません。行から入るとどうなるかというと、「大聖人様の仰せられた通りになる」ということです。

人はそれぞれに苦しみを背負って生活しており、この苦しみをどうすれば解決していけるかが判らない。しかし解決したいと思って、銘々が自分の知識を頼りに努力していくのですが、ややもすると自分の気に入ったものを受け入れるということに陥りやすいのです。幸せになる教えというのは、「良薬口に苦し」でたいがい気に入らないことを言われます。それが行です。そして、朝夕の勤行、また御題目を唱えていく行の中で観じてくるのです。それが、本年の誓願を満足させる信行のスタートです。

お釈迦様の付嘱を受けている天台大師様は、観念観法の修行ですから、深山幽谷に入って雑念を払うということが必要になります。禅定を保たないと、煩悩が障って正しく実相が映らないからです。海印三昧、つまり心が静かに波一つ立たないのであれば、周辺の木々、雲にいたるまで間違いなく写し取ることができる、これは雑念のないことの例えですね。お釈迦様の教えは、御本尊様がないんですから、自分の心に禅定を保たなければだめなんです。

ところが波風が立たないように雑念を払うなんて、そんなことを言っても末法の凡夫には無理なんです。そこに大聖人様が観心の御本尊を顕わされる。そして言われた通り御本尊様を固く信じて、南無妙法蓮華経と多年にわたって唱えていきますと、大聖人様の、直ちに正観に達するとの御意を観じてきます。さらに、固く信じて唱えていくことによって六根が清浄になり、実相を正しくキャッチし、ありのままを映すということです。ただしその条件は、不自惜身命、不退転の信心です。

さらに一生成仏の信心を続けていくと、「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識(し)る者は世法を得べきか」(御書662ページ)と仰せられるように、なんとなく実相を観じるようになれるのです。このことを私は確信を持って申し上げられます。


−それでは次に、『立正安国論』正義顕揚ということについて伺いたいと思います。

それにはまず、大聖人様の御化導と『立正安国論』の由来を、よく知っていなければなりません。それは大聖人様が立宗宣言以来、鎌倉に出られての布教と、当時の鎌倉がどんな社会であったかということを頭に人れておくと判りやすいですね。

大聖人様の御在世当時も、「故に正嘉元年に大地大いに震ひ、同二年に春の大雨に苗を失ひ、夏の大旱魃に草木を枯らし、秋の大風に果実を失ひ、飢渇忽ち起こりて万民を逃脱せしむること金光明経の文の如し」(同144ページ)と、謗法の報いによる災難が続き、民衆はたいへんな苦しみの中にあったんです。『安国論』では冒頭に、「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち、広く地に迸(はびこ)る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢えて一人も無し。然る間、或は利剣即是の文を専らにして西土教主の名を唱え、(中略)若しくは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀れみて国主国宰の徳政を行なふ。然りと雖も唯肝胆を擢(くだ)くのみにして弥飢疫に逼(せま)り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。臥せる屍を観(ものみ)と為し、並べる尸(かばね)を橋と作す。観(おもんみ)れば夫(それ)二離壁(じりたま)を合はせ、五緯珠(ごいたま)を連ぬ。三宝世に在し、百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰へ、其の法何ぞ廃れたるや。是何なる禍に依り、是何なる誤りに由るや」(同234ページ)と、度重なる災難による惨状はどのような原因によるのでしょうかとの問いを立てられます。

そして、「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てヽ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(同)と。この大事なところが判れば、あとは問題はないんですが、「悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮(とこしなえ)に謗教の網に纏(まつ)はる」(同250ページ)という姿が現実です、そこで、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」(同)と、大聖人様が『立正安国論』をもって幕府を諌暁されたのであります。


−その「女国論』を幕府に提出あそばされてから750年目が平成21年なんですね。

そうですね。この『立正安国論』正義顕揚750年を『立正安国命』という諫暁書を幕府に提出してから750年目というとらえ方だけでは御意に副(そ)わないんですね。このことは、750年も前の頃から、四条さんも富木さんも、大聖人様から「題目を唱えていきなさい」と、事細かに御指南いただいて、信心の生活をしてきたんです。その後、日興上人様、日目上人様と、代々の御法主上人猊下のもと法統連綿と続いてきておりよす。平成21年は、さらにその先、未来へ妙法広宣流布が続いていく、その途中なのです。長く続くということは「一軒一軒の生活が、歓喜に満ちた信心になっていなければだめだよ」と教えて、目覚していない者に自覚をさせていくことですね。そうして出来上がってくる法華講の生活が、正義の顕揚された姿ですから。この正義が、邪義によって苦しんでいる全世界に弘まっていくこの大転換点が、私は平成21年の『立正安国論』正義顕揚750年の大きな意義だと申し上げたいのです。

