大白法

平成19年7月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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東京都世田谷区・大乗山善福寺が宗門に返還
法道院正蓮講支部が移籍し再出発


平成19年6月5日、自称正信会の者に不法占拠されていた東京都世田谷区の大乗山善福寺が25年ぶりに宗門へ返還された。当寺は、昭和43年4月19日、総本山第66世日達上人の大導師のもと落慶入仏式が執り行われ宗教活動を開始した。しかし、創価学会による昭和52年路線・教義逸脱問題の中、元住職の原田知道が正信会の者たちと共に本宗の金口嫡々唯授一入の血脈相承を否定し、御法主上人猊下を誹謗したのである。これによって、原田は昭和57年8月21日付で擯斥処分に付されたが、これまで当寺を不法に占拠していた。しかし、このたび、本人の死亡を機に当寺が宗門に明け渡される運びとなった。

当日は、渉外部長・秋元広学御尊師、庶務部副部長・斎藤栄順御尊師、渉外部副部長・梅屋誠岳御尊師、東京第二布教区支院長・野村淳信御尊師の立ち会いのもと、当寺の住職である木村信龍御尊師が赴任し復帰の作業が進められ、引き続き、返還の読経・唱題が修された。

また、東京第一布教区法道院から法道院正蓮講支部が移籍して当寺の所属信徒となり宗教活動が再開された。

現在もなお、擯斥僧侶により不法占拠されている寺院が全国に多数あり、一日も早くすべての寺院が返還されることが望まれる。



御書解説 『上野殿御返事』(御書1427ページ)
別名:竜門御書


一、御述作の由来

本抄は、弘安2(1279)年11月6日、大聖人様が58歳の御時に身延において認められ、上野郷主・南条時光殿に与えられた御書です。御真蹟は総本山大石寺に厳護されています。冒頭に「竜門の滝」の故事を示されていることから、別名を『竜門御書』ともいいます。本抄の追伸に、「此は熱原の事のありがたさに申す御返事なり」と仰せのように、熱原法難に際して21歳の若き時光殿が、命がけで援護奔走した功を讃嘆し、さらに強盛な信心を貫くことを激励された御消息です。


二、本抄の大意

まず、中国の黄河中流にある竜門と呼ばれる滝を、鮒(ふな)が登りきると竜になるという故事や、日本の平氏一門が、何代もかけて門番から殿上人となり、栄華の頂に昇るよでの労苦を述べられて、「仏に成る道、これに劣るべからず」と、成仏得道の至難なことを示されます。次に、舎利弗が60劫の間積み上げた菩薩の修行から退転して二乗の修行に堕ちた例や、大通結縁した者が三千塵点劫もの間生死に沈み、また久遠下種の者が五百塵点劫もの間、同様に悪道を流転したことは、第六天の魔王に誑(たぶら)かされて仏道を退転したためであると示されて、これらを他人事と考えてはならない旨を述べられます。

そして、疫病、蒙古襲来など騒然とした世にあって、成仏・不成仏の岐路に立つ今、「願はくは我が弟子等、大願を起こせ」「同じくは仮にも法華経の故に命を捨てよ」と、大願を起こして強盛な信行を貫き、妙法に殉じていく覚悟を促されます。

最後に、熱原法難に際して、時光殿が果たした不惜身命の信心と、見事な外護の任を讃嘆され、「上野賢人殿」と激賞されて本抄を結ばれています。


三、拝読のポイント

 熱原法難について

熱原法難は、大聖人様が本門戒壇の大御本尊を御建立される機縁となった法難であり、弘安2年に駿河国富士郡(静岡県富士市)熱原郷で起きました。これは、本門弘通の大導師たるべき日興上人の教化により、天台宗滝泉寺の住僧・下野房日秀等が帰伏改宗し、それにより多くの農民が大聖人様の信徒となったことに端を発します。滝泉寺の院主代・行智は、住僧や農民たちの改宗に対して強い怨嫉を生じ、鎌倉幕府の要人であった平左衛門尉頼綱を後ろ盾として、熱原の法華講衆への弾圧を企てました。そして同年9月21日、日秀師の田の稲刈りに神四郎等の法華講衆が総出となったのを絶好の機会と捉え、稲盗人(いねぬすっと)の名目を着せて、その場で取り押さえ、鎌倉へと送ったのです。

平頼綱は、熱原の法華講衆に対し、拷問をもって念仏への改宗を迫りましたが、神四郎らはこれに屈するどころか、さらに声高に御題目を唱え続けたのです。こうした不退の状況に怒り狂った頼綱は、10月15日、神四郎、弥五郎、弥六郎の3人(三烈士)を張本人として斬首に処し、他の17名は釈放となったのです。

