大白法

平成19年6月1日号


主な記事

<1面>

<2〜5面>

<6〜8面>


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台湾で寶林山妙徳寺板御本尊入仏法要 並びに 本興院創立10周年記念法要
第3回中華民国法華講総会には1万余名が参集


このたび御法主日如上人猊下には、御登座以来、初の海外御親修として5月18日から22日までの日程で、中華民国台湾に御下向あそばされた。まず、19日には費林山妙徳寺板御本尊入仏法要、20日には第3回中華民国日蓮正宗法華講総会、そして21日は、台湾広布の核である台北市・本興院の創立10周年記念法要が奉修された。

総会会場内の全体像

この御親修には、総監・八木日照御尊能化、海外部長・漆畑行雄御尊師、内事部より大石寺理事・小川只道御尊師、同理事補・小林道剛御尊師が随行し、来賓として妙縁寺住職・光久日康御尊能化、宗会議長・細井珪道御尊師をはじめ有縁の御僧侶・寺族が日本及びアジア各国から多数出席され、来賓信徒として法華講大講頭の永井茨城地方部長はじめ井ノ口連合会会計部長、篠田連合会編集部長が出席した。

台湾法華講は、結成当初4千余名の信徒数であったが、現在2万5千余名と6倍余に大躍進し、まさに地涌倍増を現実のものにしている。


御法主上人猊下御一行は、18日に成田国際空港を御出発され、大勢の信徒がお出迎え申し上げる台湾桃園国際空港に御到着あそばされた。


寳林山妙徳寺板御本尊入仏法要

翌19日、台北より南西へ車で約1時間半程の位置にある苗栗県の實林山妙徳寺において、板御本尊入仏法要が奉修された。朝から小雨模様であったが、御法主上人猊下御到着の時には雨も上がり、この日の慶事を寿ぐかのようであった。大勢の僧俗が妙徳寺玄関前でお待ち申し上げる中、御法主上人猊下は午後1時に御到着あそばされた。控え室に入られた後は、直ちに妙徳寺住職・石塚正連御尊師、台湾常駐の御僧侶、来賓御僧侶、来賓信徒、台湾信徒代表、寺族へ御目通りを許された。

午後2時、御法主上人猊下大導師のもと、法要が開始され、石塚住職による御本尊御開扉、八木総監による献膳の儀に続き、読経、慶讃文奉読、唱題と如法に奉修された。

この後、御法主上人猊下より御言葉を賜った。御猊下は、本宗の寺院はそれぞれの地域における大法弘通の法城であり、寺院が建立されるということはその地域の正法弘通が前進している証であると、台湾広布の洋々たる現状を喜ばれ、さらに、已今当三説超過の法華経の肝心たる妙法蓮華経の広大無辺なる功徳を深く信じ、大聖人の教えのまま自行化他の信心に励むとき、必ずや即身成仏の本懐を遂げることがでさるとの確信を持って講中一致団結して広布に向かうならば、仏国土を築くことができると仰せになり、今後の信心増進を願われた。

引き続き式の部に移り、はじめに許童栄中華民国法華講副講頭が経過報告を述べた。次いで宗務院を代表して八木総監、漆畑海外部長より祝辞がそれぞれあり、最後に石塚住職より謝辞が述べられ、法要はとどこおりなく終了した。

この後、御法主上人猊下には妙徳寺境内において羅漢松の御手植えに臨まれた。本堂において記念撮影が行われたあと別棟の研修センターを御視察あそばされ、午後5時、僧俗がお見送り申し上げる中、御法主上人猊下は妙徳寺を後にされた。


第3回中華民国日蓮正宗法華講総会

20日は雨模様の1日となったが、第3回中華民国日蓮正宗法華講総会が桃園県の国立体育学院総合体育館において、目標を超える1万250余名が大結集し、盛大に開催された。台湾各地からの信徒が入場すると少年部・青年部・婦人部等がパフォーマンスを繰り広げ、総会を盛り上げた。

総会会場の外観

定刻の午後2時、御法主上人猊下がお出ましになられると、舞台上段に設(しつら)えられた祭壇に奉掲された御本尊に向かい、御法主上人猊下の大導師のもと読経・唱題を行った。

総会会場における勤行の写真

式の部に移り、御法主上人猊下並びに来賓が舞台上に御着席。はじめに中華民国法華講の林徳晃講頭が歓迎の挨拶を述べた。続いて、八木総監、漆畑海外部長よりそれぞれ、台湾広布の目覚ましい進展と1万人か超える大総会を祝して祝辞が述べられた。祝電が披露された後、日本からの来賓信徒を代表して永井法華講大講頭が祝辞を述べた。

ここで御法主上人猊下より御言葉を賜った。その中で御法主上人視下は、『立正安国論』は世界中のすべての人々の幸せと平和を願って、国土退廃の根本原因が間違った教えにあることを教え、謗法への帰依をやめるようにと認められた諌言書であることを御教示。本宗僧俗は日本のみならず世界の人々に対し折伏を行い邪義謗法を破折しなければならないとされ、「地涌倍増」と「大結集」の達成を念願すると仰せあそばされた。