そこに御報恩謝徳の上に、地涌倍増と7万5千名の大結集が、どうしたら実現できるかです。ある一点で7万5千名の法華講員が総本山に集結するその背景に、個々それぞれの信仰生活があるんです。このことを、導いていく側の我々が、しっかりと意識していくことです。それはどういうことかと言いますと、成仏に向かってその直道をまっしぐらに進んでいく信心ということです。


−成仏の直道とはどういうことでしょうか。

『一生成仏抄』にこのことが、よく示されています。我々は即身成仏ということを、常にやかましく言われてきます。成仏と聞くと先入観として、お釈迦様のような全知全能の姿を思い描くかも知れませんが、大聖人様はそのようなことを言ってはおられません。

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はヾ全く妙法にあらず、麓法(そほう)なり。鹿法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべき故に、一生成仏叶ひがたし」(同46ページ)と。我々一人ひとりがしている朝夕の勤行等の行体行儀は、末寺の御住職・御主管から教わったり、先に信行に励んでいる先輩を通じて身につけてきたものです。それがそのまま成仏の直道だと思えないとしたら、それは自分のほうに余念、つまり世間の考えや自我があるから、そう思えないんです。御本尊様への信があれば、自分の今やっていることに対して顕著なる利益を感じます。もし感じないのであれば、考えを改めなけれはなりません。我々は世間で教育を受けてきている故に、どうしても世間の価値観を物差しにしてしまうんです。また、この世間の生活と妙法の生活の両方をうまくやろうと思っても、できません。

よく判っていただきたいことは、今言ったように、凡夫即極の即身成仏というのは、私たちの信心の生活であるということです。御本尊様の大慈大悲で凡大が慈悲の振る舞いができ、他人の苦しみを抜き、楽を与える折伏の行をもって徳を積み、さらに仏法僧の三宝尊への御報恩謝徳、殊に御供養をする毎日毎日が、即身成仏の生活です。その基本は年間実践テーマ、すなわち「勤行と唱題で、歓喜の行動」「僧俗一致の折伏実践で、地涌倍増」「寺院参詣並びに家庭訪問で、人材の育成」です。

そして、これらすべての根本として、恩をよく教えることです。法界が恩によって成り立っているということ。よた、自分たちのやっている徳行の振る舞いによって、天から見捨てられないんだということですね、たとえば、「御報恩御講に出てきなさい」と言っても、御講と自分との関係が判らず、御講に参詣しない人がおりますが、これを放置しておいてはいけません。そういう人の所へ行って、「過去2〜3年間を振り返ってご覧なさい。巡り合わせが悪くなっていないか。それは不知恩をやっているからだよ」と言えば、はっとするはずです。恩は、我々が各家庭に教えていかなければ、どこにも教えてくれるところはありません。

また、広布唱題会などにも出てこないのは、御題目を軽視しているからです。唱題をするには、その時間を生み出すために、否応なしに生活を整理しなければなりません。今の人は、人生に必要な知識は書物で学べるもので、唱題に励んでもそれが得られないと思っていますが、そのような考え方では一生を棒に振ってしまいますよ。唱題によって、大聖人様の御意が次第に判ってくるんです。それは六根が清浄になり、身体全体で知るからです。御本尊様に手を合わせながら生活の中に現れる利益を知らない講員を、一人も出してはなりませんね。


−判りました。あらゆる発展の土台となり得る、また、あらゆる人々を救っていける法華講の生活を確立していきたいと思います。ありがとうございました。





「行動の年」各支部の実践躬行


○蓮久寺支部(小田原市)

御法主日如上人猊下の「本年中にエンジンをかけて、明年は1月1日からダッシュしてもらいた」(趣意)との御指南を昨年12月の御講で御住職・松尾器道御尊師は拝読され、年内に折伏の準備を調え、「行動の年」は元日から皆が一斉に折伏の行動を起こすようにと御指導なさいました。

これを受けて役員会では、全役員が「決起の年」の反省と「行動の年」への決意を述べました。さらに、溝頭より過去5年間の折伏データが示され、蓮久寺支部は何月の折伏が弱いか、それを強くするにはどうするか、各部・各力面は来年はどうしでいくかという検討を行い、それぞれの活動予定が立てられました。そして、お寺のロビーには「折伏資料コーナー」が設けられ、折伏推進委員が作成した小冊子『折伏の人事』や『正しい宗教と信仰』の主な項目を印刷したものが用意されました。

「行動の年」への助走が始まったことを機に折伏への気運が高まり、年の暮れ、箱根に本部を持つ新興宗教団からの脱会者3世帯の家族が、次々に入信しました。その方々は、口々に「多額の寄付を要求され苦しんでいる、元仲間がまだまだいる。なんとか一人でも多くの人を救っていきたい」と、折伏への意欲を語っています。