この熱原の法華講衆の結束と、死身弘法の信仰に対し、機運を感じられた大聖人様は、10月12日、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。この法難に当たり時光殿は、身命を賭して熱原の法華講衆をかくまい、日興上人をはじめ僧侶方の外護に努めました。こうした法華講衆の支柱的存在であった時光殿は、幕府から不当で過重な公事をせめあてられ、自身が乗るべき馬もなく、家族も逼迫(ひっぱく)した生活を余儀なくされたのです。そのような中にあっても、大聖人様に御供養の誠を尽くしたことなどから「上野賢人殿」との呼称を賜ったのです。

私たちは、時光殿や熱原の法華講衆が示した不惜身命の信仰姿勢をお手本として、臆病な心や懈怠の心を自ら誡め、なお一層、正法護持と折伏弘通に向けて勇往邁進していくことが大切です。

 「竜門の滝」の故事

大聖人様は、仏道を成ずることの難しさを示す例として「竜門の滝」の故事を挙げられています。この故事によると、中国の黄河中流に、高さ10丈(約30m)にも及ぶ竜門の滝があり、鮒がこの滝を登り切れば竜になるといいます。このため滝のもとには多くの鮒が集まって登ろうと試みます。ところが、滝の水勢は強く、しかも鮒を狙う漁師や鳥獣が多く構えているため、千万が一も滝を登り切ることのできる鮒はいないのです。このことから中国では、難関を突破して栄達することの譬えとして「登竜門」という呼称が生まれました。

仏道を行ずる私たちにとって、この故事の示す鮒とは私たちのことであり、その行く手を阻(はば)む漁師や鳥獣たちは、成仏を阻む障魔の用きに他なりません。大聖人様は、たとえ仏法を受持しても、成仏の境界に到達することがいかに難しいかを、この故事をもって示されているのです。

また、この故事は、平成21年の御命題である「地涌倍増」と「大結集」を成就していくべき私たちの信行にもなぞらえることができます。講中一丸となって行く手に立ちはだかる障魔をはね除け、御命題の達成に向かって勇往邁進していきましょう。

 舎利弗や三五塵点の退転の例

大聖人様は、仏道を持つことの難しさの例として、舎利弗の退転と法華経の三五塵点の退転を挙げられます。

舎利弗は、60劫という長い間、菩薩道を行じ、いよいよ布施行が成就する時に、第六天の魔王がそれを妨げようとして婆羅門の姿を現じ、舎利弗に眼を布施するよう求めました。舎利弗は求めに応じて自らの眼を与えたのですが、婆羅門はその眼に唾を吐き、踏みつけてしまいます。それを見た舎利弗は、衆生を救済する意味に疑問を感じ、ひたすら自分のみが救われるように修行して、早く生死の苦から解脱した方が得策と考え、菩薩道から退転して二乗の道に堕ちてしまったのです。このことは、いかに仏道を持続することが至難なことであるかを示したものと言えます。

次に、法華経の『化城喩品第七』に説かれる三千塵点劫と、『如来寿量品第十六』に説かれる五百塵点劫の退転の話です。『化城喩品』には、太通智勝仏の第十六王子であった釈迦牟尼仏の法華経覆講によって妙法に結縁した衆生の中に、法華経の修行から退転して三千塵点劫もの間、生死を流転した者が多くいたことが説かれています。

また『寿量品』には、久遠成道の釈尊から法華経を聴聞し、成仏の種子を下された衆生でも、邪法に執われて退転したために五百塵点劫もの間、六道輪廻を繰り返してきたことが説かれています。その退転したきっかけは、仏道を障礙する第六天の魔王が国主などの身に入って、法華経の修行者を悩ませ、迫害したことによるものと示されています。

大聖人様は、熱原法難を背景に、「彼は人の上とこそ見しかども、今は我等が身にかヽれり」と仰せられ、舎利弗をはじめ三千塵点劫や五百塵点劫の退転の例は他人事ではなく、大聖人様とその門下の身の上のことであると仰せです。私たちは困難に直面したとき、退転して悪道を流転していくか、不退転の信心を貫いて成仏を遂げていくかという岐路に立たされることがあるでしょう。大聖人様は、そのような時こそ、「願はくは我が弟子等、大願を起こ」と、強く念願されているのです。

ですから、私たちはいかなる障魔が競っても、「善に付け悪につけ法華経を捨つるは地獄の業なるべし」(御書572ページ)との戒めを深く拝し、強盛で弛(たゆ)むことのない信心に立ち、成仏への大道をしっかりと励んでまいりましょう。