このあと、少年部の代表8名が決意発表を行い、御法主上人猊下に決意文を奉呈。続いて青年部代表9名も同じく決意発表の後、決意文を奉呈申し上げた。さらに、講頭・副講頭・9本部の代表11名が決意を発表し、御法主上人猊下に決意文を奉呈申し上げた。

霑心合唱団60名が合唱を披露し、最後に本興院主管・石橋頂道御尊師より丁重な謝辞が述べられた。そして総会の締めくくりとして、会場の全員が一体となっての「地涌讃徳」の大合唱をもって閉会となった。夕刻からは、台北市内に会場を移して御法主上人猊下御臨席のもと祝賀会が催された。


中道山本興院創立10周年記念法要

21日には、台北市の中道山本興院において、御法主上人猊下の大導師のもと本興院創立10周年記念法要が奉修された。

本興院は中華民国台湾における日蓮正宗の法城第1号、またアジア初の広布の拠点であり、平成9年4月に前御法主日顕上人猊下の御親修を戴き、盛大に落慶入仏法要が奉修された。それから早10年、落慶入仏法要の砌に日顕上人猊下が「仏法の西漸の相ここにあり本興院の緇素に幸あれ」とお詠みになられた勢いのまま躍進を続け、現在はさらに、一人ひとりの日々の信行の充実を図っている。

午前9時、本興院に御法主上人猊下が御到着あそばされ、直ちに御僧侶・信徒・寺族の御目通りが許された。午前9時45分に御法主上人猊下がお出ましになられ、八木総監の献膳の後、読経・焼香・唱題と如法に修された。

ここで御法主上人猊下より、末法尽未来際に至るまで一切衆生を救済あそばされ無明煩悩の大病を治する大良薬たる大法の弘通に励み、自他の幸せを築くようにとの御言葉を賜った。

式の部に移り、はじめに林徳晃講頭より経過報告が行われた。その後、八木総監が祝辞に立たれ、今後さらに50年、100年と正法広布をめざす上から見るとき、今日はまだ揺藍(ようらん)期とも言え、故に本門戒壇の大御本尊に絶対の信を捧げ、唯授一人の血脈を承継あそばされる御法主上人猊下の御指南を拝するという最も中心となる信条を、一人ひとりがしっかり理解し肚に据えて信行の基盤確立を図ることが大事であると述べ、ますますの活躍を願われた。次いで漆畑海外部長が祝辞を述べられた。最後に石橋主管より丁重な謝辞と決意が述べられ、法要はとどこおりなく終了した。

記念撮影が行われ、御法主上人猊下は参列の僧俗代表の見送りを受けられ、本興院を後にされた。

すべての行事を終えられた御法主上人猊下御一行は、翌22日午後の便で台湾桃園国際空港を発たれ、御機嫌麗しく御帰国あそばされた。




立正安国論正義顕揚750年記念事業
佐渡塚原跡碑建立法要


5月16日、新潟県佐渡市目黒町において、佐渡塚原跡碑建立法要が、御法主日如上人猊下大導師のもと厳粛かつ盛大に奉修された。宗祖日蓮大聖人の御霊跡として由緒ある塚原の跡地を、日蓮正宗として、かねて購入・取得していたが、このたび立正安国論正義顕揚750年記念局の記念事業の一環として、この地に「塚原跡碑」の建立がなされ、今回の法要に至ったものである。


佐渡塚原跡碑

◎御法主日如上人猊下御言葉(妙護寺お立ち寄りの砌)

このたび立正安国論正義顕揚750年記念局といたしまして、ここ佐渡に、塚原跡碑を建立することにあいなり、これから現地に赴きまして、その建立法要を行うことになっております。

皆様方も御承知のとおり、大聖人様の御一生は「大難四カ度、小難数知れず」と仰せられたように、まことにもって苦難の連続でこざいました。なかんずく竜の口の発迹顕本以降、佐渡配流に至るまで、そしてまた佐渡在島中の大聖人様の御苦難というものは、それこそ筆舌に尽くせぬものがあったと拝する次第でございます。

しかし、そのなかでまた大聖人様は、人本尊開顕の書と言われる『開目抄』をお認めあそばされ、また法本尊開顕の書と言われる『観心本尊抄』を認められ、さらにまた『当体義抄』『如説修行抄』等と、重要御書をこの佐渡においてお認めあそばされております。また塚原問答をはじめ、そのほか様々な艱難辛苦の広布への道のりを、御身をもって私どもにお示しあそばされた次第であります。

そうしたなかにおきまして、今回、宗門といたしまして塚原跡碑を建立することは、まことに意義のあることであると、このように存ずる次第でございます。特に御当地の御信徒各位には、今日のこの塚原跡碑建立法要を契機といたしまして、さらにまた一段と御精進くださることを心から願う次第でございます。

本日の法要に当たりまして、一言、申し上げた次第でございます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


