◇『この病と共に広布に生きる』 勝妙寺支部 T・T
皆様、こんにちは。信じられないかも知れませんが、私は、世界の人口65億人の中でただ1人の人間であることが判りました。本日は、このことについてお話したいと思います。
平成16年の暮れ、私の体に異変が現れ始めました。突然目眩がして、さらに両手の握力がなくなり、ふらついて歩けなくなったのです。突然のことで、何が何だか判りませんでした。今思えば、その1年ぐらい前から、仕事中に背中が痛み、頭がふらつき、突然嘔吐したり、また足の運びに異常を感じたりしていましたが、それは仕事の忙しさとストレスからくる症状だと思っていました。
平成17年に入って正月8日のこと。平成3年に勝妙寺支部が結成されて以来、苦楽を共にしてきた最も信頼できる、そして、兄弟同然に接してきた同志が亡くなり、私は激しく落ち込みました。そのことで私の症状はさらに悪化しました。
小脳が半分ない?
4月11日、仕事中に頭がボーッとして外回りを続けられない状態になり、急遽、会社で指定されている高崎市の病院に行きました。症状を話すと先生は、「それはストレスだな」とおっしゃり、念のため頭部のMRI検査をしてくださいました。そのときは、まさか頭に異常があるとは思っていませんでした。検査を終えて待合室で待っていましたが、待っている人がだんだんと減っていき、とうとう最後の一人となってしまいました。
私は次第に不安になり、やがて先生に呼ばれ、診察室に入りました。先生は私に、「何回も検査結果を診たけれど、全くもって考えられないことだが、君の小脳が半分ないのだ」と言いました。私は小脳がないとはどういうことなんだろうと思いながら、先生の不安げな態度に、頭が真っ白になりました。先生は「このようなことは、医者になって初めてだ。絶対に有り得ないことだが、現に君はここにいる。普通、小脳がなければ、100%生きていけないのだが」と言い、しばらく考え込んでいました。そして、精密検査を受けるようにと私に言ったのです。
この夜のことは、今でも忘れられません。ちょうどこの日は、お寺で唱題会の日でした。診察を終えてお寺に行ってみると、唱題会はもう終わっていました。血の気のない私を見て、御住職・野村光照御尊師は心配してくださり、すぐに話を聞いてくださいました。奥様も心配して待っていてくださいました。
とにかく一日も早く、ということで翌朝、中央外科病院に行きましたが、結果は同じでした。ここでも、こういう症例は前例がなく、医師もどうしてよいか判らず、答えを出してはくれませんでした。そこで私は、東京のもっと大きな病院で診てもらおうと考え、支部の人の紹介で、都立広尾病院に行くことになりました。6月3日に入院し、脳に関しては世界的な権威の山田先生の帰国を待って、診察してもらいました。
「先天性左小脳半球低形成」
そうして判ったことは、私の左の小脳は生まれつき形成されなかった、いわゆる先天的に小脳がない人間だということでした。先生は私に次のように言いました。「もし事故等によって小脳を失ったのならば、100%死亡だったでしょう。有り得ないことですが、万に一つ助かったとしても、運動機能は完全に不能で、歩くことも立ち上がることもできません。手足を動かすこともできませんし、言葉を話すことや理解することも、意識さえも全くない状態となるでしょう。それでも奇跡です」と言われました。
さらに先生は、「しかしあなたの場合は、小脳が初めから形成されなかったので、自然と右側の小脳でカバーしていたと考えるべきでしょう。そのため、右側の小脳が、普通の人の2倍の大きさになっています。しかし、このようなことは世界に例がありません。失礼な言い方ですが、今、生きていることが不思議なことです。若い頃は右半分でカバーできていたが、年を取るにつれて、あるいは何らかのストレスまたはショックで、このような状態になったと考えられます。とにかく無理は禁物です」と厳しく言われました。
最終的な見解は、「先天性左小脳半球低形成、すなわち左小脳が欠損していて、右小脳であらゆる動作をしていたが、このたび出てきた左半身のしびれ、握力低下、体幹機能障害等の症状は、右小脳の機能低下により起こるもので、無理は絶対できない。無理をすると体幹機能が極端に低下し、日常生活が全くできなくなる。そのことをよく踏まえて生活していくことが大事で、他に症例がないために、それ以外は答えられない」というものでした。
私は、これを聞いて愕然としましたが、気を取り直して、毎日ベッドの上で勤行・唱題に取り組みました。一時はどうなるかと不安で、死をも覚悟しましたが、唱題の功徳により前向きな姿勢を失うことなく、6月22日に退院できました。