四、結び

御法主日如上人猊下は、仏道を行じていく心構えとして、

「一人ひとりが『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てヽ随力弘通を致すべき事』ということを心肝に染めて、一生懸命に折伏を行じることが、我々の一生成仏にとって極めて大事なことであると思う次第であります。もちろん『身命を捨てヽ』というのは、訳もなく命を無駄にするという意味ではなく、我ら人間に与えられた寿命という尊い時間を広布のために無駄なく使っていくということです。つまり、その尊い時間を大事にして折伏を行じていくということであります」(大白法707号)
と仰せられ、仏法のために身命を捨てるということは、限りある寿命という尊い時間を広布のために精いっぱい活用することであると御指南されています。

平成21年の「地涌倍増」と「大結集」の御命題達成は、僧俗が一致して果たしていく誓願であり、使命です。誰もが「死は一定」なのですから、無為に時を過ごしてはなりません。私たちは、大聖人様が『立正安国論』に示される仏国土の顕現という崇高な目的を成就すべく、妙法弘通に向けて日々励んでまいりましょう。




異流儀破折 顕正会
進む会館建設もその御本尊の正体は?


近年、顕正会では、「東北の(中路)盛岡市に会館を建てる」(平成19年3月15日付顕正新聞)、「千葉会館新本館本年秋に落成」(平成19年2月15日付同紙)などと、教団施設の建設を全国的に進めているようだ。

本年1月5日付顕正新聞によれば、現在、会館(事務所を含む)は、北は北海道から南は沖縄まで、36カ所に建っているようだ。さらに昨年、会長の浅井昭衛は、「明年は(中略)6つの地方会館が1年間でできてしまう」(同紙の平成18年12月15・25日合併号)と、今後の施設の建設予定を公開し、教団の力を誇示している。かつて、創価学会が同会会館を「現代の寺院」と嘯(うそぶ)き、正宗寺院を蔑(さげす)んでいたように、顕正会もこれに倣(なら)ったものか、「城のような会館」(同紙)」は、「御本尊様を謹んで奉安申し上げました(中略)この御本尊を即戒壇の大御本尊と拝し奉り…」(同紙)と、浅井は「大御本尊」の名で会員を釣り、寺院を模倣して人々を欺いている。この会館に祀られている本尊に、一体どんは意味が含まれているか、会員はその正体を知る由もない。

浅井はかつて、次のように発言している。「松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた大幅の常住御本尊7幅と、日寛上人の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。この7幅の常住御本尊とは、28代日詳上人、54代日胤上人、55代日布上人、56代日応上人、60代日開上人、64代日昇上人等の歴代上人御書写の御本尊であり、このうち日布上人の御本尊が高知会館に安置されたのである」(昭和60年3月15付同紙)

つまり、顕正会の手には、歴代上人の常住御本尊が7幅あるというのだ。御形木御本尊は「数百幅」というが、従来、信徒宅用に下付されていた小幅の御本尊であり、とても数百人を収容する会館には祀る対象にならないだろう。実際に、日寛上人の御形木御本尊を会館に安置したという事例も報告もない。

とすればどうだろう。36もの会館に対し、7幅のみの常住本尊−−−。

群馬に会館が落成した時に浅井は、「日布上人(中略)の御本尊がお出まし」(前出合併号)と言っているが、「高知会館に安置」したはずの日布上人の御本尊が、他県でまたもや登場したことは、何を物語るのだろうか。

浅井は池田大作のことを“潜聖増上慢”などと悪しざまに言いながら、こと『ニセ本尊』に関してだけは口を閉ざしていた理由は、ここにあったのである。もっとも、顕正会が所持して安置した七幅の歴代上人の常住本尊といえども、仏法の逆賊者が持てば、血脈の切れた本尊となり、功徳の法水は一切流れ通わず、大罰を受ける所業となるのだが。

日興上人の時代、本尊の大事の相伝もない者が大聖人の直筆御本尊を勝手に形木に彫って本尊を作った例があるが、日興上人は大いに戒められている。

また『本因妙抄』には、「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(御書1684ページ)と仰せであり、本尊にかかわるすべてのことは、御法主上人の権能であり、他の誰人も触れることはできないのである。

当然ながら顕正会の浅井にも、書写や授与など、御本尊に関する権能のあろうはずがない。創価学会の本尊同様、『ニセ本尊』には正法に敵対する魔の用きがある。「血脈断絶本尊」で飾る浅井の会館は、まさに魔の巣窟、誑惑の館である。




御法主日如上人猊下御講義集『折伏要文』が発刊
平成18年度(第4回)法華講夏期講習会より


6月1日、御法主日如上人猊下の御講義集『折伏要文』が発刊された。

折伏要文

この御講義集は、『大白法』紙上に掲載された、昨年開催の平成18年度(第4回)法華講夏期講習会における御法主上人猊下の御講義を収録したものである。大きさはA5判、318ページ、定価は1,000円(税込み・送料別)となっている。申し込み、お問い合わせは大日蓮出版まで。



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