また大晦日には、因習深い辺境の地域でがんばっていたY婦人の葬儀が蓮久寺会館で行われ、その地域から、バス、2台分もの弔問の方々が来られました。日蓮正宗の葬儀を初めて見た参列者は、葬儀の様子とY婦人の清らかな成仏の相を見て、感嘆の声を上げていました。この葬儀を通して、Y婦人のご主人や子供たちが一層の信心に奮い立ち、故人が常に願っていた一家、一族の信心が動き始めたのです。

こうして迎えた新年、御住職は元旦勤行において、@御命題達成という御法主上人猊下の御指南を、この自分に与えられたものとして拝すること、A「行動の年」の本年が蓮久寺創立25周年に当たり、その記念法要を9月に行う予定にしていること、Bそてしてこの時までに折伏誓願目標を必ず達成していくことと御指導されました。

そして1月度広布唱題会の翌日より毎日、午前10時から1時間の唱題行が開始され、終了後には御住職を先頭に講頭・役員が、年始にお寺に来られなかった世帯を一軒一軒家庭訪問し、行事予定が載っているカレンダーを配りながら「行動の年」の意義を説明し、御報恩御講参詣の啓蒙や下種先の吸い」げなどが行われました。

また、第3金曜日には婦人部中心の座談会が行われ、さらに第3日曜日を「折伏行動の日」と定め、午前10時の唱題の後、参加者一同は終日活動に動き、夜7時には活動報告会が行われています。

こうした昨年末からの取り組みにより、1月1日、3日、14日、19日、そして「折伏行動の日」の21日にそれぞれ折伏が成就し、勧誡1世帯を含む5世帯の方々が入講されました。我が支部は「歓喜の行動」を合い言葉に、皆が折伏に家庭訪問にと笑顔で動き、焚き火の周りに自然に人が集まるような暖かい講中をめざして、今日もがんまっています。


○要行寺支部(富士宮市)

本年「行動の年」も早2月。全国の各支部においても、昨年の暮れより助走を開始し、本年1月1日よりエンジン全開でスタートダッシュしておちれることと思います。

要行寺は総本川第9世日有上人の御開基です。そこには開創以来520余年の歴史があり、何代にもわたって菩提寺を護ってこられた先師・先達の方々の筆舌に心くせぬ護法の赤誠によって今があります。

これまで要行寺支部では、御隠尊日顕上人猊下より、「一切を開く鍵は唱題行にある」との御指南を賜ってより、個々に各家庭で唱題行を行ってまいりました。しかし講中の意見として、「平成21年の御命題達成に向けて、寺院で唱題を行いたい」旨の要望があり、「365日、唱題行を行おう」との結論に達しました。かくして平成18年9月1日より、佐野講頭をはじめ有志が集い、住職と共に夜6時半より勤行、終了後に1時間の唱題行を開始いたしました。

また我が支部は、年間の折伏目標を15世帯として毎年かんばっております。一昨年の平成17年も、なんとか年末の12月30日に達成できて喜んでおりましたが、昨平成18年も厳しい状況でした。11月の時点で何とか14世帯まではこぎ着けたものの、あと、1世帯がなかなかできません。しかし御法主日如上人猊下の「今年の目標は必ず達成せよ」(趣意)との御命題に、なんとかお応え申し上げたいとの願いから皆の唱題に熱が入り、12月31日に世帯家族全員が御授戒を受けて御本尊様を御安置でさ、目標の15世帯を見事達成できました。

また、本年の実践テーマにもありますように、一人でも多くの方々に寺院の行事に参加していただこうと、住職並びに唱題行に参加している一人ひとりが、足が遠のいている講員さん宅や檀家さんのお宅に、軒一軒伺って、御報恩御講への参詣をお話して回りました。その結果、ふだんの参詣者の約2.5倍の参加をもって、初御講を盛大に奉修申し上げることができました。これは平成の学会問題が起きて以来最高の御講参詣人数となり、やればできるとの確信につながりました。

御法主日如上人猊下は、「僧俗一致という意味は、僧侶と信徒か広宣流布を願って一緒になって闘っていくということであります」(大日蓮722号)「広宣流布は僧俗一致です。僧俗一致をもって初めて達成できるのであります。よって僧侶だけではできません。信徒だけでもできません。やはり僧俗が一体となって広宣流布を達成するのであります」(同724号)と御指南であります。これからもこの御指南をお護りして、僧俗一体一致協力して折伏に地域広布に邁進し、唱題と家庭訪問で平成21年の御命題達成に向け全力で前進してまいります。




back      index      next