この病と共に生きる
この病気を知らされたとき、言葉にならないほどのショックでしたが、冷静に考えると、よく今まで人並みに生活してこれたものだと、御本尊様に心から感謝しました。
私は日蓮正宗の信仰をしている家に生まれました。それ故、他の信仰を知らず、日蓮正宗の信仰を根本に、今まで生活してきました。どんな困難も信仰で乗り越えてきました。生まれてから今日まで、御本尊様に守られて生きてきたのです。いや生かされてきたと言うべきです。脳の検査に当たって全身の検査も受けたとき、胃も病んでいました。胃腺腫というガンの一歩手前でした。あと3ヶ月もすれば、間違いなくガンになっていたであろう胃も、このとき内視鏡で簡単に治療できました。
また、以前の私は、仕事中に病院へ行くことなどありませんでした。それ故、あのまま我慢して外回りを続けていたら、重大な車輌事故を起こして取り返しのつかないことになっていたかもしれません。医者ぎらいな私が病院に行けたのも、御本尊様がその時間を作ってくださったからだと思います。同志の人の紹介でよい病院もすぐ手配してもらえ、外国に行って滅多に日本に帰って来ない、世界的名医にも診ていただくことができました。
退院した当時は、平衡感覚がおかしく、なかなかまっすぐ歩くことができませんでしたが、毎日毎日、必死の唱題と歩行訓練をした結果、今では普通に歩けるようになりました。一時はあきらめていた仕事への復帰も果たし、最初は3時間ほどしか勤務できませんでしたが、今では6時間できるようになりました。とは言っても、天候によって体に変化が生じ、疲れてきても体のバランスが狂ってきます。どのように説明すればよいのか判りませんが、何かをしなければと自分の意志を働かせて体を動かそうと思っても、体は動きません。自然なリズムでないとダメなのです。ですから、自分の体であるけれども、借りてきた体のようなのです。普段もちょっとした動作で変化が起こります。実際、辛いことはありますが、罪障のあるこの身としては、御本尊様に毎日唱題できることを心から感謝しています。
また、不思議なことに、自転車は全く乗れなくなりましたが、車の運転には支障がないのです。さらに不思議なことは、私たち夫婦は、毎月、総本山に御登山していますが、総本山に着くと頭は嘘のようにスッキリと晴れるのです。本当に不思議です。私の小脳は、これからどんどん老化していくことはあっても、よくなることは絶対にありません。しかし、どんなに辛いハンデを背負っていても、何が起きても、この病と共に生き、命ある限り、護法のために少しでもお役に立ちたいと願っています。
『転重軽受法門』に
「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生に尽きずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかヽる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっと消へて、死に候へば、人・天・三乗・一乗の益を得る事の候」(御書480ページ)
とあります。未来で受ける重き苦しみを、今、軽く受けているのだということが示されています。
また、『妙心尼御前御返事』には、
「病あれば死ぬべしという事不定なり。又この病は仏の御計ひか。その故は浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべき由とかれて候。病によりて道心は起こり候か」(同900ページ)
とあります。この御金言を拝するに、病は私たちを成仏に導いてくださるための御本尊様の御計らいによるもの、またその病があるからこそ、なお一層強盛に信心に励んでいけるのであり、いわば病は、成仏のための仏道修行の力となるものだと真剣にとらえ、これからも病気に負けないようがんばっていきます。
今までの私の半生を振り返ってみますと、勝妙寺の法華講員となることができたことが、まず有り難いことだと感じています。法華講結成以来15年間、御奉公させていただく中で重要なお役目をいただけたことを、心から感謝しています。
現在は病ある身でありますので、お役を受けることはできませんが、病には絶対負けずに実証を示し、近くは来たるべき平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年、遠くは広宣流布に向かって御奉公し、一生を捧げ悔いない人生とさせていただきますことをお誓いします。