○経過報告 

謹んで佐渡塚原跡碑の建立の経緯について報告させていただきます。

宗祖日蓮大聖人は文永8(1271)年9月12日、竜の口法難ののち、10月28日に佐渡に着かれ、11月1日に塚原に入られました。塚原の三昧堂で約半年間、さらに約2年間を一谷で過ごされました。大聖人が赦免となったのちは、阿仏房・中興入道らの信徒が日興上人およびその門弟の指導のもとに信仰を持ち、大聖人御入滅後も如寂房日満・大和房日性等の日興上人門下が佐渡の弘教に努めました。しかし、時の経過と共に次第に総本山大石寺と疎遠になり、塚原の史跡も忘れ去られていきました。

塚原に関しては、宗祖滅後200年頃、行学院日朝が『元祖化導記』に初めて佐渡の国「新穂郷内塚原」と記し、それから100年後の天正18(1590)年に京都妙覚寺の日典が佐渡に来て新穂郷を中心に史跡を探索し、郷内にあった真言宗の弘樹寺の僧が大聖人と問答をしたという伝説をもとに、その寺の一角にお堂を造ったのが、塚原の史跡寺院と言われる根本寺の始まりと言われております。

しかし、昭和に入って郷土史家の橘法老氏が明確に「根本寺否定説」を主張し、それを受けて田中圭一氏がさらに綿密な研究を重ねた結果、根本寺が存在する新穂大野は、古来、日吉神社の領地てあり、死人の捨て場所や流人を置く所ではなかったこと、慶長5(1600)年の『慶長検地帳』には根本寺の名も、根本寺の前身である正教寺の名前も見あたらないことから、根本寺はもっと後から造られた寺であり、そこは塚原ではなかったと断定し、その上で、本間重連邸や守護所との関係などから、この目黒町の地が塚原であったことは間違いないとしたのであります。

宗門におきましても、大正時代に第59世日亨上人が佐渡を踏査されました。また、昭和43年に第66世日達上人の御指示を受けて、当時の所化学衆による佐渡研究班が結成され、佐渡史跡の見直しを行い、その研究成果として、昭和56年刊行の『日蓮大聖人正伝』に、塚原は新穂ではなく、目黒町の地であろうと結論づけております。

佐渡研究班の調査開始以来、十数年を経た平成17年、全く思いも掛けない形で塚原跡のこの地を買収できることになりました。土地の買収には松田泰玄委員、並びに妙護寺総代・本井義之委員の多大な尽力をいただきました。土地購入は第67世日顕上人のお許しを戴き、かつ種々の御指南と御高配を賜って、目黒町字鳥居畑559番1ほか2筆、計2,187平方メートル(662坪)の土地を購入し、一部必要な土地については地目変更の手続きを済ませました。この届け出書類などの事務処理は、斎藤栄順委員が何度も当地に足を運んで事に当たってくださいました。この席をお借りして、斎藤委員、松田委員、並びに本井委員に甚深の謝意を表するものであります。

こうして塚原跡地を取得したものの、跡碑の建立は当分先のことと考えておりましたところ、御当代日如上人猊下より、立正安国論正義顕揚750年記念局の記念事業として、塚原の跡碑を建立してはどうかとの有り難い御指南を賜り、直ちに準備に取りかかりました。そして、本日の法要の運びとなった次第であります。

なお、中央の御法主上人猊下の揮毫を賜りました「塚原跡」の石碑は高さ3m90cmあります。また、向かって右手の石碑には塚原建立の経緯を記した碑文を、左手には郷土史家の田中圭一(元筑波大学教授)・山本仁(佐渡博物館長)の両氏から寄せられた、塚原配所に関する解説をブロンズ製の銘板にして掲示しております。

塚原配所に関する解説

なお、中央および右手の黒石はインド産の黒御影石、中央の赤みがかった台石は、埼玉県北部を流れる神流川上流で採れた万場天竜石で重量約12tの自然石です。左手の銘板を掲示する石は北海道夕張の赤石であります。これらはすべて、守護所跡の方向を向いて建てられております。また、跡碑の向かい側に置かれた2つの自然石は、四国愛媛の青石でありまして、これらは真南の方角、すなわち富士大石寺に向かって縦に並んでおります。

本日、ここ佐渡の地に総本山第68世御法主上人猊下をお迎え申し上げ、大導師を賜って塚原跡碑建立の法要を奉修できましたことは、宗開両祖の御照覧・御嘉納あそばされるところと拝察申し上げるものであります。さらに阿仏房をはじめとする佐渡弘教の先達にとって、本日の法要はまさしく永年の暗雲が晴れた瞬間であり、定めし大いなる歓喜に浴しておられることと推察いたします。

なお、御法主上人猊下におかせられましては、今日の法要を迎えるまで、筆舌に尽くせぬ御慈悲と尊い御指南を賜りましたこと、塚原跡碑の建立に関わった一人といたしまして、謹んで御礼申し上げます。まことにありがとうこざいました。

また、御隠尊日顕上人猊下の御慈悲に対し奉り厚く御礼申し上げます。

さらに、立正安国論正義顕揚750年記念局委員長・八木総監様、副委員長・藤本重役様、同じく副委員長・柳沢総講頭様をはじめ、本日御出席いただきました関係者の皆様にも、種々御指導・御協力をいただき、衷心より序く御礼申し上げます。以上、経過報告とさせていただきます。本日は、まことにおめでとうございました。




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